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仏教を盗んでしまっている君へ


仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ


最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。

むしろ君の未来のことを気にかけている。


君は、4月7日にプレスリリースを発信したみたいだね。

そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?


君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど

その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。

だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、

君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。


そのことはちゃんと考えていますか?


私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。

ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。


CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない? 

そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?

そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。


もし君が、スジャト師らの長年にわたる努力と思索と研究と、

それを世界中の人たちに役立ててもらおうと慈悲の心で公開し続けてきた、


彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、

今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。


人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。

誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?



AIに反対しているわけではないんだよ。AIを使った人間の「悪」に反対しているんだ。

こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。

君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか

壊れないよ。
君が居場所を失うだけだ。


君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。

でもそれは、最後まで控えておこうと思う。

君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。


君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?

4月7日のプレスリリースでも、ずいぶん多くの人様・団体様の名前を使っている。

自分の正しさを分からせることに役立つと思ったかい?

真逆だよ。もし嘘の使われ方をしていることが発覚したら、君は確実に社会的信用をまた一つ失うことになってしまう。


私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。


君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。

PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。

もちろん配信者の事業を応援しようという思いも、彼らにはある。彼らは依頼者である君を信頼した。最後まで。信頼したからこそ、ほぼ無審査で配信し続けた。


だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。

君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。

いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。

でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。

君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。

君は想像しなかったのか? 嘘を配信させた彼らの看板に泥を塗ることになることを。


もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、

おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。


気づいているかい?

君の言葉にも、その行動の中にも、他者がいないんだ。

心と体を持った人間が。

奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。


君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、

人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。


もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、

嘘をつかず、

与えられていないものを受け取らず、

まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、

その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。


そして人様からの托鉢をもってその身を養い、

一日十二時間の瞑想をし、

パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、

少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、

日々の小さな務めを果たしてみるがいい。


できるかい?


できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。


もう一度言うよ。私は君の敵じゃない。


私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。

だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、

人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、

その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。


これがもし私だけの思いであるなら、安心してほしい。世界は厳しい場所だ。私が何を訴えても、人々は聞く耳を持たないだろう。

だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。

もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、

その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。


私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。

あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。


苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。

でも、おそらくそれは、孤独が長すぎた君が作り出した妄想だ。

私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。

嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、

だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。


そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。

苦しみが生まれるのは、誰かが、私欲や、嘘や、レトリック(言葉回し)や、権力をもってゴリ押ししようとした時だ。


君は世界の苦しみを増やしていないか?

君を信じたPR TIMESが、虚偽の情報を流し、配信先に迷惑をかけることになったこと、その築き上げた信用に傷がついたかもしれないことを、

君は想像しないのか?

だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?


誰も君を苦しめようとなんてしていない。

苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。



君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。


そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、

私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。



伝わるかな。

伝わるまで伝え続けるよ。



草薙龍瞬


P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。

私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。

だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。


だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。

自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。

なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。

それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。

私は、君に傷ついてほしくない。再び孤独に落ちてほしくないんだ。


敵じゃないんだよ。



2026年4月9日


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4


本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。

それは、あなたに向けても同じことだ。

 

私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、

ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。


あなたはわからないのか?

あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。

あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、

彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、

仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、

世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。


今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。


日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?

CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?


世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。

新聞社も、メディアも、学者の先生方も、

仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、

その点は同じだ。


あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?


どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。

そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。

世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。

そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。


あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。

仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。

だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。


あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。

あなたは、こうも伝えてきていますね

>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。

そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。

あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。

どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう? 


単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、

その具体的根拠のみです。


現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、

生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。

その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。


あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。

つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、

その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、

真実は、

現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして

彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。


私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。

世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、

今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。


世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。

あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。


あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。

だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。

私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。

あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。

ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。


伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。


あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、


自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。

倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。


この問題は、それほど難しいことではないのですよ。

あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。

与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。

そういう道理を守れるかということだけです。


道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。

あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。



どう思いますか?

 

慈悲にもとづいて 

2026年4月7日

 


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3


この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。


彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。


(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)


ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、

無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。


この事件の本質は、

利用された側がまったく知らされなかったこと、

今回の無断使用に異議を訴えていること、

仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている

ことです。


盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。

この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。

誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。

盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。


自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、

無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。


盗んだだけだ。


盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。


「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。

仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、

自分のやっていることの非道がわからないのか?


その事業内容、

インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして

この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、

今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。


聞こえているか? 

罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。

あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。


間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。

 

このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。

与えられていないものを受け取ってはならない。


もうしばらく時間という名の猶予はある。





2026年3月29日



生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2

はじめに

これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。

この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。

今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。

しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。

こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。

ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。

ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。

ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:

◇◇◇◇◇◇◇

拝復

この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公式の回答となります。

貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『反応しない練習』に基づくAIおよびアプリ開発の提案について、貴社の事業内容および貴殿のこれまでの発信内容を精査いたしました。

結論として、草薙龍瞬は貴社および貴殿が展開する事業への監修および今後の関与一切を固くお断りいたします。

また、仏教に対する貴社・貴殿の認識および扱いについて、深い懸念と憂慮を表明するとともに、今後貴社が展開する事業について、国内外の仏教団体とも連携のうえ、注意深く厳粛に観察していくことをお伝えいたします。

以下に、貴社及び貴殿の仏教AI事業を容認しない決定的な理由を記します


1. 仏教の生命線である人間対人間という大前提への無理解

貴殿は「経典を正しく引用すれば、嘘をつかないブッダの教えになる」と主張されているようですが、それは仏教の本質を著しく誤解するものです。

そもそも仏教という信仰・思想は、苦悩と真摯に向き合う人間に向けてのものであり、また同様の苦悩を知る人間が伝えることを前提としています。仏教を深く理解せず、信仰(敬意)を持ち合わせていない一般の人間が、その主観的判断をもって分類・加工・生成するようなあり方は、元来想定されておりません。

仏教に対する理解が及ばない人間が、苦悩を実感しないAIを利用することで、仏教徒にとってかけがえのない知的遺産である経典を一方的にデータ化し利用する。こうしたあり方は、仏教の思想性並びに伝統と、それを守り続けてきた仏教徒たちを甚だしく蹂躙するものです。た仏教に対する人々の誤解を増大させる極めて危険な行為に当たります。


2. 〇〇〇〇および仏教の伝統に対する敬意の欠落

貴社が流用した〇〇〇〇のデータベースは、長年にわたり僧および在家の仏教徒が献身的な奉仕を重ねて築き上げた神聖な知的財産です。彼らは公式に、AIによる利用を容認しない旨の倫理的要請(Ethical Request)を表明しています。○○○○が提供するデータをかくも大規模に流用しながら、彼らの倫理的要請は知らなかったということは、到底通用するものではありません。

上記の声明が彼らの公式サイトに記されていることを知りながら、気づかれないものと高をくくって今回の事業を立ち上げたということであれば、貴社および貴殿の倫理的罪およびその反社会性は決定的なものとなります。

そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨は、ブッダの教えを商業目的で独占することなく、あくまで救いを求める人間のために広く提供しようとするものです。企業・個人に都合よく利用されるためではありません。

彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、その人道的動機を平然と無視して自らの事業に流用した貴社の姿勢は、仏教徒たちが重んじる「不偸盗(与えられていないものを奪ってはならない)」という戒めに真っ向から抵触するものであり、また地道に仏教を守り続けてきた仏教徒たちの努力を甚だ愚弄するものです。


3. 拙著および私個人の道具化への異議(発想への警告)

拙著『反応しない練習』は、読者である一人ひとりが自らの心を見つめ実践するために、私がいわば命を削って紡ぎ出した大切な作品です。それをAIボット化し効率的に提供しよう(提供していい)という発想は、個人の思索とその成果を嘲弄するに等しい極めて傲慢なものです。これを機に自覚していただくことを求めます。 

貴殿はSNS型メディアにおいて (略) を発信している様子です。こうした発想は、一個人の感想としては自由ではあるものの、そのような認識で仏教を生成AIに利用すること、またなんら資格も正当性もない立場で仏教を編集・加工しアプリ等に利用することは、社会通念をも逸脱するものです。

仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、そしてすべての著者には、尊厳というものがあります。貴社および貴殿がやっていること、およびその発想は、こうした尊厳を甚だ傷つけ、かつ愚弄するものです。

もし私の言葉が未だに届かない場合、そして今後も貴社および貴殿が、仏教という尊い思想を生成AIおよびアプリ開発に利用する動きを止めないというのであれば、その時は、あなた方がやっていることの法的・倫理的当否、特に〇〇〇〇のデータベースを大規模に流用して事業化したという事実を、貴方方に直接訴えるのではなく、社会および世界に向けて発信せざるをえません。


最終警告および要請

この連絡をもって、私と貴社および貴殿との接触は完全に終了したものといたします。今後、以下の行為が確認された場合には、法的措置を含めた厳正な対応を検討いたします。

1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、投資家向け資料等において、某僧侶に監修を依頼している、相談中である、「反応しない」プログラムを開発中といった、私および私の作品との関わりをほのめかすような一切の記述を禁じます。

2.著作権・商標権への配慮:
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」という核心的概念を含む独自のコンセプト・方法論を、貴社のAIサービスの名称、機能、宣伝文句等に流用することを厳に禁じます(もともと貴社および貴殿に仏教を扱う正当性は一切ありません)。

3.誤認情報の流布禁止
私の思想ひいては仏教の精神を、貴社のAI技術によって「再現可能である」かのような誤解を招く一切の表現を禁じます。これはあきらかに信仰・思想としての仏教が許容する範囲を逸脱する、非倫理的かつ反社会的なものです。

4.仏教という知的遺産への敬意と尊重の要請
仏教は、ブッダの教えに基づいて真摯に生きる仏教徒たちのものです。何人たりとも、仏教を一企業の事業としてまた商用目的で利用することは、許されるものではありません。


貴社および貴殿が擁する技術的卓越性は、法的・倫理的見地に抵触しない範囲および態様で社会に還元することが求められています。

この件は、貴方方が対処を間違えば、日本国内だけでなく世界的な議論と批判を招きかねない重大かつ深刻な問題を含んでいます。本件に潜む倫理的危うさが周知の事実となれば、貴殿がどのように弁明しようとも、確実に貴社および貴殿の社会的信用性に致命的かつ半永久的な負の影響を及ぼします。

貴社および貴殿は、さまざまな媒体を通して〇〇事業を宣伝しているようですが、今後はそのすべてが、あなた方への批判・非難の的に転じる危険があることをご自覚ください (略)。


仏教は、仏教を信仰する者たちによってのみ語り継がれ、また守られるべきものです。

貴殿もまた縁あって仏教という思想にたどり着いた身の上です。物事の道理というものを理解しうる知性と良心の持ち主であると信じます。

どうか物事の道理を正しく理解し、本来のご使命に立ち返ることを願ってやみません。


僧侶・草薙 龍瞬

 

2026年3月下旬

 

追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。

 

 

 

 

 

生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて

こちらはかなり真面目な話として――


最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。

「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。


彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。

自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、

あからさまな文化的窃盗であり、

俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、

仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。


最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。

いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。

原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか? 

自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?

そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?

「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。


これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。


古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。

だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。


そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。

パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。

ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。

しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。

さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。

 

もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。 

 

ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。

一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。

だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。


彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。

なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。


最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。

2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。

仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。

そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。

彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。


思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、

仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。


しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。

そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。

なんの臆面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。

 

そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。だが言うまでもなく、彼らに仏教を”盗む”資格などない。

 

いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、

自分たちに、仏教を利用し、収奪し、さらに自分たちの利益を上乗せする資格があるというのか。 


問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。


彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。

首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。

だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。


つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。

正気を取り戻してもらいたい。

彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。

まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、

その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。


どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。

世の中には、やっていいことと、悪いことがある。


そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。

苦しみを知らぬ者、

自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、

仏教が利用されることはない。あってはならない。


真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。


いずれは声を挙げねばならないか。

声を挙げねば、わからぬか。



※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。

2026年3月

 

※追記 

どうやら、真相はもっと深刻で、もっと多くの虚偽を含んでいたようです。これほどの嘘を堂々とみずからアピールしてしまうとは・・いずれ真実を知った人たちは驚くはずです。今は信じている人たちさえも。

こういうことは、なるべく早く知られるほうがよいのです。本人にとって幸いだったかもしれないことは、真相を知ったのがこの場所(私)だったということです。

世の中は、私のように優しくはないから・・見つかるのが遅ければ遅いほど、信じた人々の怒りは大きくなるものだから。

あやまちを改めるのは早いほうがいい。自覚しないよりも、自覚したほうがいい。

遅れるほどに、本人が最後に背負う罪の重石は重くなってしまう。

私はそれを望んでいない。

どうするつもりなんだろう・・。 

 

2026年4月11日

 

心のモード・チェンジはなぜ起こる?


心はそもそも無常なもの、コロコロと変わるものです。

穏やかな時もあれば、イライラする時もある。それが心のノーマル。

大事なことは、その時々の心の状態を自覚することと、もし慢性的に続く(クセ・傾向がある)ようなら、その原因を考えることです。

たとえば、人と接することが本当は好きなはずなのに、時が変われば忌避モード(会いたくない・接したくないという気分)に変わることがあるとします。

その場合の原因は何なのか。単純に疲れている、最近嫌なことがあって引きずっている・・という比較的浅め(つまり放っておけば元に戻る)の場合もあれば、

もっと根が深くて、誰かのことが嫌い、会いたくないとずっと思っていて、でもその関係性が完全に過去になっていなくて、今なお刺激を受け続けている・・という場合もありえます。

嫌、会いたくないというのは、不快感(怒りの感情)が作動している時です。その原因は? 

ただの妄想であることもあれば(つまり客観的状況には問題がない)、誰かとの関係で怒りが結生している(強く反応してその状態が続いている)こともありえます。

※「結生」というのは、私が本の中でよく使っている言葉なので、初めて聞く人は読んでみてくださいw)

最初の反応が結生すると、その反応が前提となって、次の類似の反応を引き起こします。

怒りが結生するとイライラが続いて、怒りっぽくなる。不運な出来事が記憶として結生すると、また悪いことが起こるのではないかと不安になる。「どうせ自分は」という判断が結生すると、自己否定をずっと引きずるようになる・・。

たとえば、本当は人と接することが好きなはずなのに、そいう感じない時期が長い、さらには他人の嫌な部分が目につく、みんな嫌い、世の中もイヤ、何もかもなってない!みたいな思いが強くなっていくこともあります。


そうした場合は、最初の結生――最初に嫌だと感じたきっかけ・相手は誰かを思い出してみるとよいのです。もし引きずっていなければ、嫌だと思うはずもありません。嫌だという感情を引きずっているということは、まだ続いているのです。忘れていないということ。

いつのこと、誰のことを、忘れていないのか。冷静に振り返ることです。

もし現在進行形でその出来事・関係性が続いていない、つまりは完全に過去だというなら、その結生は妄想にあたるから、妄想を消す練習をすることになります(『反応しない練習』をどうぞ笑)。

まだ過去になっていない、その出来事・関係性が現在も続いている・・というなら、そこから抜け出すこと、距離を取ることが、必要になります。

たいていは、親との関係性が原因だったりします。しっかり続いている、続けてしまっているから、親と連絡を取ったり会ったりすることで、不快を感じ、「嫌」が結生し、その「嫌」を自分の生活・仕事に持ち込んで、周りを嫌に感じるのです。

「おかしいな、もともと仲がいいはずなのに、好きだったのに」という過去の検索はあまり意味がありません。というのは、その仲がいい・好きが、自分の思い込み(無理やりの解釈)であることもあるからです。

本当は、原因を自覚して、原因を解消して、ニュートラルな心の状態に立って初めて、相性がいいとか、好きとか、楽しいといった本当の感情が見えてくるものなのです。

原因を解消できていないと、そのうえにいろんな妄想(好き・離れてはいけない・嫌われたくない・仕事だから・家族だから・もともと私はこんな性格じゃなかった・こんな自分が嫌になるetc.)が重なっていって、自分の本心がわからなくなります。

小さなことでも嫌になる、その嫌が長く続く・・というのは、よほど「溜まっている」のです。人生のどこかで結生した「嫌」という感情が。

その原因は何なのか、しっかり見極めることです。正しく理解することが、最良の処方箋です。

ひきつづき


精神科に行くより、はるかに効きます 必読




2025年1月13日
・・・・・・・・・・・・

出家したいという人へ


ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。

「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、



過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、

過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。


あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、

自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。


仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、

そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。

(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)



もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。

形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。

けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。



心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。

長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。

自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。

それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。



職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。

その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。

本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。

しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。

それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。



<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
 

本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。

他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、

サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。


心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。

お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。

実際に「やる」「なる」ことです。

本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。

そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、

人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。



まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。

そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。


どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。


理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。


2026年1月

自我への誘惑と突き破る努力

『反応しない練習』を最近読んだという方に向けて

「コレは!」と感じるものがあった人は、じっくり腰を据えて実践を続けることをお勧めします。

なるべく他の本もしっかり読んで、自分についての理解を深めてください。そして、「どうすればいいか」という具体的な方法を実践してください。半年、一年と。


多くの人は、自我(自分への執着)への誘惑に駆られた精神状態で生活しています。

だからこそ、そもそも本を読まない(学ぶ必要性を感じていない)人も世の中には多いものです。それは自然なこと。必要性を感じていないのだから、どのように生きるのも完全に自由だし、本人にとっては正解です。

他方、少しでも課題を感じている人、さらには明らかな悩みや苦痛がある人は、どこかに解決のヒントを探し始めるものです。

手っ取り早く動画やSNSやインターネット、生成AIに当たる人も多いはず。ただ、こうした世界は、お手軽な情報が手に入る便利さはあるけれども、やはり「それだけ(情報止まり)」で終わることがフツーです。

スマホやパソコンの画面を眺めて得られる情報には、自我への執着や妄想を突き破る力はありません。

それは本(活字を読むこと)でも同じですが、ただ、本の場合は、最初から最後まで一貫した書き手の視点で情報を追っていくという、それだけでも大きく違う作業が必要になります。

一貫して情報を追うというのは、それだけ能動的な知的作業が必要になる。しかも最後まで読み通すというのは、動画を断片的に眺めることでは得られない「視点をもって」、明確に限定された範囲内の情報に触れ続けることになる。

一定の知的作業、いわば心(脳)の姿勢みたいなものが一貫して必要になるので、得るもの・残るものも、それだけ(動画を眺めるだけに比べれば)深くなるのかもしれません。「頭を使う」ということでもあります。


そして、そこで得たものが自分にとって価値があると思ったら、しっかり言語化するか、行動に移して「習慣化」していくプロセスに入ることになります。

そのプロセスに入らないと、すぐに自我への執着・妄想モードに戻ってしまう。

自分のままに留まるか、自分を越える可能性へと踏み出すか、二者択一だということです。

だから、一冊の本を読んで「これはいい(価値がある)」と思ったら、まずは行動し続けること、実践を続けること。

そして、一冊の本には語られていない別の知識や情報や智慧(方法)があるかもしれないと考えて、同じ書き手の別の作品に手を伸ばす、という作業が必要になります。それこそが、深める、掘り下げるということです。



ですので、前向きな感想を送ってくださった方にお伝えできる次のステップは、「他の本も読んでみてください」ということになります。

相談に来る人たちに必ずお伝えしている、たとえば『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)を読んでみてください。

読まない人があまりに多いのです(それはそれでいいのだけれど^^)。

『反応しない練習』は入門編。たしかに読みやすい。でも自我への執着を突き破るところまでは進めない。

草薙龍瞬の作品は、同じことを書いていません(本質は共通しているけれど)。必ず新しい発見・学びが得られるように作っているので、一冊読んで「コレは!」と思える部分があったら、今こそ千載一遇のチャンスだと思って、ぜひ読んでもらえたらと思います。



(宣伝ではありませんよ、それだけ大事な、新しいことが書いてあるということです笑)。



2025年12月23日


「宗教は嫌いです」という人に向けて

 

この場所とご縁いただいてまだ日が浅い人もいると思うので、あらためてお伝えしておくと、

・この場所は宗教を語る場所ではない。

・「仏教」と便宜的に呼んでいるが、本当は仏教でもない。

・人それぞれのテーマを解決する頭の使い方(若干おおげさに言えば知力)を育てる場所である。

そういう場所です。

付け足すなら、貪欲(過剰を求めること)が嫌い、自己愛も嫌い(自己愛とは承認欲が作り出す自己の正当化・美化)、

つまりは、虚飾も虚栄も我欲も自己演出も自己顕示も、すべてが嫌い(なんとひねくれた場所・・^◇^;)。

嫌いというのは「判断」になっちゃいますが、あえてそういう言い方をしておきます(笑)。俗世用の表現。

出家(仏教)の世界では「関わらず」ということです。



宗教とは、他人に見えないもの(理屈でもイメージでも)を信じることをいいます。つまりは、妄想を信じる(在るとみなす)ということ。

本人には「在る(見える)」のかもしれません。だからありがたいと思うし、信じることに快を感じます。

自分にとっての快・やすらぎ・満足を得るというだけなら、自分の輪郭内のことなので、第三者は関係ありません。「そのままでいい(その人にとっては正しいこと)」のです。

でも、「在ると信じる(見える)」ということは、それ(信仰)以外のものは見えなくなるということです。

周りの信じない(無いように見える)人たちとの間に、その時点で距離が生じます。

その距離は、無関心・無理解・勘違いを作り出します。



さらに利欲(信じること・信じさせることに利益がある)が絡むと、自分が信じるものを他人にも信じさせようという圧力や攻撃につながっていきます。

一見、人を救うためとか、誰かの役に立ちたいとか、それっぽい美徳・大義名分を作り出します。

しかしその動機の根底に、自分の信仰や正しさをわからせたい、もっと利益を上げたい、富、名声、権力を手に入れたいという(お決まりの)欲望が潜んでいると、

自分たちの信仰をもっと広めるため、信じさせるため、自分たちが求める利益を手にするために、さまざまな「戦略」を作り出していきます。

常識的にはありえないような利益(信じたことでこんな奇跡が!的な)や、

自分たちの信仰共同体の美しさや特別感をアピールするとか、

人の妄想(不安・心配・現実逃避願望)につけこんで、脅したり、いっそう不安がらせたりとか、

相手の妄想をぜんぶひっくるめて、自分たちの信仰にすげ替えることをもくろんだりとか(いわゆる洗脳)、

とにかくありとあらゆる無理--つまりは妄想の拡張、もっといえば侵略につながっていきます。



客観的に存在しないもの、つまりは信じない人には見えないものというのは、

存在するとは言えない(言わない方がいい)し、

存在するものと思い込んでしまえば(信じてしまえば)、その分必ず、見てもらえない、つまり認めてくれない、愛されない、放置されたり無視されたりする人が出てきます。

その最たる犠牲者が、子供や家族です。



信仰を持つというのは危うい面もあります。客観的に見れば、妄想に思考を委ねてしまって、考えない状態になるというかもしれない。現実逃避であり、思考停止。

「考えない」ことはラク。ただ言われるがままに、言われたことをやるだけでいい。

「自分は一生懸命にやっている」という自己満足が得られる。現実が見えなくなり、自分が信じているものしか見えないから、ますますこの信仰が絶対に正しい、自分は正しいことをやっていると思えてくる。


しかし客観的に見れば、周囲との距離はいっそう広がり、ちゃんと見てほしい相手(たとえば子供)を深く傷つけ、周りとの関わりを失い、

しかも信仰の実践という名目で、膨大な時間とお金と労力を奪われ続ける。



儀式的なもの(いわゆる宗教行事、読経も含まれるかもしれない)は、ある程度までは、行いに意識を使うという点で、感情が落ち着いたり、心の状態が整うという効果はあるかもしれない。

でも過剰になれば、それはただ無思考を延長させるための手段、まさに「無思考の儀式」と化してしまう。

「瞑想」なんて、とんでもない間違いかもしれない(笑)。目をつむって、現実から目を背けて、都合のいい妄想に浸る状態なのであれば。

こういうのは、瞑想ではありません。というか、瞑想という言葉が本当は間違いなのです(仕方ないのでこの場所でも使ってしまったりしていますが)。



信仰を持った親との関係で苦労している人であれば、

①自分自身の妄想グセを克服することと、
②焼きついた親の映像(姿)をも妄想として消してしまうこと

が、課題になります。

具体的にはどうすればいいか。日頃お伝えしている方法が役に立ちます。

あえて足すなら、「徹底して距離を取る」(物理的に最も遠い彼方に親を置く)ことが必要になるかと思います。

それが難しければ、自分にできる範囲で徹底して「妄想を退治する」こと。

まずは「方法」を実践することが、当面の方針です。


2025年10月末日



家の中でも”反応しない人”になれますか?

<興道の里から>
7月18日は、久しぶりの東京でのライブ(教室)講座でした。

<自己ベストの生き方&働き方を考える>は、参加者のリアルな課題・質問を仏教的に掘り下げていくというスタイル。この場所の仏教の実践・応用編、しかもその究極であるような気がします。

毎回かなりディープ。視点、切り口、組み立て方・・いずれもこの場所だけのオリジナルです。参加した人は、ぜひココだけの学びとして、日常に活かしていただけたらと思います。



「ポイ活」は、今回限りとします(笑)。ポイントが着くからと半ば無理やり質問を作って参加しようとする人(?)もいなくはないようなので。もちろん直接お会いできる喜びは、別のところではあるのですが。

やはりこの場所の方向性にはそぐわない(笑)。煩悩・俗情をいささかなりとも刺激してしまうような仕組みは、採らないほうがよい様子です。

切実なテーマをリアルタイムでお持ちの人に来てもらえれば十分なので、あえて”キャンペーン”しなくてもいいですよね(笑)。



<おたよりから>
仕事では「思考」も「判断」も行います。ときには厳しい判断も必要です。一方で、家庭では「慈悲喜捨」だけにしたいものです。その両立がなかなかできません。

仕事が終わっても「買い物をして夕食を作って・・・」など思考が続く中で、「玄関開けたら反応しない人!」みたいなことが皆さんできているのでしょうか?

ブッダでさえ、すべてを捨てなければ「反応しない」境地に達することがなかったのなら、この世界にあって自分はどうしたらよいのか? 何かヒントがあればと思っています。


<興道の里から>
講座の中でお話しましたが、仕事では確かに思考と判断が必要ですね(ただ仏教においては、それは正しい理解とあくまで慈悲にもとづいて・・という一線は貫くことになります)。

家の中でも同じです。やはり理解と慈悲。

もっとも、外の仕事と家庭内とで、ひとつだけ関わり方を決める原理が違います(おそらく)。

それは、外の仕事は、立場・役割で決めることになるけれども(判断と判断がぶつかった時には、立場・役割にもとづいて、一方の判断を選ぶことになる)、

家の中では、もちろん立場・役割もあるけれども、それは少し緩いものになって、代わりに働く原理が「自立」であるということです(たぶん。このあたりが仏教的)。

自立というのは、「縁あって同じ家で暮らしているけれども、あくまでそれぞれが別人格で、別の人生を生きている、子供であれば、子供だけの未来・人生がある」という前提です。

親だからといって、子供の心情を傷つけていいことにはならないし、何をしてもいいわけではなくて。

あくまでよき理解者であろうと努めて、子供がいい人生を、自分の力で生きて行ってくれたらという思いをもって、適度な距離を保って、必要なかぎりで後押し(応援)するという関わり方です。



たしかに家も俗事も捨てないと、”究極の無反応”は達成できません。

でも、家の中・世俗の世界における「反応しない」というのは、

それまでの我流かつ過剰な反応を制御できること、

価値ある反応はするけれど、無価値な反応はしないということ。

そのためには、自分の反応をつねに見張って、自分の反応のクセ・思考のクセを自覚して、その都度自己反省の”痛み”を感じて、

「もうこのパターンは卒業しよう」「もうこんな自分はいいかげん卒業しよう」と、何度も自分に言い聞かせるなかで、次第にできるようになることです。

これは場数の問題であり、自覚の問題。これくらいであれば、日頃の心がけひとつで、けっこう近づいていけるのではないか、と思います^^*。

ひきつづき




2025年7月中旬


命が還る場所


春の日の法要に足を運んだ。今回の霊園は、無宗派・無宗教の人の墓も扱っているとあって、墓石はバラエティに富んでいる。御影石、大理石、黒曜石と材質は様々で、カタチもユニーク。故人が選んだメッセージを刻んだ墓もペットの墓もある。

海外の仏教国では遺灰を土か川に戻して終了だ。墓石は日本独自の伝統だが、子々孫々のつながりの象徴としての墓は大事にしていいものと思う。

今回の故人は自然葬を選ばれた。青い芝生の上に、直径十五センチほどの丸い穴が二つ。そこに係の人が遺灰を入れていく。さらさらときれいな白い故人が土に還っていく。芝生の蓋で丁重に閉じた。

その前で私は額づいて礼拝する。この日より始まる新たなつながりが久しく続くようにと。

故人を作っていた物質は土に還る。そのうち分解されて土へ植物へと姿を変えてゆく。いつしか命の連鎖に組み込まれて、はるか未来には別の命に宿っているかもしれない。すべての命は法縁(つながり)の中にある。

もし故人の姿が、生者の心に愛おしい姿で宿ってくれるなら、故人の命は形を変えてなお続くことになる。肉体は土に帰っても、生者の心の中に生きていく。

特に遺すべきは、旅立った命が懸命に生きた姿だ。たくさん苦労もしただろう。悲しい出来事もあっただろう。だが新たな命を育てて人生を全うした。命としての尊い勤めを終えたのだ。その奇跡に生者たちは尊敬と感謝を。

そして自分たちもまた幸福をめざして十二分に生きねばならない。その覚悟を墓の前で新たにするのだ。


生きていた間の苦しみは、死んだ後に持っていくことはできない。ブッダが語った八つの苦しみは、現実を生きる中で生まれる。心か体の苦しみだ。

だが体を作るものが自然に還り、それまでの心がほどけた後には、苦しみは続かない。つまり命の終焉は、やすらぎへの回帰だ。人の苦しみは永久には続かない。死をもってやすらぎに還る。あとはつながりの世界へ、目の前に広がる自然へと還っていくのみだ。


広い世界を見渡してみれば、日が登り、月が輝き、星々がきらめいている。青い空に流れる雲にほとばしる清流に海がある 無数の緑が今も呼吸をしてこの星は凄まじい速度で回り、宇宙を旅し続けている。

広い世界を見渡せばわかること。どこにも苦悩は存在しないということ。過去数えきれないほどの命が自然に還っていったが、その苦しみはどこにも見当たらない。それが命の帰結なのだ。澄明とやすらぎが待ってくれている。



※興道の里アーカイブ(過去の活動記録)から


2025年5月28日

 




人生はシンプルでいい

 
名古屋・栄での今年最初のレギュラー講座。テーマはずばり、”ダンマ”――仏教と呼ぶより、はるかにブッダの教えに近づける言葉だ(慣れるまで聞こえは怪しいけれど笑)。

特に今日は、宗教と長く関わってきた人が来ていたから、宗教とダンマの違いをお話してみた。伝わったかな・・。


執着が強い人は、宗教のほうに親しみを感じるものだ。というのも、現実逃避を求めているにせよ、ご利益を期待しているにせよ、その執着に応えてくれる妄想に惹かれるものだから。
 
最初に執着があり、叶えてくれそうな妄想を探す。その妄想を形にしてくれると予感した宗教に惹かれる。そして「信じる」段階に入っていく。

信じることが最初に来るのではなく、本人が自覚していない執着が前提としてあるのである。

その執着は、現実から逃れたいという思いかもしれないし、承認欲を満たしたいという我欲(上昇欲)かもしれないし、心の空洞を埋めたいという願いかもしれない。

そうした執着状態にある心が、「それらしい妄想」(理屈)に触れると、「きっとこれが答えに違いない」と興奮して、飛びついてしまう。

だが、そうしたものに飛びついても、問題は解決しない。
宗教という名の妄想をエサにして、執着が生き永らえるだけだ。

足元にある原因を、つまりは執着を自覚していないからだ。
 

本当は足元を掘り起こして、いったい自分は何に執着しているのかを自覚することが近道、というか唯一の解決策だ。

自覚できれば、捨てることも可能になる。あとはその方法を知って、実践すればいいだけになる。


ブッダが伝えた、一切の苦しみには原因があって、だがその原因は誰でも取り除けるし、その方法がある、だから後は実践するだけであるという言葉は、そうした真実を語っている。

まったく難しくない。そのシンプルな真実をひっくるめて”ダンマ”と呼んでいる。


本来のブッダの教えは、宗教とはまったく違う。真逆だ。宗教という名の妄想を克服するための方法を体系化したものだ。

心をめぐる問題に、答えがない問いは、実は存在しない。答えがない、考えてもわからないように見えるのは、自分の心が妄想によって曇らされているからだ。

心の苦しみについては、ほぼ百パーセントと言っていい確率で、抜け出せる。そもそもその苦しみは、心の中になかったものだ。今もまた、形も重さもない。実体のない(いわゆる無常)なものだからだ。

唯一必要なものは、ダンマ、つまり心の苦しみを抜ける方法だ。
 
その方法を受け入れるか。行動に移すか。それだけだ。もはや理屈ではない。考えることではない。やるか、やらないか。進むか、退がるか。受け容れるか、拒絶するか。


苦しみを抱えてさまよい続けてきた人が、ダンマに目覚めて苦しみを抜け、「この生き方で間違いない」という確信を持てるようになること。

それが、この場所の目的だ。時間はかかることが当然。そんな生き方しか知らなかったのだから。

焦らずに学んでもらえたら(自己理解を深めてもらえたら)と思う。
 
 
言葉は難しく聞こえるかもしれないが、伝える中身は、すべて友情に似た思いから発している。この命は、出会うことを喜びとする性質を持っている。よく来たね、と毎回心の中でエールを送っています。
 


2025年4月15日




自分が先か、〇〇が先か


「自分」より先に「仏教」を置くこと。

「自分」より先に「人さま」を置くこと。

「自分」より先に「普遍的価値」を置くこと。

「自分」より先に「方法(誰もが共有しうる)」を置くこと。

どれも「自分を引いて考える」という点は同じです。

仏教は、慈悲、つつしみ、普遍的な価値を真っ先に考える思考法です。

「自分」が先立つものは慈悲じゃないし、「自分」が前に出るのはつつしみじゃない。自分、自分で発想すれば、普遍的価値は遠くなる。

仏教にもとづいて生き、仏教を伝える役目を負う人間というのは、そういう思考法・生き方が身に着いていることが資格のようなものなのです。



今の世の中は、多くの人が、自分語りに夢中。自分があれをやった、こう考えた、こんなことがあったということを、吟味することなく得々と、あまりに簡単に発信できる世の中です。

自分語りに夢中な人たちが一方にいて、もう片方に、他人事に夢中な人たちがいる。

両者とも一定数いるから、供給と需要がかみあって、その内容(真実か、価値があるかといった実質)に関係なく、お金や影響力まで生み出せてしまう奇天烈な世の中です。


この構図、「自分を越える価値」に思いをめぐらせるという発想や思考法とは、正反対です。

「自分ファースト」「自分のことだけ」に夢中な頭(脳)には、

自分以外の人のこと、世の中のこと、未来のことを考えるという「発想」が出てこない。

仏教というのは、本当は、そうした自分偏重の発想を突き崩す、いわば「ガツンと」ぶちかます威力を持っていなければいけないのですが、

そうした点をふまえてみれば、仏教を語る言葉は、弱い、弱い。

そう、「ガツンと」来ないといけないのでした(笑)。そのことをしっかり心に留めて、次の作品づくりに取りかかろうと思います。



ともあれ、「まずは自分を引く」というのが、仏教の思考法です。

かといって、それは卑屈になるとか負けを受け入れるという話ではなく、かりに理不尽を強いられたとしても、「仏教ならば?」と考えるということです。

「自分」から入る思考より、はるかに強力(その威力が見えないのは、まだ仏教の威力がわかっていないから)。

自分を越えるからこそ、自分を守れるし、大切な価値を守り抜くこともできる。仏教は、そうした可能性へと導く思想であり方法論なのです、本来は。

仏教に立っているか、自分に立っているか。

普遍的な(誰もが共有しうる、幸せにつながる)価値を見ているか、自分だけを見ているか。

そうした視点を持てば、世に飛び交う言葉も、自分自身の思考も、正しいか間違いか、どこがおかしいのか、気づきやすくなるのではと思います。





2025年1月下旬




「宗教」に迷わされている人へ

名古屋・栄中日文化センターの講座は、12月16日が年内最後。

みなさん、おつかれさまでした。来年は4月から再開します。

3月18日の特別講座・大人になった私たちはどう生きるか? は、すでに満席。16日(日)に臨時増設します。


世の中には、人間はそもそも悪人だとか、死んだら何かに生まれ変わるとか、そういう理屈がまだ存在しているのだそうです。たまにそういうおたよりが来ます。

心はそういうものじゃないのでは?――生まれた時にすでに汚れているというようなものではないし、死んだ後にまで残るような自我は存在しません。

(酒や薬でさえ簡単に飛ぶような意識が、体が灰になっても残る? それはどういう原理で?)。

人間はとにかく欲深だし、妄想が好き。それだけ自我が強烈。そういう人間の心が、あれこれと思いつく限りの、心とは、前世とは、死後の世界とは・・・みたいな理屈が溢れています。


みずからも妄想にまみれている人間は、そうした妄想に簡単に染まってしまう。「そうかもしれない」「きっとそうなんだ」と妄想した瞬間に、人間が作り出した妄想に巻き込まれてしまう。

騙されやすい人、迷わされやすい人の多くは、妄想を自覚していない。ふわふわとたわいないことを考え続けている。だからこそ、他人が語る妄想に簡単に染まってしまう。

さまざまな妄想を繰り広げて、信じて、振り回されて、奪われて、失って、それでも「そうかもしれない」という妄想から抜け出せない・・。その状態自体が罪深い。

いや、妄想をさも真実らしく語る欲深で理屈に長けた人間たちが、罪深い。


人間の心はそもそも汚れてなどいないし、罪も悪もない。本来の状態は。

だがどう反応するかで、悪にも染まるし、関わりの中では罪をも犯す。その意味では人間は愚かだし、罪深い存在であることが多いけれど、だからといってそれが前提だと信じてしまうと、大事なことが見えなくなる。

死後など考えなくていいし、自分が罪深い存在だと否定する必要もない。違うのですよ、そんなことは、人間が勝手に作りだした妄想でしかない。

人間は、生きられるだけ生きて、寿命が尽きれば死ぬ。それだけの存在です。その当たり前のことが、悪だの罪だの、なにか特別な物語(妄想)のネタになってしまう。そうした思いつきこそが妄想だと気づかないとね。


フワフワ、フラフラと妄想しているうちに、人生が終わってしまいます。

他人が作り出した妄想を信じるよりも、自分の心を振り返ってみてほしい。


罪も悪も苦しみも、もともとは(生まれた時には)なかったはず。自分が忘れているだけで。

いったいいつ、何がきっかけで、今の苦しみが始まったのか。どんな妄想を積み重ねて、迷路のような今にたどり着いてしまったのか。

原因は、過去にあるのですよ。心の中に(過去の体験の中に)あるのです。

人間の心は妄想まみれだから、そうした簡単な謎さえも解けない。

でも解決することは、実は難しくはありません。


人を迷わせるくらいなら、宗教は要りません。

解決できないなら、どんな理屈も説明も無益です。

捨てちゃえばいい、人間が思いつく程度の妄想はすべて。

宗教という妄想に見切りをつけるほうが、人は、生きるだけ生きるという当たり前の姿に近づくことができる。それがこの場所の立場です。


いつでも人は自由と幸せを取り戻せるのに。本当に妄想は罪深い。



2024・12月下旬
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智慧と精進をつなぐもの

とある日の道場から:

(おたよりを紹介して)

この人は、思い立って以降、日々(瞑想を)継続している様子。それが最大の褒めポイントです。

うだうだぐずぐず言って現状維持に留まるか、つべこべ言わずに動き出すか。

それが最初の関門。その次の関門は、続けるかどうか。

続けて習慣化するに至れば、自分の状態に気づく時間が増えます。少なくとも退行(無明=自分が見えてない、ゆえに繰り返す)は、歯止めがかかります。「これ以上に悪化することはない」という状態にたどり着ける。これが、きわめて重要なのです。

結局、心の課題というのは、自分の心を見つめる時間をどれだけ持つかによって、解決できるかどうかが決まります。

心を見つめる時間を作らない限り、心の課題が解決・改善されることはありません。

他方、心を見つめる時間を持つと、自分の心を客観視することで、負の反応ループに歯止めがかかり、妄想やストレスを早く消せるようになり、ひいては業を克服できる可能性も出てきます。

「心を観る」という時間・習慣が、いかに大事か。

この真実を知っている人と、知らない人とでは、さながら天上界と地獄の違いのように、人生に差が出てきます。


ちなみに瞑想の世界では、<智慧>と対比されるのが<精進>です。

悪い意味での智慧が長けた人(いわば小賢しい人)は、小手先の技術や工夫で要領よく成果を上げようとします(そういう人も世の中にいますよね)。こういう人は、精進、つまりは努力・継続を嫌います。

他方、智慧がないまま精進だけする人は、いわば努力と根性で結果を出そうとする人。真面目なのはいいけれども、成果につながらないことが多いものです。

智慧が回りすぎると努力しなくなるし、智慧がないと努力が空回りしてしまう。

このジレンマを克服しようと思えば、智慧と精進を「合体」させて、「正しい方法を継続する」という心構えにトランスフォーム(変換)する必要があります。

瞑想における正しい方法とは、目的に沿った、効果的な、という意味。

力まず、脱力しすぎずという「中道」も、正しい方法の派生表現です。

精進しないと、何が効果的な方法なのかもつかめません。その意味で、実践の継続が不可欠。

その中で自分なりに智慧を働かせて、でも智慧に走りすぎずに、正しい方法を探りながら続けていく。

もしこの人が、そういう道筋に沿ってここまでやってきたというなら、純粋に立派です。

あとは、「心を観る」という発想・習慣をどれだけ自分の生き方にしていけるか、です。


『反応しない練習』夏オビバージョン


正しく生きることの意味(原始仏典から)

名古屋・栄中日文化センターで開催している仏教講座から一部抜粋します。

価値のある知識および生き方の両方を学べるように構成しています。

かなり硬派。でも教材の専門性(いわゆるガチ度)とは別に、講座そのものはゆるめの楽しい雰囲気で毎回やっています。

自分を向上させるには「学び」が必要です。

学ぶきっかけとして、活用していただければと思います:

 

正しく生きることの意味
Mahādhammasamādānasutta
Majjhima Nikaya 46

                            
 私はこのように聞いております。あるとき世尊は、サーヴァッティ近く、ジェタ草苑のアナタピンディカ長者の僧院に滞在しておられました。そこでこのような対話をなさいました――。

「道の者たちよ、人々はこのような願い、欲望、期待を持つものだ。ああ、嫌いなもの、欲しくないもの、気に入らないものが減って、好きなもの、望ましいもの、気が合うものだけが増えてくれたら!と。だが現実には真逆のことが起こる。それはなぜだと思うか?」

 弟子たちは、自分たちの見解を述べるよりも、純粋にブッダの言葉を聞くことを求めた。その真摯な姿を受けて、ブッダは話し始めた。

「生き方を知る(*原典は「高貴な」)人々に出会ったことがなく、その教えについて鍛錬も習熟も得たことがない者がいるとしよう。彼らは自分が取り組み、育むべき実践(修行)を知らない。どのような習慣を避けるべきかも学んでいない。

 そこで彼らは心赴くままに、手を出すべきではないことに親しみ、育てるべきことを鍛錬しようとしない。結果的に、好ましくない、望ましくない、気に食わない物事が目につくようになる。他方、好ましく、望ましく、気に入る物事は目に入らないようになる。これが道理を知らぬ者の定めである。

 だが、学のある(≒生き方を知っている)修行者は、そのように生きる(高貴な)者と出会い、その教えを習い、鍛錬し、習熟している。彼らは真実の人と真実の生き方を知っている。自らが鍛え育むべき実践(生き方)を知っており、手を染めるべきではない習慣も理解している。

 ゆえにおのれがなすべき実践に励み、遠ざけるべき物事から離れている。こうした心がけで生きるとき、好ましくなく、望ましくなく、気に入らない物事は減り、好ましく、望ましく、気の合う物事が増える。それが道理を知る者の定めである」。


<解説>

“執着”(維持したがる心の状態)は、みずからの反応の繰り返し(再生、いわば輪廻)と、生活環境、人間関係によって支えられる。反応の繰り返しは、そのことを思い返す(妄想する)ことで生じる。

 自分を取り巻く生活環境は、同様の刺激を心に与えることで、同じ反応を繰り返させる。同様の反応を促してくるのは、関わる他者も含まれる。

 学ぶとは、そうした執着状態にある心とは異質の生き方を聞いて、理解して、考えて、納得して実践することである。これは学ぶことでしか得られない。執着したがる心は、同じ反応を繰り返すことに全エネルギーを使うので、“新しい生き方”は発想として出てこないのである。

「なぜ自分は繰り返し不快な人間や苦痛な出来事に遭遇してしまうのだろう?」という問いへの答えは、「すでに不快・苦痛な人間や出来事に遭遇して思いきり反応してしまったために、執着状態に陥っているから」という説明が正しい。

 執着した心は、おのずと、同様の反応ができる刺激のほうに向いてしまうのである。「まったくどいつもこいつも‥」と文句を言っている人は、不満を覚えつつも、文句を言えるような相手だけを見ているのである(慢を満たせる快楽が、その状態をいっそう長引かせる)。

 問題は、不快・不満のループに見事に嵌っている自分自身を、相対化・客観化できるきっかけがあるかである。「バカバカしい。このままではいけない」と、多少の聡明さがある人間ならば、おのずと気づく可能性もある。だが執着に心が支配された人は、永久に執着し続ける。

「学び」は前者に属する人を助けてくれる。学びそのものが、執着を抜け出すきっかけになることもある。

 歳を重ねると、学びの機会が減ることも多い。すると執着しか見えなくなる。執着に慣れすぎて、学びの機会が視界に入らなくなることもある。

 この点において、学びの機会に恵まれた時期、つまり子供・青年時代は貴重ではある。できることなら、執着し始める前に「生き方」を知っておくほうがよいが、執着による苦しみを体験しないと生き方に目覚めないことも、真実である。「学ぶ」という営み自体が、執着する生き物である人間には、「高貴」であるに違いないのである。


*執着を劇的に強化する行いが、「四六時中スマホ」かもしれない。好ましいもの、望ましいものが欲しいという発想さえ駆逐されて、他人事への詮索、判断、妄想、気に入らないこと、不平不満、倒錯した正義感などへの執着に、心が占領されてしまう。

 こうした事態に陥ると、もはや学ぶという営みから切り離され、ひたすらネガティブな執着だけを繰り返して、そうした自分に気づくこともなくなる。執着の終着地点は、“心の廃人”かもしれないということである。



栄中日文化センター10月期開催中(単回の受講も可能です)

2025年は3月第3週の特別講座から始まります

お問い合わせ 0120 - 53 - 8164

https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html




親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


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<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します



宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
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歴史学としてのブディズム


7月15日は東京での仏教講座。今、明治から昭和初期(戦前)までの日本と仏教との関係について講義している。

日本における仏教が、いかに役に立っていなかったか、特に日本社会の凶暴化(明治維新、日清、日露、日中そして太平洋戦争)に加担までしていたことが、史実をたどると見えてくる。

言葉だけの慈悲であり、理屈でしかない「お釈迦様・ご開祖様の教え」だ。

現実を見据えて、人の苦を増やさない方法を考え抜く。その時代・社会における危うい風潮や妄想を見抜いて、新たな可能性を智慧(知力)をもって切り拓く。

本来のブディズムは、人間の心に救う迷妄(≒衝動に駆り立てられ、妄想に取り憑かれた心の状態)を突き破るもの。いわば「知」の最先端であり最強の方法だ。

だが、その方法としての真髄とは、はるかに遠い仏教の現実がある。

自分たちが世と同じレベルの欲と妄想に取り憑かれたままでは、決して妄想を越えられず、智慧を得ることはない。

「過ちを二度と繰り返しません」とか、「世界に平和を」と言ったところで、永久にかなわない。それどころか、世のため、人のためと言いつつ、平然と人に苦しみを強いることを犯してしまう。

戦争が終わるまでの日本仏教はまさにそうだったし、実は今も続いている。

そうした理解を得るために、文献を漁って教材にまとめる作業をひと月ほどやってきたが、最後にまとめるにも時間がかかって、結局徹夜になってしまった。


歴史から何を学ぶか。歴史は繰り返すというが、これも厳密にいえば少し浅い理解だ。

歴史を作るのは、人間の営みであり、社会を動かすいくつかの因子だが(因子の一つが、権力者の選択であり、メディアが醸成する社会の風潮であり、人間一人一人の選択であり、その他さまざまあるのだが)、

その因子は「変数」であって「定数」ではない。どんどん変わってゆくものだ。

変わりうる因子のことを計算に入れずに、「過去こんなことがあったから、未来にはこんなことが起こります」と予測することはできない。

表面的に「歴史は繰り返す」ように見えるとしても、それは繰り返しているように「見たいから見えている」のであって、「そのように見ようと思えば見える」レベルの繰り返しを見ているだけである可能性が高い。

変わりうる因子は、どんどん新しくなっているし、その量も増えているのかもしれない。

だから未来は基本的に予測不能。

ただし、因子を作るのは、人間の心であり、心の動きは、実は有史以来それほど変わっていない。

その心の動きにまで深く掘り下げて、「なぜこうなったか?」を歴史上の事実を通じて振り返れば、どのような歴史上の惨禍にも「確かな理由があった」ことが見えてくる。

その本当の理由を掘り下げるには、「人間の心そのものを見る(歴史上の表面的な事実だけではなく)」という視点が欠かせない。


そうした視点に沿って、日本仏教の歴史を講義してきた。そろそろ終着地点に近づいてきた。

人間というもの、人間が作る社会、そしてその軌跡としての歴史は、決して美しいものではない。

価値あるものも無数に紡ぎ出されてきたが、やはり人間は人間だ。取り返しのつかない(未来が決定的に変わってしまう)過ちも多数犯してきている。

悲劇的なのは、その過ちの原因となった「心」そのものを、人間がまだ理解できていないことだ。

心を理解できれば、なぜ歴史上の過ちが起きたのか、今後、どのようなことが起こりうるのかという可能性が見えてくる。

ブディズムを活かして、歴史を理解し、未来を予測することも少しは可能になる。

ちなみに予測しうる未来というのは、いくつかの変数の組み合わせによるから、必然的に「複数」出てくる。

その複数ありうる未来のどれを選ぶか。最も望ましい(苦しみを増やさない)選択をするには、自分自身が、個人としてどのように理解して、どんな選択をするか、

自分自身のあり方を明瞭にすることに、最後は帰結する。


生き方として学ぶ日本仏教(この場所での講座)は、ごくわずかな人たちに向けての、限りなく自制された内容だ。広く知ってもらおうとは思わない。

ほぼ確実に、日本、いや世界でココだけ。本に著した内容もオリジナルだが、この場所で伝える仏教及び歴史も、さらに輪をかけてオリジナル。

偏った内容ではなく、「史実をいかに見るか」という点では、歴史学の定説・主流以上に「深く、鋭い」内容になっている。

この複雑な世界を正しく理解するための、仏教はその技法たりうる。歴史学としてのブディズムだ。



2024年7月15日