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コロナ禍の3年間を振り返る~看護学生に向けて

(ある看護専門学校の講義にて)

※オンラインで講義することも可能です。全国の看護専門学校(特に医療倫理・看護倫理の教員が不足している学校)の先生方は、ぜひお声がけください。


課題2 コロナ禍の3年間を振り返る を返却しました(1年生)。

ひとことでいえば、みんな甘い。見えていない。まだ3か月めだから当たり前だけど笑。

2年前の講評をそのまま引用します。まったく同じことが、君たちにも当てはまります。


(長いので時間がある時に)

2023/09/05
「コロナ禍の3年間を振り返る」について――

感想をひとことでいうと、「考えていないな」です。厳しい指摘になりますが、みんなびっくりするくらい、考えていませんでした。

今回最も多かったのが、コロナ禍はしんどかったけど、その中でもこんなに楽しいことがあった、意味があったというポジティブな解釈。

マスクして黙食して、祖父母の死に目にも会えなかったのに、「今後も感染対策を徹底したい」みたいな意見もありました。そうした見解が間違っているわけではありません。しかし。

「検証」した人がゼロ。コロナ禍でいろんな我慢や苦痛を体験したなら、本当にこの3年間は正しかったのか?を考えてください。少なくともそういう疑問を感じたというところまでは、考えを進めることです。

たとえば「コロナ禍」といっても、新型ウィルス自体の客観的危険性(毒性と感染力)と、社会の対策(コロナへの向き合い方)は、まったく違います。

客観的危険性がそれほどではないと判断したから、イギリスやオーストラリアをはじめ、海外のほとんどの国は「コロナは終わった」という認識です(だからワールドカップも普通に盛り上がっていた)。

あのワクチンは、3回目の接種で重症化・致死のリスクが跳ね上がることがデータ上わかったから、積極政策を取っていたイスラエルでさえ接種を中断した。
    
しかし日本の場合は、まだ「第9派到来」と言っていますね。第6回目のワクチン接種も始まりました。「コロナ禍」が完全に終わっていないのは、日本だけです。なぜ? 説明できますか?

つまりは、コロナ禍と一言で言っても、社会全体の対応、ひいては一人一人の認識(理解度)が作り出している部分があるのです。この場合のコロナ禍とは「社会が作っている騒動(過剰反応)」です。

マスクをすることが「感染対策」「拡大予防」になるのですか? マスクをしても、日本の場合は、陽性反応者数は減りませんでしたよね? 一般のマスクでは、飛沫感染は防止できるけど、空気感染は防げません。デルタ株までの糞口感染(排泄物経由の感染)も防げません。また「パーティション」や多少の距離を取るくらいでは、空気感染は防げません(※このことは厚労省分科会でも、実は結論を出しています)。

客観的危険性を冷静に吟味せずに、あいまいな理解のまま行動制限をしてしまえば、皆さんが体験したような、いやそれ以上の社会的な損失が生じます。

感染しても、やはり大多数の人は自然治癒するし、医療がきちんと発症者への初期治療に当たれば、重症化を防げるケースが多数です(デルタ株当時でさえ、日本人の98%以上は無症状または軽症でした)。

「PCR検査で陽性反応が出たら、症状の程度を問わず、即自宅隔離・待機。他の病気があっても病院は対応しない」という方針が、本当に正しかったと思いますか? 実際、自宅療養を強いられている間に重症化して死んだ人も、少なくありません。そういう事実は見ていなかったのかな?

「看護の技法」を思い出してください。ウィルスの客観的危険性を見誤ると(➀)、その後の「方法の選択」(②③)を、すべて間違えるのです。

「感染しても発症に至らない」「発症しても数日寝れば治る」という人にとっては、風邪の一つであるに違いない。それなのに、死亡認定事例が2000件に達しようというワクチンを、年齢・健康状態を問わずに接種しようとする。

こうした選択は、個人を苦しみから救う医療として、正しいことだと思いますか?

「感染爆発」といいつつ、日本の場合は、最初の一年は、他国に比べるときわめて低い割合の陽性反応者数しか出ていませんでした。その後は日本だけ増え続けて、昨年末から感染者数世界一が続いて、今なお「第9派到来」と言っている。
 
「波」が続いているのは、日本だけです。教材の資料をじっくり読んでみてください。掲載したデータは事実であって、誰かの見解をまとめたものではありません。
 

みなさんのレポートを見ると、この3年に起きた「コロナ禍」という現象を、自分のアタマで考えていないことが伝わってきました。「貴重な体験をした」という人が多かったけれど、同じことが起きたら、また同じことをするのですか? 「検証」したのかな?

2020年12月の時点で、全国の保健所を代表する会長が「早く5類に落としてくれ」と政府に要望書を出しています(教材p39)。データを冷静に見れば、5類相当の危険性しかない。むしろ医療の初期対応こそが大事だという主張です。同様の見解を支持する医師たちは、アンケートによれば6割以上。

でもメディアは大騒ぎをやめなかったし、政治家は「油断されたら困る」程度のきわめていい加減な理由をもって、指定を解除しなかった。
 
多くの人々が、皆さんと同じような認識だったがゆえに、この3年間の「コロナ騒動」が起きたのです。

こういうと、「反〇〇」みたいなレッテルで議論を遮断してしまう人も、この世の中にはいます。しかしこれは「私はこう思う」という思い込みで片づく問題ではありません。そもそも誰一人、客観的なデータを持っていないのだから。
 

倫理、すなわち議論を整理する技法が必要。きちんとデータを踏まえて、客観的危険性を把握して、採りうる方法を網羅して、人それぞれに苦しみを増やさない選択をする。
 
医療・看護とはそういうものでしょう?

みなさんが、コロナ禍でこんな体験をしたというのは事実です。でもコロナ禍そのものを、どう見るべきか、何が正しい選択だったのかを、少なくとも「問おう」(検証しょう)としなければ、どんなにポジティブに受け止めても、状況が変われば、また同じことを繰り返すでしょう。

無知は最大の罪であり最大の危うさです。人を無駄に死なせかねません。

 
ある20代前半の看護師さん(女性)は、高校時代の親友を失くしたそうです。原因は自殺です。みんながコロナを恐れて、陽性反応が出ただけでもクラスター発生(クラスターの意味を知っていますか? 2名以上の陽性反応が出れば、クラスターです)。自粛、隔離、休校。授業はオンライン。外に出られず、友だちとも会えない。

精神的に追い詰められて、心が病んで、みずから命を絶ちました。


そういうことがこの3年間たくさん起こったのに、「いい体験だった」とだけ言って終わっていいのかな? あのワクチンを接種した直後に死んだ人も、かなりの数に上っているのは、厳然たる事実です。根も葉もない噂ではない。
 
しかもデータは公表されなくなった。 
見ようにも見えなくなったというのが、君たちを取り巻く今の状況なのです。


そうしたことに気づかない?
人の苦しみが見えない看護師になろうというのでしょうか?


みんなのレポートを読んでいて、「自分」のことしか見ていないことが、気にかかりました。

みなさんが見るべきは「患者」です。自分じゃない。患者さんは人の数だけ違う苦しみを負っています。みんなが別の人生を生きています。健康な人もいれば、孤独な人も、癒えない苦しみを抱えている人もいます。

そういう人たちに向き合って、自分にできることは何かを問い続ける。それが、みなさんが歩みだそうとしている看護の道です。違いますか?

コロナ禍の3年間についても、自分以外の人のことも考えてください。感染(正確にはWHOの基準以上に検出感度を上げたPCR検査による陽性反応)を恐れて、余命わずかな老人が孫にも会えない。家族が死んでも見送れない。

そうした社会の対応が正しかったのか?

人それぞれの人生・生活の質(いわゆるQOL)に最大限配慮して、なるべく会える機会を保証する。制限が過剰にならないか気をつける。人々が過剰な不安に駆られないように、客観的なデータをもとに苦しみを増やさない選択を、その都度アップデートして告知する。もし感染したら、その時こそ医療がフル稼働して(指定病院だけでなく)迅速に対応する。そういう方法もありえたはずなのです。そうした可能性を想像したのかな?

この3年間で、中高生の自殺数が、過去最多を記録しました。みなさんが「それでも楽しかったです」といえる3年の間に、別の場所では多くの人たちが追い詰められていたのです。お店も潰れた。いろんな体験が奪われた。それが事実です。


こうした苦しみをも「自分の体験」として見つめていた人は、本気で考え始めるはずなのです。「他に方法はなかったのか?」という問いを。

実際、新型コロナ・ウィルスへの対応は、国によってみごとに違います。今なおコロナ禍が終わらず、国を挙げてのワクチン接種を推進しているのは、日本だけです。みなさんは、そういう特殊な社会に生きているのです。


「良質のメディアや官公庁の情報を見て判断する」と書いた人もいたけれど、その情報の信憑性を判断する「基準」は、君の中にありますか? ワクチン接種後の死亡認定事例はすでに2000を越えているけれど、ほとんどのニュース番組は取り上げない。厚労省も、重症化のデータを2021年9月から公表しなくなった。医療行政がつねに正しいものなら、過去の薬害訴訟は起きていません(調べてごらん)。

どうやって情報の真偽を判断するのですか? ただ信じるだけなら、素人と同じ。でもみんなは、素人を救うプロになろうという人たちなのですよ。

「コロナ禍でも、大事なことを学べました」というだけなら、「戦争中でもこんなにいいことがありました」というのと変わりません。問うべきは「この戦争は正しかったか」「この戦争を始める必要があったのか」を検証することでしょう? 
 
あの戦争で3,100,000人の日本人が死にました。最大の犯人は日本人です。現実を見ずに雰囲気だけで流されて、異論(戦争をしない、または1日も早く終わらせる可能性)を許さなかった日本社会。

「コロナ禍」という社会現象も同じです。死ななくていい人たちが死んだことは事実。
 

人の命を救わねばならない皆さんは、「正しかったか」「他に方法はなかったか」という問いから始めなければならない。苦しみを見逃しては絶対にいけないのです。
 

苦しみが見えない看護師・見ようとしない看護師が、人の命を救えるはずはありません。今のレベルだと、君たちは人を救えない。自分も、自分の家族も、救うどころか、余計な苦しみを背負わせる、危うい看護師になってしまいます。
 

「見える」とは何か。「技法」を使って整理することです。

「コロナ禍」という現象を、「苦しみを増やさない方法は? 正しい選び方は?」と検証できること。

皆さんの先輩看護師さんたちも、コロナ禍に振り回されて疲弊するほかなかった人たちもいれば、冷静に分析して疑問を発してきた人たちもいます。ワクチン後遺症に悩む人たちをケアする看護師さんたちも、大勢います。

何が正しいか。それは個人によって違う。しかし個人を越えて守らねばならない一線があります。それが「苦しみを増やさない選択をする」ことです。それが倫理。
 
選択は個人のものです。特に医療。当たり前です。だからこそ、一律の医療政策はそもそも例外的でなければならない。安易に強いてはいけないし、異論を封じることは絶対にしてはいけないのです。


いいですか――今後は必ず「問い」を持ってください。本当に正しいのか。自分は正しく見ているのか。現実を無批判に受け入れるのではなく、「苦しみが見えているか」「他に方法はないのか」と、批判的に、疑問を持つことから始めること。

そのことで「これが正しい」という自己満足・思い込みに歯止めをかけることができる。
人を救える可能性も、そのときにやっと出てくる。


今回は、みなさんが「体験」を書いてくれたので、全員満点です。体験したことそのものは嘘じゃないので。

ただし、加点できた人はいませんでした。本当に正しかったのかという「問い」をひねり出した学生がいなかったからです。みんな、まだ素人さん。

でも、プロというのは、素人に見えないところまで見える人、素人が問えないことを問える人をいうのです。

もっともっともっともっと現実を見て、アタマを使ってください。




2023・9・5


最初の発掘


今日は文京区の〇〇書院を訪問。医学・看護の専門書籍を発行する最大手だけに、威厳ただよう上質な建物。

看護教育という月刊誌の巻頭インタビュー記事のご取材をいただいた。


毎回だけれど、カメラに向かって笑ってくださいというのが難しい。「演技でいいです」というが(そりゃそうでしょ(笑))、演技は妄想しないとできないから、これも難しい。


医療・看護における倫理とは何か。従来の教科書や専門書は、哲学、歴史、最先端医療、現場の課題、事例研究など、ごった煮状態。

現場で何が必要とされているか、役に立つのか、という実際的な問題意識もなく、「なんとなくこういうものでしょ」レベルの内容で続いてきたのが、医療倫理・看護倫理だったように思える。

「答えが出ない問いだ」なんていう能天気な声も聞く。だが人生は有限で、まして医療・看護・救急救命の現場は一刻を争う選択を迫られている、

そういう現場において、人を救うための「ただ一つの答え」を出さねばならない。それが倫理というものだ。


どんな分野にも当てはまることだが、「見落としてはならない(絶対に見えていなければならない)」ものがある。

だが案外、どの分野においても見落としが多い。医療・看護の分野は、その見落としがひときわ多い印象がある。

言われるまでは思いつかないが、言われてみるとたしかにそうだ・・と思わざるを得ない視点・発想・手順がある。

そういう意外ではあるが、絶対に欠かせない、「現場で見えていなければいけないコレだけのこと」を視覚化・言語化したのが、私が伝えている倫理。


仏教の視点や構造的思考を活かすと、いろんな分野に応用が利く。

「心の使い方」という新しい視点で仏教を再構成・体系化して本に著したところ、「言われてみるとたしかにそうだ(これが本来の仏教か)」と、多くの読者さんが受け入れてくださったように、

今伝えている看護の技法(倫理)も、「たしかにそうだ」と、現場の医師・看護師さんに納得してもらえたらと思う。

今は小さな場所で伝えている”看護の技法”が、いつか医療・看護の一つのスタンダードになってもらえたらという思いもなくはない。


社会において、いつ、どこまで共有してもらえるかは、因縁によるものだから、執着しない(そもそも体一つの人生は短すぎて、そこまで意図を広げる余裕もない)。

ただ、今の時代・この社会において、案外見えていない部分、見つかっていない部分、でも掘り起こして見せれば「たしかにそうだ」と思わざるを得ない部分は、実はかなり残っているから、

そういう部分を最初に掘り起こすことが、この命の小さな役割なのだろうと思わなくもない。


仏教、看護、その次は教育だ。実は掘り起こされていない可能性がある。これを最初に発掘することを、この命の役目として引き受けようと思う。


<おしらせ>
7月9・10・11日と大阪南部の看護専門学校で看護倫理の集中講義を開催します。医療従事者は見学可能です。日時は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。見学申し込みは、お名前・所属・連絡先を興道の里まで。




2025年6月3日



看護に感情は要りません

某看護専門学校の講義にて:

 

 「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのです(1980年代)。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、CAと似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。


相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。


ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。結局、ストレスを強いられる側が努力しろという発想。いや、それはおかしい。コントロールとかマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスです。19日に学校で講演やりますw。


なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、優しくケアして患者の感情を「操作せよ」だなんて・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。


看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?

 

 2023年9月某看護専門学校にて

 

看護専門学校にて


TVドキュメント『ガイアの夜明け』で看護の世界が取り上げられています。

前半は看護の現場、後半は看護学生(3年生)の日常について。


あまり未来を見すぎないほうがいいかもしれないけれど、看護師になる(看護師国家試験に受かる)ことは、ただの出発点にすぎなくて、

その後をどう生きるか、創るか、(職場や看護の世界を)変えるかは、自分次第です。

未来は自分で選ぶもの。まずは出発点に立ってみること(立たなくちゃ始まらない)。


全国の看護専門学校で頑張っている人たちがいます。

自分よりもはるかに勤勉で、能力があって、周りを見る力があって、苦労した過去もあり、背負っているものもあって、それでも前に進んでいる人たちは、全国に大勢います。


自分一人ではないし、
自分よりはるかに優れた人もいる(同い年でも)。


そういう世界の広さに目を向けることも、謙虚さを取り戻すきっかけになってくれます。

謙虚になると、心が安定するのです。そして本来のなすべきことに戻れます。




看護教育というもの

ある看護専門学校にて:

○○先生へ

今回1年生クラスの「劣化」がすごく気になりました。入学当時よりは成長していなければいけないのに、最初の3か月で退化・劣化した。

気分で動く・サボる → それでも叱られない・大丈夫だと考えてしまう → そういう生徒の姿を見て、他の生徒も力を抜くようになる → 真面目な学生が負担を背負う・損したように感じる → 自覚ある生徒とそうでない生徒の間に温度差・分断が生まれる

そうした事態が生じていた可能性があります。

もともと願書に書いてきた内容が、彼らの最低レベルであるはず。職業専門学校に入ったら、その時の自分以上にレベルアップするのが当然。退化・劣化するほうがおかしいのです。

スマホ&タブレットの負の影響も、年々増えていく危険はあります。(今回のレポートで)生活の乱れに言及している学生も多かったけれど、おそらく無駄な時間を過ごし過ぎている。だから学校に来ても集中できない・眠くなってしまう。中学生の不登校問題と同じです。

こうしたことは、しかし第一に、学校の方針・雰囲気次第で、ある程度コントロールできる問題でもあります。まずは伝えること。言えば伝わる可能性が生まれる。伝えないのは大人の怠慢・弱気ゆえ。

「絶対ダメ」という最低ライン=基準を学校側が毅然と示せなければ、手を抜く学生たちの態度がクラス全体に負の影響を与えます。

そろそろある程度の規範(この一線を下回ったら絶対にダメという基準)を示さないと。先生たる者、真剣に怒れないと。

基準をクリアして初めて楽しむことが許されるのです。看護師というプロを育てる場所は、そういうところだと思います。



と同時に、入学当初にあったはずのヤル気・本気・緊張感が、少なくない学生の中で「低下」したことは、学校・教員の側も深刻に反省する必要があるかと思います。

この3か月、私も含めて先生たちは、1年生の当初のヤル気や期待に十分に応える関わり方をしてきたのか? 

それとも「この程度か、だったら気を抜いていいや」と思わせてしまう部分があったのか?

外部講師にすぎない私がなぜこれほどに真剣に受け止めているのだろう?と考えてみた(考えている)のですが、

私の根底には、看護とは尊い仕事であり、本人次第でさまざまな可能性が開ける価値ある職業であるという信頼があります。

そもそも仕事というのは、生涯を賭けて挑む価値があるもの。特に人の命・健康・人生の一部を預かり、支える使命を持つ看護とは、そういうものだと考えています。

だからこそ、つまらぬところで止まってほしくはないし、途中で投げ出してほしくない。せっかく看護師めざして入学してきたのだから、最後まで歩き続けて、看護師として羽ばたいてもらいたい。

看護師になることができれば、見える景色が変わる。その後の可能性も増える。自分のやりがい(もっと言えば生きる意味)になるだけでなく、誰かにとっての救いや希望にもなりうる。

それだけ価値のある仕事だという前提があります。

だからこそ入学を志願した時の動機であり、かつ学校との約束でもある、最低限の意欲は保ち続けてもらいたいし、保つことが彼らにとっての当たり前(なぜなら自分で選んだことなのだから)だと考えます。

ところが、現実には、わずか3か月でヤル気を失う、途中退学する生徒が出てきている。それはなぜか? 何が原因か?ということを考えざるをえないのです。

学生たちを責める・叱るだけなら、フェアじゃない。先生・学校の側にもなんらかの原因・責任があるかもしれないのです。もちろん講師を務める私にも。

原因は? 生徒たちの中にモチベーションが続かなかった、ヤル気が薄れた学生たちが出てきた理由は何なのか?

ひとつ思いついたことは、看護学校の先生たちは、自分の仕事への誇りや面白さを伝えようとしているか?という点です。「こんなに面白い、やりがいがある、だからあなたも頑張って看護師になってほしい」という湧き上がるような願い・情熱を根底に持っているかどうか。

いつの間にか、先生たち自身が、看護や医学というものを、形や惰性だけのつまらないものだと思っていないか。「教えなくてはいけないから教える」程度の冷めた思いを持ってしまっていないか。

教師という仕事は、伝えたいとおのずと思う中身が見えていなければいけないと思います(理想論かもしれませんが、教育に携わる人すべてが備えているべき職業倫理でもあります)。

やりがい、面白さ、深さ、可能性のようなもの。看護はこんなに尊くてすごい仕事なんだ、という自負・誇りのようなもの。


業界に長くいる人ほど、逆に見えない・忘れてしまう可能性はあります。しかし伝えたい・伝えなければと思うことが内側から湧いてくるというのが、先生たちになくてはならないし、あることが当たり前であろうと思います。

看護教育を担う大人たちが、看護という仕事の価値を日々実感していないなら、漠然とした日々の中にいる、まさにこれから花が開くかどうかを待つしかない学生たちに響くはずもない。

しかし、響くものがなければならぬのですよ。理想論だとしても。

「まだ未来はわからないけれど、看護師をめざすことに間違いはない、きっと価値のある仕事ができるんだ(だから頑張らなきゃ)」と思わせるものがないと。


看護に大人たちが誇りと夢を見ないと

たかが看護と思わせては絶対にいけないのです



2024年8月下旬