今年の日本全国行脚を告知した時の心が、ほぼ20代の頃と同じであることを、ふと発見しました(笑)。
旅に出るぞ~、
夏が始まるぞ~、
という思いしかなくて、
でも客観的に考えると、社会年齢はけっこう「行ってる」ことに気づいたのでした(笑)。
社会年齢は、戸籍上記載されている年齢、または、周囲の人たちからの扱いによって決まる年齢。
肉体年齢は、体そのものの年齢(正確には肉体の状態。これも人さまざま)。
つまりは、歳を取らない。
2025年5月中旬
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
2025年5月中旬
九州・博多訪問決定
8月 2日 (土曜日)⋅13:30~16:30
勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州
今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。
参加希望者は、①お名前(実名) ②簡単な自己紹介 を koudounosato@gmail.com まで。折り返し当日の会場の場所を含む案内をお送りします。
参加費2000円(※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません)
※子供が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください)。乳幼児の同伴は歓迎します(途中退室も自由です)。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今年も夏の日本全国行脚を開催します。
北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。
○仏教に触れたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある
など、お気軽にご応募ください。
夏の全国行脚は2013年から。今年で13年目に入ります。
よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、
ぜひご活用下さい。
◆◆◆◆◆◆◆
<訪問地募集>
期間 7月9日から9月15日まで:
7月9日(水)~21日(月祝) 西日本 近畿・中部・ 山陽・山陰
7月26日(土)~8月3日(日) 四国・九州
8月9日(土)~17日(日) 関東・東北・北海道
8月23日・24日(土・日) 北陸・甲信越
8月30日(土)~9月7日(日) 沖縄
◆◆◆◆◆◆◆
<確定済みスケジュール>
※スケジュールは、確定次第、公式ブログ内のカレンダーで公開します:
7月9(水)・10(木)・11日(金)
南大阪・看護専門学校特別講義(3日間)
※医療従事者で見学をご希望の方はご連絡ください。詳細をお知らせします。
9月15日(月祝)
愛知・高蔵寺 特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
◆◆◆◆◆◆◆
<全国行脚への応募方法>
1)応募のご連絡
下記をメールでご連絡ください:
①お名前
②ご住所
③連絡先(携帯番号)
+
④訪問を希望する場所
※およそでかまいません。「自宅を希望」「〇〇という公共施設の使用を考えています」等)
⑤訪問希望日
※「〇月〇日から〇日までの間」「〇月〇日を希望します」など、およその日程をお知らせください。
⑥応募理由
※「仏教の勉強会を開きたいです」「〇〇について相談したいことがあります」「親族を集めて法事を執り行いたいです」等
※初めて応募する方は、詳しい自己紹介をお願いします(仕事・日頃の生活・課題などなるべく具体的に)。
※勉強会については、会場を手配していただくことになります。告知は興道の里でも行います。
※個人相談をご希望の場合は、相談内容をなるべく具体的にお知らせください。内容をふまえて訪問の可否を検討します(さまざまな用事を調整して最終決定しますので、必ずお応えできるわけではありません。あらかじめご了承ください)。
※①から⑥までの記載が不十分・不明瞭な場合は、返信差し上げておりません。あらかじめご了承ください。
2)興道の里からご連絡
*ご応募内容を興道の里のほうで検討し、お応えできる可能性がある場合は、興道の里事務局から折り返し案内メールを差し上げます。
*全国行脚期間中は、直前のご連絡でも、スケジュール調整が可能であれば対応しています。いつでもご応募ください。
3)訪問日・場所の確定
*ご連絡をいただいてのち、事務局と応募者との間で、訪問場所・日時等の詳細を確定していきます。
*講演・勉強会など公開企画については、公式ブログ内のスケジュールに掲載するとともに、一般向けにも告知いたします。
4)予定日に訪問します
◆◆◆◆◆◆◆
<その他>
*いずれも真摯な動機・意欲が伝わってくることが条件となります。
*勉強会の内容は、仏教・子育て・働き方・心の健康・十代の生き方&勉強法など、ご希望に応じます。開催規模の大小は問いません。
*個人相談については、相談内容の詳細をお知らせください。内容によっては、ご要望にお応えできない場合がございますので、あらかじめご了承ください。
*勉強会・講演の告知用の文面・タイトルなどは、主催者(応募者)からもご提案いただけます。興道の里もお手伝いしますので、お気軽にご相談ください。
*当日の参加費またはご負担のない範囲のお気持ち等で、交通費・宿泊費を調達します。旅の途中に立ち寄るという形式を取りますので、正規の講演・講座のような一定額のご負担を求めるものではありません。お気軽に、ご負担が過ぎない範囲でご協力ください。
ご応募・お問い合わせは、メールで koudounosato@gmail.com までお寄せください。
お応えできる可能性がある場合は、折り返し詳細を記した案内をお送りします。
・・・・・・・・・・
夏の日本全国行脚は、毎年たくさんの出会いと学びを得られる貴重な機会になっています。
お気軽にご応募ください。
充実の夏をめざして
現地でお会いいたしましょう
興道の里・草薙龍瞬
さあ、夏が始まるよ!
(猛暑にだって負けないよ!)
一般公開
2025年5月12日
『反応しない練習』は、ルーマニア、ハンガリーで翻訳出版が決定。なんともニッチな・・ドイツ、スペインに続いてヨーロッパ・ブーム(?)が続いています。
『ブッダを探して』は、東京新聞では2025年2月で連載終了(紙面大幅改訂に伴い/以後は中日新聞のみ)という予定でしたが、
社内会議で、好評につき継続が決まったそうです。
これは異例のこと。よほどのプレゼンス(存在感)を読者の方々が認めてくださったということなのでしょう。ありがたいです。
イラストも引き続きお楽しみください。
ミャンマー編13(来年2月掲載予定)のイラスト
本文は紙面でどうぞ
2024・12・27
日本全国行脚2024年12月3日
山梨・甲府に出立。新宿から信州に向かう特急は意外と混んでいた。
雲一つない冬の青空。車窓の彼方に銀嶺が見える。 この国のいたるところに、こうした見るだけで溶けてしまうような風光明媚があるのだろう。
こんな景色を毎日見られる場所で暮らしたいなと思う。あいにく体は一つだから、一つの場所を選ぶほかなく、他の場所で暮らしたいという願いはかなわない。数多くの美しい景色を求めて旅するように生きるのも一興だが、根を生やす生き方も捨てがたい。こうした二律背反、相矛盾する憧憬は、一生枯れることはないのだろう。いたたまれないが、いたしかたない。夢見ることを快としよう。
あの丘の名前は? 一度立って風の景色を眺めたい
甲府駅で降りて、講演会場まで歩くことにした。旅するほどの余裕はないが、せめて地元の空気を味わいたいからだ。地図で見るよりも実感遠かった。
(※余談だが今はどこの駅も商業ビル化され、駅前も都市化されている。最近訪ねた北千住や水戸もすごいことになっていた。甲府駅前も然り)。
山梨の農業は、シャイン・マスカットの認知度が上がって利益を上げているそうだ。就農人口も少なくない。ただ、冬は皮膚が痛いほどの冷気で、果実の収穫はやはり大変だという。
今日の講演会は、参加者はほとんど女性。50代以上がほとんどで、50歳未満は1割以下。これは全国の就農人口の世代比とほぼ同じ。
司会の方に紹介してもらった後、「私の本を読んでくださった方、どれくらいいますか?」と訊くと、手が挙がった気配がないので、「ほとんどの人が読んでくださっているのですね、ありがとうございます(笑)」。
なぜ歳を取ると時間が経つのが早く感じるのかという話に始まって、業の話へ。初めて聞く人には、衝撃でもあり、身につまされる話でもあるらしい。会場によっては笑いが起こるが、今回はみなさん真面目に受け止めた印象。こういうときは、たいてい終わった後に、思い当たった人が感想を言いにきたり質問しにきたりするのだが、今回もそうだった。
農家の高齢化は全国的に進んでいる。あと十年経ったら、放棄地も激増するだろう。ここ数年、旅をしながら、この美しい景色がいつまで続くのだろうと、自分が見届けられない未来のことを心配している。
帰りは身延線に乗った。ローカル列車で終着の富士駅まで4時間以上かかるが、地元の人たちと同じ景色を眺めたい。途中、市川大門駅を通る。学生時代に夏の花火大会を見に行った場所。20代にも仕事仲間と車で来たことがあった。
路線後半はガラガラ。だがこの身延線、ちょうど斜面をくだって平野に出る時に、富士宮の街並みを一望できるスポットがある。その景色を久々に見たかったのだが、無事成就した。
旅ともいえない旅だったが、景色と人の姿を見ることはできた。もうひとつは、独りきりの純粋な時間。何者でもない空白の時間。これらがそろうことが、私にとっての旅だ。一年の終わりに澄んだ旅ができた。
日田を朝に出て、久留米経由で博多に向かう。天神近くの公共施設で勉強会。
どの場所も同じだが、地元で場所を用意してくれる人がいないと、全国行脚は成り立たない。今回も、動いてくださった人がいてようやく開催できた(ありがとう)。
ブログ以外に告知しなかったが、予想以上の数の参加者。最年少は小学3年生。大人たちが日常の苦悩やおどろおどろしい業の話をさっそく始める中で、はて小学生に聞かせてよいのか戸惑う部分もあったが、辛抱できたようだ。父親の圧力に負けてやむなくという雰囲気だったが笑。
ほんとは、子供向けの学びキャンプを別立てで開催すればよいのだ。親のほうで場所を見つけて声をかけてくれればいい。教材はこちらで用意しよう。
どの場所でも、参加者の関心・質問に応じて答えを組み立てるので、毎回内容が違う。板書する図も変わる。即興で答えることで、自分も思いつかなかった新しい理解(智慧)が生まれる。
内容を準備したことは一度もない。その場で思考を組み立てる。だからこそ生きた智慧が生まれる。
各地の講座・勉強会を書き起こしてテキスト化すれば、かなり面白い資料になるだろうが、作業する時間がない。今は前に進む(新しい体験を積み重ねる)ことに専念しよう。
終わった後も、近くの喫茶店で希望者向けの無料相談会。なるべく多くのものを持って帰ってもらえたらという思いで続けている。
終電で東京に帰る予定だったが、相談者が多くて間に合わなくなった。急きょ宿を調べて、近くのカプセルホテルに泊まることにした。
◇
翌朝は、バスで博多港まで。玄界島や壱岐島へのフェリーが運航中。私が向かったのは志賀島。かの金印「漢委奴国王」が発掘された島。小学生の頃に聞いた知識と地理が、やっとつながった(笑)。
この地に来ると、大陸がとても近く感じる。釜山にも船で行ける。近畿や関東のほうが距離感としては遠い気もする。とはいえ出征するほどの距離でもない。秀吉も無謀な挑戦をしたものだと思ってしまう。
海から博多の街を眺めるのは初めてだ。世界が青い。
西戸崎駅前から市営バスで勝馬海水浴場まで。気ままな一人旅。どこで過ごすのも自由という今日がありがたい。
浴場から少し離れた旅館の裏側で、だれもいない浜辺を眺めてひと休み。
海岸沿いの旅館兼食堂に寄ってみた。アイドルらしき女子の写真やバナーが壁一面に貼ってあるので、誰かとたずねたら、○○坂46の○○○○さん(ファンの呼び名は「○○ちゃん」)だという。
この村出身で、すぐそばの小学校に通っていたとか。私が偶然立ち寄ったのは、彼女が高校時代にバイトしていた旅館・○○荘だった。
そうかあ、○○ちゃんはここで育ったんだ、オーディション受けに東京まで行って、以来、乃木坂で頑張っているんだ~♪と思うと、人の背後にある物語が見える気がして感慨深い。急に土地のありがたみが増した気がする(アホですか笑)。
バスに乗って西戸崎駅へ。そこから陸路で博多に戻って新幹線で一路東京へ。
夏の全国行脚、これにて(ほぼ)終了。いや、夏風情を満喫した旅だった。
2024年8月下旬
駅前で自転車を借りて、咸宜園(かんぎえん)へ。日田は、夏は全国最高気温を記録するほどに暑く、冬は氷点下になるほど寒い土地らしい。この日も日差しが烈しかった。
創立者は廣瀬淡窓(ひろせたんそう)という江戸中期(1782年~)の豪商の長男。病弱ゆえに家督をあきらめ、学問と教育を生涯のテーマにしようと決意して、24歳の時に寺の学寮内に最初の塾を開いた。
その土台は、勉強好きの叔父夫妻(6歳まで叔父が建てた秋風庵で育っている)と、6歳以降に漢学(孝経・四書・詩経ほか)を教えてくれた父や寺の内外の大人たち。福岡の私塾に寄宿したこともあるという(16歳から2年弱)。学びの文化は江戸期には定着していたのだろう。
咸宜園は、藩主や幕府の後ろ盾がない純然たる私塾だ。豪商ゆえに可能だったであろう事業。咸宜とは、詩経から引いた言葉で、「ことごとくがよろしい」(≒入門に身分・条件を問わず)という意味だと説明されることが定番だが、淡窓には独自の解釈(思い)があったような気もする。
入門に身分・学歴・年齢を問わない(三奪法)。学ぶ意欲さえあればいい。入門規約や塾則を設け、当番を割り振って、会計、食事から清掃、図書の管理まで、学生たちにさせたという。
明治30年に閉じるまで、約90年にわたり、延べ5千人近くの門下生を育てた。多いときは1年に2百名を越える門下生がいた。豊後高田に分校を開いてもいる(淡窓47歳)。
咸宜園が盛況だった理由は、どこにあったのか。足利学校や弘道館と違って塾費を集めての経営だった。廣瀬家は商人だったから、商人階級の子供たちも多かった。経営面は順調だった可能性があるが、続かなかった。今は国指定の史跡と化している。
翌朝に周囲を散歩した。三隈川の清流が勢いよく流れている。水流豊かな支流の間に中洲があって、公園になっている。これが水郷・日田と呼ばれるゆえんか。
あの種田山頭火も、道中に立ち寄った場所。分け入れば水音 とは、日田近くでの一句だそうだ。
特攻イチョウの木
日本人は走り出したら聞く耳を持たない
ハグロトンボのつがいがくっつきながら飛んでいた
生命は今を生き、未来につなげることだけにひたむきだ
二か月ほどの命というが、短いという思いさえないだろう
つまりは永遠を生きている
朝の電車(錦川清流線)で川西駅へ。宇野千代記念館に足を運んだ。
宇野千代さんのことは、正直よく知らなかった。覚えているのは、「わたし、死なない気がするんです」とテレビで語っていた姿くらい。ちなみに、死なない気がすると言い出した人は、たいてい“おむかえ”が近いと思うほうが正しいのかもしれないとも思う。享年97歳。
16歳で文学に興味をもって雑誌に投稿を始めて、二十歳で上京。出版社の事務、家庭教師(もと岩国で代表教員をやっていたそうな)、ウェイトレスなどを勤めながら、24歳で懸賞小説で一等当選。
八十代まで精力的に作品を発表。自伝小説『生きていく私』ほか、多くのベストセラーも。みずから出版社を作ってファッション誌や文芸誌を刊行し、着物のデザインも手がけた。自身の感性と時代がうまく嚙み合った印象。打てばヒット。楽しい人生だったように見えなくもない(深層はわからないけれど)。
旧目加田家住宅という武家屋敷を通ったら、ガイドのシニア男性が声をかけてくださって敷地に入れてもらった。家の裏側には二階に窓があるが、表側にないのは、身分が上の人を見下さないためなのだとか。家はかなり古い。一度バラして移築して国の重要文化財として保存しているという。
古い屋敷を残すことで、岩国は風情を保っている。ここで思い出すのは久留米だが、かの地は戦後どんどん古い家を壊して商業ビルと住宅を建ててしまった。後悔先に立たず。保っていれば観光資源になっただろうにと、前の旅で地元の老婦人と話したことを思い出した。
◇
いざ、岩国シロヘビの館へ(入館料二百円)。岩国には、シロヘビにまつわる伝承や古文書の記録が、少なからず残っているとか(古文書と言っても江戸期だそうだが)。たしかに姿が印象的。手足のない白い体に、表情のない赤い目。姿が非日常なのだ。
子供のシロヘビだけは、ときどき舌をちょろちょろと出して見せる。でも動きといえばそれくらい。
もとはトカゲ類で、次第に手足がなくなった。アオダイショウの突然変異で、体が白くなった。蔵の米をネズミから守ってくれるということで、岩国では家の守り神として大事にされてきたという。
いや不思議な生態だ。目は明るさを感じる程度で、音はほとんど聞こえない。ネズミを丸のみするが、味覚がない(おいしいともまずいとも感じない・・それはさすがに真似したくない笑)。
匂いは舌で感じる(だからちょろちょろ舌を出す)。音は耳の代わりに骨で感じるという(骨伝導)。体長180センチ、胴回り15センチ(けっこう大きい)。寿命は15年ほど。29年も生きたシロヘビも。「なんのために?」と考えるのは、欲深な人間の野暮というものか(笑)。
アゴを上下に開き、下あごを左右に開いて、自分の頭より大きな獲物を丸ごと飲み込む。肋骨を大きく広げて、獲物を消化していく(人間の姿で想像すると恐怖でしかない)。
最初は突然変異。その後は交配した異性ヘビの遺伝子と自分の遺伝子(白くなるアルビノ遺伝子)が、半分ずつ子供に受け継がれる。子供はアオダイショウかシロヘビか。
人間の業はどうなのだろう。二人の親の業を半分ずつ受け継ぐ? むしろ生まれた後の距離と時間による気がする。親の側、子の側の執着の度合いによっても、業の遺伝度合い(影響力)は変わるように思える。
ほぼ確実なことは、親の業から無関係ではいられないということだ。いい面も悪い面も、親の業は確実に子の心に遺伝する。
人間の場合は、自覚と実践によって、人生の色を変えることは、ある程度可能だ。遺伝による輪廻を越えるには、やはり悟り(理解)が必要だし、それしかない。他の生き物なら突然変異するしかないが、人間の場合は理解するという知能によって、変わることが可能である。人間だけの特権ともいえる。
シロヘビは性格温厚。目は赤ルビーのようで、全身は高貴な白に輝いている――といえば愛着も湧くから、言葉って不思議。今も金運・福運の神のつかい。
蔵、石垣、水路などの環境が整っていないと生きていけない。次第に数が減っているのだそうだ。シロヘビ、かわいそう。
2024年8月下旬
聖廟の前にそびえる楷の木
こんな場所で学校を開けるなら終の棲家決定だ
今も子供たちが講堂に正座して、論語の講読をやっているのだそうな。
早朝に足利を出た。誰もいない大通り、駅員一人と地元の男性がおしゃべりしているだけの閑散とした駅舎。こうした風景にも懐かしさと慰めを感じる。JRで水戸に向かった。
水戸駅を出てすぐ感じたことだが、駅周辺は巨大な商業ビルが埋め尽くしており、視界が悪く無粋に過ぎる。歩いて何の風情も感じない。古地図を見れば、一帯に並んでいたのは平屋で、すぐそばまで湖(千波湖)が迫っている。
水戸は、その名が示す通り、水に恵まれた都だった。那珂川と千波湖に挟まれ、城下町には大きめの水路がめぐっていた。当時はこの坂道から、さぞ展望の良い景色が見渡せただろうし、偕楽園越しに眺める夕焼け空は、さぞせつない色を放っていただろう。
風景に美を感じるというのは、個人の素養にかかっている。それなりの景観美を経験値として持っていなければ、無機質で巨大な箱物を建てても、それが醜悪ということに気づかない(図画や美術という科目は、美意識を育てる目的も本当はあるはずだが、機能していないのだろう)。政治・行政に携わる人の多くは、美意識を持ち合わせていない。日本の風景が歳月を経るにつれて殺伐としてゆく所以でもあるだろう。
◇
強い日差しの中、弘道館に到着。19世紀半ばに水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた藩校だ。日本最大の敷地面積(10ヘクタール以上)に、正庁(学校御殿)、至善堂を中心として、文・武・医・天文を教える専門棟、さらに神社や孔子廟、森羅万象を象徴する八卦堂、馬場や調練場もある。今の総合大学に匹敵する規模。国家に準ずる観さえあるスケールの大きさだ。
そう、斉昭は、国家を見ていたのだろうと思う。彼にとって藩校は、国づくりに直結していたに違いない。
斉昭は、実用と思想と学問を包括的にとらえていた。神儒、忠孝、文武、治教、そして学問と事業の一致。まさに統合だ。国とは、世界とはどうあるべきかを考える視野の広さがなければ、これほどの規模の藩校を作ろうとは思わなかっただろう。
その発想の基盤となったのが、幼少期からの英才教育、特に歴史を通じて日本という国をとらえる水戸学か。神道、儒学、国学、尊王攘夷。日本という国家の保全。そのための全方位的な教育を実現しようと立ち上げたのが、弘道館といってよいか。
斉昭の構想を形にした側近の一人が、藤田東湖だが、あの足利学校の創建者ともいわれる小野篁を遠い先祖に持つというのは、興味深い因縁だ(小野篁が足利学校を建てたというのも、東湖の先祖だというのも、根拠の乏しい仮説だとはいうが)。
東湖の知力は父譲りだが、父・幽谷も地元の私塾で学んだそうだ(教育とは本当に重要なのだ。土壌を分解して植物を育てる、土の中のバクテリアみたいなものか)。
弘道館に卒業はなかったそうだ。若者も年寄りも、同じ場所で学ぶ。学問は生涯通じて行うものという理由らしい。たしかに、世界を知り、世を作るにはどうするかを考える、自分はどんな生き方を貫くかを言葉にする、こうした知的営為は、生涯続けるべきものだろう。人間は考えねば、問わねば、知らねば、ならぬ。
斉昭は、大船・軍艦の建造や大砲や銃の製造など、富国強兵の先駆け的なことをしている。寺の仏像を供出させたことも、廃仏毀釈から太平洋戦争までの政府の動きと似ている。
進取の気性は水戸藩の文化みたいなものだが、斉昭の思想がその後も継承されていった場合、日本はどうなっていただろう。外国を排斥し続けることが、はたして可能だったか。実現できたとして、日本に何が残ったか。
おそらく閉塞だ。封建的な身分制社会。決して不平をこぼさない従順な農民。天皇という権威のもとに国を維持するという名分以外に、国を発展させうる思想性はないように見える。大きく見れば、儒教思想という呪縛の中に、日本も閉ざされていたのかもしれない。
当時の国際情勢からすれば、開国そして富国強兵は、避けられない道ではあったろう。保守と改革の抗争は弘道館内でも起きて(明治元年・弘道館の戦い)、文・武・医の建物は破壊された。学制施行で藩校そのものが廃止。その後は公舎等に使われたらしいが、もはや亡骸(なきがら)だ。斉昭の構想は、三十年も経たぬうちに滅びた。致し方ない面はある。
水戸藩が二百年の大計として編纂した『大日本史』。その編纂の拠点となった彰考館は、維新の荒波を越えて生き延びたにもかかわらず、空襲で焼け落ち、保管していた史料の8割は焼失したのだとか。
あれほど情熱を込めて書き上げた大日本という物語をも、あの戦争は灰燼に帰(かえ)したのだ。光圀も斉昭も誰も想像しなかっただろう。ほんとに何を考えていたのだか。何も考えていなかったのだ。
理想や大義という名を借りて、人間は傲慢(妄想の一種)という快楽に突き進む。歯止めをかけるのが理知(合理的思考)というものだが、理を見るより隣人を見てしまう視野狭窄な日本人に、理知は育ちがたい。
つまりは、日本人の心性の最も根底に流れているのは、無思考という業なのかもしれない。何を志そうと、無思考が土台にあっては、必ず道を見誤る。さながら環境の変化に適応できずに滅びる種のように、だ。
あの戦争の後は、コロナ騒動――戦後復興、バブル崩壊後の停滞を経て、日本はさらなる沈滞のフェーズに入った気がしなくもない。
変わることさえ想像できなくなった国。これがこの国のデフォルト(初期設定)と化してゆくのだろうか。体も心も、つまりは社会年齢(平均寿命)も人々の心のありようも、老化の一途をたどっていると言えなくもない。このまま終わるつもりか?
この夏の暑さは、さすがに病的である気がする。かつては体を水に濡らして扇風機に当てれば、クーラーなしでも過ごせた記憶がある(学生時代)。
だが、さすがにこの夏は忍び難い。部屋の中でも息を潜めているほかない。ちなみに猫のサラはあの毛むくじゃらで、よく平気でいられるものだと思う(とはいえ若干やつれたように見えなくもないが)。
実際のサラ(爆睡中)
室内でグダりつづけているわけにもいくまい。ということで、小旅行を敢行することにした。いざ、栃木・足利学校へ。
足利学校は 日本最古の学校。創建の由来は主に三説あるが、その校風にてらせば、平安時代の小野篁(おののたかむら)が原型を作った可能性が高い。仏教と陰陽道が混ざり合った場所ではなかったか。
足利市の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)は、12世紀の創建で、大日如来が本尊。真言密教だ。やはり平安期に礎が築かれた可能性が濃厚だ。
室町中期に地元の有力者(関東管領の上杉憲実:うえすぎかねざね)の支援を受けて、その運営内容が記録に残るようになった。戦に役立つ兵学と易学、そして医学を主に学んだという。学生は入学時に僧籍を取得。卒業時に僧籍を返還して、それぞれの故郷に帰っていったとか。
十六世紀半ばに延べ三千人が学んだともいわれるが、年単位でいえば百五十名前後。それくらいの規模なら敷地内の衆寮や寺に止宿できただろう。中には沖縄から来た学生もいたとか。どんな経路で足利まで? その道のりだけでも胸ときめくアドベンチャーだ。
学費は無料だったとか。学校側が食事と宿舎を提供。時の権力者の庇護(平安貴族、鎌倉・室町期の武家、さらに徳川幕府)と寺に寄せられた布施によって支えられていたのだろう。なるほど、それで入学した者は僧籍を得る決まりになっていたのかも。
時間割はなく、朝から自学自習。修学年限は特になし。漢籍(中国の古い書物)を書き写して、各自のペースで学んだ。質問があれば、先生に聞く。在学中は規則を守り、学問に励む。学びたいことを学び終えれば卒業する。無理がない。
学生のモチベーションが明確だったから可能だったのか。考えてみれば時間割を作って、全員が同じ教科書で同じペースで勉強せねばというスタイルは、特殊なのかもしれない。
管理教育は、明治政府主導の近代教育から始まった。今も続いている。「画一」という無理にしがみついているから、教科書も授業内容も刷新されずに、つまらないものになる。教師も生徒も、いわば無理強い教育の犠牲者ではないか。
江戸時期には1万7000点もの漢籍・書物を蔵する文庫(図書館)的側面も持つに至った。足利学校を訪ねた人物のリストを見ると、幕末には吉田松陰や高杉晋作も訪ねてきている。江戸期に記された名の多くは、儒学者だ。
儒教は、当時の日本人にかなりの影響力を持っていた。礼節が日本社会の秩序と安定を保っていた。今やすっかり希薄化した部分だ。
生き方を学ぶ機会がないのなら、欲に任せて言いたいことを言い、やりたいことをやり、そんな自分がなんで悪いのかと開き直る人間が出てくるのは、当然ともいえる。教育が成績をもって価値を測るだけの表層的なものと化し、かつ子供たちがネットやSNSを通じて欲と悪意に容易に触れるようになった今、社会の殺伐と不安定度が増すことは、必然とはいえないか。
社会の劣化に対抗する力を持つ筆頭は、教育だ。教育が廃れれば、社会も荒廃化する。教育という器(制度)にどんな内容を盛り込むかで、社会は良くも悪くもなる。
当たり前と言えば当たり前の真実。日本の未来を育てようと思えば、どうしたって教育がその手段になるということだ。
◇
足利学校の本堂では、アニメで小野篁(おののたかむら)が登場。一緒に論語を素読できるというもの。「子曰く」と読み上げる篁は、9等身の超絶イケメンだ。声もさわやか。足利出身の声優さんだとか。
歴代の校長(庠主:しょうしゅ)の墓が十七基ある。在任期間は短くて十五年。学生たちと起居をともにし、人生の最期も学校で迎えた。九州や中国地方から来た校長もいた。個性豊かな学生たちと、いろんな交流があったことだろう。最後の校長は、学校が終わる日はどんな面持ちだったのだろうか。
歴代庠主の墓 名前がわからない墓も
墓も歴史も、その奥には生きていたリアルな人たちがいる
想像力を働かせれば、歴史は無限に近い楽しみを与えてくれる
◇
相田みつを氏が参禅していたという高福寺は、今も早朝の坐禅会を続けていた。当時とさほど変わっていないだろう質素な佇まい。力みがなく、自然な体(てい)で、人々に門戸を開いている。拝観料や土産物販売で寺を維持しようという発想とは、無縁な姿だ。
田舎を回ると(こうした表現が礼を失しないか気にかかるが)、寺も料理屋も、昔の佇まいを残していることに気づいて安堵する。勤勉と至誠(真心を尽くす心)を覚えている人々が生きている。
ただ足利も、映画館が潰れたり、空き店舗が目立つようになったりしている。いつまで今の景観や真心を保っていられるか。100年後に残っているか。
日本が縮小しつつあることは、多くの人が感じていることだ。私自身が歳を重ねて、ノスタルジーと、自分無き後の世界への憂いを覚えるようになったことも、こうしたことを思う一因としてあるだろう。
日本各地に流れる時間と、そこに息づく生活は、時代の波に呑まれて劇的に変わっていくか、つつましさを保ちながら静かに閉じゆくか。
できることなら、大切なものは変わらずに続いていくことが理想だろうが、そのために必要なものは、未来につなごうという意志と、未来につなぐ具体的な行動だ。こればかりは自覚してやらないと、簡単に滅びてしまう。
◇
足利は、映画・ドラマのロケ地として重宝されているそうだ。ナンバMG5、乃木坂46『何度目の青空か』、ちはやふる3部作、今日から俺は! イチケイのカラス、アズミ・ハルコは行方不明、テセウスの船、湯を沸かすほどの熱い愛、今夜、ロマンス劇場で、銀魂2等々――
ちなみに、このうち押さえていないもの三つ。アンテナ感度高めの出家かもしれない(笑)。
足利めぐりの最後は、渡良瀬橋。あの森高千里(さん)の名曲『渡良瀬橋』の舞台。JRの駅メロになっていた。
渡良瀬橋は、実は今回が二度目。初めて訪ねたのは、学生だった頃だ。
JR足利駅近くの家をいきなり訪ねて、出てきたご婦人に自転車を借りた。自転車のお礼にアイスクリームを持って行った。下校途中の学生に交じって駅で列車を待っていたら、ご婦人がおにぎりを持ってきてくれた。
当時の記憶をたどって、その一帯を尋ねてみた。あの心優しいご婦人も、もうずいぶんお歳を重ねているだろう。近所には朽廃した家も目立つ。時間は流れてゆく。
いきなり家を訪ねて自転車を貸してもらえたのは、ご婦人の優しさもあるが、私も若かったからだろう。まだ二十代半ば。黒髪もふさふさで、肌はピチピチ(笑)。今の姿なら怪しまれるだけかもしれない(ほぼ確実にそうなるだろう)。
もう会えないか、会わないほうがいいか。旅の途中で出会った人たちは、優しい姿のまま胸に残っている。
ちなみに、今(中日新聞・東京新聞に)連載中の『ブッダを探して』に、その旅のことをほんの少し書いている。全国の花火大会を追いかけて旅したという程度の記述しかないが、その道中には数多くの愛おしむべき記憶がある。いつかもっと細やかに人生の旅を振り返る手記を著わすことができたらと思っている。
渡良瀬橋から夕焼けを眺めたかったが、夏の盛りで一日が長い。草雲美術館も次回に取っておこう。
『ブッダを探して』のイラスト 何者でもなかった頃
何者かになることを拒んでいた時代 今思えば幸せでもあった
◇
※日本全国行脚2024の旅の記録を連載します
講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト> ※2024年7月24日改訂
8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(
東京・新宿区
完成すれば、今回の傷も癒されるだろう。最大の傷は、未来を育てるという教育活動が遅れを取ったことだ。
とにかく一日も早く形を作り、次の世代に生き方・学び方を伝える努力を始めたい。
夜に新幹線で東京へ。翌朝は早くに茨城に向かう。こちらは地元JA向けの講演会。
この一週間、徹夜続きで、看護学校での講義の合間に徹夜して新聞連載のイラストを仕上げるなど、かなりシュールな日常だった。器用な坊さんではある(笑)。いろんな分野でオリジナリティを発揮できている。
一度自分を捨てたことが、今につながっている。やりたいかやりたくないかという軛(くびき)を外して、求めに応じて、できることを謹んで確実にやる、という立場に立ってから、すべてが始まった。
茨城の講演会は、終活セミナー。歳を取るほど幸せになれる生き方について。農業を支える地元の女性たちがメインの対象。
日本の農業は実はピンチ。日本の社会そのものが、かなりの危機に直面している。それでも日本全国を旅すると、どの土地にもそれなりに人がいて、経済はまだ回っている。
巷間叫ばれている人口激減や継承者不足、食糧自給の危機などは、本当は夢なのではないか、まだこの社会は無事に回っていくのではないかと思いたくなるのだが、
だが、肉体の老いが刻々と目立たない速度で確実に進むように、社会の劣化・危殆化も、じわりじわりと進んでいるのだろう、と現実に目を覚ます。
まだ見えない危機を先取りしてシステムを変えていくことが、本来の社会的イノベーション・リノベーションであって、それが常態と化すことが理想なのだろうが、現実は程遠い。日本社会の時間は止まったままだ。いや、世界全体が、人類そのものが、か。
人間の心は、第一に己の妄想を見て、第二に執着することを選ぶ。見えない危機も未来も、他にありうる可能性も想像できないくらいに、小さな知力しか持ち合わせていないのだ。
日本社会の分断・萎縮・劣化・衰退は、自業自得と言えなくはない。だが、せめてその中で、新たな可能性を育む側に立たねばならぬという思いは、つねにある。
怒涛の一週間がやっと終わった。こんな日々をずっと続けたら、さすがに過労死するであろうと実感できるレベルの一週間だった。
実際に過労死する人たちも、この世の中には存在する。ひとり自死する人も、身投げする人も。忘れたことはない。
目の前で人が滅びつつあるのに、人間は現実を見ずして、まだおのれの欲と妄想にしがみつき、快楽と執着の中に留まっている。
世界は残酷だ。現実の苦しみを見ようとしない、その無知こそが、残酷な世界を作る最大の理由なのだ。
現実をよく見て、その中で己(おのれ)の命の使い方を見きわめる。
現実を見て感じる痛みを、熱量に変えて、この時代・この社会において、自分にできることをなす。
その道をどこまでも突き進むことが答えなのだと、今は知っている。ゆけ。
2024年7月20日
・・・・・・・・・・・・・
講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト> ※2024年7月24日改訂
7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。
定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。
動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。
だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。
現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、
さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。
典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。
本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。
信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。
信じることが持つ危うさだ。
宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。
誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。
確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。
その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。
本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。
その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、
その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。
ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。
それが、欲と妄想だ。
だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。
だから、宗教を求めてしまう。
そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。
ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。
その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。
でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。
宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。
講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。
全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。
2024年7月16日
・・・・・・・・・・・・
講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>
ときおり十代を生きている人の母親・父親が訪ねてくることがあります。
学校に行かなくなった、
進学はしたい、
でも勉強は進んでいない、
という相談が多い印象があります。
進学はしたいという思いに至っていなければ、不登校の段階。
この段階で、本人に伝えられることは、ほとんどない。
今の自分を善しとするか。一度しかない人生を、この先どう作っていくのか。未来をどう生きるのか――
本人が考え始めて初めて、次の選択肢を、親や周りの人たちが一緒に考えることが可能になる。
この場所が相談に応じることができるのは、進学したいけれど勉強は進んでいないという状況にある十代に向けて。
もし君に、
進学したいという気持ちが少しでもあるなら、
心機一転して生活を立て直す
ことを勧めます。
心は弱いものだから、学校に行かない人は、崩れてしまっていることが多いもの。
ゲーム、スマホ、ネット、テレビ・・今は、流されるための道具はいくらでもあるから。
しかも、心は強くない。長々と寝て、起きて、ご飯食って、遊んでいるうちに、活動時間は終了。
僕自身も体験がなくはない。なんとなくダラダラと過ごしてしまう。
そのくせ、ネガティブな思いは弱くならない。過去を引きずるとか、親を責めるとか、要は、自分以外のことに理由を見つけて、腹を立てたり、サボる理由にしてしまったり。
結局、自分に甘い ということなのだけど。
もし進学したいという願いがあるなら、どこかで弱い自分に区切りをつける必要がある。怠惰な自分に最大限の厳しさを向けることだ。
まずは、将来への計画を立てる。
進学したい大学や進路があるなら、はっきり見定めて、何が必要なのか、試験科目や手続きを調べる。
そこから逆算して、自分が使う参考書などをリストアップする。
一日の時間割を組み立てる。
家にいるとダラけるから、図書館、学習室、公園、喫茶店、電車の中など、勉強する場所を複数リストアップする。
そして実行に移す。
記録を取る。何時から何時まで、何をやったか。
何を学んだか。前に進んだか。自分は成長しているか。
こうしたことは、ぜんぶ自分の力でできる。工夫次第。意志の力次第。
本腰入れれば、怠惰な自分から、毎日を有意義に使うことに充実を感じる創造的な自分になれる。
ダラダラ過ごしていたら、こうした充実は味わえない。
どこかで怠惰な自分にケリをつけて、新しい自分を生き直す必要がある。
こういうのは、タイミング、気合次第。エイヤと起き上がれるかどうか。
なにしろ人生は一度きり。過ぎた時間は戻ってこない。
あとで後悔しても取り返しはつかない。
しかし逆に、気合を入れて、作戦を立てて、進学や勉強を目標にすえれば、学校に行かなくても、充実した毎日を過ごすことはできる。
過去は関係がない。親も関係がない。
純粋に、自分のためにやる。後悔しないために。後で不貞腐れないために。
本気で生きる人生のほうが、はるかに面白い。
しかももし進学できたら、やっぱり未来は変わる。視界が開けることは確か。
だから、進学したいという気持ちがあるなら、どれだけできるか、頑張ってみたら?と思う。
親の相談に乗ってもしようがない。本人の問題だから。
塾や学校の先生のように、勉強することが大事だとは言わない。大人にとっては、すでに乗り越えたことだから。
あくまで本人の人生の問題。
勉強したほうがいいなんて阿呆なことは言わないけれど、
でも本人に少しでも勉強してみたいと思う気持ちがあるなら、
どこまでできるか、体験してみればいいとは思う。
応援することはできる。
僕も似たような経験をしているし、勉強の仕方はしっかり考え抜いて、それなりの方法を知っているように思うから。
何より、前を向いて頑張ることを、応援したい。
勉強を応援するというより、人生を切り開くための努力そのものを応援したいと思っている。
だからもし、進学したい・勉強したいと思う十代の人がいたら、できれば親ではなく、自分で連絡してきてほしい。言葉を尽くして今の自分を語ってくれたなら、応援できるかもしれないから。
全国行脚中なら、近くまで足を運ぶことも可能だ。
頑張ることは楽しいこと。
どこまで頑張れるか、挑戦してみてほしい。
本気になりたい十代の人のもとを訪問します
2024年7月
旅の途上で感じたこと
10月某日
東京から西へ旅に出た。野山のどこを見ても、人の手が加わっている。古(いにしえ)の時代から、数えきれない人たちが、日々、野を耕し田畑に変えて、通行の便宜を図って道を拓いてきた。そうしてできあがった、この美しい風景がある。
だがここ数年、旅しながら思うのは、この風景がいつまで続くであろうという憂鬱めいた思いだ。人は減り、勤勉は美徳とされなくなった。今や農作業からも逃げ出す人たちが増えてきた。しんどいことを嫌い、コスパ、タイパと、ラクすることを正当化する風潮さえ出てきた。
列車の中で、ほとんどの人はスマホを見ていた。ある駅でドアが開いた。小学生の子が、スマホゲームに気を取られて、降りようとしない。子供の後ろに、両親と祖母らしき女性が立っている。急がせるでもなく「着いたよ」というだけ。子供は億劫そうに顔を上げてホームに降りる。
小さな光景だが、意味するところは深刻だ。何しろ外にいながら動けないのだ。
翌日、講演会場がある駅から一つ向こうにある無人駅で降りた。
駅には、新型コロナ克服3カ条のポスターが。「人と人 間が愛だ」というダジャレ標語のもと、テレワークの勧めや、動物を人の間に置いたイラストで、2メートル距離取ろうとか、おばあちゃんとは直接会わずに電話でつながろうとか。
この不毛、いつまで続けるつもりなのか。
こうやって人を引き離し続けて三年間。結婚数は50万組台に落ち込み、出生数は80万人を切った。
コロナ騒ぎが始まった2020年に、50万人の人口減少を記録。小さな県が丸ごと吹っ飛んだことになる。一年で止まらない。以後連続だ。逆に死者数は一年あたり140万人を突破した。統計上の予測を越える死者が、この三年、出続けている。自然死では片づかない超過死亡者の数だ。
かつては一年に270万人近く生まれていた子供の数が、80万人を切った。ということは、その数だけの可能性が、社会から消えたことになる。一年あたり二百万人分の人生が消えた。十年で二千万人に及ぶ可能性の喪失だ。
あの戦争では、三百万人の日本人が死んだ。だが、それをはるかに超える死が起きている。現実に起こる死と、生まれたはずの命が生まれないまま終わるという意味での潜在死が、凄まじい勢いで増えている。
死んでいるのは、戦争や天災ゆえではない。硬直した社会制度と人間の心ゆえだ。社会とは変わるもの、変えるものだという前提が忘れ去られ、勤勉を美徳とせず、未来に夢を描かず、保身のみで満足して、刹那の享楽に身を委ねながら、そんなおのれの姿を顧みなくなった人々の心が奏でる、滅びへの行進曲だ。
これほどに滅びの音色が痛ましいほどに軋み鳴っているのに、人間はまだ気づかない。
“コロナ克服”という勝てるはずもなく、勝つ必要もない幻想に、こうして今なおしがみついている人間がいる。
見るべきものを見ようとしない臆病と、見ることができない無知が、自滅への行進に拍車をかけている。
最近ずっと問うている――この命は何をすればいい?
2023年10月某日
今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。
気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。
だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。
今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。
それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。
命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。
多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。
変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。
結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。
子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。
難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。
難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。
特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。
それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。
本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。
重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。
親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。
親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。
人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。
体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。
育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。
たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。
こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。
人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。
結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。
生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。
他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。
さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。
「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。
ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。
自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。
自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。
自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。
それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。
世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。
世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。
正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。
未来につなげようという意識を持つ。
できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。
それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。
人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。
生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。
まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。
日本全国行脚2023完遂
草薙龍瞬
世界はまだ輝いているぞ
2023・9・5
・・・・・・・・・・・・
日本全国行脚2023
福岡・久留米
・・・・・・・・・・・・・
7月末
朝JR八代駅まで行ったが、豪雨のため電車が動いていない、新八代から新幹線に乗ってくれという。新幹線代はJR持ち(なんとありがたい。JRもたいへんだ)。
新八代から熊本へ。駅近くの食堂で昼食。さらに久留米へ。
明治期の洋画家・坂本繁二郎の生家を訪問。短冊に願いを書いたら入館無料というので(200円くらい貧乏性の私でもむしろ進んで納めたくなるが)、久留米の地がこれからも栄えますようにというようなことを書いたら、ボランティアで管理人をしているという高齢のご婦人が「ありがたいことを言ってくださって」と喜んでくれた。
婦人もまた「日本はなんでこうなってしまったのでしょう」という。いつ頃が一番いい時代でしたかと聞くと、「やっぱり幼少期かしら」という。戦後間もない頃? 日本人が自分の国をここまで信じられなくなった時代というのは、明治期以降はじめてかもしれない。
茅葺屋根の武家屋敷。樋を90度まがる雨戸とかスライド窓など、昔の人の工夫が見える。
久留米の人たちは、近代化にあわせて武家屋敷を軒並み壊してしまったそうだ。繁二郎の生家くらいしか残っていない。残っていたら今ごろ地域振興の役に立っていたかもしれないのにと婦人は言う。
繁二郎の生家は貸し出し可。ここで<寺子屋・国語キャンプ>を開くのもよいかもしれない。
ひと夏の寺子屋体験♪
夏休み(7月下旬から8月末)期間に、寺子屋・国語キャンプを開催。
読んで楽しい、しかも国語力が身に着く良質の文章をつかって、国語の授業。
読み方、書き方、考え方、そして生き方が身に着く立体的な授業。
先生は、僧侶兼作家の草薙龍瞬。過去に学んだすべての学び方・生き方を惜しみなく伝えます。
対象は、小学生5年から高校生あたりまで。国語力を身につけたい/言葉に触れる楽しさを体験したい/夏休みにちょっと変わった体験をしたい十代のみんなとご両親(ただし、中学生以上は親の同伴ナシ。自立への準備として(笑))。
授業の後は、中高生の相談に応じます。
場所と世話役になってくれる地元の人が一人見つかれば、すぐ実現できる。
未来を育てなければ。
<告知>
さっそく2024年の夏の全国行脚から実施します。寺子屋(国語キャンプ)を開いてほしいというお父さん・お母さん、または中学生・高校生の人がいたら、興道の里までご連絡ください^^。場所さえ見つかれば、全国どこでもOKです。
洋画家・坂本繁二郎の生家
2023年7月28日