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仏教を盗んでしまっている君へ


仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ


最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。

むしろ君の未来のことを気にかけている。


君は、4月7日にプレスリリースを発信したみたいだね。

そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?


君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど

その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。

だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、

君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。


そのことはちゃんと考えていますか?


私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。

ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。


CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない? 

そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?

そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。


もし君が、スジャト師らの長年にわたる努力と思索と研究と、

それを世界中の人たちに役立ててもらおうと慈悲の心で公開し続けてきた、


彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、

今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。


人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。

誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?



AIに反対しているわけではないんだよ。AIを使った人間の「悪」に反対しているんだ。

こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。

君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか

壊れないよ。
君が居場所を失うだけだ。


君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。

でもそれは、最後まで控えておこうと思う。

君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。


君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?

4月7日のプレスリリースでも、ずいぶん多くの人様・団体様の名前を使っている。

自分の正しさを分からせることに役立つと思ったかい?

真逆だよ。もし嘘の使われ方をしていることが発覚したら、君は確実に社会的信用をまた一つ失うことになってしまう。


私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。


君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。

PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。

もちろん配信者の事業を応援しようという思いも、彼らにはある。彼らは依頼者である君を信頼した。最後まで。信頼したからこそ、ほぼ無審査で配信し続けた。


だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。

君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。

いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。

でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。

君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。

君は想像しなかったのか? 嘘を配信させた彼らの看板に泥を塗ることになることを。


もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、

おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。


気づいているかい?

君の言葉にも、その行動の中にも、他者がいないんだ。

心と体を持った人間が。

奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。


君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、

人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。


もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、

嘘をつかず、

与えられていないものを受け取らず、

まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、

その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。


そして人様からの托鉢をもってその身を養い、

一日十二時間の瞑想をし、

パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、

少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、

日々の小さな務めを果たしてみるがいい。


できるかい?


できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。


もう一度言うよ。私は君の敵じゃない。


私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。

だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、

人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、

その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。


これがもし私だけの思いであるなら、安心してほしい。世界は厳しい場所だ。私が何を訴えても、人々は聞く耳を持たないだろう。

だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。

もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、

その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。


私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。

あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。


苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。

でも、おそらくそれは、孤独が長すぎた君が作り出した妄想だ。

私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。

嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、

だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。


そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。

苦しみが生まれるのは、誰かが、私欲や、嘘や、レトリック(言葉回し)や、権力をもってゴリ押ししようとした時だ。


君は世界の苦しみを増やしていないか?

君を信じたPR TIMESが、虚偽の情報を流し、配信先に迷惑をかけることになったこと、その築き上げた信用に傷がついたかもしれないことを、

君は想像しないのか?

だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?


誰も君を苦しめようとなんてしていない。

苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。



君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。


そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、

私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。



伝わるかな。

伝わるまで伝え続けるよ。



草薙龍瞬


P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。

私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。

だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。


だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。

自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。

なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。

それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。

私は、君に傷ついてほしくない。再び孤独に落ちてほしくないんだ。


敵じゃないんだよ。



2026年4月9日


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4


本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。

それは、あなたに向けても同じことだ。

 

私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、

ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。


あなたはわからないのか?

あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。

あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、

彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、

仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、

世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。


今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。


日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?

CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?


世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。

新聞社も、メディアも、学者の先生方も、

仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、

その点は同じだ。


あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?


どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。

そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。

世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。

そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。


あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。

仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。

だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。


あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。

あなたは、こうも伝えてきていますね

>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。

そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。

あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。

どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう? 


単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、

その具体的根拠のみです。


現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、

生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。

その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。


あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。

つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、

その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、

真実は、

現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして

彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。


私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。

世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、

今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。


世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。

あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。


あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。

だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。

私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。

あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。

ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。


伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。


あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、


自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。

倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。


この問題は、それほど難しいことではないのですよ。

あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。

与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。

そういう道理を守れるかということだけです。


道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。

あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。



どう思いますか?

 

慈悲にもとづいて 

2026年4月7日

 


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3


この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。


彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。


(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)


ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、

無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。


この事件の本質は、

利用された側がまったく知らされなかったこと、

今回の無断使用に異議を訴えていること、

仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている

ことです。


盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。

この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。

誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。

盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。


自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、

無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。


盗んだだけだ。


盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。


「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。

仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、

自分のやっていることの非道がわからないのか?


その事業内容、

インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして

この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、

今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。


聞こえているか? 

罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。

あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。


間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。

 

このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。

与えられていないものを受け取ってはならない。


もうしばらく時間という名の猶予はある。





2026年3月29日



生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2

はじめに

これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。

この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。

今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。

しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。

こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。

ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。

ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。

ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:

◇◇◇◇◇◇◇

拝復

この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公式の回答となります。

貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『反応しない練習』に基づくAIおよびアプリ開発の提案について、貴社の事業内容および貴殿のこれまでの発信内容を精査いたしました。

結論として、草薙龍瞬は貴社および貴殿が展開する事業への監修および今後の関与一切を固くお断りいたします。

また、仏教に対する貴社・貴殿の認識および扱いについて、深い懸念と憂慮を表明するとともに、今後貴社が展開する事業について、国内外の仏教団体とも連携のうえ、注意深く厳粛に観察していくことをお伝えいたします。

以下に、貴社及び貴殿の仏教AI事業を容認しない決定的な理由を記します


1. 仏教の生命線である人間対人間という大前提への無理解

貴殿は「経典を正しく引用すれば、嘘をつかないブッダの教えになる」と主張されているようですが、それは仏教の本質を著しく誤解するものです。

そもそも仏教という信仰・思想は、苦悩と真摯に向き合う人間に向けてのものであり、また同様の苦悩を知る人間が伝えることを前提としています。仏教を深く理解せず、信仰(敬意)を持ち合わせていない一般の人間が、その主観的判断をもって分類・加工・生成するようなあり方は、元来想定されておりません。

仏教に対する理解が及ばない人間が、苦悩を実感しないAIを利用することで、仏教徒にとってかけがえのない知的遺産である経典を一方的にデータ化し利用する。こうしたあり方は、仏教の思想性並びに伝統と、それを守り続けてきた仏教徒たちを甚だしく蹂躙するものです。た仏教に対する人々の誤解を増大させる極めて危険な行為に当たります。


2. 〇〇〇〇および仏教の伝統に対する敬意の欠落

貴社が流用した〇〇〇〇のデータベースは、長年にわたり僧および在家の仏教徒が献身的な奉仕を重ねて築き上げた神聖な知的財産です。彼らは公式に、AIによる利用を容認しない旨の倫理的要請(Ethical Request)を表明しています。○○○○が提供するデータをかくも大規模に流用しながら、彼らの倫理的要請は知らなかったということは、到底通用するものではありません。

上記の声明が彼らの公式サイトに記されていることを知りながら、気づかれないものと高をくくって今回の事業を立ち上げたということであれば、貴社および貴殿の倫理的罪およびその反社会性は決定的なものとなります。

そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨は、ブッダの教えを商業目的で独占することなく、あくまで救いを求める人間のために広く提供しようとするものです。企業・個人に都合よく利用されるためではありません。

彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、その人道的動機を平然と無視して自らの事業に流用した貴社の姿勢は、仏教徒たちが重んじる「不偸盗(与えられていないものを奪ってはならない)」という戒めに真っ向から抵触するものであり、また地道に仏教を守り続けてきた仏教徒たちの努力を甚だ愚弄するものです。


3. 拙著および私個人の道具化への異議(発想への警告)

拙著『反応しない練習』は、読者である一人ひとりが自らの心を見つめ実践するために、私がいわば命を削って紡ぎ出した大切な作品です。それをAIボット化し効率的に提供しよう(提供していい)という発想は、個人の思索とその成果を嘲弄するに等しい極めて傲慢なものです。これを機に自覚していただくことを求めます。 

貴殿はSNS型メディアにおいて (略) を発信している様子です。こうした発想は、一個人の感想としては自由ではあるものの、そのような認識で仏教を生成AIに利用すること、またなんら資格も正当性もない立場で仏教を編集・加工しアプリ等に利用することは、社会通念をも逸脱するものです。

仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、そしてすべての著者には、尊厳というものがあります。貴社および貴殿がやっていること、およびその発想は、こうした尊厳を甚だ傷つけ、かつ愚弄するものです。

もし私の言葉が未だに届かない場合、そして今後も貴社および貴殿が、仏教という尊い思想を生成AIおよびアプリ開発に利用する動きを止めないというのであれば、その時は、あなた方がやっていることの法的・倫理的当否、特に〇〇〇〇のデータベースを大規模に流用して事業化したという事実を、貴方方に直接訴えるのではなく、社会および世界に向けて発信せざるをえません。


最終警告および要請

この連絡をもって、私と貴社および貴殿との接触は完全に終了したものといたします。今後、以下の行為が確認された場合には、法的措置を含めた厳正な対応を検討いたします。

1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、投資家向け資料等において、某僧侶に監修を依頼している、相談中である、「反応しない」プログラムを開発中といった、私および私の作品との関わりをほのめかすような一切の記述を禁じます。

2.著作権・商標権への配慮:
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」という核心的概念を含む独自のコンセプト・方法論を、貴社のAIサービスの名称、機能、宣伝文句等に流用することを厳に禁じます(もともと貴社および貴殿に仏教を扱う正当性は一切ありません)。

3.誤認情報の流布禁止
私の思想ひいては仏教の精神を、貴社のAI技術によって「再現可能である」かのような誤解を招く一切の表現を禁じます。これはあきらかに信仰・思想としての仏教が許容する範囲を逸脱する、非倫理的かつ反社会的なものです。

4.仏教という知的遺産への敬意と尊重の要請
仏教は、ブッダの教えに基づいて真摯に生きる仏教徒たちのものです。何人たりとも、仏教を一企業の事業としてまた商用目的で利用することは、許されるものではありません。


貴社および貴殿が擁する技術的卓越性は、法的・倫理的見地に抵触しない範囲および態様で社会に還元することが求められています。

この件は、貴方方が対処を間違えば、日本国内だけでなく世界的な議論と批判を招きかねない重大かつ深刻な問題を含んでいます。本件に潜む倫理的危うさが周知の事実となれば、貴殿がどのように弁明しようとも、確実に貴社および貴殿の社会的信用性に致命的かつ半永久的な負の影響を及ぼします。

貴社および貴殿は、さまざまな媒体を通して〇〇事業を宣伝しているようですが、今後はそのすべてが、あなた方への批判・非難の的に転じる危険があることをご自覚ください (略)。


仏教は、仏教を信仰する者たちによってのみ語り継がれ、また守られるべきものです。

貴殿もまた縁あって仏教という思想にたどり着いた身の上です。物事の道理というものを理解しうる知性と良心の持ち主であると信じます。

どうか物事の道理を正しく理解し、本来のご使命に立ち返ることを願ってやみません。


僧侶・草薙 龍瞬

 

2026年3月下旬

 

追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。

 

 

 

 

 

生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて

こちらはかなり真面目な話として――


最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。

「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。


彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。

自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、

あからさまな文化的窃盗であり、

俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、

仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。


最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。

いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。

原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか? 

自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?

そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?

「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。


これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。


古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。

だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。


そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。

パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。

ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。

しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。

さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。

 

もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。 

 

ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。

一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。

だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。


彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。

なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。


最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。

2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。

仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。

そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。

彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。


思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、

仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。


しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。

そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。

なんの臆面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。

 

そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。だが言うまでもなく、彼らに仏教を”盗む”資格などない。

 

いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、

自分たちに、仏教を利用し、収奪し、さらに自分たちの利益を上乗せする資格があるというのか。 


問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。


彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。

首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。

だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。


つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。

正気を取り戻してもらいたい。

彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。

まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、

その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。


どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。

世の中には、やっていいことと、悪いことがある。


そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。

苦しみを知らぬ者、

自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、

仏教が利用されることはない。あってはならない。


真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。


いずれは声を挙げねばならないか。

声を挙げねば、わからぬか。



※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。

2026年3月

 

※追記 

どうやら、真相はもっと深刻で、もっと多くの虚偽を含んでいたようです。これほどの嘘を堂々とみずからアピールしてしまうとは・・いずれ真実を知った人たちは驚くはずです。今は信じている人たちさえも。

こういうことは、なるべく早く知られるほうがよいのです。本人にとって幸いだったかもしれないことは、真相を知ったのがこの場所(私)だったということです。

世の中は、私のように優しくはないから・・見つかるのが遅ければ遅いほど、信じた人々の怒りは大きくなるものだから。

あやまちを改めるのは早いほうがいい。自覚しないよりも、自覚したほうがいい。

遅れるほどに、本人が最後に背負う罪の重石は重くなってしまう。

私はそれを望んでいない。

どうするつもりなんだろう・・。 

 

2026年4月11日

 

「椅子取りゲーム」いつまでやるの?

(子供を受験塾に通わせているお母さんのおたよりをふまえて)

 

某大学をめざせ系のカルチャーを支えているのは、

たかだか大学でしかないものに過剰な価値を見出し、まるでその価値を手に入れれば人生が挽回するとか、成功という社会的記号が手に入るとか、そういう単純な、もっとはっきりいえば貧しい価値観です。

どこぞの大学に進んだからといっても、それ自体に社会的な価値があるわけじゃない。

社会的な価値というのは、経済学的には付加価値を創り出すこと。

仏教的には、人の苦しみを減らし、社会における快適さを増やすこと。

そのための手段として、さまざまな仕事・役割があるわけで、どこぞの大学に行った・出た程度のことは、こうした価値に直接の関係がない。

社会的な価値に至らない、つまり価値未満の記号でしかない。

にもかかわらず、そうした分別、成熟、すなわち「社会にとっての価値とはどのようなものか?」という視野がまったく欠落している大人たちが、

どこぞの大学に行けば人生が変わるとか、社会的に有利だとかという思い込み(視野狭窄)に捕らわれていて、

その捕らわれている自分自身のダサさ・痛さをまったく自覚していない(いい歳をして)というところが、「絶句」なのです(間違っているというしかない)。


こうした価値観にとらわれた、視野の狭い、無思考な(疑ったうえで本当の価値を考えるということをしない)大人たちが、

特定の大学礼賛とか、偏差値とか、成績とか、ランクづけとか、そういう姑息な下位記号を次々に作り出して、売り物にして、

その記号を物差しにして、勝手に学校や子供たちの価値を判断して(これも一つのハラスメントですよ?)、

その判断を刷り込んで、自分自身の価値を判断させるように、また周りの人や仕事や学歴や社会のありようというものも判断させるように感化してしまう。

煽りであり、刷り込みであり、中身のない物差し(成績・学歴・大学名)で自分の承認欲を満たしたり、人をバカにしたりという「イヤな性格」を育ててしまう。

「イヤな性格」とはっきり言っていいのは、人というのは判断されたくないし、見下されたくもないから。

いちいち値踏みしてほしくない。なのに値踏みしてきやがる(笑)。それは、イヤな性格であり、イヤな人生観であり、イヤな価値観。

そういう価値観が蔓延してしまえば、見下されたくない子供たちは、その価値観という椅子取りゲームに興じざるを得なくなってしまう。

だって、親が必死だから、期待してくるから、塾がそうだから、入った学校が、友人がそうだから、予備校がそうだから、大人たちの視線がそうだから、耳に入ってくる話題がそうだから――。

学習して、いつの間にか、自分自身が同じ価値観に染まっている。承認という椅子取りゲームに血眼になってぐるぐると回っている自分がいる。周りの友だちも、大人たちも、社会も回っている。ぐるぐるぐるぐるぐる・・。


こういう無意味な椅子取りゲームを、疑いもしない、考えるアタマを持たない大人たちが世の中には蔓延していて、

そうした大人たちがしたり顔して、どこぞの大学をめざせとか、こういう勉強法があるぞとか、そういう自分にとってはもう終わったこと(こういう大人たちって何歳?)を得々と語って、カッコがついているように思い込んでいる。

そういう姿がカッコ悪い。

この椅子取りゲームのぐるぐる、いつ終わるのか。

終わらない可能性もある。それくらい、考えない大人が増えているかもしれないから。



不登校については、学校という箱を相対化する(学校だけが学びの場所ではない)という意味はあるかもしれない。学校に執着しない大人も子供も増えている。

学校の価値が相対化されつつあるのは、社会の、つまりは大人たちの認識が少しは変わってきている証拠。少しは子供たちも自由になりつつあるのかもしれない。

同じように、どこぞの大学名が価値を持つという価値観もまた、そうした価値観を相対化できる、「そんなことに価値があるのではない」と思える大人たちが増えてくれば、

某大学をめざせ的なカルチャーは、ダサい、痛い、「いまだにそんなことを言っているの?」と白々と思うほかないオワコンになっていくかもしれない。

オワコンにすべきだと思う。終わらせないと、社会全体の可能性が尻すぼみになる。

自分らしく、つまり心に苦しみなく生きること。

世の中の殺伐・ストレスが増えないように、人の痛みや苦しみを思いやり、社会の問題に関心を持ち、

どうすれば、人・自分・社会の苦しみを減らせるか、快適を増やせるかという大きな価値をめざして、生きて、働く。

そうした生き方、社会のあり方のほうが、確実に、圧倒的に、価値がある。違うといえるかな?



椅子取りゲームのぐるぐるを繰り返しても、せいぜい特定の椅子(大学・学歴)にしがみつくだけ。そんな自分に価値があると思う?

座れない人だって出てくる。座れる人と座れない人と――その区別そのものに、意味があると思うかい?
 

たかが小さな椅子でしかない。何も生み出さない貧相な椅子。


本当に価値あることは、その周りに、向こうに広がっているのだから。



自分のプライドを守ることだけで精一杯、そんな余裕のない子供と、そのまま大人になった人たちと、そんな価値観しかない社会が、延々と繰り返される――

そうしたあり方に、心の底から「くだらない」と思える人間が、どれだけ出てくるか。

一人一人の生き方と、社会のあり方と--広がるか、ますます狭まるか。

狭まるなら、人の”心の首”はますます締めつけられて、窒息していくことになる。人生も、社会も。「生きづらさ」が増すばかり。

本当にくだらない。そう思えないとね。




2025年11月


全体を見てプラスなら・・


他人の評価(学校の先生の評価を含む)は、当てになりません。理不尽の最たるもの。建前としては「公平に」「客観的に」と言ってはいるものの、内心はどうしても分け隔て・選り好みはあるものです。

(親がわが子の兄弟姉妹を扱う時も同じはず。公平なんてありえない(笑)。)

だから得する人(世渡り上手な人)も、割を食う人(世の中の理不尽・不条理を体験しやすい)も、出てきます。


一番大事なことは、そうした現実は避けられないものと受け止めた上で、「トータルで得する」自分を作ることなのかなと思います。

先生の評価に疑問があっても、他の先生・科目・勉強・進路については、プラスを増やせるように努力する。どれかがイマイチでも、他がプラスなら、トータルで見れば得する可能性は出てきます。

最終的には「前に進めればいい」ので。中学生なら(納得のいく)高校に上がれればいいし、高校生なら(納得のいく)卒業後の進路にたどり着ければいい。

ひとつのマイナスについては、「世の中こういうものだ」と割り切って、それ以上は追いかけずに、プラスのほうを見て、プラスを増やすことを楽しむのです。


「しんどい部分」は、自分だけではなくて、他の人もみんな味わって(噛み締めて)いる部分だったりします。その意味では、独りではありません。

その部分はしばらく続くとしても、自分の全体を見れば、他の部分はプラスだったり、楽しかったり、有意義だったりするので、

トータルで見た時に「プラスなんだ」と思えることが大事なのかもしれません。




2025年10月中旬


スマホ漬けの茹でガエル

(今回はネガティブ&ダークな話題です。50代以上限定?)


外を歩くたびに、スマホを眺めてばかりの人々を見る。電車の中では、ほぼ全員がスマホ。異様だと感じずにはいられない。

外の世界に目を向けず、小さな画面に映る情報にしか心を向けない。このスマホ漬け、スマホ縛りによって、人々の心は、

・自分が興味を持つものにしか目を向けない
・「微反応」だけに脳を使い続ける
・外の人間・社会・未来に目を向けない(考えない)

という状態に引きずり込まれる。

心(意識)というリソースは有限だから、スマホ縛りによって、確実に目を向けなくなる対象が出てくる。

それが、人、社会、未来、そして自分にとって価値のあること、だ。

「自分に都合のいい」妄想が軸になって、自分に都合のいい人間・情報だけは歓迎する。

「自分に都合の悪い」人間や情報は、うざい、めんどくさい、だるいと感じて、遮断する。

「自分に都合のいい」ことを優先させて、社会のこと、自分や社会の未来のことを考えなくなる。

「自分に都合のいい」ことが、自分の将来にマイナスかもしれず、また社会や人類にとって有害かもしれないことには、思考力が及ばない。スマホに意識を奪われているからだ。


なお、スマホの使用時間を制限しようという動きは、今話題になっている自治体以前にもあったし、ルールに定めている学校も少なくないらしい。

「スマホは悪か」といった極端な発想ではなく、単純に「スマホ縛り」で奪われている・失われている現状をどう考えるのかという点が、根本的な問いである。

スマホの便利さや時代性など、そんな名分を繰り出したところで、スマホに縛られ、生活のリズムを崩され、頭の中が混乱している人間は、大人・子供を問わず、大勢いるはずだ。

そういう状況をどうするのか。放置しておいていいのか。多少はコントロールすること、時間のバランスを取ることも必要なのではないか。

特にさまざまな体験を通して心身を育てて、未来に向かう子供・十代にとっては、それはどう考えたって欠かせないことではないか。

そういう視点は必要なはずだ。でなければ、個人の選択の問題として片づけられてしまう。だが人間の心はそれほど強くはない。野放しにすれば、必ず「スマホ縛り」の沼に堕ちる人間が出る。確実に。

スマホの便利さと危うさ、いや猛毒かもしれない部分とを、切って分けて考えないといけない。だがスマホ自体が、便利さと危うさを一体化して、便利さだけでは終わらず、必ずラク、怠惰、無気力、依存、都合のいい妄想へと誘い込む形になっているのだから、

「スマホ自体の使用を制限する」という発想も、あっていいはずだろうとは思う。個人ではコントロールできず、スマホを持つこと自体が、心を崩しているのだから。

便利さだけを訴えたり、個人の選択として片づけたり、今さら制限なんてムリ(みんな当たり前のように使っている)といった理屈は、「スマホ縛り」を正当化するだけで、マイナスの解決策にはならない。

マイナスをどうするのか、という点を思考しないと、「考える」ことにはならない。


そう、「都合のいい」ことだけを一人一人が優先させてしまって、「考える」ところまで進まないところが、今の世の中の最も危うい部分かもしれない。

マイナスは考えない。社会のことを考えない。未来への影響を考えない。

今がよければいい。自分がよければいい。自分に都合のいい人・情報だけでいいという発想。

それでも生きていけるから、それでいいじゃないか――そんな発想が「当たり前」になってきているのではないか。



なお、人々がスマホを眺めている間に、刻一刻と大気の温暖化、いや沸騰化は進んでいる。炭素排出による温室効果ガスが温暖化の最大の原因であることは、半世紀以上前(正確には1950年代)から言われていたことだ。

だが奇妙なことに、メディアも政治家も国際機関も、何も言わなくなった(つい最近まで国連総長くらいは必死で訴えていたが)。

石油産業への巨大な忖度か。あるいは、もはや温暖化を防ぐことをあきらめて地球人口減少の一手段としてむしろ利用しようという国際的合意が密かに交わされてしまったのか。

こういう発想は「トンデモ」に聞こえるけれど、そんな妄想もしてしまうくらいの奇妙な沈黙ぶりだ。子供でも知っている(知っていた)はずのことが、まったく話題に上がらない。不気味な静けさだ。

結果としての灼熱と異常気象と、人々のスマホ縛り。二つは離れているようだが、同じ現象の表と裏だ。つまりは、人間が自分の都合だけ優先させて、考えなくなったという現象だ。


スマホ縛りの人々は、それでも生きていけると思っているのかもしれない。スマホ依存で将来の可能性を掘り崩しているかもしれない子供たちも、それでも生きていけると楽観しているのかもしれない。

だが、今の社会が続く保証はない。「働いて生きていく」という当たり前の選択肢さえ難しくなってくるかもしれない。現に仕事をAIに奪われる人たちが出てきている。近い将来、もっと多くの仕事がAIに取って代わられる日が来るだろう。絵空事ではなく、現実だ。

さらに大気の高温化が進んで、地上では生きていけなくなるかもしれない。夏の気温が50度超えという日々を想像してみよう。そのうち想像ではなく現実になるかもしれない。

いずれ、ごく一部の人間たちは、地上を捨てて、火星やスペースコロニー等に脱出するかもしれない。これもSF的だが、技術的には可能になりつつある。時間の問題だ。

宇宙空間に住居を作って、人工肉を培養して、人工灯で野菜を作って。すでに実用化された技術もあるという。

そこまで科学技術が進歩した時に、力ある者(超富裕層や一部の権力者だろうか)は、平気で大衆を見捨てるだろう。AI優先でエンジニアを切り捨てる企業はすでに出ているが、もっと大規模な「棄民」政策 mass abandonment が起こるかもしれないということだ。

人類の歴史を、特にこの十年に起きた出来事を振り返れば、力を持つ者は自分の都合と利益を優先させて、弱者を平気で切り捨てる思想の持主であることは、容易にわかる。

彼らは優しい人間たちではない。博愛とか民主とか人権とか、そんな理念が通用するようなお人好しではない。

自分だけがよければそれでいい。自分だけが助かればいい。そういう発想で、AI・軍事・経済・金融・医療と、あらゆる方面を容赦なく突き進んでいく者たちだ。


個人的には、これも人類という種の生存戦略の一つかもしれない、と妙な諦念をもって見るようにもなってきている。

つまりは、発達途上の段階では何十億もの群衆を手なずけ、労働・生産の手段として利用して、自分たちの利潤と技術開発を追求し、

科学技術が一定レベル以上に進化して、ごくわずかな人間だけが生き延びられる状況に達した時点で、群衆を捨てるという戦略だ。

その時期が来るまでは、世界がどれほど危うくなっているかは、あえて知らせない。いずれ「茹でガエル」となって大量熱死する時期が確実に来るであろうのに、そのことには触れない。

代わりに人々にスマホを与えて、デジタル漬けにしておく。ローマ帝国の「パンとサーカス」と似た位置づけだ。


人間の心は、自分の欲と痛みしか見えない。自分が生き延びられればそれでいいと思っている部分がある。それは力ある者も力なき者も同じだが、力ある者には、自分が生き延びるための戦略がある。実現する力を持っている。もうすぐ可能になる。

労働・生産に従事する人間に代わる条件がそろった時、生き延びる力を持った者たちにとって、地上の人々は「どうでもいい存在」になるはずだ。

すでにその端緒は見えているが、そのことにも人々は気づかない。


沸騰した 水瓶に 浮かぶは スマホと 茹でガエル


そんな時が来ないことをもちろん願うが、さて?


追記 
それでも人は生きていくのです。
世界が永遠に続くという前提を選んで、強く生きていくのです。



2025年8月下旬


溶けていくアタマ(学力低下問題)

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 


文科省が公表した「経年変化分析調査」。

小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。

夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。

参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。


こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。

かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。

今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。

彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。

というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。

勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。

それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?


これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。

「ヤバい」と思う思考力さえないということ???

最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。

ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。

野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。

なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。

こんな状態で何が育つというのか???
 

人生、何も始まらなくなるぞ。




仕事は誰のためにするものか


仕事は、相手のためにするものです。

仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。

だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。

投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。

ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。

趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。

これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。



だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。

自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。

自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。

こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。

この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。

これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?



解決策はシンプルです。

「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。

自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。

まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。

その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。

「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。

そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。

そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。



仕事で空けた穴を埋めることができるか。

仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。

できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。

穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。

「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。

穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、

穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、

「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。

そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。

成長し続けることが可能になるのです。



穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。

穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。


大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。

増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。

「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」

と客観的に自覚できるかどうか。


一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。

これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、

穴が空いている、空きつつあることに気づかない、

それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。

それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。



老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。

やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。

そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。

そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。

空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。

穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。


老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。

年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、

「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。

それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。




仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。

自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。

自分の側の仕事については、満点を出せること。

仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。

穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。

動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。

その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。

そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。



仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。


これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。

この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。


すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。



自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。

これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。

穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、

その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。

この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、

自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。


まずは自分自身と闘わねばなりません。




国の基本~万博と人口減が象徴するもの


大阪に宿を探そうとしたが、どこも高い! 例のイベントが始まってしまったためか。

日本の政治は不可解だ。カネの使い方がメチャクチャだ。

政策と予算は、第一に人々の雇用を安定させ、いざという時のセーフティネットを充実させることが基本だ。右も左も、保守も革新もない。基本である。

「結婚しようか」「子供を育ててみようか」と思えるくらいに、収入・生活が安定すること。これを第一の国家目標に据えて、政策を更新し、予算を重点配分すること。

これがある程度達成できて初めて、その他に予算を使うことが可能になる。そうした状況なら「万博でもやってみようか」という声が上がってもよい。

主と従、優先順位、基本とオマケを間違えないこと。

これは政策という思考の手順みたいなもので、例外はない。あってはいけない。

ところが、今の政治は原則も例外も滅茶苦茶になったままだ。万博開催と、昨年89万人、14年連続で人口減という話題が、ほぼ同時に上がってくるという不条理まで起きている。

実に象徴的だ。この2つの話題はつながっている。前者(万博)に代表される迷走の結果が後者(人口激減)だ。

最も憂慮すべきは、この迷走を止めるための方針が、わからなくなっていること。政治家だけではなく、多くの市民が、国の基本とはどういうものかを思い出せなくなっている。

政治・政策の基本さえわからなくなった国。政治家だけではなく、見抜けない国民にも、同じくらい責任があるのだ。
 
 
この国の人々は、賛成・反対、肯定・否定という個人的見解のぶつかり合い、支持か批判かという感情論に走りがちだ。万博についても、是か非かを言い争う声が聞こえてくる。
 
だが、こうした論争に価値はない。すぐに意見や感情の対立に流れてしまうから、事が終わればきれいに忘れて、次の話題・次の議論へと移ろうだけになってしまうのだ。騒いで、喧嘩して、忘れての繰り返し。

かつての「非国民」や「反〇〇」といったレッテル貼りによる思考停止と自己正当化は、心地よいかもしれないが、問題の本質を曇らせる。結果としての迷走、同調、閉塞と自己破壊だ。この国は同じことを繰り返している。
 

明日は野宿でもしようか。基本を踏み外した狂騒につきあって高い宿に泊まるよりは、せめてこの身くらいはまともな姿を保って、つつましく野ざらしでいるほうがいい。



4月15日

人生はシンプルでいい

 
名古屋・栄での今年最初のレギュラー講座。テーマはずばり、”ダンマ”――仏教と呼ぶより、はるかにブッダの教えに近づける言葉だ(慣れるまで聞こえは怪しいけれど笑)。

特に今日は、宗教と長く関わってきた人が来ていたから、宗教とダンマの違いをお話してみた。伝わったかな・・。


執着が強い人は、宗教のほうに親しみを感じるものだ。というのも、現実逃避を求めているにせよ、ご利益を期待しているにせよ、その執着に応えてくれる妄想に惹かれるものだから。
 
最初に執着があり、叶えてくれそうな妄想を探す。その妄想を形にしてくれると予感した宗教に惹かれる。そして「信じる」段階に入っていく。

信じることが最初に来るのではなく、本人が自覚していない執着が前提としてあるのである。

その執着は、現実から逃れたいという思いかもしれないし、承認欲を満たしたいという我欲(上昇欲)かもしれないし、心の空洞を埋めたいという願いかもしれない。

そうした執着状態にある心が、「それらしい妄想」(理屈)に触れると、「きっとこれが答えに違いない」と興奮して、飛びついてしまう。

だが、そうしたものに飛びついても、問題は解決しない。
宗教という名の妄想をエサにして、執着が生き永らえるだけだ。

足元にある原因を、つまりは執着を自覚していないからだ。
 

本当は足元を掘り起こして、いったい自分は何に執着しているのかを自覚することが近道、というか唯一の解決策だ。

自覚できれば、捨てることも可能になる。あとはその方法を知って、実践すればいいだけになる。


ブッダが伝えた、一切の苦しみには原因があって、だがその原因は誰でも取り除けるし、その方法がある、だから後は実践するだけであるという言葉は、そうした真実を語っている。

まったく難しくない。そのシンプルな真実をひっくるめて”ダンマ”と呼んでいる。


本来のブッダの教えは、宗教とはまったく違う。真逆だ。宗教という名の妄想を克服するための方法を体系化したものだ。

心をめぐる問題に、答えがない問いは、実は存在しない。答えがない、考えてもわからないように見えるのは、自分の心が妄想によって曇らされているからだ。

心の苦しみについては、ほぼ百パーセントと言っていい確率で、抜け出せる。そもそもその苦しみは、心の中になかったものだ。今もまた、形も重さもない。実体のない(いわゆる無常)なものだからだ。

唯一必要なものは、ダンマ、つまり心の苦しみを抜ける方法だ。
 
その方法を受け入れるか。行動に移すか。それだけだ。もはや理屈ではない。考えることではない。やるか、やらないか。進むか、退がるか。受け容れるか、拒絶するか。


苦しみを抱えてさまよい続けてきた人が、ダンマに目覚めて苦しみを抜け、「この生き方で間違いない」という確信を持てるようになること。

それが、この場所の目的だ。時間はかかることが当然。そんな生き方しか知らなかったのだから。

焦らずに学んでもらえたら(自己理解を深めてもらえたら)と思う。
 
 
言葉は難しく聞こえるかもしれないが、伝える中身は、すべて友情に似た思いから発している。この命は、出会うことを喜びとする性質を持っている。よく来たね、と毎回心の中でエールを送っています。
 


2025年4月15日




ミャンマーを想う

ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。

個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。

かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。

かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。

軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。

国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。


私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。

軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、

「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。

ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。


長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。

いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。

いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。

現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。



もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、

あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。

そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。

今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。

その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。

軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。

しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、

地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。

ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、

その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。

彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。


過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。

だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。

今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。


なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。

力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。

そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。


どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。

避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、

避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。


ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。


中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト


 

2025年3月末日

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4


学校、東大、官僚、政治・・一つ一つの現場を、自分自身が知っている限りで思い出すと、この社会は ”巨大な碾き臼(ひきうす)” のようなものかと思えてきた。

霞が関であれば、御上先生の志や能力さえも摺り潰される。
 
学校であれば、あのドラマの学生たちの明るさや優しさも摺り潰される。
 
創造力に富んだ先生たちの意欲も摺り潰される。

ならば日本を変えようと法律家をめざしても、法律を書き、政策を作れる ”創造的法律家” になれる道は、日本にはなく、司法制度の枠に収まっているうちに摺り潰される。
 
政治家になっても、これまた打算計算と保身にまみれた周囲の人間たちの間(はざま)で、摺り潰されてしまう。
 
日本という社会は、いくつもの碾き臼(ひきうす)が歯車のように重なった場所で、その中を潜り抜けようとしているうちに、摺り潰されてしまう。ゴリゴリと。

そういう場所かもしれないと、ドラマを見ながら思った次第。
 

(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)



日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。

重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。

中高生のみんなに罪はない。

最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。

ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。


変わるには、どうするか。まだひとつ残っている。かなり狭い道だけれど。

今は言いません。


御上先生の問題意識、しっかり受け止めました(今日、最終回)


2025・3・23
 
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3

 
教育をおかしくしているのは、試験制度も一つだが、親、現場の教師、受験産業、そしてメディアまでが加担する、過剰かつ不毛な東大&高学歴信仰にもある。
 
今の時代は、学歴が売り物にされ、たかだが学生でしかない東大生であることが価値がある、すごいことのように扱われている。
 
これこそが最大の陰だ。中身のない、誰も幸せになれない陰。
 
一時的に持ち上げられて自分を勘違いする学生もいるだろう。もてはやされる姿を見て、「自分もああなりたい」と刷り込まれて(社会化)されて、その価値観が近い将来、自分を疎外(否定)する理由になってしまう学生もいるだろう。
 
一部の人間たちが過剰に持ち上げて、煽って、騒いで、商品化する。そのことで、大学の先にある本当の使命というものが見えなくなっていく。
 
これもまた日本を覆う陰の一つだ。だが陰であることに気づかない。日本人がみんな陰に慣れ過ぎているから。

勉強ができる、アタマがいいことが価値を持つ? でも東大に入ったところで、卒業したところで、何をめざすのか、どこにたどり着けるかといえば、どうだろう? 学んだことが、自身の幸福と社会への貢献につながったか、つながるような仕事にたどり着いたか? はて?

東大に行きました、立派な成績で卒業しました、資格取りました、こんなに私は優秀でした・・

そう言いたがる(売りにしたがる)人もいるかもしれないけれど、そのたどり着いた場所(自分)が、はて本当にどれほどの価値を持つのか。
 
そもそも本人は満たされているのか、社会に役立っているのか 
 
といえば、素直にうなずけるケースはあまりない、と言っても過言ではないかもしれない(←ちょっと霞が関文学?)。


学歴が立派、頭脳優秀だと思われている、思わせたがる、思わせている人は、大勢いる。もう飽和状態だ。出尽くした感がある。

とはいえ、「アタマがいい自慢ができる人」の大半は、入った大学(勉強ができたという程度のこと)に価値があるという前提(社会が共有する幻想)がないと成り立たない立場だったりして
 
(ほんとにすみません・・でもやっぱり「その先」をめざさないといけないのだと思います)
 

なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。

まったく変わってない。日本人の意識そのものが。

だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。

実態は別のところにあるのに。実は上級といえるほどのものはなく、どこまで行っても空っぽかもしれないのに。
 
 
ちなみに御上先生、『金八先生』については批判的に語っていたけど、『ドラゴン桜』という東大信仰、つまり社会全体の無思考の上に成り立つドラマには触れなかった。あれこそ教育の閉塞を長引かせる無思考型のドラマなのに。 
 
触れなかったのは、同じ系列だから? 学歴という記号に過剰な価値を見出す親や、受験産業や、そこで熱血指導している教師たちと同じように、自分たちもまた無思考の檻に囚われていることに気づいていない?
 
自己批判こそは思考の原点、最初に潜るべきイニシエーション(通過儀礼)みたいなもの。
 
自分の足元にある欺瞞を見つめないと、本当の思考は積み上げることはできないよ。 
 
東大めざせとか成績上げろみたいなことを、いい歳をした大人が真面目に語って、大学入試を「見上げている」こと自体が、無思考の極みであり、すごくカッコ悪い姿だという視点は、あったのかなかったのか、どうなのかな・・。
 
 
よく聞く「東大行くのは手段でしかない」なんていう言葉も、実は思考停止の言葉だ。
 
もっと大きな使命や目標を実現する手段という意味ではなくて、いつの間にか「自分のプライドを守る手段」に取って代わられてしまう言葉だから。
 
試験で勝ち抜くことを選ぶ人間は、思考停止のために「手段だから」といって、自分を正当化するんだよ。何十年も前の東大生だって語っていた言葉。
 
だから「手段にすぎない」という言葉さえ、思考になっていない。自己欺瞞。
 
 
そこまで突(つつ)いて、「考えて」、東大をめざす・受かるという価値観そのものが、無意味な妄想でしかない、日本社会全体が巨大にして無意味な妄想に呑まれている――。
 
そこまで心の深いところで言語化できて初めて、日本社会を覆うバカバカしい陰に気づく人間もちらほらと出てきて、
 
その知力を社会のために活かす、完全に自立し自由になった人間が現れる可能性が出てくる。
 
今の日本社会から自由になれるくらいの知力を持った人間でないと、社会を変える・創る力は持てない。 
 
冷静に考えれば、当たり前の真実だ。
 
そうした本当の頭の良さを持った人が、何人出てくるか。行政、司法、政治、学問の世界に――
 
あまりに遠い地平だけれど、それを真剣に見据えて働きかけることこそが、教育なのではないのかなと思う。
 

教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。


教育の原点は、志だ。

志は強靭でなければならない。

強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。

 

たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、

今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、

そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、

中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。

あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、

「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。

 

語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。

日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。




余談だけれど、試験制度の不条理や、そんな制度の枠から抜け出せない自分への懐疑を抱えた「考える人」は、僕の周りにはちゃんといた。
 
みんな、それなりに悩んでいたし、考えていた。東大という「檻」に入ってしまった自分を疑う懐の深さ(考える力)を持っていた。「人間」であろうとしていたよ。
 
でも逆らえないから、順応することを選んできていた。その中途半端さが、幼かった僕自身には不満だったのだけれど。
 
 

今の学校、教育、大学、官僚組織、政治や学問の世界――
 
総じて、大したことはできていない。 
 
だから社会全体が停滞、硬直し、地盤沈下を起こしている。
 
闇というより、巨大な陰なんだよ。
 
みんな陰の中で暮らしているから、光(本来のもっとまともな姿)を忘れてしまったから、陰に覆われていることに気づかない。
 
 
(まだ続きます、すみません)
 
 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2

ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。

プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。

官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。

試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。

外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。

トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。

でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。

哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
 
要は、人間が育たない。

人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。



そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。

でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。

そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。


と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。

本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。

だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。

大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。

できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、

その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。

職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。

だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。

どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。



リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1


この冬は何本か(だけ)TVドラマをフォローしました(日本を離れていたので全回見きれず・・TへT)。
 
その一つが、日曜劇場『御上先生』。

いろんなテーマが広く取り上げられていた。日本社会の闇、というより陰。見ようと思えば見えるのだけど、光が当たらず忘れられがちに。結果的に社会全体を覆う思考停止の一要因になってしまっている部分。
 
このドラマは、それぞれのテーマを「知ってもらう」ことを意図して作られたのだと感じた。答えを出すのではなく、問題を知ってもらって、それこそ「考えて」もらおうという。
裏口入学のラストエピソードは、ドラマであるがゆえの(こうしないと1クールにわたるドラマにならない)致し方ない設定でもあったんじゃないかな。本当に伝えたいことは、セリフで語らせていた(特に最終回)。

 
御上先生の言葉を受けて、こんなことを「考えて」みた――。
 
教科書検定問題は、古いテーマでもあり、最新のテーマでもある。家永教科書訴訟は60年代から(もう半世紀以上前だ。びっくり)から、奈良教育大付属小の授業問題まで(2024年3月、ちょうど一年前。もう陰になってしまっている)。

後者では、国語の書写で毛筆を使わなかったという程度のことで(他にも理由らしきものは言われているけれど)、学長・校長・教員らが懲戒処分に。
 
「二度と起こらないように厳しく監督していく」と奈良国立大学機構がコメント。

印象的なのは、このコメントだ。「何様?」と唖然とするほかない口ぶり。病的な上から目線。いうなれば、システム・ハラスメント。組織という体裁を使って、実は内部にいる人間の主観を判断基準として強要している姿だ。

ドラマの中で教科書検定制度を支える法的根拠(法律・省令)に触れていたけれど、実は法令の文言が問題を引き起こしている(法令を変えれば現場が変わる)とも言いきれない。

というのも、法令上の言葉は、解釈・運用次第で異なる意味を持つからだ。もし運用する人間の解釈(人生観・価値観・教育観)が変われば、現場のありようも大きく変わる。教育を阻害しているのは、実は人間だったりする。制度ではなく、人間が原因。意外と多い。

だから、あのテーマに関するもう一つのアプローチは、支配者目線で現場に干渉している「人間」そのものにスポットを当てることだ。どういう人物か、経歴、年齢も含めて。省、局、機構といった隠れ蓑の向こうに潜む、システム・ハラスメントを犯している人間のほうを見る。浮き彫りにする。

たとえば初等中等教育局内で教科書や授業内容をコントロールし、結果的に現場の意欲を削ぎ、疲弊させている人がいる。本人にその自覚はない。
 
たまにNHKなんかが教育問題をめぐって取材して、その肉声を拾っていたりする。びっくりするくらいに、上から目線で現場無視。日本の教育は(といいつつ本人は現場を見ていない)自分がその一存で決めていいといわんばかりの言い方をしていたりする。老害ならぬ官害。結局は、人間特有の慢が根本にある。
 
こういう人間に光を当てて、何を根拠にそのような判断をしているのか、その根拠(法令)は、そのような解釈しかできないのか、しっかり問い詰めていくという手もある。組織や立場の裏側に隠れたままにしないことだ。



個人的に想像したのは、御上先生が、実際の文科省に入ったとして、あれだけの思慮や感性を保ち続けられるかな・・というところ。

霞が関の職場はあんなに明るくきれいではないし、人間関係もあれほど風通しは良くない。ドラマでは癖のある人たちとして描かれている(ゆえにわかりやすい)けれど、実際は比べ物にならないくらいに、考えも表情も明かさない。人間の輪郭が曖昧。それでも自分の評価については内心すさまじく神経を使っている。結果的に、周囲への同調を選んでしまって、最終的には、組織の論理を死守する官僚になっていく。

 
きわめて主観的な印象でしかないけれど、官僚(ごめんなさい、こうした言い方は好きではないのですが)の中には、プライド第一で、その上に仕事が乗っかっているという精神構造の人がいる。日本の教育を良くしよう、みたいな真っ当な動機をもって文科省に入る人は、決して多くはない。

というのも、国1(国家公務員総合職試験)においては、どうしても試験巧者が上位に来る。試験巧者が最も多く集まるのが、東大(国1試験合格者数は今もトップらしい)。

その東大に入るために、少なからぬ学生は、中・高、さらにその前にもさかのぼって、筆記試験用のトレーニング(いわゆる勉強)をしてきている。

試験慣れした猛者・強者は、あのドラマに出てくる学生たちのような人間味はない(こういう言い方も申しわけないのだけれど)。

幼い頃から「東大しかない」みたいな刷り込みをされてきた学生も少なくない。学校の勉強なんか手段でしかなくて、手段として役に立たないと判断すれば、内職したり休んだり。先生が何を感じるかなんて考えない。もし御上先生みたいな人が大事なことを語っても、冷めた目線で内職し続ける、みたいな学生もいる(あのドラマの中にも、実はいたのかもしれない)。

考えるとか悩むとか支え合うとか、そういう人間的な部分は一切捨てたサイボーグみたいなメンタル。勉強以外は「役に立たない」から目を向けない。受験に役に立つかどうかという物差しだけで日常を切り分ける「合理性の塊」みたいな人間。

試験というのは、点さえ取れれば評価されてしまうのだから、点を取れる勉強に特化できる人間が、どうしても強くなる。上に行きやすくなる。

徹底して無駄を排し、学校の授業や人間関係は最小限に抑えて、内心は自分のプライド死守と東大合格という目標だけをターゲットに、冷徹に、緻密に、虎視眈々と、さまざまな計算をめぐらせて、優等生としての自分を維持し続ける。

哀しいかな、そうした人が東大に進み、国1に受かり、いわゆる「官僚」になっていく。


御上先生は、そういうプライドのせめぎあいの世界を生き抜いてきた人。殺伐とした現実を見据えつつも、過去の体験や心情や今なお続く苦悩の種(自死した兄や母親のこと)を脳裏に抱えて、官僚の世界を生き延びてきた人。

そういう人も実際にいるかもしれない・・いるのかな。でもあの世界は(進学校も東大も官僚の世界も)、少しでも人間味を残していると、それが隙(甘さ)となって遅れを取る、取り残される、見下される。そんな世界だから。

試験制度というシステムが変わらない限り、試験に勝てる(いい点を取る)という戦略(いわば頭脳と時間の重点配分)が正解になる。その戦略を守り抜くことで、プライドの奪い合い、自尊心のサバイバルゲームを生き残れる・・その可能性が生まれる。

「死ぬ」のはイヤ。つまり落ちこぼれること、劣後すること、見下されることはイヤ。自分はアタマがいいと言われたい、大学は絶対に東大でなくては許せない、そういう価値観に思考を占領されている。本当の考える頭、良心をみずから握り潰して、勉強マシーンと化す。

そういう人が、東大に行き、官僚をめざす。
 

さらにこの殺伐としたゲーム(心の殺し合いといってもいいのだけど)は、もう少し盤は広くて、アタマがいいという承認を勝ち得るために試験勉強に特化できる特殊技能の持ち主たちは、東大、中でも理Ⅲから医学部、文Ⅰから法学部、そして司法試験や国家公務員総合職(上級)試験の合格をめざす。
 
受けられる試験は全部受けて合格してから、一つのキャリアをやむなく選ぶ。やむなく、というのは、彼らにとっては、仕事の中味は大して興味がなく、本音は自分がどれだけ優秀か(試験巧者か)を証明し続けたいだけだから。

公務員試験をパスした学生は、プライド最優先で省庁を選ぶ。ひと昔前なら、大蔵、通産。今の財務、経産省。プライドを守るうえで最も確実、安全な省を選ぶ。

ドラマの中では、御上先生は試験を勝ち抜いてきたエリートとして描かれているけれど、東大卒の官僚の中で、文科省組は存在感は薄い(こうした表現が成り立ってしまうこと自体が悲しいけれど)。プライドを守り抜ける省と、負けを受け入れて入る省庁とがある。かつてはあった。
 
今はどうかな・・大学受験までの教育環境がさほど変わっていないなら、中高時代に身に着ける価値観も、プライドを守るための戦略も、ほとんど変わっていないはずだから、東大に入った後のキャリア選択の基準も、おそらく大して変わっていない。

今は上級職の人気にも陰りが出ているとは聞くけれど、ただそれも、東大に入って、次はどんな職業なら自分のプライドを守れるか、という打算計算の基準が揺らぎつつあるという程度のこと。

「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
 
ドラマの中では、御上先生はトップエリート。でも、実際の闇、いや陰、というか今の試験制度の硬直はもっとどうしようもなくて、御上先生さえセカンド、サードのポジションかもしれないということ。東大生としても、官僚としても。
 

(長くてすみません、続きます)

 

 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

帰還

*インド編2025レポートの掲載をスタートしました。興味ある方はどうぞ:
 

帰ってきたのは、3月第2週。羽田を出ると、電車内の広告はメジャーリーグの遠征試合について。日本は平和。車内の人は、ほぼ全員がスマホを眺めて沈黙している。

「空気」だけでも、これだけパワーの高低があるのだなと感じます。


インドの場合は、心は「人」に向かう。自分かそばにいる誰かか。話しかけるし、自分のことも話すし、なんというか臆面がない(もちろん深いところでは別の思いがあるとは思うけれど)。

日本の場合は、心は「人以外」に向いている気がする。スマホの向こう側。SNSだかネットニュースだかゲームだか。

察するに、日頃人との関係で疲れることが多いから(その疲労の半分は自分の側の過剰な気遣い、いわゆる忖度とか判断とか先回りの妄想であるような気もするけれど)、

その分、一人でいるときはスマホを眺めて、現実(人間)逃避しているように見えなくもない。


毎年思う、この国の空気の希薄さと停滞ぶり。おそらく一人一人の心が相当「混乱」している。というのも、心は一定量のエネルギーを持っていて、ちゃんと使い方を自分で選べていれば、それほど疲弊しないものだから。

心の使い方を知らない、忘れてしまった、あれこれと無駄なことを考えすぎて崩れてしまった。「自分」というものさえ、よくわからなくなった。

そういう心の混乱。さらには、心の総量(いわゆる社会の集合意識)の確実な老化。

混乱していて、老いている。としたら、そうか、こういう空気になるのかなあと無責任な妄想が湧いてきた。


老いは確実に進むから、放っておけば、この国はもっと老いていく。

幸い島国で、過去半世紀に頑張った蓄えもまだ残っているみたいだから、すぐさま老いの果てが見えるわけではないだろうけど(でもかなり見えてきてもいるのだけど)、

今日の光景が十年後、二十年後にもそのまま続いているわけではない、というか変わっているであろうことは確実、というか確実だと心しておくほうがいいように思う。

これまた幸いなことに、何千万人という人間がまだこの先半世紀はこの国を支えているだろうし、危機感に目覚め始めた人たちが声を挙げる、行動に移すということも、少しずつだけれども増えてきているようだし、

この国の人々は、まとまれば強いし、それこそメジャーリーグで無双の活躍をしている彼らのように、個のポテンシャルはすさまじく高いから、

どの時点かで「本気」になれば、なんのなんの、まだまだこの国をよみがえらせることは可能だと思える。


国を若返らせるとは、「変わることがノーマル」になること。新しいアイデア、制度、商品、サービスをどんどん形にする。多少の失敗は前進の肥しにしてしまうこと。

「こんな新しいモノが出た」
「こんな法制度ができた(ただし改悪ではなく人々の心が明るくなるような法律・制度・システム)」

ということが頻繁に起こって、「なんだか世の中変わってきたな、前に進みつつあるな」とみんなが思えること。

変わることをノーマルにすることは、人々が真剣に願えば、それほど難しいことではないような気がする。

ここでも、変わることを嫌がる負の力が邪魔するものなのだけれど。その一例が、老いであり、怠惰であり、無気力であり、保身であり、自己疎外(自分の価値を信じられない心性)。

今のところ、後者の負の力のほうが幅を利かせている。停滞が30年以上も続いて慣れてしまっているところもある。

どこかで国の若返りが始まってくれたら・・と思う。
 

ということを、帰国早々考えてしまう。なぜかこの国に来ると、私は途端に母性・父性?に目覚めてしまう。大丈夫? 元気にしてる?みたいな。


16日から18日に講座が3コマ続くので、その教材を仕上げて、連載用のイラスト描いて、〇〇やって(←今この段階笑)、〇〇行って拠点づくりの打ち合わせ(細部選びがこれまたたいへん)、サラとの再会(引き取り)と続く。


一週間近く経ってすっかりモードが変わってしまいました。「出家の夏休み」はおしまい。終わってしまった・・。


挨拶遅れましたが、戻って参りました。

本年もよろしくお願いいたします。

草薙龍瞬




2025年3月中旬

消えゆく未来と育つ未来

(抜粋)

ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。

なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。

どの国も内戦やテロ・犯罪などで治安の悪化が進み、大人たちは、ただ死に向かっている自分と世界の現実を感じながら、希望の見えない日々を過ごしている。

個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)とその母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。

赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。

核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供が生まれなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。


子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。

日本社会は、この映画が描いた近未来世界の縮図みたいな状況になりつつある。


人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。本当は虚無の闇と隣り合わせ。

死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。

子供たちがいるから、人と社会は、なんとか未来への希望を感じて生きていける。


もし子供たちが生まれなくなったら、未来は霞み、希望の総量は確実に減っていく。


それが社会というものなのに、人々は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えるより受け取ることを、愛するより傷つけることを選んでしまう。

愚痴に不満、萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。

そんなことをしていても、虚無の闇は埋まらないのに。


それでもなお人を傷つけ、他人事に首を突っ込み、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。

まるで銃弾飛び交う殺伐とした、この映画の世界のよう。


保身や批判や中傷に汚染された社会に、希望は見えない。

希望とは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯(とも)る。
 

未来が育つという当たり前の輝き――その輝きを人々が思い出せる日がくるのだろうかと、ふと思う。


全編どんよりと暗い(イギリス映画らしいといえなくもない)映画なので
お付き合いできる人はどうぞ
(〇〇〇〇primeで見られるそうな)




2025年2月


火祭りの国

毎日のように物騒な話題や有名人の不祥事を暴き立て、大騒ぎし、煽って、突(つつ)いて、忘れての繰り返し。

どんな問題であれ、事実にもとづき、原因を探って、解決の方法を探るという方向性に向かうほかなく、その道筋は粛々淡々と進むという一択のみ。

そのプロセスを確実にたどれることが、社会の成熟というものだ。

だがこの国では、事実のレベルだけで大騒ぎし、事実未満の憶測・意見やら虚偽・捏造やらが増幅・拡散していくものだから、なかなか原因にたどり着けず、根本的解決がいつも遠い話になってしまう。

騒いでいるうちに飽きるか忘れるかして、また別の騒げる話題を見つけて飛び火させていくという不毛な連鎖が起きているのみ。

飛び火は熱い(けっして心地よくはない)のだが、刺激的でもあり、暇つぶしにもなり、難しく考えなくていいというラクさもあって、誰も彼もが火を追いかけてしまう。

個人の火遊びに留まらない、日本社会全体が興じる火祭りだ。

不毛な火祭りだけが延々と続き、人々のストレスは増し、社会全体は荒んでいく。しかも中にいる人間たちは猛烈な勢いで老いて縮んでいっている。

火遊びに興じるばかりの、火遊びしかできなくなった、老いた小さな国。

あれ、これ本当に末期症状なのかも?

 

 

 

2025年1月下旬