子供の心というのは、まずは親との関係から影響を受けます。それがすべての前提になります。
親の姿や価値観や心の癖を模倣すること。親への反発や不満に心を取られてしまうこと。
親の期待や要求に応えようとすると、自分の意志で選択するという基本が崩れるので、モチベーションが続かなくなるし、
逆に親に反発すると、そのストレスに心が囚われてしまうので、自分の将来を考えられなくなる、「自分のために勉強する」という素直な前提を保てなくなる、気を紛らわせるために娯楽に走ってしまうという事態に陥ってしまいます。
総じて「自分の人生を生きられなくなる」のです。
親の影響は、プラスに働くならいいけれど、マイナスなら有害です。「親の影響さえなければ、自分はもっと努力できるのに、勉強もするのに、将来のことを考えられるのに」という状況の子供は、たくさんいるはずです。
つまりは、親のマイナスの影響がなければ――という視点が必要になります。端的に言えば「親がいなければ」という引き算ができるかどうかが大事ということです。
「親がいなければ」という引き算ができるか。
「親への反発・反抗」は、引き算の第一歩。でも延々と反発ばかりしていては、自分の人生が始まらない。
反発するなら、「これは自分の問題なのだ。自分の人生がかかっているのだ」と思えるところまで反発する必要があります。中途半端な反発は、結局は現実逃避の理由になってしまいかねない。一番まずい展開は、親に反発しつつ、その不満を理由に部屋に閉じこもってスマホやネットでアヤシイ時間を過ごすだけ・・という状態になることです。
親の引き算というのは、子供が、自分の人生を考えること、将来を考えること、そして親とは別のところにある社会・世界・世間のほうを見るということでもあります。
「こんなところで、こんなことばかりしていられない」と思えるかどうか。それこそが精神の自立であり、成熟。
いわゆる反抗期とは、こうした成熟にたどり着くための通過儀礼です。というか、成熟にたどり着く必要があるのです。
となると、親には、ひとつの受け止め方があるのかもしれません。
「反発する(言う)のは、親として受け止めるよ、でもあなたの人生はどうするの? それは親を引いて考えてね」という受け止め方です。
「親はあなたより先に死ぬよ。この家だってなくなるよ」という現実を、どのタイミング化で伝えること。
いつまでも親を足し算に使ってはいられない。いつの間にか足し算に使ってない?――親が永遠に元気でお金もあって言いたいことを言える人間として生きているわけじゃないからね、という立場に立つことです。
◇
付け足しておくと、興道の里の寺子屋には、親を最初から引き算して、一人で来させることがベストです。「交通費は出すから、自分のために一度行っておいで」と働きかけてみるとか。
ここでも、本人の意識の中で「親の引き算」ができているかどうかが、選択の分かれ目になります。
ただ見ていると、親や兄弟姉妹が「足し算」になっている子がものすごく多い。強烈な影響を受けて、振り回されて、自分を育てる時間が不足している。「心が育っていない」ことが多いのです。心の栄養失調。虚弱体質。
だから私はよく「今度は一人でおいで」と伝えています。
親の側でも「一人で」行かせるように働きかける必要があるのだろうと思います(もちろん時期・状況によりますが)。
特に兄弟姉妹の数が多いとか、親の存在が反発や阻害(心の成長における)の要因担っている場合は、なおさらそうです。
「引き算」という前提に立てるようにしてください。子供の心を育てるために欠かせない発想です。
2026年5月
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
親を引き算できるか
独学でも勉強はできる
独学には意志と工夫がいる。きちんと自己管理して、正しい勉強法を工夫して。
僕自身の強みは何かと考えてみると、独学で大学に進んだことかと思う。もちろん最初からできたわけではないし、最後まで自分に負けっぱなしだった部分もなくはないけれども、トータルで見て「自分に勝つ」ことはできた(だからこうして君と出会えている)。
なぜ勝てたかといえば、意志と方法の2つがあったから。この2つを君には伝えていきたいんだ。
最初に“方法”について少し聞いてもらえたらと思う。方法とは、学び方、勉強法のことだ。どう読むか、どんな手順で進めるか、1日の時間割をどのように組み立てるか、といったこと。
今の時代こそ勉強法を語る本はたくさん出ているけれど、僕が十代の頃は少なかった。
「あとで後悔したくない」という思いが強かったから、つねに将来を考えて、今をどう生きるかを思い詰めていた(苦労性だったんだw)。
時間はあったから、大量の本を読んでいた。独りの時間が多かったから、深く考える時間があった。
そんな時間の中で、本の読み方・考え方・書き方などを自分で工夫して確立していった。
僕が手に入れた”方法”の核のようなもの(最も大切な要素)は、次の2つだ(具体的な中身は追って伝えていくから、まずはさわりだけ)。
“本質”をつかむこと――本質とは、その分野・科目に必要とされるアタマの使い方だ。これさえわかっていれば、問題を解ける。しかも試験が終わっても、それこそ一生使えるアタマの使い方。
たとえば数学における“手順”。語学における音や単語の“組み立て方”。現代文(論理国語)における抽象的文章を“読み解く技術”(論理的読解術)。歴史を物語として記憶するための“視点”といったものだ。
こうした本質がわかると、どんな分野・科目であれ抜群に“見える”ようになる。覚えられるし、思い出せるし、問題を解ける。しかも生涯使える。
逆に目先の試験に囚われた小手先のテクニックだと、試験が終わった途端に忘れてしまう。「覚え込む」(暗記する)ことに走って、別の場面で使えない。こうなると、せっかくの知識が上滑りして定着しない。
君の周りに「勉強しなさい」としか言えず、肝心の「勉強のしかた」を教えられない大人がいるとしたら、こういうマズイ勉強をした(本質を学び損ねた)人だと思っていいかもしれない。
僕が君にこれから伝えようとしているのは“本質”だ。
本質がわかれば、勉強ができるようになる。人生が変わる。
勉強ができること自体を目的にしてほしくはないけれど(見栄や虚栄心の満足につながっていきかねないからね)、学校の勉強や受験にも余裕で通用する本物の知力が身につく。
その本質のいくつかを伝えていこう。
※注記: 本の草稿に当たるので、話の続きを書いていくとは限りません(すみません)。
一緒に考えていきたいことは、「勉強観」とでも呼ぶべきもの。人生観、価値観、それと並ぶ勉強観――学びとは、勉強とは、どういうものかをめぐる認識の枠組みについてです。
認識の枠組み(パラダイムと呼ばれるもの)が変われば、「勉強」という言葉の意味も根底から変わります。
変わったその「勉強観」に立てば、学ぶことは楽しくなるし、その後をラクに楽しく生きられるし、実利として成績も上がるし、入試も無事合格できるよ、という一つの道筋をお伝えしたいのです。
夏の日本全国行脚2026 訪問地募集
興道の里から
今年も夏の日本全国行脚を開催します。
北は北海道、南は沖縄まで――お声をかけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。
○仏教を学びたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある
など、お気軽にご応募ください。
夏の全国行脚は2013年から。今年で14年目に入ります。
よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、
ぜひご活用下さい。
<訪問スケジュール>
期間 2026年7月20(日)から9月27日まで
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
下記をメールでご連絡ください:
②自己紹介
③希望する内容(相談・勉強会・法事など)
・調整のうえ最終決定しますので、必ずしもお応えできるわけではありません。お応えできる場合にかぎり個別にご連絡差し上げています。あらかじめご了承ください。
もはや古典~自分を見つめない親について
もはや古典といってもいいメッセージになるけれど、
親は子供のことを相談するよりも前に、自分自身のあり方を見つめないと始まりません。
人間というのは、自分のあり方を見つめて理解しているかどうかで、成熟度が決まります。
成熟していない人は自分自身を見つめていない。なんというか、すごく自己理解が浅い。というか、無い。
自分を見つめる代わりに、子供のことや周りの人間のことばかり考えて、そんな自分がいっぱしのことを考えているように思い込んでいる。
子供が問題だとか、子供が変わらなければとか、〇〇についてわかってもらいたいとか・・。
いや、わかっていないのは、親のほう。それがわかっていないことが、悲劇的。
子のあり方は、親のあり方次第でいくらでも変わる。というか、親の姿を見て素直に反応しているだけ。
そういう部分もわかってない・・。
親であるという特権的立場にあぐらをかいて、子のほうにばかり目を向けるというぬるま湯にどっぷり浸かっている。
まずは自分自身のあり方を深く反省できないと始まらないんじゃないのかな。
自分に甘い。子にとっては、ずるい。
そういう親が無自覚のうちに立ちはだかっているから、こちらとしてはその子のために何もできない。
「どいてくれる?」
そう伝えたくもなる。自分の姿をちゃんと見なさいよ、と言いたくなる。
*夏の日本全国行脚スタートです。生き方・学び方について一緒に考えたい十代と親の方々はお声がけください。
緑茶と看護学生のみなさん
5月1日は、静岡島田の看護専門学校で講演会。
ほぼ全員が看護師国家試験に合格し続けている、かなり教育力の高い学校。
3学年120名の看護学生さんと先生方十数名。質問も続いて熱心に聞いてくださった様子。
仏教と看護は親和性が高いように思う。「人のため」という思いから始まっている気がする。
ただ明らかに仏教のほうが「人のため」からは遠いような気もする。自分のため、自己満足のため。仏教と言いつつ、パフォーマンスでしかない。
そういう形だけの仏教(仏教もどきと言ってもいいかもしれない)が蔓延しているといえなくもない現状に対して、看護の仕事には嘘がない。「ケア」が看護という仕事の本質だからだ。
看護の世界に生きている人たちは、いろんな悩みを抱えながらも、やっぱり誠実なお人柄が多い。話をしていて、安堵する自分がいる。どこか懐かしい感じもする。
看護が滅びる時は、人類が滅びる時。世界を支える偉大な仕事。
みんな頑張ってほしいと心から思う。
『反応しない練習』を図書室用に進呈させてもらった。この先はもっとこうした出会いを増やしたいとも思う。エールを届けたい。
また会えたらと思います。緑茶と黒大奴(くろやっこ)がおいしゅうございましたw。
2026年5月1日
枠を崩さずってどういう意味?
こんなおたよりをいただきました:
(先日のブログについて)
「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。
ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。
たとえばこう表現してみましょうか:
仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。
私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、
社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。
「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。
形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。
歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。
ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。
こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。
もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。
ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、
外の世界はつねに変わり続けている。
生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。
ということです。
「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。
新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。
こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり
外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。
それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。
正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。
正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。
私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。
外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。
そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。
その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。
だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。
そういう生き方をしていこうということです。
つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。
伝わりますでしょうか笑。
新生活、始動
第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。
栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。
寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。
栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、
「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。
政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。
こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?
いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。
教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。
そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。
最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。
枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。
2026年4月下旬
平気で嘘をつく君へ
この事件はね、この先もっと大きな騒動になるかもしれない。
聞こえているかな……罪(不誠実)を犯してしまっている君に。
例の AIブッダ禅 アプリ、「事業譲渡」先を募集しているそうじゃないか。
もともと原権利者の意向を無視し、連絡も交渉も何一つしていないのに、「連絡済み」とnoteで平然と嘘をつき、
(嘘だよね、だってスジャト師本人が「ノー(連絡が来たことはない)」とはっきり言っているのだから)
「収益の75%を仏教関連団体に寄付している」と堂々と広告していたけれど、それも名前を挙げられた2団体は否定しているし、
あまりに明白な権利侵害が確認されたから、主要メディアは、君の事業に関する記事を急遽取り下げたわけだけれど、
君は、誰かの妨害行為のせいだ、圧力を受けたからだと、何も知らない人たちに訴えて、自分があたかも犠牲者であるかのような振る舞いを演じている。
「事業を託したい」「仏教を届けたい」と格好の良いことを言っているようだけれど、君はこうした事実を隠して、
君を信じて事業を譲り受けた人や企業が、君を信じたPR会社などと同じように、再び迷惑と損失を被るということを、
どうやら君は一切考えていないらしい。違うかい?
君の言葉の中に、どれだけの真実があるというのだろう?
君は正義のヒーローになりたかったのか?
だが、人の気持ちは無視して、人を騙すことには平気でいられるというのか?
誰から見ても、それは無理だよ。
本当にいいんだね?
時間は十分あったはずだ。十分待った。
君からの中傷めいた言葉を浴びながらも、君の人生を想って、沈黙を保ってきた。
だけれど、さすがにこれ以上沈黙を続けたら、君はどうやらさらなる嘘を重ねて、もっと多くの人たちを傷つける恐れが見えてきた。
君の言葉を信じて、課金に応じたり寄付してきた人たちは、まだ真実を知らされてはいない。
君は、都合の悪いことは隠して、都合の良いことだけを、しかも明らかな嘘まで含めて、彼らに訴え、彼らの信頼と支持を集めてきたらしい。
だがそうしたあり方は、そもそも仏教に、いや社会の道理に反する。
人として、やってはいけないことだ。
君が自らの過ちを自覚して、静かに閉じるならば、私は慈悲をもってそれを受け止めようと考えてきた。
だが、最後まで、君は、自分のことしか考えず、平気で嘘を重ねて、人々の思いまで弄(もてあそ)ぶことを選ぶらしい。
私が、唯一、許容できないのは、人の悪によって、人が傷つくことを見る時だ。
自分にできることがあるのに、それをしない。
そのことで誰かが傷つく。新たな苦しみを背負う。
そうした事態だけは、私は人間として受け入れることができない。
本当にいいんだね?
きちんと真実を伝える努力を始めようか。
君も見届けてくれればいい。私は、君のように嘘はつかない。
君の嘘のすべてを、明白な証拠をもって覆し、 この社会にこれ以上の混乱が生じないように、
真実を伝え始めることにするよ。
P.S.
真実は、君が最後まで投稿し続けてきた note に掲載していくことにするよ。
君も自分が言ったこと、やったことを、鏡を見るように、noteの連載を通して確認するといいよ。
「一人の仏教徒」に妨害されたとか圧力を受けたとか、ずいぶんと都合のいい非難(事実の隠蔽と責任転嫁)を続けてきた様子だけれど、
そのことで一番被害を受けたのは、誰かわかるかい?
君の言葉を信じた人たちだよ。
平気で嘘をつくというのは、人を最大限に愚弄していることに等しい。
君を最後まで信じようとする人はいるかもしれない。
だが今回ばかりは、原権利者も、メディアも、名を騙られた仏教団体も、学会も、みんなが、君の嘘を知っている。
何が真実かを決めるのは、君じゃない。社会だ。
「一人の仏教徒」として、社会が何を真実として受け止めるかを、見届けることにしよう。
君も、その場所で、見届けてくれればいい。
始めるよ――。
https://note.com/one_of_buddhists/n/n5c9b1ba26e91
もう少し様子を見よう
いくつものメディアが、この事業に関する記事を取り下げたというのは、
圧力とか妨害とか、そんな理由ではなくて(そんな理由づけが社会に通用するはずもなかろう?)、
それだけ深刻な、取り下げなくてはいけない理由があったからです。
日本国内のメディア・団体、そして海の向こうの原権利者が、どれほど重い言葉で彼に「NO」を突きつけたかを、彼は一部しか知りません。
どうやら本人は、自分は正しいことをやっていて、自分は犠牲者なのだと訴えたいらしい。
が、事実を人々が知れば、彼の言葉の本当の意味が、つまり真相が、いやでもわかるだろうと思います。
彼が語る「寄付」や「仏教」が、どういう背景(事実)があっての言葉だったか。
それを知れば、彼から聞いていた言葉の意味が、この事業に人々が感じていた意義が、すべてひっくり返ります。
知りたいと思うかもしれないけれど、ここはもう少し待とうと思います。
いつでも決定的な証拠を出すことはできるけれど、
今はまだ、彼の人間性というものを見定めている段階です。
もし彼に、自分の不誠実さを受け入れる良心があったなら、
今彼が懸命に訴えていることは、真実ではないことをみずから受け入れて、
静かに幕を閉じるはずです。
本当の仏教というのは、最後まで慈悲を貫く。
あくまで真実に立って、言葉を選ぶ。
人を責めるよりも、おのれの過ちを恐れる。
この場所があえて明かさないことには、深い配慮があるのです。
やがて、このブログを追っている人たちも、すべての真実を知ることになります。
もう少し様子を見ていてください。
2026年4月17日
仏教を盗んでしまっている君へ
仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ
最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。
むしろ君の未来のことを気にかけている。
そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?
君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど、
その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。
だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、
君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。
私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。
ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。
CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない?
そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?
そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。
彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、
今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。
人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。
誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?
こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。
君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか?
壊れないよ。君が居場所を失うだけだ。
君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。
でもそれは、最後まで控えておこうと思う。
君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。
君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?
私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。
君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。
PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。
だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。
君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。
いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。
でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。
君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。
もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、
おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。
心と体を持った人間が。
奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。
君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、
人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。
もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、
嘘をつかず、
与えられていないものを受け取らず、
まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、
その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。
そして人様からの托鉢をもってその身を養い、
一日十二時間の瞑想をし、
パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、
少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、
日々の小さな務めを果たしてみるがいい。
できるかい?
できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。
私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。
だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、
人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、
その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。
だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。
もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、
その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。
私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。
あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。
苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。
私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。
嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、
だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。
そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。
君は世界の苦しみを増やしていないか?
君は想像しないのか?
だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?
誰も君を苦しめようとなんてしていない。
苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。
君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。
そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、
私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。
伝わるかな。
伝わるまで伝え続けるよ。
草薙龍瞬
P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。
私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。
だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。
だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。
自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。
なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。
それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。
敵じゃないんだよ。
2026年4月9日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4
本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。
それは、あなたに向けても同じことだ。
私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、
ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。
あなたはわからないのか?
あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。
あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、
彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、
仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、
世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。
今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。
日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?
CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?
世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。
新聞社も、メディアも、学者の先生方も、
仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、
その点は同じだ。
あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?
どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。
そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。
世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。
そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。
あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。
仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。
だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。
あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。
あなたは、こうも伝えてきていますね
>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。
そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。
あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。
どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう?
単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、
その具体的根拠のみです。
現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、
生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。
その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。
あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。
つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、
その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、
真実は、
現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして
彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。
私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。
世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、
今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。
世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。
あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。
あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。
だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。
私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。
あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。
ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。
伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。
あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、
自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。
倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。
この問題は、それほど難しいことではないのですよ。
あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。
与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。
そういう道理を守れるかということだけです。
道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。
あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。
どう思いますか?
慈悲にもとづいて
2026年4月7日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3
この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。
彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。
(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)
ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、
無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。
この事件の本質は、
利用された側がまったく知らされなかったこと、
今回の無断使用に異議を訴えていること、
仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている
ことです。
盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。
この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。
誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。
盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。
自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、
無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。
盗んだだけだ。
盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。
「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。
仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、
自分のやっていることの非道がわからないのか?
その事業内容、
インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして
この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、
今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。
聞こえているか?
罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。
あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。
間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。
このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。
与えられていないものを受け取ってはならない。
もうしばらく時間という名の猶予はある。
2026年3月29日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2
これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。
この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。
今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。
しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。
こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。
ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。
ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。
ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:
◇◇◇◇◇◇◇
拝復
この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公
貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『
以下に、
仏教に対する理解が及ばない人間が、
そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨
彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、
拙著『反応しない練習』は、
仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、
この連絡をもって、
1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」
2026年3月下旬
追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。
『反応しない練習』海外翻訳版
『反応しない練習』KADOKAWAの海外翻訳版が出ている国々一覧
※アルファベット順
アメリカ (America / United States)
中国 (China)
フランス (France)
ドイツ (Germany)
ハンガリー (Hungary)
イタリア (Italy)
オランダ (Netherlands)
ポーランド (Poland)
ポルトガル (Portugal)
ルーマニア (Romania)
韓国 (South Korea)
スペイン (Spain)
台湾 (Taiwan)
ウクライナ (Ukraine)
イギリス (United Kingdom)
婦人公論2026年4月号に掲載
婦人公論2026年4月号
表紙:羽田美智子さん
に取材記事が掲載されています:
あなたの“心のクセ”は何タイプ?
負の感情を手放す仏教的エクササイズ
草薙龍瞬
そろそろ新しい作品を出さないと・・。
2026年3月12日
生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて
追記:
ここにお伝えする言葉は、ある深刻な事態を知ることになったからです。
生成AIによる著作物・創造物の無断利用、その規模からして”収奪”とも言える事態は、
最近になって急浮上してきた深刻な事態です。
これを放置すれば、地道に何かを作り出し、また社会に発信しようというすべての人たちが、
その努力の証である創造物を、いとも簡単に奪われ、別の誰かに利用されるという
暗澹たる社会を招いてしまいかねません。
AIというのは、使いようによって、光にもなれば陰にもなります。
前者になるのは、使う人間に”倫理”(配慮)があるときであり、
後者になるのは、使う人間に”倫理”が欠落したときです。
現時点では、まだAIを使う人間の側に倫理が確立しているとは言えません(そう思いませんか?)。
だからこそ、慎重に、AIという新しい技術がもたらす影響について、全面的に肯定するのではなく、見届けていく必要があるものと思います。
今回の出来事は、倫理が欠落した時に、AIという情報処理技術が、どのような事態をもたらすかを示す、1つのモデルケースになるかもしれません。
真実は、見る人によって変わる多面的なものではありますが、
この先ゆっくりと時間をかけて、真実を明らかにしていきますので、
どうかあなたの最も純粋な心の眼で、この件を最後まで見届けてほしいと願っています。
2026年4月17日
こちらはかなり真面目な話として――
最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。
「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。
彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。
自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、
あからさまな文化的窃盗であり、
俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、
仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。
最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。
いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。
原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか?
自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?
そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?
「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。
これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。
古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。
だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。
そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。
パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。
ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。
しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。
さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。
もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。
ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。
一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。
だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。
彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。
なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。
最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。
2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。
仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。
そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。
彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。
思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、
仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。
しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。
そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。
なんの臆面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。
そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。だが言うまでもなく、彼らに仏教を”盗む”資格などない。
いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、
自分たちに、仏教を利用し、収奪し、さらに自分たちの利益を上乗せする資格があるというのか。
問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。
彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。
首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。
だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。
つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。
正気を取り戻してもらいたい。
彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。
まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、
その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。
どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。
世の中には、やっていいことと、悪いことがある。
そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。
苦しみを知らぬ者、
自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、
仏教が利用されることはない。あってはならない。
真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。
いずれは声を挙げねばならないか。
声を挙げねば、わからぬか。
※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。
2026年3月
※追記
どうやら、真相はもっと深刻で、もっと多くの虚偽を含んでいたようです。これほどの嘘を堂々とみずからアピールしてしまうとは・・いずれ真実を知った人たちは驚くはずです。今は信じている人たちさえも。
こういうことは、なるべく早く知られるほうがよいのです。本人にとって幸いだったかもしれないことは、真相を知ったのがこの場所(私)だったということです。
世の中は、私のように優しくはないから・・見つかるのが遅ければ遅いほど、信じた人々の怒りは大きくなるものだから。
あやまちを改めるのは早いほうがいい。自覚しないよりも、自覚したほうがいい。
遅れるほどに、本人が最後に背負う罪の重石は重くなってしまう。
私はそれを望んでいない。
どうするつもりなんだろう・・。
2026年4月11日
苦悩ある人・場所にこそ
この場所は、あくまで 苦しみ(課題)を越える という目的をめざすところだから、
苦悩している人、同じ目的を共有している人や場所にこそ、関わる意味(役割)があるのではないかと思っています。
どれくらい自分自身の苦しみ・悩み・課題を自覚しているか、
(自分以外の人・物事、たとえば自分の子供のあり方についてではなくてね)
どれくらい真摯に、素直に、自分自身を見つめることができるか、つつしみを保てるか。
苦しみを越えられる可能性があることが伝わってきたときには、この場所はすぐにでも動きます。
その一方で、苦しんでいない人、悩んでいない人、自身の課題に気づいていない人や、
見ているものが自分の利益(お金や名声や自己顕示欲や承認欲の満足)にある人については、
そうした生き方・あり方はその人の自由(それも価値あること)ではあるけれど、
この場所はお役に立てない可能性が高いので、すみません(お役に立てません)とお答えすることになります。
この場所は、純粋な(というのも気恥ずかしいのだけれど真実)動機に立って、
どれだけ人・場所・世の中の苦しみや課題を越えていけるかを探っていくところだから、
その目的に特化して、それ以上に輪郭(守備範囲・対応できる範囲)を広げることを善し(価値あること)としない場所なのです。
だから、お役に立てないことが少しでも見えた(予感した)ときには、
静かに退くことにしているのです。
というのも、前提(動機)あるいは方向性(目的)にズレがある、そうした関係性について踏み込む(あえて言葉にする・説明する)ことは、
無用のストレス(相手からしたら快く思わないかもしれない)を招きかねないので、
これもあえて言葉にしないことを選ぶことにしているのです。
仏教の世界では「無記」といいます。
単純に、お役に立てません(でも言葉にすることでもありません、言葉にするところまでは行きません、そのほうがいいと理解しています)ということなのです。
これは、仏教に古来から伝わっている、守るべき戒律でもあります。
ブッダ自身が、そうした姿を保っていました。
他の意図はありません。単純に、純粋に、「この命(この場所)はお役に立てません」という意味しかありません。
そうした形で、マイナス(苦しみ)を増やさない(人さまに不快な思いをさせない、傷つけない)関係性を探ってゆくのです。
それでも、仏教の外の世界では、それぞれの期待や思いを広げる傾向にあるので、そうした思いを受けることも起こります。
そんなときにも、仏教においては、無記を保ちます。
「お役に立てません」という思いだけに立つことで、
自分の輪郭を保ち、また外の世界のさまざまな人さまの思いをも尊重する(肯定する)ことをめざしているのです。
あえて語らないことにも、仏教の世界においては、さまざまな配慮があります。思いやりという言葉に近い思いです。尊重、愛情、肯定、応援、配慮ともいえる思い・・。
この場所は限りなく小さく、研ぎ澄まされた善(価値)だけを大事にするところです。理解していただけたらと思います。
みんなそれぞれの場所で生きています。
それぞれの目的を、それぞれの価値を成就できますように。
みんなが幸せ(誰も苦しめない価値を実現すること)であることを祈念しています。
2026年3月
絶対に失敗しないコツ
『ブッダを探して』の連載終了後に、新聞社宛そして興道の里に感想のおたよりが届くようになりました。
そうかぁ、そう受け止めてくださっているんだなぁと少し新鮮に感じました。
「動く」ということが当たり前のこととして心に組み込まれているからかな、と感じました。
自分に動ける範囲で動く。思いついたことは「やってみる」。
結果的にかなり遠大な目標があるとしても、そこに飛びつくでもなく、また途中経過を人に見せたり認めてもらおうとすることなく(妄想ゾーンを広げず)、
とりあえずできることに手を着ける、ということを「やってみる」ように心ができているように感じます。
たとえば今回の連載のイラストは、「絵の勉強しよう」と思ってタブレットを買って、ちょこちょこいじってみるところからスタートして(十年ほど昔?)。
「やってみる」が重なって、結果的にできることが増えていて、
◇
これから始める活動も、たぶんそういう展開になると思います。
まずは着想から。そして今できることをやってみる。
もともと仏教講座もそうでしたが、私の場合は、生活のためとか事業の成功とかそういう動機でやっていることは一つもなくて、
「一人でも求めてくる人がいるならば」という思いでやってきたことです。
一人でも足を運んでくるなら、それだけで自分にとって価値あることになります。
社会的には無に等しくても、自分の活動が誰に見つからなくても、自分の中で価値を感じられる。
だから、「やってみる」だけで、即自分にとっては「成功」というか「達成」になってしまうのです。
よく何かを成し遂げた人が、「とにかく続けること」を秘訣として語りますが、それに近いのかもしれません。
で、やってみるときには「どうすればできるようになるのだろう?」という方法探求モードにすぐ切り替わるので、「できる」ことが増えていく。
『ブッダを探して』連載完結
人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。
それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。
この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。
その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、
地味に講座を開き続けて、
本を出すという縁にめぐまれて、
『反応しない練習』という作品が生まれました。
中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。
Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。
ひとつの締めくくり。
『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。
できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。
ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。
これも、ひとつの締めくくり。
◇
人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。
やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。
少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。
先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。
どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、
生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。
◇
私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。
これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。
締めくくって、前に進んでまいります。
2026年3月
人は思い込みの中を生きている
*十代、そしてこれから寺子屋に参加する中高生に向けて、この先、いろんな話題について書き起こしていこうと思います。
将来的には書籍にまとめたいと思っていますが、まずは日々の草稿の一部を紹介していきます。大人にとっても大事なことかもしれません:
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
外の現実と、自分のあり方を分けて考えてみよう。自分と外の現実は別物。だって、自分の心と体は、自分だけのものだから。君の友だちや周りの大人たちは、別の心と体を持っている。そもそも違うんだよ。
◇
自分と違う外の人たちに対して、どう向き合うか。そう、まずは「そういうものだと理解する」だったね。さらに掘り下げて理解してみようか。周りの人たちは――友達であれ、先生であれ、親であれ、そうした人たちが作っている世の中であれ、こんなふうに理解できる。たとえば、
①人は思い込みの中を生きている
たとえば、「勉強ができる→いい大学に行ける→いい仕事につける・周りに称賛される→社会で成功できる・有利になる」。そう思っている人がそばにいるとしよう。でも実際には、いい大学に行っても、中退したり、就職しなかったり、途中で転職したり、引きこもったり、まったく別の分野で生きている人もいる(具体例は挙げないけれど、興味があれば探してみればいい。いっぱいいるよ)。
つまりは、ひとつの図式に当てはまる人もいるかもしれないけれど、当てはまらない人も大勢いるということ。むしろ当てはまらない人のほうが多いかもしれない(たぶんこっちが正解)。
当てはまらない人のほうが多いのに、一つの図式が正しいと思っている――ということは、そう思っている人にとってはそう見えるというだけということ。それが「思い込んでいる」ということなんだ。
◇
大事なことは、そうした思い込みを通して外の世界を見るか、それとも「ひとつの思い込みに過ぎない」と理解して、「自分にとって最も自然に生きられるルートは何か」を考えることじゃないかな。
あくまで自分を軸に考えるということ。今の自分を出発点にするということ。
◇
ひとつ言えることは、思い込みは、選択肢の幅を狭くしてしまうということ。「そうに決まっている、これしかない」と思い込めば、当然、他の可能性は見えなくなる。たとえば君が「勉強ができることがいいことだ→勉強できなければいけない」と思い込めば、「勉強ができなければ意味がない→死ぬしかない!」なんて思い詰めてしまうかもしれない(実際にそう思い詰めた人もいる)。
でも、真実は違うよね。真実は、別の生き方もあるということ。勉強ができるというのは、本当にごく限られた思い込みにすぎなくて、その思い込みの外に、もっと違う生き方も、価値観もあるということ。
「(今の自分は)思い込みにとらわれていないかな?」と、自分を見つめるようにしたいと思うんだ。それができれば、もっとラクに生きられる。もっと自由になれるから。
◇
人はみんな思い込みの中で生きている。だからといって、君が他人の思い込みに合わせる必要はない。だって、彼らの思い込みは、彼らの頭の中に宿っている妄想にすぎないから。君は、彼らとはまったく別の体と心を持っているから。
君は、自分の人生を生きていくしかないんだよ。他人の思い込みにいくら合わせようとしても、君は彼らにはなれないし、なる必要はないし、ならないほうがいい。だって、人に合わせようとすればするほど、自分らしさからは遠ざかってしまうから。自分を見失ってしまうから。
◇
「自分と他人は違う」というのは、さみしく思うかもしれない。自分も人と同じようになりたいと願うかもしれないね。
だけれど、それはどうしたって無理なこと。だって、生まれた場所も、持っている体も違うから。僕らは「人と自分は違う」という真実から始めるしかないんだ。
人と自分は違うということは、さみしくも見えるかもしれないけれど、逆にいいことかもしれないんだ。だって、人に合わせず、自分を生きていけばいいのだから。
自分を軸にして、今の自分を出発点にして、自分にとっていちばん自然で楽しいと思える生き方(時間の過ごし方)を考えていくだけでいいのだから。
◇
大事なことは、「その先がある」ということ。褒められたいから頑張る――でも、それも思い込みの一つに過ぎない。
その先にある未来は、思い込みどおりにはならないかもしれないし、ならないほうがいいかもしれない。もしかしたら、褒められたい今の君とはまったく別の自分が将来にいて、その自分はまったく別の人生を生きて、まったく別の幸せを感じているかもしれないんだ。
だからこそ覚えておきたいのが、変わらない真実(普遍的に正しいこと)だ。
つまり、人それぞれに思い込みの中にいて、欲で動いているけれど、自分と彼らは別者であって、自分は自分の人生を生きていくしかないし、生きていけばいいということ。
そして、人と自分は違うのだから、結局最後は、自分がイイと思えたら――今の自分に満足できたら、納得できたら、自分を受け入れることができたなら――それでいい(それだけでいい)ということ。
誰がなんと言おうと。誰がどんな目を向けてこようと。だって彼らが見ているものは、彼らの思い込み(妄想)でしかないから。天地がひっくり返ったって、彼らは君とは違うのだから。
※大人目線と思われては困るのだけど、文体については今後検討を重ねていきます
2026年2月
思いについて
※このスレッドで紹介する文章は、幼い子供から中高生までに向けた言葉に当たります。
書籍化を予定した未公開原稿の一部ですが、たとえば、親や学校や塾の先生などが印字して、草薙龍瞬という名前をつけて、
子供に手渡したり教室に掲示してもらうことは、フリーです(個人として大切にしてもらえるのであれば、もちろん大人でも)。
よい言葉だと感じてもらえたときの話ですけれど。たとえば――
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
思いについて
そのときの気持ちにフタをする必要はないし、本当は何を話してもいいんだよ。
そのときの思いは、今の自分にとっての真実だからね。
だって、心の中にちゃんと”ある”んだから。その思いが。
もしその思いが明日も続くなら、それもやっぱり今ある思いなのだから、
君にとっては真実なんだよ。やっぱり大切な思い。
でも今日の思いが明日は変わるかもしれないし。
もし変わったとしたら、
過去の思いはもうなくなったっていうことだから、
もうこだわらなくていいし、思い出さなくていいのかもしれない。
大事なことは、今、自分の中にどんな思いがあるか、ということ。
もしその思いが、誰かと関わっていること(誰かに向けての思い)であれば、
その相手に伝えることも大事なこと。
もう少し自分の中に取っておこう、とか、
もう流してしまおう(流してあげよう)と思えるなら、流してもいいし。
もし自分 一人でその思いを抱えることが、自分にとってつらいと感じるようなら、
その思いはどこかで「選ぶ」必要があるかもしれないね。
もう少し待ってみよう、と思えることも、選ぶということ。
相手に伝えよう、と思えることも、選ぶということ。
もういいや、忘れてしまおう、と思うことも、選ぶということ。
君が今思っていることは、大事な真実。
こんな思いがあるんだ、と気づいて、
あとは、自分で選べばいいんだな、と思えることが、
もしかしたら大切なのかもしれないね。
2026年2月
Season2はいっそうの創造の年に
草薙龍瞬から
今年はクリエイション(創造)の年。活動をSeason1(2011年~2025年の15年間)以上に積極的に、ターゲットを広く、いわばブーストをかけなくてはいけないと思っています。
仏教の本質を伝えるというコア部分は、そのまま末永く継続していくとして(貫くことも大事)、
今年は関わる範囲を十代にも広げていこうという年なので、それにあわせて時間の使い方も、伝えるための方法も、工夫をしていこうと思っています。
特に、伝えるための手段については、過去は真面目に文章一徹だったのですが、もともとある創造者魂みたいなものが、今回の北海道体験ともあいまってかなり刺激されたので、
ここは心の戒律(俗世にいうメンタル・ブロックの一種)を大幅にゆるめて、
伝えられるなら、手段を問わず、やってみよう(内容も手段も)
という思いのモードになっています。
これまでは、出版社のほう(編集者の方)からお話(企画)を持ってきていただく形が主流だったのですが、待つことに特化する必然的理由はないので、
この先は、出会う人・関わる相手にあわせて、最も適した内容と方法をもって、新しいコンテンツをいわばフリーハンドで創り出していこうとも思っています。
この先お送りしていくのは、子どもたちに向けて――
生き方・学び方についての本にするのか、絵本にするのか、イラストをつけるのか、そのあたりは考えていきますが、
たとえば、『反応しない練習』や『怒る技法』の中身は、こんなふうにも表現できるという例として紹介していきます※
※書籍化を予定した未公開原稿の一部に当たります。でもたとえば、親や塾の先生などが、草薙龍瞬という名前をつけて、印字して、子供に渡したり教室に掲示してもらうことはフリーです。よい言葉だと感じてもらえればの話ですけれど。
つづく
2026年2月
そろそろ始動します
2026年の活動をそろそろ始動します。
3月の名古屋での講座は2コマとも満席だそうですので、オンライン受講のほうをご利用ください(公式カレンダー内にスクールの情報が載っています)。
草薙龍瞬
仕事を見つけたいという人へ
前提(条件設定: うまくいかない原因と正しい心の持ち方)がそろわないと、頑張ってもなかなか前に進めないものかと思います。
前提というのは、たとえば自身の性格(繰り返している反応のパターン)や動機の部分です。
性格については、親の影響(業)を正確に把握する作業が最初に来ます。そのためには、親がどういう性格か、どのような関係のパターンを繰り返してきたのかを、客観的に理解する必要があります。
(『大丈夫』の本を、まだ読んでいないようなら必ず読んでみてください)
性格は、親との影響から作られるものなので、もし今の性格が社会との接点・関係を作るうえでマイナスに働いているのなら、やはり精神的に自立する(親から適度な距離を取る)ことも検討する必要があります。
この点、親と一緒に生活しながら精神的に自立というのは、なかなか難しいものではあります。どうしても過去の延長を生きることになってしまうので。
動機についていえば、仕事というのは、こちらから条件をつけるとうまくいかないものです。
仕事はただの役割でしかないので、相手の求めに応えるだけです。体を使う作業を求められているなら、自分の体を使って役割を果たすだけです。
おそらくご自身の「努力」の中身が、仕事を見つけることに結びついていないことも少なくありません。たとえばその努力の中身が、過去の親からの期待や要求を反映したものである場合です。
たとえば資格・技能というのは、直接役割には結びつきません。本人は努力する価値があるものと思えるにもかかわらず(親の影響は、こうした場面で親の期待に応えることもできる、といった妄想を作りだすことに作用します)。
役割に結びつくものは、ほかには、なんでもやりますという意欲 あるいは 経験 というものがあります。
経験というのは、なんでもやりますという意欲によって得られるものなので、最終的に最も大事になってくるのは、なんでもやりますという意欲 ということになります。
ご自身が、意欲だけで動けているかどうか、意欲というものの上に他の雑念(条件)を載せてしまっていないか、確認してみてください。
動機が、社会においてきちんと意味を持つ時というのがあります。
本当に人生が動き出すのは、その時から ということになります。
2026年1月
インタビュー記事
朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
https://www.asahi.com/edua/article/16296115?revision=HEAD&layout=LIVE&token=92f619475228d32033e8519882bc430123273dca18e9b771b641c49ceb80feb1
学びは独立が大事~まず親が「考える」こと
※学校の宿題をタブレットでやるようになって、やる気を失ったという子供のお父さん・お母さんに向けたおたよりから抜粋:
学校に居場所がないという君へ
(あるお母さんへの返信から)
学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。
合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。
特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、
誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。
このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。
◇
となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。
なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。
将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした
自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。
価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。
結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。
いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。
残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。
その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。
幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。
学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。
他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。
妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。
それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。
もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、
他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。
磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。
大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。
仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。
◇
だから、最終的に考えるべきは、
自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使うことだろうと思うのです。
その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。
それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。
本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、
行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。
難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。
同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、
学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは
将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、
それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。
どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。
自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。
3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。
これからです。
2026年1月
心のモード・チェンジはなぜ起こる?
心はそもそも無常なもの、コロコロと変わるものです。
穏やかな時もあれば、イライラする時もある。それが心のノーマル。
大事なことは、その時々の心の状態を自覚することと、もし慢性的に続く(クセ・傾向がある)ようなら、その原因を考えることです。
たとえば、人と接することが本当は好きなはずなのに、時が変われば忌避モード(会いたくない・接したくないという気分)に変わることがあるとします。
その場合の原因は何なのか。単純に疲れている、最近嫌なことがあって引きずっている・・という比較的浅め(つまり放っておけば元に戻る)の場合もあれば、
もっと根が深くて、誰かのことが嫌い、会いたくないとずっと思っていて、でもその関係性が完全に過去になっていなくて、今なお刺激を受け続けている・・という場合もありえます。
嫌、会いたくないというのは、不快感(怒りの感情)が作動している時です。その原因は?
ただの妄想であることもあれば(つまり客観的状況には問題がない)、誰かとの関係で怒りが結生している(強く反応してその状態が続いている)こともありえます。
※「結生」というのは、私が本の中でよく使っている言葉なので、初めて聞く人は読んでみてくださいw)
最初の反応が結生すると、その反応が前提となって、次の類似の反応を引き起こします。
怒りが結生するとイライラが続いて、怒りっぽくなる。不運な出来事が記憶として結生すると、また悪いことが起こるのではないかと不安になる。「どうせ自分は」という判断が結生すると、自己否定をずっと引きずるようになる・・。
たとえば、本当は人と接することが好きなはずなのに、そいう感じない時期が長い、さらには他人の嫌な部分が目につく、みんな嫌い、世の中もイヤ、何もかもなってない!みたいな思いが強くなっていくこともあります。
いつのこと、誰のことを、忘れていないのか。冷静に振り返ることです。
もし現在進行形でその出来事・関係性が続いていない、つまりは完全に過去だというなら、その結生は妄想にあたるから、妄想を消す練習をすることになります(『反応しない練習』をどうぞ笑)。
まだ過去になっていない、その出来事・関係性が現在も続いている・・というなら、そこから抜け出すこと、距離を取ることが、必要になります。
たいていは、親との関係性が原因だったりします。しっかり続いている、続けてしまっているから、親と連絡を取ったり会ったりすることで、不快を感じ、「嫌」が結生し、その「嫌」を自分の生活・仕事に持ち込んで、周りを嫌に感じるのです。
「おかしいな、もともと仲がいいはずなのに、好きだったのに」という過去の検索はあまり意味がありません。というのは、その仲がいい・好きが、自分の思い込み(無理やりの解釈)であることもあるからです。
本当は、原因を自覚して、原因を解消して、ニュートラルな心の状態に立って初めて、相性がいいとか、好きとか、楽しいといった本当の感情が見えてくるものなのです。
原因を解消できていないと、そのうえにいろんな妄想(好き・離れてはいけない・嫌われたくない・仕事だから・家族だから・もともと私はこんな性格じゃなかった・こんな自分が嫌になるetc.)が重なっていって、自分の本心がわからなくなります。
小さなことでも嫌になる、その嫌が長く続く・・というのは、よほど「溜まっている」のです。人生のどこかで結生した「嫌」という感情が。
その原因は何なのか、しっかり見極めることです。正しく理解することが、最良の処方箋です。
ひきつづき
・・・・・・・・・・・・
出家したいという人へ
ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。
「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、
◇
過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、
過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。
あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、
自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。
仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、
そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。
(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)
◇
もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。
形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。
けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。
◇
心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。
長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。
自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。
それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。
◇
職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。
その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。
本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。
しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。
それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。
◇
<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。
他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、
サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。
心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。
お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。
実際に「やる」「なる」ことです。
本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。
そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、
人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。
◇
まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。
そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。
どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。
理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。
2026年1月
自分の足で立って生きる場所
この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。
生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、
いつでも扉を開いています。
この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、
一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。
この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、
自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。
この場所が大事にしているのは、
自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。
出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、
そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、
誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、
つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、
せめて、今の自分に何ができるかと考えて、
この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、
という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。
この先の世界、本当にどうなるかわかりません。
だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。
2026年1月




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