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あやまちを犯した時は(そして、傷を負った人へ)

 

みずから犯したあやまちについては、

相手に与えた損害、その心の傷を理解しようと努力するか、

責任の取り方がはっきりしている場合(身体的自由の制約か金銭による償い)は、

それを引き受けることでしか、

社会的に許される可能性はありません。

それだけのあやまちをみずからが犯したという現実を受け入れること。

それはたしかに痛みを伴うものかもしれませんが、だからといって、被害を被った相手のせいにしていいということには、絶対にならないのです。

故意はなかったとか、同意があったと思っていたとか、そればかりか事実と異なる嘘までついて、自分のあやまちを否定し、それどころか相手(被害者)のせいだと言いたがる人間が、たまにいます。

そうした自分可愛さゆえの無理筋は、相手の傷にいっそうの塩を擦り込むに等しい「拷問」であり「虐待」であり「愚弄」になります。

相手がどれほどの心の傷を負い、またどれほどの時間と関係性の喪失、経済的損失その他の苦痛を被ったか、また今後も被り続けることになるか。

この社会に生きる人間である以上、想像することが、義務であり責任というものです。


そうした人間としての務めを放棄し、あやまちを謝罪することも、賠償することも、みずからの身をもって贖うことをも放棄して、

なお自分を守ろうとする。

そうしたことができてしまえる、しようと目論むこと自体が、

その人間が、相手を傷つけたこと、損害を与えたことの「証拠」になってしまいます。

というのも、

自らのあやまちを受け入れられない人間だからこそ

――それを世間では、残酷、傲慢、身勝手、幼さ、弱さ、不誠実と呼ぶことになるのでしょうが――

そうした人間だからこそ、みずからの行いの意味や責任を軽く見るし、不都合を隠蔽しようとするし、言うことがその都度変わるし、最後まで否認して、自分は悪くないと言い張れるのです。

そうしたふるまいと言葉のすべてが、その人間(あやまちを犯した者)の輪郭を、はっきりと彫刻していきます。

みずからがどんな人間かを、その行動と言葉によって、浮き彫りにしてしまう。


それは自滅でしかないのですが、本人には、今見える自分の都合、利益、プライド、恐れしか見えないので、止めない(それが通ると錯覚してしまう)のです。


結果的に残るのは、「悪人」としての自分です。

悪人としての刻印が残る。しかも刻み込んだのは、あやまちが明らかになった後の自分自身の行動であり言葉です。

これまでもそうやって自分を押し通し、不利益を隠して、不都合から逃げてきたからこそ、まさに今の自分にたどり着いたのかもしれません。

 

あやまちを認めること、謝罪すること、賠償すること、その罪を自分の残りの人生をもって償うことを、

難しい、やりたくない、と本人は考えてしまうのでしょう。

ですが、長い目で見るならば、それが一番簡単で、自分に確実にできる、正しいことなのです。


罪を認めない人間は、そこから先は「悪人」になってしまいます。

罪を認めて償うことで、はじめて過去のあやまちが、あやまちに留まるのです。それ以上の悪人と化すことを防ぐことができる。その後の生き方は自分次第ということになります。


あやまちをあやまちとして認めること。

被害を被った相手の心情や、その失ったもの、今後の人生を思いやること。


被害を被った、傷つけられた側が望んでいるのは、結局は、人間としての当たり前の、本当は簡単にして、確実にできることのみです。

それすらも受け入れようとしない相手(加害者)の行動と言葉によって、いっそう傷つけられることが多いものですが、

それでも願うのは、まずはあやまちをあやまちとして認めてもらいたいという一点です。

 

簡単なことのはずが、あまりに複雑で、遠いことになってしまう。

そうした事態を招いているのは、あやまちをあやまちとして認めようとしない人間の側にあります。

 

こうしてみると、世の中は、善人と悪人とに、最後は結局分かれていくようにも思います。

善人は、少なくとも、みずからのあやまちを否定しないし、償おうと努力します。

悪人は、最後まで、みずからのあやまちを認めようとせず、嘘、言い逃れ、責任転嫁、その他あらゆる強弁を弄して、自分を守ろうとします。自分が可愛い(そのぶん人が傷ついても)という態度を崩しません。



傷を負った人へ――

もしあなたが善人として生きているなら、ぜひ堂々と生きてほしいと思います。

あなたは悪くない。他人のあやまちに、悪に、巻き込まれてしまっただけで、あなたは何もしていないのだから。

強く、堂々と、生きてゆく――のです。



2024・12・11
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真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



SNS vs. オールドメディア


今日の講座(栄中日文化センター2024年11月)では、SNSとオールドメディアについて話をした。


必要なのは、<事実>と<主観>と<知見>という3つの視点。

<事実>  調査・分析・裏付けが必要――マスメディアに期待されてきた取材力。

<主観>(自分はこう思う・こうに違いないという意見)――人の数だけ存在する。歯止めはかけられない。SNSという便利な道具ができれば、それぞれの<主観>が語られることは当然。

多くの<主観>が並び立つ状態は、プラスの価値を持ちうる。自由。公平。多角的。そもそもマスメディアはこうした企業倫理を持つべきものとされている(されていた?)。

<事実>と<主観>をどう見るか――<知見>が大事になる。専門的な知見を<専門知>と呼び、人々が共有できる全体の利益についての知見を<公共知>と呼ぶ。

これは個人の<主観>を越えた、全体に通じる利益・価値につながるものでなければならない。

<事実>を掘り下げ、多様な<主観>を並べたうえで、どのように見ればいいかを、「全体の利益につながる」ことを前提条件として、整理し、提示する。それが<知見>というもの。

そうした力を持つものが、社会的に信頼される情報および言論だ。

信頼されるからこそ、権威にもなる。

独占・寡占・旧態依然による権威ではなく、社会全体の利益に貢献する<知見>を提示することが、権威の源泉になる。


<主観>だけなら、陰謀もゴシップも誹謗中傷も、良心にもとづく訴えさえをも、フラットに並べられてしまう。「私はこう思う、こうに違いない。ゆえに正しい、正しいに決まっている」。そこで思考停止してしまうのが、<主観>の特徴だ。

これは致し方ない部分がある。人間は一つの脳しか持っていないから。


SNS・ネットが信頼を得ることが難しいのは、<主観>だけが並ぶ空間だからだ。<主観>は無限に増えるが、これを<知見>へと昇華させることは難しい。

これを可能にする役割を担う筆頭が、公共放送・報道と呼ばれるものだ。

今やオールドメディアと揶揄されている媒体は、こうした役割を期待されていた。<事実><主観><知見>を示す役割。資本、人材、情報網、調査・分析能力、発信力を持つからこそ、こうした役割を果たすことが可能になる。

断片的な事実だけではなく、さまざまな事実を、調査し、分析し、裏を取って発信する。

多くの主観(自分はこう考える)を、偏ることなく、「公平に」「多角的に」報道する。

さらには、個々の主観にとらわれがちな一般の人々に、事実・主観はこのように見るべきだという<知見>をもって整理する。

その<知見>には、もちろん独自の視点や価値観が含まれることは仕方ないが、それでも「社会全体の利益に奉仕する」という使命を担う前提は一貫している――

それが、マス(大衆)に向けてのメディア、つまり新聞・テレビだとされてきた。


マスメディアがこうした姿を過去どれほど実現していたのかは、冷静に考えるとわからない部分もある。あの戦争当時も、薬害報道も、今回の選挙についても、報道機関・マスメディアは、「本来の姿」からかけ離れていて、偏向、党派対立、イデオロギー、スポンサーへの迎合や忖度、無視や決めつけにとらわれていた可能性はある。

今まではそれしかなかったから、目立たなかった(気づかれなかった)だけなのかもしれない。

だが、今はインターネット・SNSという別の媒体(メディア)がある。これらもまた<事実>の欠落や、偏った<主観>の発信という性質はなくはない(もっとひどい面もある)のだが、


全体を見れば、欠落した<事実>を補い、多角的な<主観>を発信するという機能を果たしつつあるようにも見える。

たしかに社会的価値から程遠い内容も多い。多すぎる。一定の内部手続を経て発信するマスメディアと同じ信頼性を持つことは、全体としてみればまだないし、今後も完全に得ることはないかもしれない。だが、

それでもマスメディア以上に<事実>に迫り、また多くの<主観>の発信に、つまりは公平・多角的な報道・放送に「貢献」している面も出てきている。そうかもしれないとは思う。


SNSを越える信頼性をマス(オールド)メディアが得るには、①<事実>についての調査・分析・取材の力を見せること、②公平で多角的な<主観>を並べて見せること、さらには③どのように見ればいいかという<知見>を掲げる必要があるのだが、

今やマスメディアもまた、都合のいい一部の<事実>を切り取り、偏った<主観>を発信し、専門家・学者・コメンテーターという肩書きを掲げつつも結局は「自分はこう思う」という主観を語るだけ、というレベルに留まるならば、

その情報はSNSと変わらなくなる。これは「敗北」というより、みずからが招いた役割の劣化なのだ。


最も危惧すべきは、マスメディアが、<事実><主観><知見>いずれの面においても、劣化してきたこと。果たすべき機能を果たしていない。

多くの人が、マスメディア(テレビ・新聞)の報道の偏り・不足・独善・退屈をかぎ取り、テレビ離れ・新聞離れという現象を起こしつつあるのは、

こうした機能をみずから果たさなければ(取り戻さねば)という使命感というか矜持というか、マスメディアがマスメディアたりうる根拠を、みずから放棄しつつあるからかもしれない。

 

思えば、コロナ騒動の3年間は、マスメディアの凋落を広く知らしめる出来事だったのかもしれない。人々の不信は、この期間に大幅に増えた気がしなくもない。

さらに危惧すべきは、SNSにせよマスメディアにせよ、価値ある情報とはどういうものか、つまりは<事実><主観><知見>がそろっているか、あるいは、それぞれを構成するどの部分(取材力・分析力・公平性・社会全体の利益への配慮etc.)が欠けているかを指摘する「知力」が欠落しているかもしれないことだ。

こういう部分を示す知力を備えている職業人が、本来の学者・専門家・知識人・思想家であるはずだが、

いつの間にか、だれもが「自分はこう思う」という主観レベルの言葉を語るだけで満足し、罵り合い、結果的に、

社会全体の利益・価値というものを、そろって棄損しているかのような現実が見えなくもない。

<主観>のみを語り、その主観以外の主観を想像することや、まだ見えていない事実を掘り起こすことや、どのように見ることが、社会全体の利益につながるのかという全体を考えない。

全体知の欠落。思考停止。知の劣化――これこそが、最も憂慮すべきことなのかもしれない。


SNSが、マスメディアが拾いきれない、拾おうとしない<事実>を拾い、多くの<主観>を取り上げて、それをもとに人々が考えて動くことを可能にするなら、その点においては、オールドメディアだけだった時代よりは、進歩といっていいかもしれない。

他方、社会全体の利益というものを無視して、事実を捏造・改竄・隠蔽しようとしたり、無責任な主観を一方的に発信して、主観と主観の対立・分断を際限なく増やしたりしていくだけならば、SNSは、社会全体を壊す危険を持ちかねない。

結局は、社会全体にプラスになる価値を増やす方向をめざしてこそ、SNSもオールドメディアも等しく価値を持つ。その方角をめざすべきなのだろうと思う。

 

いずれの側にも課題・問題は山積みなのだが、何が問題で、どこが欠けていて、何を補わなければいけないかという全体像を思い出す必要がある。そのための<事実><主観><知見>だ。3つがそろったメディアこそが、価値のある媒体ということになる。

 

この3つを通して情報の価値を検証する役割を、世に立つ誰かが担ってほしい。

 

ちなみに、事実も主観もうつろいゆくもので、消えてゆくもの、入れ替わるものだ。だが今回お話した<事実><主観><知見>という3つの視点は、メディアが担うべき不可欠の機能であり、時代・社会を問わず通用する、通用させるべき普遍的な知の一つだ。つねにこの3つをもって検証していくことだ。一過性の出来事に騒いで終わりにするのではなく。


こうした普遍的な内容・価値を持ちうる思考を、仏教においては「智慧」と呼び、「ダンマ」と呼ぶ。

もっと智慧が必要だ。こういう話をそれこそSNSで発信すれば価値あるものが生まれるか? そんな話にもなった。



2024・11・19



とある出来事(知事選)にちなんで

 

たぶんもうひとつの根の深い問題は、

事実は何か(まだ解明されていない、それだけの客観的な資料・材料がそろっていない)ということを忘れてしまっていることにあるように思います。

いつの間にか事実が置き去りにされて、それぞれの「こう思う(こうに違いない)」という推測・仮説・期待・希望のほうが真実であるかのように見え始めてしまっている。

「主観」と呼ばれるもの。オールドメディアと揶揄されるに至った媒体にも、SNSにも、それはある。

一番危ういのは、それぞれが「主観」しか見なくなっていることかもしれません。主観だけを選び、語り、発信し、「きっとそうなのだろう、そうに違いない」という主観が増えていく。


そしてもうひとつの問題は、時間という大事な視点が、その場の主観にとって代わられつつあること。時間とは、時系列や文脈ともいえるもの。

過去の出来事(これも事実を通してとらえないといけないものだけれど)と並べて、つなげて、どこがどう変わったのか、あるいは一貫しているのかを考えること。

そうすれば、矛盾、変容、嘘、あるいは確かな変化、反省、成長かということも、見きわめることが可能になる。

もし人それぞれが、個人的に選ぶ主観と、こうかもしれない、きっとそうなんだという妄想だけで今を切り取って、それを真実だと判断するようになれば、過去とのつながり・文脈という視点は切り落とされてしまう。

そうなると、過去をすぐ忘れる。すると嘘や矛盾にも気づかなくなる。善は簡単に悪に、悪は簡単に善に変わって見せることが可能になる。

結果的に、真実も見えなくなる。


「事実」と「時間」の二つは、真実を浮かび上がらせるうえで欠かせないもの。

その二つが、どうやら、どの立場においても危うくなりつつある――というのが、本当は最も目を凝らさねばならないところなのだろうと思います。


ただ、事実と時間を置き去りにして、都合の良い主観のみを切り取って大々的に流すということは、もしかしたらテレビや新聞というマスメディアから始めてしまったことかもしれず、

彼らが信頼を回復するためには、事実と時間を通して真実を浮き彫りにするという知力(過去、取材力、分析力、公平な報道と言われてきたもの)を、

理屈ではなく、実際に発信する情報の中身によって示すことが必要になるはずです。

その努力ができるかどうか。できない、しなくていいというなら、凋落と不信(影響力および売り上げの低下)は避けられない――そういう状況なのかもしれません。

 

社会という大きな器にとって、「時間」を忘れた「主観」だけの言説は、さすがに危うさを秘めているだろうとは思います。

何が嘘で何が真実かわからなくなる。「主観」がつながりあって大きな「主観」を作る一方で、別の「主観」も同じような動きをする。

主観だけなら、分断が生まれます。社会においては分断であり、個人においては孤立と対立です。

 

主観は価値を持つのだけれど(大切なのだけれど)、主観だけじゃ足りないのです。


社会という共通の器を未来につなげるためには。

すべての人は社会という器の中で生きることになるのだから。


※補足ですが、時間を忘れた主観だけの発信は、マスメディアのほうこそ顕著なのかもしれません。その影響力の大きさも考えれば、なおさらそう思います。

SNSにおける主観は、案外、時間(時系列)を精査して事実を掘りこそうという努力が見えることもあります。

ジャーナリズムの役割を、SNS上の私人・市民がやっている・・。

そうした点を見ると、いっそうマスメディアの価値は相対化して(揺らいで)くることも真実です。



2024・11・18


ブディズムの可能性


いや、この一週間はたいへんだった。いわゆるテンパるという状態が続いていた。

『反応しない練習』のコンテンツを講演用のスライドにしていたのだ。引くべき文章はそのまま引き、関連する仏典の引用やパーリ語の解説や本文注釈、最新の話題、仏教以外の関連図書(社会学・経済学・心理学等)のリストや、未公開原稿を付けたりして。

名づけて、『反応しない練習 The Upgrade』。

スライドだが、百ページ近くになった。今後さらに膨らませていくから、最終的にはもっと増える。

徹夜が続いたが、やっと終わった。そして成果を活かす機会が、さっそく完成当日にあった。

『反応しない練習』を解説し、実際に体験してもらう講演会だ。

講演というのは生ものだから、本の活字よりは、伝わる情報量や表現の正確度は落ちる気はしている。だがライブで直接伝えることには、正確さとは違う価値があるらしい。

(考えてみたら、アーティストの音楽も、スタジオ収録とライブ・コンサートは、伝わるものが違う。前者が作品としてのクオリティを上げることをめざす半面、後者は、目の前の観衆にダイレクトに伝える、まさに訴えることをめざす。ライブのほうが圧倒的に声に迫力があったり深みを感じたりすることがよくある(だから泣く観衆も出てくる)のは、それだけ送り手・受け手の心が激しく動いているからだろう。まさにライブだから伝わるものがあるのだ。)


今回は、50ページを超える本に近いスライド資料も用意したから、それなりに価値のあるコンテンツを作れたような気がしなくもない。「読む講演」的な。


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』は、現代社会を生き抜くうえで欠かせないスキルを集めた3部作だ。

これらの作品は、今を生きていくうえで不可欠。だが、ほとんどの人は知らない。合理的な心の使い方、業(ごう)、そして正しい怒り方について(※怒ってはいけないなんていうムリな発想は卒業してくださいw)。

これらを知っているかどうかで、人生はまったく変わってくる。本当は、企業に入った最初の時点で学んでおくべき内容が含まれている。

きちんと読んでもらえば、人生に見通しがつくようになる。ラクに生きられるようになるだろう。そうあってほしいと願う。


一人一人の人間は、広い世界の歯車に過ぎないかもしれない。だが、それぞれが小さな役割を果たすことで、この大きな世界が回っている。

どんな仕事であっても、その人が元気に働いている。それが、社会にとってどれほど大切なことか。

だから、一人として欠けてほしくない。働ける人は、働ける限り働いてほしい。元気に、幸せに。

そういう人としての思いをこめてお伝えして帰ってきた。充実した一日だった。


一人打ち上げとして外食しようと思ったが、いつの間にか値段がグンと上がっていた。久しぶりに(?)スーパーに行ったら、お米だけでなく、いろんなものが高くなっていた。値上げぶりが容赦ない。もはや隠そうともしなくなったようだ。

収入が連動して上がるわけではないから、急に暮らしが厳しくなったと感じる人は多かろう。さながら不意に水位が上がって溺れかけるかのような気分か。

そんな時勢に〇〇党は、ろくでもないことをやっている。あの党は壊れている。だから国を滅茶苦茶にしてしまっているのだ。任せていたら、ますます国を壊して復旧可能になるぞ。ガチで終わらせないとダメだ。この国全体を覆う閉塞感と為政者の絶望的な愚昧さは、この国は過去何度か体験しているはずだが、はてこの先変わる機運は高まってくるのだろうか。


これでようやく休めると思ったら、新聞連載のイラスト描きが残っていた。また徹夜か・・。

でも久しぶりに、集中を継続できた。働いたという実感を思い出した(笑)。

そろそろ本の執筆でも、この継続モードを起動せねばなるまい。



2024・11・13

子供が壊れていく

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

子供が壊れていく・・。

街を歩くと、スマホゾンビ、スマホ奴隷がいたるところに闊歩している。

率直に言って、不気味な光景だ。

目の前に誰がいるかも、周囲がどんな状況かにも意を払わず、小さな画面に目を凝らしている。そのままフラフラと夢遊病者のような足取りで歩いている。

小学生の子供は歩きながらゲーム。いい年をした大人さえも、スマホ、ゲームをやりながら歩いていく。歩いてくる。

地下鉄の階段の前を、ヨロヨロと登っていくジャージ姿の中学生らしき男子がいた。

追い越してながめると、ゲームだった。

図書館でも、ノートや問題集を広げながら、大半はスマホいじり。
友だちと勉強しているようでいて、結局はスマホいじり。

教室でも一見勉強しているフリをしながら、頭の中には、ゲーム、スマホ、タブレットがチラついているはずだ。完全な依存状態だ。

一人でスマホをいじる中学生の姿もよく見かける・・・机に突っ伏して、片手にスマホ持って、親指だけでてれんてれんと、画面を眺めているだけ。

病気だ。もはや病気のレベル。

階段さえ登りきれない、本さえ開けない、虚ろな目をしてジャンクライトを浴び続けて、なんと子供によっては、6時間、9時間、24時間(つまりは寝ても醒めても)ということもあるという。


親も親だ。無責任にスマホやタブレットを与えて(国や学校が今やそれを率先してやっているというなら同罪だ)、歯止めがかからない様子を目の当たりにしても、叱れない。

叱れないなら、最初から与えるな。

子供の脳は、発達途上だ。体験して、考えて、選んで、これからの長い人生を生き抜くための知力・学力を身に着けることが、必須の課題だ。

人は必ず大人になるのだから、その将来のために準備しなければならない。そのために心身を育てること、知力を鍛えること。

学校、勉強というもの自体は、選ぶ余地はある。だが学ぶこと、脳を鍛えることは、選ぶものではなく、生き物として、そして社会に生きる人間として、外してはならないことだ。

脳は、育てるべき時期に育てないと、発育・成長は止まる。

ダラダラ、デレデレと、ただ画面を眺めて、テキトーに指先でいじって、そういう状態がラクだからこそ延々と続けていられるのだが、その程度のことにどっぷり浸かってしまっては、

脳も、心も、体さえも、育たなくなる。

現にスマホに溺れて、一日何もしないで終わる子供たちが続出している。

今が終わっている。ならば人生も終わるぞ。


脳が壊れれば、日常生活も、勉強も、仕事も、この先の長い人生も、何も始められなくなる。まさにゾンビであり、病人であり、奴隷だ。

それだけ忌々しき事態だということは、子供たち・大人たちの姿を見れば、簡単にわかるはずだ。

まともに歩けず、まともに学べず、ラクだけを好み、新たな体験を面倒くさいと思ってしまう。

そんな自分にこの先何ができる? 本当に何もできなくなるぞ。


今を壊して、未来をも壊す。取り返しのつかないことをしてしまっている。


親が、大人が、それを許容してしまっていることも、実に罪深い。
中には、親がスマホに夢中で、幼い子が手持ち無沙汰という光景も、目にすることがある。

大人たちがスマホゾンビ化しているから、子供に叱るとか、厳然たるルールを作るとか、そういう覚悟が出てこないのだ。

脳が壊されている。学習障害、発達障害・・当たり前だ。

こんなことをしていたら、障害どころではなく、人生そのものが壊されてしまう。

親のせいであり、社会のせいだ。壊れつつあることに気づかないのか?


酒・タバコ、 公営競技(いわゆる賭け事)は、二十歳から。それだけの有害性・依存性があるからだ。

ドラッグ(覚せい剤・麻薬)は禁止。人生を滅ぼしかねないからだ。

スマホ、ゲーム、タブレットも、同様の危険性はあるのだぞ。

なにしろ脳を壊し、時間を失う。一度失った脳も時間も取り返せない。ラクだからこそ依存性もある。取扱い注意の危険物だ。


手遅れになる前に、年齢制限をかけるべきだという立場に賛同する。

だが、ぬるま湯に浸かりすぎたこの社会においては、規制の動きには反対する声が上がるかもしれないとも思う。

大人でさえ、自分がどんな病的姿を晒しているかを自覚していないのだから。

もはや社会全体が依存症のレベルに入っているのかもしれない。



取り返しのつかない事態に進みつつある気がしてならない。

子供たちが壊されている。




2024年10月末日

理不尽と闘うということ

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)


世の中は、理不尽に満ちている。

理不尽を作っているのは、たいていが傲慢な人たちだ。

彼らは平気で人を傷つけ、害を及ぼし、その後に言い繕い、嘘をつき、難癖をつけ、言い逃がれの屁理屈を語り、

傷つけられた側が、いつのまにか悪者であるかのように見せる術に長けている。

真っ当な人たち、つまり傷つけられた被害者は、自分にも落ち度があったのではないか、自分が悪いのではないか、自分さえ我慢すれば、犠牲になれば、自分以外の何かを守れるのではないかと考えて、

背負わなくていい苦しみまで背負ってしまう。

どんなに被害者側が、なるべく穏当に、他の誰も傷つかないようにと、ひとり苦痛をかみしめ、犠牲・負担を背負っても、

現実に残るのは、傲慢な加害者たちの嘘と無責任と野放図と、何もなかったかのような欺瞞に満ちた日常だ。

彼らは、自分たちが、どれだけ人を傷つけ、損害を与え、苦しみを強いたかについては、最後まで見ないフリを決め込む。「なかった」(むしろ困らされているのは自分たちだ)というのが、彼らの言いグセだ。

こうした人間たちは、放っておいても、決して反省しないし改心もしない。責任を取るという発想は永久に出てこない。

人を傷つけておいて、自分はさも善人であるかのような顔をし続けようとする。

その時点で、彼らは悪人なのです。最もタチの悪い悪人たち。


もしあなたが、誰かに傷つけられて、いったい誰が悪いのか、もしかしたら自分が悪いのかと、まだ混乱の中にいて独り苦悩しているのなら、こう考えてください:


◆問題の原因を作っているのは、「事実」を引き起こした側である。
(その者たちがそんなことを言わなければ、しなければ、こんな事態は、こんな被害は生じていなかったといえるなら、罪を背負うべきはその者たちである)

◆その場合は、理解を求めることは間違っていない。

◆ただし、最終的には社会に理解を求めることになるので、事実(つまりは証拠)をきちんと示す必要がある。

◆いずれにせよ、他人が作った問題については、自分が悪いわけではない。

あなたは犠牲者であって、罪人では絶対にない。

◆被害を被った者は、被害を訴える権利がある。それが市民社会のルールである。


しっかり心を守ってください。

理不尽に対しては、泣き寝入りせず、堂々と被害を訴えてよいのです。






2024・10・27
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選挙は行かねば始まらない

選挙は行かねば始まらない。

選挙というのは、

自分の意志が政治に反映されるかとか(→どうせ反映されない)、

世の中変わるか(→どうせ変わらない)という理由で行くというよりも、


「自分にとって」を明らかにする作業です。


まずは世の中をどの方角に変えていきたいかを、

「自分の内側で」確認すること。そのきっかけ。


自分なりに知ろうとして、選んで、意思表示しなければ、「自分にとって」は明らかにならない。

そんな自分は社会につながっていない。何もしていない。

そんな自分が社会に不平不満を持つなんて、おかしな姿ということになる(不満なのに最低限の行動さえしていないのだから)。


政治のことがよくわからない、

一票入れてきたって何も変わらない、

投票したいと思う候補者がいない、

といろいろ理屈はあるかもしれないけれど、


いないなら白票入れてきたってよいし、

ほんの少し検索してみれば、その候補者がどんな人間かをうかがい知ることはできるかもしれない。

普段、ネットニュースを眺めて、名の知れた人のゴシップに詮索・批判できる時間はあるというなら、

候補者が、どんな過去・仕事・生活をその背景に持っていて、

何をめざして、具体的に何をやっているのか、多少は首を突っ込んでみることはしてもいい。

 

自分とすべての点において考えが同じということは、ほぼありえない。

物足りない、不満に思う部分もあるかもしれないけれど、部分的に支持・共通するところがあるなら、その部分だけ支持するという形があってもいい。

 

自分が動いても動かなくても、誰かが議席を取って、いい方向にか悪い方向にか、いずれにせよ世の中は動いてゆかざるを得ないのだから、

まずは
「自分にとって」
「自分の内側で」
「ひとまず」

誰を選ぶか、明らかにしてみてもいい。


政治はどうしたって非合理で、残酷で、醜悪で、低俗で、非生産的なものではあるけれど、

それでも自分の中でどんな社会になってほしいかを明らかにすることは、「自分にとって」意味を持つし、

もし少しでも共感できそうな、この人には政治の世界で頑張ってほしいと思えるような人がいるのなら、

ないよりは、あったほうがよかろう程度の可能性を見て、とりあえず一票投じて、自分の務めを果たすこと。


(もちろん勘違いかもしれないし、裏切られることもあるかもしれないけれど、そのことに落胆・憤懣していても始まらない。「しょせん人間」という諦めは持っておこう。「それでも」とプラスに思える部分を見つけようという話。)


それは、社会のためでもあるし、自分のためでもある。

票を投じなければ、社会と自分の両方を失う。何者でもない自分自身に、放棄という名の一票を投じて、まさに何者でもない日常をただ生きていくだけになる。

それは「自分にとって」意味がない。

 

国政選挙の投票率は、わずか50%強だ。有権者の半分近い人間が、「どうせ変わらない」とか「自分一人投票しても」みたいなところに留まっている。

もし一人一人が、「自分にとって」を明確にし、

その分、自分の頭で考えて、行動して、意思表示するところまで習慣化して、

そういう動く人たちが投票するようになって、

投票率が70%、80%、90%になったなら、

社会は大きく変わるよ。民意を無視できなくなる。恐れるようになる。


(若者が全員投票したってシニア層に勝てないという声は、自前のニヒリズム・自滅思考をもとに語っているだけで、現実を見ていない。

現実を変えよう・変わろうという意志のない人間が、そういうことを語って虚無に導こうとするのです。正しい理解ではありません。)

 

「どうせ変わらない」程度の意識しかない有権者が半分もいる限り、

「どうせ見抜かれっこない」と見くびる政治家が必ず出てくる。


政治家にバカにされているのは、有権者がみずからをバカにしているから。

「自分にとって」を大事にしていないからです。



2024年10月27日






悩ましい問い:メディアとの関わり


見つけてくれることは、たいへんありがたく・・。

でも出家の立ち位置からすれば、すぐには乗れない話が、メディアからの依頼。

テレビ、新聞、動画、ネットメディアーー

この社会の幸福の総量を増やすことにつながるか、

それとも一見意味があるように見えて、実は消費されるだけで、まったく意味がないか。

後者の可能性をまったく恐れない人であれば、どんどん乗っかって露出が増えていくのかもしれないけれど、

そうした部分に価値を見ない出家にとっては、前者のみが、メディアとの関わりを決める基準になる。

ときおりお声がかかる。しばらく悩む。せっかくお声をかけていただいたのにお応えできない申しわけなさを背負ってしまう。

かつての対応の一部を抜粋します(ネットメディアの最先端をゆく某メディア様への出家的回答です):


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今回、興味深いオファーをいただいたと感じ、前向きに検討するつもりで、ご案内のコーナーを拝見致しました。

・・・・・やはり、SNS(ツイッター)と同じ価値観でプラットフォームを構築されておられるのですね。

目が傷みます×▽×)

記事あるいは個人と読者とのやり取りに、フォロワー数の表示は必要なのでしょうか・・・。

今の世の中・時代が、人の心に過剰に負荷をかけている一因は、純粋な言論・表現に、逐一数値による評価を押しつける節操なき仕組みにあります。ツイッターがその最たるもの。「完全に病気」だと個人的に感じています。

人には承認欲があるので、フォロワー数とか視聴回数とかチャンネル登録者数とか、いちいち数値化されると、どうしても反応して、それに応えようとします。結果的に本来の目的(交流・共有)から離れて、過剰に他人の評価を気にせざるをえなくなります。

ご紹介いただいた方の記事も、自分では制御できない部分まで、自前の承認欲に基づいて妄想を広げて、最終的に疲弊なさったのだろうと感じます。

(妄想に快を感じ追いかけている時がハイで、疲弊した状態がローです。躁鬱とは妄想が作り出す心の病です。思考によっては抜け出せない。妄想を解除しないと。その原点にある承認欲を書き換えないと。)


もともと人の心には、負荷(ストレス)が過剰に達するまでの許容範囲があります。その範囲は人さまざま。

人さまざまだからこそ、画一的な価値観をもって数値化し評価する仕掛けを採用することで、適応しきれない人たちが病んでゆくのです。

過剰な数値化によって人の心を扇動することで、一時的には利用者のモチベーションが上がったり、その数値を見て注目する人が増えたりするかもしれません。ビジネスモデルとしては一見成功して見えることでしょう。

しかし、「数値」というノイズが入る限り、情報の真価・本質が見えなくなります。簡単に見抜けること(自分にとっての価値の高低)さえ見えなくなる。

本質を見極めようと思えば、不必要な情報(たとえば経歴・ポスト・数値)を捨象したほうが、速くたどり着けるものです。今の時代は、必要のない刺激と情報が過剰なために、本質を見極めることが逆に難しくなっている印象があります。

おそらく〇〇〇〇の読者様たちは、価値ある情報を掘り起こすために、選別に相当なエネルギーを使っておられるのだろうと察します。しかも何を語るか、自分をどう見せるかを、目まぐるしく計算しながら・・。

 
現在のSNSの設計は、発信する側にも負荷がかかり、見る側にも負荷がかかります。

その根本的理由は、自己顕示欲をベースに設計しているから。心の病が極北まで進んだ海の向こうの国の価値観(病気)に基づいているからです。同じことをしなくてもいいのに・・・。

数値が価値を持つというのは、一つの価値観。しかし、数値は無駄(なくていい)というのも、正しい価値観です。

価値観というのは、平等。どちらかだけが正しく、優れているということはありません(価値観そのものは妄想だからです(笑))。

二つの価値観が併存してこそ、価値観が豊かだということになります。さまざまな価値観が併存するプラットフォームを作る場所こそが、多様な価値観を実現する、それこそ「一歩先をゆく」場所ということになります。

現時点で、本当に先進的なプラットフォームは、存在するのでしょうか。ないかもしれない。
 

現代の宿痾(止み難き病)の一つは、自己顕示欲・承認欲を煽り、煽られる仕掛け「だけ」が、唯一価値を持つかのように、社会全体が勘違いしていることにあります。


単純に価値観が貧しいということです。その閉塞ぶりが、人々に過剰な負荷を強いている。

この国の人たちが、みな、単一の価値観の中に閉じ込められているように、私には映ります。

他にいくらでも、生き方・価値観・制度設計はありうるのに、みんな「乗っかる」ことに必死で、別の可能性を探そうとしない。

この国が迷走し続けているのは、別のあり方を想像し、かつ創造する知性が枯渇しているからです。

豊かなようで、きわめて貧しく、先進的に見えて、実はかなり遅れている。なぜなら、この世界のあり方を疑い、別の可能性を提起する知性が、ほとんど見当たらないのだから。

みんな、乗っかってしまっている。根底から考えるということをしていない。

と、かように懐疑的なので、今の世界(貴誌のプラットフォームも含め)とは一線を引いて活動しています^^。


とはいえ・・・〇〇様のように見つけてくださる人もいます。それは、とてもありがたいことです。

本当は、 〇〇様のような人たちに向けて、もっと多くの言葉を届けたいとも思ってやまないのですが。

私はSNSも一切やっていません。今の私は、この殺伐とした異常な世界にあって、見えるようで見えない場所にいるのだろうと思います。

それでも本を見つけて、やすらぎを見出してくださる人たちが、たくさんいます。

そうした人たちとつながっていけるなら、それでいいのかなというのが、今の心境です。

わざわざ自分から出ていくことも、過剰な数値化を強いてくる歪な世界に乗っかることも、まだまだ先の話でいいのかなと思っています(永久にないかもしれません)。

ご案内くださったプラットフォームが、もう少し優しい(というか合理的な)設計であるなら――たとえば、フォロワー数をデフォルトで開示するというツイッターもどきの仕組みを採らないことも選択できるなら^^;)、

この世界で頑張って生きている人たちとつながるつもりで、言葉を発することもあっていいかなとは思います。

現時点では、まだ躊躇する思いのほうが大きい次第です(踏み切るだけの名分がまだ見えない)。時機を待ちたいと思います。


多くの人が自分を語り、自分を見せつけたがる、「見た目、痛い」世の中です。


そんな中で、優しさやまっとうな生き方を貫いて頑張る人たち(〇〇様もそのお一人なのでしょう)のことを想って、地道に作品を送り出していきたいと思っています。




2024・10・25
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夏の日の独り言 8月15日


8月15日は、あの戦争が終わった日。


だがあの戦争を覚えている人は、徐々に確実に少なくなっている。

心なしか、戦争を振り返る声(報道や行事)も減りつつある印象もある。

あの戦争を振り返る時はたいてい、戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦争が起こらないようにという願いを確認するものではあるけれど、


もっと正確に言えば、戦争を繰り返さないためには、「思考する」ことを育てなければいけないのだろうと思えてくる。


現実に何が起きているのか。

それがどんな結果をもたらしうるのか。何が原因か。

どんな方法がありうるか。


こうしたことを考え抜いて言語化しなければ、問題が起きても気づかず、気づいても方法を思いつかず、

よくて現状維持、悪ければ現状悪化、さらには心が持つ弱さ・醜さ・狡猾さに負けて、個人の人生に、そして世界に、いっそう苦しみを増やしてしまう事態につながりかねない。


共通するのは「無思考」だ。問題を見ず、原因を考えず、方法を考えず、望ましい未来を思い描かず、苦しみに満ちた未来を想像しない。


あの戦争においては、本当に戦争を始める必要があったのか、いつ終わらせるのかを、冷静に考えた人間は少なかった。当時の人々の多くは(すべてとは言わないが)、正しい戦争をしていたと信じていたし、終わらせようとも考えていなかった。

(※日清・日露戦争当時から、日本人は戦争することを願っていたのだ。メディアも市井の人々も。日本人は戦争を好んだ。そのことは否定できない事実であったように見える)。

 

無思考こそが、あの戦争の原因だった。


今の時代はどうかといえば、やはり同じだ。おそらく本質は変わっていない。

気候変動どころか、沸騰化しつつある大気の原因を考えない。打開する方法を真剣に模索しない。なんとなくこのままでも経済活動は続けられると信じている。無思考。


政治システムが変わらない。腐敗と停滞は長すぎるほど続いているのに、変わらなければという声が実を結ばない。変わるためにはどんな制度(アイデアと法律案)がありうるかを議論せねばならないが、真剣に考える人間は、政治家にも(与党にも野党にも)、かつては立案の多くを担っていた行政官僚にも、学問・思想の世界にも、いない。無思考。

(※ここで想定しているのは、法案の前段階になりうる草案レベルのアイデアだ。すぐにでも国会で議論できるくらいに洗練された制度案。それを考え、実際に書ける職業人。)


教育が変わらない。学校の現場は限界を超えているし、知的創造力を育てる教育プログラムはいくらでも議論し変えていいのに、いまだに国が管理し、教育のすべてを統制しようとし続けている。無思考。


個人が生き方を考えようとしない。心の魔(悪意)に流されて、他人を傷つける言葉を平然と語り、自己顕示と自己主張にエネルギーを費やす一方で、どうやら幸せは増えていない。無思考。

命と健康を守るはずの医療が、営利か別の思惑があるのか、人々に過剰な負担と未知の危険を強いる、そんな事態に無神経になった。無思考。


マスメディアは公平さと分析力を失った。報道本来の意味を考えず、表面的な話題と恣意的に選択(忖度)した情報だけを流すようになった。主観的印象に過ぎないが、そうだとすれば、これも無思考だ。


最大の憂慮すべき問題は、そもそも思考するとはどういうことかが、わからなくなったことかもしれない。学者・知識人・評論家・専門家・文化人と称される<知>を担う者たちが、個人的な意見や感想しか語らなくなった。


現実に何が起きているか? 事実か否か? 客観的なデータは? どう分析すればいいか? どんな解釈がありうるか? そもそもの目的は? どんな方法がありうるか? どんな結果・効果が考えられるか? どんな基準で選択すべきか? 人は何を大切にすればいいか? いかに生きることが正解なのか?


すべては言語化できるもので、言語化することが<知>の役割であるはずだが、<知>を明瞭な言葉で示してくれる人間の数が減った。

政治・経済の機能不全、メディアの偏向、SNSを通じた自己顕示と自己主張の増殖、価値観の閉塞、<知>の衰退・・・

同時進行中であろう原因は複雑多岐にわたるが、共通するのは「無思考」である。そんな気がする。


無思考が続く限り、人間は過ちを繰り返す。

なぜなら心は、過ちの原因である貪欲と傲慢と妄想と怒りに満ちているものだから。


あの戦争を思い起こす日とは、無思考の罠に気づくべき日であるような気がする。

そもそも思考とはどういうものか。思考とは何だったか。それを思い起こす日にせねばと思える。


せめてこの場所は、思考とはどういうものかを思い出し、思考するとはどういうことかを改めて学ぶ場所であろうと考える。


8月15日は、思考の日。


それがこの場所における受け止め方。独り言。


※著作・講座・講演・看護専門学校での講義ほか、すべての場所において「思考」し続けます。その中身は、それぞれの場所においてのみ(思考を求める人との間でのみ)伝えていきます。慈悲にもとづく思考--それがこの場所の役割です。


2024年8月15日




大人たちにできること

2024年8月11日(日)

これからの生き方・働き方を考える~大人のための勉強会 東京


(あるお父さんへの返信から)

 おたよりありがとうございます。いろんなテーマを含んだ内容で、思考の枝葉が広がりました。

実用性重視の高校がもっと増えたら、たしかに社会の可能性も広がるだろうと思います。特に私学や通信制などになるのでしょうか、教育方針に個性を出せるのは。

意欲と適正を大事にして、できるかぎり早期に体験、学習、自立できるようにして。

実用レベルに到達すれば、その時点で就職・起業できるようにするとか。

それで収入・待遇・立場が約束されるなら、形骸化した大学なんか行かなくていいと思う人が増えるかも。




その一方で、「ステイタスとしての大学」が堅固なエスタブリッシュメントとして存在し続けるだろうとも、思わなくもなく。

というのも、個人的な感想になってしまいますが、最近、〇大の教育環境について、ちらりとのぞく機会があったのです。

その時に感じたのは、やっぱり凄まじい学歴志向。学生たちは、「自分たちは優等生、選び抜かれた秀才」みたいな自意識をむき出しにしていて(若いからそう見えるのかもしれないし、承認欲全盛の世相の影響もあるかもしれないけれど)、

しかも学長・教授陣が、輪をかけて「この場所は特別」みたいな高踏的雰囲気を醸し出していて。

一番変わっていなかったのは、大学であり、教授だったのです。

大学の内部にいる彼らこそが、大学も、教育も、社会も変わらなくていい、と思い込んでいるように見えたのでした。


彼らの意識が変わらないということは、入試制度も変わらないということです。入試科目・選抜方法・・。

大学入試が変わらなければ、それを目標に指導する学校の先生の意識や、中学・高校の科目編成・内容、受験産業も変わらないでしょう。

現時点では、大学、高校、中学、塾に予備校、子供の受験に熱を上げる大人たちは、有名大学を頂点とするヒエラルキーの構成員(サポーター)であり、一蓮托生なのだと思わなくもありません。

そして教育内容の全体に枷(かせ)をはめている文科省も。

時代は変わっているし、もっと変わっていいし、変わるべきなのだけど、変えたくない大人たちが、この分野でも堅固なサークル(共同体)を作っているのだと思います。



エスタブリッシュメントは自己変革ができないから、社会を変えていくのは、先進的な一部の教育の場かもしれないとは思います。

そういう場所に頑張ってもらって、社会に通用する人材として、大学を無意味化するくらいに活躍してもらって、「大学に行くより、こういうルートのほうが豊かになれる」という価値観が社会に広がってくれれば、

そのぶん社会の活気や可能性は増える気もします。あくまで理想論であって、現実はかなり難しいのかもしれないけれど。


変わらぬ場所・人間は、変わらない・・百年経っても、千年が過ぎても。

だからこそ、自分にできる範囲で変えていくことが基本になりそうです。


親(お父さん・お母さん)が意識を変える。

その姿に感化・影響されて、子供が変わる。

そして、子供が自分で選んだ価値観のもとに人生をまっとうする。


その一直線を伸ばしていくことが、志ある親たちの務めのように思います。


ちなみにこの場所が計画しているのは、小学高学年向けの学びです。

この年頃は、人生の原点を作る大事な時期なので。この時期に本当の学びを体験してもらいたい。できあがった教育制度に縛りつけられる前が勝負・・そんな思いで計画中です。


大人・先生の影響力は大きいものです。

子供と距離が近い大人は、「世の中を変える」力を、実は持っているのですよ。

志ある大人、特にお父さん・お母さんは、子供たちと関わる活動を始めてはどうでしょうか。活動の中味はなんでもよいので。

とにかく関わって、聞いて、伝えることです。

教育の原点。社会を変えるための間違いない方法です。

 

 

 2024年8月初旬

 

 

この命の使い方(日本全国行脚道中記)

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

今回の講義には、東京、千葉、愛知の医師や医学生等が見学。地元の看護師さん(卒業生)も。

みなさん、その道のプロであり、プロになろうという人たちで、素人は私だけなのだが(笑)、プロといえども、見るべき点がすべて見えていることはほとんどないので、

この講義のように、医師、看護師、患者などすべての当事者に共通する「見えていなければいけない点」を技法に沿ってあぶりだすというアプローチは、確実に役に立つ。

医療・看護倫理は、まだまだ発達途上であって、いつ確立できるかわからない段階だ。かなうことなら、専門家の先生に活かしてもらって、「これだけは外せない、苦しみを増やさない最善の選択を導くための手順」を確立させ、普及させてほしいと思う。

3日目はグループワークを中心に進めて成功した。講師としては納得の一日。見学してくださった方々も、得たものは多かった様子。


そのあと奈良に入って、建築士さんと現地で打ち合わせ。ほんとに無事家屋が完成するのか素人にはわからないのだが、できます、と自信をもって言ってくださる。

完成すれば、今回の傷も癒されるだろう。最大の傷は、未来を育てるという教育活動が遅れを取ったことだ。

とにかく一日も早く形を作り、次の世代に生き方・学び方を伝える努力を始めたい。

 
夜に新幹線で東京へ。翌朝は早くに茨城に向かう。こちらは地元JA向けの講演会。

この一週間、徹夜続きで、看護学校での講義の合間に徹夜して新聞連載のイラストを仕上げるなど、かなりシュールな日常だった。器用な坊さんではある(笑)。いろんな分野でオリジナリティを発揮できている。

一度自分を捨てたことが、今につながっている。やりたいかやりたくないかという軛(くびき)を外して、求めに応じて、できることを謹んで確実にやる、という立場に立ってから、すべてが始まった。

茨城の講演会は、終活セミナー。歳を取るほど幸せになれる生き方について。農業を支える地元の女性たちがメインの対象。

日本の農業は実はピンチ。日本の社会そのものが、かなりの危機に直面している。それでも日本全国を旅すると、どの土地にもそれなりに人がいて、経済はまだ回っている。

巷間叫ばれている人口激減や継承者不足、食糧自給の危機などは、本当は夢なのではないか、まだこの社会は無事に回っていくのではないかと思いたくなるのだが、

だが、肉体の老いが刻々と目立たない速度で確実に進むように、社会の劣化・危殆化も、じわりじわりと進んでいるのだろう、と現実に目を覚ます。
 

まだ見えない危機を先取りしてシステムを変えていくことが、本来の社会的イノベーション・リノベーションであって、それが常態と化すことが理想なのだろうが、現実は程遠い。日本社会の時間は止まったままだ。いや、世界全体が、人類そのものが、か。

人間の心は、第一に己の妄想を見て、第二に執着することを選ぶ。見えない危機も未来も、他にありうる可能性も想像できないくらいに、小さな知力しか持ち合わせていないのだ。


日本社会の分断・萎縮・劣化・衰退は、自業自得と言えなくはない。だが、せめてその中で、新たな可能性を育む側に立たねばならぬという思いは、つねにある。


怒涛の一週間がやっと終わった。こんな日々をずっと続けたら、さすがに過労死するであろうと実感できるレベルの一週間だった。

実際に過労死する人たちも、この世の中には存在する。ひとり自死する人も、身投げする人も。忘れたことはない。

目の前で人が滅びつつあるのに、人間は現実を見ずして、まだおのれの欲と妄想にしがみつき、快楽と執着の中に留まっている。


世界は残酷だ。現実の苦しみを見ようとしない、その無知こそが、残酷な世界を作る最大の理由なのだ。

現実をよく見て、その中で己(おのれ)の命の使い方を見きわめる。

現実を見て感じる痛みを、熱量に変えて、この時代・この社会において、自分にできることをなす。

その道をどこまでも突き進むことが答えなのだと、今は知っている。ゆけ。



2024年7月20日
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医療倫理としてのブディズム


7月17日から3日連続で看護専門学校で講義。大阪のとある学校。

初日は、1年生向けの月イチ講義の最終日と3年生向けの初日。

1年生は平均年齢20歳未満という若いクラス。人は年を重ねるにつれて、年齢差・世代差が開いていく。そのことを気にする人たちもいる。

だが、伝えねばならないことに、年齢も世代も関係がない。

伝える価値があることは、①時代を越えて普遍的な内容と、②日々新しくなる知識や情報・技術をいかに見るかという「視点」である。

その部分を伝えることが、先生・講師の役割だ。その役割に、年齢は関係がない。伝えるべきものを選別する眼と、伝えようとする情熱と、どうすれば伝わるのかという工夫だ。

工夫はつねに新しくなる。その工夫を重ねることに情熱を持てるならば、先生役としては合格だ。他方、情熱が失せれば、その時点が引退すべき時だ。

前日夜は、大阪の宿に着いてレポートを採点する(またほぼ徹夜だ)。この講座の目的は、「技法に沿って目の前の患者に向き合ってもらう」こと。正しく理解し、方法を網羅し、明確な基準・根拠をもって選択してもらう。

すべてが漏れなく見えている(理解できている)ことが、看護、いやプロフェッショナルな仕事のすべてにおいて必要。

だから、技法を無視して、自分の考えだけを述べている答案は、失格とする。「私はこう思う」で終わるなら、勉強は要らないし、成長もしない。素人どまりだ。

つい「私はこう思う」で片づけがちな脳を、「技法に沿って」、つまりは、その仕事において絶対に欠かせない、「私」を超えて、「私」の前に置くべきいくつかのチェックリストに沿って考えを組み立てる。

それができて初めて「倫理的な」看護であり医療たりうるのだ。


仏教を専門とする私にこうした講義ができるのは、「技法」「倫理」「思考の道筋」は、普遍的なロジックであって、医学・看護の専門知識以前の常識であり、誰もが共有すべき知性そのものだからだ。

医師であれ、看護師であれ、患者であれ、立場の違いは関係ない。

立場を超えて共有せねばならない思考の道筋がある。それが「倫理」と呼ばれてきたものだが、その内容が過去あまりに漠然としていたため、

この講座では、徹底的にその中身を分析し、「これが倫理の本質だ」ということを言語化して伝えている。


医療倫理は、答えが出せない問いだという声もあるが、とんでもない勘違いであり、怠慢だ。目の前の人間の全人生がかかっているのに、答えを出せないなんてあってはいけない。

出せるように頭を鍛える。実際に出すための技法(論理)は、存在する。

その技法を伝えてきたのが、この講義だ。

すでに9年目か。医師、看護師、医学生など見学に来る人たちも毎年いる。ぜひ見学に来てほしい。

この講義では、徹底して「患者」の側に立って、最低限見えてほしい、考えてほしい問題点を問う。あえて突きつける。

プロとして明快に答えられないなら、そこに盲点がある。倫理の欠落だ。それが顕在化した時に、医療過誤や患者の悲しみや取り返しのつかない後悔が起きてしまうのだ。

日本の医療政策、ワクチンと言いつつ実はワクチンではない(遺伝子組み換え・改変剤)別物、その安全性と有効性、さらにはマイナス(副反応・副作用・後遺症・死に至るリスク)、一人一人において当然選択は違ってくるという医療の本質。

どれだけ事実を調べたか、データを把握しているか、現実に生じている苦しみを見て、何が原因か、防ぐためにどう理解すればいいか。

試しにいくつか問うてみるが、まともに答えられる医師や看護師は、実はほとんどいない。「そういわれているから、たぶんそうなのだろう」程度の浅い理解で簡単に選択してしまっている。

プロフェッショナルとは、素人に見えない部分まで、漏れなく見える者のことだ。

そして自分の思い込みや、思惑や、利権や打算計算や面子やプライドではなく、苦しむ人の苦しみをやわらげ、病んだ人を健康な日常へと戻し、できれば健康なまま長生きしてもらって、そのぶん、多くの幸せな体験をしてもらう。

そうした願いをもって、最も苦しみを増やさないですむ合理的な選択を促す。励ます。寄り添う。

それができる者をプロフェッショナルというのだ。


いわば当たり前の職業倫理だが、その倫理が急激に「別の何か」にすり替えられている印象も、なくはない。

プロであるべき医師や専門家たちが、合理的な選択のための思考の手順・基準を示すのではなく、

簡単に結論そのものを勝手に出してしまう。思考することなく、最初から選択肢を一つに決めつける。患者としては一番腹立たしい態度だ。

その結果、現実に苦しみが生じているのに、その苦しみを見ようとしないのだ。結論一択を押し通す。

こうした現実があるから、一般の人・犠牲になった人たちが苦しみの声を挙げているのだ。


今の時代ほど、医療への不信が高まった時はない。

その責任は、特に苦しみを背負った人たちを納得させられない者たち。いわば倫理が欠如したプロフェッショナルにある。


看護師は、医療の最前線に立つ人たちだが、看護師もまた見えていない人が多すぎる印象はある。みんな優秀で真面目。だが業務に追われて、「苦しみを増やさない選択」を導き出す時間がない。そもそも選択するための論理的な思考の手順を持っていない。

このままでは、患者の苦しみを救えない。それどころか、疲弊し辞めてしまったり、医療政策・病院・医師の側の思惑に振り回され、ときにいいように利用される「都合のいい医療従事者」になってしまう。

患者も、看護師も、もちろん医師も、現実を正しく見るための技法が必要だ。かつては「倫理」と呼ばれてきたもの。この学校では「技法」と呼んでいる。



(つづく)

2024年7月17日
 

出す価値のある本だけを出す


 今、十代向けの生き方&学び方の本を書き進めています。

 2014年に出した『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』の改訂版。とはいえ、全面的に書き直すことになりそうです。

 そもそも勉強法や学歴(といってもたかが学士卒に過ぎない)を売りにする風潮自体が、時代錯誤にして無思考の典型だろうと思っています。もはや飽和状態だし、こうした企画で本を出すこと&自分を語ること自体が、とっくの昔に社会全体が卒業しなければいけないはずの不毛で残酷な価値観を助長することになってしまいます。

 不毛というのは、試験という固定された制度の中で「いい点数を取る」ことと、社会における改善(問題の解決と苦しみの低減)との間に、相関性がないからです(直接の関係がない)。

 残酷というのは、学歴に価値を見出すことで、学歴を手にした者が称賛を、そうでない人が価値を認めてもらえないという偏りを作り出すからです。

 入試および学歴というのは、限られた椅子しかありません。椅子に座れる人(合格できた人)がいる一方で、どうしたって座れない人が出てきてしまう。

 しかし椅子に座れたからといって、社会の改善に貢献できるとは限らない。椅子に座れなかったといっても、学歴自体は(仏教的には)妄想に過ぎない。自分にできることをして社会の中で生きていければよく、本当は椅子そのもの(成績や学歴)に価値があるわけでもない。

 学歴があってもなくても、勉強ができてもできなくても、人は、自分のやり方で社会の中にひとつ居場所(仕事)を見つけて生きていければいいはずで、

 社会にとっては、その中に生きる一人一人が少しでも不安やストレスなく、逆に安心や満足をもって暮らしていければ、それが(それだけが)共通の価値といえるのだから、

 勉強、試験、学歴という、人間が作り上げたシステムそのものに価値があるわけではないのです。「たかが」の世界。しょせんは妄想。

 しかしそうはいっても、価値観もシステムもすぐには変わらない。むしろますます固定化しつつあるように見えなくもない。そうした社会に生きていかねばならない十代の人たちにとっては、学びも生き方も、現在進行形のテーマであることに違いはありません。

 自分自身が体験したことだからこそ、伝えて励ますことも可能になることは事実。自分がとうの昔に捨てた世界のことだからと捨ててしまうのも、歳を重ねた人間の傲慢と耄碌ということになりかねません。

 出す価値がある本しか出さないというのが、私の信念です。出す価値はあるーーいや、価値があるように中味を選び直してもう一度書き起こす。そこが挑戦のしどころかもしれません。

 どう書いても、世俗の価値観に迎合助長する側面を持つことは否めません。そうした価値観を嫌って生きてきた身にとっては、勉強や学歴を論じることは、どうしたって自己矛盾のジレンマを抱え込まざるを得ません。

 そういうジレンマさえも率直に言語化して、既存の風潮を突き放し、相対化して、時代・社会を越えて大切な学び方と生き方を伝える――そういう作品になればいいという結論に達しました。

 特定の大学や学歴をやたら話題にしたがる今の風潮は、明らかに間違っています。妄想をもてはやしたところで、社会における実利(本当に価値あること、つまりは人の幸福を増やすこと)は増えません。

「まとも」な生き方を伝えたい。少なくとも、まともな生き方は社会の風潮とはまったく別の場所にあるということを共有・共感できる人とつながることができればという思いで書き進めています。


仕事というもの


仕事とはどういうものでしょう。真っ当な仕事--人として守るべきこと、外してはいけないこととは、どういうものでしょうか。

仕事は第一に、人(相手)のためにするものです。

人が求めるものに応えて、人の役に立つこと。

そのことで自分の働きに応じた対価・報酬を受け取ること。

人のために役に立つ――ことが仕事の生命線です。

社会という場所は、お互いに役に立つことで、それぞれが必要としているものを手に入れることで成り立っています。

それが経済と呼ばれるもの。社会が社会であるための生命線です。



ところが、この生命線を掘り崩してしまう事態がたまに起こります(たまにであって、頻繁にではありません。頻繁に起きてしまえば、社会は崩壊していまいます)。

たとえば、自分の仕事・業務・役割を途中放棄すること。

この時点で、放棄した人や企業は、信頼を失います。なにしろ相手とかわした約束(契約)を自分から破棄してしまうのだから。

最初に約束したことを平気で覆すこと。できますと言ったことができなかったり、やりますといったことをやらなかったり。

悪質になると、客からお金を受け取ったまま逃げ出すとか、姿をくらますとか。

さらに輪をかけてひどいのは、自分の不手際を棚に上げて、逆に相手(依頼者・客)のせいにし始めるとか。

自分の仕事を省みずに、相手に責任転嫁する――ここまでくると、もはや「終わって」しまいます。人間として。仕事として。




この社会は、誠実に、自分の役割を果たす人や企業によって回っています。

誠実さとは、自分の仕事の質に向き合うこと、責任を負うことです。

どんな理由があろうと、自分がなすべき仕事がおろそかだったり、一定のレベルを下回っていたりしたら、その時点で仕事とはいえなくなります。

仕事には、越えなければいけない一線(クオリティと呼ばれるもの)があります。

その一線を越えなければ(上回らなければ)仕事とはいえないし、責任を果たせているともいえません。

その一線を死守しようと全力を尽くすことーーそれが 誠意 と呼ばれるものだろうと思います。

誠意をもって仕事をする。手を抜かない。いつ見られても大丈夫なように、ていねいにやる。

もしできると約束したことができなかった、ミスがあったと判明すれば、できるかぎりのことをする。

まずは謝罪。とりうる対策(いわゆるアフターフォロー)。ときに賠償など。

それをしないなら、一線を下回ったままの自分になってしまう。仕事失格。人からお金をいただく資格ナシ。

それが自分にとってイヤだから、そのままでは社会の信頼を失い、今後の仕事を失ってゆきかねないから、できる限りのことをする。

それが誠意というもの。真っ当な人間・企業は、こうした誠意を持っています。


もし誠意を見せることができれば、過去の過ちは「一時的なものだった」と受け止めてもらえるかもしれません。逆に信頼を勝ち得ることもあるでしょう。犯してしまった不手際やミスも、今後の成長と信頼の肥(こや)しになりうるのです。


どんな仕事も誠実に

人間として、企業として、組織として、業者として――

それが、仕事をする人たちの絶対の生命線なのです。



ところがごくまれに、この生命線を断ち切ってしまえる人間・企業がいます。

だます、嘘をつく、お金を持ち逃げする、言い逃れする、責任転嫁する。

自分(たち)に責任はない と言い張ろうとするのです。

そのくせ自分たちの面子、立場、利益だけは死守しようとします。

これは絶対にしてはいけないことであり、最も愚かなことです。

というのも、「一線を下回った仕事」をした事実は否定できないから。

事実を否定して、そんなことは言っていない、していない、自分たちに責任はない、と言い張った時点で、

言い逃れをする幼すぎる子供か、社会に反する存在へと堕ちてしまうのです。

よく聞こえてくる企業の不祥事、ミスの隠蔽、リコール問題、リフォーム詐欺、悪徳商法、医療過誤、突然の閉校といった事件は、そうした不誠実が明るみに出たものです。

中には、単純なミスやごまかしから始まったこともあるはずです。ところが対応を間違えて、事実を否定したり、言い逃れをしたり、責任転嫁をし始めた時点で、

自分の不誠実が露わになり始めます。取り返しのつかない「罪」とさえ化してゆく危険も出てきます。


どんなに言い逃れをしても、人のせいにしても、

自分がなすべきことをしなかった、

できる、やれると約束したことができなかったという事実は、覆せません。

その事実を否定し、責任を取ることを拒んだ瞬間に、その人間・業者は足元を掘り崩していくのです。



その喪失は、実は最初の出来事だけでは終わりません。

言い逃れをした、嘘をついた、できると約束したことが実はできなかった、こともあろうに客のせいにし始めた――そうした事実が残ります。

嘘や不誠実は必ずバレるものです。そこから着実に信頼を失い、社会における居場所を失ってゆくのです。


あったことをなかったと言う。なかったことをあったと言い張る。

プライドや思惑にしがみついて、事実と異なることを主張して、

お金や立場や看板だけは守ろうとして、

次第に不誠実が積み重なっていく・・。

その不誠実が明るみに出た時点で、もっと大きなものを失うのです。

詐欺まがい、それどころか明確な犯罪になってしまうような事態も、最初は小さな否定から始まるものです。

それでも通用するだろうと思う。社会という場所を甘く、軽く見る。

その小さな、しかし邪悪な、傲慢そして現実を直視しない未成熟さが、ますます黒い墓穴を大きくしていくのです。


実は、自分の心は、そのことに気づいていたりします。

自分が言っていることと、実際にやっていることが違っている。

できると言っていることが、本当はできない。できていない。


そうした欺瞞(ごまかし)に心は薄々気づいています。

だから罪の意識が、時間をかけて積み重なっていきます。

表向きの善良さと違う、裏に隠した不誠実を、本当は自覚している。

結果的に、半ば、隠れた悪人として生きていくことになります。

ごまかしが陰り(嘘)となって、胸を張って仕事ができなくなってゆくのです。


そんな人生や仕事はあまりにみじめだから、

本当の誇りと倫理感を持った人や企業は、最初から最後まで責任をもって仕事を進め、過ちについては謝罪し、なしうる限りのことをして、

人が自分に託してくれた信頼と未来の仕事を、守ろうとするのです。

ミスしない、あるいは苦情を受けない人間・企業など、ありえません。誠実に仕事をしても、過ちを犯すし、人さまに叱られることもあります。そんなことは当然です。

十年、二十年、三十年と仕事を続けてきた人間なら、そんなことはわかりきっているはずです。

しかしそうした人たちは、自分の仕事に誇りと責任感を持っているからこそ、事実をごまかさないし、責任転嫁もしないものです。自らのミスは潔く認めて、信頼回復のためになすべきことを全力で果たします。 

そうした心がけがあるからこそ、ミスやトラブルの数より、仕事の成功・達成のほうが着実に増えていきます。

でもそれが仕事の「当たり前」のレベルです。ほとんどの人間・企業にとっては、そうした働き方が当たり前。

それが社会というもの。真っ当な人間が作り出す真っ当な仕事というものです。

仕事は、それほど難しいことではありません。

できます、やりますと言ったことは、責任をもってやる。

力が及ばなかった点は、いさぎよく認める。

詫びるべきは詫びて、せめて自分にできることを全力で形にしてみせる。

そうして鍛えられていく。信頼を勝ち得る。

培った信頼が、さらなる仕事を運んできてくれる。

信頼して仕事を依頼した相手(客)も満足。

依頼を受けた自分たちも幸福。

結果として、社会にプラスの価値や幸福が増える――。

そうした関係性、それが仕事というものです。本物の仕事は創造的で楽しいものです。


仕事を頼む人たち--客、患者、施主その他さまざまな人たちは、信頼するからこそ、大切なお金、時間、未来を託します。

そうした信頼に全力で応えることが仕事です。手を抜いたり、慢心したり、言い逃れや責任転嫁という「泥」を投げつけるような罪だけは絶対に犯してはいけないものだろうと思います。


誠実な仕事を重ねてゆきたいものです。

限りある人生の終わりに、罪の意識ではなく、純粋な誇りと納得が残るように。

 

 


健康な心と病みがちな心

5月のとある講座の中から:



ひねくれ者・・・でもそれが「考える」ということかもしれず。

無思考のまま、ありがたがると、この世界は大きく方向を間違えてしまう恐れがあって、実際にその恐れは顕在化している・・・

無数の無思考が積み重なって、本当の幸福や可能性というものがフタをされてしまっているーー

結果としての「世の中ってこんなもの?」「この状態で続いていくの?(続けていくつもりなの?)」と、そう疑問を覚える人たちだっているであろう、この世界の現状のような気もします。

個人的に考えたいのは、

特定の人物が驕慢にして狂慢に囚われてしまっていたことが真実であって、

その真実は姿を変えて、時代を問わず、どれほどミクロな日常の中にあっても、当然のように起こりうることであることも事実であるとして(それは前提としたうえで)、

そうした個人の傲慢がなぜ他の人にも伝播(うつ)るのか、なぜ人は容易に感化されてしまうのか、

そうした社会への影響(慢の感染拡大)を止めるには、どのような方法がありうるのか(言葉、思想、教育、制度、文化それぞれの面において)

を探究していくことです。そこを考えないと、慢の肥大化に歯止めはかからない。

もちろんブディズムの中に、その足掛かりというか、思索のための原型があることは確実ですが、しかしそれだけでは(ブッダの言葉のコピーと継承)だけでは足りないーー

今の時代に確実に影響を及ぼしうるような、別の方法を掘り起こしていく必要があるように感じています。

これは、方向性です。形にできるかどうかはわからないけれども、問題意識・目的意識として持ち続けるべきであろうと思える可能性。

慢という思いがもたらすものが、どれほどの可能性を殺すかーーもうしばらく歴史を追っていきたいと思っています(講座内で全部取り上げられるわけでもありませんが)。



日常を楽しむことができるのは、ひとつの才です。

才ある人は実は世の中にたくさんいる・・けれども、それは健康な心の状態にある人たちであって、その一方で、心の病気(慢はその一種)にかかる人たちもいるし、すぐ感染してしまう人たちもいる。

一人の人間においても、健康だったり、病気だったり、心の状態は時によって変わる。

できることなら、長く健康でいられるほうがいい。

そうした健康を保つ秘訣とはどういうものか。

まだまだ言葉にできる領域は残っています。言葉にしていきたいと思います。


追記: 思想とは、まだ言葉になっていない未知の領域を言葉にしていく知力のことです。微力ながらもそうした方向性を見すえて、世界の現実を見て考え抜く――そうした努力をこの場所は続けてゆかねばとも思っています。



2024年5月某日


この春卒業した看護学生の皆さんへ


こんにちは (医療倫理)講師の草薙龍瞬です。
卒業おめでとうございます。


今思い浮かぶこと・・・個人的には、この四年間は、医療・看護倫理がかなり崩れた期間だったと思ってはいます――。

これは看護の世界に生きる人たちには伝えにくいことではあるのだけれど、

医療・看護が、助けを求めている人たちへの救いの手段であるはずが、いつのまにか患者や現場の看護師に過剰な負担を強いるようになっている現状もなくはなく。

たとえば感染予防策としてのワクチンの扱いについては、厚労省が認定する、mRNAワクチン接種後の後遺症・死亡事例が日を追うごとに増えているのは、事実。当然知っていますよね?

実習先の病院が、看護学生へのワクチン接種を「事実上」強制していたことも、過去にはありましたね。

ちなみにワクチン接種後に死亡した最初期の報道は、2021年4月15日。医療従事者への先行接種が完了した直後の、福岡在住の26歳の女性看護師でした。

接種4日後の朝、室内で倒れている姿が発見されました。当時、接種が進んでいたイギリスでは100万回接種あたり26.2件の死亡報告が出ていました。見えて(知って)いましたか?
 
今なお続く、新型コロナウィルスに関する執拗な報道も、倫理的には問題です。いつまで続けるのか。社会への負の影響をどう評価するのか。このまま社会の活力を削ぎ続けるのか。報道するかしないかを決める基準は、この社会にあるか? 
 

新型コロナについて、今回のワクチンについて、何が正しい理解かは、これから議論していかねばならないことです。決めつけは倫理違反。これは、人の命を守るという普遍的な使命を担う医学の問題であって、「反〇〇」といった党派対立の問題ではないのです。

起きた事実を冷静に見つめて、
いろんな可能性を考えること。「見解」(これが正しいに決まっている)という名の妄想に飛びつかずに、 「苦しみを増やさない」という医療の、いや社会全体の大原則、いわば約束を守り抜くこと。

それが倫理です。社会を社会として維持していくための良心。
 
みなさんが貫くべき職業倫理(看護師としての鉄則)でもあります。


しかし「苦しみを増やさない」という大原則に反する報道、政策、医療・看護のあり方が続いている印象が、個人的には強くあります。

多くの人が、自分が正しいと思う見解・意見の中に閉じこもるようになってしまった。異なる可能性、もっと他にあるかもしれない選択肢を考えなくなった――。


さまざまな見解に分かれるのは仕方ない。けれども、そうした多様な見解を、一定の視点をもって整理して、誰もが納得のいく「考え方の道筋」を示そうという態度が不可欠です。

特に医療・看護の専門家・プロフェッショナルには、そうした態度が期待されています。


自分たちの見解・利益に偏ることなく、なるべく多くの人が苦しみを回避し、幸福を実現できる社会を、制度を、選択肢を考え抜くーー
 
そうした本来の倫理が、どの分野においても、崩れつつあるように感じています。
 
日本社会の劣化は、危機的レベルにあるのかもしれません。



案外、ベテランの看護師であっても、こうした現実や、看護の世界固有の問題が見えていないことは、少なくありません。

使命感が強くて頑張りすぎたり、忙しすぎて看護の世界を冷静に眺めることができなかったり・・・確かに偉いし尊敬できるのだけど、お人好しすぎるのでは?と思うこともなくはありません。患者目線の脱線ですが(^^;)。



講義の中で皆さんにお伝えしていたのは、「患者目線で」レポートを評価しますよということ。晴れて卒業した皆さんに、私が患者目線で期待するのは、

まずは、現場で確実に人を救える技術と知識と経験を身に着けること。
(初歩を固めるのに3年、習熟に7年、主戦力になるのに10年? 一般論としてですが)。

そのうえで、看護が抱えるさまざまな問題を、正しく理解して、改善の方法を提言できる「新しい看護」を創れる人材になってくれること(時間はかかるし、難しい使命だけれど)。

苦しむ人を助けると同時に、自分自身も苦しみを越えて、

「納得のいく職業人生」――私は生涯をかけてこの仕事(看護)をやってきた、その人生に納得している、誇りに思う、生きてきた価値があったと思えること――

そこまでたどり着いてほしいな、と個人的には願っています。


そのためには、現実を正しく理解する技法が必要です。「ただ従う」ことが正しいとは限りません。

とはいえ「倫理的に間違っています」と言えるには、自分が相当なレベルのプロになる必要があるのだけど。

最終的には、

看護の世界が抱える問題を見抜いて、


「本来の(=苦しみを増やさない)看護のあり方」を言語化して、

「倫理に反する」現場の慣行や人間関係に苦しめられない「強い看護師」になってもらえたら、と願っています。


強く、優しい看護師 をめざしてくださいね――というのが、患者目線からの希望です。


 

改めて 

卒業、おめでとうございます



2024年3月下旬


現実と闘える本物のプロフェッショナルが各分野に必要では?



「心は歳を取らない」という生き方


「老害」という最近よく聞く言葉は、マクロの「制度論」と、ミクロの「人間関係論」に分けて、その意味を考える必要があります。

いずれの視点においても意味がない――というのが、仏教に基づく結論にはなります。もっと建設的なテーマ・表現に置き換えることが可能だからです。追って言葉にしていきたいと思っています。


ただ、こうした考察は、自戒しないと、まさに「私はこう思う」という我見(妄想)の延長にすぎなくなる危険があって、

その危険に気づかないままでいると、自分もまた「自分の意見以外は見えていない」独り善がりに陥ってしまいかねないので、

なるべく目線を低く、心を開いて、素朴な疑問を、素直な言葉で紡ぐ必要があります。(※本に書く時は、そのうえで知識や情報をつけ足します。この場所では、そこまではできませんがw)

「心が歳を取らない」ことが大事ということです--その練習はといえば、私の場合は、


外の景色を子供のように、というかまさに子供と同じ目線で見ること をしています^^。たとえば、

 

まだ寒い日が続いていますが、日差しはもう立派に春。透明で、あたたかくて。

外を歩いて、その光を、一切の自意識なく見つめます。

自意識をゼロにできれば、それは幼子が見る景色と同じになります。


「自分」を作っている日常の妄想(自意識のかけら)を完全に消すのです。


この命には、それが可能です。で、心をツルツルのピカピカにする――。

これが、自分にとっての一番の健康法です。


すると歳を取りにくくなります――あくまで”心の年齢”についてですがw。



ストレスを溜めないことは可能です

「老害」という言葉の無意味さ

 
最近よく耳にするようになった「老害」という言葉。

真実を伝えている部分もあるし、危ういレッテルにすぎない部分もあるというのが、個人的な印象です。

真実についていえば、たしかに歳を重ねると体力、気力、健康のみならず、認知能力(理解力・思考力などの知的能力も含む)も衰えていく事実は、否めないかもしれません。

それまで自分の心と体ひとつでできたことが、次第にできなくなってくる。

「できる」ことを前提とする社会における活動や労働については、たしかに「生産性」は落ちるのかもしれません。
 

ただ、それは老いという自然現象であって、人間だれもが平等です。

老いることがいけないこと、価値がないという判断は、「自分もまた老いゆく生命」である以上、だれも下す資格はありません。

個人レベルの発想として持つことは自由だとしても、社会に発する言葉としては意味がないということです。


こうした判断が意味を持たない理由は、他にもあります:

1)かつては老いれば生き延びる力を失い、静かに消えていったり、それこそ「姥捨て」されたりしていました。「仕方ない」として受け入れる。そういう社会もありました。

でも次第に社会が、物質的にも精神的にも豊かになって、それこそ老いた人、貧しいとされる人、「できる」ことが大多数の人に比べて少ない人も含めて、「大事にしよう」と考えるようになり、実現されるようにもなった――それが、今の社会です。
 
人間の尊厳であり、生存権であり、人格権であり、幸福を追求する権利。
それを具体化する数々の制度。

これらは、ひとつの社会が、長い歳月をかけてたどり着いた共通の理念であり価値なのです。

もしこうした権利や価値を制限したり、奪ったりすることを許容してしまえば、

物理的に、確実に、奪われる人間・苦しめられる人間の数が増えます。

苦しみの数が増える――これは、社会にとっては後退・悪化であり、前進・改善ではありません。

自分(あなた)は、苦しめられたいと思いますか? 奪われたいでしょうか?
 
「思わない」なら、自分にとって価値はありません。思わない自分が生きる社会にとっても、当然、価値を持ちません。
 
人はみな生きたいと思う。
幸せになりたいと願う。
誰もが大切にされたいと願っている。
 
ならば、

その思いが尊重される社会をめざすことが、尊重されたいと願う個人(あなた自身)にとっての価値であり正解です。
 
 
幸せに生きたい・尊重されたいという個人の思いを無視したり蹂躙したり奪ったりすることは、「そうでもしなければ全滅してしまう」というような極限の状況でもない限り、許容すべきではありません。

言うまでもなく、今の社会は、そうした極限の状況にはありません。

つまり今の社会にあっては、老いを含む、人の属性を理由とした差別や排除を肯定しようという思想は、必要がないのです。


2)もっとも、「老害」と言いたくなるような、社会に共通する問題が存在することも事実です。

ですが、こうした問題については、社会においては「制度」を通じて解決していくことになります。
 

※たとえば、高齢になった人が交通事故を起こすという問題については、「免許制度」の変更によって解決するのが筋です。免許更新の頻度を増やすか、年齢制限を加えるか。いま開発が進んでいる自動運転技術も、解決策の一つ。「老害」とレッテルを貼ったところで、何も解決しないことは明らかです。

社会保障に膨大なお金がかかるというのも、改善すべきは制度です。医療費一つにしても、貯蓄額や収入に応じてスライドするとか、医療制度の無駄や過剰を削減するなど、本気で探せば、方法はたくさんあるはず。「高齢者多すぎ」と言ったところで、改善にはなりません。

よく挙げられる政治家の高齢化については、それこそ定年制や議員数の削減などの「外科手術」(法改正)を図ることが、最も確実な一歩です(なにしろ人口が日本の3倍近くに達しようというアメリカさえ、国家議員の数は日本よりはるかに少ないのだから)。


社会を改善する唯一にして確実な方法は、制度を変えることなのです。

そうした方向で考えることなく「老害」とレッテルを貼る――これが「論理的に間違い」であることは、明らかです。必要がなく、役に立たない。
 
つまりは個人の「妄想」止まりということです。
 

「老害」は、価値のないレッテル貼り。これに対して、本当に価値があるのは、「制度」を具体的に話し合う(議論する)ことです。

問題を理解し、改善策を数多く考え、最終的に制度を変えること。

それが、現場・行政・学問に携わる人たちの仕事ということになります。

ちなみに、価値のある話し合い(議論)には、
➀共通の目標と、
②共有する事実認識(問題点や事実の把握)と、
③「方法」こそを話し合うのだという共通の認識と、
④最終的な意思決定の方法

が必要です。そのための場所が、国会や地方議会。ただし、これらの要素がそろった「建設的な議論」である必要があります。

具体的に制度を変えるための議論には、これだけの条件(➀から④)が必要なのです。
 

となると、「自分はこう思う」という個人の見解や、マスメディアやSNS上で語られるコメントは、社会を改善するという目標においては、まだ力を持ちません。

個人の感想や意見をいくら放っても、またSNS上でぶつけ合っても、社会を変えるには至らないのです。まるで雲をつかもうとしてジャンプするようなものです。


個人の思いを発することは、会話・交流としては意味を持ちます。共感できれば楽しいものだし、そうでなくても「いろんな見方があるんだな」と学ぶことが可能です。

しかし「制度」を考えなければいけない職業人、つまり政治・行政・学問に従事する人たちが、「自分はこう思う」程度の意見や感想を語っても、本来の仕事にはなりません。

彼らは「個人の思いつきで終わらない人たち」でなければいけないのです。

ところが、そうした役割を果たすべき人たち――具体的な制度を語れる人(学者・知識人・評論家・メディア)が少ない。これが日本社会が変わらない理由の一つのように思います。
 

社会を変える道筋とは――

まずは、現場を知る人たち(現場で活動する人や団体・行政職員・学者など)が、問題を把握し、改善するための「制度」を提案する(※きっと多くの人が思いつくのは、フランスの経済学者トマ・ピケティ)。

次に求められる役割は、行動につなげる人たち――たとえば、制度案をわかりやすく世に伝える人(これぞ本当のインフルエンサー)とか、有権者の支持を得るための働きかけができる人(政治家)とか、最終的な意思決定に参加する人(議員)とか、実際に施行・対応する人(行政職員)とか・・・

こうした人たちがそろって初めて、制度が変わり、社会が変わるのだろうと思います。
 

社会が変わらないのは、当たり前といえば当たり前です。変わるための条件を何も満たしていないのだから。



こうした真相をふまえたうえで、「老害」という言葉の意味を考えてみると?

「老害」という言葉を語れば、鬱憤晴らしになるのかもしれない。人によっては、「そうか、高齢者を排除すれば、社会は改善されるんだ」と期待してしまうのかもしれない。けれど、

現実には、ほぼ確実に「何一つ変わらない社会」が残ります。

なぜかといえば、「制度」を変えようという発想がないから。しかも、変わらない社会の中で、ストレスは確実に増えていきます。
 
というのも「自分はこう思う、これが正しい」という思い込みは(「老害」というレッテル張りや、今日よく語られる世代論も含めて)、
 
自分が正しいと思いこむ人間と、その正しさを押しつけられ、排除される人間とを、作り出すからです。

制度は変わらないのに、個人の分裂・分断は増える――そうした風潮が強くなればなるほど、「自分は正しい」という妄想止まりの個人が増え続け、「社会」は社会でなくなっていきます。

問題は何一つ変わらず、社会には分断が、そして個人にはストレスが増えていく。

価値がないばかりか、危険でもあることが、見えてくる気がしないでしょうか。
 
そうした社会を肯定するのであれば、「(自分だけは)排除されない人生」を、椅子取りゲームのように奪い合う社会へと変わっていかざるをえないかもしれません。それは、もはや社会とも呼べない殺伐とした場所かもしれません。

レッテルを貼って排除する――こうした発想には、社会をいっそう縮小・衰退させてゆく、もっといえば破壊していきかねない危うさが、あるのです。


もともと社会とは、人間が生き延びるために、それぞれが役割を果たして創り上げた共同体です。

その共同体が発展した結果として、なるべく多くの人が、できることならすべての人が、大事にされる、安心して生きていける、そんな社会を作ろうという今があります。

こうした方向性を維持することが、最上の価値です。この点を「議論」することは、ほとんど意味はありません。逆の方向に踏み出せば、すべての人が(あなたも、私も)生きていく基盤である社会そのものを掘り崩すことになるからです。

そんなことをしなくても、社会を変える方法は、いくらでもあります。
「制度」を変えればいいだけです。
 
あきらめることも、ニヒリズム(虚無主義)を決め込むことも、レッテルを貼って排除することも、正しくありません。それは、滅びゆくことを受け容れることでしかありません。

個人の趣向・選択としてはあっていい(止められない)かもしれないけれど、社会にとって価値はないのです。
 

人間は生きていくこと。
社会は続いていくこと。
 
それが生命線(引き下がってはいけない一線)です。

生きることが個人の、続いていくことが社会の大前提である以上、目の前の問題は「改善する」しかないのです。めざす方向性は、その一択。

社会の問題は、制度を変えることで改善できます。
 
実現への道筋が見え、かつ苦しみを増やさない制度のあり方を具体的に提示して、
 
社会にとってどのような選択肢がありうるかを、明らかにすること。
 
それが出発点です。その出発点に立たせてくれる発言ならば、社会にとって価値を持ちます。
 

「私はこう思う」という個人止まりの言葉ではなく、制度本位の(どのような制度がありうるかという視点で考える)言葉こそが、社会にとって価値を持つということです。
 

「老害」という言葉は、社会にとって価値を持ちません。早めに「卒業」してもいいのかもしれません。



2024・3・13

壊れた国

(少し世俗に踏み込んだ話題)

今回の旅は、彼我の差――かの国とこの国との違い、もっとはっきりいえば落差を浮き彫りにするものになった。


インドにも深刻な問題は山積しているが、子供の数が減るというあからさまな可能性の喪失には、まだ直面していない。

次々に子供が生まれてくるから、歳を重ねる孤独を感じない。

人を信じる子供たちは向こうから飛び込んでくるし、勢いよく育っていく。

未来は、世界は、こうして続いていくのだろうなという安堵を、いつの間にか感じている自分に気づく。

だが、この国に帰ってきた途端に、そうした安堵は音もなく消失してしまう。

子供たちはマイノリティであって、日常に目にするのは、大人たちだ。平均年齢49歳という老いた国。

しかも一人一人が孤立し、分断しているようにも見える。頼れるものが少ない。そう感じている人々が多いように見える。

頼れる人、頼れるお金、頼れる制度・・・自分を支えてくれていたものが、崩れつつある。

まるで海に浮かぶ筏が沈んでゆくかのように。

そして耳に入ってきたこの国の現実――

能登半島地震から二か月が経ってなお、瓦礫の撤去は進まず、仮設住宅は申請数8000に対して完成した数はわずか300(4%未満)。

人手不足が理由の一つとも聞くが、当然の話だ。ただでさえ不足が叫ばれている建設業界の人材は、あの大阪・関西万博に取られているのだから。

その万博は、もはや工事が間に合わないことは確実だという。だが言い出しっぺの政治家たちはだんまりを決め込み、関西経済界のお偉い人は「成功させるつもりがないとは、けしからん」と息巻いているともいう。

彼らにどんな裏事情、打算計算があるのか知らないが、万博と、家を失い寒さに凍える人々の支援と、優先順位がどちらが上かといえば、明らかに後者だ。人々の生存・生活を越えて優先させるべきことなど、ほぼないに等しい。

予算、人材、資材、機材という有限のリソースをどこに使うかは、まさに優先順位の問題だ。

間に合わないことが確実な万博にリソースを注ぎ続け、被災地の支援・復旧は後回しにする。これが今起きている現実ではないのか。

資源の分配こそは政治の仕事だが、その政治が、優先順位を完全に間違えている。見捨てている。倒錯。機能不全。「まともな政治」と対比させるなら、狂気という形容さえ当てはまる事態が起きている。


残念なことに、万博への資源集中と、現地の復旧の遅れを結びつける報道・発言は、まだ私のもとには聞こえてこない。

見えていないのか。考えていないのか。なぜ優先順位を真っ先に検討すべき政治家が、議会・国会で取り上げないのか。

(※さらに聞こえてきたのは、裏金問題に続く某党青年局の過激ショー(?)の余興・・・言葉にするだけで心が汚れる。このどうしようもない現実をなんと言おうか。)

東京の救急出動は、ここ二年、過去の記録を上回る多さともいう。たしかに救急車のサイレンが日夜響き続けている。

コロナ&インフルの同時流行も原因か、とピントのぼけた推測を新聞は報じているが、感染流行の規模は、実はそれほどの勢いはない。

あるように見えるのは、定点観測の数値を執拗に流し続けるからだ。本当にそれが事実なら救急出動数に占める感染症患者の割合を公表すればよいのに、それはしない。印象操作に近いところがある。

過去にも季節性インフルエンザの大流行はあったし、その規模は、最近の流行をはるかに上回っていたが、救急出動がこれほどの数値を記録することはなかった。

原因は他にある。その原因を追究することが、ジャーナリズムおよび行政・政治家の使命ではないのかとも思う。



奈良・五條市では、県有地の利用計画を新知事が突如変更して、なんと25ヘクタールに及ぶ敷地内にメガソーラーを設置すると言い出したそうだ。

そのような計画を、住民たちは承知していない。そんなことのために代々守ってきた土地を譲ったわけでもない。だが知事は「法令違反はない」と強弁していると聞く。

あの緑豊かな大和の大地を、無機質な黒の金属物が覆いつくすのか。

間近に見続けなければいけない住民たちの思い、住環境、未来はどうなるのか。

景観を破壊し、県民の信頼を平然と踏みにじり、住民たちに殺伐を強いて平気でいられる人間の感性とは、どういうものだろう。

ちなみにあまり聞こえてこないが、あの吉野山にもメガソーラーが造られている。目が傷む。



この国は、明らかにおかしい。壊れているとさえ言っていいのかもしれない。

能登半島地震から13年さかのぼるこの日、東北であの大震災が起きた。2万2222人が命を失い(行方不明の方々も含む)、それを上回る数の人々(約3万人)が故郷を失った。

13年経って、何が変わったのだろう。希望は増えたのだろうか。

いや、答えは真逆だ。明らかに減っている。凄まじい勢いで壊されてきている。

今なお、野晒しにされる人々、景観を破壊される人、未来に希望を見出せない人が、数多く存在する。その数は増えている。


その最大の犯人は何かと言えば、”壊れた政治” であろうとやはり思う。

この国の政治は、まともではない。犯人は人間たちだ。



追記:

と語りながらも、では何を行動に移すかという話に移ると、正直に告白して、出家としての自らの立ち位置にぶち当たる。

あのブッダは、故郷が滅びゆくのを結局見届けることしかしなかった。

ならばこの命は?――出家に留まるのか、出家の線を越えるのか。行き着くのは、いつもこの葛藤だ。


追悼
2024年3月11日