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澄んだ時間~甲府から富士へ

日本全国行脚2024年12月3日


山梨・甲府に出立。新宿から信州に向かう特急は意外と混んでいた。

雲一つない冬の青空。車窓の彼方に銀嶺が見える。 この国のいたるところに、こうした見るだけで溶けてしまうような風光明媚があるのだろう。

こんな景色を毎日見られる場所で暮らしたいなと思う。あいにく体は一つだから、一つの場所を選ぶほかなく、他の場所で暮らしたいという願いはかなわない。数多くの美しい景色を求めて旅するように生きるのも一興だが、根を生やす生き方も捨てがたい。こうした二律背反、相矛盾する憧憬は、一生枯れることはないのだろう。いたたまれないが、いたしかたない。夢見ることを快としよう。

あの丘の名前は? 一度立って風の景色を眺めたい


甲府駅で降りて、講演会場まで歩くことにした。旅するほどの余裕はないが、せめて地元の空気を味わいたいからだ。地図で見るよりも実感遠かった。

(※余談だが今はどこの駅も商業ビル化され、駅前も都市化されている。最近訪ねた北千住や水戸もすごいことになっていた。甲府駅前も然り)。

山梨の農業は、シャイン・マスカットの認知度が上がって利益を上げているそうだ。就農人口も少なくない。ただ、冬は皮膚が痛いほどの冷気で、果実の収穫はやはり大変だという。

今日の講演会は、参加者はほとんど女性。50代以上がほとんどで、50歳未満は1割以下。これは全国の就農人口の世代比とほぼ同じ。

司会の方に紹介してもらった後、「私の本を読んでくださった方、どれくらいいますか?」と訊くと、手が挙がった気配がないので、「ほとんどの人が読んでくださっているのですね、ありがとうございます(笑)」。

なぜ歳を取ると時間が経つのが早く感じるのかという話に始まって、業の話へ。初めて聞く人には、衝撃でもあり、身につまされる話でもあるらしい。会場によっては笑いが起こるが、今回はみなさん真面目に受け止めた印象。こういうときは、たいてい終わった後に、思い当たった人が感想を言いにきたり質問しにきたりするのだが、今回もそうだった。

農家の高齢化は全国的に進んでいる。あと十年経ったら、放棄地も激増するだろう。ここ数年、旅をしながら、この美しい景色がいつまで続くのだろうと、自分が見届けられない未来のことを心配している。

帰りは身延線に乗った。ローカル列車で終着の富士駅まで4時間以上かかるが、地元の人たちと同じ景色を眺めたい。途中、市川大門駅を通る。学生時代に夏の花火大会を見に行った場所。20代にも仕事仲間と車で来たことがあった。

路線後半はガラガラ。だがこの身延線、ちょうど斜面をくだって平野に出る時に、富士宮の街並みを一望できるスポットがある。その景色を久々に見たかったのだが、無事成就した。

旅ともいえない旅だったが、景色と人の姿を見ることはできた。もうひとつは、独りきりの純粋な時間。何者でもない空白の時間。これらがそろうことが、私にとっての旅だ。一年の終わりに澄んだ旅ができた。

富士宮の夜景 この景色をもう一度見たかった




2024・12・3

日本全国行脚2024 福岡・志賀島


日田を朝に出て、久留米経由で博多に向かう。天神近くの公共施設で勉強会。

どの場所も同じだが、地元で場所を用意してくれる人がいないと、全国行脚は成り立たない。今回も、動いてくださった人がいてようやく開催できた(ありがとう)。


ブログ以外に告知しなかったが、予想以上の数の参加者。最年少は小学3年生。大人たちが日常の苦悩やおどろおどろしい業の話をさっそく始める中で、はて小学生に聞かせてよいのか戸惑う部分もあったが、辛抱できたようだ。父親の圧力に負けてやむなくという雰囲気だったが笑。

ほんとは、子供向けの学びキャンプを別立てで開催すればよいのだ。親のほうで場所を見つけて声をかけてくれればいい。教材はこちらで用意しよう。


どの場所でも、参加者の関心・質問に応じて答えを組み立てるので、毎回内容が違う。板書する図も変わる。即興で答えることで、自分も思いつかなかった新しい理解(智慧)が生まれる。

内容を準備したことは一度もない。その場で思考を組み立てる。だからこそ生きた智慧が生まれる。

各地の講座・勉強会を書き起こしてテキスト化すれば、かなり面白い資料になるだろうが、作業する時間がない。今は前に進む(新しい体験を積み重ねる)ことに専念しよう。

終わった後も、近くの喫茶店で希望者向けの無料相談会。なるべく多くのものを持って帰ってもらえたらという思いで続けている。

終電で東京に帰る予定だったが、相談者が多くて間に合わなくなった。急きょ宿を調べて、近くのカプセルホテルに泊まることにした。




翌朝は、バスで博多港まで。玄界島や壱岐島へのフェリーが運航中。私が向かったのは志賀島。かの金印「漢委奴国王」が発掘された島。小学生の頃に聞いた知識と地理が、やっとつながった(笑)。

この地に来ると、大陸がとても近く感じる。釜山にも船で行ける。近畿や関東のほうが距離感としては遠い気もする。とはいえ出征するほどの距離でもない。秀吉も無謀な挑戦をしたものだと思ってしまう。


海から博多の街を眺めるのは初めてだ。世界が青い。



西戸崎駅前から市営バスで勝馬海水浴場まで。気ままな一人旅。どこで過ごすのも自由という今日がありがたい。


浴場から少し離れた旅館の裏側で、だれもいない浜辺を眺めてひと休み。



海岸沿いの旅館兼食堂に寄ってみた。アイドルらしき女子の写真やバナーが壁一面に貼ってあるので、誰かとたずねたら、○○坂46の○○○○さん(ファンの呼び名は「○○ちゃん」)だという。

この村出身で、すぐそばの小学校に通っていたとか。私が偶然立ち寄ったのは、彼女が高校時代にバイトしていた旅館・○○荘だった。

そうかあ、○○ちゃんはここで育ったんだ、オーディション受けに東京まで行って、以来、乃木坂で頑張っているんだ~♪と思うと、人の背後にある物語が見える気がして感慨深い。急に土地のありがたみが増した気がする(アホですか笑)。


バスに乗って西戸崎駅へ。そこから陸路で博多に戻って新幹線で一路東京へ。

夏の全国行脚、これにて(ほぼ)終了。いや、夏風情を満喫した旅だった。



志賀島の海





2024年8月下旬



日本全国行脚2024 大分日田・咸宜園


羽犬塚から久留米乗り換えで日田に向かった。筑後川が造ったであろう沖積平野に広がる緑を見渡しながら、列車はゆっくりと標高を上げていく。

日田は、山岳のくぼ地に合流する複数の川が造った盆地だ。『進撃の巨人』の作者出身の町だそうで、駅前には「進撃の日田」と銘打った幟やポスターが目立った。物語冒頭に巨人が出現した巨大な壁(ウォール・マリア)に見立てたダムやミュージアムが近くにあるらしい。ファンには楽しい街かもしれない。




駅前で自転車を借りて、咸宜園(かんぎえん)へ。日田は、夏は全国最高気温を記録するほどに暑く、冬は氷点下になるほど寒い土地らしい。この日も日差しが烈しかった。






創立者は廣瀬淡窓(ひろせたんそう)という江戸中期(1782年~)の豪商の長男。病弱ゆえに家督をあきらめ、学問と教育を生涯のテーマにしようと決意して、24歳の時に寺の学寮内に最初の塾を開いた。

その土台は、勉強好きの叔父夫妻(6歳まで叔父が建てた秋風庵で育っている)と、6歳以降に漢学(孝経・四書・詩経ほか)を教えてくれた父や寺の内外の大人たち。福岡の私塾に寄宿したこともあるという(16歳から2年弱)。学びの文化は江戸期には定着していたのだろう。

咸宜園は、藩主や幕府の後ろ盾がない純然たる私塾だ。豪商ゆえに可能だったであろう事業。咸宜とは、詩経から引いた言葉で、「ことごとくがよろしい」(≒入門に身分・条件を問わず)という意味だと説明されることが定番だが、淡窓には独自の解釈(思い)があったような気もする。

入門に身分・学歴・年齢を問わない(三奪法)。学ぶ意欲さえあればいい。入門規約や塾則を設け、当番を割り振って、会計、食事から清掃、図書の管理まで、学生たちにさせたという。

明治30年に閉じるまで、約90年にわたり、延べ5千人近くの門下生を育てた。多いときは1年に2百名を越える門下生がいた。豊後高田に分校を開いてもいる(淡窓47歳)。

咸宜園が盛況だった理由は、どこにあったのか。足利学校や弘道館と違って塾費を集めての経営だった。廣瀬家は商人だったから、商人階級の子供たちも多かった。経営面は順調だった可能性があるが、続かなかった。今は国指定の史跡と化している。

特徴的なのは、試験を毎月実施して、席次を決めたこと(月旦評)。最上級から最下級まで19等級に分かれて、各級にも上下があった。

筆記(書・詩・文・句読)と平常点と口頭試問で成績を評価。全員の名前と順位を掲示。入った時は横一線だが、ひと月経てば誰が優秀かはすぐわかる仕組みだ。このあたりは進学塾の先駆け的匂いも感じる。

順位をつけることは、モチベーションにつながる部分もあろうが、度を越すと順位を上げることが目的化するおそれがある。成績上位の学生に歪んだ優越感や尊大さが育つ可能性もなくはない。咸宜園は、他の教育遺産と比べても、競争原理を採用することに躊躇いがなかった印象を受ける。

さらに目を引いたのは、多くの政治家や官僚を輩出していること。

大村益次郎は、戊辰戦争で官軍側の参謀を務め、明治維新後は日本陸軍の基礎を築いた。

長三州(ちょうさんしゅう)は、勤皇の志士として大村とともに戊辰戦争の参謀を務め、明治維新後は太政官(立法・行政・司法の全機能を担う最高機関)の官僚に。文部省局長として近代学制を主導した。伊藤博文や山形有朋は「門人」とも。

長三州は大正デモクラシーに反対したとも聞く。

咸宜園には他にも、枢密院議長から内閣総理大臣になった清浦奎吾、検事総長・大審院長を務めた横田国臣、海軍軍医総監の河村豊洲、尊皇攘夷活動家で三菱・三井の両財閥を渡り歩いた実業家の朝吹英二、東京女子師範学校長をへて貴族院議員になった秋月新太郎など、明治期の公権力の一端を担う要人を輩出している。

咸宜園が是とした競争原理、上昇欲の肯定が、卒業生の生き方に影響した可能性はないか。少なくとも倒幕から近代化、中央への権力の集中という時代的潮流と整合するような塾風はなかったか。

最も特徴的だったのは、松田道之についての記述だ。滋賀県令、東京府知事などを歴任し、明治政府による琉球処分に「活躍」と記されている。

あきらかに官軍目線(^w^;)。琉球処分とは琉球王国が滅ぼされた出来事だが、それを活躍と言ってしまうのは、さすがに今の時代にそぐわない。

勉強に励み、成績を上げ、塾内トップをめざし、卒業後は立身出世というわかりやすい人生街道。それを礼賛する空気は、かの時代に強かったし、咸宜園の校風だった可能性がある。
 
ということを仮説として考えながら見ていたら、なんと、仮説をそのまま裏づけるといっていい史料があった。「咸宜園の出にして世に名をなせし人々」の名を並べた当時の掲示物があったのだ。
 

この夏日本遺産をまわって見えてきたことは、礼節と人生訓という儒教ベースの教育は共通している半面、それぞれに個性があるということ。あまり語られない点だが、創立者の身分・目線・教育観、さらには時代背景や土地柄が、けっこうな度合いで影響している。
 
だがその影響は、遺産として残る校舎ほどには、明瞭な姿で残っていないのだ。この場所でかつてどんな教育をしていたか、どんな空気が流れていたかを推し量るのが難しい。だからこそ「遺産」なのか。もはや現代に活かせる内容を取り出すのは、難しくなってしまったか。

古い寺を廻った時に感じることだが、今に遺(のこ)る建物は箱でしかない。かつては箱の中に中身があった。生きていた。なぜかといえば、教える者、学ぶ者が、つまりは人間がいたからだ。

人間が消えた箱は、ただの箱でしかない。かつてこんな教育をしていましたという記録が残ったとしても、現在進行形で続く教育がなければ、箱そのものにさしたる価値があるように思えない自分がいる。
 
立派な箱を持った学校・塾・予備校は、今の時代に溢れている。そうした場所が将来に滅びたとして、箱だけをありがたがるだろうか。ありがたい(価値がある)のは、箱ではなく、箱の中身であるに違いない。

教育は、あくまで伝える側と学ぶ側との生きた関係によって成り立つ。学ぶ側は生まれてくる。伝える側の個体はやがて死ぬ。

死んでなお残る、残せる教育とは、どんなものだろう。どうすれば可能になるか。やはり言葉か。いや、言葉だけでは足りないように思う。

最も残さねばならないものは、未来につなぐシステムのようなものだろうと思える。智慧、意志、生き方を継承する仕組み。未来の心に残りうる力を持ったもの。

それが実現すれば、未来にも教育を通して過去の人が生きることが、可能になる。未来に残せるようになる。

システムを残す――という主題をもって、教育を進めていくことにしようか。

  ◇

翌朝に周囲を散歩した。三隈川の清流が勢いよく流れている。水流豊かな支流の間に中洲があって、公園になっている。これが水郷・日田と呼ばれるゆえんか。

あの種田山頭火も、道中に立ち寄った場所。分け入れば水音 とは、日田近くでの一句だそうだ。

山頭火は九州を好んで旅した。たしかに土地の陰影が深く、地熱というか山の霊力というか、どこをめぐっても本州とは異質の神秘とダイナミズムが足元から伝わってくる気がする。

分け入っても分け入っても青い山(山頭火)。

山頭火のように一族の業に翻弄され彷徨い続けた人間には、九州の地は、心の闇を忘れさせてくれる力があったのだろう。


濃緑の葉を茂らせたイチョウの大木に出会った。石碑には“特攻イチョウの木”とある。日田から飛び立った特攻隊の青年が、この木の上空を旋回して故郷に別れを告げて、帰らぬ人となった。

日本人は、あの戦争を、遠い過去の特殊な出来事としてとらえている。もう二度と繰り返さないだろうと、それくらいに日本人は賢くなったはずだと、少なくない人が思い込んでいる。

だが、人間の業は、そう簡単に変わるものではない。事なかれ主義、周りに合わせて安心してしまう臆病と無思考の業は、今も変わることなく続いている。
 
その顔をのぞかせる出来事は今も起きているのだが、あの戦争と、今の日本社会に起こる出来事は別物だと思い込んでいる。だが実はそうではないのだ。

どうしようもなく根の深い無思考という病。この病が伝播しないように、自立して思考できる人間を育てる努力を始めるしかないではないか。


特攻イチョウの木
日本人は走り出したら聞く耳を持たない


ハグロトンボのつがいがくっつきながら飛んでいた 
生命は今を生き、未来につなげることだけにひたむきだ 
二か月ほどの命というが、短いという思いさえないだろう 
つまりは永遠を生きている

 

水郷の朝 今回の旅で最も絵画的な一枚



2024年8月末



日本全国行脚2024 岩国・錦帯橋の清流


朝の電車(錦川清流線)で川西駅へ。宇野千代記念館に足を運んだ。

宇野千代さんのことは、正直よく知らなかった。覚えているのは、「わたし、死なない気がするんです」とテレビで語っていた姿くらい。ちなみに、死なない気がすると言い出した人は、たいてい“おむかえ”が近いと思うほうが正しいのかもしれないとも思う。享年97歳。

16歳で文学に興味をもって雑誌に投稿を始めて、二十歳で上京。出版社の事務、家庭教師(もと岩国で代表教員をやっていたそうな)、ウェイトレスなどを勤めながら、24歳で懸賞小説で一等当選。

八十代まで精力的に作品を発表。自伝小説『生きていく私』ほか、多くのベストセラーも。みずから出版社を作ってファッション誌や文芸誌を刊行し、着物のデザインも手がけた。自身の感性と時代がうまく嚙み合った印象。打てばヒット。楽しい人生だったように見えなくもない(深層はわからないけれど)。

羨ましいのは、家自体の佇まいだ。古い木造の平屋で、広い庭には楓などの広葉樹が、よく手入れされている。みずみずしい苔が全面を覆って、土や砂利を見せない。季節感が豊かで、全体の色が明るいのだ。

人はどこまでも業が深いが、自然はどこまでも自然だ。見せる姿そのままだ。雨が降れば潤い、日照りがくれば枯れる。条件整えば再生する。あるがままだ。水、色、光、そのすべてが愛おしい。

宇野千代生家の庭 手入れがたいへんらしい 
今日も朝から掃き掃除と水やり 苔が日焼けしてしまうからという


この私の生(本質)は、本来なら自然を愛する。それこそ人間の世界を忘れて、森の中に隠棲して、嵐のざわめきに身を震わせ、雨の滴に息を合わせ、静謐に同化して、無であることをしみじみと味わいたい。

だがそれは、人間の世界にとっては無(存在しない)でしかない。たとえ人間の世界が限りなく業が深く、愚かで、醜く、殺伐としていて、やがては滅びるだけの定めにあるとしても、それでもまだ人は生き、世界は続いている以上、その中で何かを形にすることには、意味があるだろうとは思う。そう思う人生を選んでいる。

関わることで初めて生まれる意味がある。関わりの中でしか成り立たない価値がある。たとえ関わりそのものは無常であり、時に傷つき、いずれ消えるものだとしても、つかの間の関わりの中で何かをなし、何かを作ることは、刹那この瞬間においては、やはり意味を持つように思う。

滅びの中で生きるのだ。それこそが今を生きるということなのだろうと思う。無へと帰ることを織り込んで、虚無にすぎないことを当たり前として、今を作る関わりの中で有を創り出す。それでいい、と思えることが、諦念を越えた生き方ではないか。



錦川沿いを歩いて、吉香(きっこう)公園へ。大噴水は水溜まりに入れるようになっている。小さな女の子と母親が水の中を歩いて遊んでいる。私も噴水の飛沫がかかるところまで行ってみた。これぞ夏の快。



旧目加田家住宅という武家屋敷を通ったら、ガイドのシニア男性が声をかけてくださって敷地に入れてもらった。家の裏側には二階に窓があるが、表側にないのは、身分が上の人を見下さないためなのだとか。家はかなり古い。一度バラして移築して国の重要文化財として保存しているという。

古い屋敷を残すことで、岩国は風情を保っている。ここで思い出すのは久留米だが、かの地は戦後どんどん古い家を壊して商業ビルと住宅を建ててしまった。後悔先に立たず。保っていれば観光資源になっただろうにと、前の旅で地元の老婦人と話したことを思い出した。



いざ、岩国シロヘビの館へ(入館料二百円)。岩国には、シロヘビにまつわる伝承や古文書の記録が、少なからず残っているとか(古文書と言っても江戸期だそうだが)。たしかに姿が印象的。手足のない白い体に、表情のない赤い目。姿が非日常なのだ。

生きたシロヘビを見ることができます!ということで入ってみたが、実物はまったく動かない。置物と変わらない。ハムスターのようにもつれ合って固まっている。「楽しいの?」と聞いても、答えない(笑)。


子供のシロヘビだけは、ときどき舌をちょろちょろと出して見せる。でも動きといえばそれくらい。

もとはトカゲ類で、次第に手足がなくなった。アオダイショウの突然変異で、体が白くなった。蔵の米をネズミから守ってくれるということで、岩国では家の守り神として大事にされてきたという。

いや不思議な生態だ。目は明るさを感じる程度で、音はほとんど聞こえない。ネズミを丸のみするが、味覚がない(おいしいともまずいとも感じない・・それはさすがに真似したくない笑)。

匂いは舌で感じる(だからちょろちょろ舌を出す)。音は耳の代わりに骨で感じるという(骨伝導)。体長180センチ、胴回り15センチ(けっこう大きい)。寿命は15年ほど。29年も生きたシロヘビも。「なんのために?」と考えるのは、欲深な人間の野暮というものか(笑)。

アゴを上下に開き、下あごを左右に開いて、自分の頭より大きな獲物を丸ごと飲み込む。肋骨を大きく広げて、獲物を消化していく(人間の姿で想像すると恐怖でしかない)。

最初は突然変異。その後は交配した異性ヘビの遺伝子と自分の遺伝子(白くなるアルビノ遺伝子)が、半分ずつ子供に受け継がれる。子供はアオダイショウかシロヘビか。

人間の業はどうなのだろう。二人の親の業を半分ずつ受け継ぐ? むしろ生まれた後の距離と時間による気がする。親の側、子の側の執着の度合いによっても、業の遺伝度合い(影響力)は変わるように思える。

ほぼ確実なことは、親の業から無関係ではいられないということだ。いい面も悪い面も、親の業は確実に子の心に遺伝する。

業について興味がある人はこの本を


人間の場合は、自覚と実践によって、人生の色を変えることは、ある程度可能だ。遺伝による輪廻を越えるには、やはり悟り(理解)が必要だし、それしかない。他の生き物なら突然変異するしかないが、人間の場合は理解するという知能によって、変わることが可能である。人間だけの特権ともいえる。

シロヘビは性格温厚。目は赤ルビーのようで、全身は高貴な白に輝いている――といえば愛着も湧くから、言葉って不思議。今も金運・福運の神のつかい。

蔵、石垣、水路などの環境が整っていないと生きていけない。次第に数が減っているのだそうだ。シロヘビ、かわいそう。

近くに鵜の里という飼育センターも。近くで見ると、鵜は体が大きくてなかなかの迫力。魚を捕まえても、人間に吐き出させられてしまう定めにある。でも自覚がないから虚しい(こんな人生イヤだ)とは思わないのだろう。

子供のシロヘビは恋愛の神様でもあるらしい 
飼うの?と思ったが、拝むのだそうだ

  ◇

堤を上がったところに、巨大な銅像が。政治家だった。自分が見た限りでの印象に過ぎないが、中国地方から九州にかけては、政治家・軍人系の巨象が多い気がする。昔は(今もかもしれないが)、出世といえば、政治・経済・軍部内で昇進することだったのだろう。

「おらが村のエライ先生」という認識。本当の世界はさらに広くて、こんなに小さな島国の、さらに小さな田舎から出世したところで大した価値はないかもしれないのだが、要は井戸端会議レベルで、「○○さんチの○○さんは東京に出て○○になったらしい、すごいわねえ」という話題に上がることが出世の証、みたいなことなのかもしれない。

国会に出てきたセンセイたちは、それぞれの田舎を背負って永田町にいる。地元にイイ顔ができることが自慢であり、政策選択の目印。そして、おらが村のセンセイを支援する人たち。

この田舎者気質(とあえて言ってしまいます)、変わる日が来るのだろうか。いや、野暮な脱線をした――。



堤通りの「岩国石人形資料館」。シニア男性に「無料ですからどうぞ」と促されて入ってみた。中に入って驚いた。人形(ひとがた)の小さな石が陳列されている。石を細工して人形にしたのではなく、川中の石にくっついているのだそうだ。ニンギョウトビケラという昆虫が、川底の小石や砂を集めて作るのだという。

今も錦川に探しに来る人がいるそうだが、コツがあって、一般の人には見つけるのが難しいそうだ。

拾い集めた石人形を、大きな石に接着剤でくっつけて並べると、七福神とか大名行列とか、ひとつの場面を表現できる。石人形作家もいる。盆栽に似た世界。ひとつ庭に置いてみようかと思った。

写真も撮ってよいと言ってくださる 
これは七福神 なかなか楽しい造形だ

こちらは峠越えの大名行列 
立派なアートだが、なぜさほど知られていないのだろう?

   ◇

錦帯橋を渡る。かつて大雨に橋が流されることを防ぐため、人柱を入れることになった。貧しい武士が名乗りを上げたが、二人の姉妹が父の代わりに橋台に身を埋めた。その化身とされているのが、先ほど見た石人形だ。



錦川に身を浸してみる。水が冷たい。が、冷たすぎるわけでもない。ちょうどよい水温で、猛暑で火照った体を冷やしてくれる。おお、こんな嗜みがあったか。川で泳ぐなんて何十年ぶりかもしれない。

川を上がると、服はびしょ濡れ(そりゃそうだ)。作務衣からぽたぽたと水が落ちるのが止まるまで、日陰で一休み。乾いたところでバスに乗って、岩国駅へ。
 
いや、夏の風情に満ちた一日だった。


錦川の清流 よき夏



2024年8月下旬

 

 



日本全国行脚2024 備前・閑谷学校

奈良を朝8時過ぎに出て、大阪から姫路経由で岡山・吉永駅へ。

駅前は想像以上に何もなかった。バスは2時間半に一本。駅前にタクシー会社があったので、背に腹は代えられぬと利用することにした。

このあたりも過疎が進んでいると運転手さん。兵庫や岡山の山間を縦走する列車に乗ると、駅前の家さえ廃屋と化している光景を見かける。かつては山中の駅もごったがえしていたというが、みんなどこに消えていったのだろう。

閑谷学校到着。快晴の日差しを、竹笠で避けて歩く。リュックを隠す場所を探したが、良くも悪くも隙のない造りで、見つけるのに難儀した(休業中の茶屋の裏に隠した)。


夏の日差しに輝く閑谷学校


<閑谷学校の特色>
閑谷学校は、17世紀後半(1670年)に藩主・池田光政が創設した教育機関。「山水清閑、読書講学にふさわしい土地だ」と見込んだ様子。

閑静な山間の学校だから、閑谷学校。現代人の感覚だと、交通に不便な山奥だが、当時の人たちは違う感覚で見ていたのだろう。思えば、徒歩2時間かけての学校通いも、朝から日が暮れるまで歩いて旅することも、当たり前の時代だった。

他に交通手段がなく、妄想する小道具もない。ひたすら歩く。おのずと考えない境地に。身を包むは、山水の音のみ。想像すると、少しは当時の時間感覚も見えてくる気もする。いや実際にやってみようか。東京から奈良まで歩いてみるとか(いややっぱり、せめて自転車で笑)。

光政は8歳で家督を継いで以来、どうやって藩を統治するか思い悩んで、「儒教による仁政」にたどり着いたという(当時は幼くして責任を負う社会だった。11歳で元服した時代もあったというし)。

幼少期から、成人後の参勤交代中も熱心に儒教を学び、武家の子には藩学校を、庶民の子には手習い所、集大成としての閑谷学校を作った。

光政の思想の基盤が儒教だったことは間違いないが、儒教の枠を越えた視野をも持ちあわせていた様子。光政が師と仰ぐ中江藤樹は陽明学者で、徹底した平等思想の持ち主だったというし、その弟子であり、光政に仕えた熊沢蕃山は、国が栄えるには、庶民の生活が向上せねば、そのために領民に仁政を及ぼさねばという経世済民思想の持ち主だ。光政は、彼らの影響を強く受けていたように映る。

領民救済を第一に考えて、藩政改革を推し進めようとした蕃山は、周囲の反発や嫉みを買い、幕府にも嫌われたとか(儒学・朱子学は幕府公認。為政者にとって都合がよかったからだろう)。

思想を持つ人間は、無思考な人間たちに忌み嫌われる。蕃山は、早めの隠退を余儀なくされ、遠く離れた茨城で軟禁中に亡くなるなど、不遇の人生だった。その弟・泉仲愛は、閑谷学校の建立・運営に兄の死後も関わっていたというから、彼らの絆は強かったのだろう。異質にして進取の思想性を持ったグループだ。

閑谷学校は、そうした思想に支えられた庶民・農民のための学校だ。これこそ、他の藩校と異なる特徴かもしれない(たとえば水戸・弘道館は、必要な出席日数などの条件が身分によって違っていたという。先取ではあったが封建的。先取にして平等志向だったのが、閑谷学校といってよいか)。

光政が閑谷学校と関われたのは、12年間のみ。だがその遺志を、家臣・津田永忠らが継いで、足かけ30年かけて、今に残る外観の校舎を完成したという。

7歳から20歳過ぎまで、30名から60名ほど。武家、医師、農家、商人の子供たち。遠方の子は学房に宿泊。


<閑谷学校の勉強生活>
午前7時から午後10時まで勉強。午後4時過ぎのたそがれ時に、2時間ほど休憩。4日学んで1日休み(掃除・洗濯・入浴など。風呂は5日に一度でよいということ)。筆や硯など文具は貸与。授業料は無料。

午前は共同授業で、午後は自習や教官について個人指導。複数の先生が常住。修学期間は1年が基本。メインは習字と素読。儒教の教科書『経書』を音読して丸暗記。そうすることで儒教思想が自分の言葉・考えとして出てくるようになるという発想らしい。

言葉を音で覚えて、みずからの思考の土台とすることは、学習の本質の一つだろうとは思う。語学も同じ。音だけで覚えられるのは、幼い子供。成長するにつれて、その音が状況において持つ意味(いわゆる文脈)や、感情をもセットにしないと覚えられなくなる。
 
察するに、思考をつかさどる脳の器官が発達・肥大してしまって、音に集中することが難しくなるからだ。だからある程度歳を重ねた子供なら、演劇や小説・映画や演説など、文脈とセットで言葉を覚えるほうが、効果的ということになる。

5日おきに五経の講義(習芸斎:しゅうげいさい)。近所の農民も参加。

それにしても江戸期の藩校は、どこにおいても儒教を拠りどころににしていた印象が強い。圧倒的な影響力。足利学校、弘道館、そして閑谷学校も、孔子を祀っている。孔子祭り(釈菜:せきさい)も共通行事。閑谷学校の聖廟(孔子像を存置(の前には、2本の大きな楷の木が伸びている。これは、中国山東省・曲阜の地にある孔林から種を持ち帰って植えたものだそうだ。


聖廟の前にそびえる楷の木

こんな場所で学校を開けるなら終の棲家決定だ



今も子供たちが講堂に正座して、論語の講読をやっているのだそうな。

中国の孔子廟に倣ったためか、石塀や備前焼の石瓦、正門の上の鯱など、学校の外観はいささか特殊。近くに黄葉亭という茶室があって、頼山陽(代表作は『日本外史』。在野の歴史研究家という呼び方が最も近いか)も訪ねたというが、今日は時間がない・・次の機会に取っておこう。

(しかしこの時代に頻繁に出てくる儒学者とは不思議な人たちだ。儒学、朱子学、歴史や漢詩や俳句を嗜んだというが、どうやって生活していたのだろう。頼山陽は旅の途中で姿をくらまし脱藩、幽閉されるなど、かなりアウトローだった気配がある。いずれ調べてみよう。
 

磨き抜かれた講堂 
ここに丸いイ草の座布を敷いて勉強に励んだという

 ◇

<閑谷学校のその後>
閑谷学校は、明治期に入って閉校。その後も規模を縮小して、閑谷精舎(儒者・山田方谷を迎えて五年弱続いた) → 閑谷黌(英学・漢学・数学を週24時間。作家・正宗白鳥も学んだとか)として続いたとある。
 
だが、大多数の子供たちは学制下の尋常学校に通っただろうから、実質的に終わった感が否めない。

儒学・漢学が、明治期以降の欧米化にそぐわなかったことも、決定的に作用した。明治に滅びたのは、侍だけでなく、儒学者たちでもあったのだ。

今も漢詩作りや歴史の解説など、学校の由来にちなんだ教育活動は続いている。だが学校という箱の中味に何を詰めるか、何を伝えるかは、箱の外に出て、世界で今起きていることを感じ取って、みずからの体験と知識と思考力をもって考え抜くことでしか、出てこない。そうしないと箱が生きてこないのだ。

中身は現代に即したリアルなものもあっていいのだろうと思う。そのことで箱の魅力が生き続けることが可能になる。

近世の教育施設は、箱は残ったが、中身は滅びた。どの場所にも共通すること。日本の近代化という荒波は、各地の自主教育の箱を襲って、その中身を根こそぎ流し去ってしまった。

残った箱(学校という場所)に、新たな中身を充填し続けられればよい。そのためにできることは、ある。箱を託された人たちの志次第だ。

文科省による過剰な規制と、成績だけで評価され、最終的には入った大学名をもって、教育の成果が測られてしまう風潮。この二つが、今の学校教育が機能不全に陥っている二大原因か。

前者(国による過剰規制)は、制度を変えないといけないし、後者(成績・学歴をもって価値を測る風潮)は、日本人の価値観(妄想)が入れ替わらないと、終わらない。
 
根の深い問題だ。もう百五十年もの間、変わっていないのだ。どんな衝撃が来たら、法制度と価値観という二つの障壁が崩れ落ちるのだろう。


旅の荷物はミニリュックと竹笠のみ 
ひたすら西へ




2024年8月22日



日本全国行脚2024  水戸・弘道館


早朝に足利を出た。誰もいない大通り、駅員一人と地元の男性がおしゃべりしているだけの閑散とした駅舎。こうした風景にも懐かしさと慰めを感じる。JRで水戸に向かった。

水戸駅を出てすぐ感じたことだが、駅周辺は巨大な商業ビルが埋め尽くしており、視界が悪く無粋に過ぎる。歩いて何の風情も感じない。古地図を見れば、一帯に並んでいたのは平屋で、すぐそばまで湖(千波湖)が迫っている。

水戸は、その名が示す通り、水に恵まれた都だった。那珂川と千波湖に挟まれ、城下町には大きめの水路がめぐっていた。当時はこの坂道から、さぞ展望の良い景色が見渡せただろうし、偕楽園越しに眺める夕焼け空は、さぞせつない色を放っていただろう。

風景に美を感じるというのは、個人の素養にかかっている。それなりの景観美を経験値として持っていなければ、無機質で巨大な箱物を建てても、それが醜悪ということに気づかない(図画や美術という科目は、美意識を育てる目的も本当はあるはずだが、機能していないのだろう)。政治・行政に携わる人の多くは、美意識を持ち合わせていない。日本の風景が歳月を経るにつれて殺伐としてゆく所以でもあるだろう。



強い日差しの中、弘道館に到着。19世紀半ばに水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた藩校だ。日本最大の敷地面積(10ヘクタール以上)に、正庁(学校御殿)、至善堂を中心として、文・武・医・天文を教える専門棟、さらに神社や孔子廟、森羅万象を象徴する八卦堂、馬場や調練場もある。今の総合大学に匹敵する規模。国家に準ずる観さえあるスケールの大きさだ。


そう、斉昭は、国家を見ていたのだろうと思う。彼にとって藩校は、国づくりに直結していたに違いない。

斉昭は、実用と思想と学問を包括的にとらえていた。神儒、忠孝、文武、治教、そして学問と事業の一致。まさに統合だ。国とは、世界とはどうあるべきかを考える視野の広さがなければ、これほどの規模の藩校を作ろうとは思わなかっただろう。

その発想の基盤となったのが、幼少期からの英才教育、特に歴史を通じて日本という国をとらえる水戸学か。神道、儒学、国学、尊王攘夷。日本という国家の保全。そのための全方位的な教育を実現しようと立ち上げたのが、弘道館といってよいか。

斉昭の構想を形にした側近の一人が、藤田東湖だが、あの足利学校の創建者ともいわれる小野篁を遠い先祖に持つというのは、興味深い因縁だ(小野篁が足利学校を建てたというのも、東湖の先祖だというのも、根拠の乏しい仮説だとはいうが)。

東湖の知力は父譲りだが、父・幽谷も地元の私塾で学んだそうだ(教育とは本当に重要なのだ。土壌を分解して植物を育てる、土の中のバクテリアみたいなものか)。

弘道館に卒業はなかったそうだ。若者も年寄りも、同じ場所で学ぶ。学問は生涯通じて行うものという理由らしい。たしかに、世界を知り、世を作るにはどうするかを考える、自分はどんな生き方を貫くかを言葉にする、こうした知的営為は、生涯続けるべきものだろう。人間は考えねば、問わねば、知らねば、ならぬ。

斉昭は、大船・軍艦の建造や大砲や銃の製造など、富国強兵の先駆け的なことをしている。寺の仏像を供出させたことも、廃仏毀釈から太平洋戦争までの政府の動きと似ている。

進取の気性は水戸藩の文化みたいなものだが、斉昭の思想がその後も継承されていった場合、日本はどうなっていただろう。外国を排斥し続けることが、はたして可能だったか。実現できたとして、日本に何が残ったか。

おそらく閉塞だ。封建的な身分制社会。決して不平をこぼさない従順な農民。天皇という権威のもとに国を維持するという名分以外に、国を発展させうる思想性はないように見える。大きく見れば、儒教思想という呪縛の中に、日本も閉ざされていたのかもしれない。

当時の国際情勢からすれば、開国そして富国強兵は、避けられない道ではあったろう。保守と改革の抗争は弘道館内でも起きて(明治元年・弘道館の戦い)、文・武・医の建物は破壊された。学制施行で藩校そのものが廃止。その後は公舎等に使われたらしいが、もはや亡骸(なきがら)だ。斉昭の構想は、三十年も経たぬうちに滅びた。致し方ない面はある。

水戸藩が二百年の大計として編纂した『大日本史』。その編纂の拠点となった彰考館は、維新の荒波を越えて生き延びたにもかかわらず、空襲で焼け落ち、保管していた史料の8割は焼失したのだとか。

あれほど情熱を込めて書き上げた大日本という物語をも、あの戦争は灰燼に帰(かえ)したのだ。光圀も斉昭も誰も想像しなかっただろう。ほんとに何を考えていたのだか。何も考えていなかったのだ。

理想や大義という名を借りて、人間は傲慢(妄想の一種)という快楽に突き進む。歯止めをかけるのが理知(合理的思考)というものだが、理を見るより隣人を見てしまう視野狭窄な日本人に、理知は育ちがたい。

つまりは、日本人の心性の最も根底に流れているのは、無思考という業なのかもしれない。何を志そうと、無思考が土台にあっては、必ず道を見誤る。さながら環境の変化に適応できずに滅びる種のように、だ。

日本に永劫続いているのは、無思考だ。沈滞するは必然。滅びの定めを背負うは、必定である。



弘道館・対試場  
武術の試験や対外試合が行われたそうな
 
かつて思想を形にした人物たちが全国にいた
日本人の思想は、どこに向かっているのだろう





2024年8月初旬




日本全国行脚2024 栃木・足利学校

あの戦争の後は、コロナ騒動――戦後復興、バブル崩壊後の停滞を経て、日本はさらなる沈滞のフェーズに入った気がしなくもない。

変わることさえ想像できなくなった国。これがこの国のデフォルト(初期設定)と化してゆくのだろうか。体も心も、つまりは社会年齢(平均寿命)も人々の心のありようも、老化の一途をたどっていると言えなくもない。このまま終わるつもりか?

この夏の暑さは、さすがに病的である気がする。かつては体を水に濡らして扇風機に当てれば、クーラーなしでも過ごせた記憶がある(学生時代)。

だが、さすがにこの夏は忍び難い。部屋の中でも息を潜めているほかない。ちなみに猫のサラはあの毛むくじゃらで、よく平気でいられるものだと思う(とはいえ若干やつれたように見えなくもないが)。

 

実際のサラ(爆睡中)



室内でグダりつづけているわけにもいくまい。ということで、小旅行を敢行することにした。いざ、栃木・足利学校へ。

足利学校は 日本最古の学校。創建の由来は主に三説あるが、その校風にてらせば、平安時代の小野篁(おののたかむら)が原型を作った可能性が高い。仏教と陰陽道が混ざり合った場所ではなかったか。

足利市の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)は、12世紀の創建で、大日如来が本尊。真言密教だ。やはり平安期に礎が築かれた可能性が濃厚だ。

室町中期に地元の有力者(関東管領の上杉憲実:うえすぎかねざね)の支援を受けて、その運営内容が記録に残るようになった。戦に役立つ兵学と易学、そして医学を主に学んだという。学生は入学時に僧籍を取得。卒業時に僧籍を返還して、それぞれの故郷に帰っていったとか。

 


十六世紀半ばに延べ三千人が学んだともいわれるが、年単位でいえば百五十名前後。それくらいの規模なら敷地内の衆寮や寺に止宿できただろう。中には沖縄から来た学生もいたとか。どんな経路で足利まで? その道のりだけでも胸ときめくアドベンチャーだ。

学費は無料だったとか。学校側が食事と宿舎を提供。時の権力者の庇護(平安貴族、鎌倉・室町期の武家、さらに徳川幕府)と寺に寄せられた布施によって支えられていたのだろう。なるほど、それで入学した者は僧籍を得る決まりになっていたのかも。

時間割はなく、朝から自学自習。修学年限は特になし。漢籍(中国の古い書物)を書き写して、各自のペースで学んだ。質問があれば、先生に聞く。在学中は規則を守り、学問に励む。学びたいことを学び終えれば卒業する。無理がない。

学生のモチベーションが明確だったから可能だったのか。考えてみれば時間割を作って、全員が同じ教科書で同じペースで勉強せねばというスタイルは、特殊なのかもしれない。

管理教育は、明治政府主導の近代教育から始まった。今も続いている。「画一」という無理にしがみついているから、教科書も授業内容も刷新されずに、つまらないものになる。教師も生徒も、いわば無理強い教育の犠牲者ではないか。


江戸時期には1万7000点もの漢籍・書物を蔵する文庫(図書館)的側面も持つに至った。足利学校を訪ねた人物のリストを見ると、幕末には吉田松陰や高杉晋作も訪ねてきている。江戸期に記された名の多くは、儒学者だ。

儒教は、当時の日本人にかなりの影響力を持っていた。礼節が日本社会の秩序と安定を保っていた。今やすっかり希薄化した部分だ。

生き方を学ぶ機会がないのなら、欲に任せて言いたいことを言い、やりたいことをやり、そんな自分がなんで悪いのかと開き直る人間が出てくるのは、当然ともいえる。教育が成績をもって価値を測るだけの表層的なものと化し、かつ子供たちがネットやSNSを通じて欲と悪意に容易に触れるようになった今、社会の殺伐と不安定度が増すことは、必然とはいえないか。

社会の劣化に対抗する力を持つ筆頭は、教育だ。教育が廃れれば、社会も荒廃化する。教育という器(制度)にどんな内容を盛り込むかで、社会は良くも悪くもなる。

当たり前と言えば当たり前の真実。日本の未来を育てようと思えば、どうしたって教育がその手段になるということだ。




足利学校の本堂では、アニメで小野篁(おののたかむら)が登場。一緒に論語を素読できるというもの。「子曰く」と読み上げる篁は、9等身の超絶イケメンだ。声もさわやか。足利出身の声優さんだとか。

歴代の校長(庠主:しょうしゅ)の墓が十七基ある。在任期間は短くて十五年。学生たちと起居をともにし、人生の最期も学校で迎えた。九州や中国地方から来た校長もいた。個性豊かな学生たちと、いろんな交流があったことだろう。最後の校長は、学校が終わる日はどんな面持ちだったのだろうか。

歴代庠主の墓 名前がわからない墓も 

墓も歴史も、その奥には生きていたリアルな人たちがいる 

想像力を働かせれば、歴史は無限に近い楽しみを与えてくれる




相田みつを氏が参禅していたという高福寺は、今も早朝の坐禅会を続けていた。当時とさほど変わっていないだろう質素な佇まい。力みがなく、自然な体(てい)で、人々に門戸を開いている。拝観料や土産物販売で寺を維持しようという発想とは、無縁な姿だ。

田舎を回ると(こうした表現が礼を失しないか気にかかるが)、寺も料理屋も、昔の佇まいを残していることに気づいて安堵する。勤勉と至誠(真心を尽くす心)を覚えている人々が生きている。

ただ足利も、映画館が潰れたり、空き店舗が目立つようになったりしている。いつまで今の景観や真心を保っていられるか。100年後に残っているか。


日本が縮小しつつあることは、多くの人が感じていることだ。私自身が歳を重ねて、ノスタルジーと、自分無き後の世界への憂いを覚えるようになったことも、こうしたことを思う一因としてあるだろう。

日本各地に流れる時間と、そこに息づく生活は、時代の波に呑まれて劇的に変わっていくか、つつましさを保ちながら静かに閉じゆくか。

できることなら、大切なものは変わらずに続いていくことが理想だろうが、そのために必要なものは、未来につなごうという意志と、未来につなぐ具体的な行動だ。こればかりは自覚してやらないと、簡単に滅びてしまう。




足利は、映画・ドラマのロケ地として重宝されているそうだ。ナンバMG5、乃木坂46『何度目の青空か』、ちはやふる3部作、今日から俺は! イチケイのカラス、アズミ・ハルコは行方不明、テセウスの船、湯を沸かすほどの熱い愛、今夜、ロマンス劇場で、銀魂2等々――

ちなみに、このうち押さえていないもの三つ。アンテナ感度高めの出家かもしれない(笑)。

足利めぐりの最後は、渡良瀬橋。あの森高千里(さん)の名曲『渡良瀬橋』の舞台。JRの駅メロになっていた。




渡良瀬橋は、実は今回が二度目。初めて訪ねたのは、学生だった頃だ。

JR足利駅近くの家をいきなり訪ねて、出てきたご婦人に自転車を借りた。自転車のお礼にアイスクリームを持って行った。下校途中の学生に交じって駅で列車を待っていたら、ご婦人がおにぎりを持ってきてくれた。

当時の記憶をたどって、その一帯を尋ねてみた。あの心優しいご婦人も、もうずいぶんお歳を重ねているだろう。近所には朽廃した家も目立つ。時間は流れてゆく。

いきなり家を訪ねて自転車を貸してもらえたのは、ご婦人の優しさもあるが、私も若かったからだろう。まだ二十代半ば。黒髪もふさふさで、肌はピチピチ(笑)。今の姿なら怪しまれるだけかもしれない(ほぼ確実にそうなるだろう)。

もう会えないか、会わないほうがいいか。旅の途中で出会った人たちは、優しい姿のまま胸に残っている。

ちなみに、今(中日新聞・東京新聞に)連載中の『ブッダを探して』に、その旅のことをほんの少し書いている。全国の花火大会を追いかけて旅したという程度の記述しかないが、その道中には数多くの愛おしむべき記憶がある。いつかもっと細やかに人生の旅を振り返る手記を著わすことができたらと思っている。

渡良瀬橋から夕焼けを眺めたかったが、夏の盛りで一日が長い。草雲美術館も次回に取っておこう。

『ブッダを探して』のイラスト 何者でもなかった頃

何者かになることを拒んでいた時代 今思えば幸せでもあった

駅のコンビニで、地元の婦人(九〇過ぎとおっしゃっていたか)と、しばらく雑談。趣味で作った革製のバッグを数十年使っているとか。刺繡も縫合もプロ並み。母に習ったそうだ。桐生の神官の一人娘で、神社の後を継ぐのが嫌で幼い頃に家出しようと駅まで行ったという話。人に歴史あり。もっと聞きたかった。
 
後で知識と婦人の話がつながったが、桐生(上州)は織物の町だ。養蚕・製紙・織物が盛んで、主な担い手は女性たちだった。「かかあ天下」という言葉が生まれた土地。よほど女性たちは元気だったのだろう。

あの老女の母は、そうした土地で身に着けた技を、娘だったあの老女に教えたのだろう。見せてくれたのは、趣味レベルの細工ではなかった。それだけ優れた技巧が、桐生の土地では自然に受け継がれていたということか。

学生時代のあの旅では、道中何人かの印象的な大人たちに出会った。隅田川の花火大会の後に乗り込んだ東上線の車内では、隣に座っていたおじさんに話を聞いた。

「ワシは人を殺したことがあるんやでえ」と自慢げに(とんでもない話ではあるが、そういう口ぶりだったのだ)言っていた。
 
「ワシの家に泊まるか?」とも。当時の私は(今もだが)、人の人生に興味があったから、行ってみようかと束の間考えなくはなかった。ついて行ったら、どうなっていただろうか。


 
暑さから脱出するために尋ねた土地だが、足利は愛おしい記憶を掘り起こしてくれたと同時に、大きなテーマを与えてくれた。

この夏は、いわゆる日本遺産、明治期までの教育施設を訪ねることにしよう。足利学校の次は、水戸・弘道館、そして岡山・閑谷学校、大分・咸宜園だ。そこで学んだことを、次に始める教育事業につなげることにしようか。


2024年8月初旬
 
 
 

※日本全国行脚2024の旅の記録を連載します



この命の使い方(日本全国行脚道中記)

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

今回の講義には、東京、千葉、愛知の医師や医学生等が見学。地元の看護師さん(卒業生)も。

みなさん、その道のプロであり、プロになろうという人たちで、素人は私だけなのだが(笑)、プロといえども、見るべき点がすべて見えていることはほとんどないので、

この講義のように、医師、看護師、患者などすべての当事者に共通する「見えていなければいけない点」を技法に沿ってあぶりだすというアプローチは、確実に役に立つ。

医療・看護倫理は、まだまだ発達途上であって、いつ確立できるかわからない段階だ。かなうことなら、専門家の先生に活かしてもらって、「これだけは外せない、苦しみを増やさない最善の選択を導くための手順」を確立させ、普及させてほしいと思う。

3日目はグループワークを中心に進めて成功した。講師としては納得の一日。見学してくださった方々も、得たものは多かった様子。


そのあと奈良に入って、建築士さんと現地で打ち合わせ。ほんとに無事家屋が完成するのか素人にはわからないのだが、できます、と自信をもって言ってくださる。

完成すれば、今回の傷も癒されるだろう。最大の傷は、未来を育てるという教育活動が遅れを取ったことだ。

とにかく一日も早く形を作り、次の世代に生き方・学び方を伝える努力を始めたい。

 
夜に新幹線で東京へ。翌朝は早くに茨城に向かう。こちらは地元JA向けの講演会。

この一週間、徹夜続きで、看護学校での講義の合間に徹夜して新聞連載のイラストを仕上げるなど、かなりシュールな日常だった。器用な坊さんではある(笑)。いろんな分野でオリジナリティを発揮できている。

一度自分を捨てたことが、今につながっている。やりたいかやりたくないかという軛(くびき)を外して、求めに応じて、できることを謹んで確実にやる、という立場に立ってから、すべてが始まった。

茨城の講演会は、終活セミナー。歳を取るほど幸せになれる生き方について。農業を支える地元の女性たちがメインの対象。

日本の農業は実はピンチ。日本の社会そのものが、かなりの危機に直面している。それでも日本全国を旅すると、どの土地にもそれなりに人がいて、経済はまだ回っている。

巷間叫ばれている人口激減や継承者不足、食糧自給の危機などは、本当は夢なのではないか、まだこの社会は無事に回っていくのではないかと思いたくなるのだが、

だが、肉体の老いが刻々と目立たない速度で確実に進むように、社会の劣化・危殆化も、じわりじわりと進んでいるのだろう、と現実に目を覚ます。
 

まだ見えない危機を先取りしてシステムを変えていくことが、本来の社会的イノベーション・リノベーションであって、それが常態と化すことが理想なのだろうが、現実は程遠い。日本社会の時間は止まったままだ。いや、世界全体が、人類そのものが、か。

人間の心は、第一に己の妄想を見て、第二に執着することを選ぶ。見えない危機も未来も、他にありうる可能性も想像できないくらいに、小さな知力しか持ち合わせていないのだ。


日本社会の分断・萎縮・劣化・衰退は、自業自得と言えなくはない。だが、せめてその中で、新たな可能性を育む側に立たねばならぬという思いは、つねにある。


怒涛の一週間がやっと終わった。こんな日々をずっと続けたら、さすがに過労死するであろうと実感できるレベルの一週間だった。

実際に過労死する人たちも、この世の中には存在する。ひとり自死する人も、身投げする人も。忘れたことはない。

目の前で人が滅びつつあるのに、人間は現実を見ずして、まだおのれの欲と妄想にしがみつき、快楽と執着の中に留まっている。


世界は残酷だ。現実の苦しみを見ようとしない、その無知こそが、残酷な世界を作る最大の理由なのだ。

現実をよく見て、その中で己(おのれ)の命の使い方を見きわめる。

現実を見て感じる痛みを、熱量に変えて、この時代・この社会において、自分にできることをなす。

その道をどこまでも突き進むことが答えなのだと、今は知っている。ゆけ。



2024年7月20日
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医療倫理としてのブディズム2

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

看護学校3年生とは、2年ぶりの再会だ。

2年前に比べると、やはり大人になった印象はある。これは毎年感じること。

本当の知識は、覚えられる、思い出せる、使える ものでなければならない(学習3原則)。最初から心がけて知識を学ぶことだ。

でないと、すぐ忘れる、出てこない、試験・現場で使えないことになる。下手な勉強とは、そういうものだ。

2年前にやった事例や話題を振ってみたが、やはり忘れていた学生も少なくなかった(^^;)。覚えている人も、2年前のレポートを持参してきた人も。こうした人たちは、2年前の学びと今がつながっている。ありがたい話(笑)。


これも毎年のことだが、「業」の話をすると、とたんに元気を失う学生もいる。高い確率で、親との関係が「心の荷物」(負荷)になっている人たちだ。

親から「自立」することは容易ではない。

①経済・生活において自立すること(つまり働けるようになること)、

②精神的に自立すること――
「あなた(親)の思い通りにはなりません、まずは自分の人生をしっかり生きます」といえること、

業の深い親に向けては、①親がどんな業の持ち主かを正しく理解し、②距離を置き(反応せずにすむだけの距離を確保し)、③自分自身の業(心のクセ)を自覚して、④少しずつ別の生き方・考え方に置き換えていく必要がある。

人はみな、自分のために生きることが基本だ。親に振り回されたり、荷物を背負わされ続けたりする必要はない。

自分の人生は自分で選ぶこと。

「今の自分に納得できている」ことが、正しく生きているかを測る基準になる。


3年生は、3日目もしっかりワークをしてくれた。

講義で取り上げる知識・情報は、リソースによって変わってくる。教科書、専門サイト、医師・専門家・看護師によって、さまざまに変わる。

だから決して鵜呑みにせず、しかし「技法」だけは守って、技法に沿って、必要な時はもう一度自分で調べて、自分で考えて、「覚えられる、思い出せる、使える」ように工夫して、学び、またレポートを作成してほしい。

3年生はよく頑張ってくれた。さすがに心の体力がついている。講師としても納得で終わった。感謝とリスペクト。


その一方で、これも数年に一度のことだが、「喝」を入れざるを得ないこともある。

多くは、やはり1年生のクラス。まだ高校生気分が抜けていない様子が見えることが、たまにある。

いろんな理由・事情があるのだろうという同情もあるが、自分の判断で、勝手に手を抜いたり、講義中に寝てみせたりする。

努力しても寝てしまう・・というなら同情するだけで終われるのだが、「これくらいやっても大丈夫」と判断している様子が伝わってくることがある。

疲れている、お昼を食べて消化に血液が取られている(頭に回らないw)、知識の解説が続いて苦痛、先生の説明の仕方が及んでいない・・いろんな可能性はある。

こうした時、おそらく多くの先生方は「大目に見る」ことを選んでいる。見ないフリをしてやり過ごす。雰囲気を壊したくないという思いもあるかもしれない。

だがこれは、人間と人間のサシの(直接の)関係性だ。自分のあり方と、相手のあり方の両方が問われる。

一方が真剣に話している場面で、あからさまに無視したり寝て見せたりしたときに、相手が何を感じるか。そのあたりの想像力は、持っていないと始まらない。

今回印象的だったのは、知識の解説で寝たのではなく(それならば心情は理解できるし、講師の側で工夫せねばと思うことも可能なのだが)、

体の感覚を意識しましょうという、マインドフルネス、瞑想と呼ばれる体験の時間を始めた時に、机に突っ伏して寝始めた学生が何人か出たことだ。

特に難しいことではない。だが体験することを、自分一人の判断で拒絶した(全員とはいわないが、そうした可能性を感じた生徒も何人かいた)。

さすがに、言わざるを得ないと判断した(何年振り?)。


そもそもこの場所に来たのは、誰の意志か。誰かに引きずられてやってきたわけではあるまい。

自分で看護師になろうと志し、自分の意志で学校まで歩いてきた。すべて自分の選択だ。

中高生と違って、「やらされている」ことはゼロである。自分の物事、自分の人生、自分の未来。

ところが、そうした自覚もまだ持てない、自覚を示せない人がいる。

そうした人を周りも許容してしまう。慣れてしまって「問題に気づかない、問題が見えなくなっている自分」そのものが問題だということに気づかない。


ちなみに、講義中にスマホやタブレットで芸能人やら漫画やらを覗き見ている学生も、たまにいる(※今年の3年生にもわずかだがいた。大目に見たけれどw)。

あえて何も言わないが、見えてはいる。

「ふとよそ見をしてしまう」(雑念が湧く)ことは、心の性質だが、その心に流されてしまう自分の弱さ、だらしなさを受け入れるかどうかは、自分のあり方の問題だ。

ほんの少し努力すれば強くなれるのに、簡単にラクに流される

その結果、弱くなる。弱くなるだけ、しんどいと感じる物事が増える。

自分を甘やかすことは、単純に、自分にとってマイナスなのだ。


幼い子供なら、成長の途上だからと大目に見ることはありうるが、この場所は、プロの看護師になろうという人たちが集まっている場所だ。当然、求められる最低限の態度というものがある。

この講義で毎年最初にお伝えするのは、「患者目線で見る」ということ。患者として、この人はちゃんと向き合っているか、最低限の礼儀や常識はあるかを見る。

苦しみを抱え、ときに命がかかっている。そんな人が病院で出会うのが、看護師だ。

その看護師が、別のことを妄想していたり、スマホを呆けて眺めていたり、目の前で寝たりして見せたら、当然、怒るか、絶望するか、その看護師を拒絶するか、

絶対に看てほしくない と思うだろう。


今回は、自分のため・自分の物事であるはずの場所において、至近距離にいる一人の人間が何を見て何を感じるかを想像もせずに、「寝ていい」という安易な選択をしたように見えた。

だから「喝」を入れた。

いろんな理由・事情・思いもあるだろうし、先生はみな工夫を重ね続ける義務を持っている。この看護学校に手を抜く先生は、おそらくいない。先生方はみんな真剣だ。私だって毎回連日ほぼ徹夜だ(今回も、3年生2日目の講義を踏まえて3日目の追加資料を作るために徹夜した笑)。

つねに何が起きているのかを見つめて、理由を突き止め、改善すべき点を改善する。それが、先生側の義務であり、約束ではある。


だがさすがに、内容次第で寝たり起きたり、あるいは先生の様子を見て態度を使い分けたりというのは、

自分の物事・自分の仕事として引き受けようというプロの予備軍が許容すべきことではない。アウト。

今回はさすがに見過ごすべきではないと判断して、ド厳しい(かもしれない)喝を入れさせてもらった。


来年以降も、𠮟るべき時と判断した時は叱らせてもらう。

人間として伝わってきたもの、感じたことについては、正直に、素直に、伝えさせてもらう。

求めるのは、自分(講師)が相手(学生)を理解することであり、自分(講師)が相手(学生)に理解してもらうことだ。

理解しあえることは、人間関係の目標だ。学生たちが将来看護師として患者と向き合うときのゴールにもなる。患者を理解し、理解してもらうことが、信頼関係を作る。

もっとも、理解しあえる関係は、遠い夢のようなものでもあり、どんな場面でも、手探り状態で、永久に手応えが持てない理想でもある。

だが、だからこそ努力すべきは、自分が言葉を尽くして精一杯伝えることだ。


先生も然り。目に余った時は、怒って見せていい。ただし、生徒たちが言ってくる(言ってきてくれる)ことを、全身で受け止める覚悟が必要だ。ときに反省を迫られる指摘・批判であっても、誠実に受け止めて、「教師として自分にできること」につなげていく覚悟だ。

それだけの覚悟があるなら、失礼な態度や、本人にとってマイナスだと見えた時には、「人間として」本気で怒って見せていい。教師たるもの、真剣たれということだ。


特に職業専門学校というのは、すべての学校の中で、教員も学生も、最も真剣でなければならない場所だ(無論、楽しいところは楽しめばいいのだが)。

看護専門学校は、自分の意志で集う場所。目標は、学べるだけ学んで、知識と手技と体験を重ねて、国家試験に合格して、プロの看護師になること。

すべては自分のためであり、自分の物事。

ならば、今の自分のあり方が正しいか、自分で自分に納得できるかも、自分で判断できなければならない。

人のためではなく、人のせいにするのもアウト。すべて「自分が自分に納得できるか」だ。


この先も、看護師になろうという意欲をもって来たはずの人たちには、一人の人間として見て、是は是、否は否として向き合っていく。

それが、将来がかかっている学生たちへの、最大限の礼儀だと思っている。


坊さんの喝は(寺の修行とはそういうものだが)、逃げられない厳しさがある。

「汝、わかるか?」(あなたは理解できる人ですか?)

ということを突きつける(問う)ことだから。


わかってもらえればよし(その時は感謝と尊敬を)。

わからねば、わかるまで伝える努力をする。

わかろうという意欲がないとわかったときは、静かに身を引く(関わりを終える)。

人間関係とはシンプルなものだ。


2年後にどう変わっているか。楽しみに待つことも、毎年の恒例だ。


人々の苦しみを癒せる看護師として、この先の世界を支えてほしい。

そんな夢を見ながら、全力で向き合おうと思っている。




2024年7月19日
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医療倫理としてのブディズム


7月17日から3日連続で看護専門学校で講義。大阪のとある学校。

初日は、1年生向けの月イチ講義の最終日と3年生向けの初日。

1年生は平均年齢20歳未満という若いクラス。人は年を重ねるにつれて、年齢差・世代差が開いていく。そのことを気にする人たちもいる。

だが、伝えねばならないことに、年齢も世代も関係がない。

伝える価値があることは、①時代を越えて普遍的な内容と、②日々新しくなる知識や情報・技術をいかに見るかという「視点」である。

その部分を伝えることが、先生・講師の役割だ。その役割に、年齢は関係がない。伝えるべきものを選別する眼と、伝えようとする情熱と、どうすれば伝わるのかという工夫だ。

工夫はつねに新しくなる。その工夫を重ねることに情熱を持てるならば、先生役としては合格だ。他方、情熱が失せれば、その時点が引退すべき時だ。

前日夜は、大阪の宿に着いてレポートを採点する(またほぼ徹夜だ)。この講座の目的は、「技法に沿って目の前の患者に向き合ってもらう」こと。正しく理解し、方法を網羅し、明確な基準・根拠をもって選択してもらう。

すべてが漏れなく見えている(理解できている)ことが、看護、いやプロフェッショナルな仕事のすべてにおいて必要。

だから、技法を無視して、自分の考えだけを述べている答案は、失格とする。「私はこう思う」で終わるなら、勉強は要らないし、成長もしない。素人どまりだ。

つい「私はこう思う」で片づけがちな脳を、「技法に沿って」、つまりは、その仕事において絶対に欠かせない、「私」を超えて、「私」の前に置くべきいくつかのチェックリストに沿って考えを組み立てる。

それができて初めて「倫理的な」看護であり医療たりうるのだ。


仏教を専門とする私にこうした講義ができるのは、「技法」「倫理」「思考の道筋」は、普遍的なロジックであって、医学・看護の専門知識以前の常識であり、誰もが共有すべき知性そのものだからだ。

医師であれ、看護師であれ、患者であれ、立場の違いは関係ない。

立場を超えて共有せねばならない思考の道筋がある。それが「倫理」と呼ばれてきたものだが、その内容が過去あまりに漠然としていたため、

この講座では、徹底的にその中身を分析し、「これが倫理の本質だ」ということを言語化して伝えている。


医療倫理は、答えが出せない問いだという声もあるが、とんでもない勘違いであり、怠慢だ。目の前の人間の全人生がかかっているのに、答えを出せないなんてあってはいけない。

出せるように頭を鍛える。実際に出すための技法(論理)は、存在する。

その技法を伝えてきたのが、この講義だ。

すでに9年目か。医師、看護師、医学生など見学に来る人たちも毎年いる。ぜひ見学に来てほしい。

この講義では、徹底して「患者」の側に立って、最低限見えてほしい、考えてほしい問題点を問う。あえて突きつける。

プロとして明快に答えられないなら、そこに盲点がある。倫理の欠落だ。それが顕在化した時に、医療過誤や患者の悲しみや取り返しのつかない後悔が起きてしまうのだ。

日本の医療政策、ワクチンと言いつつ実はワクチンではない(遺伝子組み換え・改変剤)別物、その安全性と有効性、さらにはマイナス(副反応・副作用・後遺症・死に至るリスク)、一人一人において当然選択は違ってくるという医療の本質。

どれだけ事実を調べたか、データを把握しているか、現実に生じている苦しみを見て、何が原因か、防ぐためにどう理解すればいいか。

試しにいくつか問うてみるが、まともに答えられる医師や看護師は、実はほとんどいない。「そういわれているから、たぶんそうなのだろう」程度の浅い理解で簡単に選択してしまっている。

プロフェッショナルとは、素人に見えない部分まで、漏れなく見える者のことだ。

そして自分の思い込みや、思惑や、利権や打算計算や面子やプライドではなく、苦しむ人の苦しみをやわらげ、病んだ人を健康な日常へと戻し、できれば健康なまま長生きしてもらって、そのぶん、多くの幸せな体験をしてもらう。

そうした願いをもって、最も苦しみを増やさないですむ合理的な選択を促す。励ます。寄り添う。

それができる者をプロフェッショナルというのだ。


いわば当たり前の職業倫理だが、その倫理が急激に「別の何か」にすり替えられている印象も、なくはない。

プロであるべき医師や専門家たちが、合理的な選択のための思考の手順・基準を示すのではなく、

簡単に結論そのものを勝手に出してしまう。思考することなく、最初から選択肢を一つに決めつける。患者としては一番腹立たしい態度だ。

その結果、現実に苦しみが生じているのに、その苦しみを見ようとしないのだ。結論一択を押し通す。

こうした現実があるから、一般の人・犠牲になった人たちが苦しみの声を挙げているのだ。


今の時代ほど、医療への不信が高まった時はない。

その責任は、特に苦しみを背負った人たちを納得させられない者たち。いわば倫理が欠如したプロフェッショナルにある。


看護師は、医療の最前線に立つ人たちだが、看護師もまた見えていない人が多すぎる印象はある。みんな優秀で真面目。だが業務に追われて、「苦しみを増やさない選択」を導き出す時間がない。そもそも選択するための論理的な思考の手順を持っていない。

このままでは、患者の苦しみを救えない。それどころか、疲弊し辞めてしまったり、医療政策・病院・医師の側の思惑に振り回され、ときにいいように利用される「都合のいい医療従事者」になってしまう。

患者も、看護師も、もちろん医師も、現実を正しく見るための技法が必要だ。かつては「倫理」と呼ばれてきたもの。この学校では「技法」と呼んでいる。



(つづく)

2024年7月17日
 

宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
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十代を生きている君へ

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  


ときおり十代を生きている人の母親・父親が訪ねてくることがあります。

学校に行かなくなった、

進学はしたい、

でも勉強は進んでいない、

という相談が多い印象があります。


進学はしたいという思いに至っていなければ、不登校の段階。

この段階で、本人に伝えられることは、ほとんどない。

今の自分を善しとするか。一度しかない人生を、この先どう作っていくのか。未来をどう生きるのか――

本人が考え始めて初めて、次の選択肢を、親や周りの人たちが一緒に考えることが可能になる。


この場所が相談に応じることができるのは、進学したいけれど勉強は進んでいないという状況にある十代に向けて。


もし君に、

進学したいという気持ちが少しでもあるなら、

心機一転して生活を立て直す

ことを勧めます。


心は弱いものだから、学校に行かない人は、崩れてしまっていることが多いもの。

ゲーム、スマホ、ネット、テレビ・・今は、流されるための道具はいくらでもあるから。


しかも、心は強くない。長々と寝て、起きて、ご飯食って、遊んでいるうちに、活動時間は終了。

僕自身も体験がなくはない。なんとなくダラダラと過ごしてしまう。

そのくせ、ネガティブな思いは弱くならない。過去を引きずるとか、親を責めるとか、要は、自分以外のことに理由を見つけて、腹を立てたり、サボる理由にしてしまったり。


結局、自分に甘い  ということなのだけど。


もし進学したいという願いがあるなら、どこかで弱い自分に区切りをつける必要がある。怠惰な自分に最大限の厳しさを向けることだ。


まずは、将来への計画を立てる。

進学したい大学や進路があるなら、はっきり見定めて、何が必要なのか、試験科目や手続きを調べる。

そこから逆算して、自分が使う参考書などをリストアップする。

一日の時間割を組み立てる。

家にいるとダラけるから、図書館、学習室、公園、喫茶店、電車の中など、勉強する場所を複数リストアップする。

そして実行に移す。

記録を取る。何時から何時まで、何をやったか。

何を学んだか。前に進んだか。自分は成長しているか。


こうしたことは、ぜんぶ自分の力でできる。工夫次第。意志の力次第。


本腰入れれば、怠惰な自分から、毎日を有意義に使うことに充実を感じる創造的な自分になれる。

ダラダラ過ごしていたら、こうした充実は味わえない。

どこかで怠惰な自分にケリをつけて、新しい自分を生き直す必要がある。


こういうのは、タイミング、気合次第。エイヤと起き上がれるかどうか。


なにしろ人生は一度きり。過ぎた時間は戻ってこない。

あとで後悔しても取り返しはつかない。

しかし逆に、気合を入れて、作戦を立てて、進学や勉強を目標にすえれば、学校に行かなくても、充実した毎日を過ごすことはできる。

過去は関係がない。親も関係がない。

純粋に、自分のためにやる。後悔しないために。後で不貞腐れないために。

本気で生きる人生のほうが、はるかに面白い。

しかももし進学できたら、やっぱり未来は変わる。視界が開けることは確か。


だから、進学したいという気持ちがあるなら、どれだけできるか、頑張ってみたら?と思う。

親の相談に乗ってもしようがない。本人の問題だから。

塾や学校の先生のように、勉強することが大事だとは言わない。大人にとっては、すでに乗り越えたことだから。


あくまで本人の人生の問題。


勉強したほうがいいなんて阿呆なことは言わないけれど、

でも本人に少しでも勉強してみたいと思う気持ちがあるなら、

どこまでできるか、体験してみればいいとは思う。

応援することはできる。

僕も似たような経験をしているし、勉強の仕方はしっかり考え抜いて、それなりの方法を知っているように思うから。


何より、前を向いて頑張ることを、応援したい。

勉強を応援するというより、人生を切り開くための努力そのものを応援したいと思っている。

だからもし、進学したい・勉強したいと思う十代の人がいたら、できれば親ではなく、自分で連絡してきてほしい。言葉を尽くして今の自分を語ってくれたなら、応援できるかもしれないから。

全国行脚中なら、近くまで足を運ぶことも可能だ。


頑張ることは楽しいこと。

どこまで頑張れるか、挑戦してみてほしい。


2024年日本全国行脚 開催中

本気になりたい十代の人のもとを訪問します

 

2024年7月


もうすぐ春

 4月第1週から全国で桜の開花が始まります

青春18きっぷは4月10日まで

少し遠くに出かけてみてはいかがでしょうか

 

滅びゆく世界で

旅の途上で感じたこと


10月某日
東京から西へ旅に出た。野山のどこを見ても、人の手が加わっている。古(いにしえ)の時代から、数えきれない人たちが、日々、野を耕し田畑に変えて、通行の便宜を図って道を拓いてきた。そうしてできあがった、この美しい風景がある。

だがここ数年、旅しながら思うのは、この風景がいつまで続くであろうという憂鬱めいた思いだ。人は減り、勤勉は美徳とされなくなった。今や農作業からも逃げ出す人たちが増えてきた。しんどいことを嫌い、コスパ、タイパと、ラクすることを正当化する風潮さえ出てきた。

列車の中で、ほとんどの人はスマホを見ていた。ある駅でドアが開いた。小学生の子が、スマホゲームに気を取られて、降りようとしない。子供の後ろに、両親と祖母らしき女性が立っている。急がせるでもなく「着いたよ」というだけ。子供は億劫そうに顔を上げてホームに降りる。

小さな光景だが、意味するところは深刻だ。何しろ外にいながら動けないのだ。

全国を回っていると、こうした光景をよく目にするようになった。あくまで個人的体験にすぎないが、日常レベルで人の心が大きく変容しつつあることを切に感じなくもない。


翌日、講演会場がある駅から一つ向こうにある無人駅で降りた。

駅には、新型コロナ克服3カ条のポスターが。「人と人 間が愛だ」というダジャレ標語のもと、テレワークの勧めや、動物を人の間に置いたイラストで、2メートル距離取ろうとか、おばあちゃんとは直接会わずに電話でつながろうとか。

この不毛、いつまで続けるつもりなのか。

こうやって人を引き離し続けて三年間。結婚数は50万組台に落ち込み、出生数は80万人を切った。

コロナ騒ぎが始まった2020年に、50万人の人口減少を記録。小さな県が丸ごと吹っ飛んだことになる。一年で止まらない。以後連続だ。逆に死者数は一年あたり140万人を突破した。統計上の予測を越える死者が、この三年、出続けている。自然死では片づかない超過死亡者の数だ。

かつては一年に270万人近く生まれていた子供の数が、80万人を切った。ということは、その数だけの可能性が、社会から消えたことになる。一年あたり二百万人分の人生が消えた。十年で二千万人に及ぶ可能性の喪失だ。

あの戦争では、三百万人の日本人が死んだ。だが、それをはるかに超える死が起きている。現実に起こる死と、生まれたはずの命が生まれないまま終わるという意味での潜在死が、凄まじい勢いで増えている。

死んでいるのは、戦争や天災ゆえではない。硬直した社会制度と人間の心ゆえだ。社会とは変わるもの、変えるものだという前提が忘れ去られ、勤勉を美徳とせず、未来に夢を描かず、保身のみで満足して、刹那の享楽に身を委ねながら、そんなおのれの姿を顧みなくなった人々の心が奏でる、滅びへの行進曲だ。

これほどに滅びの音色が痛ましいほどに軋み鳴っているのに、人間はまだ気づかない。

“コロナ克服”という勝てるはずもなく、勝つ必要もない幻想に、こうして今なおしがみついている人間がいる。

見るべきものを見ようとしない臆病と、見ることができない無知が、自滅への行進に拍車をかけている。


最近ずっと問うている――この命は何をすればいい?


2023年10月某日

旅の終わりに想うこと


今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。

気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。

だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。

今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。

それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。

命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。

多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。

変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。

結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。

子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。

難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。

難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。

特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。

それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。

本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。

重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。

親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。

親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。

人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。

体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。

育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。

 

たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。

 

こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。

人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。

結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。

生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。

他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。

さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。

「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。

ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。

自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。

自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。

自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。

それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。


世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。

世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。

正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。

未来につなげようという意識を持つ。

できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。


それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。

人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。

生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。

 

まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。


日本全国行脚2023完遂

草薙龍瞬

世界はまだ輝いているぞ

 

2023・9・5



寺子屋・国語キャンプ始めます

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日本全国行脚2023
福岡・久留米
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7月末
朝JR八代駅まで行ったが、豪雨のため電車が動いていない、新八代から新幹線に乗ってくれという。新幹線代はJR持ち(なんとありがたい。JRもたいへんだ)。

新八代から熊本へ。駅近くの食堂で昼食。さらに久留米へ。

明治期の洋画家・坂本繁二郎の生家を訪問。短冊に願いを書いたら入館無料というので(200円くらい貧乏性の私でもむしろ進んで納めたくなるが)、久留米の地がこれからも栄えますようにというようなことを書いたら、ボランティアで管理人をしているという高齢のご婦人が「ありがたいことを言ってくださって」と喜んでくれた。

婦人もまた「日本はなんでこうなってしまったのでしょう」という。いつ頃が一番いい時代でしたかと聞くと、「やっぱり幼少期かしら」という。戦後間もない頃? 日本人が自分の国をここまで信じられなくなった時代というのは、明治期以降はじめてかもしれない。

茅葺屋根の武家屋敷。樋を90度まがる雨戸とかスライド窓など、昔の人の工夫が見える。

久留米の人たちは、近代化にあわせて武家屋敷を軒並み壊してしまったそうだ。繁二郎の生家くらいしか残っていない。残っていたら今ごろ地域振興の役に立っていたかもしれないのにと婦人は言う。


繁二郎の生家は貸し出し可。ここで<寺子屋・国語キャンプ>を開くのもよいかもしれない。

ひと夏の寺子屋体験♪
夏休み(7月下旬から8月末)期間に、寺子屋・国語キャンプを開催。
読んで楽しい、しかも国語力が身に着く良質の文章をつかって、国語の授業。
読み方、書き方、考え方、そして生き方が身に着く立体的な授業。

先生は、僧侶兼作家の草薙龍瞬。過去に学んだすべての学び方・生き方を惜しみなく伝えます。

対象は、小学生5年から高校生あたりまで。国語力を身につけたい/言葉に触れる楽しさを体験したい/夏休みにちょっと変わった体験をしたい十代のみんなとご両親(ただし、中学生以上は親の同伴ナシ。自立への準備として(笑))。

授業の後は、中高生の相談に応じます。


場所と世話役になってくれる地元の人が一人見つかれば、すぐ実現できる。
未来を育てなければ。


<告知>

さっそく2024年の夏の全国行脚から実施します。寺子屋(国語キャンプ)を開いてほしいというお父さん・お母さん、または中学生・高校生の人がいたら、興道の里までご連絡ください^^。場所さえ見つかれば、全国どこでもOKです。


洋画家・坂本繁二郎の生家


2023年7月28日