苦悩ある人・場所にこそ


この場所は、あくまで 苦しみ(課題)を越える という目的をめざすところだから、

苦悩している人、同じ目的を共有している人や場所にこそ、関わる意味(役割)があるのではないかと思っています。

どれくらい自分自身の苦しみ・悩み・課題を自覚しているか、
(自分以外の人・物事、たとえば自分の子供のあり方についてではなくてね)

どれくらい真摯に、素直に、自分自身を見つめることができるか、つつしみを保てるか。

苦しみを越えられる可能性があることが伝わってきたときには、この場所はすぐにでも動きます。


その一方で、苦しんでいない人、悩んでいない人、自身の課題に気づいていない人や、

見ているものが自分の利益(お金や名声や自己顕示欲や承認欲の満足)にある人については、

そうした生き方・あり方はその人の自由(それも価値あること)ではあるけれど、


この場所はお役に立てない可能性が高いので、すみません(お役に立てません)とお答えすることになります。


この場所は、純粋な(というのも気恥ずかしいのだけれど真実)動機に立って、

どれだけ人・場所・世の中の苦しみや課題を越えていけるかを探っていくところだから、

その目的に特化して、それ以上に輪郭(守備範囲・対応できる範囲)を広げることを善し(価値あること)としない場所なのです。


だから、お役に立てないことが少しでも見えた(予感した)ときには、

静かに退くことにしているのです。

というのも、前提(動機)あるいは方向性(目的)にズレがある、そうした関係性について踏み込む(あえて言葉にする・説明する)ことは、

無用のストレス(相手からしたら快く思わないかもしれない)を招きかねないので、

これもあえて言葉にしないことを選ぶことにしているのです。

仏教の世界では「無記」といいます。


単純に、お役に立てません(でも言葉にすることでもありません、言葉にするところまでは行きません、そのほうがいいと理解しています)ということなのです。


これは、仏教に古来から伝わっている、守るべき戒律でもあります。

ブッダ自身が、そうした姿を保っていました。

他の意図はありません。単純に、純粋に、「この命(この場所)はお役に立てません」という意味しかありません。

そうした形で、マイナス(苦しみ)を増やさない(人さまに不快な思いをさせない、傷つけない)関係性を探ってゆくのです。


それでも、仏教の外の世界では、それぞれの期待や思いを広げる傾向にあるので、そうした思いを受けることも起こります。

そんなときにも、仏教においては、無記を保ちます。


「お役に立てません」という思いだけに立つことで、

自分の輪郭を保ち、また外の世界のさまざまな人さまの思いをも尊重する(肯定する)ことをめざしているのです。


あえて語らないことにも、仏教の世界においては、さまざまな配慮があります。思いやりという言葉に近い思いです。尊重、愛情、肯定、応援、配慮ともいえる思い・・。


この場所は限りなく小さく、研ぎ澄まされた善(価値)だけを大事にするところです。理解していただけたらと思います。



みんなそれぞれの場所で生きています。

それぞれの目的を、それぞれの価値を成就できますように。


みんなが幸せ(誰も苦しめない価値を実現すること)であることを祈念しています。




2026年3月