ここ数ヶ月間、大規模言語モデル(LLM)の数学的能力は劇的に向上し、数学のさまざまな分野における主要な未解決問題を解決できる領域に達しています。しかしながら、AI企業が(※開発の)ベンチマークとして数学的問題の解決を推し進めることは、数学という科学および数学コミュニティにとって有害だと考えます。AI企業がめざすものと数学コミュニティの目標に、深刻なまでにズレ(不一致)が生じているからです。我々はこの事態を、他の科学や創造的な職業、ひいては社会全体に影響を与える、より広範囲にわたるアライメント(整合性)問題の一部であると捉えています。
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
本質を駆逐する者は誰か~数学とAI
ここ数ヶ月間、大規模言語モデル(LLM)の数学的能力は劇的に向上し、数学のさまざまな分野における主要な未解決問題を解決できる領域に達しています。しかしながら、AI企業が(※開発の)ベンチマークとして数学的問題の解決を推し進めることは、数学という科学および数学コミュニティにとって有害だと考えます。AI企業がめざすものと数学コミュニティの目標に、深刻なまでにズレ(不一致)が生じているからです。我々はこの事態を、他の科学や創造的な職業、ひいては社会全体に影響を与える、より広範囲にわたるアライメント(整合性)問題の一部であると捉えています。
雨の国
おしらせ
愛知高蔵寺で特別講演会が開催されます:
人生50年の棚おろし~やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方
詳しくは 高蔵寺文化センター0120-031-229
https://www.chunichi-culture.com/kouzouji/
日本全国いたるところで大雨だ。雨というより洪水模様。
この夏足を運んだ富山、宮崎、鳥取も集中豪雨。石川、東京、千葉、静岡、青森、北海道、鹿児島、長崎、佐賀、熊本。そして愛知・岐阜。
さながら海と化したかのような道路を車が半分水に浸かって走っている映像を見た。鉄道の線路も完全水没。不謹慎だとそしりを受けるかもしれないが、SFの景色のように見えてくる。
この異常な大雨をもたらしている線状降水帯の連発は、大気と海面の気温上昇に起因しているらしい。
大気は1℃上がると含まれる水蒸気の量は7%増えるという。
大気の温暖化 ⇒ 海水温の上昇 ⇒ 海水の蒸発 ⇒ 大気内の水蒸気が増大 ⇒ 陸地に流れて山に突き当たって上昇 ⇒ 上空に水蒸気が滞留 ⇒ どかんと大雨となって地上に落ちる というメカニズムらしい。
大気の温暖化によって、北極・南極の氷床も陸の上の氷河も怒涛の勢いで溶けている。これも海に入って、海面上昇のみならず、蒸発して空に登る水蒸気へとつながっていく。
海水温の上昇につれて大気に含まれる水蒸気の量が増え続けているという構図が起きているらしい。
ここ五年ほどの大気温度は、観測史上最も高かった。エルニーニョ現象も寄与しているという見方もあるが、エルニーニョの規模が巨大化しているのは、大気が温暖化し海水温度が上昇しているからだ。
海水温度は、世界平均でも2023年以降は平年に比べて0.3~0.5℃以上高いという(これは危険な上昇度だ)。特に日本近海は上昇幅が大きく、100年あたり1.36℃のペースで上昇中。夏から秋にかけては、広いエリアにわたって海面水温は28℃から30℃に達する(これも異常な水温だ)。
大気温度の上昇によって、水の循環の規模と速度が一気に増しているのだ。
あまり聞こえてこないが、全世界的にこの線状降水帯の発生による極度の大雨という現象は発生しているらしい。アメリカ、中国、台湾、東南アジア、ヨーロッパ地中海沿岸。なぜ聞こえてこないかといえば、日本国内の災難ぶりがあまりに顕著かつ頻発しているからだろうか。
要するに、海が近くて内陸に山があれば簡単に極地豪雨が発生する。それだけ海の水温が上昇している。これが正しい理解ということらしい。
となれば、もはや「観測史上最高」とか「異常気象」という表現は正しくないのだ。大気温の上昇は、人類の経済活動による温室効果ガス排出によるものだ。
人類の活動は止まらない。これだけ巨大化・複雑化した経済システムの稼働を止めることは、ほぼ不可能だ。
よほど奇跡的な大発明や技術開発によって大気中の炭素を劇的に吸収・削減できない限り、温暖化が止まるはずはない。
つまり今体験していることは、異常ではなく、必然であり、平常であり、恒常、つまり今後ずっと続く可能性が高い。
世界の様相が劇的に変わりつつあるということだ。人が暮らしてきた環境そのものが変動し始めた。ここ十年の「異常気象」は、始まりでしかない。
◇
ところが、人間の理解は、こうした現実を前にしても変わらない。超大国の権力者たちは自分のプライドと支配欲 (仏教にいう慢) にしがみついて大小の戦争にあけくれているし、経済強者たちは自然環境に負荷をかけてでも利潤を最優先させる企業活動に突き進んでいるし、小さく無力な個人もまたデジタルデバイスによる享楽に耽溺しつつ、自己顕示と正義の主張に明け暮れている。
誰もが、自分が正しい、自分の欲は満たしたい、自分さえよければ人のこと、世界のこと、未来のことはおかまいなし(興味がない)という精神状態に変わりつつあるのかもしれない。
人間のエゴはこれまでもあったが、それを通すための力が弱かった。だが軍事力は強大となり、経済格差は広がり、個人の我欲と正義はSNSを通して一定の支持を得ることが可能になった。それぞれのエゴが無数無限に〝開花〟し始めた。
この花は可憐で美しい花ではない。醜悪で硬質な花弁を広げて、他の花が咲くことを許容しない。自己保存だけを求め、他者を犠牲にしても痛みを感じない毒の花だ。
世界は変わりつつあるのに、世界を変えなければという声は聞こえなくなりつつある。その声はたしかに存在するのだが、エゴの轟音があまりに巨大でかき消されてしまっているのだ。
人間の心は止まらない。権力者の独裁も、経済格差も、市民間の不毛な対立・分断も止まらない。
止まらないなら、この先も、大気温の上昇、森林火災、大雨被害、土砂災害は続く。
今見ている異常な光景が日常と化すということだ。
◇
この命は、仏教という思想を伝えることを役割としているが、いつか伝える相手がいなくなる未来が来る可能性はある。地球にも宇宙にも終わりは来るのだから、可能性というより確実にそうなるのだが、できることなら、千年後、一万年後くらいではあってほしいという願いはある。
終わりをみずから招き寄せるかのような愚行は犯してはならないと思ってはみるものの、世界の現状を見れば、終わることは必然であり、こうして自滅していった知的生命体の例は、この宇宙にはありふれているかもしれないとも思う。
とはいえ、悲観は現実になるまでは妄想の一つにすぎず、虚無主義(ニヒリズム)という無責任は、人間が取るべき選択肢に入らない。
私にとっての日常は、今を生きている人、未来を生きるであろう人たちに、仏教という生き方を伝えることであり、小さな寺子屋を育てゆくことだ。
この寺子屋は、子供たちにとっての2学期という小さな日常に入ったばかり。笑いと成長にあふれた、さっそくいい時間を創ることができている。
力がつく上に、楽しい時間となれば、これは理想の活動である。
この時間があと百年続いてもいい。それくらいのよい時間を作ることができている。
◇
人は、悲観や虚無に陥るにあらず。ただ、現実を見ないことや根拠もなく楽観することもまた妄想にすぎないから、これも取るべきではない。
現実に何が起きつつあるかは正しく理解し、そのうえで小さな日常をしっかり生きていくことだ。
生きていくうえでは、百年後の世界の未来も、千年後の人類の未来も、確かにあるものという前提に立つほうがいい。未来への信頼に立って今をしっかり生きること。
そして今という時間が、今だけの奇跡の一つだとよく心得て、心を見開いて大切に、一日一瞬を愛おしみながら生きていくことだ。
2026年9月9日
平気で嘘をつく君へ
この事件はね、この先もっと大きな騒動になるかもしれない。
聞こえているかな……罪(不誠実)を犯してしまっている君に。
例の AIブッダ禅 アプリ、「事業譲渡」先を募集しているそうじゃないか。
もともと原権利者の意向を無視し、連絡も交渉も何一つしていないのに、「連絡済み」とnoteで平然と嘘をつき、
(嘘だよね、だってスジャト師本人が「ノー(連絡が来たことはない)」とはっきり言っているのだから)
「収益の75%を仏教関連団体に寄付している」と堂々と広告していたけれど、それも名前を挙げられた2団体は否定しているし、
あまりに明白な権利侵害が確認されたから、主要メディアは、君の事業に関する記事を急遽取り下げたわけだけれど、
君は、誰かの妨害行為のせいだ、圧力を受けたからだと、何も知らない人たちに訴えて、自分があたかも犠牲者であるかのような振る舞いを演じている。
「事業を託したい」「仏教を届けたい」と格好の良いことを言っているようだけれど、君はこうした事実を隠して、
君を信じて事業を譲り受けた人や企業が、君を信じたPR会社などと同じように、再び迷惑と損失を被るということを、
どうやら君は一切考えていないらしい。違うかい?
君の言葉の中に、どれだけの真実があるというのだろう?
君は正義のヒーローになりたかったのか?
だが、人の気持ちは無視して、人を騙すことには平気でいられるというのか?
誰から見ても、それは無理だよ。
本当にいいんだね?
時間は十分あったはずだ。十分待った。
君からの中傷めいた言葉を浴びながらも、君の人生を想って、沈黙を保ってきた。
だけれど、さすがにこれ以上沈黙を続けたら、君はどうやらさらなる嘘を重ねて、もっと多くの人たちを傷つける恐れが見えてきた。
君の言葉を信じて、課金に応じたり寄付してきた人たちは、まだ真実を知らされてはいない。
君は、都合の悪いことは隠して、都合の良いことだけを、しかも明らかな嘘まで含めて、彼らに訴え、彼らの信頼と支持を集めてきたらしい。
だがそうしたあり方は、そもそも仏教に、いや社会の道理に反する。
人として、やってはいけないことだ。
君が自らの過ちを自覚して、静かに閉じるならば、私は慈悲をもってそれを受け止めようと考えてきた。
だが、最後まで、君は、自分のことしか考えず、平気で嘘を重ねて、人々の思いまで弄(もてあそ)ぶことを選ぶらしい。
私が、唯一、許容できないのは、人の悪によって、人が傷つくことを見る時だ。
自分にできることがあるのに、それをしない。
そのことで誰かが傷つく。新たな苦しみを背負う。
そうした事態だけは、私は人間として受け入れることができない。
本当にいいんだね?
きちんと真実を伝える努力を始めようか。
君も見届けてくれればいい。私は、君のように嘘はつかない。
君の嘘のすべてを、明白な証拠をもって覆し、 この社会にこれ以上の混乱が生じないように、
真実を伝え始めることにするよ。
P.S.
真実は、君が最後まで投稿し続けてきた note に掲載していくことにするよ。
君も自分が言ったこと、やったことを、鏡を見るように、noteの連載を通して確認するといいよ。
「一人の仏教徒」に妨害されたとか圧力を受けたとか、ずいぶんと都合のいい非難(事実の隠蔽と責任転嫁)を続けてきた様子だけれど、
そのことで一番被害を受けたのは、誰かわかるかい?
君の言葉を信じた人たちだよ。
平気で嘘をつくというのは、人を最大限に愚弄していることに等しい。
君を最後まで信じようとする人はいるかもしれない。
だが今回ばかりは、原権利者も、メディアも、名を騙られた仏教団体も、学会も、みんなが、君の嘘を知っている。
何が真実かを決めるのは、君じゃない。社会だ。
「一人の仏教徒」として、社会が何を真実として受け止めるかを、見届けることにしよう。
君も、その場所で、見届けてくれればいい。
始めるよ――。
https://note.com/one_of_buddhists/n/n5c9b1ba26e91
仏教を盗んでしまっている君へ
仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ
最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。
むしろ君の未来のことを気にかけている。
そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?
君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど、
その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。
だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、
君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。
私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。
ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。
CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない?
そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?
そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。
彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、
今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。
人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。
誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?
こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。
君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか?
壊れないよ。君が居場所を失うだけだ。
君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。
でもそれは、最後まで控えておこうと思う。
君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。
君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?
私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。
君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。
PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。
だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。
君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。
いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。
でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。
君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。
もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、
おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。
心と体を持った人間が。
奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。
君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、
人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。
もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、
嘘をつかず、
与えられていないものを受け取らず、
まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、
その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。
そして人様からの托鉢をもってその身を養い、
一日十二時間の瞑想をし、
パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、
少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、
日々の小さな務めを果たしてみるがいい。
できるかい?
できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。
私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。
だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、
人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、
その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。
だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。
もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、
その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。
私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。
あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。
苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。
私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。
嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、
だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。
そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。
君は世界の苦しみを増やしていないか?
君は想像しないのか?
だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?
誰も君を苦しめようとなんてしていない。
苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。
君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。
そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、
私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。
伝わるかな。
伝わるまで伝え続けるよ。
草薙龍瞬
P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。
私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。
だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。
だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。
自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。
なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。
それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。
敵じゃないんだよ。
2026年4月9日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4
本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。
それは、あなたに向けても同じことだ。
私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、
ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。
あなたはわからないのか?
あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。
あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、
彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、
仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、
世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。
今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。
日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?
CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?
世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。
新聞社も、メディアも、学者の先生方も、
仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、
その点は同じだ。
あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?
どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。
そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。
世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。
そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。
あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。
仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。
だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。
あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。
あなたは、こうも伝えてきていますね
>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。
そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。
あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。
どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう?
単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、
その具体的根拠のみです。
現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、
生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。
その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。
あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。
つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、
その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、
真実は、
現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして
彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。
私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。
世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、
今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。
世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。
あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。
あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。
だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。
私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。
あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。
ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。
伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。
あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、
自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。
倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。
この問題は、それほど難しいことではないのですよ。
あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。
与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。
そういう道理を守れるかということだけです。
道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。
あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。
どう思いますか?
慈悲にもとづいて
2026年4月7日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3
この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。
彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。
(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)
ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、
無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。
この事件の本質は、
利用された側がまったく知らされなかったこと、
今回の無断使用に異議を訴えていること、
仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている
ことです。
盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。
この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。
誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。
盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。
自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、
無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。
盗んだだけだ。
盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。
「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。
仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、
自分のやっていることの非道がわからないのか?
その事業内容、
インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして
この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、
今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。
聞こえているか?
罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。
あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。
間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。
このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。
与えられていないものを受け取ってはならない。
もうしばらく時間という名の猶予はある。
2026年3月29日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2
これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。
この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。
今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。
しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。
こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。
ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。
ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。
ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:
◇◇◇◇◇◇◇
拝復
この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公
貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『
以下に、
仏教に対する理解が及ばない人間が、
そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨
彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、
拙著『反応しない練習』は、
仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、
この連絡をもって、
1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」
2026年3月下旬
追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて
追記:
ここにお伝えする言葉は、ある深刻な事態を知ることになったからです。
生成AIによる著作物・創造物の無断利用、その規模からして”収奪”とも言える事態は、
最近になって急浮上してきた深刻な事態です。
これを放置すれば、地道に何かを作り出し、また社会に発信しようというすべての人たちが、
その努力の証である創造物を、いとも簡単に奪われ、別の誰かに利用されるという
暗澹たる社会を招いてしまいかねません。
AIというのは、使いようによって、光にもなれば陰にもなります。
前者になるのは、使う人間に”倫理”(配慮)があるときであり、
後者になるのは、使う人間に”倫理”が欠落したときです。
現時点では、まだAIを使う人間の側に倫理が確立しているとは言えません(そう思いませんか?)。
だからこそ、慎重に、AIという新しい技術がもたらす影響について、全面的に肯定するのではなく、見届けていく必要があるものと思います。
今回の出来事は、倫理が欠落した時に、AIという情報処理技術が、どのような事態をもたらすかを示す、1つのモデルケースになるかもしれません。
真実は、見る人によって変わる多面的なものではありますが、
この先ゆっくりと時間をかけて、真実を明らかにしていきますので、
どうかあなたの最も純粋な心の眼で、この件を最後まで見届けてほしいと願っています。
2026年4月17日
こちらはかなり真面目な話として――
最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。
「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。
彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。
自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、
あからさまな文化的窃盗であり、
俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、
仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。
最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。
いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。
原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか?
自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?
そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?
「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。
これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。
古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。
だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。
そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。
パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。
ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。
しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。
さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。
もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。
ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。
一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。
だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。
彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。
なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。
最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。
2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。
仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。
そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。
彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。
思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、
仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。
しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。
そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。
なんの臆面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。
そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。だが言うまでもなく、彼らに仏教を”盗む”資格などない。
いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、
自分たちに、仏教を利用し、収奪し、さらに自分たちの利益を上乗せする資格があるというのか。
問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。
彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。
首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。
だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。
つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。
正気を取り戻してもらいたい。
彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。
まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、
その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。
どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。
世の中には、やっていいことと、悪いことがある。
そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。
苦しみを知らぬ者、
自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、
仏教が利用されることはない。あってはならない。
真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。
いずれは声を挙げねばならないか。
声を挙げねば、わからぬか。
※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。
2026年3月
※追記
どうやら、真相はもっと深刻で、もっと多くの虚偽を含んでいたようです。これほどの嘘を堂々とみずからアピールしてしまうとは・・いずれ真実を知った人たちは驚くはずです。今は信じている人たちさえも。
こういうことは、なるべく早く知られるほうがよいのです。本人にとって幸いだったかもしれないことは、真相を知ったのがこの場所(私)だったということです。
世の中は、私のように優しくはないから・・見つかるのが遅ければ遅いほど、信じた人々の怒りは大きくなるものだから。
あやまちを改めるのは早いほうがいい。自覚しないよりも、自覚したほうがいい。
遅れるほどに、本人が最後に背負う罪の重石は重くなってしまう。
私はそれを望んでいない。
どうするつもりなんだろう・・。
2026年4月11日
「椅子取りゲーム」いつまでやるの?
(子供を受験塾に通わせているお母さんのおたよりをふまえて)
某大学をめざせ系のカルチャーを支えているのは、
たかだか大学でしかないものに過剰な価値を見出し、まるでその価値を手に入れれば人生が挽回するとか、成功という社会的記号が手に入るとか、そういう単純な、もっとはっきりいえば貧しい価値観です。
どこぞの大学に進んだからといっても、それ自体に社会的な価値があるわけじゃない。
社会的な価値というのは、経済学的には付加価値を創り出すこと。
仏教的には、人の苦しみを減らし、社会における快適さを増やすこと。
そのための手段として、さまざまな仕事・役割があるわけで、どこぞの大学に行った・出た程度のことは、こうした価値に直接の関係がない。
社会的な価値に至らない、つまり価値未満の記号でしかない。
にもかかわらず、そうした分別、成熟、すなわち「社会にとっての価値とはどのようなものか?」という視野がまったく欠落している大人たちが、
どこぞの大学に行けば人生が変わるとか、社会的に有利だとかという思い込み(視野狭窄)に捕らわれていて、
その捕らわれている自分自身のダサさ・痛さをまったく自覚していない(いい歳をして)というところが、「絶句」なのです(間違っているというしかない)。
こうした価値観にとらわれた、視野の狭い、無思考な(疑ったうえで本当の価値を考えるということをしない)大人たちが、
特定の大学礼賛とか、偏差値とか、成績とか、ランクづけとか、そういう姑息な下位記号を次々に作り出して、売り物にして、
その記号を物差しにして、勝手に学校や子供たちの価値を判断して(これも一つのハラスメントですよ?)、
その判断を刷り込んで、自分自身の価値を判断させるように、また周りの人や仕事や学歴や社会のありようというものも判断させるように感化してしまう。
煽りであり、刷り込みであり、中身のない物差し(成績・学歴・大学名)で自分の承認欲を満たしたり、人をバカにしたりという「イヤな性格」を育ててしまう。
「イヤな性格」とはっきり言っていいのは、人というのは判断されたくないし、見下されたくもないから。
いちいち値踏みしてほしくない。なのに値踏みしてきやがる(笑)。それは、イヤな性格であり、イヤな人生観であり、イヤな価値観。
そういう価値観が蔓延してしまえば、見下されたくない子供たちは、その価値観という椅子取りゲームに興じざるを得なくなってしまう。
だって、親が必死だから、期待してくるから、塾がそうだから、入った学校が、友人がそうだから、予備校がそうだから、大人たちの視線がそうだから、耳に入ってくる話題がそうだから――。
学習して、いつの間にか、自分自身が同じ価値観に染まっている。承認という椅子取りゲームに血眼になってぐるぐると回っている自分がいる。周りの友だちも、大人たちも、社会も回っている。ぐるぐるぐるぐるぐる・・。
こういう無意味な椅子取りゲームを、疑いもしない、考えるアタマを持たない大人たちが世の中には蔓延していて、
そうした大人たちがしたり顔して、どこぞの大学をめざせとか、こういう勉強法があるぞとか、そういう自分にとってはもう終わったこと(こういう大人たちって何歳?)を得々と語って、カッコがついているように思い込んでいる。
そういう姿がカッコ悪い。
この椅子取りゲームのぐるぐる、いつ終わるのか。
終わらない可能性もある。それくらい、考えない大人が増えているかもしれないから。
◇
不登校については、学校という箱を相対化する(学校だけが学びの場所ではない)という意味はあるかもしれない。学校に執着しない大人も子供も増えている。
学校の価値が相対化されつつあるのは、社会の、つまりは大人たちの認識が少しは変わってきている証拠。少しは子供たちも自由になりつつあるのかもしれない。
同じように、どこぞの大学名が価値を持つという価値観もまた、そうした価値観を相対化できる、「そんなことに価値があるのではない」と思える大人たちが増えてくれば、
某大学をめざせ的なカルチャーは、ダサい、痛い、「いまだにそんなことを言っているの?」と白々と思うほかないオワコンになっていくかもしれない。
オワコンにすべきだと思う。終わらせないと、社会全体の可能性が尻すぼみになる。
自分らしく、つまり心に苦しみなく生きること。
世の中の殺伐・ストレスが増えないように、人の痛みや苦しみを思いやり、社会の問題に関心を持ち、
どうすれば、人・自分・社会の苦しみを減らせるか、快適を増やせるかという大きな価値をめざして、生きて、働く。
そうした生き方、社会のあり方のほうが、確実に、圧倒的に、価値がある。違うといえるかな?
◇
椅子取りゲームのぐるぐるを繰り返しても、せいぜい特定の椅子(大学・学歴)にしがみつくだけ。そんな自分に価値があると思う?
座れない人だって出てくる。座れる人と座れない人と――その区別そのものに、意味があると思うかい?
たかが小さな椅子でしかない。何も生み出さない貧相な椅子。
本当に価値あることは、その周りに、向こうに広がっているのだから。
◇
自分のプライドを守ることだけで精一杯、そんな余裕のない子供と、そのまま大人になった人たちと、そんな価値観しかない社会が、延々と繰り返される――
そうしたあり方に、心の底から「くだらない」と思える人間が、どれだけ出てくるか。
一人一人の生き方と、社会のあり方と--広がるか、ますます狭まるか。
狭まるなら、人の”心の首”はますます締めつけられて、窒息していくことになる。人生も、社会も。「生きづらさ」が増すばかり。
本当にくだらない。そう思えないとね。
2025年11月
全体を見てプラスなら・・
他人の評価(学校の先生の評価を含む)は、当てになりません。理不尽の最たるもの。建前としては「公平に」「客観的に」と言ってはいるものの、内心はどうしても分け隔て・選り好みはあるものです。
(親がわが子の兄弟姉妹を扱う時も同じはず。公平なんてありえない(笑)。)
だから得する人(世渡り上手な人)も、割を食う人(世の中の理不尽・不条理を体験しやすい)も、出てきます。
一番大事なことは、そうした現実は避けられないものと受け止めた上で、「トータルで得する」自分を作ることなのかなと思います。
先生の評価に疑問があっても、他の先生・科目・勉強・進路については、プラスを増やせるように努力する。どれかがイマイチでも、他がプラスなら、トータルで見れば得する可能性は出てきます。
最終的には「前に進めればいい」ので。中学生なら(納得のいく)高校に上がれればいいし、高校生なら(納得のいく)卒業後の進路にたどり着ければいい。
ひとつのマイナスについては、「世の中こういうものだ」と割り切って、それ以上は追いかけずに、プラスのほうを見て、プラスを増やすことを楽しむのです。
「しんどい部分」は、自分だけではなくて、他の人もみんな味わって(噛み締めて)いる部分だったりします。その意味では、独りではありません。
その部分はしばらく続くとしても、自分の全体を見れば、他の部分はプラスだったり、楽しかったり、有意義だったりするので、
トータルで見た時に「プラスなんだ」と思えることが大事なのかもしれません。
2025年10月中旬
スマホ漬けの茹でガエル
(今回はネガティブ&ダークな話題です。50代以上限定?)
外の世界に目を向けず、小さな画面に映る情報にしか心を向けない。このスマホ漬け、スマホ縛りによって、人々の心は、
・自分が興味を持つものにしか目を向けない
・「微反応」だけに脳を使い続ける
・外の人間・社会・未来に目を向けない(考えない)
という状態に引きずり込まれる。
心(意識)というリソースは有限だから、スマホ縛りによって、確実に目を向けなくなる対象が出てくる。
それが、人、社会、未来、そして自分にとって価値のあること、だ。
「自分に都合のいい」妄想が軸になって、自分に都合のいい人間・情報だけは歓迎する。
「自分に都合の悪い」人間や情報は、うざい、めんどくさい、だるいと感じて、遮断する。
「自分に都合のいい」ことを優先させて、社会のこと、自分や社会の未来のことを考えなくなる。
「自分に都合のいい」ことが、自分の将来にマイナスかもしれず、また社会や人類にとって有害かもしれないことには、思考力が及ばない。スマホに意識を奪われているからだ。
「スマホは悪か」といった極端な発想ではなく、単純に「スマホ縛り」で奪われている・失われている現状をどう考えるのかという点が、根本的な問いである。
スマホの便利さや時代性など、そんな名分を繰り出したところで、スマホに縛られ、生活のリズムを崩され、頭の中が混乱している人間は、大人・子供を問わず、大勢いるはずだ。
そういう視点は必要なはずだ。でなければ、個人の選択の問題として片づけられてしまう。だが人間の心はそれほど強くはない。野放しにすれば、必ず「スマホ縛り」の沼に堕ちる人間が出る。確実に。
スマホの便利さと危うさ、いや猛毒かもしれない部分とを、切って分けて考えないといけない。だがスマホ自体が、便利さと危うさを一体化して、便利さだけでは終わらず、必ずラク、怠惰、無気力、依存、都合のいい妄想へと誘い込む形になっているのだから、
便利さだけを訴えたり、個人の選択として片づけたり、今さら制限なんてムリ(みんな当たり前のように使っている)といった理屈は、「スマホ縛り」を正当化するだけで、マイナスの解決策にはならない。
マイナスをどうするのか、という点を思考しないと、「考える」ことにはならない。
マイナスは考えない。社会のことを考えない。未来への影響を考えない。
今がよければいい。自分がよければいい。自分に都合のいい人・情報だけでいいという発想。
◇
石油産業への巨大な忖度か。あるいは、もはや温暖化を防ぐことをあきらめて地球人口減少の一手段としてむしろ利用しようという国際的合意が密かに交わされてしまったのか。
こういう発想は「トンデモ」に聞こえるけれど、そんな妄想もしてしまうくらいの奇妙な沈黙ぶりだ。子供でも知っている(知っていた)はずのことが、まったく話題に上がらない。不気味な静けさだ。
結果としての灼熱と異常気象と、人々のスマホ縛り。二つは離れているようだが、同じ現象の表と裏だ。つまりは、人間が自分の都合だけ優先させて、考えなくなったという現象だ。
だが、今の社会が続く保証はない。「働いて生きていく」という当たり前の選択肢さえ難しくなってくるかもしれない。現に仕事をAIに奪われる人たちが出てきている。近い将来、もっと多くの仕事がAIに取って代わられる日が来るだろう。絵空事ではなく、現実だ。
そこまで科学技術が進歩した時に、力ある者(超富裕層や一部の権力者だろうか)は、平気で大衆を見捨てるだろう。AI優先でエンジニアを切り捨てる企業はすでに出ているが、もっと大規模な「棄民」政策 mass abandonment が起こるかもしれないということだ。
人類の歴史を、特にこの十年に起きた出来事を振り返れば、力を持つ者は自分の都合と利益を優先させて、弱者を平気で切り捨てる思想の持主であることは、容易にわかる。
彼らは優しい人間たちではない。博愛とか民主とか人権とか、そんな理念が通用するようなお人好しではない。
自分だけがよければそれでいい。自分だけが助かればいい。そういう発想で、AI・軍事・経済・金融・医療と、あらゆる方面を容赦なく突き進んでいく者たちだ。
個人的には、これも人類という種の生存戦略の一つかもしれない、と妙な諦念をもって見るようにもなってきている。
つまりは、発達途上の段階では何十億もの群衆を手なずけ、労働・生産の手段として利用して、自分たちの利潤と技術開発を追求し、
科学技術が一定レベル以上に進化して、ごくわずかな人間だけが生き延びられる状況に達した時点で、群衆を捨てるという戦略だ。
その時期が来るまでは、世界がどれほど危うくなっているかは、あえて知らせない。いずれ「茹でガエル」となって大量熱死する時期が確実に来るであろうのに、そのことには触れない。
代わりに人々にスマホを与えて、デジタル漬けにしておく。ローマ帝国の「パンとサーカス」と似た位置づけだ。
沸騰した 水瓶に 浮かぶは スマホと 茹でガエル
そんな時が来ないことをもちろん願うが、さて?
溶けていくアタマ(学力低下問題)
<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市
子育て&子供との関わり方について考えます。
8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。
文科省が公表した「経年変化分析調査」。
小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。
夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。
参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。
こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。
かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。
今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。
彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。
というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。
勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。
それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?
これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。
「ヤバい」と思う思考力さえないということ???
最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。
ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。
野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。
なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。
こんな状態で何が育つというのか???
人生、何も始まらなくなるぞ。
仕事は誰のためにするものか
仕事は、相手のためにするものです。
仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。
だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。
投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。
ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。
趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。
これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。
◇
だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。
自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。
自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。
こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。
この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。
これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?
◇
解決策はシンプルです。
「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。
自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。
まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。
その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。
「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。
そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。
そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。
◇
仕事で空けた穴を埋めることができるか。
仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。
できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。
穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。
「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。
穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、
穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、
「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。
そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。
成長し続けることが可能になるのです。
◇
穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。
穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。
大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。
増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。
「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」
と客観的に自覚できるかどうか。
一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。
これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、
穴が空いている、空きつつあることに気づかない、
それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。
それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。
◇
老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。
やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。
そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。
そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。
空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。
穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。
老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。
年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、
「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。
それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。
◇
仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。
自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。
自分の側の仕事については、満点を出せること。
仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。
穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。
動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。
その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。
そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。
◇
仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。
これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。
この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。
すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。
◇
自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。
これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。
穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、
その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。
この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、
自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。
まずは自分自身と闘わねばなりません。
国の基本~万博と人口減が象徴するもの
人生はシンプルでいい
ミャンマーを想う
ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。
個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。
かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。
かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。
軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。
国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。
私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。
軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、
「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。
ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。
長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。
いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。
いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。
現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。
もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、
あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。
そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。
今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。
その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。
軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。
しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、
地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。
ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、
その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。
彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。
過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。
だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。
今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。
なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。
力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。
そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。
どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。
避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、
避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。
ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。
中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト
2025年3月末日
碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4
(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)
◇
日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。
重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。
中高生のみんなに罪はない。
最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。
ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。
碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3
なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。
まったく変わってない。日本人の意識そのものが。
だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。
教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。
教育の原点は、志だ。
志は強靭でなければならない。
強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。
◇
たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、
今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、
そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、
中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。
あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、
「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。
語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。
日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。
◇
碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2
ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。
プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。
官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。
試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。
外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。
トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。
でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。
哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
要は、人間が育たない。
人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。
◇
そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。
でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。
そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。
と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。
本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。
だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。
大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。
できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、
その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。
職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。
だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。
どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。
碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1
「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
(長くてすみません、続きます)
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