雨の国

 おしらせ

愛知高蔵寺で特別講演会が開催されます:

人生50年の棚おろし~やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方

詳しくは 高蔵寺文化センター0120-031-229 
https://www.chunichi-culture.com/kouzouji/

 

日本全国いたるところで大雨だ。雨というより洪水模様。

この夏足を運んだ富山、宮崎、鳥取も集中豪雨。石川、東京、千葉、静岡、青森、北海道、鹿児島、長崎、佐賀、熊本。そして愛知・岐阜。

さながら海と化したかのような道路を車が半分水に浸かって走っている映像を見た。鉄道の線路も完全水没。不謹慎だとそしりを受けるかもしれないが、SFの景色のように見えてくる。

この異常な大雨をもたらしている線状降水帯の連発は、大気と海面の気温上昇に起因しているらしい。

大気は1℃上がると含まれる水蒸気の量は7%増えるという。

大気の温暖化 ⇒ 海水温の上昇 ⇒ 海水の蒸発 ⇒ 大気内の水蒸気が増大 ⇒ 陸地に流れて山に突き当たって上昇 ⇒ 上空に水蒸気が滞留 ⇒ どかんと大雨となって地上に落ちる というメカニズムらしい。

大気の温暖化によって、北極・南極の氷床も陸の上の氷河も怒涛の勢いで溶けている。これも海に入って、海面上昇のみならず、蒸発して空に登る水蒸気へとつながっていく。

海水温の上昇につれて大気に含まれる水蒸気の量が増え続けているという構図が起きているらしい。

ここ五年ほどの大気温度は、観測史上最も高かった。エルニーニョ現象も寄与しているという見方もあるが、エルニーニョの規模が巨大化しているのは、大気が温暖化し海水温度が上昇しているからだ。

海水温度は、世界平均でも2023年以降は平年に比べて0.3~0.5℃以上高いという(これは危険な上昇度だ)。特に日本近海は上昇幅が大きく、100年あたり1.36℃のペースで上昇中。夏から秋にかけては、広いエリアにわたって海面水温は28℃から30℃に達する(これも異常な水温だ)。

大気温度の上昇によって、水の循環の規模と速度が一気に増しているのだ。

あまり聞こえてこないが、全世界的にこの線状降水帯の発生による極度の大雨という現象は発生しているらしい。アメリカ、中国、台湾、東南アジア、ヨーロッパ地中海沿岸。なぜ聞こえてこないかといえば、日本国内の災難ぶりがあまりに顕著かつ頻発しているからだろうか。

要するに、海が近くて内陸に山があれば簡単に極地豪雨が発生する。それだけ海の水温が上昇している。これが正しい理解ということらしい。

となれば、もはや「観測史上最高」とか「異常気象」という表現は正しくないのだ。大気温の上昇は、人類の経済活動による温室効果ガス排出によるものだ。

人類の活動は止まらない。これだけ巨大化・複雑化した経済システムの稼働を止めることは、ほぼ不可能だ。

よほど奇跡的な大発明や技術開発によって大気中の炭素を劇的に吸収・削減できない限り、温暖化が止まるはずはない。

つまり今体験していることは、異常ではなく、必然であり、平常であり、恒常、つまり今後ずっと続く可能性が高い。

世界の様相が劇的に変わりつつあるということだ。人が暮らしてきた環境そのものが変動し始めた。ここ十年の「異常気象」は、始まりでしかない。



ところが、人間の理解は、こうした現実を前にしても変わらない。超大国の権力者たちは自分のプライドと支配欲 (仏教にいう慢) にしがみついて大小の戦争にあけくれているし、経済強者たちは自然環境に負荷をかけてでも利潤を最優先させる企業活動に突き進んでいるし、小さく無力な個人もまたデジタルデバイスによる享楽に耽溺しつつ、自己顕示と正義の主張に明け暮れている。

誰もが、自分が正しい、自分の欲は満たしたい、自分さえよければ人のこと、世界のこと、未来のことはおかまいなし(興味がない)という精神状態に変わりつつあるのかもしれない。

人間のエゴはこれまでもあったが、それを通すための力が弱かった。だが軍事力は強大となり、経済格差は広がり、個人の我欲と正義はSNSを通して一定の支持を得ることが可能になった。それぞれのエゴが無数無限に〝開花〟し始めた。

この花は可憐で美しい花ではない。醜悪で硬質な花弁を広げて、他の花が咲くことを許容しない。自己保存だけを求め、他者を犠牲にしても痛みを感じない毒の花だ。

世界は変わりつつあるのに、世界を変えなければという声は聞こえなくなりつつある。その声はたしかに存在するのだが、エゴの轟音があまりに巨大でかき消されてしまっているのだ。

人間の心は止まらない。権力者の独裁も、経済格差も、市民間の不毛な対立・分断も止まらない。

止まらないなら、この先も、大気温の上昇、森林火災、大雨被害、土砂災害は続く。

今見ている異常な光景が日常と化すということだ。



この命は、仏教という思想を伝えることを役割としているが、いつか伝える相手がいなくなる未来が来る可能性はある。地球にも宇宙にも終わりは来るのだから、可能性というより確実にそうなるのだが、できることなら、千年後、一万年後くらいではあってほしいという願いはある。

終わりをみずから招き寄せるかのような愚行は犯してはならないと思ってはみるものの、世界の現状を見れば、終わることは必然であり、こうして自滅していった知的生命体の例は、この宇宙にはありふれているかもしれないとも思う。

とはいえ、悲観は現実になるまでは妄想の一つにすぎず、虚無主義(ニヒリズム)という無責任は、人間が取るべき選択肢に入らない。

私にとっての日常は、今を生きている人、未来を生きるであろう人たちに、仏教という生き方を伝えることであり、小さな寺子屋を育てゆくことだ。

この寺子屋は、子供たちにとっての2学期という小さな日常に入ったばかり。笑いと成長にあふれた、さっそくいい時間を創ることができている。

力がつく上に、楽しい時間となれば、これは理想の活動である。

この時間があと百年続いてもいい。それくらいのよい時間を作ることができている。



人は、悲観や虚無に陥るにあらず。ただ、現実を見ないことや根拠もなく楽観することもまた妄想にすぎないから、これも取るべきではない。

現実に何が起きつつあるかは正しく理解し、そのうえで小さな日常をしっかり生きていくことだ。

生きていくうえでは、百年後の世界の未来も、千年後の人類の未来も、確かにあるものという前提に立つほうがいい。未来への信頼に立って今をしっかり生きること。

そして今という時間が、今だけの奇跡の一つだとよく心得て、心を見開いて大切に、一日一瞬を愛おしみながら生きていくことだ。



2026年9月9日