ラベル ◆看護専門学校にて(講義) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ◆看護専門学校にて(講義) の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

『看護教育』

医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。

十年間なんとか続いた看護専門学校での講義について。

『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です(その内容充実ぶりにびっくり)。


看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。

看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。

とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。

無理なものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。

どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、見える部分は明らかに見えているのに、

みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。

大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。

「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。

だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、

でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。

坊さんというのは、いろんな分野に通じる ”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(とざま:部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。

問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、

中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。
 

心優しき全国の看護師さんたちみんなと、つながることができたらと願っているのだけれど。

 


2025年7月25日


色とりどりの皿回し


今年の全国行脚、ぼちぼちスタート。皮切りは、大阪の看護専門学校での3日連続講義。

完全徹夜で大阪入りして、翌朝8時に車で運んでもらって、午前は3年生。午後は1年生。


「患者目線で向き合う」が、最初の約束。

だから、だらしない姿を見せた時は、遠慮なく喝を入れさせてもらう。今回は2回ほど。 

今年の講義は、中身もガチ・モードだった。救急救命時の気管挿管の判断という、これは1年でやったことの復習。某薬剤の検証も。

いくつかの資料を見せて、「せめてこれくらいの事実を把握してから判断しなさい」という話。現場の医師も看護師も、学校の先生たちも、ろくに事実を調べず、検証もしていない。

たとえばクラス40人のうち1人でも、歩けなくなったり、最悪死んでしまったりしたときに、親も、医師も、学校も、責任を取れやしない。

取れっこないのだから、最初から無責任なことをするな、言うな、というのである。

「当たれば100%のロシアン・ルーレット」ということを、骨身に沁みて自覚せねばならない。一度失ったら、永久絶対に帰ってこないのだから。未来の可能性も、命も。

他には、くも膜下出血で運び込まれた患者への対応如何と、5歳の女児にアデノイド摘出手術をするかの検討。

きちんと手順に沿って知識・情報を整理して、本人が納得できる結果にたどり着くことが、プロに求められている仕事。そのための技法を伝えるのが、この授業の狙い。

錯綜する情報をどのように整理すればいいか、その視点(いかに理解するか)と、どんな手順で結論を導き出すかという論理的道筋を、伝えることが目的だ。

1年生にも3年生にも、同じ熱量と充実の中味を伝えたつもり・・だが、どれだけその心に残っているかは未知数。

でも今年も、納得のいく講義ができた。自己満足。だが自己満足こそは、教育の基本だ。

3年生は、これでお別れ。せっかく3年間、いい体験をしてきたのだから、一人たりとも落ちないように、と最後にエールを送った。



私はただの坊主に過ぎない。医療・看護の素人にすぎないが、人の命を想う熱と真剣さは尋常を越えたレベルで持っている。

その部分こそがずっと燃やし続けてきたものであり、看護学生に伝えられる最も価値ある部分、つまりは「倫理」であろうと思う。

私が伝えている程度の知識や情報など、プロになった時の彼らには、常識として知っておいてもらわねばならない。私以上に人の痛みを感じ、救うための方法を選び取り、患者の心身の痛みを取り除いて、その日常に戻ってもらう。その手助けをしてもらわねば。

日進月歩の医学・看護の知識も、私以上に通暁して、素人の坊主である私にもはや教えられることはなく、次回は病院にて、弱くなった体をケアしてもらう、おとなしい患者の一人として再会してもらわねばならない。

彼らが進もうとしている道は、仏教とは離れた世界なのだが、人に貢献しようという情熱は共通しているはずだ。

そもそも医学も看護も、患者の苦しみを癒すための技術なのだから、患者目線で納得できるものでなければならないことは当然だ。

ならば、伝えられることもある。

今回は、いずれのクラスにも、よい変化が生まれたような気が(勝手に)している。

しっかり学び続けて、無事合格してもらいたいものだと思う。



授業終了後は即移動して、神戸で企業向けの講演会。終了後はどしゃぶりの中を新神戸駅まで走って、新幹線でいったん帰京。週末2日で次の講義の教材を作って、月曜には奈良、火曜は名古屋、水曜は大阪だ。

いや、忙しい。だが幸せな忙しさだ。いろんな役目を授かっている(そういえば、この3日の間に新聞連載用の絵も描いた笑)。

色とりどりの何枚もの皿を頭の中でめまぐるしく回している思いがするが、これくらい同時進行で廻っているほうが快適なのだ。

遠い昔は、一つの仕事・一つの世界に収まりきれない自分がおかしいのかと思っていた。変わった人間だと実際に言われていた時期もあった。周りに合わせて一つの器に自分を押し込めようとして、頭も心も回らなくなってしまった時代があった。

あの頃の自分と、今の自分は、まったく別人だ。今の自分は生きている。縦横無尽に動いて、持っているものを、存分に活かすことができる。

まさかこんな “仕事” がありうるとは。人生は不思議で面白い。



2025年7月


看護専門学校の教室から


本日取り上げた○○の資料を共有しておきます。興味のある人は目を通しておいてください。

医療をめぐる情報は、最初は厚労省のHPです。それなりの情報が公表されています。

ただし、メディアはほとんど取り上げないし、情報を読み解く<視点>を持って解説してくれる専門家は、ほとんどいません。

「自分で情報の意味をつかむ」必要が存在します。

でも、だからこそ、「面倒くさい」「忙しいからフォローできない」というのが、現場の医師や看護師さんの日常です。

でもそのままだと、「目隠しをしたまま」、自分、家族、そして患者さんに向き合うことになります。

今回のように、リスクが尋常でないレベルで実は高い薬剤の場合は、冗談ではなく、その命や将来を大きく左右しかねません。

「今のままでは、情報も知らないし、自分の頭で考えてもいない、これは危険だ」と気づく必要があります。目隠ししたまま車を運転する人など、いないでしょう? 同じことです。

情報をちゃんと手に入れること。しかも、メディアや専門家のフィルター(解釈・決めつけ・偏り)を通す前の、なるべく生の事実・データを見つけて、「考える」ことです。視点をもって、技法を使って。

なお、情報は、英語で検索するともっと出てきます。ほんとは、そういう生の情報をなるべく広く集めて、視点をもって眺めることなのです。

もうひとつ大事なのは、データの背後に隠れている苦しみにも、ちゃんと想像力を働かせることです。「89%の人が回復した」ということは、「11%の人はまだ回復していない」ということ。「11%? 100人のうち11人? それって多くないか?」と考えられるようになることです。

メディアや専門家が信頼されなくなりつつあるのは、事実を最初から無視したり、事実を都合よく解釈して、自分たちに有利な内容しか伝えないからです。

君たちは、人を救う側に立つ人間です。苦しみを背負っている人の側に立つ必要があります。

だから、最初に苦しみを見る必要があるのです。「事実を見れば、これだけの人たちが苦しんでいるではないか」と。

「その原因は? どうすれば解消できるのか?」と、しっかり考えを進めていくのです。

そして、<方法>については、なるべく多くを挙げて、選ぶか、選ばないかを、「苦しみを増やさない」という大前提に立って検討することです。

「避けられるリスクは避けるほうがいい」と言えることも、医療従事者にとっては大事なことなのです。「人を救う」ことが使命なのだから。

苦しみに寄り添って、事実・データを調べて、自分の頭で考える。

そうした習慣が身に着くと、情報を拾って分析することも、いっそう速く、正確にできるようになります。



2025・7・9



最初の発掘


今日は文京区の〇〇書院を訪問。医学・看護の専門書籍を発行する最大手だけに、威厳ただよう上質な建物。

看護教育という月刊誌の巻頭インタビュー記事のご取材をいただいた。


毎回だけれど、カメラに向かって笑ってくださいというのが難しい。「演技でいいです」というが(そりゃそうでしょ(笑))、演技は妄想しないとできないから、これも難しい。


医療・看護における倫理とは何か。従来の教科書や専門書は、哲学、歴史、最先端医療、現場の課題、事例研究など、ごった煮状態。

現場で何が必要とされているか、役に立つのか、という実際的な問題意識もなく、「なんとなくこういうものでしょ」レベルの内容で続いてきたのが、医療倫理・看護倫理だったように思える。

「答えが出ない問いだ」なんていう能天気な声も聞く。だが人生は有限で、まして医療・看護・救急救命の現場は一刻を争う選択を迫られている、

そういう現場において、人を救うための「ただ一つの答え」を出さねばならない。それが倫理というものだ。


どんな分野にも当てはまることだが、「見落としてはならない(絶対に見えていなければならない)」ものがある。

だが案外、どの分野においても見落としが多い。医療・看護の分野は、その見落としがひときわ多い印象がある。

言われるまでは思いつかないが、言われてみるとたしかにそうだ・・と思わざるを得ない視点・発想・手順がある。

そういう意外ではあるが、絶対に欠かせない、「現場で見えていなければいけないコレだけのこと」を視覚化・言語化したのが、私が伝えている倫理。


仏教の視点や構造的思考を活かすと、いろんな分野に応用が利く。

「心の使い方」という新しい視点で仏教を再構成・体系化して本に著したところ、「言われてみるとたしかにそうだ(これが本来の仏教か)」と、多くの読者さんが受け入れてくださったように、

今伝えている看護の技法(倫理)も、「たしかにそうだ」と、現場の医師・看護師さんに納得してもらえたらと思う。

今は小さな場所で伝えている”看護の技法”が、いつか医療・看護の一つのスタンダードになってもらえたらという思いもなくはない。


社会において、いつ、どこまで共有してもらえるかは、因縁によるものだから、執着しない(そもそも体一つの人生は短すぎて、そこまで意図を広げる余裕もない)。

ただ、今の時代・この社会において、案外見えていない部分、見つかっていない部分、でも掘り起こして見せれば「たしかにそうだ」と思わざるを得ない部分は、実はかなり残っているから、

そういう部分を最初に掘り起こすことが、この命の小さな役割なのだろうと思わなくもない。


仏教、看護、その次は教育だ。実は掘り起こされていない可能性がある。これを最初に発掘することを、この命の役目として引き受けようと思う。


<おしらせ>
7月9・10・11日と大阪南部の看護専門学校で看護倫理の集中講義を開催します。医療従事者は見学可能です。日時は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。見学申し込みは、お名前・所属・連絡先を興道の里まで。




2025年6月3日



看護に感情は要りません

某看護専門学校の講義にて:

 

 「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのです(1980年代)。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、CAと似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。


相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。


ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。結局、ストレスを強いられる側が努力しろという発想。いや、それはおかしい。コントロールとかマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスです。19日に学校で講演やりますw。


なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、優しくケアして患者の感情を「操作せよ」だなんて・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。


看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?

 

 2023年9月某看護専門学校にて

 

看護専門学校にて


TVドキュメント『ガイアの夜明け』で看護の世界が取り上げられています。

前半は看護の現場、後半は看護学生(3年生)の日常について。


あまり未来を見すぎないほうがいいかもしれないけれど、看護師になる(看護師国家試験に受かる)ことは、ただの出発点にすぎなくて、

その後をどう生きるか、創るか、(職場や看護の世界を)変えるかは、自分次第です。

未来は自分で選ぶもの。まずは出発点に立ってみること(立たなくちゃ始まらない)。


全国の看護専門学校で頑張っている人たちがいます。

自分よりもはるかに勤勉で、能力があって、周りを見る力があって、苦労した過去もあり、背負っているものもあって、それでも前に進んでいる人たちは、全国に大勢います。


自分一人ではないし、
自分よりはるかに優れた人もいる(同い年でも)。


そういう世界の広さに目を向けることも、謙虚さを取り戻すきっかけになってくれます。

謙虚になると、心が安定するのです。そして本来のなすべきことに戻れます。




看護教育というもの

ある看護専門学校にて:

○○先生へ

今回1年生クラスの「劣化」がすごく気になりました。入学当時よりは成長していなければいけないのに、最初の3か月で退化・劣化した。

気分で動く・サボる → それでも叱られない・大丈夫だと考えてしまう → そういう生徒の姿を見て、他の生徒も力を抜くようになる → 真面目な学生が負担を背負う・損したように感じる → 自覚ある生徒とそうでない生徒の間に温度差・分断が生まれる

そうした事態が生じていた可能性があります。

もともと願書に書いてきた内容が、彼らの最低レベルであるはず。職業専門学校に入ったら、その時の自分以上にレベルアップするのが当然。退化・劣化するほうがおかしいのです。

スマホ&タブレットの負の影響も、年々増えていく危険はあります。(今回のレポートで)生活の乱れに言及している学生も多かったけれど、おそらく無駄な時間を過ごし過ぎている。だから学校に来ても集中できない・眠くなってしまう。中学生の不登校問題と同じです。

こうしたことは、しかし第一に、学校の方針・雰囲気次第で、ある程度コントロールできる問題でもあります。まずは伝えること。言えば伝わる可能性が生まれる。伝えないのは大人の怠慢・弱気ゆえ。

「絶対ダメ」という最低ライン=基準を学校側が毅然と示せなければ、手を抜く学生たちの態度がクラス全体に負の影響を与えます。

そろそろある程度の規範(この一線を下回ったら絶対にダメという基準)を示さないと。先生たる者、真剣に怒れないと。

基準をクリアして初めて楽しむことが許されるのです。看護師というプロを育てる場所は、そういうところだと思います。



と同時に、入学当初にあったはずのヤル気・本気・緊張感が、少なくない学生の中で「低下」したことは、学校・教員の側も深刻に反省する必要があるかと思います。

この3か月、私も含めて先生たちは、1年生の当初のヤル気や期待に十分に応える関わり方をしてきたのか? 

それとも「この程度か、だったら気を抜いていいや」と思わせてしまう部分があったのか?

外部講師にすぎない私がなぜこれほどに真剣に受け止めているのだろう?と考えてみた(考えている)のですが、

私の根底には、看護とは尊い仕事であり、本人次第でさまざまな可能性が開ける価値ある職業であるという信頼があります。

そもそも仕事というのは、生涯を賭けて挑む価値があるもの。特に人の命・健康・人生の一部を預かり、支える使命を持つ看護とは、そういうものだと考えています。

だからこそ、つまらぬところで止まってほしくはないし、途中で投げ出してほしくない。せっかく看護師めざして入学してきたのだから、最後まで歩き続けて、看護師として羽ばたいてもらいたい。

看護師になることができれば、見える景色が変わる。その後の可能性も増える。自分のやりがい(もっと言えば生きる意味)になるだけでなく、誰かにとっての救いや希望にもなりうる。

それだけ価値のある仕事だという前提があります。

だからこそ入学を志願した時の動機であり、かつ学校との約束でもある、最低限の意欲は保ち続けてもらいたいし、保つことが彼らにとっての当たり前(なぜなら自分で選んだことなのだから)だと考えます。

ところが、現実には、わずか3か月でヤル気を失う、途中退学する生徒が出てきている。それはなぜか? 何が原因か?ということを考えざるをえないのです。

学生たちを責める・叱るだけなら、フェアじゃない。先生・学校の側にもなんらかの原因・責任があるかもしれないのです。もちろん講師を務める私にも。

原因は? 生徒たちの中にモチベーションが続かなかった、ヤル気が薄れた学生たちが出てきた理由は何なのか?

ひとつ思いついたことは、看護学校の先生たちは、自分の仕事への誇りや面白さを伝えようとしているか?という点です。「こんなに面白い、やりがいがある、だからあなたも頑張って看護師になってほしい」という湧き上がるような願い・情熱を根底に持っているかどうか。

いつの間にか、先生たち自身が、看護や医学というものを、形や惰性だけのつまらないものだと思っていないか。「教えなくてはいけないから教える」程度の冷めた思いを持ってしまっていないか。

教師という仕事は、伝えたいとおのずと思う中身が見えていなければいけないと思います(理想論かもしれませんが、教育に携わる人すべてが備えているべき職業倫理でもあります)。

やりがい、面白さ、深さ、可能性のようなもの。看護はこんなに尊くてすごい仕事なんだ、という自負・誇りのようなもの。


業界に長くいる人ほど、逆に見えない・忘れてしまう可能性はあります。しかし伝えたい・伝えなければと思うことが内側から湧いてくるというのが、先生たちになくてはならないし、あることが当たり前であろうと思います。

看護教育を担う大人たちが、看護という仕事の価値を日々実感していないなら、漠然とした日々の中にいる、まさにこれから花が開くかどうかを待つしかない学生たちに響くはずもない。

しかし、響くものがなければならぬのですよ。理想論だとしても。

「まだ未来はわからないけれど、看護師をめざすことに間違いはない、きっと価値のある仕事ができるんだ(だから頑張らなきゃ)」と思わせるものがないと。


看護に大人たちが誇りと夢を見ないと

たかが看護と思わせては絶対にいけないのです



2024年8月下旬