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日本全国行脚2025 博多から下関へ


船旅2日目は、船上でゆっくり過ごす。

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テレビでは刑事ドラマの再放送・・岡江久美子さんが主演。

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どこで見ても美しい夕日


門司港に朝5時半に到着。ゆっくりと船着場に入っていく船の看板に上がると、ほの明るむ東雲の空が見えた。

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船旅は悪くない。時間の余白が多い。気が赴くままに仕事したり、デッキに上がって海原を眺めたり。恋愛中のカップルにもお勧めだし、失恋した後の傷心旅行にも最適・・というまったく縁のない妄想を勝手にしちゃったりした。

今回のフェリーの弱点は、送迎バスがないこと。相乗りタクシーで門司駅まで。予約券一人440円。でも同乗客は私も含めて3人しかおらず、メーターは駅についた頃には3000円近くに(けっこう距離があった)。

運転手さん、朝5時すぎにユニフォーム着て、タクシーで来て(もう一台には一人だけ乗っていった)、正規運賃を下回る額。なんだか申しわけない。このせつなさも、旅につきもの。


JR門司駅から博多まで。地下鉄で天神まで行って、じょいふるで朝食(船の中で一風呂浴びればよかった)。2階クーラーが故障中とかで一階だけ。徹夜明けらしき若い男女が上機嫌で歌を歌い始めて、店員の老婦人に叱られている。いや、元気だ、頼もしい(笑)。

昼過ぎまでお世話になって、歩いて会場施設へ。

はて何人来てくれるか、でも一人でも来る人がいるなら続けなければという思いで、東京ではやってきた。東京から博多まで足を運んで参加者数名というのはいささか残念と思っていたが、予想以上に多くの人が来てくれた。普通の規模の勉強会になった。


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毎回話題が変わるのも面白いところ


終了後は、希望者一人ずつ面談。オーディブルを聞き始めたばかりという女性も、今日は方に向かう途中でイベント検索したらたまたま出て来て、予定変更してやってきたという女性も。今年もやってよかった、と思う。

終わって、再び一人に戻る。とたんに街の景色が“凡庸”になる不思議。物欲がないので、豪華なビルも賑やかしい店の装いにも、ぜんぜん関心が湧かないのだ。ひとまず博多駅に戻って、JRで西の方に行けるところまで行く。

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西へと急ぐ


夜9時半過ぎに下関に到着。下松(くだまつ)行きの接続列車があった。昔バイトで教えていた美術学校の学生が下松出身だったと、この駅に来るたびに思い出す。結局地元の下松に戻ったのだが、もう三十年近く経っている。どんな大人になっているのだろう。探しに行きたくなる。

前回の旅でもいただいた定食屋がギリギリ開いていたので、鯨汁定食をいただく。最後の客だが、ちゃんと調理して熱々にしてくれた。

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すきっ腹には熱い鯨汁が沁みます


この一帯も、かつては不夜城と言われた港町だったそうだが、人も減って、すっかり寂しくなってしまったそうだ。店の周りには、色を失って久しい商業施設が、夜の帳の中に音もなく沈んでいる。鮮やかな色が褪せて行って、陰の色が増えていく。日本中どこに行っても同じ。今のうちに目に焼きつけておきたい。

駅近くの宿に泊まる。野宿する予定だったが、5千円分の贅沢と堕落を選んでしまった。潮の匂いを嗅ぎながら夜を過ごせたであろうのに。出家たる私も弱くなってしまったものだ。


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夜の下関 前回来た時はバス停で腹痛に苦しむ20代の女性と遭遇して、救急車を呼んだのだった あの人もどこかで暮らしているのだろうか


2025年8月上旬

未来の世界 日本全国行脚2025

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。


今回の目的地は博多。東京からは新幹線が早いが、交通費がかさむ。飛行機は性に合わない。改悪された18切符だと、3日または5日の間に博多に着かねばならない。しかも移動中の車内では何もできない。バッテリーが切れたらPCもスマホも使えないし、本を読むのは目が疲れるし、運ぶのは重い。途中の宿泊に費用もかかる。

こうした事情を考慮して最後に選んだのは、フェリーの旅。東京有明から北九州・門司港へ。2泊3日の旅。船内なら電源の心配は不要。原稿を書くか、本を読むか。値段も陸路より安く浮く。

東京港フェリーターミナル行きのバスに乗る。八重洲、銀座、晴海を通って、有明ゾーンへ。途中、タワーマンションの群れ(広大な敷地はまだ造成中)やレインボーブリッジや東京ビックサイトや、その他何が入っているのかナゾの近未来的な建造物の数々を通り抜ける。都市工学の粋をきわめて設計したであろう道路とモノレールと地下鉄と高層ビルが華麗に交錯する街並み。

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これでも開発の初期段階にすぎないらしい


メタル色に輝くビルの一階がガラス張りのジムになっていて、マシンを使ってジョギングしているお金持ち(じゃないかな、たぶん)の姿が見える。うねるような湾曲形状の巨大なビルも。もうSFの世界だ。スターウォーズに出てくる惑星コルサントの実写版。
バスの窓から未来の世界を眺めながら考えるのは、「あの生垣の間なら野宿できそうだな」というようなこと(笑)。通勤する人たちを見上げるホームレスの目だ。

いやこんな世界もあるんだ~(すごい)という新鮮な感動。おのぼりさんと出家というダブルの目線で見上げる世界。フェリーに乗る前に元を取った気がして大満足(笑)。


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レインボーブリッジが見える 未来都市



いざ、乗船。一人で乗り込む人も、小さな子供連れの家族もいる。ペットと過ごせる個室もあるそうだ。

私が借りたのは、カプセルホテル的な共同スペース。小さなブース(寝床)があって、電源もあって。ラウンジには机も自販機もあるから、時間を過ごすのに不自由はない。浴場やシャワールームもあるし、トイレはウォシュレット付きの最新設備。かなり贅沢な造り。時代は進んだものだ。でも、ほんとの豪華客船は、この船の比ではないらしい。これまた別の世界。

舟はレインボーブリッジの下を潜って、海原を進む。有明、晴海、築地の明かりを一望できる。宝石を並べたかのような輝きぶり。


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さあ出航!

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東京の夜景を楽しめる絶好の出航時刻(午後7時)

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東京ゲートブリッジを潜る

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宝石をちりばめたような東京湾岸の夜景


羽田空港に発着する飛行機が、夜の空にライトを明滅させながら行き来するのが、頭上に見える。海を走る風と、潮のにおいと、陸のきらめきと、夜空を飛ぶ未知の飛行船と。今が西暦3000年と言われても信じてしまうであろう未来の景色。あれは土星観光に向かう船で、あれは恒星間旅行に向かう宇宙船――そんな時代も、いずれやってくるのだろう。
 
平和と繁栄が続く未来。千年前の人類は戦争ばかりしていた。そんな歴史もあった。そう思えるような時代が、いつか来るのだろうか。

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宇宙飛行船といわれても信じてしまうであろう完璧な未来の光景
 


2025年7月末

 

 

 

博多に行きます~8月2日(日本全国行脚2025)


草薙龍瞬の夏の全国行脚2025博多入り、まもなくです。

毎年恒例の内容充実の特別講座(勉強会)です。この日この場所でしか得られない数多くのヒントが見つかります。

予約無しでも参加できますので、当日のご都合があう方はぜひいらしてください。

当日および翌日は九州に滞在します。個人的な相談がある方はお声がけください。

<日時>
2025年8月2日(土)
13時30分~16時30分

<会場>
福岡市内の公共施設(ご連絡くださった方にお知らせします)

<内容>
今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州・博多を訪問します。参加者の質問・関心に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。仏教の考え方をフル活用しますので、内容は幅広く、かつかなりディープです。

<参加費>
1組 2500円

※1組=家族3人まで
※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません
 
<その他>
*乳幼児をお連れの方を歓迎します(途中退室も自由です)。
*小学生・中学生が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください(ゲーム・タブレット等の電子機器は禁止です)。

*終了後に希望者に向けて個人相談の時間を設けています(希望者数によりますが、お一人20分ほどを目安とします。希望者はお声がけください。

<個人相談>
*当日および翌日以降は九州&西日本を回ります。個人的に相談したいことがある方は別途ご連絡ください。


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さあ行くよ!


2025年7月27日
・・・・・・・・・・・



言葉にならない時間

この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。

今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。

それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。

ミクロの人々が見ているのは、どこにいてもスマホ。小さな画面以外は「どうでもいい」こと。度を増す高温に嘆息を吐きながらも、気にしているのは自分にとっての不快指数だけ。


マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。

こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。

殺し合うことを人類がやめようとしなくても、そうした愚行を可能にする地球環境そのものが破綻するかもしれない。このまま高熱化が進めば、近い将来、どうしたって生存不可能になる時期が来る。地球の大気が茹で上がる。どこにも逃げ場はない。


外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。



ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。

滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。

まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。

地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。





夏の光と大気の暑さと。狂暑とさえいえる暑さではあるが、これもまた今年一度きりの夏の姿ではある。なお道を歩く時は、多少の暑さには目をつむり、夏の風情に心の感度をチューニングする。これぞ夏だ、ということをしっかり感じ取る。

電車の外に、巨大な東京スカイツリータワーがそびえ立っている。あのタワーは、私がいなくなった後も、百年後でさえも、同じ姿で屹立しているのだろう。今見ているのは、未来でもあるわけだ。



80年前の大空襲で亡くなった人たちも、焼け野原に立ち尽くしていた人たちも、その後一度も戦火を交えなかった東京が、ここまで復興して、こんなにもバカでかいタワーが出現するとは、夢想だにしなかっただろう。

戦争さえしなければ、街を破壊しなければ、これだけの繁栄が現れる。変わらない世の中への不平不満は続くにしても、退屈ではあっても、やはり平和のほうがいいに決まっている。激動なんてなくていい。平凡で少し退屈なくらいの日常が、百年、千年と続いていくほうが、はるかによいはずである。

人は人としての生涯をまっとうできるだけで十分なのだろうと思う。生きて、働いて、遊んで、ときには退屈をもてあまして、いっとき家庭を持って、新しい命を育てて、時期が来たら静かに身を退く。それだけで十二分。激動の十年よりも、退屈凡庸な百年のほうが、きっと価値はある。

この世界は、私という茹でガエルが一匹いなくなっても、きっと続いていくのだろう。遠い未来には、人類もこの地球も宇宙にも、やがて必ず終わりが来て、その後は果てしない虚無が永劫続く定めだとしても、人類という種は、もうしばらくは続く可能性が残っている。

今見ているこの夏の景色は、あの戦争を生き延びた人にとっての未来に当たる。80年分の過去を振り返って平和の証を見届けていることにもなる。今を生きる自分なき後の未来を見ている部分もある。

未来でもあり、過去でもあり、今でもある。今見えるのは、純粋に美しい青と光と、夏らしき暑さ。いろんなものを見ている今が、ここにある。言葉できれいにまとめることのできない「何か」。

きっと本当に美しく、せつなく、愛おしいものは、言葉にならない。「生きている」としかいえないもの。生きているとは、そういう時間。今がその時。


夕暮れの隅田川 いつもの景色のはずだが、未来を見ている気にもなる



2025年7月末




色とりどりの皿回し


今年の全国行脚、ぼちぼちスタート。皮切りは、大阪の看護専門学校での3日連続講義。

完全徹夜で大阪入りして、翌朝8時に車で運んでもらって、午前は3年生。午後は1年生。


「患者目線で向き合う」が、最初の約束。

だから、だらしない姿を見せた時は、遠慮なく喝を入れさせてもらう。今回は2回ほど。 

今年の講義は、中身もガチ・モードだった。救急救命時の気管挿管の判断という、これは1年でやったことの復習。某薬剤の検証も。

いくつかの資料を見せて、「せめてこれくらいの事実を把握してから判断しなさい」という話。現場の医師も看護師も、学校の先生たちも、ろくに事実を調べず、検証もしていない。

たとえばクラス40人のうち1人でも、歩けなくなったり、最悪死んでしまったりしたときに、親も、医師も、学校も、責任を取れやしない。

取れっこないのだから、最初から無責任なことをするな、言うな、というのである。

「当たれば100%のロシアン・ルーレット」ということを、骨身に沁みて自覚せねばならない。一度失ったら、永久絶対に帰ってこないのだから。未来の可能性も、命も。

他には、くも膜下出血で運び込まれた患者への対応如何と、5歳の女児にアデノイド摘出手術をするかの検討。

きちんと手順に沿って知識・情報を整理して、本人が納得できる結果にたどり着くことが、プロに求められている仕事。そのための技法を伝えるのが、この授業の狙い。

錯綜する情報をどのように整理すればいいか、その視点(いかに理解するか)と、どんな手順で結論を導き出すかという論理的道筋を、伝えることが目的だ。

1年生にも3年生にも、同じ熱量と充実の中味を伝えたつもり・・だが、どれだけその心に残っているかは未知数。

でも今年も、納得のいく講義ができた。自己満足。だが自己満足こそは、教育の基本だ。

3年生は、これでお別れ。せっかく3年間、いい体験をしてきたのだから、一人たりとも落ちないように、と最後にエールを送った。



私はただの坊主に過ぎない。医療・看護の素人にすぎないが、人の命を想う熱と真剣さは尋常を越えたレベルで持っている。

その部分こそがずっと燃やし続けてきたものであり、看護学生に伝えられる最も価値ある部分、つまりは「倫理」であろうと思う。

私が伝えている程度の知識や情報など、プロになった時の彼らには、常識として知っておいてもらわねばならない。私以上に人の痛みを感じ、救うための方法を選び取り、患者の心身の痛みを取り除いて、その日常に戻ってもらう。その手助けをしてもらわねば。

日進月歩の医学・看護の知識も、私以上に通暁して、素人の坊主である私にもはや教えられることはなく、次回は病院にて、弱くなった体をケアしてもらう、おとなしい患者の一人として再会してもらわねばならない。

彼らが進もうとしている道は、仏教とは離れた世界なのだが、人に貢献しようという情熱は共通しているはずだ。

そもそも医学も看護も、患者の苦しみを癒すための技術なのだから、患者目線で納得できるものでなければならないことは当然だ。

ならば、伝えられることもある。

今回は、いずれのクラスにも、よい変化が生まれたような気が(勝手に)している。

しっかり学び続けて、無事合格してもらいたいものだと思う。



授業終了後は即移動して、神戸で企業向けの講演会。終了後はどしゃぶりの中を新神戸駅まで走って、新幹線でいったん帰京。週末2日で次の講義の教材を作って、月曜には奈良、火曜は名古屋、水曜は大阪だ。

いや、忙しい。だが幸せな忙しさだ。いろんな役目を授かっている(そういえば、この3日の間に新聞連載用の絵も描いた笑)。

色とりどりの何枚もの皿を頭の中でめまぐるしく回している思いがするが、これくらい同時進行で廻っているほうが快適なのだ。

遠い昔は、一つの仕事・一つの世界に収まりきれない自分がおかしいのかと思っていた。変わった人間だと実際に言われていた時期もあった。周りに合わせて一つの器に自分を押し込めようとして、頭も心も回らなくなってしまった時代があった。

あの頃の自分と、今の自分は、まったく別人だ。今の自分は生きている。縦横無尽に動いて、持っているものを、存分に活かすことができる。

まさかこんな “仕事” がありうるとは。人生は不思議で面白い。



2025年7月


夏の国語キャンプ2025開催のおしらせ

興道の里から

夏の国語キャンプ2025の開催が決まりました:

*千葉県野田市 2か所で開催
 
千葉での国語キャンプの概要は以下の通りです。

予約受け付けを開始しますので、下記の予約フォームでお申し込みください。
 
SNSなどによる告知・紹介は自由です。小中学生をお持ちのご家庭にお知らせください。 

お問い合わせは興道の里事務局まで koudounosato@gmail.com


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夏の国語キャンプ2025 千葉野田市

2学期が始まる前に国語を得意にしちゃいませんか? 小5から中3を対象に“国語キャンプ”を開催します。面白くて良質な文章を選んで、国語の読み方・解き方をわかりやすく授業します。

勉強だけど、勉強っぽくない“ゆる系”の国語です。でもちゃんとチカラがつきます。筆記具だけ持参してください。お友だちや親と一緒もOKです!
 
主催  子供の明日を育てる会(千葉県野田市)
事務局 興道の里事務局 


8月16日(土)午後1時から
千葉県野田市フリースペース コキアの丘
 
下記QRコード または リンク先から ご予約ください


 
 
 
 
8月31日(日)午後1時から4時まで
欅のホール 千葉県野田市中野台168-1   

予約フォーム
下記QRコード または リンク先から ご予約ください




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今回がいわば、旅する寺子屋の ”こけら落とし” です。

このプロジェクトは、春・夏・秋・冬と、一年を通して開催していきます。

集会所・公共施設・子ども食堂など場所を見つけて、ご連絡ください。


興道の里・草薙龍瞬は、未来を育てる活動を始めます――
 
 



興道の里・明日を育てるプロジェクト
2025年7月





心は歳を取らない


私の場合は、毎年夏までに1つ歳を取ります。

今年の日本全国行脚を告知した時の心が、ほぼ20代の頃と同じであることを、ふと発見しました(笑)。

旅に出るぞ~、

夏が始まるぞ~、

という思いしかなくて、

でも客観的に考えると、社会年齢はけっこう「行ってる」ことに気づいたのでした(笑)。

社会年齢は、戸籍上記載されている年齢、または、周囲の人たちからの扱いによって決まる年齢。

肉体年齢は、体そのものの年齢(正確には肉体の状態。これも人さまざま)。

精神年齢は、心の年齢--

ところが年齢というのは概念・観念でしかなく、妄想に過ぎないから、自分で〇歳だと判断しない限り、年齢は存在しない。

つまりは、歳を取らない。


妄想しない技術を身に着けると、年齢という妄想さえ飛ばすことができるから、

夏に向かう子供のような心の状態に持って行くことも、可能になる。


「あら、この心、ほんとに年齢が存在しない・・」ということを自覚した次第。


「心は歳を取らない」ということを、あらためて確認したのでした。

 この心が歳を取るのは、いつの日か?





2025年5月中旬


夏の日本全国行脚2025 訪問地募集!

九州・博多訪問決定

8月 2日 (土曜日)⋅13:30~16:30
勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州

今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

参加希望者は、①お名前(実名) ②簡単な自己紹介 を koudounosato@gmail.com まで。折り返し当日の会場の場所を含む案内をお送りします。

参加費2000円(※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません) 

※子供が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください)。乳幼児の同伴は歓迎します(途中退室も自由です)。

 

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今年も夏の日本全国行脚を開催します。

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある

など、お気軽にご応募ください。


夏の全国行脚は2013年から。今年で13年目に入ります。

よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、

ぜひご活用下さい。


◆◆◆◆◆◆◆
<訪問地募集>

期間 7月9日から9月15日まで:

7月9日(水)~21日(月祝) 西日本 近畿・中部・ 山陽・山陰
7月26日(土)~8月3日(日) 四国・九州
8月9日(土)~17日(日) 関東・東北・北海道
8月23日・24日(土・日) 北陸・甲信越
8月30日(土)~9月7日(日) 沖縄


◆◆◆◆◆◆◆
<確定済みスケジュール>

※スケジュールは、確定次第、公式ブログ内のカレンダーで公開します:

7月9(水)・10(木)・11日(金)
南大阪・看護専門学校特別講義(3日間) 
※医療従事者で見学をご希望の方はご連絡ください。詳細をお知らせします。


7月11日(金)午後 
神戸・講演会(非公開)

7月15日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター

7月16日(水)
大阪・岸和田 公開市民講座

8月19日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター


9月15日(月祝)
愛知・高蔵寺 特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 


◆◆◆◆◆◆◆
<全国行脚への応募方法>

1)応募のご連絡

下記をメールでご連絡ください:

①お名前 
②ご住所 
③連絡先(携帯番号)
  +
④訪問を希望する場所
※およそでかまいません。「自宅を希望」「〇〇という公共施設の使用を考えています」等)

⑤訪問希望日
※「〇月〇日から〇日までの間」「〇月〇日を希望します」など、およその日程をお知らせください。

⑥応募理由
※「仏教の勉強会を開きたいです」「〇〇について相談したいことがあります」「親族を集めて法事を執り行いたいです」等

※初めて応募する方は、詳しい自己紹介をお願いします(仕事・日頃の生活・課題などなるべく具体的に)。 
※勉強会については、会場を手配していただくことになります。告知は興道の里でも行います。
※個人相談をご希望の場合は、相談内容をなるべく具体的にお知らせください。内容をふまえて訪問の可否を検討します(さまざまな用事を調整して最終決定しますので、必ずお応えできるわけではありません。あらかじめご了承ください)。

※①から⑥までの記載が不十分・不明瞭な場合は、返信差し上げておりません。あらかじめご了承ください。


2)興道の里からご連絡

*ご応募内容を興道の里のほうで検討し、お応えできる可能性がある場合は、興道の里事務局から折り返し案内メールを差し上げます。

*全国行脚期間中は、直前のご連絡でも、スケジュール調整が可能であれば対応しています。いつでもご応募ください。


3)訪問日・場所の確定

*ご連絡をいただいてのち、事務局と応募者との間で、訪問場所・日時等の詳細を確定していきます。

*講演・勉強会など公開企画については、公式ブログ内のスケジュールに掲載するとともに、一般向けにも告知いたします。


4)予定日に訪問します


◆◆◆◆◆◆◆
<その他>
*いずれも真摯な動機・意欲が伝わってくることが条件となります。

*勉強会の内容は、仏教・子育て・働き方・心の健康・十代の生き方&勉強法など、ご希望に応じます。開催規模の大小は問いません。

*個人相談については、相談内容の詳細をお知らせください。内容によっては、ご要望にお応えできない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

*勉強会・講演の告知用の文面・タイトルなどは、主催者(応募者)からもご提案いただけます。興道の里もお手伝いしますので、お気軽にご相談ください。

*当日の参加費またはご負担のない範囲のお気持ち等で、交通費・宿泊費を調達します。旅の途中に立ち寄るという形式を取りますので、正規の講演・講座のような一定額のご負担を求めるものではありません。お気軽に、ご負担が過ぎない範囲でご協力ください。


ご応募・お問い合わせは、メールで  koudounosato@gmail.com までお寄せください。

お応えできる可能性がある場合は、折り返し詳細を記した案内をお送りします。


・・・・・・・・・・

夏の日本全国行脚は、毎年たくさんの出会いと学びを得られる貴重な機会になっています。
お気軽にご応募ください。


充実の夏をめざして
現地でお会いいたしましょう

興道の里・草薙龍瞬

さあ、夏が始まるよ!
(猛暑にだって負けないよ!)



一般公開
2025年5月12日



ブッダを探して~東京新聞継続決定


『反応しない練習』は、ルーマニア、ハンガリーで翻訳出版が決定。なんともニッチな・・ドイツ、スペインに続いてヨーロッパ・ブーム(?)が続いています。

『ブッダを探して』は、東京新聞では2025年2月で連載終了(紙面大幅改訂に伴い/以後は中日新聞のみ)という予定でしたが、

社内会議で、好評につき継続が決まったそうです。

これは異例のこと。よほどのプレゼンス(存在感)を読者の方々が認めてくださったということなのでしょう。ありがたいです。

イラストも引き続きお楽しみください。


ミャンマー編13(来年2月掲載予定)のイラスト 

本文は紙面でどうぞ




2024・12・27

澄んだ時間~甲府から富士へ

日本全国行脚2024年12月3日


山梨・甲府に出立。新宿から信州に向かう特急は意外と混んでいた。

雲一つない冬の青空。車窓の彼方に銀嶺が見える。 この国のいたるところに、こうした見るだけで溶けてしまうような風光明媚があるのだろう。

こんな景色を毎日見られる場所で暮らしたいなと思う。あいにく体は一つだから、一つの場所を選ぶほかなく、他の場所で暮らしたいという願いはかなわない。数多くの美しい景色を求めて旅するように生きるのも一興だが、根を生やす生き方も捨てがたい。こうした二律背反、相矛盾する憧憬は、一生枯れることはないのだろう。いたたまれないが、いたしかたない。夢見ることを快としよう。

あの丘の名前は? 一度立って風の景色を眺めたい


甲府駅で降りて、講演会場まで歩くことにした。旅するほどの余裕はないが、せめて地元の空気を味わいたいからだ。地図で見るよりも実感遠かった。

(※余談だが今はどこの駅も商業ビル化され、駅前も都市化されている。最近訪ねた北千住や水戸もすごいことになっていた。甲府駅前も然り)。

山梨の農業は、シャイン・マスカットの認知度が上がって利益を上げているそうだ。就農人口も少なくない。ただ、冬は皮膚が痛いほどの冷気で、果実の収穫はやはり大変だという。

今日の講演会は、参加者はほとんど女性。50代以上がほとんどで、50歳未満は1割以下。これは全国の就農人口の世代比とほぼ同じ。

司会の方に紹介してもらった後、「私の本を読んでくださった方、どれくらいいますか?」と訊くと、手が挙がった気配がないので、「ほとんどの人が読んでくださっているのですね、ありがとうございます(笑)」。

なぜ歳を取ると時間が経つのが早く感じるのかという話に始まって、業の話へ。初めて聞く人には、衝撃でもあり、身につまされる話でもあるらしい。会場によっては笑いが起こるが、今回はみなさん真面目に受け止めた印象。こういうときは、たいてい終わった後に、思い当たった人が感想を言いにきたり質問しにきたりするのだが、今回もそうだった。

農家の高齢化は全国的に進んでいる。あと十年経ったら、放棄地も激増するだろう。ここ数年、旅をしながら、この美しい景色がいつまで続くのだろうと、自分が見届けられない未来のことを心配している。

帰りは身延線に乗った。ローカル列車で終着の富士駅まで4時間以上かかるが、地元の人たちと同じ景色を眺めたい。途中、市川大門駅を通る。学生時代に夏の花火大会を見に行った場所。20代にも仕事仲間と車で来たことがあった。

路線後半はガラガラ。だがこの身延線、ちょうど斜面をくだって平野に出る時に、富士宮の街並みを一望できるスポットがある。その景色を久々に見たかったのだが、無事成就した。

旅ともいえない旅だったが、景色と人の姿を見ることはできた。もうひとつは、独りきりの純粋な時間。何者でもない空白の時間。これらがそろうことが、私にとっての旅だ。一年の終わりに澄んだ旅ができた。

富士宮の夜景 この景色をもう一度見たかった




2024・12・3

日本全国行脚2024 福岡・志賀島


日田を朝に出て、久留米経由で博多に向かう。天神近くの公共施設で勉強会。

どの場所も同じだが、地元で場所を用意してくれる人がいないと、全国行脚は成り立たない。今回も、動いてくださった人がいてようやく開催できた(ありがとう)。


ブログ以外に告知しなかったが、予想以上の数の参加者。最年少は小学3年生。大人たちが日常の苦悩やおどろおどろしい業の話をさっそく始める中で、はて小学生に聞かせてよいのか戸惑う部分もあったが、辛抱できたようだ。父親の圧力に負けてやむなくという雰囲気だったが笑。

ほんとは、子供向けの学びキャンプを別立てで開催すればよいのだ。親のほうで場所を見つけて声をかけてくれればいい。教材はこちらで用意しよう。


どの場所でも、参加者の関心・質問に応じて答えを組み立てるので、毎回内容が違う。板書する図も変わる。即興で答えることで、自分も思いつかなかった新しい理解(智慧)が生まれる。

内容を準備したことは一度もない。その場で思考を組み立てる。だからこそ生きた智慧が生まれる。

各地の講座・勉強会を書き起こしてテキスト化すれば、かなり面白い資料になるだろうが、作業する時間がない。今は前に進む(新しい体験を積み重ねる)ことに専念しよう。

終わった後も、近くの喫茶店で希望者向けの無料相談会。なるべく多くのものを持って帰ってもらえたらという思いで続けている。

終電で東京に帰る予定だったが、相談者が多くて間に合わなくなった。急きょ宿を調べて、近くのカプセルホテルに泊まることにした。




翌朝は、バスで博多港まで。玄界島や壱岐島へのフェリーが運航中。私が向かったのは志賀島。かの金印「漢委奴国王」が発掘された島。小学生の頃に聞いた知識と地理が、やっとつながった(笑)。

この地に来ると、大陸がとても近く感じる。釜山にも船で行ける。近畿や関東のほうが距離感としては遠い気もする。とはいえ出征するほどの距離でもない。秀吉も無謀な挑戦をしたものだと思ってしまう。


海から博多の街を眺めるのは初めてだ。世界が青い。



西戸崎駅前から市営バスで勝馬海水浴場まで。気ままな一人旅。どこで過ごすのも自由という今日がありがたい。


浴場から少し離れた旅館の裏側で、だれもいない浜辺を眺めてひと休み。



海岸沿いの旅館兼食堂に寄ってみた。アイドルらしき女子の写真やバナーが壁一面に貼ってあるので、誰かとたずねたら、○○坂46の○○○○さん(ファンの呼び名は「○○ちゃん」)だという。

この村出身で、すぐそばの小学校に通っていたとか。私が偶然立ち寄ったのは、彼女が高校時代にバイトしていた旅館・○○荘だった。

そうかあ、○○ちゃんはここで育ったんだ、オーディション受けに東京まで行って、以来、乃木坂で頑張っているんだ~♪と思うと、人の背後にある物語が見える気がして感慨深い。急に土地のありがたみが増した気がする(アホですか笑)。


バスに乗って西戸崎駅へ。そこから陸路で博多に戻って新幹線で一路東京へ。

夏の全国行脚、これにて(ほぼ)終了。いや、夏風情を満喫した旅だった。



志賀島の海





2024年8月下旬



日本全国行脚2024 大分日田・咸宜園


羽犬塚から久留米乗り換えで日田に向かった。筑後川が造ったであろう沖積平野に広がる緑を見渡しながら、列車はゆっくりと標高を上げていく。

日田は、山岳のくぼ地に合流する複数の川が造った盆地だ。『進撃の巨人』の作者出身の町だそうで、駅前には「進撃の日田」と銘打った幟やポスターが目立った。物語冒頭に巨人が出現した巨大な壁(ウォール・マリア)に見立てたダムやミュージアムが近くにあるらしい。ファンには楽しい街かもしれない。




駅前で自転車を借りて、咸宜園(かんぎえん)へ。日田は、夏は全国最高気温を記録するほどに暑く、冬は氷点下になるほど寒い土地らしい。この日も日差しが烈しかった。






創立者は廣瀬淡窓(ひろせたんそう)という江戸中期(1782年~)の豪商の長男。病弱ゆえに家督をあきらめ、学問と教育を生涯のテーマにしようと決意して、24歳の時に寺の学寮内に最初の塾を開いた。

その土台は、勉強好きの叔父夫妻(6歳まで叔父が建てた秋風庵で育っている)と、6歳以降に漢学(孝経・四書・詩経ほか)を教えてくれた父や寺の内外の大人たち。福岡の私塾に寄宿したこともあるという(16歳から2年弱)。学びの文化は江戸期には定着していたのだろう。

咸宜園は、藩主や幕府の後ろ盾がない純然たる私塾だ。豪商ゆえに可能だったであろう事業。咸宜とは、詩経から引いた言葉で、「ことごとくがよろしい」(≒入門に身分・条件を問わず)という意味だと説明されることが定番だが、淡窓には独自の解釈(思い)があったような気もする。

入門に身分・学歴・年齢を問わない(三奪法)。学ぶ意欲さえあればいい。入門規約や塾則を設け、当番を割り振って、会計、食事から清掃、図書の管理まで、学生たちにさせたという。

明治30年に閉じるまで、約90年にわたり、延べ5千人近くの門下生を育てた。多いときは1年に2百名を越える門下生がいた。豊後高田に分校を開いてもいる(淡窓47歳)。

咸宜園が盛況だった理由は、どこにあったのか。足利学校や弘道館と違って塾費を集めての経営だった。廣瀬家は商人だったから、商人階級の子供たちも多かった。経営面は順調だった可能性があるが、続かなかった。今は国指定の史跡と化している。

特徴的なのは、試験を毎月実施して、席次を決めたこと(月旦評)。最上級から最下級まで19等級に分かれて、各級にも上下があった。

筆記(書・詩・文・句読)と平常点と口頭試問で成績を評価。全員の名前と順位を掲示。入った時は横一線だが、ひと月経てば誰が優秀かはすぐわかる仕組みだ。このあたりは進学塾の先駆け的匂いも感じる。

順位をつけることは、モチベーションにつながる部分もあろうが、度を越すと順位を上げることが目的化するおそれがある。成績上位の学生に歪んだ優越感や尊大さが育つ可能性もなくはない。咸宜園は、他の教育遺産と比べても、競争原理を採用することに躊躇いがなかった印象を受ける。

さらに目を引いたのは、多くの政治家や官僚を輩出していること。

大村益次郎は、戊辰戦争で官軍側の参謀を務め、明治維新後は日本陸軍の基礎を築いた。

長三州(ちょうさんしゅう)は、勤皇の志士として大村とともに戊辰戦争の参謀を務め、明治維新後は太政官(立法・行政・司法の全機能を担う最高機関)の官僚に。文部省局長として近代学制を主導した。伊藤博文や山形有朋は「門人」とも。

長三州は大正デモクラシーに反対したとも聞く。

咸宜園には他にも、枢密院議長から内閣総理大臣になった清浦奎吾、検事総長・大審院長を務めた横田国臣、海軍軍医総監の河村豊洲、尊皇攘夷活動家で三菱・三井の両財閥を渡り歩いた実業家の朝吹英二、東京女子師範学校長をへて貴族院議員になった秋月新太郎など、明治期の公権力の一端を担う要人を輩出している。

咸宜園が是とした競争原理、上昇欲の肯定が、卒業生の生き方に影響した可能性はないか。少なくとも倒幕から近代化、中央への権力の集中という時代的潮流と整合するような塾風はなかったか。

最も特徴的だったのは、松田道之についての記述だ。滋賀県令、東京府知事などを歴任し、明治政府による琉球処分に「活躍」と記されている。

あきらかに官軍目線(^w^;)。琉球処分とは琉球王国が滅ぼされた出来事だが、それを活躍と言ってしまうのは、さすがに今の時代にそぐわない。

勉強に励み、成績を上げ、塾内トップをめざし、卒業後は立身出世というわかりやすい人生街道。それを礼賛する空気は、かの時代に強かったし、咸宜園の校風だった可能性がある。
 
ということを仮説として考えながら見ていたら、なんと、仮説をそのまま裏づけるといっていい史料があった。「咸宜園の出にして世に名をなせし人々」の名を並べた当時の掲示物があったのだ。
 

この夏日本遺産をまわって見えてきたことは、礼節と人生訓という儒教ベースの教育は共通している半面、それぞれに個性があるということ。あまり語られない点だが、創立者の身分・目線・教育観、さらには時代背景や土地柄が、けっこうな度合いで影響している。
 
だがその影響は、遺産として残る校舎ほどには、明瞭な姿で残っていないのだ。この場所でかつてどんな教育をしていたか、どんな空気が流れていたかを推し量るのが難しい。だからこそ「遺産」なのか。もはや現代に活かせる内容を取り出すのは、難しくなってしまったか。

古い寺を廻った時に感じることだが、今に遺(のこ)る建物は箱でしかない。かつては箱の中に中身があった。生きていた。なぜかといえば、教える者、学ぶ者が、つまりは人間がいたからだ。

人間が消えた箱は、ただの箱でしかない。かつてこんな教育をしていましたという記録が残ったとしても、現在進行形で続く教育がなければ、箱そのものにさしたる価値があるように思えない自分がいる。
 
立派な箱を持った学校・塾・予備校は、今の時代に溢れている。そうした場所が将来に滅びたとして、箱だけをありがたがるだろうか。ありがたい(価値がある)のは、箱ではなく、箱の中身であるに違いない。

教育は、あくまで伝える側と学ぶ側との生きた関係によって成り立つ。学ぶ側は生まれてくる。伝える側の個体はやがて死ぬ。

死んでなお残る、残せる教育とは、どんなものだろう。どうすれば可能になるか。やはり言葉か。いや、言葉だけでは足りないように思う。

最も残さねばならないものは、未来につなぐシステムのようなものだろうと思える。智慧、意志、生き方を継承する仕組み。未来の心に残りうる力を持ったもの。

それが実現すれば、未来にも教育を通して過去の人が生きることが、可能になる。未来に残せるようになる。

システムを残す――という主題をもって、教育を進めていくことにしようか。

  ◇

翌朝に周囲を散歩した。三隈川の清流が勢いよく流れている。水流豊かな支流の間に中洲があって、公園になっている。これが水郷・日田と呼ばれるゆえんか。

あの種田山頭火も、道中に立ち寄った場所。分け入れば水音 とは、日田近くでの一句だそうだ。

山頭火は九州を好んで旅した。たしかに土地の陰影が深く、地熱というか山の霊力というか、どこをめぐっても本州とは異質の神秘とダイナミズムが足元から伝わってくる気がする。

分け入っても分け入っても青い山(山頭火)。

山頭火のように一族の業に翻弄され彷徨い続けた人間には、九州の地は、心の闇を忘れさせてくれる力があったのだろう。


濃緑の葉を茂らせたイチョウの大木に出会った。石碑には“特攻イチョウの木”とある。日田から飛び立った特攻隊の青年が、この木の上空を旋回して故郷に別れを告げて、帰らぬ人となった。

日本人は、あの戦争を、遠い過去の特殊な出来事としてとらえている。もう二度と繰り返さないだろうと、それくらいに日本人は賢くなったはずだと、少なくない人が思い込んでいる。

だが、人間の業は、そう簡単に変わるものではない。事なかれ主義、周りに合わせて安心してしまう臆病と無思考の業は、今も変わることなく続いている。
 
その顔をのぞかせる出来事は今も起きているのだが、あの戦争と、今の日本社会に起こる出来事は別物だと思い込んでいる。だが実はそうではないのだ。

どうしようもなく根の深い無思考という病。この病が伝播しないように、自立して思考できる人間を育てる努力を始めるしかないではないか。


特攻イチョウの木
日本人は走り出したら聞く耳を持たない


ハグロトンボのつがいがくっつきながら飛んでいた 
生命は今を生き、未来につなげることだけにひたむきだ 
二か月ほどの命というが、短いという思いさえないだろう 
つまりは永遠を生きている

 

水郷の朝 今回の旅で最も絵画的な一枚



2024年8月末



日本全国行脚2024 岩国・錦帯橋の清流


朝の電車(錦川清流線)で川西駅へ。宇野千代記念館に足を運んだ。

宇野千代さんのことは、正直よく知らなかった。覚えているのは、「わたし、死なない気がするんです」とテレビで語っていた姿くらい。ちなみに、死なない気がすると言い出した人は、たいてい“おむかえ”が近いと思うほうが正しいのかもしれないとも思う。享年97歳。

16歳で文学に興味をもって雑誌に投稿を始めて、二十歳で上京。出版社の事務、家庭教師(もと岩国で代表教員をやっていたそうな)、ウェイトレスなどを勤めながら、24歳で懸賞小説で一等当選。

八十代まで精力的に作品を発表。自伝小説『生きていく私』ほか、多くのベストセラーも。みずから出版社を作ってファッション誌や文芸誌を刊行し、着物のデザインも手がけた。自身の感性と時代がうまく嚙み合った印象。打てばヒット。楽しい人生だったように見えなくもない(深層はわからないけれど)。

羨ましいのは、家自体の佇まいだ。古い木造の平屋で、広い庭には楓などの広葉樹が、よく手入れされている。みずみずしい苔が全面を覆って、土や砂利を見せない。季節感が豊かで、全体の色が明るいのだ。

人はどこまでも業が深いが、自然はどこまでも自然だ。見せる姿そのままだ。雨が降れば潤い、日照りがくれば枯れる。条件整えば再生する。あるがままだ。水、色、光、そのすべてが愛おしい。

宇野千代生家の庭 手入れがたいへんらしい 
今日も朝から掃き掃除と水やり 苔が日焼けしてしまうからという


この私の生(本質)は、本来なら自然を愛する。それこそ人間の世界を忘れて、森の中に隠棲して、嵐のざわめきに身を震わせ、雨の滴に息を合わせ、静謐に同化して、無であることをしみじみと味わいたい。

だがそれは、人間の世界にとっては無(存在しない)でしかない。たとえ人間の世界が限りなく業が深く、愚かで、醜く、殺伐としていて、やがては滅びるだけの定めにあるとしても、それでもまだ人は生き、世界は続いている以上、その中で何かを形にすることには、意味があるだろうとは思う。そう思う人生を選んでいる。

関わることで初めて生まれる意味がある。関わりの中でしか成り立たない価値がある。たとえ関わりそのものは無常であり、時に傷つき、いずれ消えるものだとしても、つかの間の関わりの中で何かをなし、何かを作ることは、刹那この瞬間においては、やはり意味を持つように思う。

滅びの中で生きるのだ。それこそが今を生きるということなのだろうと思う。無へと帰ることを織り込んで、虚無にすぎないことを当たり前として、今を作る関わりの中で有を創り出す。それでいい、と思えることが、諦念を越えた生き方ではないか。



錦川沿いを歩いて、吉香(きっこう)公園へ。大噴水は水溜まりに入れるようになっている。小さな女の子と母親が水の中を歩いて遊んでいる。私も噴水の飛沫がかかるところまで行ってみた。これぞ夏の快。



旧目加田家住宅という武家屋敷を通ったら、ガイドのシニア男性が声をかけてくださって敷地に入れてもらった。家の裏側には二階に窓があるが、表側にないのは、身分が上の人を見下さないためなのだとか。家はかなり古い。一度バラして移築して国の重要文化財として保存しているという。

古い屋敷を残すことで、岩国は風情を保っている。ここで思い出すのは久留米だが、かの地は戦後どんどん古い家を壊して商業ビルと住宅を建ててしまった。後悔先に立たず。保っていれば観光資源になっただろうにと、前の旅で地元の老婦人と話したことを思い出した。



いざ、岩国シロヘビの館へ(入館料二百円)。岩国には、シロヘビにまつわる伝承や古文書の記録が、少なからず残っているとか(古文書と言っても江戸期だそうだが)。たしかに姿が印象的。手足のない白い体に、表情のない赤い目。姿が非日常なのだ。

生きたシロヘビを見ることができます!ということで入ってみたが、実物はまったく動かない。置物と変わらない。ハムスターのようにもつれ合って固まっている。「楽しいの?」と聞いても、答えない(笑)。


子供のシロヘビだけは、ときどき舌をちょろちょろと出して見せる。でも動きといえばそれくらい。

もとはトカゲ類で、次第に手足がなくなった。アオダイショウの突然変異で、体が白くなった。蔵の米をネズミから守ってくれるということで、岩国では家の守り神として大事にされてきたという。

いや不思議な生態だ。目は明るさを感じる程度で、音はほとんど聞こえない。ネズミを丸のみするが、味覚がない(おいしいともまずいとも感じない・・それはさすがに真似したくない笑)。

匂いは舌で感じる(だからちょろちょろ舌を出す)。音は耳の代わりに骨で感じるという(骨伝導)。体長180センチ、胴回り15センチ(けっこう大きい)。寿命は15年ほど。29年も生きたシロヘビも。「なんのために?」と考えるのは、欲深な人間の野暮というものか(笑)。

アゴを上下に開き、下あごを左右に開いて、自分の頭より大きな獲物を丸ごと飲み込む。肋骨を大きく広げて、獲物を消化していく(人間の姿で想像すると恐怖でしかない)。

最初は突然変異。その後は交配した異性ヘビの遺伝子と自分の遺伝子(白くなるアルビノ遺伝子)が、半分ずつ子供に受け継がれる。子供はアオダイショウかシロヘビか。

人間の業はどうなのだろう。二人の親の業を半分ずつ受け継ぐ? むしろ生まれた後の距離と時間による気がする。親の側、子の側の執着の度合いによっても、業の遺伝度合い(影響力)は変わるように思える。

ほぼ確実なことは、親の業から無関係ではいられないということだ。いい面も悪い面も、親の業は確実に子の心に遺伝する。

業について興味がある人はこの本を


人間の場合は、自覚と実践によって、人生の色を変えることは、ある程度可能だ。遺伝による輪廻を越えるには、やはり悟り(理解)が必要だし、それしかない。他の生き物なら突然変異するしかないが、人間の場合は理解するという知能によって、変わることが可能である。人間だけの特権ともいえる。

シロヘビは性格温厚。目は赤ルビーのようで、全身は高貴な白に輝いている――といえば愛着も湧くから、言葉って不思議。今も金運・福運の神のつかい。

蔵、石垣、水路などの環境が整っていないと生きていけない。次第に数が減っているのだそうだ。シロヘビ、かわいそう。

近くに鵜の里という飼育センターも。近くで見ると、鵜は体が大きくてなかなかの迫力。魚を捕まえても、人間に吐き出させられてしまう定めにある。でも自覚がないから虚しい(こんな人生イヤだ)とは思わないのだろう。

子供のシロヘビは恋愛の神様でもあるらしい 
飼うの?と思ったが、拝むのだそうだ

  ◇

堤を上がったところに、巨大な銅像が。政治家だった。自分が見た限りでの印象に過ぎないが、中国地方から九州にかけては、政治家・軍人系の巨象が多い気がする。昔は(今もかもしれないが)、出世といえば、政治・経済・軍部内で昇進することだったのだろう。

「おらが村のエライ先生」という認識。本当の世界はさらに広くて、こんなに小さな島国の、さらに小さな田舎から出世したところで大した価値はないかもしれないのだが、要は井戸端会議レベルで、「○○さんチの○○さんは東京に出て○○になったらしい、すごいわねえ」という話題に上がることが出世の証、みたいなことなのかもしれない。

国会に出てきたセンセイたちは、それぞれの田舎を背負って永田町にいる。地元にイイ顔ができることが自慢であり、政策選択の目印。そして、おらが村のセンセイを支援する人たち。

この田舎者気質(とあえて言ってしまいます)、変わる日が来るのだろうか。いや、野暮な脱線をした――。



堤通りの「岩国石人形資料館」。シニア男性に「無料ですからどうぞ」と促されて入ってみた。中に入って驚いた。人形(ひとがた)の小さな石が陳列されている。石を細工して人形にしたのではなく、川中の石にくっついているのだそうだ。ニンギョウトビケラという昆虫が、川底の小石や砂を集めて作るのだという。

今も錦川に探しに来る人がいるそうだが、コツがあって、一般の人には見つけるのが難しいそうだ。

拾い集めた石人形を、大きな石に接着剤でくっつけて並べると、七福神とか大名行列とか、ひとつの場面を表現できる。石人形作家もいる。盆栽に似た世界。ひとつ庭に置いてみようかと思った。

写真も撮ってよいと言ってくださる 
これは七福神 なかなか楽しい造形だ

こちらは峠越えの大名行列 
立派なアートだが、なぜさほど知られていないのだろう?

   ◇

錦帯橋を渡る。かつて大雨に橋が流されることを防ぐため、人柱を入れることになった。貧しい武士が名乗りを上げたが、二人の姉妹が父の代わりに橋台に身を埋めた。その化身とされているのが、先ほど見た石人形だ。



錦川に身を浸してみる。水が冷たい。が、冷たすぎるわけでもない。ちょうどよい水温で、猛暑で火照った体を冷やしてくれる。おお、こんな嗜みがあったか。川で泳ぐなんて何十年ぶりかもしれない。

川を上がると、服はびしょ濡れ(そりゃそうだ)。作務衣からぽたぽたと水が落ちるのが止まるまで、日陰で一休み。乾いたところでバスに乗って、岩国駅へ。
 
いや、夏の風情に満ちた一日だった。


錦川の清流 よき夏



2024年8月下旬

 

 



日本全国行脚2024 備前・閑谷学校

奈良を朝8時過ぎに出て、大阪から姫路経由で岡山・吉永駅へ。

駅前は想像以上に何もなかった。バスは2時間半に一本。駅前にタクシー会社があったので、背に腹は代えられぬと利用することにした。

このあたりも過疎が進んでいると運転手さん。兵庫や岡山の山間を縦走する列車に乗ると、駅前の家さえ廃屋と化している光景を見かける。かつては山中の駅もごったがえしていたというが、みんなどこに消えていったのだろう。

閑谷学校到着。快晴の日差しを、竹笠で避けて歩く。リュックを隠す場所を探したが、良くも悪くも隙のない造りで、見つけるのに難儀した(休業中の茶屋の裏に隠した)。


夏の日差しに輝く閑谷学校


<閑谷学校の特色>
閑谷学校は、17世紀後半(1670年)に藩主・池田光政が創設した教育機関。「山水清閑、読書講学にふさわしい土地だ」と見込んだ様子。

閑静な山間の学校だから、閑谷学校。現代人の感覚だと、交通に不便な山奥だが、当時の人たちは違う感覚で見ていたのだろう。思えば、徒歩2時間かけての学校通いも、朝から日が暮れるまで歩いて旅することも、当たり前の時代だった。

他に交通手段がなく、妄想する小道具もない。ひたすら歩く。おのずと考えない境地に。身を包むは、山水の音のみ。想像すると、少しは当時の時間感覚も見えてくる気もする。いや実際にやってみようか。東京から奈良まで歩いてみるとか(いややっぱり、せめて自転車で笑)。

光政は8歳で家督を継いで以来、どうやって藩を統治するか思い悩んで、「儒教による仁政」にたどり着いたという(当時は幼くして責任を負う社会だった。11歳で元服した時代もあったというし)。

幼少期から、成人後の参勤交代中も熱心に儒教を学び、武家の子には藩学校を、庶民の子には手習い所、集大成としての閑谷学校を作った。

光政の思想の基盤が儒教だったことは間違いないが、儒教の枠を越えた視野をも持ちあわせていた様子。光政が師と仰ぐ中江藤樹は陽明学者で、徹底した平等思想の持ち主だったというし、その弟子であり、光政に仕えた熊沢蕃山は、国が栄えるには、庶民の生活が向上せねば、そのために領民に仁政を及ぼさねばという経世済民思想の持ち主だ。光政は、彼らの影響を強く受けていたように映る。

領民救済を第一に考えて、藩政改革を推し進めようとした蕃山は、周囲の反発や嫉みを買い、幕府にも嫌われたとか(儒学・朱子学は幕府公認。為政者にとって都合がよかったからだろう)。

思想を持つ人間は、無思考な人間たちに忌み嫌われる。蕃山は、早めの隠退を余儀なくされ、遠く離れた茨城で軟禁中に亡くなるなど、不遇の人生だった。その弟・泉仲愛は、閑谷学校の建立・運営に兄の死後も関わっていたというから、彼らの絆は強かったのだろう。異質にして進取の思想性を持ったグループだ。

閑谷学校は、そうした思想に支えられた庶民・農民のための学校だ。これこそ、他の藩校と異なる特徴かもしれない(たとえば水戸・弘道館は、必要な出席日数などの条件が身分によって違っていたという。先取ではあったが封建的。先取にして平等志向だったのが、閑谷学校といってよいか)。

光政が閑谷学校と関われたのは、12年間のみ。だがその遺志を、家臣・津田永忠らが継いで、足かけ30年かけて、今に残る外観の校舎を完成したという。

7歳から20歳過ぎまで、30名から60名ほど。武家、医師、農家、商人の子供たち。遠方の子は学房に宿泊。


<閑谷学校の勉強生活>
午前7時から午後10時まで勉強。午後4時過ぎのたそがれ時に、2時間ほど休憩。4日学んで1日休み(掃除・洗濯・入浴など。風呂は5日に一度でよいということ)。筆や硯など文具は貸与。授業料は無料。

午前は共同授業で、午後は自習や教官について個人指導。複数の先生が常住。修学期間は1年が基本。メインは習字と素読。儒教の教科書『経書』を音読して丸暗記。そうすることで儒教思想が自分の言葉・考えとして出てくるようになるという発想らしい。

言葉を音で覚えて、みずからの思考の土台とすることは、学習の本質の一つだろうとは思う。語学も同じ。音だけで覚えられるのは、幼い子供。成長するにつれて、その音が状況において持つ意味(いわゆる文脈)や、感情をもセットにしないと覚えられなくなる。
 
察するに、思考をつかさどる脳の器官が発達・肥大してしまって、音に集中することが難しくなるからだ。だからある程度歳を重ねた子供なら、演劇や小説・映画や演説など、文脈とセットで言葉を覚えるほうが、効果的ということになる。

5日おきに五経の講義(習芸斎:しゅうげいさい)。近所の農民も参加。

それにしても江戸期の藩校は、どこにおいても儒教を拠りどころににしていた印象が強い。圧倒的な影響力。足利学校、弘道館、そして閑谷学校も、孔子を祀っている。孔子祭り(釈菜:せきさい)も共通行事。閑谷学校の聖廟(孔子像を存置(の前には、2本の大きな楷の木が伸びている。これは、中国山東省・曲阜の地にある孔林から種を持ち帰って植えたものだそうだ。


聖廟の前にそびえる楷の木

こんな場所で学校を開けるなら終の棲家決定だ



今も子供たちが講堂に正座して、論語の講読をやっているのだそうな。

中国の孔子廟に倣ったためか、石塀や備前焼の石瓦、正門の上の鯱など、学校の外観はいささか特殊。近くに黄葉亭という茶室があって、頼山陽(代表作は『日本外史』。在野の歴史研究家という呼び方が最も近いか)も訪ねたというが、今日は時間がない・・次の機会に取っておこう。

(しかしこの時代に頻繁に出てくる儒学者とは不思議な人たちだ。儒学、朱子学、歴史や漢詩や俳句を嗜んだというが、どうやって生活していたのだろう。頼山陽は旅の途中で姿をくらまし脱藩、幽閉されるなど、かなりアウトローだった気配がある。いずれ調べてみよう。
 

磨き抜かれた講堂 
ここに丸いイ草の座布を敷いて勉強に励んだという

 ◇

<閑谷学校のその後>
閑谷学校は、明治期に入って閉校。その後も規模を縮小して、閑谷精舎(儒者・山田方谷を迎えて五年弱続いた) → 閑谷黌(英学・漢学・数学を週24時間。作家・正宗白鳥も学んだとか)として続いたとある。
 
だが、大多数の子供たちは学制下の尋常学校に通っただろうから、実質的に終わった感が否めない。

儒学・漢学が、明治期以降の欧米化にそぐわなかったことも、決定的に作用した。明治に滅びたのは、侍だけでなく、儒学者たちでもあったのだ。

今も漢詩作りや歴史の解説など、学校の由来にちなんだ教育活動は続いている。だが学校という箱の中味に何を詰めるか、何を伝えるかは、箱の外に出て、世界で今起きていることを感じ取って、みずからの体験と知識と思考力をもって考え抜くことでしか、出てこない。そうしないと箱が生きてこないのだ。

中身は現代に即したリアルなものもあっていいのだろうと思う。そのことで箱の魅力が生き続けることが可能になる。

近世の教育施設は、箱は残ったが、中身は滅びた。どの場所にも共通すること。日本の近代化という荒波は、各地の自主教育の箱を襲って、その中身を根こそぎ流し去ってしまった。

残った箱(学校という場所)に、新たな中身を充填し続けられればよい。そのためにできることは、ある。箱を託された人たちの志次第だ。

文科省による過剰な規制と、成績だけで評価され、最終的には入った大学名をもって、教育の成果が測られてしまう風潮。この二つが、今の学校教育が機能不全に陥っている二大原因か。

前者(国による過剰規制)は、制度を変えないといけないし、後者(成績・学歴をもって価値を測る風潮)は、日本人の価値観(妄想)が入れ替わらないと、終わらない。
 
根の深い問題だ。もう百五十年もの間、変わっていないのだ。どんな衝撃が来たら、法制度と価値観という二つの障壁が崩れ落ちるのだろう。


旅の荷物はミニリュックと竹笠のみ 
ひたすら西へ




2024年8月22日