親の務めとは何だろう?
間違いのない根本を整理していこう。
まずは、子どもの人生を後ろから見守ること。
子供が幼い頃であれば、なるべく同じ視線、同じ位置に立って、子供と同じものを見よう、体験しようと心がけること。
もちろん外に対しては親が守る側であり、また子供が幼いほど子供が先に回って受け止めてあげることも必要なのだけれど、
それは子供が成長するにつれて必要がなくなっていく。
子供が大人になっても親として通用するあり方というのは、やはり後ろに立って見守ることであり、同じ位置に立って楽しむことであり、ときに背中を押してあげることだ。
いずれにしても、後ろに立つことが根本になる。
子どもの未来(可能性)を信じるという選択も、後ろに回れば可能になる。「大丈夫、なんとかなる、できる」と。
その時は親も未来を見ているから、自分の物事して一緒に頑張ろうとも思える。親の側にも、子どもの未来を信じようという熱量が出てくる。
◇
難しくなるのは、子供が「歩かなくなった」時だ。
勉強につまずいたとか、学校に行かなくなったとか、ゲームやネットに依存して時間を溶かし始めたとか。
この時期が難しいのは、親の言葉(叱咤・説教)が通用しなくなるからだ。体も大きくなって、体力的にも通用しなくなってくる。
そのうえ理屈も言えるようになる。子供の側の打算計算、ずるさ、甘さ、逃げ、弱さというものを、子供は正当化できるようになる。正当化しようとする。
たとえば「こうなったのは親のせいだ」とか「どうせ学校に行っても勉強ができない」とか、先生が嫌い、友だちが嫌いなどと、あらゆる自己正当化の理屈を繰り出してくることがある。
こうした時、親としては単純に「言っている言葉の意味はわかる」(といったん聞いている姿勢を示す)が、
「そんなことを言っても始まらない」と返すだけでいいのだ。
そうやって返すことで、これは子供自身の選択の問題なのだという状況に戻す。
親はあくまで後ろに回って、一時的に子供であるその人の自立を後押しするだけの役目だから、
「これはおまえ(自分自身)の問題なんだよ」という立場は、どんな状況であれ崩してはいけない。
子供によっては「死ぬしかない」なんて言葉を言うこともある(流行っているらしい。どこで聞いてきたのか知らないが)。
見きわめなければならないことは、その言葉が、学校でのいじめやなにか外の世界で苦しめられて出てきているのか、
単純に親をコントロールするために、脅しとして、あるいは別の利益を引き出すエサとして言っているかだ。
冷静に考えてみると、ある程度自立した子供であれば、外の世界で起きていることをあまり親に語ろうとしないものだ。親に心配かけたくないとか、言ってもわかってもらえないだろうと考えて、口をつぐむことが少なくない。
「死ぬしかない」という言葉を簡単に言ってしまえる時点で、もしかしたら甘えや逃げが潜んでいるかもしれないということだ。怠惰と遊びに流されて、そうした自分を正当化するため、親からお金や食べものを引き出すために、さながら銀行の暗証番号のように「死ぬしかない」と言っているかもしれないのだ。
「死ぬしかない」などという言葉は、そもそも言うことがおかしい、言っては絶対にいけない言葉の一つなのだ。だから親は、こう伝えることになるだろう。真顔でだ。
「本当に死ぬしかないようなことが外で起きているなら、伝えてほしい。親として全力で守るから」
(あるのかないのかを確かめる)
「もし口先だけで言ったのなら、二度と言うな。おまえがいなくなることで周りの人間がどれほど傷つくか。どれほど卑怯な言葉か、わからないのか?」
安易に死ぬと言うこと自体が、親をバカにすることになる。こうした言葉をたやすく語っている様子が見えたら、真剣に怒って見せないといけない。本当は許してはいけない言葉だ。「人を殺す」も「自分を殺す」も同じことだ。
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子供が親から学べる最大のことは、自分がこう言えば、これをやれば、親はこう反応してくるということを体験することだ。
親の反応を見て、これを言えば、やれば怒ってくる、悲しむ、傷つくということを体験する。そうした体験が子供の人格を作る。
心はラクをしたがるものだ。ずる賢いし弱いし醜い。抜け出す努力よりも、そんな状態を正当化することを心は選びたがる。ラクだから。
ラクしている自分を正当化するために、いろんなことを言うし、やってくるだろう。
その時に親がどう反応するかで、その先が決まる。
親がただアタフタとあわてたり、はぐらかしたり、子供の機嫌をうかがったり、子供の要求を受け入れて言われるがままに行動したりすれば、
子供は、自分の甘えたっぷりの理屈がそのまま通用することを体験してしまう。「なんだ、こう言えば、これをやってみせれば、この人は簡単に言うことを聞くのだ」と学習してしまうのだ。
こうなると、子供にとって「家の中に自分しかいない」状態になる。親・他者がいなくなる。自分の甘え、わがまま、弱さ、逃げ、打算計算だけが残る。そうして閉じこもり始める。親がいても自閉するのだ。自分の都合しか見えなくなる。
みずからの心に振り回され始めた子供に、親はどう向き合うか。反応して見せないといけない。きちんと子供の後ろに立つという根本を守ったうえでの反応だ。
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こうした親と子の葛藤(心理的衝突とでも呼べる関係性)が最も出てくるのが、子供が13歳頃から15歳くらいの間。この期間は、いわば子供にとっても、親にとっても「嵐」の中にいるようなものだ。
子供は自分のことがわからない。急速に肥大し始めた自意識と肉体の成長に翻弄され始める。
親としても、制御しきれなくなった子供を持て余す、というか、ただ困惑するしかなくなってくる。
だが生き物としてみれば、この時期の混乱はやがて収まってくる。結局、「後ろから見守る」という立場を崩す必要はない。「いずれ落ち着く」という前提で「耐える(待つ)」ことになる。
ただし、この期間中にどんな衝突が起ころうとも、子供の甘えや逃げや駆け引き(計算)に翻弄されることはあってはいけない。
子供がみずからの成長過程で巻き込まれる「嵐」の外に出て、その先にまもなく来る子供の自立に準備する必要がある。
衝突については、嵐の外に出ること。
休みについては、十分に休ませつつも、近い将来の自立を見すえて待機しておくこと。
休みについて――学校のいじめ、初めて体験する人間関係ゆえの苦痛、受験・勉強のつまずきその他で、子供に休息が必要な時期はある。
それは必要な回復期間だから、休ませてあげることだ。休むべき時はしっかり休む。まずは1か月、3か月、半年、1年・・・2年くらいは、休む必要がある子供もいなくはない。このあたりは「経過観察」していくことになる。ちゃんと休めているかを見守ることになる。
この期間中に親が焦ると回復が遅れることがある。親が期待や思惑をもって邪魔してしまうことで、子供に新たなストレスが生まれてしまうからだ。これでは休めない。
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とはいえ、いつまでも回復期間というのもおかしい。回復のプロセスにあるかどうかを見極める必要がある。
たとえば、
◯寝る時間はちゃんと寝る(寝るだけにする)。スマホやゲームを使わせない。
◯ご飯は決まった時間に食べる。部屋ではなく、家族がいるダイニングで(場所を変えることで生活にメリハリをつける)。
◯買いたいものあるなら自分で買いに行かせる(とにかく家だけに居続けることをヨシとしない)。
◯自分のことは自分でやらせる。親と子供の間に最低限の境界線を引く。
◯無制限にお金を渡さない。休むべき期間に過剰な遊びを持ち込みすぎない(動画やゲームなど。これらは依存につながりやすい)
といったことを守る。
新しい体験は外に行かないとなかなか手に入らない。体験こそが興味や意欲を刺激するから、体験すること自体は応援していい。
だから、外に出かけるならお小遣いを渡すという立場を選ぶ。目的を聞いて、渡す時は信頼して渡す。「楽しんでおいで」というくらいの気持ちで送り出す。
家にいるなら、寝る時間と食べ物は用意するが、それ以外のものは慎重に与えるという方針を立てる。ゲームや動画ならリビングで見るとか、決まった時刻が過ぎたらWiFiを遮断するとか(文句を言ってきたら、「だったらバイトして自分で買って」と突き放す)。
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タイムリミットを親の側で決めておくことも大切なことだ。休む時は休んでいいのだが、いつまでも休んでばかりはいられないという冷静な目も親の側で持っておくこと。
というのも休んだ心と体を回復させるには、相応の時間が必要になる。休んだ時間が長ければ長いほど、回復期間は必要になる。これは入院時のリハビリと同じ。
ある程度逆算して、いつからリハビリを始めるのかという作戦が必要になる。
中学・高校に当たる期間は、ある程度の自由(休み、遊び、逸脱)はアリだ。だが高校を出るくらいの年齢になれば、社会に出るための最初の入り口に立っておくほうがいい(さらに遅れることも事情次第ではありかと思うけれども、それでも「この時期にはこれくらいのところまで進んでおくべき」という目安はある)。
大学でも専門学校でもバイトでも就職でもいいのだけれど、高校を卒業するくらいの年齢には、家以外に居場所を見つける必要がある。自立への最終段階。親として後押しができる、いわば親の最後の務めだ。
仮にそれが大学進学であるとするなら、大学に進むための準備が必要になる。リハビリをして、準備を始めるというのは、心身アタマとも相当弱くなっているから、最初は大変だ。勉強といっても手がつかない。頭が回らない。だけれどそこでまた休みに入ったら、いつまでも回復できない。
「今が一番しんどい時期」ということを、親も子供もわかっておく必要がある。できれば家以外のどこかに通う、親以外の大人とか関わることが最善だ。
リハビリして、社会に出るための入口に立つには、やはり3年くらいの準備期間が必要かもしれない。まずは心と体の回復。頭を使うことに慣れる練習。基礎的な読む・書く・覚えるという作業を継続してやる訓練。これを1年くらい。
大学をめざすというなら、大学に行くための準備、いわゆる試験対策に2年くらいは残っているほうがいい。
2年のうちの1年は、受験に必要な範囲(科目)を一通り回す時期。できれば模試も受けてみて、失敗・試行錯誤を体験しておくほうがいい。
そして最後の1年は本気で頑張る。それまでの準備期間が1年、2年とあれば、最後の1年でかなり成長できる。
私が個人的に、中学生くらいの子供に「まだ焦らなくて大丈夫」と伝えるのは、こうした見通しがあるからだ。社会に出るための訓練(頭を鍛える練習)は、まだ後でなんとでもある。
つまり余裕を見て3年。前に進む(進学)という目標を達成するための準備期間として2年。
そこから逆算して、「今はどんな状況か」を見る。言い方を変えれば、「今この状況から2年または3年後に、社会への入り口に立っていることが必要になる」という発想を、親の側が持っている必要がある。
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「そろそろ準備を始めない?」という働きかけをすべき時期は来る。タイミング。
ここは、真面目に話をすることだ。「大事なことだから聞いてくれる?」と伝えること。
この先をどう生きていくか。
人間は必ず年を取る。子供も近いうちに一人で生きていくことになる。
今が親として何かができる最後の期間。
「この期間を過ぎたら、もう親は何もできないよ」と「宣告」することが必要になる。
いずれは子供を置いて、自分は離れていかねばならない。老いていく。ほぼ確実に親より先に死ぬ。そう伝えること。
そして子供が何を言ってこようが、どんな理屈で責めてこようが、
「言っている言葉の意味はわかるし、気持ちは受け止めるけれど、これはあなたの人生のことだから。あなたが自分の力でなんとかしないといけないことだから」
と言って突き放す。
いずれ、本当の勝負処はやってきます。
親としては、子供の自立への大きな地図を心の中に持っておいて、今どのあたりを歩いているのか、冷静に見守ることかと思います。