夏の日本全国行脚、まもなく告知します。
6月21日(日)東京で個人相談会を開催します。
相談ご希望の方は、公式カレンダーの告知をご覧のうえでご連絡ください。
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
5月1日は、静岡島田の看護専門学校で講演会。
ほぼ全員が看護師国家試験に合格し続けている、かなり教育力の高い学校。
3学年120名の看護学生さんと先生方十数名。質問も続いて熱心に聞いてくださった様子。
仏教と看護は親和性が高いように思う。「人のため」という思いから始まっている気がする。
ただ明らかに仏教のほうが「人のため」からは遠いような気もする。自分のため、自己満足のため。仏教と言いつつ、パフォーマンスでしかない。
そういう形だけの仏教(仏教もどきと言ってもいいかもしれない)が蔓延しているといえなくもない現状に対して、看護の仕事には嘘がない。「ケア」が看護という仕事の本質だからだ。
看護の世界に生きている人たちは、いろんな悩みを抱えながらも、やっぱり誠実なお人柄が多い。話をしていて、安堵する自分がいる。どこか懐かしい感じもする。
看護が滅びる時は、人類が滅びる時。世界を支える偉大な仕事。
みんな頑張ってほしいと心から思う。
『反応しない練習』を図書室用に進呈させてもらった。この先はもっとこうした出会いを増やしたいとも思う。エールを届けたい。
また会えたらと思います。緑茶と黒大奴(くろやっこ)がおいしゅうございましたw。
2026年5月1日
こんなおたよりをいただきました:
(先日のブログについて)
「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。
ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。
たとえばこう表現してみましょうか:
仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。
私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、
社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。
「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。
形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。
歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。
ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。
こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。
もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。
ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、
外の世界はつねに変わり続けている。
生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。
ということです。
「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。
新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。
こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり
外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。
それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。
正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。
正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。
私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。
外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。
そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。
その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。
だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。
そういう生き方をしていこうということです。
つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。
伝わりますでしょうか笑。
第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。
栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。
寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。
栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、
「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。
政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。
こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?
いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。
2026年4月下旬
彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、
今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。
人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。
誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?
だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。
君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。
いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。
でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。
君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。
君は想像しないのか?
だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?
誰も君を苦しめようとなんてしていない。
苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。
君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。
そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、
私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。
伝わるかな。
伝わるまで伝え続けるよ。
草薙龍瞬
P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。
私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。
だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。
だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。
自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。
なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。
それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。
敵じゃないんだよ。
2026年4月9日
人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。
それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。
この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。
その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、
地味に講座を開き続けて、
本を出すという縁にめぐまれて、
『反応しない練習』という作品が生まれました。
中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。
Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。
ひとつの締めくくり。
『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。
できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。
ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。
これも、ひとつの締めくくり。
◇
人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。
やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。
少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。
先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。
どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、
生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。
◇
私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。
これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。
締めくくって、前に進んでまいります。
2026年3月
2026年の活動をそろそろ始動します。
3月の名古屋での講座は2コマとも満席だそうですので、オンライン受講のほうをご利用ください(公式カレンダー内にスクールの情報が載っています)。
草薙龍瞬
この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。
生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、
いつでも扉を開いています。
この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、
一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。
この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、
自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。
この場所が大事にしているのは、
自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。
出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、
そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、
誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、
つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、
せめて、今の自分に何ができるかと考えて、
この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、
という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。
この先の世界、本当にどうなるかわかりません。
だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。
2026年1月
いよいよ2025年も師走に突入。
来年の展望は、改めてお知らせしますが、大まかな方針を言葉にしてみると、
子供たち向けの寺子屋活動を軸にして教育系の本を書いていくとか、
講座をペースメーカーにして仏教研究(原始仏典のアップデート)を進めるとか、
子供向けに漫画で仏教や生き方を解説するとか、
絵本を描くとか?
いずれにせよ、生産性をもっと上げないと。しかも新しい方向性に向けて。
◇
そもそもこの場所は、自我や欲望の真逆を突き進もうという変わった場所。
ときおり、オンライン・サロンを開きませんか的な提案や、露出を促すWEBメディアからお声をいただくのですが(とてもありがたいことだと思ってはおりますが=人=)、
そうした場所をのぞいてみると、顔、顔、顔、顔、顔・・・みんな晴れやかでにこやかで、ワタシ頑張ってます(キラキラ☆)感全開で・・
ああ、それだけで気疲れしてしまいます(笑)。
今の時代は、SNSも含めて、どこも「見て見て」意識で作られていて、そうした自意識がお金になっていて。
自意識からの自由をめざすこの場所とは、根底にある価値観にズレがあるような気がします。
この場所は日陰が好き。裏道が好き。石の下にうじゃうじゃと身を寄せるダンゴ虫的な世界を好むのです(笑)。
この場所は、時代からも、世間からも遊離した場所。
「入った途端に違う世界を感じる」ような、それくらいの場所をめざしてもよいのかもしれません。
この世にあって、この世を越えた場所、
この世にあって、この世に見つからない場所。
寺子屋の跡地を尋ねて昔を想うように、
「昔はこんな場所もあったのかもしれないね~~」的に遠い目をして想像してもらえるような、
今の時代にあって稀有な、ある意味実在感のない不思議な、人里から遊離したような場所であってくれたらとも思います。
2025年12月
<おしらせ>
11月1日(土)18:00~21:30
座禅会
11月2日(日)18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
*詳しくは公式カレンダーをご覧ください。
*東京での講座は年内最後となる可能性があります。
◇◇◇◇◇◇
東京も急に寒くなりました。
サラ(猫)の家も冬仕様に(ボックス内に毛布を敷く。今年は素直に入ってくれました)。私も冬物を取り出しました。
そろそろ新しいものを買っていいかなと少し探しましたが、安いものは、ぜんぶ売り切れ。後はお金持ち、あるいは服にお金をかけていい人向けの、出家目線からすると見上げてしまうような値段の代物。
とはいえ実際の額を言えば、全然高くなくて笑われてしまうかも。
この貧乏性というかしみったれ根性は、育ちのせい。
考えてみたら、十代も貧乏。二十代も貧乏。三十代も貧乏(というか出家してからは無収入)。
四十代で日本に帰ってきて、貯金通帳見たら2万円しか残っておらず、転がり込んだ部屋に、段ボール箱で机作って、魚屋でもらった発泡スチロール箱に百均で買った氷入れて簡易冷蔵庫にして(冬は窓の外に吊るせば足りた。自然冷蔵庫w)。
当時の私に同情してくれたのか、ある人がチャージ入りのSuica(交通IC)をくださった。改札通るのもドキドキ(いよいよ妄想ワールドに突入した気がした)。
冬に毛糸の帽子をくれた人もいた。おおお!(あたたかくて感動)
冷蔵庫をくれた人もいた。これで夏もひと安心。
電子レンジをくれた人もいた。冷たかったものがチンすれば湯気を立てる。マジック(魔法)!
2度目か3度目かの冬に、灯油ストーブを買った。寒い冬の朝に「ボッ」と火がつくあの感動。
安いトースターを買った(安売りで2000円だったトースターを奮発)。みるみるこんがり焼けていく姿に感動(なぜか縄文時代の暮らしを連想した。それだけ感動したということらしい)。
一番ドキドキしたのは、百均でゼムクリップを買った時。どうせ全部使わない。なのに買う? 百円がものすごく贅沢に感じる・・「許される? 許されない? 許されるよね?」と自問自答してようやく購入。
いくつかのこんな鮮明な感動が記憶に残っています。いや、よく生き延びた――。
※ちなみに、なぜそこまで??と思われるかもしれない半生については、ただいま連載中の『ブッダを探して』で少し触れていく予定です(来年2月連載終了)。
貧乏性のDNAは入れ替わるわけではないので、この先も貧乏性で生きていくことになると思います。
なので、冬服も同じものを。まだまだ使えそう。どうせ春になるし。
「どうせ春になるし」は、冬を凌ぐための出家のキラーワード。2年前に札幌に行った時に、東京と違ってずいぶん寒く、古着屋に行ったら冬物ジャケットが1500円。
500円なら、あるいは1000円までだったら買っていたかもしれない・・でも1500円というビミョーな値段。こういう「ガラスの天井」が多い。ものすごく多い。
どうしようかな・・と思案した時に浮かんだのが、「どうせ春になるしな」という言葉。
で買わずにしのいで、結局、本当に春になったのでした! すごい!
ここから秋、冬と旅が続きます。寒さを噛み締めることにも妙な至福を感じてしまう(>w<*)のが、出家の性分です。
どんな寒さに出会えるか、と想像すると胸がときめきます。
年々短くなるであろう日本の秋と冬を愛おしみましょう、みなさん(誰に呼びかけてんねん)。
2025年10月中旬
いや、娑婆(世俗)の世界は本当に疲れます。いろいろと考えなければいけないことが新たに出てきていることもあり・・。
出家というのは、ほんとは娑婆の世界に降りて(?)きてはいけない種族のような気もします。
でも山奥にひきこもれば解決ということにはならなくて、自分自身に解決すべき問題は残っていないので、やっぱり「新たな可能性を創る」ことくらいしか命の使い道はなく、
そうなると、やはりやれることというのは、今やろうとしていることで、
やろうとすると、こういう苦労も背負わざるを得なくなって、
苦労というのは背負える限りは背負う(ことがあってもいい)もので、
背負う限りは、「大変だけれど、そういう時期」として受け止めるほかないもので、
結局は「そういう時期なんだ」という思い(諦念)をもって受け止めて、
やっぱり歩ける限りは歩く・・という今の姿に落ち着くので、
最後は「これでいいのだ」というバカボン的心境に落ち着くのでありました。
めでたし、めでたし?
2025・9・23(そうか、祝日か・・)
9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。
サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。
でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。
来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。
◇
今がつらい人へ――
つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。
人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。
そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。
「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。
だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。
ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。
できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。
この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。きっと。
2025・9・11
ここ一週間は、怒涛の忙しさ。生きるというのは、矛盾まみれの支離滅裂。
このブログも、全国行脚の続きとか、子育て論とか、さまざまな話題を用意しているのですが、まとまった時間が取れず。
音沙汰がないと心配する(?)人もいるかもしれないので、生きていますと報告する程度のおたよりをお送りしている次第です。
◇
講座の本格的再開は、来春になるかな、と思っています。「ブッダの生涯」(原始仏教)をやるか、「大人の寺子屋~言葉で生きる(言葉で人生を作る)」講座(通信添削つき)をやるか、それとも両方やるか。
できることはやる。「やりたい(それを望む)」からではなくて、自分にできて、しかも価値がある(役に立つ)可能性があるなら、まずはやってみる。
与えられた時間は、可能性に挑戦する時間。いや、挑戦というより、やってみる程度の気楽さでいい。
できそうだから、やってみよう――その思いでやろうとしているのが、この先の活動です。
自分にとっては、命を使い切ることであり、
人にとっては、なにか役に立てることであり、
それは、苦悩を減らし、幸福を一つでも増やすことであり、
ある程度の年季を経た今となっては、「未来を育てる」という方向性に向かうことでもあります。
生きるというのは、必要なこともそうでないことも、価値あることもそうでないことも、バラバラに同時進行で背負うこと。整理しきれるものではないし、選び取れるものばかりでもない。もともとそういうものなのでしょう。
雑多な出来事を、それでも心のバランスを失わずにやっていけるのは、「この手を使ってできること」という確かな輪郭(限界)があるからです。
この手を使ってできることだけが、できること。
手を使ってもできないことは、現時点ではできないし、やらなくていい。
そういう線引きをはっきりさせていれば、外の物事が雑多かつ混乱しているとしても、心そのものは混乱しない。
この場所は、これからも、やれることを淡々粛々とやっていきます。
以上、近況報告でした。
2025・8・23
この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。
今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。
それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。
マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。
こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。
外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。
◇
ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。
滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。
まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。
地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。