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「宗教」に迷わされている人へ

名古屋・栄中日文化センターの講座は、12月16日が年内最後。

みなさん、おつかれさまでした。来年は4月から再開します。

3月18日の特別講座・大人になった私たちはどう生きるか? は、すでに満席。16日(日)に臨時増設します。


世の中には、人間はそもそも悪人だとか、死んだら何かに生まれ変わるとか、そういう理屈がまだ存在しているのだそうです。たまにそういうおたよりが来ます。

心はそういうものじゃないのでは?――生まれた時にすでに汚れているというようなものではないし、死んだ後にまで残るような自我は存在しません。

(酒や薬でさえ簡単に飛ぶような意識が、体が灰になっても残る? それはどういう原理で?)。

人間はとにかく欲深だし、妄想が好き。それだけ自我が強烈。そういう人間の心が、あれこれと思いつく限りの、心とは、前世とは、死後の世界とは・・・みたいな理屈が溢れています。


みずからも妄想にまみれている人間は、そうした妄想に簡単に染まってしまう。「そうかもしれない」「きっとそうなんだ」と妄想した瞬間に、人間が作り出した妄想に巻き込まれてしまう。

騙されやすい人、迷わされやすい人の多くは、妄想を自覚していない。ふわふわとたわいないことを考え続けている。だからこそ、他人が語る妄想に簡単に染まってしまう。

さまざまな妄想を繰り広げて、信じて、振り回されて、奪われて、失って、それでも「そうかもしれない」という妄想から抜け出せない・・。その状態自体が罪深い。

いや、妄想をさも真実らしく語る欲深で理屈に長けた人間たちが、罪深い。


人間の心はそもそも汚れてなどいないし、罪も悪もない。本来の状態は。

だがどう反応するかで、悪にも染まるし、関わりの中では罪をも犯す。その意味では人間は愚かだし、罪深い存在であることが多いけれど、だからといってそれが前提だと信じてしまうと、大事なことが見えなくなる。

死後など考えなくていいし、自分が罪深い存在だと否定する必要もない。違うのですよ、そんなことは、人間が勝手に作りだした妄想でしかない。

人間は、生きられるだけ生きて、寿命が尽きれば死ぬ。それだけの存在です。その当たり前のことが、悪だの罪だの、なにか特別な物語(妄想)のネタになってしまう。そうした思いつきこそが妄想だと気づかないとね。


フワフワ、フラフラと妄想しているうちに、人生が終わってしまいます。

他人が作り出した妄想を信じるよりも、自分の心を振り返ってみてほしい。


罪も悪も苦しみも、もともとは(生まれた時には)なかったはず。自分が忘れているだけで。

いったいいつ、何がきっかけで、今の苦しみが始まったのか。どんな妄想を積み重ねて、迷路のような今にたどり着いてしまったのか。

原因は、過去にあるのですよ。心の中に(過去の体験の中に)あるのです。

人間の心は妄想まみれだから、そうした簡単な謎さえも解けない。

でも解決することは、実は難しくはありません。


人を迷わせるくらいなら、宗教は要りません。

解決できないなら、どんな理屈も説明も無益です。

捨てちゃえばいい、人間が思いつく程度の妄想はすべて。

宗教という妄想に見切りをつけるほうが、人は、生きるだけ生きるという当たり前の姿に近づくことができる。それがこの場所の立場です。


いつでも人は自由と幸せを取り戻せるのに。本当に妄想は罪深い。



2024・12月下旬
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智慧と精進をつなぐもの

とある日の道場から:

(おたよりを紹介して)

この人は、思い立って以降、日々(瞑想を)継続している様子。それが最大の褒めポイントです。

うだうだぐずぐず言って現状維持に留まるか、つべこべ言わずに動き出すか。

それが最初の関門。その次の関門は、続けるかどうか。

続けて習慣化するに至れば、自分の状態に気づく時間が増えます。少なくとも退行(無明=自分が見えてない、ゆえに繰り返す)は、歯止めがかかります。「これ以上に悪化することはない」という状態にたどり着ける。これが、きわめて重要なのです。

結局、心の課題というのは、自分の心を見つめる時間をどれだけ持つかによって、解決できるかどうかが決まります。

心を見つめる時間を作らない限り、心の課題が解決・改善されることはありません。

他方、心を見つめる時間を持つと、自分の心を客観視することで、負の反応ループに歯止めがかかり、妄想やストレスを早く消せるようになり、ひいては業を克服できる可能性も出てきます。

「心を観る」という時間・習慣が、いかに大事か。

この真実を知っている人と、知らない人とでは、さながら天上界と地獄の違いのように、人生に差が出てきます。


ちなみに瞑想の世界では、<智慧>と対比されるのが<精進>です。

悪い意味での智慧が長けた人(いわば小賢しい人)は、小手先の技術や工夫で要領よく成果を上げようとします(そういう人も世の中にいますよね)。こういう人は、精進、つまりは努力・継続を嫌います。

他方、智慧がないまま精進だけする人は、いわば努力と根性で結果を出そうとする人。真面目なのはいいけれども、成果につながらないことが多いものです。

智慧が回りすぎると努力しなくなるし、智慧がないと努力が空回りしてしまう。

このジレンマを克服しようと思えば、智慧と精進を「合体」させて、「正しい方法を継続する」という心構えにトランスフォーム(変換)する必要があります。

瞑想における正しい方法とは、目的に沿った、効果的な、という意味。

力まず、脱力しすぎずという「中道」も、正しい方法の派生表現です。

精進しないと、何が効果的な方法なのかもつかめません。その意味で、実践の継続が不可欠。

その中で自分なりに智慧を働かせて、でも智慧に走りすぎずに、正しい方法を探りながら続けていく。

もしこの人が、そういう道筋に沿ってここまでやってきたというなら、純粋に立派です。

あとは、「心を観る」という発想・習慣をどれだけ自分の生き方にしていけるか、です。


『反応しない練習』夏オビバージョン


正しく生きることの意味(原始仏典から)

名古屋・栄中日文化センターで開催している仏教講座から一部抜粋します。

価値のある知識および生き方の両方を学べるように構成しています。

かなり硬派。でも教材の専門性(いわゆるガチ度)とは別に、講座そのものはゆるめの楽しい雰囲気で毎回やっています。

自分を向上させるには「学び」が必要です。

学ぶきっかけとして、活用していただければと思います:

 

正しく生きることの意味
Mahādhammasamādānasutta
Majjhima Nikaya 46

                            
 私はこのように聞いております。あるとき世尊は、サーヴァッティ近く、ジェタ草苑のアナタピンディカ長者の僧院に滞在しておられました。そこでこのような対話をなさいました――。

「道の者たちよ、人々はこのような願い、欲望、期待を持つものだ。ああ、嫌いなもの、欲しくないもの、気に入らないものが減って、好きなもの、望ましいもの、気が合うものだけが増えてくれたら!と。だが現実には真逆のことが起こる。それはなぜだと思うか?」

 弟子たちは、自分たちの見解を述べるよりも、純粋にブッダの言葉を聞くことを求めた。その真摯な姿を受けて、ブッダは話し始めた。

「生き方を知る(*原典は「高貴な」)人々に出会ったことがなく、その教えについて鍛錬も習熟も得たことがない者がいるとしよう。彼らは自分が取り組み、育むべき実践(修行)を知らない。どのような習慣を避けるべきかも学んでいない。

 そこで彼らは心赴くままに、手を出すべきではないことに親しみ、育てるべきことを鍛錬しようとしない。結果的に、好ましくない、望ましくない、気に食わない物事が目につくようになる。他方、好ましく、望ましく、気に入る物事は目に入らないようになる。これが道理を知らぬ者の定めである。

 だが、学のある(≒生き方を知っている)修行者は、そのように生きる(高貴な)者と出会い、その教えを習い、鍛錬し、習熟している。彼らは真実の人と真実の生き方を知っている。自らが鍛え育むべき実践(生き方)を知っており、手を染めるべきではない習慣も理解している。

 ゆえにおのれがなすべき実践に励み、遠ざけるべき物事から離れている。こうした心がけで生きるとき、好ましくなく、望ましくなく、気に入らない物事は減り、好ましく、望ましく、気の合う物事が増える。それが道理を知る者の定めである」。


<解説>

“執着”(維持したがる心の状態)は、みずからの反応の繰り返し(再生、いわば輪廻)と、生活環境、人間関係によって支えられる。反応の繰り返しは、そのことを思い返す(妄想する)ことで生じる。

 自分を取り巻く生活環境は、同様の刺激を心に与えることで、同じ反応を繰り返させる。同様の反応を促してくるのは、関わる他者も含まれる。

 学ぶとは、そうした執着状態にある心とは異質の生き方を聞いて、理解して、考えて、納得して実践することである。これは学ぶことでしか得られない。執着したがる心は、同じ反応を繰り返すことに全エネルギーを使うので、“新しい生き方”は発想として出てこないのである。

「なぜ自分は繰り返し不快な人間や苦痛な出来事に遭遇してしまうのだろう?」という問いへの答えは、「すでに不快・苦痛な人間や出来事に遭遇して思いきり反応してしまったために、執着状態に陥っているから」という説明が正しい。

 執着した心は、おのずと、同様の反応ができる刺激のほうに向いてしまうのである。「まったくどいつもこいつも‥」と文句を言っている人は、不満を覚えつつも、文句を言えるような相手だけを見ているのである(慢を満たせる快楽が、その状態をいっそう長引かせる)。

 問題は、不快・不満のループに見事に嵌っている自分自身を、相対化・客観化できるきっかけがあるかである。「バカバカしい。このままではいけない」と、多少の聡明さがある人間ならば、おのずと気づく可能性もある。だが執着に心が支配された人は、永久に執着し続ける。

「学び」は前者に属する人を助けてくれる。学びそのものが、執着を抜け出すきっかけになることもある。

 歳を重ねると、学びの機会が減ることも多い。すると執着しか見えなくなる。執着に慣れすぎて、学びの機会が視界に入らなくなることもある。

 この点において、学びの機会に恵まれた時期、つまり子供・青年時代は貴重ではある。できることなら、執着し始める前に「生き方」を知っておくほうがよいが、執着による苦しみを体験しないと生き方に目覚めないことも、真実である。「学ぶ」という営み自体が、執着する生き物である人間には、「高貴」であるに違いないのである。


*執着を劇的に強化する行いが、「四六時中スマホ」かもしれない。好ましいもの、望ましいものが欲しいという発想さえ駆逐されて、他人事への詮索、判断、妄想、気に入らないこと、不平不満、倒錯した正義感などへの執着に、心が占領されてしまう。

 こうした事態に陥ると、もはや学ぶという営みから切り離され、ひたすらネガティブな執着だけを繰り返して、そうした自分に気づくこともなくなる。執着の終着地点は、“心の廃人”かもしれないということである。



栄中日文化センター10月期開催中(単回の受講も可能です)

2025年は3月第3週の特別講座から始まります

お問い合わせ 0120 - 53 - 8164

https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html




親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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講座最新スケジュール11・12月

 
興道の里・最新スケジュールをお知らせします:

生き方として学ぶ仏教講座・最終期は全3回です。
 
11月に2コマ、12月に総括編1コマを開催します。

11月は種田山頭火を題材とします。原始仏教、禅の思想、業と執着など、仏教講座の締めくくりにふさわしい内容です。

専門的な内容も含みますが、生き方に役立つ合理的・実用的な内容です。参加者の質問・相談にもお答えします。
 
今の形での東京での講座は、これが最後です(おそらく)。
 
仏教という枠を越えた内容をお届けしています。初めての方も積極的にご参加ください。
 

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<講座スケジュール>

11月2日・30日(土)および12月(※12月は後日告知します)
18:00~21:00
生き方として学ぶ日本仏教・2024年後期(全3回)

<内容>
仏教を「生き方・考え方」として学んでいくシリーズ講座。原始仏教から大乗・日本仏教まで、仏教思想の全貌を明快に解説していきます。毎回オリジナル資料を使用。世間の話題をめぐる仏教的解説や質疑応答のコーナーも。1回の参加で多くのことを学べます。 一般的イメージと異なる斬新かつ実用的な内容です。
★2024年度は日本仏教編。後期は種田山頭火ほかを予定。全3回。


11月4日(月祝)13:00~16:30
座禅会(瞑想と法話の会)
東京・新宿区 


11月10日(日)18:00~22:00
個人相談会
東京・新宿 

<時間枠> 
➀18:00~18:45 ✕(予約済み) ②18:50~19:35 〇 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ✕ ⑤21:20~22:05 〇
※ ✕(予約済み) 〇の時間枠のみ受付可能です
※ご希望の時間枠と相談内容を事務局までお送りください


10月15日・11月19日・12月17日(火)
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html



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スケジュールの詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。

※参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 

<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。

 

よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
 
興道の里事務局
 

しあわせになるために学ぶんだよ



 

 

新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します



医療倫理としてのブディズム2

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

看護学校3年生とは、2年ぶりの再会だ。

2年前に比べると、やはり大人になった印象はある。これは毎年感じること。

本当の知識は、覚えられる、思い出せる、使える ものでなければならない(学習3原則)。最初から心がけて知識を学ぶことだ。

でないと、すぐ忘れる、出てこない、試験・現場で使えないことになる。下手な勉強とは、そういうものだ。

2年前にやった事例や話題を振ってみたが、やはり忘れていた学生も少なくなかった(^^;)。覚えている人も、2年前のレポートを持参してきた人も。こうした人たちは、2年前の学びと今がつながっている。ありがたい話(笑)。


これも毎年のことだが、「業」の話をすると、とたんに元気を失う学生もいる。高い確率で、親との関係が「心の荷物」(負荷)になっている人たちだ。

親から「自立」することは容易ではない。

①経済・生活において自立すること(つまり働けるようになること)、

②精神的に自立すること――
「あなた(親)の思い通りにはなりません、まずは自分の人生をしっかり生きます」といえること、

業の深い親に向けては、①親がどんな業の持ち主かを正しく理解し、②距離を置き(反応せずにすむだけの距離を確保し)、③自分自身の業(心のクセ)を自覚して、④少しずつ別の生き方・考え方に置き換えていく必要がある。

人はみな、自分のために生きることが基本だ。親に振り回されたり、荷物を背負わされ続けたりする必要はない。

自分の人生は自分で選ぶこと。

「今の自分に納得できている」ことが、正しく生きているかを測る基準になる。


3年生は、3日目もしっかりワークをしてくれた。

講義で取り上げる知識・情報は、リソースによって変わってくる。教科書、専門サイト、医師・専門家・看護師によって、さまざまに変わる。

だから決して鵜呑みにせず、しかし「技法」だけは守って、技法に沿って、必要な時はもう一度自分で調べて、自分で考えて、「覚えられる、思い出せる、使える」ように工夫して、学び、またレポートを作成してほしい。

3年生はよく頑張ってくれた。さすがに心の体力がついている。講師としても納得で終わった。感謝とリスペクト。


その一方で、これも数年に一度のことだが、「喝」を入れざるを得ないこともある。

多くは、やはり1年生のクラス。まだ高校生気分が抜けていない様子が見えることが、たまにある。

いろんな理由・事情があるのだろうという同情もあるが、自分の判断で、勝手に手を抜いたり、講義中に寝てみせたりする。

努力しても寝てしまう・・というなら同情するだけで終われるのだが、「これくらいやっても大丈夫」と判断している様子が伝わってくることがある。

疲れている、お昼を食べて消化に血液が取られている(頭に回らないw)、知識の解説が続いて苦痛、先生の説明の仕方が及んでいない・・いろんな可能性はある。

こうした時、おそらく多くの先生方は「大目に見る」ことを選んでいる。見ないフリをしてやり過ごす。雰囲気を壊したくないという思いもあるかもしれない。

だがこれは、人間と人間のサシの(直接の)関係性だ。自分のあり方と、相手のあり方の両方が問われる。

一方が真剣に話している場面で、あからさまに無視したり寝て見せたりしたときに、相手が何を感じるか。そのあたりの想像力は、持っていないと始まらない。

今回印象的だったのは、知識の解説で寝たのではなく(それならば心情は理解できるし、講師の側で工夫せねばと思うことも可能なのだが)、

体の感覚を意識しましょうという、マインドフルネス、瞑想と呼ばれる体験の時間を始めた時に、机に突っ伏して寝始めた学生が何人か出たことだ。

特に難しいことではない。だが体験することを、自分一人の判断で拒絶した(全員とはいわないが、そうした可能性を感じた生徒も何人かいた)。

さすがに、言わざるを得ないと判断した(何年振り?)。


そもそもこの場所に来たのは、誰の意志か。誰かに引きずられてやってきたわけではあるまい。

自分で看護師になろうと志し、自分の意志で学校まで歩いてきた。すべて自分の選択だ。

中高生と違って、「やらされている」ことはゼロである。自分の物事、自分の人生、自分の未来。

ところが、そうした自覚もまだ持てない、自覚を示せない人がいる。

そうした人を周りも許容してしまう。慣れてしまって「問題に気づかない、問題が見えなくなっている自分」そのものが問題だということに気づかない。


ちなみに、講義中にスマホやタブレットで芸能人やら漫画やらを覗き見ている学生も、たまにいる(※今年の3年生にもわずかだがいた。大目に見たけれどw)。

あえて何も言わないが、見えてはいる。

「ふとよそ見をしてしまう」(雑念が湧く)ことは、心の性質だが、その心に流されてしまう自分の弱さ、だらしなさを受け入れるかどうかは、自分のあり方の問題だ。

ほんの少し努力すれば強くなれるのに、簡単にラクに流される

その結果、弱くなる。弱くなるだけ、しんどいと感じる物事が増える。

自分を甘やかすことは、単純に、自分にとってマイナスなのだ。


幼い子供なら、成長の途上だからと大目に見ることはありうるが、この場所は、プロの看護師になろうという人たちが集まっている場所だ。当然、求められる最低限の態度というものがある。

この講義で毎年最初にお伝えするのは、「患者目線で見る」ということ。患者として、この人はちゃんと向き合っているか、最低限の礼儀や常識はあるかを見る。

苦しみを抱え、ときに命がかかっている。そんな人が病院で出会うのが、看護師だ。

その看護師が、別のことを妄想していたり、スマホを呆けて眺めていたり、目の前で寝たりして見せたら、当然、怒るか、絶望するか、その看護師を拒絶するか、

絶対に看てほしくない と思うだろう。


今回は、自分のため・自分の物事であるはずの場所において、至近距離にいる一人の人間が何を見て何を感じるかを想像もせずに、「寝ていい」という安易な選択をしたように見えた。

だから「喝」を入れた。

いろんな理由・事情・思いもあるだろうし、先生はみな工夫を重ね続ける義務を持っている。この看護学校に手を抜く先生は、おそらくいない。先生方はみんな真剣だ。私だって毎回連日ほぼ徹夜だ(今回も、3年生2日目の講義を踏まえて3日目の追加資料を作るために徹夜した笑)。

つねに何が起きているのかを見つめて、理由を突き止め、改善すべき点を改善する。それが、先生側の義務であり、約束ではある。


だがさすがに、内容次第で寝たり起きたり、あるいは先生の様子を見て態度を使い分けたりというのは、

自分の物事・自分の仕事として引き受けようというプロの予備軍が許容すべきことではない。アウト。

今回はさすがに見過ごすべきではないと判断して、ド厳しい(かもしれない)喝を入れさせてもらった。


来年以降も、𠮟るべき時と判断した時は叱らせてもらう。

人間として伝わってきたもの、感じたことについては、正直に、素直に、伝えさせてもらう。

求めるのは、自分(講師)が相手(学生)を理解することであり、自分(講師)が相手(学生)に理解してもらうことだ。

理解しあえることは、人間関係の目標だ。学生たちが将来看護師として患者と向き合うときのゴールにもなる。患者を理解し、理解してもらうことが、信頼関係を作る。

もっとも、理解しあえる関係は、遠い夢のようなものでもあり、どんな場面でも、手探り状態で、永久に手応えが持てない理想でもある。

だが、だからこそ努力すべきは、自分が言葉を尽くして精一杯伝えることだ。


先生も然り。目に余った時は、怒って見せていい。ただし、生徒たちが言ってくる(言ってきてくれる)ことを、全身で受け止める覚悟が必要だ。ときに反省を迫られる指摘・批判であっても、誠実に受け止めて、「教師として自分にできること」につなげていく覚悟だ。

それだけの覚悟があるなら、失礼な態度や、本人にとってマイナスだと見えた時には、「人間として」本気で怒って見せていい。教師たるもの、真剣たれということだ。


特に職業専門学校というのは、すべての学校の中で、教員も学生も、最も真剣でなければならない場所だ(無論、楽しいところは楽しめばいいのだが)。

看護専門学校は、自分の意志で集う場所。目標は、学べるだけ学んで、知識と手技と体験を重ねて、国家試験に合格して、プロの看護師になること。

すべては自分のためであり、自分の物事。

ならば、今の自分のあり方が正しいか、自分で自分に納得できるかも、自分で判断できなければならない。

人のためではなく、人のせいにするのもアウト。すべて「自分が自分に納得できるか」だ。


この先も、看護師になろうという意欲をもって来たはずの人たちには、一人の人間として見て、是は是、否は否として向き合っていく。

それが、将来がかかっている学生たちへの、最大限の礼儀だと思っている。


坊さんの喝は(寺の修行とはそういうものだが)、逃げられない厳しさがある。

「汝、わかるか?」(あなたは理解できる人ですか?)

ということを突きつける(問う)ことだから。


わかってもらえればよし(その時は感謝と尊敬を)。

わからねば、わかるまで伝える努力をする。

わかろうという意欲がないとわかったときは、静かに身を引く(関わりを終える)。

人間関係とはシンプルなものだ。


2年後にどう変わっているか。楽しみに待つことも、毎年の恒例だ。


人々の苦しみを癒せる看護師として、この先の世界を支えてほしい。

そんな夢を見ながら、全力で向き合おうと思っている。




2024年7月19日
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宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
・・・・・・・・・・・・

歴史学としてのブディズム


7月15日は東京での仏教講座。今、明治から昭和初期(戦前)までの日本と仏教との関係について講義している。

日本における仏教が、いかに役に立っていなかったか、特に日本社会の凶暴化(明治維新、日清、日露、日中そして太平洋戦争)に加担までしていたことが、史実をたどると見えてくる。

言葉だけの慈悲であり、理屈でしかない「お釈迦様・ご開祖様の教え」だ。

現実を見据えて、人の苦を増やさない方法を考え抜く。その時代・社会における危うい風潮や妄想を見抜いて、新たな可能性を智慧(知力)をもって切り拓く。

本来のブディズムは、人間の心に救う迷妄(≒衝動に駆り立てられ、妄想に取り憑かれた心の状態)を突き破るもの。いわば「知」の最先端であり最強の方法だ。

だが、その方法としての真髄とは、はるかに遠い仏教の現実がある。

自分たちが世と同じレベルの欲と妄想に取り憑かれたままでは、決して妄想を越えられず、智慧を得ることはない。

「過ちを二度と繰り返しません」とか、「世界に平和を」と言ったところで、永久にかなわない。それどころか、世のため、人のためと言いつつ、平然と人に苦しみを強いることを犯してしまう。

戦争が終わるまでの日本仏教はまさにそうだったし、実は今も続いている。

そうした理解を得るために、文献を漁って教材にまとめる作業をひと月ほどやってきたが、最後にまとめるにも時間がかかって、結局徹夜になってしまった。


歴史から何を学ぶか。歴史は繰り返すというが、これも厳密にいえば少し浅い理解だ。

歴史を作るのは、人間の営みであり、社会を動かすいくつかの因子だが(因子の一つが、権力者の選択であり、メディアが醸成する社会の風潮であり、人間一人一人の選択であり、その他さまざまあるのだが)、

その因子は「変数」であって「定数」ではない。どんどん変わってゆくものだ。

変わりうる因子のことを計算に入れずに、「過去こんなことがあったから、未来にはこんなことが起こります」と予測することはできない。

表面的に「歴史は繰り返す」ように見えるとしても、それは繰り返しているように「見たいから見えている」のであって、「そのように見ようと思えば見える」レベルの繰り返しを見ているだけである可能性が高い。

変わりうる因子は、どんどん新しくなっているし、その量も増えているのかもしれない。

だから未来は基本的に予測不能。

ただし、因子を作るのは、人間の心であり、心の動きは、実は有史以来それほど変わっていない。

その心の動きにまで深く掘り下げて、「なぜこうなったか?」を歴史上の事実を通じて振り返れば、どのような歴史上の惨禍にも「確かな理由があった」ことが見えてくる。

その本当の理由を掘り下げるには、「人間の心そのものを見る(歴史上の表面的な事実だけではなく)」という視点が欠かせない。


そうした視点に沿って、日本仏教の歴史を講義してきた。そろそろ終着地点に近づいてきた。

人間というもの、人間が作る社会、そしてその軌跡としての歴史は、決して美しいものではない。

価値あるものも無数に紡ぎ出されてきたが、やはり人間は人間だ。取り返しのつかない(未来が決定的に変わってしまう)過ちも多数犯してきている。

悲劇的なのは、その過ちの原因となった「心」そのものを、人間がまだ理解できていないことだ。

心を理解できれば、なぜ歴史上の過ちが起きたのか、今後、どのようなことが起こりうるのかという可能性が見えてくる。

ブディズムを活かして、歴史を理解し、未来を予測することも少しは可能になる。

ちなみに予測しうる未来というのは、いくつかの変数の組み合わせによるから、必然的に「複数」出てくる。

その複数ありうる未来のどれを選ぶか。最も望ましい(苦しみを増やさない)選択をするには、自分自身が、個人としてどのように理解して、どんな選択をするか、

自分自身のあり方を明瞭にすることに、最後は帰結する。


生き方として学ぶ日本仏教(この場所での講座)は、ごくわずかな人たちに向けての、限りなく自制された内容だ。広く知ってもらおうとは思わない。

ほぼ確実に、日本、いや世界でココだけ。本に著した内容もオリジナルだが、この場所で伝える仏教及び歴史も、さらに輪をかけてオリジナル。

偏った内容ではなく、「史実をいかに見るか」という点では、歴史学の定説・主流以上に「深く、鋭い」内容になっている。

この複雑な世界を正しく理解するための、仏教はその技法たりうる。歴史学としてのブディズムだ。



2024年7月15日
 

自分を越えるということ

<おしらせ>

栄中日文化センターの講座(夏学期)は、7月17日(火)から。

詳しくは、公式サイトのカレンダーをご覧ください。

または 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
 https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html


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本は万人に開かれたもの。だから語り口はニュートラル。

このブログは、道(生き方)を求めて静かに訪れる人に向けて。

だから当たり障りのない話題よりも、多少難しくても有意義なことを。

かなりマニアックかもしれないけれど、いつか必要になる時が来るかもしれない、そんなごくわずかな人たちに向けて、価値あることを遺しておきます――

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<自分を越えるということ>

自分を越えることの難しさは、瞑想(心の観察)を続けることで初めて見えてくる。

裏を返せば、瞑想しないかぎり、自分を越える難しさはわからない。

心というのは、人間が想像する以上に、狡猾で、邪悪で、醜く、愚かで、怠惰で、強固だ。

よほどの智慧と意志がなければ、イチコロで執着の網の目に絡めとられてしまう。絡めとられたことにさえ気づけない。

はたからみれば、頑迷な巌が、まるで静止画のように存在しているだけ。本人は少しは巌の内から突き破ろう、打ち砕こうと闘ってみたつもりなのだが、なんのことはない、実は何も変わっていない。

瞬時に巌の内側に閉ざされてしまうから、外から見れば、ただ巌が存在し続けるだけ――それくらいの比喩が真相に近い。

それくらいに心の魔は、強いのだ。


心の苦しみを越えるには、その原因を突き止めるほかない。

原因を見つめることは、つらく、険しい。なぜなら自分の最も愚かな部分を直視せねばならないからだ。

しかも原因が見えると、心は激しく動揺し、反応する。全力で、原因から目を背けようとする。

目を背けるための理由が、まさに本人の心が作り出す都合のいいものだ。

たとえば現実から逃げたくてみずからを美化して生きてきた人は、自分を美化できるような理由を見つけて、そっちに走り出す。たとえば新たな仕事を始めるとか、別の活動に手を出すとか。

自分を変えるための行動だと本人は思うのだが、実際は、自分を美化するという業であり執着にうまく調和する選択だったりする。宗教や自己啓発はその典型だ。

またたとえば、過去から目を背け続けてきた人は、「答えは本の中に書いてあることはわかります」と言いつつ、本を読まず、書いてある実践もしない。

わかったふりをして、実際に目を向けることから逃げ続けて、これまでの自分をそのまま温存している姿だ。まさに心の思うツボ。
 
瞑想にも類似の罠は潜んでいる。

瞑想のプロセスにおいては、過去を見る、他人を見る、世界を見ることになる――見て、その時見えたものを言葉にする。自らを思い知るための下準備としてだ。

どんな言葉も発しているのは、自分の心。
だから心に見るものは、最終的には、自分の心を思い知るための材料になる。

だから相談に来る人たちには、まずは思うことを何でも言葉にしてくださいと伝える。瞑想や内観も同じ目的を持っている。

だが多くの人は、そのプロセスを飛ばしてしまうのだ。自分を見つめるだけの時間を作らない。自分の中に見えたものを言葉にしない。
 
本当はその言語化したものをふまえて自分自身を見つめていく作業が来るのだが、その困難な作業に進む前に、別の方角に、ラクなほうへと走ってしまうのだ。



自分を越える、変えるというのは、容易なことではない。

過去を越えることも、執着を断つことも、業を克服することも、

生涯かけてもたどり着けないくらいに、本当は難しい作業だ。

仮に50年生きた人がいるとして、その人がもし自分を越える、変える作業に乗り出そうというのなら、

その人は、50年も生きてしまった自分が、本当に越えることなどできるのだろうかと、事の重大さを自覚する、たじろぐくらいが、真っ当な感覚というものだ。

本当の意味で慚愧し、懺悔し、悔やんで、顔から火が出るほど恥ずかしく思って、

それでもこのまま生きていくことは望まないから、

できるかどうかはわからないが、やるしかないという立場に、最終的に立つ。

道に立つとは、本来それくらいの大事(だいじ)なのだ。



もちろんそこまでの難題・難行にすべての人が挑まねばならないということではない。
ブディズムはそもそも金科玉条という流儀を取らない。

だが、人間というものが、あやうく、また哀しいと思えてくるのは、

人間は、自分の心が仕掛ける罠に気づかず、いとも簡単にハマって、正しくない選択をしてしまい、しかもその選択が自分では正しいと思ってしまっている(気づかない)ことが多いことだ。

人が理解しておくべきは、
 
自分の心がよかれと思って選択することは、高い確率で間違っているということ。

簡単に心が仕掛ける罠にかかってしまっている。

そうした自分に気づけないのが、人間というもので、
その危うさは、業が深いほど、執着が強いほど、飛躍的に高くなっていく。

本当に自分を越える、変えることができる人というのは、自分に厳しい人ということになる。

自分に厳しいとは、他人を追いかけず、左右されず、外の世界を当てにせず、ひたすら自分を見つめる強さを持てることだ。
 
(※自分を見つめるきっかけとして、他人・過去・外の世界を振り返るはよい。だがそれは自分がその時どう向き合ったかを思い知るためだ)。
 

なにしろ人生の汚物はすべて、自分の心に詰まっている。

それを直視して大掃除することをしないなら、当たり前だが、汚物が消えることはない。いつ覚悟を決めるかだ。


厄介なことは、覚悟を決めたつもりが、実はそれは覚悟でもなんでもなくて、執着したがる心の罠にかかっているだけかもしれないことだ。

心が見るものが真実とは限らない。選択を間違い続けるのが、人間というものだ。

「間違えているかも」と思えるくらいの慎重さ、自分への健全な懐疑があってはじめて、いやそれでもなお難しいのだが、

ようやく自分が正しく見えてくる可能性が出てくる。

 

 

2024年7月

ある日の法話から

 

相談したいという人たちへ


この場所を見つけて、相談したいと連絡をくださる方々へ


この場所は、開かれた心と慈悲の思いをもって、なるべく多くの人に新しい可能性を見出してもらおうとしています。

だから、ご相談にはいつでも応じる方針でいますが、いくつか最初に、お役に立てる場合とそうでない場合とを分ける線引き(基準のようなもの)をお伝えしておくことにします:


1)求めるものは、あくまで自分自身の生き方である(でなければいけない)ということ。

本を読んで、「私の親に会ってください」とか、自分以外の誰かを変えよう(変わるように助けてほしい)」と考える人がいます。

でもこれは、見当違い。自分以外の誰かを変えることは、誰にもできません。本人が自ら見つけて、自分のあり方について直接相談してこない限り、変わる可能性はありません。

「自分以外の誰かを変えたい(変えてほしい)」と思っているということは、その誰かにまだ執着しているということ。

この場所が伝えられるのは、そうした自分自身の執着を断って、その相手から自由になる方法なのです。

この場所が伝えられるのは、人に執着して苦しんでいる自分自身を変える方法です。自分が執着している誰かを変えることではありません(その先は妄想の領域です)。


2)少しでもこだわりやプライド、譲りたくないものがある人も、時期尚早です。

わかりやすい例でいえば、「あなたのプライドが邪魔しているのですよ」と言われて、ムッとしたり、そんなことはありませんと言い返してしまうようなら、まだ自分を見つめる覚悟ができていないことになります。

それはそうです――プライドを乗り越えているなら、反応するはずもないし、プライドを越えねばならないことを自覚しているなら、「そうですよね(理解できます)」という言葉が自然に出てくるものだからです。

反応してしまうということは、まさに図星ということ・・でも図星であることを、まだ認めたくない段階だということです。ならば、時期尚早ということになります。


3)誰かをかばおうとしてしまう人も、まだ執着にとらわれています(ゆえにこれも時期尚早)。

最も多いのは、肉親の業(ごう※)を指摘されたときに、とっさに肉親をかばって弁護してしまうこと。代わりに自分が悪いのだと主張する人もいます。指摘されて腹を立てる人さえいます。
 
※ 業:ごう がわからない人は、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)をお読みください。

こうした人たちの心にも、プライドと同様に、肉親への執着が存在します。執着があるからこそこそ悪く言われたくないと思ってしまう。かばってしまう、指摘されると腹を立ててしまう。

でもそんな自分に決定的に影響を与えているのが、肉親だったりします。それが事実ならば、それはその通りですと受け入れなければ、自分への理解が進まず、結果的に前に進めなくなってしまいます。

端的にいえば、親のことを指摘されて「違う」と言いたくなるということは、自分と親との間の線が引けていない(まだ混同している)可能性が高いということです。まだ執着の只中にあるのです。
 
ちなみに、苦悩を抜ける道筋の大枠というのは、
 
①苦しみの原因を、自分か、自分以外の他者か(親も含む)に明瞭に分け、
 
②自分の中の原因を自覚して反応しなくなること、または
 
③他者を見ても、思い出しても、一切反応しなくなること

です。反応しなくなれば、苦しみは止まるので、苦悩は解消します。

ところが指摘されると反応してしまうーーなぜなら執着があるから。この段階に留まる限りは、苦悩は続きます。 


4)自分で連絡してこない人も時期尚早です。

これは技術的なことだけれど、自分で連絡せず、人を介して(利用して)くる人もいます。

これも成り立ちません。自分のことは自分でやること。自分のことは自分で語ること。

最低限の自立ができていること。それが前提です。

※他人のことなのに、線引きできずに、○○さんの相談に乗ってあげてくださいと「つないで」しまう人も、自立できていない可能性があります。というのも自立していれば、「それは自分でやらないとね」と気づけるし、言えるものだからです。

 

他にも、いくつかありますが、総じて、相談して変わりうる可能性がある人たちとは、


①事実を指摘された時に、それは事実ですと受け止められる人

自分のことであれ、誰かのことであれ、事実は事実。苦しみがある、その原因はこういう過去、こうした関係性にある・・そうした理解を、そのまま受け取れる人。

事実を指摘されて、まだ反応してしまう段階であれば、「相談→実践→変わる」のステップには入れませんよね。

その意味では。どんなに耳の痛い指摘も、冷静に、謙虚に、受け止める心の準備ができている必要があります。
 

②あくまで自分のあり方を見つめられる人

他人を語らない・論じないこと。自分以外の誰かを変えようとか、変わってほしいといった執着を、この場所に持ち込むことはできません。


③なすべきこと(実践)をやる覚悟ができている人

自分を変えるには、自分のあり方を自覚して、そうした自分を作り替えていくための実践に踏み出す必要があります。

いつまでも過去に執着したり、誰かを変えようともくろんだり、人に腹を立てたり責めたりしているのなら、本気で変わる覚悟がないということになります。

この場所は、原因をつきとめて、伝わる言葉で言語化して、この先何をしていけばいいか、具体的な実践・行動までお伝えすることを方針としています。

その行動に踏み出す覚悟や意欲があるかどうか。
 
ないということは、「変わらなくていい」ということ。となると、これもやはりお役には立てません。


他にも見るべきものを見たうえで、はたしてお役に立てる可能性があるのかを見極めています。

おそらくこの場所は、本人には想像できないくらいに、人の心の奥を見て(見えて)います。
 
利を図るという発想がないので、お役に立てる可能性があれば、どこまでも一緒にいるし、お役に立てない状況であるなら、様子を見ることになります。
 

ためらい、おそれ、プライド、自己弁護、ごまかし、美化、詭弁、正当化、誰かへの執着・・・そうしたものが少しでも残っていたら、ブッダの智慧という、ほぼ万能して、でもかなり鋭い(人によっては痛い)知力は役に立たないだろうと思います。
 
執着は、智慧よりも、強いので――こうした真実をきちんと伝えることも、この場所なりの配慮(人それぞれの人生の尊重)から来ています。 


自分の苦しみを自覚して、原因を突き止める作業を手伝ってほしいという気持ちが強くあって、何を指摘されても、そうか、それが執着にまみれた自分に見えていなかった真実だったかと思えるに至った人であれば、

お役に立てる可能性もあるかもしれません。



とはいえ、本当に苦しんできた人は、ある程度、自分のあり方について飽きている・懲りていることが多いものです。

また、誰かに苦しめられたり、傷つけられたりしてきた人は、本人が思っている(思い込んでいる)ほど悪くない(他に原因がある)ことが多いので、

そうした人たちは、この場所で、本当の原因を明快な言葉で指摘してもらって、その原因を取り除くステップを理解することで、スッキリして、希望を見出して帰ってゆくので、

この場所・ブディズムは、優しくて、元気が出る存在(味方)に映るはずです。


その一方で、捨てたくない執着の只中にある人にとっては、ここは敷居の高い、峻厳な場所に映るかもしれません。
 
優しかったり、厳しかったり・・まさにお寺であり、道場です。心によって、見えるものが変わるのです。

 
人の心は、みずからが作り出した執着の壁にぶつかっている状態だと思ってください。高くなったり、低くなったり・・・
 
壁が消える方法を(決して難しいことではありません)伝えるのが、この場所であり、ブディズムです。

苦しみも、原因も、自分の中にあります。そうした自分自身を正面から見すえる覚悟ができた時に、

ブディズムは、ほぼ万能の可能性をもって「優しい姿」で現れていたことを知るのだろうと思います。

 


人生は長いし、世界は広いので――

時間をかけて、真実(正しい理解)に近づいていけばよいのだろうと思います。


最終的に、答えが出ない人生は(答えを出さないことを本人が選ぶのではない限り)存在しないというのが、ブディズムの人生観です。

答えは出していいのです。終わりなき自問自答を生きることも価値を持つけれども、答えを出して、生きるという営みが持つ可能性の最果てまで体験することも、価値を持ちます。


答えを出さない生き方は、世の中に無数にあるから、

ひとつくらいは、答えを出しきる生き方もあるということ、その方法を示せる場所があってもよいと思います。
 

この場所は、つねに可能性を見ます。
 
人間が、十二分に生きて、心の隅々まで苦しみがない境地にたどり着く可能性を。


*相談してみたいと感じている人は、とりあえず各地の講座に足を運んでみるのが一番よいかもしれません。基本的に、この場所はオープンに、カジュアルに、フツーにやっています。



2024年7月1日


健康な心と病みがちな心

5月のとある講座の中から:



ひねくれ者・・・でもそれが「考える」ということかもしれず。

無思考のまま、ありがたがると、この世界は大きく方向を間違えてしまう恐れがあって、実際にその恐れは顕在化している・・・

無数の無思考が積み重なって、本当の幸福や可能性というものがフタをされてしまっているーー

結果としての「世の中ってこんなもの?」「この状態で続いていくの?(続けていくつもりなの?)」と、そう疑問を覚える人たちだっているであろう、この世界の現状のような気もします。

個人的に考えたいのは、

特定の人物が驕慢にして狂慢に囚われてしまっていたことが真実であって、

その真実は姿を変えて、時代を問わず、どれほどミクロな日常の中にあっても、当然のように起こりうることであることも事実であるとして(それは前提としたうえで)、

そうした個人の傲慢がなぜ他の人にも伝播(うつ)るのか、なぜ人は容易に感化されてしまうのか、

そうした社会への影響(慢の感染拡大)を止めるには、どのような方法がありうるのか(言葉、思想、教育、制度、文化それぞれの面において)

を探究していくことです。そこを考えないと、慢の肥大化に歯止めはかからない。

もちろんブディズムの中に、その足掛かりというか、思索のための原型があることは確実ですが、しかしそれだけでは(ブッダの言葉のコピーと継承)だけでは足りないーー

今の時代に確実に影響を及ぼしうるような、別の方法を掘り起こしていく必要があるように感じています。

これは、方向性です。形にできるかどうかはわからないけれども、問題意識・目的意識として持ち続けるべきであろうと思える可能性。

慢という思いがもたらすものが、どれほどの可能性を殺すかーーもうしばらく歴史を追っていきたいと思っています(講座内で全部取り上げられるわけでもありませんが)。



日常を楽しむことができるのは、ひとつの才です。

才ある人は実は世の中にたくさんいる・・けれども、それは健康な心の状態にある人たちであって、その一方で、心の病気(慢はその一種)にかかる人たちもいるし、すぐ感染してしまう人たちもいる。

一人の人間においても、健康だったり、病気だったり、心の状態は時によって変わる。

できることなら、長く健康でいられるほうがいい。

そうした健康を保つ秘訣とはどういうものか。

まだまだ言葉にできる領域は残っています。言葉にしていきたいと思います。


追記: 思想とは、まだ言葉になっていない未知の領域を言葉にしていく知力のことです。微力ながらもそうした方向性を見すえて、世界の現実を見て考え抜く――そうした努力をこの場所は続けてゆかねばとも思っています。



2024年5月某日


「そんなことはないよ」


インドから帰ってきて受け取ったのは、あたたかい励ましのメッセージ。

いつも以上に身に沁みた気がします。

というのも、インドから帰るときは、自分をリセット・・・再びゼロに帰るようにしているので。

かつて日本に帰ってきたときは、誰も知る人がいない完全に無の状態でした。今もその心境で毎回戻ってくるのですが、

今回は、日本でもつながっている人たちがいてくれて、励ましてくれたりなんかもしてくれるので、「なるほど、そういうプラスもあるのかぁ」と(少しは)思い直すことができました。

さらに掘り下げると、出家というのは、最初に人の苦しみを見るので、その苦しみを減らせなかった(助けられなかった・・・という言い方をすると、おこがましく聞こえなくもないですが)事実を最初に見てしまいます。

結果的に、仏教(つまりはこの命)は無力、非力・・・という感想も出てきてしまいます。

「自分のことだけ」でいいのであれば、いくらでもポジティブ・楽観を選ぶことはできますが、出家というのは、そういう生き方はしない生き物なので。

正直、あまり(ぜんぜん)ラクではありません。別の苦労を背負ってしまう生き方のような気がします。

それでも「そんなことはないよ」と言ってくれる優しい人たちが今はいることも事実なので、その事実はありがたく覚えておくように努力いたします(^ ^)。

 

2024年3月8日

 

未来を生きるということ

出家・草薙龍瞬、インドをゆくから ※一定期間後に「インドをゆく」に移動します)
 

最終日の土曜は、学校の朝礼でお別れの挨拶。「来年また戻って来るから、それまで学校を楽しんでください。全体をよく見ること。環境を大事にすること、特に植物はかわいがってね」
 
そして締めのラジオ体操(第一(笑))。
 

子供たちの中にいると、自分は去りゆく命だが、と同時に未来を育てゆく働きの一部であることを実感する。

自分の老いや死を見れば孤独を感じるのかもしれないが、そんなことはごく当たり前の自然の摂理であって、次の世代や幼い子供たちを育てることで、自分もまた育ちゆく未来の一部になることができる。

老いや死を克服することは、案外簡単なことで、小さな自分にとらわれずに、未来を育てることを喜びにすればよいことなのだと思える。

どんどん育ってくれれば、それが自分の幸せになるのだ。


みんなで記念撮影 大人たちも未来の中にある


荷物をまとめてラケシュの家に行くと、仲間たちが見送りに来てくれていた。婦人も青年たちも。

ラケシュの車に乗って出発。みなが手を振って見送ってくれた。


空港では、ラケシュの兄と学生寮の生徒たちが待ってくれていた。

毎回、手を振って見送ってくれる。その姿をいつまでも覚えておきたいといつも思いつつ、空港の中に入っていく。


この地には、すべてがそろっているようにも思う。

この体が二つあれば、すべて解決するのだが――。




空港で見送ってくれた仲間たち 
彼らと出会えただけでこの時代に生まれてきた意味があろうというもの



2024年2月下旬



木は木のまま生きていく(インド編)


ある日の午後、ラケシュと話をした。ラケシュは、私と出会うはるか前から、この地で活動してきて、今や知らない人はいないくらいの著名人だ。何しろJICAのデリー支局の日本人スタッフさえその噂を聞いていたくらいだ。ラケシュを慕って集まって来る人は、数えきれないほどいる。


ラケシュは誰のことも批判しない。人のために労を厭わず動くが、それ以外の時間は静かに読書して、子供たちの相手をして過ごしている。人として何ひとつ過ちを犯していない。

だが、そんなラケシュをわざわざ批判する人間たちがいるというのだ。さすがのラケシュも相当な心労を抱えることがあるらしい。そんなときは一人ビハールで瞑想するのだそうだ。

「いつかわかってくれるかもしれないね」という。

「でも変わらない人もいるよね But someone will never change」とも。


私は笑って、「どっちも、ブッダは気にしないよ。他人の姿は、自分のあり方に関係しない。 “期待” expectationがないからね」

期待という言葉にわが意を得たりという表情で、ラケシュは深くうなずいていた。仏教の話を私から聞く時、ラケシュは席を降りて床に座る。つくづく謙虚な人物だ。

「わかってほしい」「そのうち変わるかもしれない」というのは、期待。期待があるから反応してしまう。

「期待は妄想の一種だよ」と話した。


期待を切り離せば(detachすれば)、苦しみは生まれない――。
 

それは、冷たい人間になることかといえば、そうではない。純粋な慈悲であり、完全な尊重だ。どんな思いであろうと、他人が抱くことは自由。批判であれ、悪意であれ、嫉妬であれ、病的な傲慢であれ、何を思って生きるのも、人の選択だ。

その選択は尊重するしかない。

それが慈悲と正しい理解に立つ者たち、ブッダの教えに立つ者の心がまえだ。


期待を完全に切り離せば、他者の悪意によって苦しむことはなくなる。

自分は自分のまま。

ただ自分にできることをやる。価値あることをやる。

そうした自分を誰よりも理解しているから、誰にわかってもらう必要もない。一切影響を受けない。


そんなことができるのか――できる。

単純な話で、妄想を断ち切ればいい。期待という名の妄想が残っている状態が、妄想への執着。その執着を断ち切るとは、妄想を消し去ること、消し切ること。いさぎよく。

それで期待は消える。他人から影響を受けることが消える。


難しく聞こえるが、“自然”(しぜん)は、当たり前のようにやっている。たとえば、木は木である。わざわざ鳥になろうと木は思わないし、鳥にわかってほしいとか感謝されたいとも考えない。突(つつ)かれたって、木としての姿はまったく変わらない。

木は木のままでいて、満たされている。

生き物の呼吸を支え、動物たちにとっての安らぎの場になっている。


キッパリと妄想を斬るだけでいい。すると“木”になれる。
 

もうひとつ、人々の無理解(傲慢)という逆境・困難に遭遇した時こそ、「正しい自分」に帰ることだ。しかも正しさに磨きをかけること。

おのれの言葉を正し、行いを正す。

みずからの思い(仏教徒にとってはダンマ)を確かめ、純粋なつつしみに還る。


つらくなったら、期待という名の妄想を手放して、自分だけを見つめるのだ。

思いを見つめ、完全にまっさらにして renew your mind 、新しく生き直す。つねに新しく。


人々の傲慢に遭遇した時は、「この命はお役に立てない」(相手が求めていない)と知って、つつしみに帰る。つまりは消える。


人は人なのだ。人は異なる心を持つ。だから他人の悪意や傲慢を向けられることは、避けられない。だがこちらが心を使って、おのれの本然(本来の姿)を失うことは愚かなことだ。


大事なことは、人の中にあって、人に染まらず、振り回されずに、最良の自分を保つことだ。

それだけが唯一、人にできること。


生きたいように生きればいい。
僕らは僕らの道を生きていく。


そういう話をラケシュとした。単純に、これまで僕らがやってきたことを、そのまま続け、育てていくだけのこと。僕らは幸せな人生を生きている。これ以上の生き方があるだろうか。



そろそろ今回の旅も終わりに近づいてきた。
人はみな、愛おしい人たちである。


僕らは幸せな人生を生きている
これ以上は必要ないとつくづく思う


2024年2月



原始仏典の読み方


『反応しない練習』などの作品を読んで、「仏教がようやくわかった気がする」「原始仏教に興味を持った」というお声を日々いただいています

「本の中にあるブッダの言葉を原始仏典で確かめたい」「さらに詳細な典拠を記してほしい」という声も、かねてから受け取ってきました。

著者としても悩んできたところです。かなりマニアックな内容になりますが、あえてシンプルに記載してある理由・背景について言葉にしておきたいと思います。

※以下は、仏教を勉強したい人向けの内容です:



原始仏典は、中部、長部、相応部など、一般にいう本のタイトルのもと、篇・部・分・章・大節・小節などに細分化されています。全体に通し番号がついていることもあります。<蛇><聖なる者>といった比喩・テーマごとに編纂したものもあります。

たとえば、相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)についていえば、

Samyutta Nikaya 
PartⅢ The Book of the Aggregates(Khandavagga)
ChapterⅠ 22. Khandasamyutta
DivisionⅠ
Ⅰ Nakulapita
1(1)

といった感じで編纂されています。もし出典を明記しようと思えば、Samyutta Nikaya Ⅲ‐Ⅰ-Ⅰ ‐Ⅰ-1(1) のような感じになります。

でも読者にとっては、文字数が増えるだけですよね・・。執筆当初はなるべく正確にと心がけていましたが、読者にとっての価値を考えた時に、あまり意味がないと感じて妥協したのです(学術書にはもちろん必須ですが)。

せめて文献リストを巻末に載せようも思いましたが、膨大になり、一般書籍のページ数に収めきれずにこれも妥協したという経緯があります。

結果的に、学術的な信用性より、一般読者に必要な情報を優先させたのです。



著者である私の原稿には、出典元の情報があるので、必要な時は原典に戻れます。もし著作の中の「この言葉は、どこから引いたものだっけ?」と原典を確認する必要が生じた場合でも、原典のタイトルさえあれば、原典の構造・章立てなどはわかるので、「あの辺だろう」と当たりをつけることが可能です。

そうして可能性のある章や節をたどって、「そうそうこの言葉だった」と確認するのです。


ここで思うのは、どのような大著であれ、「このあたりじゃないかな?」と絞れるくらいに、まずその本を読む、いや正確に言えば「構造を掴む」ことが意外と大事かもしれないということです。



『反応しない練習』をはじめとする私の著作は、

➀Buddhismの原理・原則(基本的な理解と思考の方法・発想等)と、

②原典に記された言葉の引用に基づいています。

それに加えて、

③著者個人の経験と思索をふまえた内容を加えています。

だから本の内容と語り口は著者独自のものですが、そこから伝わる生き方・考え方・理解の仕方は Buddhism そのもの――そうなるように心がけています。

私の作品を読んで、「仏教がわかる気がした」と感じてくれる人が多いのは、そういう理由によるのだろうと思います。全体の構成、言葉の選び方、表現方法は、オリジナルの原始仏典とはもちろん違いますが、それは衣装が違うだけで、中味(本質)は共通しているということかもしれません。



もっとも、本を読んだ人がオリジナルの仏典をたどれば、同じような言葉がすぐ見つかるかといえば、いくつかの制約があります。

あまりに情報が膨大であるという物理的制約が、最初に来ます。次に来るのは、言葉(表現)の違いです。

仏典には、言葉自体が過度に複雑・冗長、装飾・重複過多だったり、現代となってはもはや意味が通じない比喩などが混じったりしています。

さらに、著者のほうで、「この表現で果たして現代の人たちが理解できるだろうか、役立つだろうか」という視点で原典を吟味して、「伝わる、使える」表現へと置き換えているところもあります。

 

もともと原始仏典には、現存するパーリ語仏典をもとに、英語訳が何種類か、また日本の学者先生方が訳したものがあります。

ただ、英語訳も、訳者によって言葉の選び方や、細部の取捨選択が分かれます。また学術的に正確に翻訳しようとすると、情報が膨大となり一般書籍に収まりきらないばかりか、一般の人には厳密・難解・膨大過ぎて、理解できない可能性が多分に出てきます。

私の場合は、パーリ語、英語訳、漢訳(中国語訳)、日本の学術研究書・一般図書などを、できる範囲で渉猟して「訳し方(言葉の選択)の幅」を確認します。日本語訳より、漢訳のほうが、うまい訳し方になっていることもあるし、英語訳から新たに日本語訳を作ったほうが、自然な訳語を導き出せることもあります。

さらに、ブッダが重視した流儀にならって、「聞いてわかる」言葉(口語)に置き換えもします。

そこまで進むと、最初の仏典の言葉からは、一見けっこう離れた言葉遣いになることが出てきます。直訳とは違うのですが、本質を踏まえれば「なるほど、そういう表現も可能だ」と思えてくる言葉の選び方です。映画の字幕に近いところがあるかもしれません。

だから一般の読者の方が、私の作品に引用した仏典の言葉を見つけ出そうとしても、膨大ゆえに途中で見失うか、目の前にあるのに素通りしてしまう・・ということも出てくるはずです。その確率はけっこう高いかも。もちろん逆にすぐ見つかることもあるはずです。




ロス(時間的損失)の少ない方法は、まずは自分で原始仏典(日本語訳)を読み進めて、「これだ」と思う言葉を集めていくことかもしれません(その意味では「何のために読むのか」という目的意識が大事になります。的を見失うと、さまよいます)。


もし著作内の引用がイイと思ってくださった場合は、その言葉を書き留めておいて、いつか見つかるだろうという楽観をもって、読んでいくとか。

「これ近いかも」と感じる言葉が見つかったら、その言葉(学術的翻訳)と、私の訳語とを照らし合わせて、どれくらい違うのか、なぜ違うのかを考えてみるとか。

さらには、英語ができる人は英語訳に当たって(※パーリ語まで手を伸ばすのは、全生涯をかけた超マニアック・超専門的な仕事になるだろうから、正直あまりお勧めはできません・・)、自分でも訳を考えて、もう一度『反応しない練習』などの本に戻ってもらうとか。

すると、「なるほどこういう言葉の選び方(翻訳の仕方)があるのか、たしかに!」と納得してもらえるかもしれません。

もう一つ大事なことは、繰り返しになりますが、やはり原始仏典を読むに際しては、最初に仏典の「構造」を理解することかと思います。「この言葉なら、このあたりに書いてあるかも」と当たりをつけられるくらいに、構造を理解しつつ読んでいくのです。



こうした原始仏典の読み方・翻訳の仕方は、言語化できればと思うこともあります。しかしこの領域に手を出すと、それこそ一生書斎にこもらなくてはならなくなるので、あきらめています。

そのぶん学術的価値は下がりますが、私の役目は、仏教を学問としてではなく、生き方として、また生活に役立つ智慧として、役立てようと思う一般の人たちに向けて、「わかる、役立つ」言葉で伝えることだと思っています。その役目だけで、ほぼ確実に目一杯です。



上記をまとめると、

①一般向けの仏教書に正確な出典を明記するのは困難(本の役割が違うため)。

②原典を読む人は「このあたりに書いてあるかな?」と目星をつけられるところまで、「構造」を意識して読んでいく。

(※ある程度読み込むことができれば、あたりをつけられるようになります。かなり地道な読み込みが必要ですが、本格的に学ぼうというなら、そこまで進めることが必須です。これはどの分野も同じはず)。

③表面的な訳にとらわれず、「生き方・考え方」を学ぶつもりで読んでいく(※するとロスを減らせます)。

ということかと思います。



一番肝心なことは、ブッダが伝えたのは「心の苦しみを抜け出す方法」だということです。

苦しみの原因を知り、それを取り除く方法を実践する。

その方角を見失わなければ、仏教を自分なりに正しく学び、活かすことが可能になります。


私欲のためでなく、この世界の苦しみを減らすために仏教を活かせる人たちが増えてくれたらと願っています。


 

インドの書斎にある原始仏典 ミャンマーからインドに送ったもの





2024年2月10日

 

 

仏教 vs. 執着

読者の方々から質問・感想を日々お寄せいただいています。ありがとうございます。

今回紹介するのは、そうしたお声をふまえての仏教の話――原稿の一節と思ってくださって差し支えありません。

 

仏教 vs. 執着

仏教は、心に関する問題を解決するにあたっては、ほぼ万能とさえいえるほどの柔軟性と応用力を秘めています。

しかし仏教は、では完全にして誰にも使える処方箋たりうるかといえば、まったくそうではありません。むしろ仏教は非力にして無力です。

何に対して無力かと言えば、人間の”執着”です。



執着とは、広く定義すれば、「今の心の状態を変えない方向に働く心の動き」です。

たとえば、怒りが溜まっている人は、つねに怒りを抱え込んでいるばかりか、小さなこと、時に理由のないことにさえ、怒る理由を見つけ出して怒ります。

貪欲(もっと多くを求める心の動き)があると、つねに新しい何かを手にすることで問題を解決しようと考えます。

仮に「あきらめる」「反応しない」といった可能性を耳にしても、貪欲を持った心は「それでは、あきらめることになってしまう」「過去が無駄になってしまう」「そんな人生は面白くないのでは?」と失うものを見て、「やっぱり現状維持」を選ぼうとします。

妄想については、心はそもそも妄想まみれ。ほぼ常時、妄想維持モードのまま回り続けています。心のスキマ(何もしない時間)があると、瞬時に妄想で埋めようとします。

その結果、スマホ、SNS、ネット、ゲームといった手軽な妄想維持装置に手が伸びます。いったん手が伸びると、心は完全執着モードと化すので、外からの働きかけがない限り、止められなくなります。

何もしていなくても、心は妄想できるエサ・ネタを探して、あれこれと検索します。過去のこと、人のこと、将来のこと、「こんな自分なんて」という自己否定など。

そのほとんどは、ネガティブです。というのも、妄想に次いで手っ取り早いのは「怒る」ことだからです。すでに溜まっている怒りをもって何かを攻撃しようとする。「過去のせい」「あの人のせい」「世の中のこんなことが気に入らない」と、次々に怒るための燃料を探す(妄想する)のです。


 

さらに、慢もあります。著作(『反応しない練習』ほか)で触れているとおり、慢は、承認欲(認められたい・認めさせたい欲求)と、それを満たせるような妄想との混合物です。

自分を認めてもらうための妄想だから、どこまでも自分に有利な、都合のいい、自分が正しいと思える妄想を繰り広げます。そのうえに「執着」という心の動きが加わるので、「この妄想は正しい」「絶対に(どう考えても)正しい」と思うようになります。絶対、自分、正しい――の繰り返し。

「つねに自分が考える(妄想する)ことは正しい」というのは、心が思いつくすべてに当てはまります。

自分の見解が正しい。自分の怒りは正しい。自分の過去は正しい。自分の言葉は正しい。間違っているのは、相手だ、他人だ、世の中だ――。

承認欲と妄想はセットなので、自分のほうが優れている。優れているとも考えます。そうした思いに執着するからからこそ、他人を批判する、非難する、ケチをつける、悪口を言う自分が出てきます。

さらに、「正しい自分」が通らない現実や他者については、「正しい自分を否定するもの」としてとらえます。激昂したり、敵とみなして攻撃し始めたり。自分の期待や要求が通らないと烈しく怒って非難します。自分の要求を押し通すまで、あらゆる理屈を繰り出して、批判したり手なづけようとしたりします(モラハラはその典型)。

「こんな目に遭わされた、ひどい、自分は被害者だ」と思い込むこともあります(いわゆるクレーマー)。

「自分は正しい」という前提、つまり慢に立ってしまうと、実は自分が相手を苦しめているのに、自分こそが「苦しめられている、ひどい」(悪いのは相手だ)という言い分・発想になってしまうのです。

世の中にあるパワハラ、セクハラ、モラハラといった「思いの一方的な押しつけ」は、押しつけるための手段・理屈は違うものの、「自分は正しい」という前提は共通しています。



こうした数々の執着は、心につねに湧き上がります。執着こそが自分自身、いや人生そのものと喩えても間違いないくらいに、心を占領していきます。

長く生きれば生きるほど、執着が増え、強化されていきます。執着前提でモノを見るので、人の声や別の可能性は、聞こえません。

たとえば貪欲に駆られた心に、「手放して自由になる」可能性を伝えても、「そんなのはつまらない、意味がない」と感じます。

妄想に支配された心に、「それは妄想ですよ」と伝えても、「妄想じゃない、自分の考えだ、考えることの何が悪い」と訴えます。

慢に囚われた心が、「それは慢ですね」と指摘されると、「何を言うか、そういうあなたこそ慢じゃないか!」とムキになって言い返します。


執着にとらわれた心は、みずからの執着を通して外の世界を見ます。外の世界に自分の執着を見てしまうのです。いわゆる自己投影です。

たとえば怒りを隠し持っている人は、「相手が怒っている」ものと勘違いします。もっと進むと、みんな自分に怒っている、世界は敵ばかりだと思うこともあります。

疑いや不安といった妄想を持っている心は、その妄想を通して世界を見るので、「誰も信用できない」「どうせうまく行かない」といった、自分の中にある通りのものを結論として出してしまいます。

慢に囚われた心は、自分ではなく人が、相手が傲慢なのだと考えます。自分の慢(正しいという思い)を前提に、人を非難します。「あの人のここがダメだ」「あなたはこういうところがなっていない」と人の内面にまで踏み込んで攻撃し(結局、自分を見て言っているだけなのですが)、さらには「許せない」「謝罪しろ」と強要さえすることもあります。



 

真実とは皮肉なものです。人のことを「傲慢だ」と言う場合は、もしかしたら自分自身が傲慢の罠にかかっているかもしれないということです。

執着がある心は、その執着を、自分自身を、外の世界に、他人に投影します。他人を見ているつもりで、実は自分が抱え持った執着そのものを見ているのです。

だから他人について語ることは、自分自身の「開示」ということになるのです。
 

もし自分が慢ではなく、つつしみと慈悲(思いやり)に立っているなら、人さまを悪く語りません。「私にとっては、こういうことです」と自分の思いを伝え、「理解していただければ嬉しく(幸いに)思います」という言葉になります。もし理解されなければ「残念です」という控えめな言葉をもって、静かに身を引きます。

 

執着は、心の性質でもあるので、気をつけないと、誰もが囚われる可能性があります。ブッダがブッダであり続けたゆえんは、そうした心の性質(罠といってもよい)を自覚して、つねに自分の心を見張ることを一時も絶やさなかったからです。

ブッダの心には、自分の心をつねに見張り続けるサティと、つつしみ(慢や妄想を広げない)と、慈悲(幸せを願うこと・相手の悲しみ・苦しみを想うこと)があります。

 


執着を越えれば、

「心が自由になる」
「新しい可能性が開かれる」
「優しくなれる」

ことは真実です。その真実に目覚める方法(執着の手放し方)も、仏教は伝えることができます。ちゃんと実践すれば、心の性質にてらして、ほぼ百パーセント解消できます。つまり変われます。


ところが・・・執着に囚われた心は、その可能性を否定してしまうのです。

「自分は間違っていない」
「自分は自分の思うとおりに生きていく」
「自分の何がいけない?」

という思いのほうを選びます。

いけないことは何もありません。心はその人自身のもの。誰もが自分の人生を好きなように生きていい。生きることは、人それぞれの自由です。

ただし、苦しみを越えるには、自分の執着(変わりたくない・変わらない自分)を自覚して、克服していく努力をしなければいけません(これは法則みたいなもので、例外はありません)。

執着のままに生きるなら、当然ながら、心も変わらないまま続きます。

誰のせいでもありません。自分自身の選択です。


執着を選ぶ心には、仏教は何も伝えられません。無力にして非力です。

これは、2600年近く昔のインドから、現代に至るまで変わっていないのです。



執着と仏教とは、どちらが強いか。

執着です。はるかに強いのが、執着です。さながら別宇宙であるかのように、仏教は、人の心を支配する執着に手が届きません。


せめて「幸せでありますように」と願うほかないのです。



2024年2月6日


いわゆる瞑想について


瞑想 と呼ばれるものについて:

瞑想 を勘違いすると、一生路頭に迷います。

悲劇的なのは、路頭に迷っていることにさえ、自分が気づけなくなること。

大したことでもない体験を、過剰に美化したり意味づけたり、

考えても本当は意味がないことまで、言葉で考えて、解釈したり、分析したり。

それこそ一週間や一か月程度で、何かが変わる、得られると思うこと自体が、心が繰り出す勘違い。これは、ほぼ百パーセントと言っていいくらいの確率です。


人の心は狡猾。つねに自分に都合よく解釈しようとするし、都合のいいところだけを見ようとします。

瞑想することが目的化する。瞑想中に体験したことを特別視する。

あれこれと無意味なことを考えて、付け足して、本当に見なければいけないものを、あっという間に忘れてしまう。


瞑想は、正しく取り組もうとすれば「大変」なものです。楽ではない。むしろ苦しい。厳しい。どの分野においても、成長するというのは、そういう面を持っています。


本当の瞑想と、自我は、両立しません。

どれほどの歳月を費やしたにせよ、勘違いまみれの自分がそっくりそのまま残っているなら、瞑想したことにはなりません。

自我が繰り出す妄想、自己愛、執着、過去の隠蔽、逃避、美化、脚色・・・のエサとして瞑想の時間を利用しただけということになりかねません。


自我が罠になる。
言葉が枷になる。


それでも勘違いした人は(執着・都合のいい妄想に囚われた心は)、自分が何かを得た、見た気になってしまう。

客観的には無知にどっぷり浸かった姿でしかないのですが、自分は何かを知ったような気分になってしまいます。

まさに自我が繰り出すからくり――ブッダが「マーラ」(心の魔)と呼んだものに、まんまとハマった姿です。


瞑想はきわめて個人的、つまりは主観的な体験です。他者への証明は不可能。

だからこそ勘違いがはびこります。パフォーマンス、自己満足、執着のさらなる強化。

瞑想すればするほど、逆の方向に突っ走っていく。

いとも簡単に無明の闇(見えない状態)に絡めとられて、沈んでいく。

そうして真実(自分についての正しい理解)には、永久に届かない――。


そういうことも、瞑想と呼ばれる世界には、今も累々と起きています。

止めることは、誰にもできません。自分以外は。


そうした真実(危険)があるから、「瞑想(仏教)は、決して易しくはないよ、むしろ厳しい世界ですよ」と、正直にお伝えしています。



 

こんな生き物でごめんなさい

出家は「川」として生きるしかない。

どんな理不尽に遭遇しようとも、川は川として流れるほかない。


しかも、淀んではいけないし、濁ってもいけない。透明な流れのままで、水を求める人たちの前にいつづけなければいけない――。

川のままであることの、難しさ――それがわかるのは、インドで生きる私の無二の友人のように、人に与え続けることを生き方として選ぶ人のみだ。

 

そうした人たちは、傷つけられる痛みも、絶望も知っている。たくさん涙を流してきたが、それでも人の幸せを願う。いつも人の苦しみに心を痛めて、何ができるかを考え、そしてできることを行動に移す。

私が、この世界でわかりあえると思える友は、インドに生きるあの青年である。

 

川のままでいよう――そうよく話をしている。

 

無理解に満ちた世界で生きることは、とても過酷である。その過酷さを知っている人たちは、世界に大勢いるだろう。心優しい人、一生懸命夢を見て頑張っている人。

美しいものを大事にしている人ほど、世界の無理解に傷つけられたり、毒されたりすることがある。

理不尽だが、この世界に溢れる毒は、そうした人々を、放っておいてくれないのだ。

哀しい現実が、この世界には無数に起きている。

 

だが――外の世界の不合理に、こちらの心が染まってしまっては、意味がない。あくまで「川」のまま流れるしかない。

つまりは、自分の輪郭をしっかり保ち、外の世界の毒に汚されることなく、正しい理解と思いやり(慈悲)に立って、生きてゆくしかないのだ。

そうして頑張って生きている人も、たくさんいるだろう。


出家もまた、そうした生き方の一つである。


流れる川として生きる。

水は、ときに汚されようとも、水そのものが汚れることはない。


自分は水である。決して汚されることはない――その姿を守り抜くのだ。

 



私の場合は、ブッダの教えに出会い、出家という生き方を得ることで、心を汚さない生き方を手にすることができた。

私が今の自分にたどり着くまで、50年以上の歳月を要している。

この長い道のりの途中でただひとつ、考え続けてきたことは、人間はどうすれば幸せにたどり着けるのか?――という問いだ。


その問いだけは、忘れたことはない。

その問いが、唯一の「希望」みたいなものになっていた。


だがひとつ、出家にも弱点がある。この弱点は、この十年で何度か体験をして、次第に自覚するようになったものなのだが、


救われていい人が、救われない――その現実を目前にしたときに、心が痛む。


心の苦しみには、必ず抜ける道筋がある。その道筋をたどれば、確実に抜け出せる。

心については、ブッダの智慧が、心の法則をふまえて、みごとに越える道筋を示している。

その道筋を進めばいい。進めば必ず苦しみは減っていく。やがて消える。


その道筋が、私には見える。実はすごく簡単なことだ。


だが、執着に支配された人は、自分が罠にかかっていることを、想像さえしない。


確実に救われる道があるのに、目の前の道が見えない。真っ暗闇の中にうずくまっている。

優しい人は、みずからを傷つける。

怒りに支配された人は、自らが作り出す慢に取り憑かれて、目の前に道があることさえ、見ようとしない。


私は、何度も手を差し伸べて、言葉をかけてきた。その中で、苦しみを卒業していった人たちも、確実にいた―― つもりだが、

手が届かず、再び闇の中へと戻って行った人もいる。


そういう出来事も過去に何度かあった。

そうしたとき、出家の心は痛みを覚える。

 
私は、人を信じるし、世の中を信じる。滅びではなく、可能性を信じる。

冷笑や傍観ではなく、役割を最後まで担う。

 

それが私という人間の本質だ。

この命が続く限り、自分なりの慈悲と智慧を精一杯伝えていく。


正直、それくらいしか、私にはできない。あまりに無力であり、とても小さな生き方でしかない。申しわけなくなる。


それでも、道に立って生きてゆく。

世にあって、世に染まらず。


自分自身が、真実を知り、人に誠意と慈悲を尽くし、人の幸せを願って、

人を利用せず、否定せず、みずからなしうることだけに心尽くして、

そうして残った言葉や出会いや歳月が、最後に残ってくれれば、


それだけが、出家にとってのご褒美――最高の納得――ということになる。


出家は、愚かな生き物だ。

幸せであれ――と、それしか結局は言えないのだから。


2023年12月25日


人はなぜだまされるのか


今年の仏教講座も大詰め。最近取り上げたのは、一休さん(一休宗純)の生涯。

人間は、複雑に見えて、本当はすごくわかりやすい。顔、表情、語ること、やっていることを見れば、その人の思いはわかる。

だが、自分の「わかる」が、客観的な「わかる」(真実)になっているかは、案外あやうい。意外と人は、他人の思いが見えないことが多い。



一休さんの生涯(アニメではなくリアルなほうw)は、6歳で母から引き離されて寺に入って以来始まった執着と屈折を、「オレは坊主だ、本当はエライんだ」という自意識で上塗りし続けて、迷走したまま終わった印象が残ります(一般には「風狂」と呼ばれるけれど、要はこじれた心が作り出す風変わりな言動のこと)。

自意識をこじらせて、いつも不機嫌で、人にやたらとケンカを売って、バ〇ヤロー、コ〇ヤローと悪態ついて、周りから見れば面倒臭い人になってしまった大人は、現代にもいなくはないのかもしれません。



人間としてまともに生きるのに、それほど修行は要りません。

市井の人であっても、立派に善良に生きている人は、たくさんいますよね。

むしろ形だけの寺、修行、仏教、坊主然とした姿に色(脚色)がつけばつくほど、空疎に、また醜悪になっていくのかもしれません。

一休さんはその真実がわかっていました。だからこそ嫌っていました。

嫌いはしたけれど、嫌うのはまだ執着しているからであって、最後は執着を手放さなければいけないのに、執着を手放せなかった。結果としてのこんがらがった人生です。

大なり小なり、人は執着ゆえの矛盾・葛藤を抱えるもの。

「どの執着を手放せばいいんだ?」とみずからに問うて、突きとめて、「手放す時期」を自分で決めること。最後はエイヤと手放す。

手放した人が、自由になった人です。



講座でもうひとつ取り上げたのは、禅の世界で有名な<南泉斬猫>の答え合わせ。

つねに本質に立って生きているなら、答えを出すことは難しくありません。

でも人間は、その場の雰囲気に呑まれたり、相手の見せかけ(肩書・権威・自己都合の強弁)に惑わされて、本質を見失ってしまう。

自分の頭で考えればすぐわかること、見抜けることが、見えなくなる。

結果的にすぐだまされるし、振り回される。自分が信じたことさえ、勘違いであることはよくあります。

だが哀しいことに、本人にはそれが見えません。

虚仮おどしに弱いのは、人間そのものが虚仮(妄想)に囚われているから――。


講座終了後、猫のサラに <南泉斬猫>のエピソードを聞かせて、「汝、どう答える?」と訊いたら、ほんとに にゃあ と答えました!

すごい。わかっている(笑)。
 

(※講座受けてない人にはなんのことかわからないと思います。すみません)




2023年12月3日