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ミャンマーを想う

ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。

個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。

かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。

かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。

軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。

国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。


私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。

軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、

「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。

ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。


大地震の報を聞いて想ったのは、ミャンマーの人たちは、今どんな思いの中で過ごしているのだろうということだった。

長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。

いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。

いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。

現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。

もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、

あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。

そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。

今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。

その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。

軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。

しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、

地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。

ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、

その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。

彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。


過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。

だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。

今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。

なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。

力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。

そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。

どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。

避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、

避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。


ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。


中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト


 

2025年3月末日

もうすぐ春ですね


今回は簡単な近況報告です:

*『反応しない練習』のドイツ語版、英語版は快調に進行中。カバーが送られてきましたが、ずいぶんシンプル(お見せできないのが残念)。

英語タイトルは、The Practice of Not Reacting (そのまんまやん)。

The Secret to Stress-free Life とあります。

英米では出版より半年から1年前くらいからプロモーションかけ始めるのだそうです。今回は翻訳出版権も(初の)入札をしてくださったそうで・・広く届くことを願います。

欧米の人たちにこそ「業」の話(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)を伝えたいのですが、こちらは台湾で翻訳出版が進んでいます。


*神楽坂の講座は、まだめどが立っていません。奈良の拠点づくりがひと段落つかないと予定が立てられない状況です。

でも春も近いし、一度みなさんのお顔を見られる機会を作りたいと思っています。


*早稲田エクステンション・センターのオンライン講座は、引き続き受講受付中です(専門的・学術的な話が入ってくる予定です)。


*帰国してから怒涛の日々(睡眠時間さえ削らねばならず)でしたが、大仕事がいくつか終わって、今週末は少しゆっくりできそうです。個別のやりとりもできるし、週末にはオンライン座談会もあります。
 

桜も開花し始めるそうなので、そろそろ春を迎える準備を始めたいと思います。


中日新聞・東京新聞連載 最新イラスト
(毎回、イメージに画力がまったくおいつかず自己嫌悪)


2025年3月27日



日本編、始動2

3月18日(火)
13時から講座。こちらはレギュラーの人たちが多かった。だが今日、講座申し込みをしようとしたら、すでに満席と言われた人がちらほら。10人以上がキャンセル待ちリストに入っているという。急きょ席を増やすことを検討。

かつては3人だけの受講生と2年以上も細々と続けていた時代もあったし、人が集まらず講座不成立の憂き目が続くこともあったが、状況は変わった。自分はまるで変わっていないが、他の条件が変わったのである。

講座終了後は無料面会。ここにはさまざまな事情を持った人たちが来る。そうした人たちにどんな言葉を届けるか。「まずは今日来る人たちのために(自分をいったん忘れて)」と考えるところも、この十五年間変わっていない。

考えてみれば、どの場所の講座・講演も、終わった後は深い反省と自己嫌悪に近い思いが残るのだが(あれも話せばよかった、これこそ話すべきだったという思い)、それだけ目の前の相手に応えようという真面目な動機があるからであって、その動機こそがこの生き方の生命線なのだということが見えてくる。

満足した試しはほぼ皆無なのだが、それだけどの場所においても、その時々の全力最善をめざしているということでもある。だからこそ多少は成長もしてきたのだろうし、地力が着実についてきたから、毎回教材を整えて話を準備できる。2時間なんてあまりに短い。いくらでもお伝えできることはある。

無料面会が終わって、昨日食べ損ねたジャンボおにぎりを一人食べる。このあたりの孤独ぶりも変わらない。自分を小さく素のままに保っているからこそ、いろんな人たちと向き合えるし、異なる場所でさまざまな活動ができる。これが出家という生き方なのだろう。

近くの宿で一泊。明日の打ち合わせの準備。

KADOKAWAから、イギリスでの出版が決まったと連絡が。いよいよ英語圏に進出決定。いろんなものが動きつつある。

ようやく怒涛の一週間が終わった。すっかり仕事モード。日本編の再始動だ。
 
 
 
3月23掲載予定のイラスト
(中日新聞・東京新聞日曜朝刊に連載中)



2025年3月

日本編、始動


3月16日は朝6時に出発して名古屋へ。今年最初の講座。

3月18日の講座がすぐ満席になったため臨時増設したのだが、これも満席。4月からのレギュラー講座も満席(新たな出会いが嬉しい。生きているというのは大きなこと)。新聞連載を見て、という人が多い(印象3割強)。

生きるとは○○することであって、自分とは○○に過ぎない。その当たり前の真実を妄想をもって簡単に超えてしまうから、真実が見えなくなり、人生は途端に難しいものになる。

この理解こそが、すべての命に当てはまる普遍的真理。プラス、社会内に生きる存在としての生き方がある。すなわち十歳未満は○○、十代は○○への○○、二十代は○○○○、三、四十代は○○〇〇、五十代以降は○○をテーマにするという生き方だ。

世の中、生き方をめぐる説はさまざまあるが、これも①普遍的な真実(誰にとっても当てはまる、また誰もが守らねばならないもの)と、②人それぞれに違う主観的真実(信条・価値観・個人的な意見や思想)というものがある。

人間と社会が、なかなか前に進まず、むしろ後退したり混乱したりするのは、この「誰にとっても外せない真実」と「人それぞれであっていい真実」との区別がついていないからだ。みんなが好き勝手なことを考え、その思いつきを主張して終わってしまう。政治的言論も学問的知見もジャーナリズムも、どれも同じだ。人の脳はあまり器用ではない。

だが、本当の思考というのは、「自分はこう思う」の前に、「自分がどう思うか以前に守らねば、保たねばならないもの」を先に置くものなのである。

たとえば、働きたいかどうか、どんな条件の仕事が有利かといった「自分にとって大事なこと」以前に、「働ける人間はまずは働くことだ(働くべき・働くことが原則)」というのが、誰にとっても外せない真実だ。なぜなら働かなければ、「社会が」回っていかないから。働くことが、働かない生き方に先立つ。いわば社会を支える下部構造になる。

結婚するか、子供を持つかというのも、個人の生き方であり価値観だという見方もあるが、それに先立つ真実は、子供を持てる人は子供を育てることが正解だ、なぜなら子供が生まれなければ、未来につながらない(いずれ世界が滅びる)からというのが、正しい思考だ。

「あってもいい(個人の選択にゆだねていい)」ものと、「なくてはならない(個人の選択よりも前になければならない)ものは、違うのである。前者は、なくても成り立つ。だが後者はなくては成り立たない。社会が、未来が――。

そういうものが、実は「自分」以前に必要なもの、自分を越えて価値あるものなのである。

自分より先に置くべきもの、「なくてはならないもの」とは何だろう? 生まれてから死ぬまでの人生において、自分を越えて守るべきもの。

うした優先的な価値を、自分の思惑よりも優先させる。そのことで初めて、人は迷路や混乱を抜け出し、「軸」をもって生きていけるようになる。

幸いなことに、とても明るい雰囲気でこの講座は続いている。4月以降も楽しみだ。


午前の講座終了後すぐに新幹線で大阪へ。午後はNPO団体が主催する研修会。この団体は年に6回も勉強会を開いているそうだが、今日はふだんの参加者以上に、一般の人が多かった。以前個人相談に来た婦人も、本を熱心に読んでくれている若い男性も、シニアの人たちも。バラエティに富んだ顔ぶれだった。

参加者が大阪の人だと、こちらも昔培った関西人魂が覚醒して、口がよく回る。一人でボケて、一人で突っ込むという仏教漫談ともいえるノリになってしまう。余談雑談成分60%くらい。

でもその内容は、配布した資料に書いてある真面目な情報と一致している。笑いながら聞いていたことが、ちゃんと資料の中の仏教的な智慧そのもの(表面的な言葉だけが違っていた)ということが、後でわかるようになっている。

そうした構成が、いわば一番自然に聞けるし、役にも立つ。そんなスタイルも見えてきた気がする。



2025年3月

帰還

*インド編2025レポートの掲載をスタートしました。興味ある方はどうぞ:
 

帰ってきたのは、3月第2週。羽田を出ると、電車内の広告はメジャーリーグの遠征試合について。日本は平和。車内の人は、ほぼ全員がスマホを眺めて沈黙している。

「空気」だけでも、これだけパワーの高低があるのだなと感じます。


インドの場合は、心は「人」に向かう。自分かそばにいる誰かか。話しかけるし、自分のことも話すし、なんというか臆面がない(もちろん深いところでは別の思いがあるとは思うけれど)。

日本の場合は、心は「人以外」に向いている気がする。スマホの向こう側。SNSだかネットニュースだかゲームだか。

察するに、日頃人との関係で疲れることが多いから(その疲労の半分は自分の側の過剰な気遣い、いわゆる忖度とか判断とか先回りの妄想であるような気もするけれど)、

その分、一人でいるときはスマホを眺めて、現実(人間)逃避しているように見えなくもない。


毎年思う、この国の空気の希薄さと停滞ぶり。おそらく一人一人の心が相当「混乱」している。というのも、心は一定量のエネルギーを持っていて、ちゃんと使い方を自分で選べていれば、それほど疲弊しないものだから。

心の使い方を知らない、忘れてしまった、あれこれと無駄なことを考えすぎて崩れてしまった。「自分」というものさえ、よくわからなくなった。

そういう心の混乱。さらには、心の総量(いわゆる社会の集合意識)の確実な老化。

混乱していて、老いている。としたら、そうか、こういう空気になるのかなあと無責任な妄想が湧いてきた。


老いは確実に進むから、放っておけば、この国はもっと老いていく。

幸い島国で、過去半世紀に頑張った蓄えもまだ残っているみたいだから、すぐさま老いの果てが見えるわけではないだろうけど(でもかなり見えてきてもいるのだけど)、

今日の光景が十年後、二十年後にもそのまま続いているわけではない、というか変わっているであろうことは確実、というか確実だと心しておくほうがいいように思う。

これまた幸いなことに、何千万人という人間がまだこの先半世紀はこの国を支えているだろうし、危機感に目覚め始めた人たちが声を挙げる、行動に移すということも、少しずつだけれども増えてきているようだし、

この国の人々は、まとまれば強いし、それこそメジャーリーグで無双の活躍をしている彼らのように、個のポテンシャルはすさまじく高いから、

どの時点かで「本気」になれば、なんのなんの、まだまだこの国をよみがえらせることは可能だと思える。


国を若返らせるとは、「変わることがノーマル」になること。新しいアイデア、制度、商品、サービスをどんどん形にする。多少の失敗は前進の肥しにしてしまうこと。

「こんな新しいモノが出た」
「こんな法制度ができた(ただし改悪ではなく人々の心が明るくなるような法律・制度・システム)」

ということが頻繁に起こって、「なんだか世の中変わってきたな、前に進みつつあるな」とみんなが思えること。

変わることをノーマルにすることは、人々が真剣に願えば、それほど難しいことではないような気がする。

ここでも、変わることを嫌がる負の力が邪魔するものなのだけれど。その一例が、老いであり、怠惰であり、無気力であり、保身であり、自己疎外(自分の価値を信じられない心性)。

今のところ、後者の負の力のほうが幅を利かせている。停滞が30年以上も続いて慣れてしまっているところもある。

どこかで国の若返りが始まってくれたら・・と思う。
 

ということを、帰国早々考えてしまう。なぜかこの国に来ると、私は途端に母性・父性?に目覚めてしまう。大丈夫? 元気にしてる?みたいな。


16日から18日に講座が3コマ続くので、その教材を仕上げて、連載用のイラスト描いて、〇〇やって(←今この段階笑)、〇〇行って拠点づくりの打ち合わせ(細部選びがこれまたたいへん)、サラとの再会(引き取り)と続く。


一週間近く経ってすっかりモードが変わってしまいました。「出家の夏休み」はおしまい。終わってしまった・・。


挨拶遅れましたが、戻って参りました。

本年もよろしくお願いいたします。

草薙龍瞬




2025年3月中旬

メディアの方々へ

(あるネットメディアへの返信として)


私は、有名になることは望んでおりません。

全ての仕事(出版・出演)について、”人間の幸福にどれだけ貢献できるか?”を応諾の判断基準としています。

この世界が明日も続く保証はありません。

この世界がいつ滅びるかわからない危うい状況にあります。

そうした状況への危機感と、人間としての正しい生き方を伝えることが、出家である私の役割となります。

メディアへの出演・露出には慎重でありたいと思っております。

仏教は、世俗の価値観とは一線を画しております。

皆様も、営利中心のビジネスとしてではなく、”世界の幸福の総量を増やす”という大きな使命のもとにご活動ください。

その場合は協力できる可能性がございます。

草薙龍瞬謹白

 

 
動機(大きな方向性)を共有できるかどうか。

よき世界を作るために、自分の手が届く範囲で真剣になれるかどうか

真剣でありたいと願っています



2024年3月上旬



新聞連載も佳境入り


『ブッダを探して』(中日新聞・東京新聞連載中)は、ミャンマー編もいよいよ佳境。

「草木も生えない失望」に直面する局面に入ります。

私は敵を作ることが嫌で俗世から離れたのですが、この世はそもそも人の数だけ真実があり、誰もが自分にとっての真実に執着したがるものなので、

その中で自分にとっての真実を語れば、どうしたって対立が生まれてしまいます。そのことがすごく悲しいのです。

それが嫌なら、何も語らないほうがいい。目立たないほうがいい。メディアへの露出やSNSの利用を敬遠してきたことと、理由は共通しています。

単純に望んでいない。幸せが増えることだけを願っていたい。

ならば自分にできることだけを、極力小さく、伝わる人にだけ伝えていく。それが理想だと今も思っているのですが、

その一方で、真実が掘り起こされないままだからこそ、見えない人、気づけない人、道に迷う人、苦しみ続ける人も、たくさんいるわけで・・(とはいえ、こうした思いもまた正しさへの執着になってしまう危険があって、その危険を恐れることが出家の流儀=戒律なのですが)。


痛みが生じかねないことに配慮し、ためらいながらも、自分にとっての真実を語るしかない。そんな場面も今後増えてくる気がします。

新聞連載一つにもこれだけ細心の注意を払う・・・もともと出家は世俗にはなじまないのです。

そんな個人的なためらいを抱えつつ、

心の眼に映るすべてのものを昇華・洗練させて、

世に伝わる普遍的な価値を創り出していく――。


そんなテーマを抱えて、2025年の春に入ります。


  
3月2日(?)掲載予定の『ブッダを探して』イラスト
どんな話題かは紙面でご確認ください
 
 


春からの予定


こんにちは、草薙龍瞬です。

3月16日の名古屋1日講座から、今年の活動をスタートします(※3月の講座はすべて満席となっています)。

4月以降は未定。東京にいるのか、新拠点に移っているのかもわかりません。

仏教講座をどうするか。4月以降月イチのペースでやるか。でもまだ施設が整っていない可能性が高い。オンラインでやっていく?

連休を利用して講座と坐禅会のセットを開催したい。ゴールデンウイーク、夏&秋の連休、年末年始(10連休でしたっけ・・日本経済は大丈夫なのかと別の心配もありますがw)。ただ、宿泊場所を確保せねばならず。

子供たちの寺子屋活動、明日(未来)を育てるプロジェクト、本の執筆・・と大事な作業も入ってきます。

いろんな皿をどのように、どの順序で回していくか。決めていくのは、すべてこれからです。

興道の里も新章突入。どんな絵を描いていくか。とりあえず現地で生活を始めて(猫のサラも一緒)、構想を練ろうと思っています。

今年の活動内容が固まったら、お知らせしますね。

 


 

 2025年2月下旬

 



春の講座スタート

受付開始しました 2025年2月4日から

下記講座はすべて満席となりました  2025.3.1


大阪研修会「こころを整える練習」
~クリアな心で仕事に励むスキルを実体験

3月16日 (日)14:30~17:30
 

<内容> 現代には、心をめぐる問題が数多く存在します。日頃のストレス、コミュニケーション不全、蔓延するスマホ依存、先行きへの不安や孤独など。必要なのは「正しい心の使い方」。過剰に反応せず、ストレスを溜めこまず、クリアな心で日々を生きるには? さまざまな世間の話題も取り上げながら、筋の通った考え方(解決の手順)と、心を洗う実践メニューを紹介します。

<会場> 大阪市中央公会堂 第4会議室(地下1階)大阪市北区中之島1丁目1番27号

 

大阪公開講座 生き方として学ぶ仏教全4回

人は誰もが、後悔や不安、「これでいいのか」という迷いを抱えているもの。そうした問いを解決してくれるのが仏教です。この講座では、宗教としてではなく、毎日の暮らしに役立つ「生き方」として仏教を学びます。「わが人生、これでヨシ!」と納得したい人は、ご参加ください。

◆4月16日(水)仏教入門~なぜ人は満たされないのか(人生の目的とは)
◆5月21日(水)明日をどう生きていく?~やり残した宿題を片付ける 
◆6月18日(水)心をスッキリ整える~坐禅体験と健康な毎日の過ごし方 
◆7月16日(水)明るい人生の卒業に向かって~正しい見送り方・旅立ち方

受講料(教材含む)全4回 一般4800円
第3水曜日 午後2時30分から午後4時まで 講座後に無料の個別相談あり    
会場 認定NPO法人 岸和田健老大学

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 

お申込み 一般の方はE-mailにて 

①お名前 

②自己紹介(職業・近況等をお顔が見える程度に詳しく) 

③臨時連絡先(携帯番号) 

を koudounosato@gmail.com まで。追って主催者からメールで案内をお送りします。


※ご参加いただける方のみへのご連絡となります。満席などご参加いただけない場合は案内をお送りしておりません(その場合は連絡内容を消去する形で対応しています)。あらかじめご了承ください。    


    

全国の公務員のみなさんへのエールを込めて

 

全国の公務員のみなさんへのエールを込めて、

昨年末にWEB講演をさせていただきました。関連する記事の掲載も。

日本を支えてくださっている公務員の皆さんに敬意と感謝を捧げます^^

 

ジチタイワークス増刊号(2025年1月27日発行)
記事の詳細は、以下のバナーもしくは、
URLをクリックしてご覧ください。


このブログの目的(世にあって世に染まらず)

 

この公式ブログは、更新を楽しみにしている人も多いらしく、週に一度くらいの頻度で更新するようにしています。

わざわざ公式ブログを見にくる人というのは、それだけのモチベーション・関心があるということ(と受け止めています。暇つぶしに覗きにくる人もいるかもしれないけれど笑)。


ここに掲載しているのは、日頃のやりとり(主に講座参加者や読者さん)で出てきた言葉の一節です。


この場所は、自分が話したいことを話す場所ではありません。

抑制的に、真実かつ有益であること、人の幸せにつながる価値ある言葉であることを心がけています。(本も、公式ブログも)

(ただ、堅苦しくならないように、カジュアルな(?)話題も交えるように心がけてはいますが・・それが一番出てくるのが教室です。なるべく多くものを持って帰ってもらおう、喜んでもらおうと、つい余談・脱線してしまいます)

 

ここは、なるべく見つからないように、小さく、地味に、ごく限られた人たちとの関係だけで細々とやっていこうという、世にあって世に染まらずを地で行っている場所です。

 

 


『人生をスッキリ整えるノート』の裏表紙
(地道がいちばんです)


 

 


2025年春の講座ラインアップ

2025年春の講座ラインアップ:


生きるとは、自分が幸福・納得にたどり着く”可能性”そのものです。

人生には、今の自分に見える以上のはるかな可能性が広がっている(ほんとです)。

可能性を広げるための学びを、この春、始めようではないですか――

 

2025年3月16日(日)

10:00~12:00
大人になった私たちは今どう生きるべきか

名古屋・栄中日文化センター
 
何歳になっても悩みはつきものだし、世の中、首をかしげるおかしなことばかり。自分はどう生きればいいか。家の問題、子や孫に残せるもの、やがて来る「人生の卒業式」に準備すべきことは・・? 
さまざまな話題をもとに「歳を重ねるほど、幸せが増える生き方」を一緒に考えます。健康法や先人の生き方など最新情報をまとめた特別教材つき。
 
受講費 3300円(税/教材費込み)
*質問を事前募集します。聞いてみたいことがある人は紙に書いてセンター受付まで(任意)。
お問い合わせ・受講申し込み(オンライン受講可):栄中日文化センター0120 - 53 - 8164


2025年3月16日(日)
14:30~17:30 
「こころを整える練習」 ~クリアな心で仕事に励むスキルを実体験
大阪・大阪市中央公会堂

現代には、心をめぐる問題が数多く存在します。日頃のストレス、コミュニケーション不全、蔓延するスマホ依存、先行きへの不安や孤独など。必要なのは「正しい心の使い方」。過剰に反応せず、ストレスを溜めこまず、クリアな心で日々を生きるには? さまざまな世間の話題も取り上げながら、筋の通った考え方(解決の手順)と、心を洗う実践(瞑想法)を紹介します。
 
<受講方法> 下記の必要事項をEメールでご連絡ください。koudounosato@gmail.com 2月28日(金)まで。折り返し案内をお送りします。
①氏名(フリガナ) ②郵便番号、住所、電話番号、メールアドレス ③自己紹介(ご職業・日頃の活動等) ※宗教・精神世界・マインドフルネス・心理学などの分野で指導・情報発信している方はご参加いただけません。ご了承ください。


2025年4月15日(火)から
毎月第3火曜/4月から12月までのレギュラー講座
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」
名古屋・栄中日文化センター
 
人生をめぐる悩みに「そろそろ答えを見つけたい」人のための仏教講座。堅苦しい話は一切なく、聞いてわかる・すぐに使える「生き方・考え方」として学びます。テーマは「ブッダの生き方~古代インド編」――ブッダの生涯をたどりつつ、自分の人生を振り返り「人生これでヨシ」という納得の境地をめざします。原始仏典を編纂したオリジナル教材を使用。
 
※オンライン受講は興道の里への事前登録が必要です。

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
 https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html


2025年4月16日から毎月第3水・全4回
14:30~16:00
大阪・市民公開講座  生き方として学ぶ仏教・全4回
 
人は誰もが、後悔や不安、「これでいいのか」という迷いを抱えているもの。そうした問いを解決してくれるのが仏教です。この講座では、宗教としてではなく、毎日の暮らしに役立つ「生き方」として仏教を学びます。「わが人生、これでヨシ!」と納得したい人は、ぜひご参加ください。
 
◆4月16日(水)仏教入門~なぜ人は満たされないのか(人生の目的とは)◆5月21日(水)明日をどう生きていく?~やり残した宿題を片付ける ◆6月18日(水)心をスッキリ整える~坐禅体験と健康な毎日の過ごし方 ◆7月16日(水)明るい人生の卒業に向かって~正しい見送り方・旅立ち方
 
会場 NPO法人岸和田健老大学
〒596-0076 大阪府岸和田市野田町1丁目12−7
 
どなたでも受講できます。一般市民の方歓迎
受講料(教材含む)全4回 一般4800円
第3水曜日 午後2時30分から午後4時まで 講座後に無料の個別相談あり    
申込開始 2025年2月4日(火)から 一般の方はE-mailにて ①お名前 ②ご住所 ③電話番号 を大学事務局にお知らせください。kouza@tvk.zaq.ne.jp 折り返し案内メールをお送りいたします。

お問い合せ先 認定NPO法人 岸和田健老大学事務局 Tel 072-431-1575 



興道の里・今年の抱負


新春のご挨拶第2弾は、興道の里の今年の抱負:

まずはインド出張。その後は、新刊の原稿書き。十代向けの学び方・生き方をまとめた本。

講座は3月16日&18日の名古屋での特別講座からスタート。

『ブッダを探して』の新聞連載は8月一杯か、2025年度内か。

レギュラーでやってきた仏教講座をどうするか。月に1回のペースでオンラインでやるか、夏までいったん休止とするか。

というのも、年の前半は本2冊を書き上げねばならず(ただでさえ遅れ気味で迷惑をかけているのでケリをつけなければ)、

新たな拠点の完成が7月頃。場所を変えて心機一転スタートするという形もありかと思っています(月に一度オンラインでいいからやってほしいという声があれば考えます^^)。

これまでは手広くやってきたけれども、そろそろ時間という有限のリソースを重点的に使うことも考えないといけない時期なのかもしれません。

子供たち向けの未来を育てるプロジェクト(やってみないと何ができるかわからない)。

本の執筆(未来に遺せる財産として)

そして、仏教講座。

この3点が活動のマックスかと。


悩ましいのは、どこまでの範囲に向けて発信するか。動画、SNS・・だけれど正直、そうした媒体を通して触れてもらったところで、遊びや暇つぶし、いわば消費コンテンツとしての位置づけを超えられるとは思えず。

学びを得るには、やはり相応の環境設定が大事。

自室でテレビの旅番組をながめたって、旅の醍醐味は味わえない。足を運んで、五官で感じることで、本物の旅になる。

学びも同じ。日常に浸かったままでは得られない学びというものがあるはず。

広く知ってもらうとか、ラクに学んでもらうといった便宜におもねる(媚びる)のではなく、少し敷居を高くして、

学びたい人はしっかり足を運んでもらって、リアルな体験として学んでもらう。この場所はやはり道場。エンタメじゃない。

そのうえ今のSNSや動画などの環境は、コンテンツがあまりに雑然としすぎていて、見るだけで精神的な負荷(無秩序ゆえのストレス)が溜まる構造になっている。

この構造は変わらないのかもしれないけれど、だとしたらあえて乗じることなく、まったく別の場所・別の形で、別の可能性を作っていくというのも、

ひとつの見識であり、良心的な選択といっていい気がする。

見つからなくていい、目立たなくていい。

志ある人が、偶然でも必然でもどんな形でもいいから、この場所を見つけてもらって、まずは連絡してもらって、足を運んでもらって、きちんとリアルな関係性を育てていく。

そうした関係性で生まれてくるものを選りすぐって、未来につながるものを残すようにすればいいんじゃないかな。

ということは、この先は、この場所で学んでゆく人たちと一緒に、「未来に何を遺すか」というテーマにチャレンジするということ。

その挑戦を始めるのが、新しい拠点ということになりそうです。


日本に帰ってきて十余年。作品が広く世に届いた、受け取ってもらえたということが、出家人生における第一の奇跡。

そして興道の里というイメージが、いよいよ具体的な形に結実して、新たなステージに入る今年は、第二の奇跡。

人の幸せ、社会の前進を真面目に願うという性格が、仏教という智慧を得ることで、社会的な価値を持つに至ったことが、第三の奇跡。

かつては「いいかげん大人になりなさい」とかさんざん言われた時代もあったけれど(笑)、その頃とまったく同じ思いが、今は、誰にも文句を言わせない(言ってもらってもいいけれど笑)形で、くっきりはっきりと姿を現しつつある。

捨てなくて(あきらめなくて)よかった・・というのが、今の実感。

予想もつかなかった未来に突入している。まさかこんな生き方があったとは。


まだまだ奇跡の途中。


みんなが幸せに生きられる可能性を願って、まじめに歩んでいくので、

この場所を偶然見つけてくださった人たちは、引き続き、静かに見守っていてくださいね。


 

2025・1・3

 

 

 

 

心の若さを保つ秘訣

 心の若さを保つ秘訣


年配の作家の文章を読むと、ある傾向が出てきていることに気づく。

それは、自分のこと(身辺雑記)だけ語って満足しているらしいという傾向。

こんなものを食べたとか、どこに行ったとか、友人に会ったとか。ほとんど日記のノリ。

私生活を記録することは価値ある営みではあるけれど、プロの作家たる人が、一般の人と変わらない、自分の周りにこんなことがありました・・的な記述だけで終わってしまうのは、あまりいい傾向とは思えない。

おそらく脳(思考力)が委縮して、自分以外のことを考えにくくなっているのかもしれない。

そりゃ自分がこれやった、あれやった、こう考えたということだけ独り言のように語ることは、ラクではある。でも、その話題が、聞く側にとって価値がある(聞きたいと思う)かどうか)は別の話。

いつの間にか自分のことだけ・・・というのは、物書きとしては老化の象徴かもしれないと思う。


この点、仏教は、「自分のことはさて置いて」という発想を取る。自分のことは後回し。自分について語る時は、「ちなみに」「私事にすぎないけれど」という枕詞をつける。

これは過剰になると自意識の裏返しになりかねないので、塩梅(割合)が大事になるのだけれど、そういうバランスを取ろうという意識も含めて、心(脳)の若さを保つことにつながっている気がする。

自分のことはさておいて、まずは相手のこと、人のこと、世の中のこと、未来のこと・・それを考えることで、思考の量が増える。

(考えてみたら、SNSで自分のことばかり語ることは、老化を早めているのかもしれない。自分、自分、自分・・・妄想の垂れ流し。価値ある言葉かを厳密に吟味せずに独り言。頭を使っているとは言えないのかもしれない)

本を書くときも、書き出しは、一般的な話題や、共感できるテーマ設定から。これはけっこうしんどい(脳に負荷がかかる)。だがこれをやらないと、文章の一般性(共感可能性)が落ちてしまう。脳も劣化する。

「私の場合は」から書き出せるのは、私小説とか随筆とか。これはすごくラク。『ブッダを探して』は、自分のことを書けばいいからすごくラク(笑)。

だが、この種の文体に慣れてしまうと、脳の老化が早まってしまうだろうと思う。あくまで人さまのことを第一に考え、自分については冷静に(冷徹に)見るというのは、かなりの思考を必要とする。おのずと脳を鍛えることになる。

それでも「自分のことを語りたい」という誘惑は、心(脳)につねに働いているものだ。こうした怠惰(無思考)への誘惑をつねに自覚している必要がある。

自覚が利かなくなった時が、ボケ(老化)の本格的な始まりだ。逆らわねば、と思う。

「自分のことはさて置いて」――この点でも、やはり目を閉じて己を見つめる時間が利く。

心の若さを保つ秘訣は、こんなところにもある。

 

今年の年越しも、しっかり己を見つめる静寂の中で迎えよう。 


 

2024・12・31



コスモスの下には・・(『海に眠るダイヤモンド』感想)


&Premium(マガジンハウス)という写真誌(2025年2月号)が映画特集。

「愛について考える映画」コーナー、草薙龍瞬も一本語らせていただきました。

20代の頃は、年間200~300本くらい見る映画好き。TVドラマにもどっぷり浸かって、脚本のセリフを分析するくらいのマニアぶり(笑)。
 
「愛について」いろんな映画を思い出してみましたが、今回はクリスマス・シーズンに出る号ということを受けて、「あの」作品を選んでみました。


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味のある映画は、今も昔もそれなりに出ている気はするけれど、秀作は、それこそ半世紀以上さかのぼっても発掘できるし、発掘すべき。優れた映画は陳腐化していないから。

出家してからはほとんど映画を見なくなったけれど、、、今回、久々に映画脳をくすぐられた感じ。編集者さん曰く「いろいろ(映画)見てそう」と直感で思ってくださったのだそうです。


ちなみに、最近最終回を迎えた『海に眠るダイヤモンド』(TBS)。

時空をまたがるあの壮大な世界観は好きだし、見どころがたしかに多い名作だと思うけれど、多くの人が語っているような美しい物語として終わっているかは、個人的には正直疑問でした(笑)。

だって、あの草笛リナ・・・鉄平が行方不明になった原因を一番知っている、自分が語らねば誰もわからないままで終わってしまうことを十分理解している最大の当事者なのに、

何もしなかった!!!--

のだから。恐ろしい。


自分を守り、子供(誠)をかばった鉄平が、殺される危険を引き受けて必死で逃げまくっていることを、誰よりも理解していながら、

何もせず、語らず、動かず、遺書さえ書かずに、ただ死んでいったというのは、サイコパス以外の何物でもないのでは?

鉄平は巻き込まれただけ・・・まっとうな人間ならば胸を痛めて、なんとか事態を収束させねばと、時機を見て真相を語り、鉄平を救うために動き回るであろうに、この女性は何もしなかった。

この女性のために何人が不幸になった?(端島に来る前を含めて)。恐ろしいのは、そうした点について、すべて未精算のまま、自分の都合だけで人生を終えたこと。

(朝子が東京で活躍している姿を新聞などで見てました・・・とリナの息子である誠は語っていたが、そういう話ではあるまい)。


あのドラマは、3姉妹物語的な女子グループのキラキラに(脚本家・演出家・プロデューサーさんの)目が取られてしまった印象がなくもありません。

女子3人はキラキラ、キャピキャピ(それぞれに苦労や切なさはあるのだけれど、彼女たちの人生を大きく肯定するという世界観は一貫している)。

他方、鉄平は、サイコパスかもしれないリナをかばい、誠を守るために、人殺しの罪を背負って、ひたすら逃げ続け、結局、最後まで、真相を知られることなく、端島時代の仲間や友人たちとよりを戻せないまま死んでしまうという・・。

鉄平の日記が謎を解くカギだみたいな位置づけ・演出をされていたけれども、リナが真相を明かせば一発で謎は氷塊したはず。そんなに難しい話じゃない。

リナが原因で、鉄平も、賢将も百合子も母親のハルさんも、鉄平はリナと駆け落ちした!!みたいなとんでもない誤解を晴らせないまま、バラバラになって死んでいった。

リナの言動には、自分さえ助かればいいという潜在意識が透けて見える気がして――。

いや、恐ろしい女です(笑)。と言ってはいけないでしょうか。


しかも残念にしてこれまた恐ろしいといえなくもないのは、朝子、百合子、賢将らが曲がりなりにも持つことができた幸せな家族物語から、鉄平一人を締め出して死なせておいて、コスモス畑で「美化」して終わらせたこと。

あれはね・・・美しく見えて美しくない。制作陣がほぼ全員女性だからやってしまえた終わらせ方・演出の仕方じゃなかったかな。そんな気にもなりました(笑)。

すごく残酷で利己的な(都合が良すぎる)終わらせ方なのに、表面的には美しく見せてしまう。そういう怖さが、あのきれいなコスモス畑の映像に透けて見える気がしなくもありませんでした。


桜の樹の下には屍体が埋まっているとは、梶井基次郎の言葉。

コスモスの下には鉄平が埋まっている――。

誰が埋めたかといえば、劇中人物では第一に草笛リナ。大きく見れば、制作陣・・と考えるのは、うがちすぎ?
 
あれほどに輝いていた登場人物たちを、朝子を除いて、みんな簡単に死なせてしまった。最終回に至って、地滑り的に登場人物たちが実在感を失った。現代につなぐという設定のためだけに?

もし本当に登場人物たちが心を持った人間ならば(それだけの実在感があったならば)、あれだけ長い歳月にわたって鉄平一人を置き去りにはできないんじゃないかな? 絶対に動くはず。賢将、朝子、誠・・みんながみんな鉄平一人を放置したというのは、あまりに不自然。

 

物語というのは恐いもので、作る側の目線というか立場というか、無自覚の内に選んでしまっている立ち位置が、つい露わになってしまう。
 
あのドラマの「救いがない」(救いがあったように見せかけて、実は救われていない・・)結末は「必然」ではなく、作り手側の無自覚の「意図」が出てしまったような気がしてなりません。
 
あのラストに必然的な理由や切実なメッセージがあったわけでなく(それまではイキイキと響いていた言葉が、最終回は上滑りで空疎に聞こえた。登場人物の心とセリフとがつながっていない不自然さが残りました)。
 
謎解きを最後まで残そうとすれば、あの展開が一番都合が良かったのでは・・そんな印象が残ります。
 
鉄平は、あえてコスモス畑に孤独のうちに「埋められた」のだというのが、一視聴者としての感想です。あのドラマ・世界を貫く最も大事な存在であるはずなのに、添え物として最後は打ち棄てられた。
 
それを愛と呼んでは(見せかけては)いけない気がします。
 
 
あくまで個人の感想、いえ邪推です(笑)。ごめんなさいね。


なんでTVドラマ一つにあえてここまで語ってみたか。作り手には、物語とそこに出てくる人物たち、さらに受け取る側(視聴者)への責任があると思うからです。
 
結局最後に何が残るか、伝わるか。そのことで物語は生きもするし、死にもする。物語は、本当の意味で生かさねばならないと思います。ドラマも、映画も、小説も。つまりそれは、登場人物を実在する人間として最後まで敬意をもって扱うということ。
 
そのためには登場人物を最後まで生かさないと。生きてもらわないと(簡単に死なせて終わりにしてはいけないという意味です)。みんな、心を持った生きた人たちであったはずなのだから(それくらいに端島のみんなが輝いていたことが、あのドラマの最高の魅力だったのに)。
 
 
作り手の偏(かたよ)りが前面に出て終わってしまう作品を、たまに見かけます。後味の苦い結末。
 
そんなとき、「成仏」しきれなかった物語のポテンシャル(未発揮のまま消えていった価値)を感じて、残念に思ってしまうのです・・。
 
 
(それでも全編に情熱溢れる見ごたえのある作品でした。俳優さんたちの演技がとにかくすごい。リナ役の女優さんも。プロの役者さんはとにかくすごい!)
 
 
 

2024年12月下旬