こうした身の上を生きていると、どうしても人さまの生き死にに遭遇することになる。
元気に生きていてくれれば、どんな距離であれかまわないのだけど、
元気だった人が、いつの間にか生きることから降りていた、ということを見たり後で知ったりすることも、多い。
生きるということが、人によってはどれほど重いか、しんどいかということを、その都度思い知ることになる。
一人で生きようと頑張って、一人で背負うことに耐えきれなくなって、次第に自分を自分で追い詰めてしまうということも起こる。
実家を離れて、一人仕事しながら生きていく。在宅で仕事を背負う。誰にも相談できずに一人抱え込む。背負いきれない荷物が出てきたときは、自分を責めてしまう。
すべて自分で考えて、自分を責めてしまうものだから、最終的には自分が作り出す重圧や自責の思いに、どんどん追い詰められていく。
苦しくなったらいつでも連絡をくれればいい。
案外この場所にできることも、たくさんある。
ただ、背負う人は背負ってしまう。何も言わないまま。
この人生のなかで、過去何度、失うことを体験してきたことか。
失ったものは、永久に戻ってこない。二度と会うことができない。
そうした喪失を感じてきたからこそ、心配にもなる・・・のだが、そうした心配まで、きっと本人は、迷惑をかけて申しわけないとか、これ以上負担をかけたくない、ごめんなさいと自分を責めて、ひとり背負うことを選んでしまうのかもしれない。
しんどくなったときは、休んでいいんだよ。
一人で背負いきれなくなったら、思いを伝えていいんだよ。
自分ひとりで生きていると、自分がどれほどかけがえのない存在かが、わからなくなってしまう。
本当は生きているだけで、十分に、他の人たちにとっての励みや希望や幸せになっている。
生きることを降りるとは、いつのまにか君がいなくなってしまったことを知った人たちにとっては、
ぽっかりと穴が空いたような喪失を覚えることでもある。
そこまで自分を追い詰めなくても大丈夫だったのに、
本当は助けてくれる人もたくさんいたかもしれないのに、
と残された人たちは、いろいろと考える。
人は人を想うもの。
つまりは、人は、あなたは、誰かに必ず想われているもの。
すべての答えを自分一人で出す必要はないし、
答えがまだ見えない自分を責める必要もない。
生きるかぎりは、可能性はあるから。
助けてくれる人もいるはずだから。
どこにいてもいいから。生きてさえいてくれればと思います。
待っています。
2023・4・3