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仕事は誰のためにするものか


仕事は、相手のためにするものです。

仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。

だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。

投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。

ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。

趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。

これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。



だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。

自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。

自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。

こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。

この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。

これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?



解決策はシンプルです。

「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。

自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。

まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。

その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。

「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。

そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。

そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。



仕事で空けた穴を埋めることができるか。

仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。

できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。

穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。

「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。

穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、

穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、

「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。

そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。

成長し続けることが可能になるのです。



穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。

穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。


大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。

増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。

「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」

と客観的に自覚できるかどうか。


一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。

これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、

穴が空いている、空きつつあることに気づかない、

それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。

それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。



老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。

やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。

そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。

そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。

空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。

穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。


老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。

年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、

「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。

それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。




仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。

自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。

自分の側の仕事については、満点を出せること。

仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。

穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。

動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。

その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。

そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。



仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。


これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。

この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。


すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。



自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。

これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。

穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、

その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。

この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、

自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。


まずは自分自身と闘わねばなりません。





2025年5月3日
・・・・・・・・・・・・・・


国の基本~万博と人口減が象徴するもの


大阪に宿を探そうとしたが、どこも高い! 例のイベントが始まってしまったためか。

日本の政治は不可解だ。カネの使い方がメチャクチャだ。

政策と予算は、第一に人々の雇用を安定させ、いざという時のセーフティネットを充実させることが基本だ。右も左も、保守も革新もない。基本である。

「結婚しようか」「子供を育ててみようか」と思えるくらいに、収入・生活が安定すること。これを第一の国家目標に据えて、政策を更新し、予算を重点配分すること。

これがある程度達成できて初めて、その他に予算を使うことが可能になる。そうした状況なら「万博でもやってみようか」という声が上がってもよい。

主と従、優先順位、基本とオマケを間違えないこと。

これは政策という思考の手順みたいなもので、例外はない。あってはいけない。

ところが、今の政治は原則も例外も滅茶苦茶になったままだ。万博開催と、昨年89万人、14年連続で人口減という話題が、ほぼ同時に上がってくるという不条理まで起きている。

実に象徴的だ。この2つの話題はつながっている。前者(万博)に代表される迷走の結果が後者(人口激減)だ。

最も憂慮すべきは、この迷走を止めるための方針が、わからなくなっていること。政治家だけではなく、多くの市民が、国の基本とはどういうものかを思い出せなくなっている。

政治・政策の基本さえわからなくなった国。政治家だけではなく、見抜けない国民にも、同じくらい責任があるのだ。
 
 
この国の人々は、賛成・反対、肯定・否定という個人的見解のぶつかり合い、支持か批判かという感情論に走りがちだ。万博についても、是か非かを言い争う声が聞こえてくる。
 
だが、こうした論争に価値はない。すぐに意見や感情の対立に流れてしまうから、事が終わればきれいに忘れて、次の話題・次の議論へと移ろうだけになってしまうのだ。騒いで、喧嘩して、忘れての繰り返し。

かつての「非国民」や「反〇〇」といったレッテル貼りによる思考停止と自己正当化は、心地よいかもしれないが、問題の本質を曇らせる。結果としての迷走、同調、閉塞と自己破壊だ。この国は同じことを繰り返している。
 

明日は野宿でもしようか。基本を踏み外した狂騒につきあって高い宿に泊まるよりは、せめてこの身くらいはまともな姿を保って、つつましく野ざらしでいるほうがいい。



4月15日

人生はシンプルでいい

 
名古屋・栄での今年最初のレギュラー講座。テーマはずばり、”ダンマ”――仏教と呼ぶより、はるかにブッダの教えに近づける言葉だ(慣れるまで聞こえは怪しいけれど笑)。

特に今日は、宗教と長く関わってきた人が来ていたから、宗教とダンマの違いをお話してみた。伝わったかな・・。


執着が強い人は、宗教のほうに親しみを感じるものだ。というのも、現実逃避を求めているにせよ、ご利益を期待しているにせよ、その執着に応えてくれる妄想に惹かれるものだから。
 
最初に執着があり、叶えてくれそうな妄想を探す。その妄想を形にしてくれると予感した宗教に惹かれる。そして「信じる」段階に入っていく。

信じることが最初に来るのではなく、本人が自覚していない執着が前提としてあるのである。

その執着は、現実から逃れたいという思いかもしれないし、承認欲を満たしたいという我欲(上昇欲)かもしれないし、心の空洞を埋めたいという願いかもしれない。

そうした執着状態にある心が、「それらしい妄想」(理屈)に触れると、「きっとこれが答えに違いない」と興奮して、飛びついてしまう。

だが、そうしたものに飛びついても、問題は解決しない。
宗教という名の妄想をエサにして、執着が生き永らえるだけだ。

足元にある原因を、つまりは執着を自覚していないからだ。
 

本当は足元を掘り起こして、いったい自分は何に執着しているのかを自覚することが近道、というか唯一の解決策だ。

自覚できれば、捨てることも可能になる。あとはその方法を知って、実践すればいいだけになる。


ブッダが伝えた、一切の苦しみには原因があって、だがその原因は誰でも取り除けるし、その方法がある、だから後は実践するだけであるという言葉は、そうした真実を語っている。

まったく難しくない。そのシンプルな真実をひっくるめて”ダンマ”と呼んでいる。


本来のブッダの教えは、宗教とはまったく違う。真逆だ。宗教という名の妄想を克服するための方法を体系化したものだ。

心をめぐる問題に、答えがない問いは、実は存在しない。答えがない、考えてもわからないように見えるのは、自分の心が妄想によって曇らされているからだ。

心の苦しみについては、ほぼ百パーセントと言っていい確率で、抜け出せる。そもそもその苦しみは、心の中になかったものだ。今もまた、形も重さもない。実体のない(いわゆる無常)なものだからだ。

唯一必要なものは、ダンマ、つまり心の苦しみを抜ける方法だ。
 
その方法を受け入れるか。行動に移すか。それだけだ。もはや理屈ではない。考えることではない。やるか、やらないか。進むか、退がるか。受け容れるか、拒絶するか。


苦しみを抱えてさまよい続けてきた人が、ダンマに目覚めて苦しみを抜け、「この生き方で間違いない」という確信を持てるようになること。

それが、この場所の目的だ。時間はかかることが当然。そんな生き方しか知らなかったのだから。

焦らずに学んでもらえたら(自己理解を深めてもらえたら)と思う。
 
 
言葉は難しく聞こえるかもしれないが、伝える中身は、すべて友情に似た思いから発している。この命は、出会うことを喜びとする性質を持っている。よく来たね、と毎回心の中でエールを送っています。
 


2025年4月15日




ミャンマーを想う

ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。

個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。

かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。

かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。

軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。

国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。


私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。

軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、

「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。

ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。


長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。

いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。

いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。

現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。



もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、

あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。

そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。

今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。

その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。

軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。

しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、

地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。

ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、

その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。

彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。


過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。

だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。

今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。


なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。

力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。

そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。


どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。

避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、

避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。


ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。


中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト


 

2025年3月末日

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4


学校、東大、官僚、政治・・一つ一つの現場を、自分自身が知っている限りで思い出すと、この社会は ”巨大な碾き臼(ひきうす)” のようなものかと思えてきた。

霞が関であれば、御上先生の志や能力さえも摺り潰される。
 
学校であれば、あのドラマの学生たちの明るさや優しさも摺り潰される。
 
創造力に富んだ先生たちの意欲も摺り潰される。

ならば日本を変えようと法律家をめざしても、法律を書き、政策を作れる ”創造的法律家” になれる道は、日本にはなく、司法制度の枠に収まっているうちに摺り潰される。
 
政治家になっても、これまた打算計算と保身にまみれた周囲の人間たちの間(はざま)で、摺り潰されてしまう。
 
日本という社会は、いくつもの碾き臼(ひきうす)が歯車のように重なった場所で、その中を潜り抜けようとしているうちに、摺り潰されてしまう。ゴリゴリと。

そういう場所かもしれないと、ドラマを見ながら思った次第。
 

(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)



日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。

重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。

中高生のみんなに罪はない。

最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。

ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。


変わるには、どうするか。まだひとつ残っている。かなり狭い道だけれど。

今は言いません。


御上先生の問題意識、しっかり受け止めました(今日、最終回)


2025・3・23
 
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3

 
教育をおかしくしているのは、試験制度も一つだが、親、現場の教師、受験産業、そしてメディアまでが加担する、過剰かつ不毛な東大&高学歴信仰にもある。
 
今の時代は、学歴が売り物にされ、たかだが学生でしかない東大生であることが価値がある、すごいことのように扱われている。
 
これこそが最大の陰だ。中身のない、誰も幸せになれない陰。
 
一時的に持ち上げられて自分を勘違いする学生もいるだろう。もてはやされる姿を見て、「自分もああなりたい」と刷り込まれて(社会化)されて、その価値観が近い将来、自分を疎外(否定)する理由になってしまう学生もいるだろう。
 
一部の人間たちが過剰に持ち上げて、煽って、騒いで、商品化する。そのことで、大学の先にある本当の使命というものが見えなくなっていく。
 
これもまた日本を覆う陰の一つだ。だが陰であることに気づかない。日本人がみんな陰に慣れ過ぎているから。

勉強ができる、アタマがいいことが価値を持つ? でも東大に入ったところで、卒業したところで、何をめざすのか、どこにたどり着けるかといえば、どうだろう? 学んだことが、自身の幸福と社会への貢献につながったか、つながるような仕事にたどり着いたか? はて?

東大に行きました、立派な成績で卒業しました、資格取りました、こんなに私は優秀でした・・

そう言いたがる(売りにしたがる)人もいるかもしれないけれど、そのたどり着いた場所(自分)が、はて本当にどれほどの価値を持つのか。
 
そもそも本人は満たされているのか、社会に役立っているのか 
 
といえば、素直にうなずけるケースはあまりない、と言っても過言ではないかもしれない(←ちょっと霞が関文学?)。


学歴が立派、頭脳優秀だと思われている、思わせたがる、思わせている人は、大勢いる。もう飽和状態だ。出尽くした感がある。

とはいえ、「アタマがいい自慢ができる人」の大半は、入った大学(勉強ができたという程度のこと)に価値があるという前提(社会が共有する幻想)がないと成り立たない立場だったりして
 
(ほんとにすみません・・でもやっぱり「その先」をめざさないといけないのだと思います)
 

なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。

まったく変わってない。日本人の意識そのものが。

だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。

実態は別のところにあるのに。実は上級といえるほどのものはなく、どこまで行っても空っぽかもしれないのに。
 
 
ちなみに御上先生、『金八先生』については批判的に語っていたけど、『ドラゴン桜』という東大信仰、つまり社会全体の無思考の上に成り立つドラマには触れなかった。あれこそ教育の閉塞を長引かせる無思考型のドラマなのに。 
 
触れなかったのは、同じ系列だから? 学歴という記号に過剰な価値を見出す親や、受験産業や、そこで熱血指導している教師たちと同じように、自分たちもまた無思考の檻に囚われていることに気づいていない?
 
自己批判こそは思考の原点、最初に潜るべきイニシエーション(通過儀礼)みたいなもの。
 
自分の足元にある欺瞞を見つめないと、本当の思考は積み上げることはできないよ。 
 
東大めざせとか成績上げろみたいなことを、いい歳をした大人が真面目に語って、大学入試を「見上げている」こと自体が、無思考の極みであり、すごくカッコ悪い姿だという視点は、あったのかなかったのか、どうなのかな・・。
 
 
よく聞く「東大行くのは手段でしかない」なんていう言葉も、実は思考停止の言葉だ。
 
もっと大きな使命や目標を実現する手段という意味ではなくて、いつの間にか「自分のプライドを守る手段」に取って代わられてしまう言葉だから。
 
試験で勝ち抜くことを選ぶ人間は、思考停止のために「手段だから」といって、自分を正当化するんだよ。何十年も前の東大生だって語っていた言葉。
 
だから「手段にすぎない」という言葉さえ、思考になっていない。自己欺瞞。
 
 
そこまで突(つつ)いて、「考えて」、東大をめざす・受かるという価値観そのものが、無意味な妄想でしかない、日本社会全体が巨大にして無意味な妄想に呑まれている――。
 
そこまで心の深いところで言語化できて初めて、日本社会を覆うバカバカしい陰に気づく人間もちらほらと出てきて、
 
その知力を社会のために活かす、完全に自立し自由になった人間が現れる可能性が出てくる。
 
今の日本社会から自由になれるくらいの知力を持った人間でないと、社会を変える・創る力は持てない。 
 
冷静に考えれば、当たり前の真実だ。
 
そうした本当の頭の良さを持った人が、何人出てくるか。行政、司法、政治、学問の世界に――
 
あまりに遠い地平だけれど、それを真剣に見据えて働きかけることこそが、教育なのではないのかなと思う。
 

教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。


教育の原点は、志だ。

志は強靭でなければならない。

強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。

 

たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、

今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、

そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、

中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。

あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、

「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。

 

語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。

日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。




余談だけれど、試験制度の不条理や、そんな制度の枠から抜け出せない自分への懐疑を抱えた「考える人」は、僕の周りにはちゃんといた。
 
みんな、それなりに悩んでいたし、考えていた。東大という「檻」に入ってしまった自分を疑う懐の深さ(考える力)を持っていた。「人間」であろうとしていたよ。
 
でも逆らえないから、順応することを選んできていた。その中途半端さが、幼かった僕自身には不満だったのだけれど。
 
 

今の学校、教育、大学、官僚組織、政治や学問の世界――
 
総じて、大したことはできていない。 
 
だから社会全体が停滞、硬直し、地盤沈下を起こしている。
 
闇というより、巨大な陰なんだよ。
 
みんな陰の中で暮らしているから、光(本来のもっとまともな姿)を忘れてしまったから、陰に覆われていることに気づかない。
 
 
(まだ続きます、すみません)
 
 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2

ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。

プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。

官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。

試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。

外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。

トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。

でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。

哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
 
要は、人間が育たない。

人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。



そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。

でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。

そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。


と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。

本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。

だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。

大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。

できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、

その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。

職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。

だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。

どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。



リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1


この冬は何本か(だけ)TVドラマをフォローしました(日本を離れていたので全回見きれず・・TへT)。
 
その一つが、日曜劇場『御上先生』。

いろんなテーマが広く取り上げられていた。日本社会の闇、というより陰。見ようと思えば見えるのだけど、光が当たらず忘れられがちに。結果的に社会全体を覆う思考停止の一要因になってしまっている部分。
 
このドラマは、それぞれのテーマを「知ってもらう」ことを意図して作られたのだと感じた。答えを出すのではなく、問題を知ってもらって、それこそ「考えて」もらおうという。
裏口入学のラストエピソードは、ドラマであるがゆえの(こうしないと1クールにわたるドラマにならない)致し方ない設定でもあったんじゃないかな。本当に伝えたいことは、セリフで語らせていた(特に最終回)。

 
御上先生の言葉を受けて、こんなことを「考えて」みた――。
 
教科書検定問題は、古いテーマでもあり、最新のテーマでもある。家永教科書訴訟は60年代から(もう半世紀以上前だ。びっくり)から、奈良教育大付属小の授業問題まで(2024年3月、ちょうど一年前。もう陰になってしまっている)。

後者では、国語の書写で毛筆を使わなかったという程度のことで(他にも理由らしきものは言われているけれど)、学長・校長・教員らが懲戒処分に。
 
「二度と起こらないように厳しく監督していく」と奈良国立大学機構がコメント。

印象的なのは、このコメントだ。「何様?」と唖然とするほかない口ぶり。病的な上から目線。いうなれば、システム・ハラスメント。組織という体裁を使って、実は内部にいる人間の主観を判断基準として強要している姿だ。

ドラマの中で教科書検定制度を支える法的根拠(法律・省令)に触れていたけれど、実は法令の文言が問題を引き起こしている(法令を変えれば現場が変わる)とも言いきれない。

というのも、法令上の言葉は、解釈・運用次第で異なる意味を持つからだ。もし運用する人間の解釈(人生観・価値観・教育観)が変われば、現場のありようも大きく変わる。教育を阻害しているのは、実は人間だったりする。制度ではなく、人間が原因。意外と多い。

だから、あのテーマに関するもう一つのアプローチは、支配者目線で現場に干渉している「人間」そのものにスポットを当てることだ。どういう人物か、経歴、年齢も含めて。省、局、機構といった隠れ蓑の向こうに潜む、システム・ハラスメントを犯している人間のほうを見る。浮き彫りにする。

たとえば初等中等教育局内で教科書や授業内容をコントロールし、結果的に現場の意欲を削ぎ、疲弊させている人がいる。本人にその自覚はない。
 
たまにNHKなんかが教育問題をめぐって取材して、その肉声を拾っていたりする。びっくりするくらいに、上から目線で現場無視。日本の教育は(といいつつ本人は現場を見ていない)自分がその一存で決めていいといわんばかりの言い方をしていたりする。老害ならぬ官害。結局は、人間特有の慢が根本にある。
 
こういう人間に光を当てて、何を根拠にそのような判断をしているのか、その根拠(法令)は、そのような解釈しかできないのか、しっかり問い詰めていくという手もある。組織や立場の裏側に隠れたままにしないことだ。



個人的に想像したのは、御上先生が、実際の文科省に入ったとして、あれだけの思慮や感性を保ち続けられるかな・・というところ。

霞が関の職場はあんなに明るくきれいではないし、人間関係もあれほど風通しは良くない。ドラマでは癖のある人たちとして描かれている(ゆえにわかりやすい)けれど、実際は比べ物にならないくらいに、考えも表情も明かさない。人間の輪郭が曖昧。それでも自分の評価については内心すさまじく神経を使っている。結果的に、周囲への同調を選んでしまって、最終的には、組織の論理を死守する官僚になっていく。

 
きわめて主観的な印象でしかないけれど、官僚(ごめんなさい、こうした言い方は好きではないのですが)の中には、プライド第一で、その上に仕事が乗っかっているという精神構造の人がいる。日本の教育を良くしよう、みたいな真っ当な動機をもって文科省に入る人は、決して多くはない。

というのも、国1(国家公務員総合職試験)においては、どうしても試験巧者が上位に来る。試験巧者が最も多く集まるのが、東大(国1試験合格者数は今もトップらしい)。

その東大に入るために、少なからぬ学生は、中・高、さらにその前にもさかのぼって、筆記試験用のトレーニング(いわゆる勉強)をしてきている。

試験慣れした猛者・強者は、あのドラマに出てくる学生たちのような人間味はない(こういう言い方も申しわけないのだけれど)。

幼い頃から「東大しかない」みたいな刷り込みをされてきた学生も少なくない。学校の勉強なんか手段でしかなくて、手段として役に立たないと判断すれば、内職したり休んだり。先生が何を感じるかなんて考えない。もし御上先生みたいな人が大事なことを語っても、冷めた目線で内職し続ける、みたいな学生もいる(あのドラマの中にも、実はいたのかもしれない)。

考えるとか悩むとか支え合うとか、そういう人間的な部分は一切捨てたサイボーグみたいなメンタル。勉強以外は「役に立たない」から目を向けない。受験に役に立つかどうかという物差しだけで日常を切り分ける「合理性の塊」みたいな人間。

試験というのは、点さえ取れれば評価されてしまうのだから、点を取れる勉強に特化できる人間が、どうしても強くなる。上に行きやすくなる。

徹底して無駄を排し、学校の授業や人間関係は最小限に抑えて、内心は自分のプライド死守と東大合格という目標だけをターゲットに、冷徹に、緻密に、虎視眈々と、さまざまな計算をめぐらせて、優等生としての自分を維持し続ける。

哀しいかな、そうした人が東大に進み、国1に受かり、いわゆる「官僚」になっていく。


御上先生は、そういうプライドのせめぎあいの世界を生き抜いてきた人。殺伐とした現実を見据えつつも、過去の体験や心情や今なお続く苦悩の種(自死した兄や母親のこと)を脳裏に抱えて、官僚の世界を生き延びてきた人。

そういう人も実際にいるかもしれない・・いるのかな。でもあの世界は(進学校も東大も官僚の世界も)、少しでも人間味を残していると、それが隙(甘さ)となって遅れを取る、取り残される、見下される。そんな世界だから。

試験制度というシステムが変わらない限り、試験に勝てる(いい点を取る)という戦略(いわば頭脳と時間の重点配分)が正解になる。その戦略を守り抜くことで、プライドの奪い合い、自尊心のサバイバルゲームを生き残れる・・その可能性が生まれる。

「死ぬ」のはイヤ。つまり落ちこぼれること、劣後すること、見下されることはイヤ。自分はアタマがいいと言われたい、大学は絶対に東大でなくては許せない、そういう価値観に思考を占領されている。本当の考える頭、良心をみずから握り潰して、勉強マシーンと化す。

そういう人が、東大に行き、官僚をめざす。
 

さらにこの殺伐としたゲーム(心の殺し合いといってもいいのだけど)は、もう少し盤は広くて、アタマがいいという承認を勝ち得るために試験勉強に特化できる特殊技能の持ち主たちは、東大、中でも理Ⅲから医学部、文Ⅰから法学部、そして司法試験や国家公務員総合職(上級)試験の合格をめざす。
 
受けられる試験は全部受けて合格してから、一つのキャリアをやむなく選ぶ。やむなく、というのは、彼らにとっては、仕事の中味は大して興味がなく、本音は自分がどれだけ優秀か(試験巧者か)を証明し続けたいだけだから。

公務員試験をパスした学生は、プライド最優先で省庁を選ぶ。ひと昔前なら、大蔵、通産。今の財務、経産省。プライドを守るうえで最も確実、安全な省を選ぶ。

ドラマの中では、御上先生は試験を勝ち抜いてきたエリートとして描かれているけれど、東大卒の官僚の中で、文科省組は存在感は薄い(こうした表現が成り立ってしまうこと自体が悲しいけれど)。プライドを守り抜ける省と、負けを受け入れて入る省庁とがある。かつてはあった。
 
今はどうかな・・大学受験までの教育環境がさほど変わっていないなら、中高時代に身に着ける価値観も、プライドを守るための戦略も、ほとんど変わっていないはずだから、東大に入った後のキャリア選択の基準も、おそらく大して変わっていない。

今は上級職の人気にも陰りが出ているとは聞くけれど、ただそれも、東大に入って、次はどんな職業なら自分のプライドを守れるか、という打算計算の基準が揺らぎつつあるという程度のこと。

「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
 
ドラマの中では、御上先生はトップエリート。でも、実際の闇、いや陰、というか今の試験制度の硬直はもっとどうしようもなくて、御上先生さえセカンド、サードのポジションかもしれないということ。東大生としても、官僚としても。
 

(長くてすみません、続きます)

 

 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

帰還

*インド編2025レポートの掲載をスタートしました。興味ある方はどうぞ:
 

帰ってきたのは、3月第2週。羽田を出ると、電車内の広告はメジャーリーグの遠征試合について。日本は平和。車内の人は、ほぼ全員がスマホを眺めて沈黙している。

「空気」だけでも、これだけパワーの高低があるのだなと感じます。


インドの場合は、心は「人」に向かう。自分かそばにいる誰かか。話しかけるし、自分のことも話すし、なんというか臆面がない(もちろん深いところでは別の思いがあるとは思うけれど)。

日本の場合は、心は「人以外」に向いている気がする。スマホの向こう側。SNSだかネットニュースだかゲームだか。

察するに、日頃人との関係で疲れることが多いから(その疲労の半分は自分の側の過剰な気遣い、いわゆる忖度とか判断とか先回りの妄想であるような気もするけれど)、

その分、一人でいるときはスマホを眺めて、現実(人間)逃避しているように見えなくもない。


毎年思う、この国の空気の希薄さと停滞ぶり。おそらく一人一人の心が相当「混乱」している。というのも、心は一定量のエネルギーを持っていて、ちゃんと使い方を自分で選べていれば、それほど疲弊しないものだから。

心の使い方を知らない、忘れてしまった、あれこれと無駄なことを考えすぎて崩れてしまった。「自分」というものさえ、よくわからなくなった。

そういう心の混乱。さらには、心の総量(いわゆる社会の集合意識)の確実な老化。

混乱していて、老いている。としたら、そうか、こういう空気になるのかなあと無責任な妄想が湧いてきた。


老いは確実に進むから、放っておけば、この国はもっと老いていく。

幸い島国で、過去半世紀に頑張った蓄えもまだ残っているみたいだから、すぐさま老いの果てが見えるわけではないだろうけど(でもかなり見えてきてもいるのだけど)、

今日の光景が十年後、二十年後にもそのまま続いているわけではない、というか変わっているであろうことは確実、というか確実だと心しておくほうがいいように思う。

これまた幸いなことに、何千万人という人間がまだこの先半世紀はこの国を支えているだろうし、危機感に目覚め始めた人たちが声を挙げる、行動に移すということも、少しずつだけれども増えてきているようだし、

この国の人々は、まとまれば強いし、それこそメジャーリーグで無双の活躍をしている彼らのように、個のポテンシャルはすさまじく高いから、

どの時点かで「本気」になれば、なんのなんの、まだまだこの国をよみがえらせることは可能だと思える。


国を若返らせるとは、「変わることがノーマル」になること。新しいアイデア、制度、商品、サービスをどんどん形にする。多少の失敗は前進の肥しにしてしまうこと。

「こんな新しいモノが出た」
「こんな法制度ができた(ただし改悪ではなく人々の心が明るくなるような法律・制度・システム)」

ということが頻繁に起こって、「なんだか世の中変わってきたな、前に進みつつあるな」とみんなが思えること。

変わることをノーマルにすることは、人々が真剣に願えば、それほど難しいことではないような気がする。

ここでも、変わることを嫌がる負の力が邪魔するものなのだけれど。その一例が、老いであり、怠惰であり、無気力であり、保身であり、自己疎外(自分の価値を信じられない心性)。

今のところ、後者の負の力のほうが幅を利かせている。停滞が30年以上も続いて慣れてしまっているところもある。

どこかで国の若返りが始まってくれたら・・と思う。
 

ということを、帰国早々考えてしまう。なぜかこの国に来ると、私は途端に母性・父性?に目覚めてしまう。大丈夫? 元気にしてる?みたいな。


16日から18日に講座が3コマ続くので、その教材を仕上げて、連載用のイラスト描いて、〇〇やって(←今この段階笑)、〇〇行って拠点づくりの打ち合わせ(細部選びがこれまたたいへん)、サラとの再会(引き取り)と続く。


一週間近く経ってすっかりモードが変わってしまいました。「出家の夏休み」はおしまい。終わってしまった・・。


挨拶遅れましたが、戻って参りました。

本年もよろしくお願いいたします。

草薙龍瞬




2025年3月中旬

消えゆく未来と育つ未来

(抜粋)

ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。

なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。

どの国も内戦やテロ・犯罪などで治安の悪化が進み、大人たちは、ただ死に向かっている自分と世界の現実を感じながら、希望の見えない日々を過ごしている。

個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)とその母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。

赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。

核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供が生まれなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。


子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。

日本社会は、この映画が描いた近未来世界の縮図みたいな状況になりつつある。


人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。本当は虚無の闇と隣り合わせ。

死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。

子供たちがいるから、人と社会は、なんとか未来への希望を感じて生きていける。


もし子供たちが生まれなくなったら、未来は霞み、希望の総量は確実に減っていく。


それが社会というものなのに、人々は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えるより受け取ることを、愛するより傷つけることを選んでしまう。

愚痴に不満、萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。

そんなことをしていても、虚無の闇は埋まらないのに。


それでもなお人を傷つけ、他人事に首を突っ込み、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。

まるで銃弾飛び交う殺伐とした、この映画の世界のよう。


保身や批判や中傷に汚染された社会に、希望は見えない。

希望とは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯(とも)る。
 

未来が育つという当たり前の輝き――その輝きを人々が思い出せる日がくるのだろうかと、ふと思う。


全編どんよりと暗い(イギリス映画らしいといえなくもない)映画なので
お付き合いできる人はどうぞ
(〇〇〇〇primeで見られるそうな)




2025年2月


火祭りの国

毎日のように物騒な話題や有名人の不祥事を暴き立て、大騒ぎし、煽って、突(つつ)いて、忘れての繰り返し。

どんな問題であれ、事実にもとづき、原因を探って、解決の方法を探るという方向性に向かうほかなく、その道筋は粛々淡々と進むという一択のみ。

そのプロセスを確実にたどれることが、社会の成熟というものだ。

だがこの国では、事実のレベルだけで大騒ぎし、事実未満の憶測・意見やら虚偽・捏造やらが増幅・拡散していくものだから、なかなか原因にたどり着けず、根本的解決がいつも遠い話になってしまう。

騒いでいるうちに飽きるか忘れるかして、また別の騒げる話題を見つけて飛び火させていくという不毛な連鎖が起きているのみ。

飛び火は熱い(けっして心地よくはない)のだが、刺激的でもあり、暇つぶしにもなり、難しく考えなくていいというラクさもあって、誰も彼もが火を追いかけてしまう。

個人の火遊びに留まらない、日本社会全体が興じる火祭りだ。

不毛な火祭りだけが延々と続き、人々のストレスは増し、社会全体は荒んでいく。しかも中にいる人間たちは猛烈な勢いで老いて縮んでいっている。

火遊びに興じるばかりの、火遊びしかできなくなった、老いた小さな国。

あれ、これ本当に末期症状なのかも?

 

 

 

2025年1月下旬

自分が先か、〇〇が先か


「自分」より先に「仏教」を置くこと。

「自分」より先に「人さま」を置くこと。

「自分」より先に「普遍的価値」を置くこと。

「自分」より先に「方法(誰もが共有しうる)」を置くこと。

どれも「自分を引いて考える」という点は同じです。

仏教は、慈悲、つつしみ、普遍的な価値を真っ先に考える思考法です。

「自分」が先立つものは慈悲じゃないし、「自分」が前に出るのはつつしみじゃない。自分、自分で発想すれば、普遍的価値は遠くなる。

仏教にもとづいて生き、仏教を伝える役目を負う人間というのは、そういう思考法・生き方が身に着いていることが資格のようなものなのです。



今の世の中は、多くの人が、自分語りに夢中。自分があれをやった、こう考えた、こんなことがあったということを、吟味することなく得々と、あまりに簡単に発信できる世の中です。

自分語りに夢中な人たちが一方にいて、もう片方に、他人事に夢中な人たちがいる。

両者とも一定数いるから、供給と需要がかみあって、その内容(真実か、価値があるかといった実質)に関係なく、お金や影響力まで生み出せてしまう奇天烈な世の中です。


この構図、「自分を越える価値」に思いをめぐらせるという発想や思考法とは、正反対です。

「自分ファースト」「自分のことだけ」に夢中な頭(脳)には、

自分以外の人のこと、世の中のこと、未来のことを考えるという「発想」が出てこない。

仏教というのは、本当は、そうした自分偏重の発想を突き崩す、いわば「ガツンと」ぶちかます威力を持っていなければいけないのですが、

そうした点をふまえてみれば、仏教を語る言葉は、弱い、弱い。

そう、「ガツンと」来ないといけないのでした(笑)。そのことをしっかり心に留めて、次の作品づくりに取りかかろうと思います。



ともあれ、「まずは自分を引く」というのが、仏教の思考法です。

かといって、それは卑屈になるとか負けを受け入れるという話ではなく、かりに理不尽を強いられたとしても、「仏教ならば?」と考えるということです。

「自分」から入る思考より、はるかに強力(その威力が見えないのは、まだ仏教の威力がわかっていないから)。

自分を越えるからこそ、自分を守れるし、大切な価値を守り抜くこともできる。仏教は、そうした可能性へと導く思想であり方法論なのです、本来は。

仏教に立っているか、自分に立っているか。

普遍的な(誰もが共有しうる、幸せにつながる)価値を見ているか、自分だけを見ているか。

そうした視点を持てば、世に飛び交う言葉も、自分自身の思考も、正しいか間違いか、どこがおかしいのか、気づきやすくなるのではと思います。





2025年1月下旬




あやまちを犯した時は(そして、傷を負った人へ)

 

みずから犯したあやまちについては、

相手に与えた損害、その心の傷を理解しようと努力するか、

責任の取り方がはっきりしている場合(身体的自由の制約か金銭による償い)は、

それを引き受けることでしか、

社会的に許される可能性はありません。

それだけのあやまちをみずからが犯したという現実を受け入れること。

それはたしかに痛みを伴うものかもしれませんが、だからといって、被害を被った相手のせいにしていいということには、絶対にならないのです。

故意はなかったとか、同意があったと思っていたとか、そればかりか事実と異なる嘘までついて、自分のあやまちを否定し、それどころか相手(被害者)のせいだと言いたがる人間が、たまにいます。

そうした自分可愛さゆえの無理筋は、相手の傷にいっそうの塩を擦り込むに等しい「拷問」であり「虐待」であり「愚弄」になります。

相手がどれほどの心の傷を負い、またどれほどの時間と関係性の喪失、経済的損失その他の苦痛を被ったか、また今後も被り続けることになるか。

この社会に生きる人間である以上、想像することが、義務であり責任というものです。


そうした人間としての務めを放棄し、あやまちを謝罪することも、賠償することも、みずからの身をもって贖うことをも放棄して、

なお自分を守ろうとする。

そうしたことができてしまえる、しようと目論むこと自体が、

その人間が、相手を傷つけたこと、損害を与えたことの「証拠」になってしまいます。

というのも、

自らのあやまちを受け入れられない人間だからこそ

――それを世間では、残酷、傲慢、身勝手、幼さ、弱さ、不誠実と呼ぶことになるのでしょうが――

そうした人間だからこそ、みずからの行いの意味や責任を軽く見るし、不都合を隠蔽しようとするし、言うことがその都度変わるし、最後まで否認して、自分は悪くないと言い張れるのです。

そうしたふるまいと言葉のすべてが、その人間(あやまちを犯した者)の輪郭を、はっきりと彫刻していきます。

みずからがどんな人間かを、その行動と言葉によって、浮き彫りにしてしまう。


それは自滅でしかないのですが、本人には、今見える自分の都合、利益、プライド、恐れしか見えないので、止めない(それが通ると錯覚してしまう)のです。


結果的に残るのは、「悪人」としての自分です。

悪人としての刻印が残る。しかも刻み込んだのは、あやまちが明らかになった後の自分自身の行動であり言葉です。

これまでもそうやって自分を押し通し、不利益を隠して、不都合から逃げてきたからこそ、まさに今の自分にたどり着いたのかもしれません。

 

あやまちを認めること、謝罪すること、賠償すること、その罪を自分の残りの人生をもって償うことを、

難しい、やりたくない、と本人は考えてしまうのでしょう。

ですが、長い目で見るならば、それが一番簡単で、自分に確実にできる、正しいことなのです。


罪を認めない人間は、そこから先は「悪人」になってしまいます。

罪を認めて償うことで、はじめて過去のあやまちが、あやまちに留まるのです。それ以上の悪人と化すことを防ぐことができる。その後の生き方は自分次第ということになります。


あやまちをあやまちとして認めること。

被害を被った相手の心情や、その失ったもの、今後の人生を思いやること。


被害を被った、傷つけられた側が望んでいるのは、結局は、人間としての当たり前の、本当は簡単にして、確実にできることのみです。

それすらも受け入れようとしない相手(加害者)の行動と言葉によって、いっそう傷つけられることが多いものですが、

それでも願うのは、まずはあやまちをあやまちとして認めてもらいたいという一点です。

 

簡単なことのはずが、あまりに複雑で、遠いことになってしまう。

そうした事態を招いているのは、あやまちをあやまちとして認めようとしない人間の側にあります。

 

こうしてみると、世の中は、善人と悪人とに、最後は結局分かれていくようにも思います。

善人は、少なくとも、みずからのあやまちを否定しないし、償おうと努力します。

悪人は、最後まで、みずからのあやまちを認めようとせず、嘘、言い逃れ、責任転嫁、その他あらゆる強弁を弄して、自分を守ろうとします。自分が可愛い(そのぶん人が傷ついても)という態度を崩しません。



傷を負った人へ――

もしあなたが善人として生きているなら、ぜひ堂々と生きてほしいと思います。

あなたは悪くない。他人のあやまちに、悪に、巻き込まれてしまっただけで、あなたは何もしていないのだから。

強く、堂々と、生きてゆく――のです。



2024・12・11
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真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



SNS vs. オールドメディア


今日の講座(栄中日文化センター2024年11月)では、SNSとオールドメディアについて話をした。


必要なのは、<事実>と<主観>と<知見>という3つの視点。

<事実>  調査・分析・裏付けが必要――マスメディアに期待されてきた取材力。

<主観>(自分はこう思う・こうに違いないという意見)――人の数だけ存在する。歯止めはかけられない。SNSという便利な道具ができれば、それぞれの<主観>が語られることは当然。

多くの<主観>が並び立つ状態は、プラスの価値を持ちうる。自由。公平。多角的。そもそもマスメディアはこうした企業倫理を持つべきものとされている(されていた?)。

<事実>と<主観>をどう見るか――<知見>が大事になる。専門的な知見を<専門知>と呼び、人々が共有できる全体の利益についての知見を<公共知>と呼ぶ。

これは個人の<主観>を越えた、全体に通じる利益・価値につながるものでなければならない。

<事実>を掘り下げ、多様な<主観>を並べたうえで、どのように見ればいいかを、「全体の利益につながる」ことを前提条件として、整理し、提示する。それが<知見>というもの。

そうした力を持つものが、社会的に信頼される情報および言論だ。

信頼されるからこそ、権威にもなる。

独占・寡占・旧態依然による権威ではなく、社会全体の利益に貢献する<知見>を提示することが、権威の源泉になる。


<主観>だけなら、陰謀もゴシップも誹謗中傷も、良心にもとづく訴えさえをも、フラットに並べられてしまう。「私はこう思う、こうに違いない。ゆえに正しい、正しいに決まっている」。そこで思考停止してしまうのが、<主観>の特徴だ。

これは致し方ない部分がある。人間は一つの脳しか持っていないから。


SNS・ネットが信頼を得ることが難しいのは、<主観>だけが並ぶ空間だからだ。<主観>は無限に増えるが、これを<知見>へと昇華させることは難しい。

これを可能にする役割を担う筆頭が、公共放送・報道と呼ばれるものだ。

今やオールドメディアと揶揄されている媒体は、こうした役割を期待されていた。<事実><主観><知見>を示す役割。資本、人材、情報網、調査・分析能力、発信力を持つからこそ、こうした役割を果たすことが可能になる。

断片的な事実だけではなく、さまざまな事実を、調査し、分析し、裏を取って発信する。

多くの主観(自分はこう考える)を、偏ることなく、「公平に」「多角的に」報道する。

さらには、個々の主観にとらわれがちな一般の人々に、事実・主観はこのように見るべきだという<知見>をもって整理する。

その<知見>には、もちろん独自の視点や価値観が含まれることは仕方ないが、それでも「社会全体の利益に奉仕する」という使命を担う前提は一貫している――

それが、マス(大衆)に向けてのメディア、つまり新聞・テレビだとされてきた。


マスメディアがこうした姿を過去どれほど実現していたのかは、冷静に考えるとわからない部分もある。あの戦争当時も、薬害報道も、今回の選挙についても、報道機関・マスメディアは、「本来の姿」からかけ離れていて、偏向、党派対立、イデオロギー、スポンサーへの迎合や忖度、無視や決めつけにとらわれていた可能性はある。

今まではそれしかなかったから、目立たなかった(気づかれなかった)だけなのかもしれない。

だが、今はインターネット・SNSという別の媒体(メディア)がある。これらもまた<事実>の欠落や、偏った<主観>の発信という性質はなくはない(もっとひどい面もある)のだが、


全体を見れば、欠落した<事実>を補い、多角的な<主観>を発信するという機能を果たしつつあるようにも見える。

たしかに社会的価値から程遠い内容も多い。多すぎる。一定の内部手続を経て発信するマスメディアと同じ信頼性を持つことは、全体としてみればまだないし、今後も完全に得ることはないかもしれない。だが、

それでもマスメディア以上に<事実>に迫り、また多くの<主観>の発信に、つまりは公平・多角的な報道・放送に「貢献」している面も出てきている。そうかもしれないとは思う。


SNSを越える信頼性をマス(オールド)メディアが得るには、①<事実>についての調査・分析・取材の力を見せること、②公平で多角的な<主観>を並べて見せること、さらには③どのように見ればいいかという<知見>を掲げる必要があるのだが、

今やマスメディアもまた、都合のいい一部の<事実>を切り取り、偏った<主観>を発信し、専門家・学者・コメンテーターという肩書きを掲げつつも結局は「自分はこう思う」という主観を語るだけ、というレベルに留まるならば、

その情報はSNSと変わらなくなる。これは「敗北」というより、みずからが招いた役割の劣化なのだ。


最も危惧すべきは、マスメディアが、<事実><主観><知見>いずれの面においても、劣化してきたこと。果たすべき機能を果たしていない。

多くの人が、マスメディア(テレビ・新聞)の報道の偏り・不足・独善・退屈をかぎ取り、テレビ離れ・新聞離れという現象を起こしつつあるのは、

こうした機能をみずから果たさなければ(取り戻さねば)という使命感というか矜持というか、マスメディアがマスメディアたりうる根拠を、みずから放棄しつつあるからかもしれない。

 

思えば、コロナ騒動の3年間は、マスメディアの凋落を広く知らしめる出来事だったのかもしれない。人々の不信は、この期間に大幅に増えた気がしなくもない。

さらに危惧すべきは、SNSにせよマスメディアにせよ、価値ある情報とはどういうものか、つまりは<事実><主観><知見>がそろっているか、あるいは、それぞれを構成するどの部分(取材力・分析力・公平性・社会全体の利益への配慮etc.)が欠けているかを指摘する「知力」が欠落しているかもしれないことだ。

こういう部分を示す知力を備えている職業人が、本来の学者・専門家・知識人・思想家であるはずだが、

いつの間にか、だれもが「自分はこう思う」という主観レベルの言葉を語るだけで満足し、罵り合い、結果的に、

社会全体の利益・価値というものを、そろって棄損しているかのような現実が見えなくもない。

<主観>のみを語り、その主観以外の主観を想像することや、まだ見えていない事実を掘り起こすことや、どのように見ることが、社会全体の利益につながるのかという全体を考えない。

全体知の欠落。思考停止。知の劣化――これこそが、最も憂慮すべきことなのかもしれない。


SNSが、マスメディアが拾いきれない、拾おうとしない<事実>を拾い、多くの<主観>を取り上げて、それをもとに人々が考えて動くことを可能にするなら、その点においては、オールドメディアだけだった時代よりは、進歩といっていいかもしれない。

他方、社会全体の利益というものを無視して、事実を捏造・改竄・隠蔽しようとしたり、無責任な主観を一方的に発信して、主観と主観の対立・分断を際限なく増やしたりしていくだけならば、SNSは、社会全体を壊す危険を持ちかねない。

結局は、社会全体にプラスになる価値を増やす方向をめざしてこそ、SNSもオールドメディアも等しく価値を持つ。その方角をめざすべきなのだろうと思う。

 

いずれの側にも課題・問題は山積みなのだが、何が問題で、どこが欠けていて、何を補わなければいけないかという全体像を思い出す必要がある。そのための<事実><主観><知見>だ。3つがそろったメディアこそが、価値のある媒体ということになる。

 

この3つを通して情報の価値を検証する役割を、世に立つ誰かが担ってほしい。

 

ちなみに、事実も主観もうつろいゆくもので、消えてゆくもの、入れ替わるものだ。だが今回お話した<事実><主観><知見>という3つの視点は、メディアが担うべき不可欠の機能であり、時代・社会を問わず通用する、通用させるべき普遍的な知の一つだ。つねにこの3つをもって検証していくことだ。一過性の出来事に騒いで終わりにするのではなく。


こうした普遍的な内容・価値を持ちうる思考を、仏教においては「智慧」と呼び、「ダンマ」と呼ぶ。

もっと智慧が必要だ。こういう話をそれこそSNSで発信すれば価値あるものが生まれるか? そんな話にもなった。



2024・11・19



とある出来事(知事選)にちなんで

 

たぶんもうひとつの根の深い問題は、

事実は何か(まだ解明されていない、それだけの客観的な資料・材料がそろっていない)ということを忘れてしまっていることにあるように思います。

いつの間にか事実が置き去りにされて、それぞれの「こう思う(こうに違いない)」という推測・仮説・期待・希望のほうが真実であるかのように見え始めてしまっている。

「主観」と呼ばれるもの。オールドメディアと揶揄されるに至った媒体にも、SNSにも、それはある。

一番危ういのは、それぞれが「主観」しか見なくなっていることかもしれません。主観だけを選び、語り、発信し、「きっとそうなのだろう、そうに違いない」という主観が増えていく。


そしてもうひとつの問題は、時間という大事な視点が、その場の主観にとって代わられつつあること。時間とは、時系列や文脈ともいえるもの。

過去の出来事(これも事実を通してとらえないといけないものだけれど)と並べて、つなげて、どこがどう変わったのか、あるいは一貫しているのかを考えること。

そうすれば、矛盾、変容、嘘、あるいは確かな変化、反省、成長かということも、見きわめることが可能になる。

もし人それぞれが、個人的に選ぶ主観と、こうかもしれない、きっとそうなんだという妄想だけで今を切り取って、それを真実だと判断するようになれば、過去とのつながり・文脈という視点は切り落とされてしまう。

そうなると、過去をすぐ忘れる。すると嘘や矛盾にも気づかなくなる。善は簡単に悪に、悪は簡単に善に変わって見せることが可能になる。

結果的に、真実も見えなくなる。


「事実」と「時間」の二つは、真実を浮かび上がらせるうえで欠かせないもの。

その二つが、どうやら、どの立場においても危うくなりつつある――というのが、本当は最も目を凝らさねばならないところなのだろうと思います。


ただ、事実と時間を置き去りにして、都合の良い主観のみを切り取って大々的に流すということは、もしかしたらテレビや新聞というマスメディアから始めてしまったことかもしれず、

彼らが信頼を回復するためには、事実と時間を通して真実を浮き彫りにするという知力(過去、取材力、分析力、公平な報道と言われてきたもの)を、

理屈ではなく、実際に発信する情報の中身によって示すことが必要になるはずです。

その努力ができるかどうか。できない、しなくていいというなら、凋落と不信(影響力および売り上げの低下)は避けられない――そういう状況なのかもしれません。

 

社会という大きな器にとって、「時間」を忘れた「主観」だけの言説は、さすがに危うさを秘めているだろうとは思います。

何が嘘で何が真実かわからなくなる。「主観」がつながりあって大きな「主観」を作る一方で、別の「主観」も同じような動きをする。

主観だけなら、分断が生まれます。社会においては分断であり、個人においては孤立と対立です。

 

主観は価値を持つのだけれど(大切なのだけれど)、主観だけじゃ足りないのです。


社会という共通の器を未来につなげるためには。

すべての人は社会という器の中で生きることになるのだから。


※補足ですが、時間を忘れた主観だけの発信は、マスメディアのほうこそ顕著なのかもしれません。その影響力の大きさも考えれば、なおさらそう思います。

SNSにおける主観は、案外、時間(時系列)を精査して事実を掘りこそうという努力が見えることもあります。

ジャーナリズムの役割を、SNS上の私人・市民がやっている・・。

そうした点を見ると、いっそうマスメディアの価値は相対化して(揺らいで)くることも真実です。



2024・11・18


ブディズムの可能性


いや、この一週間はたいへんだった。いわゆるテンパるという状態が続いていた。

『反応しない練習』のコンテンツを講演用のスライドにしていたのだ。引くべき文章はそのまま引き、関連する仏典の引用やパーリ語の解説や本文注釈、最新の話題、仏教以外の関連図書(社会学・経済学・心理学等)のリストや、未公開原稿を付けたりして。

名づけて、『反応しない練習 The Upgrade』。

スライドだが、百ページ近くになった。今後さらに膨らませていくから、最終的にはもっと増える。

徹夜が続いたが、やっと終わった。そして成果を活かす機会が、さっそく完成当日にあった。

『反応しない練習』を解説し、実際に体験してもらう講演会だ。

講演というのは生ものだから、本の活字よりは、伝わる情報量や表現の正確度は落ちる気はしている。だがライブで直接伝えることには、正確さとは違う価値があるらしい。

(考えてみたら、アーティストの音楽も、スタジオ収録とライブ・コンサートは、伝わるものが違う。前者が作品としてのクオリティを上げることをめざす半面、後者は、目の前の観衆にダイレクトに伝える、まさに訴えることをめざす。ライブのほうが圧倒的に声に迫力があったり深みを感じたりすることがよくある(だから泣く観衆も出てくる)のは、それだけ送り手・受け手の心が激しく動いているからだろう。まさにライブだから伝わるものがあるのだ。)


今回は、50ページを超える本に近いスライド資料も用意したから、それなりに価値のあるコンテンツを作れたような気がしなくもない。「読む講演」的な。


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』は、現代社会を生き抜くうえで欠かせないスキルを集めた3部作だ。

これらの作品は、今を生きていくうえで不可欠。だが、ほとんどの人は知らない。合理的な心の使い方、業(ごう)、そして正しい怒り方について(※怒ってはいけないなんていうムリな発想は卒業してくださいw)。

これらを知っているかどうかで、人生はまったく変わってくる。本当は、企業に入った最初の時点で学んでおくべき内容が含まれている。

きちんと読んでもらえば、人生に見通しがつくようになる。ラクに生きられるようになるだろう。そうあってほしいと願う。


一人一人の人間は、広い世界の歯車に過ぎないかもしれない。だが、それぞれが小さな役割を果たすことで、この大きな世界が回っている。

どんな仕事であっても、その人が元気に働いている。それが、社会にとってどれほど大切なことか。

だから、一人として欠けてほしくない。働ける人は、働ける限り働いてほしい。元気に、幸せに。

そういう人としての思いをこめてお伝えして帰ってきた。充実した一日だった。


一人打ち上げとして外食しようと思ったが、いつの間にか値段がグンと上がっていた。久しぶりに(?)スーパーに行ったら、お米だけでなく、いろんなものが高くなっていた。値上げぶりが容赦ない。もはや隠そうともしなくなったようだ。

収入が連動して上がるわけではないから、急に暮らしが厳しくなったと感じる人は多かろう。さながら不意に水位が上がって溺れかけるかのような気分か。

そんな時勢に〇〇党は、ろくでもないことをやっている。あの党は壊れている。だから国を滅茶苦茶にしてしまっているのだ。任せていたら、ますます国を壊して復旧可能になるぞ。ガチで終わらせないとダメだ。この国全体を覆う閉塞感と為政者の絶望的な愚昧さは、この国は過去何度か体験しているはずだが、はてこの先変わる機運は高まってくるのだろうか。


これでようやく休めると思ったら、新聞連載のイラスト描きが残っていた。また徹夜か・・。

でも久しぶりに、集中を継続できた。働いたという実感を思い出した(笑)。

そろそろ本の執筆でも、この継続モードを起動せねばなるまい。



2024・11・13

子供が壊れていく

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

子供が壊れていく・・。

街を歩くと、スマホゾンビ、スマホ奴隷がいたるところに闊歩している。

率直に言って、不気味な光景だ。

目の前に誰がいるかも、周囲がどんな状況かにも意を払わず、小さな画面に目を凝らしている。そのままフラフラと夢遊病者のような足取りで歩いている。

小学生の子供は歩きながらゲーム。いい年をした大人さえも、スマホ、ゲームをやりながら歩いていく。歩いてくる。

地下鉄の階段の前を、ヨロヨロと登っていくジャージ姿の中学生らしき男子がいた。

追い越してながめると、ゲームだった。

図書館でも、ノートや問題集を広げながら、大半はスマホいじり。
友だちと勉強しているようでいて、結局はスマホいじり。

教室でも一見勉強しているフリをしながら、頭の中には、ゲーム、スマホ、タブレットがチラついているはずだ。完全な依存状態だ。

一人でスマホをいじる中学生の姿もよく見かける・・・机に突っ伏して、片手にスマホ持って、親指だけでてれんてれんと、画面を眺めているだけ。

病気だ。もはや病気のレベル。

階段さえ登りきれない、本さえ開けない、虚ろな目をしてジャンクライトを浴び続けて、なんと子供によっては、6時間、9時間、24時間(つまりは寝ても醒めても)ということもあるという。


親も親だ。無責任にスマホやタブレットを与えて(国や学校が今やそれを率先してやっているというなら同罪だ)、歯止めがかからない様子を目の当たりにしても、叱れない。

叱れないなら、最初から与えるな。

子供の脳は、発達途上だ。体験して、考えて、選んで、これからの長い人生を生き抜くための知力・学力を身に着けることが、必須の課題だ。

人は必ず大人になるのだから、その将来のために準備しなければならない。そのために心身を育てること、知力を鍛えること。

学校、勉強というもの自体は、選ぶ余地はある。だが学ぶこと、脳を鍛えることは、選ぶものではなく、生き物として、そして社会に生きる人間として、外してはならないことだ。

脳は、育てるべき時期に育てないと、発育・成長は止まる。

ダラダラ、デレデレと、ただ画面を眺めて、テキトーに指先でいじって、そういう状態がラクだからこそ延々と続けていられるのだが、その程度のことにどっぷり浸かってしまっては、

脳も、心も、体さえも、育たなくなる。

現にスマホに溺れて、一日何もしないで終わる子供たちが続出している。

今が終わっている。ならば人生も終わるぞ。


脳が壊れれば、日常生活も、勉強も、仕事も、この先の長い人生も、何も始められなくなる。まさにゾンビであり、病人であり、奴隷だ。

それだけ忌々しき事態だということは、子供たち・大人たちの姿を見れば、簡単にわかるはずだ。

まともに歩けず、まともに学べず、ラクだけを好み、新たな体験を面倒くさいと思ってしまう。

そんな自分にこの先何ができる? 本当に何もできなくなるぞ。


今を壊して、未来をも壊す。取り返しのつかないことをしてしまっている。


親が、大人が、それを許容してしまっていることも、実に罪深い。
中には、親がスマホに夢中で、幼い子が手持ち無沙汰という光景も、目にすることがある。

大人たちがスマホゾンビ化しているから、子供に叱るとか、厳然たるルールを作るとか、そういう覚悟が出てこないのだ。

脳が壊されている。学習障害、発達障害・・当たり前だ。

こんなことをしていたら、障害どころではなく、人生そのものが壊されてしまう。

親のせいであり、社会のせいだ。壊れつつあることに気づかないのか?


酒・タバコ、 公営競技(いわゆる賭け事)は、二十歳から。それだけの有害性・依存性があるからだ。

ドラッグ(覚せい剤・麻薬)は禁止。人生を滅ぼしかねないからだ。

スマホ、ゲーム、タブレットも、同様の危険性はあるのだぞ。

なにしろ脳を壊し、時間を失う。一度失った脳も時間も取り返せない。ラクだからこそ依存性もある。取扱い注意の危険物だ。


手遅れになる前に、年齢制限をかけるべきだという立場に賛同する。

だが、ぬるま湯に浸かりすぎたこの社会においては、規制の動きには反対する声が上がるかもしれないとも思う。

大人でさえ、自分がどんな病的姿を晒しているかを自覚していないのだから。

もはや社会全体が依存症のレベルに入っているのかもしれない。



取り返しのつかない事態に進みつつある気がしてならない。

子供たちが壊されている。




2024年10月末日

理不尽と闘うということ

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)


世の中は、理不尽に満ちている。

理不尽を作っているのは、たいていが傲慢な人たちだ。

彼らは平気で人を傷つけ、害を及ぼし、その後に言い繕い、嘘をつき、難癖をつけ、言い逃がれの屁理屈を語り、

傷つけられた側が、いつのまにか悪者であるかのように見せる術に長けている。

真っ当な人たち、つまり傷つけられた被害者は、自分にも落ち度があったのではないか、自分が悪いのではないか、自分さえ我慢すれば、犠牲になれば、自分以外の何かを守れるのではないかと考えて、

背負わなくていい苦しみまで背負ってしまう。

どんなに被害者側が、なるべく穏当に、他の誰も傷つかないようにと、ひとり苦痛をかみしめ、犠牲・負担を背負っても、

現実に残るのは、傲慢な加害者たちの嘘と無責任と野放図と、何もなかったかのような欺瞞に満ちた日常だ。

彼らは、自分たちが、どれだけ人を傷つけ、損害を与え、苦しみを強いたかについては、最後まで見ないフリを決め込む。「なかった」(むしろ困らされているのは自分たちだ)というのが、彼らの言いグセだ。

こうした人間たちは、放っておいても、決して反省しないし改心もしない。責任を取るという発想は永久に出てこない。

人を傷つけておいて、自分はさも善人であるかのような顔をし続けようとする。

その時点で、彼らは悪人なのです。最もタチの悪い悪人たち。


もしあなたが、誰かに傷つけられて、いったい誰が悪いのか、もしかしたら自分が悪いのかと、まだ混乱の中にいて独り苦悩しているのなら、こう考えてください:


◆問題の原因を作っているのは、「事実」を引き起こした側である。
(その者たちがそんなことを言わなければ、しなければ、こんな事態は、こんな被害は生じていなかったといえるなら、罪を背負うべきはその者たちである)

◆その場合は、理解を求めることは間違っていない。

◆ただし、最終的には社会に理解を求めることになるので、事実(つまりは証拠)をきちんと示す必要がある。

◆いずれにせよ、他人が作った問題については、自分が悪いわけではない。

あなたは犠牲者であって、罪人では絶対にない。

◆被害を被った者は、被害を訴える権利がある。それが市民社会のルールである。


しっかり心を守ってください。

理不尽に対しては、泣き寝入りせず、堂々と被害を訴えてよいのです。






2024・10・27
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選挙は行かねば始まらない

選挙は行かねば始まらない。

選挙というのは、

自分の意志が政治に反映されるかとか(→どうせ反映されない)、

世の中変わるか(→どうせ変わらない)という理由で行くというよりも、


「自分にとって」を明らかにする作業です。


まずは世の中をどの方角に変えていきたいかを、

「自分の内側で」確認すること。そのきっかけ。


自分なりに知ろうとして、選んで、意思表示しなければ、「自分にとって」は明らかにならない。

そんな自分は社会につながっていない。何もしていない。

そんな自分が社会に不平不満を持つなんて、おかしな姿ということになる(不満なのに最低限の行動さえしていないのだから)。


政治のことがよくわからない、

一票入れてきたって何も変わらない、

投票したいと思う候補者がいない、

といろいろ理屈はあるかもしれないけれど、


いないなら白票入れてきたってよいし、

ほんの少し検索してみれば、その候補者がどんな人間かをうかがい知ることはできるかもしれない。

普段、ネットニュースを眺めて、名の知れた人のゴシップに詮索・批判できる時間はあるというなら、

候補者が、どんな過去・仕事・生活をその背景に持っていて、

何をめざして、具体的に何をやっているのか、多少は首を突っ込んでみることはしてもいい。

 

自分とすべての点において考えが同じということは、ほぼありえない。

物足りない、不満に思う部分もあるかもしれないけれど、部分的に支持・共通するところがあるなら、その部分だけ支持するという形があってもいい。

 

自分が動いても動かなくても、誰かが議席を取って、いい方向にか悪い方向にか、いずれにせよ世の中は動いてゆかざるを得ないのだから、

まずは
「自分にとって」
「自分の内側で」
「ひとまず」

誰を選ぶか、明らかにしてみてもいい。


政治はどうしたって非合理で、残酷で、醜悪で、低俗で、非生産的なものではあるけれど、

それでも自分の中でどんな社会になってほしいかを明らかにすることは、「自分にとって」意味を持つし、

もし少しでも共感できそうな、この人には政治の世界で頑張ってほしいと思えるような人がいるのなら、

ないよりは、あったほうがよかろう程度の可能性を見て、とりあえず一票投じて、自分の務めを果たすこと。


(もちろん勘違いかもしれないし、裏切られることもあるかもしれないけれど、そのことに落胆・憤懣していても始まらない。「しょせん人間」という諦めは持っておこう。「それでも」とプラスに思える部分を見つけようという話。)


それは、社会のためでもあるし、自分のためでもある。

票を投じなければ、社会と自分の両方を失う。何者でもない自分自身に、放棄という名の一票を投じて、まさに何者でもない日常をただ生きていくだけになる。

それは「自分にとって」意味がない。

 

国政選挙の投票率は、わずか50%強だ。有権者の半分近い人間が、「どうせ変わらない」とか「自分一人投票しても」みたいなところに留まっている。

もし一人一人が、「自分にとって」を明確にし、

その分、自分の頭で考えて、行動して、意思表示するところまで習慣化して、

そういう動く人たちが投票するようになって、

投票率が70%、80%、90%になったなら、

社会は大きく変わるよ。民意を無視できなくなる。恐れるようになる。


(若者が全員投票したってシニア層に勝てないという声は、自前のニヒリズム・自滅思考をもとに語っているだけで、現実を見ていない。

現実を変えよう・変わろうという意志のない人間が、そういうことを語って虚無に導こうとするのです。正しい理解ではありません。)

 

「どうせ変わらない」程度の意識しかない有権者が半分もいる限り、

「どうせ見抜かれっこない」と見くびる政治家が必ず出てくる。


政治家にバカにされているのは、有権者がみずからをバカにしているから。

「自分にとって」を大事にしていないからです。



2024年10月27日