夏の寺子屋

 

予期しない出会いから始まった、中学生向けの夏の寺子屋。

第1クールは7月22日から3日間。8月に第2~第4クールを開催。

午前9時から12時までの3時間。本人たちの希望で、英数国の3科目。

英語と国語は一緒に授業。数学は一冊の教材から、自分のやりたいところを進めていくことに。



数学は、やみくもに問題を解くのではなく、問題に示された条件を数式・記号で表現して、それを使って計算して、答えを出していく。

条件を数的に表現するためには、読解力が必要。だからやっぱり国語力が大事になる。

問題を見た時に、「問題文にこうあるから、この3つの条件を数式化する」「段取りとしては、これをやって、次にこれをやって、さらにこれをやると、答えが出る」という段取りを考えたら、あとは計算すれば答えが出せる。

「段取り」を見失うから、自分が何をやっているのかが途中でわからなくなる。迷路に入ってしまう。

問題を解いた後は、答え合わせで終わるのではなく、「この問題から何を得たか」「どんな解き方・考え方を手に入れたか」を、きちんと確かめる。



私自身、小・中の間は、数学はちんぷんかんぷんだった。「木を見て森を見ず」――つまり段取り・構成を最初に掴むという発想を知らなかった。

さらには、方程式とは、関数とは、といった「定義」がものすごく大事ということも知らなかった。

数学は、定義づけの積み重ねて構築していく体系だ。だが定義はつねに抽象的。一見、読んでもピンと来ない。だから飛ばして、いきなり我流で問題を解こうとしてしまう。

本当は、定義といった抽象的な記号・命題と、問題を解いて使い方を理解すること計算すること、つまり具体的な思考とは、セットでないと、数学は分からない。

小学生の算数の延長で、具体的な計算だけで解こうとすると、必ず壁にぶち当たる。国語の問題が、小説などの具体的描写から、次第に観念・概念の構築物へと抽象度が上がっていくように、数学も具体から抽象へと、思考の質が変わっていくのだ。

その、具体から抽象へという境目をつなぐのが、「定義」なのだけど、これを飛ばしがち(先生も説明しない)。だから途端に苦手になる。あとはチンプンカンプン笑。

抽象的な定義や解き方は、本の隅っこに小さく書いてあったりする。生徒は見落としてしまう。そのあたりを拾って、もっとわかりやすい「要するに」に置き換えて、そのわかりやすくなった考え方・解き方を、赤字で本に書き込んでもらう。

そうやって、問題を解くたびに、「解き方・考え方」という抽象的な思考を仕入れていく。

数学もまたやり方を間違えなければ、つまり手順を飛ばさなければ、必ずできるようになる(必ずと言っていいかは若干ためらいもあるけれど笑)。



3時間、スキのない授業ができた印象。スキがないというのは、「何をすればいいかまったくわからない時間がなかった」ということ。どんな手作業をするかを、すべて言語化する。実際にやってもらう。一人ずつ見て回って、自分が何をしているのかを聞いて確認する。「今何をしているか、わかってる?」「うん」「じゃ、説明してみて」。

分かっていない時は、言葉が止まってしまうので、こちらで翻訳し直したわかりやすい言葉を、本に書き込んでもらう。で再び解き直す。

英・数・国と、スキのない時間を重ねて、お昼に。こういう濃密な時間を積み重ねていけば、確実に伸びる。



子供たちが来ると、急に夏らしくなることを発見した。

歳を重ねると、夏はただの暑い季節になってしまう。外に出ると「暑い、暑い」とこぼし、「熱中症にご用心」とか「夏と冬は高齢者が亡くなりやすい季節だ」 「こんなに温暖化が進めば人類は滅びてしまう」とといった野暮な妄想ばかりをしがちだが、

小中学生にとっては、夏は夏だ。熱中症はたしかに要注意ではあるけれど、ある程度の気力・体力が自然に備わっている。だから暑いといいながらも、日差しの中を自転車で通えてしまう。


中学生の目に見える夏の空は、大人が見るものとは、まったく違うのだろう。

夏の空があり、手つかずの未来があり、広い未来がまだ茫漠たる状態のまま残っているからこそ、安心して今を過ごせる。今を生きることができる。

そうだ、夏ってこんな季節だった。

暑いとはいえ、何かが始まるぞ、何をしようか、夏休みだ、時間はたっぷりある――そういう季節だ。

子供たちが来るようになって、私の夏も始まった。懐かしい、あの夏だ。

差し入れてもらったスイカ
冷たく甘くみずみずしい極上の味でした