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愛知での特別講座まもなく開催

おしらせ

きたる10月18日(日)に愛知・高蔵寺で特別講座が開かれます:

人生50年の棚おろし 
~ やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方
 
10月 18日(日)13:30~15:30

中日新聞・高蔵寺文化センター50周年を記念した特別講座を開催します:

生き方が定まり始めるのは、人生50年を生きた頃――人生には終わりがあることが見え始めた頃に、残された時間をどう過ごすかを考え始めます。
 
過去にやり残したこと、今後やりたいこと、お金・仕事・家族・人間関係などを、どう解決するか? 
 
50歳手前の人は近い将来への準備として、50歳を過ぎた人は「心の軸」を持つきっかけとして、仏教的価値観・考え方を活かしてみるのはいかがでしょうか。
 
中日新聞で2年にわたり連載された『ブッダを探して』を抜粋した特別冊子を進呈。

受講費3520円(税込)登録料不要  
定員に達し次第締め切ります(オンライン受講可)

問い合わせ・申し込み 
高蔵寺文化センター 0120-031-229
〒487-0011愛知県春日井市中央台1-2-2 サンマルシェ南館3階


2026年10月


尊き人たち


広島で開催された今回の研修は、看護教員限定だった。無料だったそうだ。ならば自分も本来は持ち出しで協力すべきなのだろう。でもきちんと誠意を向けてくださるのだ。そのことが申しわけなく、かたじけない。

なにしろ看護は人の命を救う仕事。この日集(つど)った先生方は、未来に人を救う人間を育てている人たちなのだから。

しかも午前10時から午後4時まで。過去最も長い時間を取ってくださった。午前のレクチャーと午後のワーク。これだけ時間があれば、十分に話し合える。機会を作ってくださった協会の方々には感謝するほかない。

午後のワークは、みなさん積極的に取り組んでくださって、たいへん充実したものになった。しかも笑いがたくさん起こった。


今回の研修をつらぬくテーマは「自分の輪郭の内か外か」だ。さまざまな現場の課題・悩みをもとに、内か外かを話し合う。

妄想を広げた状態だと、自分の輪郭がわからない。あれもこれもしなくちゃいけないという意気込みやら責任感やらにとらわれて、消耗・疲弊してしまいかねない。

自分の輪郭は、手が届く範囲に限られる。いわばサイズが決まった円のようなもの。円を動かせるのは、決まった時間のみだ。

限られた時間の中で、決まったサイズの円を回すことしかできない。ならばせいぜい人間にできるのは、作業と工夫くらいだ。輪郭オーバーはそもそも無理だ。

仕事も子育ても、自分の輪郭内でやっていくしかない。輪郭外のことは背負わなくていい。超える部分は、外の問題であって、自分の課題ではない。外の人に頼む(理解を求める)か、未来に持ち越すか。できない自分を責める必要もない。

数多くの悩み・課題を解決するには、自分の輪郭を見極める必要がある。どんな仕事にも当てはまる真実。


いろんな余談・脱線も交えてのワークをたっぷりやって、午後4時終了。これぞ理想の研修ではないか。

教育というのは、未来を育てる仕事。最も尊い仕事だ。

その間多くの苦労を経験することになるが、”未来を育てる”という最も尊い目的のために生きたという事実は、

それだけで「わが人生に納得」の理由になる。

だからこそ私も、場所・立場は違うが、未来を育てる活動を選んでいる。看護教育に携わる先生方もだ。


この夏は、静岡、鳥取、宮崎、広島と、看護協会・保健師会・看護専門学校の方々との出会いに恵まれた。

みなさん、本当に大切なお仕事をなさっている。頭が下がる。

世の中には、その人がいなければ世の中が回っていかない、そんな大切な仕事をなさっている方々が大勢いる。

最後に胸に残るのは、みなさんこれからもがんばってくださいねという心からエール・・なのだが、自分にできることがあまりに小さく限られていることが、もどかしくてしょうがない。もっとお役に立てたらという思いは有り余っているのだが。

妙な話ではあるが、満足が残ることはなく、ただ申しわけなさのようなものを感じて、”尊い人たち”を後にするのだ。毎回そんな思いを抱えて帰路につく。


今年ご縁くださった皆さま、ありがとうございました。


※興味のある方は、医学書院『看護教育』2025年第4号をご覧ください。「仏教の視点で見る看護教育の面白さ」についてお話させていただいています。



老害をこじらせない習慣


月刊プレジデント9月号に記事が掲載されました:

心の老化は止められる! ブッダに学ぶ「老害をこじらせない習慣」


有料会員限定記事です。紙の雑誌にも掲載されています。

確実ではありませんが、ウェブニュースでも配信される可能性があります。

見かける機会がありましたら、お目通しいただければと思います。


2026年9月11日
 
 
<おしらせ> 
特別講演 人生50年の棚おろし~やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方 愛知高蔵寺
愛知高蔵寺 
10月 18日 (日)13:30~15:30
 
中日新聞・高蔵寺文化センター50周年を記念した特別講座を開催します:  
生き方が定まり始めるのは、人生50年を生きた頃。人生には終わりがあることが見え始めた頃に、残された時間をどう過ごすかを考え始めます。
過去にやり残したこと、今後やりたいこと、お金・仕事・家族・人間関係などを、どう解決するか? 人生50年手前の人は必ずやってくる将来への準備として、50年を過ぎた人は日々を生きる「心の軸」を育てるきっかけとして、この講座を活用してください。
中日新聞で2年にわたり連載された『ブッダを探して』を抜粋した特別冊子を進呈。 
 
定員に達し次第締め切ります(オンライン受講可) 
 
問い合わせ・申し込み 高蔵寺文化センター0120-031-229
 


雨の国

 おしらせ

愛知高蔵寺で特別講演会が開催されます:

人生50年の棚おろし~やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方

詳しくは 高蔵寺文化センター0120-031-229 
https://www.chunichi-culture.com/kouzouji/

 

日本全国いたるところで大雨だ。雨というより洪水模様。

この夏足を運んだ富山、宮崎、鳥取も集中豪雨。石川、東京、千葉、静岡、青森、北海道、鹿児島、長崎、佐賀、熊本。そして愛知・岐阜。

さながら海と化したかのような道路を車が半分水に浸かって走っている映像を見た。鉄道の線路も完全水没。不謹慎だとそしりを受けるかもしれないが、SFの景色のように見えてくる。

この異常な大雨をもたらしている線状降水帯の連発は、大気と海面の気温上昇に起因しているらしい。

大気は1℃上がると含まれる水蒸気の量は7%増えるという。

大気の温暖化 ⇒ 海水温の上昇 ⇒ 海水の蒸発 ⇒ 大気内の水蒸気が増大 ⇒ 陸地に流れて山に突き当たって上昇 ⇒ 上空に水蒸気が滞留 ⇒ どかんと大雨となって地上に落ちる というメカニズムらしい。

大気の温暖化によって、北極・南極の氷床も陸の上の氷河も怒涛の勢いで溶けている。これも海に入って、海面上昇のみならず、蒸発して空に登る水蒸気へとつながっていく。

海水温の上昇につれて大気に含まれる水蒸気の量が増え続けているという構図が起きているらしい。

ここ五年ほどの大気温度は、観測史上最も高かった。エルニーニョ現象も寄与しているという見方もあるが、エルニーニョの規模が巨大化しているのは、大気が温暖化し海水温度が上昇しているからだ。

海水温度は、世界平均でも2023年以降は平年に比べて0.3~0.5℃以上高いという(これは危険な上昇度だ)。特に日本近海は上昇幅が大きく、100年あたり1.36℃のペースで上昇中。夏から秋にかけては、広いエリアにわたって海面水温は28℃から30℃に達する(これも異常な水温だ)。

大気温度の上昇によって、水の循環の規模と速度が一気に増しているのだ。

あまり聞こえてこないが、全世界的にこの線状降水帯の発生による極度の大雨という現象は発生しているらしい。アメリカ、中国、台湾、東南アジア、ヨーロッパ地中海沿岸。なぜ聞こえてこないかといえば、日本国内の災難ぶりがあまりに顕著かつ頻発しているからだろうか。

要するに、海が近くて内陸に山があれば簡単に極地豪雨が発生する。それだけ海の水温が上昇している。これが正しい理解ということらしい。

となれば、もはや「観測史上最高」とか「異常気象」という表現は正しくないのだ。大気温の上昇は、人類の経済活動による温室効果ガス排出によるものだ。

人類の活動は止まらない。これだけ巨大化・複雑化した経済システムの稼働を止めることは、ほぼ不可能だ。

よほど奇跡的な大発明や技術開発によって大気中の炭素を劇的に吸収・削減できない限り、温暖化が止まるはずはない。

つまり今体験していることは、異常ではなく、必然であり、平常であり、恒常、つまり今後ずっと続く可能性が高い。

世界の様相が劇的に変わりつつあるということだ。人が暮らしてきた環境そのものが変動し始めた。ここ十年の「異常気象」は、始まりでしかない。

◇

ところが、人間の理解は、こうした現実を前にしても変わらない。超大国の権力者たちは自分のプライドと支配欲 (仏教にいう慢) にしがみついて大小の戦争にあけくれているし、経済強者たちは自然環境に負荷をかけてでも利潤を最優先させる企業活動に突き進んでいるし、小さく無力な個人もまたデジタルデバイスによる享楽に耽溺しつつ、自己顕示と正義の主張に明け暮れている。

誰もが、自分が正しい、自分の欲は満たしたい、自分さえよければ人のこと、世界のこと、未来のことはおかまいなし(興味がない)という精神状態に変わりつつあるのかもしれない。

人間のエゴはこれまでもあったが、それを通すための力が弱かった。だが軍事力は強大となり、経済格差は広がり、個人の我欲と正義はSNSを通して一定の支持を得ることが可能になった。それぞれのエゴが無数無限に〝開花〟し始めた。

この花は可憐で美しい花ではない。醜悪で硬質な花弁を広げて、他の花が咲くことを許容しない。自己保存だけを求め、他者を犠牲にしても痛みを感じない毒の花だ。

世界は変わりつつあるのに、世界を変えなければという声は聞こえなくなりつつある。その声はたしかに存在するのだが、エゴの轟音があまりに巨大でかき消されてしまっているのだ。

人間の心は止まらない。権力者の独裁も、経済格差も、市民間の不毛な対立・分断も止まらない。

止まらないなら、この先も、大気温の上昇、森林火災、大雨被害、土砂災害は続く。

今見ている異常な光景が日常と化すということだ。

◇

この命は、仏教という思想を伝えることを役割としているが、いつか伝える相手がいなくなる未来が来る可能性はある。地球にも宇宙にも終わりは来るのだから、可能性というより確実にそうなるのだが、できることなら、千年後、一万年後くらいではあってほしいという願いはある。

終わりをみずから招き寄せるかのような愚行は犯してはならないと思ってはみるものの、世界の現状を見れば、終わることは必然であり、こうして自滅していった知的生命体の例は、この宇宙にはありふれているかもしれないとも思う。

とはいえ、悲観は現実になるまでは妄想の一つにすぎず、虚無主義(ニヒリズム)という無責任は、人間が取るべき選択肢に入らない。

私にとっての日常は、今を生きている人、未来を生きるであろう人たちに、仏教という生き方を伝えることであり、小さな寺子屋を育てゆくことだ。

この寺子屋は、子供たちにとっての2学期という小さな日常に入ったばかり。笑いと成長にあふれた、さっそくいい時間を創ることができている。

力がつく上に、楽しい時間となれば、これは理想の活動である。

この時間があと百年続いてもいい。それくらいのよい時間を作ることができている。

◇

人は、悲観や虚無に陥るにあらず。ただ、現実を見ないことや根拠もなく楽観することもまた妄想にすぎないから、これも取るべきではない。

現実に何が起きつつあるかは正しく理解し、そのうえで小さな日常をしっかり生きていくことだ。

生きていくうえでは、百年後の世界の未来も、千年後の人類の未来も、確かにあるものという前提に立つほうがいい。未来への信頼に立って今をしっかり生きること。

そして今という時間が、今だけの奇跡の一つだとよく心得て、心を見開いて大切に、一日一瞬を愛おしみながら生きていくことだ。



2026年9月9日 

この場所が大切にしていること

おしらせ

愛知高蔵寺で特別講演会が開催されます:

人生50年の棚おろし~やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方

詳しくは 高蔵寺文化センター0120-031-229 
https://www.chunichi-culture.com/kouzouji/

 

 この場所が大事にしているのは、最小限の普遍と、それゆえのオープンさ。

どういうことかというと、価値あるものというのは、本当に最小限のものでしかない。たとえば、水、日の光、大気、土、その他の自然。

それらは未来に遺す価値がある(というか、遺さないと続かない)。

人間の世界においては、第一にそれは ”智慧” ということになる。

生きていくための智慧、つまりは苦しみを減らす方法と、その実践・適用としての行動だ。

苦しみを減らす方法には、たとえば科学や医学や、自然を対象とする学問がある。それが適切に活用されて具体的に世の中に影響を与えるモノやシステムが、行動にあたる。

人の世(文明と呼ばれるもの)を発展させてきたのは、こうした方法だ。

こうした方法だけが、未来に遺す価値を持つ。

仏教という智慧もまた、そのすべてとはいわないが、一部については、未来に遺す価値がある。

逆を言えば、それ以外のもの――人の苦しみを増やすものは、価値がない。たとえば私欲や妄想は、人間が作り出す汚物のようなものであって、えてして苦しみにつながる。

そうしたものは、一代限り、その人限りのものであって、時期が過ぎれば、価値を見る人はいなくなって、やがて消えていく。

そうしたものは、普遍とは違う。

◇

この場所が大事にしたいと願っているものは、普遍である。苦しみを減らす智慧だ。生き方であり、心の使い方だ。

ごくごく限られた狭い範囲の智慧でしかないけれど、

それを守るために、損なわれないために、この場所は、かなり神経を使っている。

たとえば、一部の人たちだけが熱心に通い詰めるような場所にはしない。それをやってしまうと、一部の人たちだけが満足する閉ざされたサークルになってしまうから。

場所が閉ざされると、入ってこられない人が出てくる。そして内部が歪んでいく。

さながら汚物を含んだ水が一か所に留まれば、やがて停滞し腐敗していくように、人間の心もまた、一定の範囲に囲い込んでしまうと、とたんに、その内部での思惑が影響しあって、人間の心にあったものが次第にその場の雰囲気、いわば水の色を染めていってしまう。

世にある宗教・思想系の団体は、ほぼ決まってこのパターンを突き進む。

そうした団体には、その真ん中に信望・信仰を集める特定の人間がいる。みずから意図して、自分を仰ぎ見させよう、依存させよう、利益を得ようともくろむ人間もいるし、

本人はまったく違う方向をめざしていたのに、集ってきた人たちが勝手に解釈して、停滞・腐敗を招く場合もある(※ちなみに仏教はこの系譜に属する)。

どのような美しい思想や場所であれ、人間が集まって、固定され、滞留し始めると、必ずその人間たちの心にあったものが出てくる。

代表的なものとして、個人的野心(承認欲)がある。その団体の中で認められよう、利を図ろう自意識が、ポストや肩書を求めて競う・上をめざすという発想になっていく。

思考停止に陥ることもある。考えることを放棄して、ラクを選んだ人間が、その中に見つけた言葉や形式をひたすら真面目に踏襲して、思考停止という安易な快楽に身をゆだねることもある。

いわゆる宗教や思想系の団体があやういのは、先導する人間が、自分に都合のいい妄想を、神や思想の名のもとに語って、自分が讃えられることに快楽を覚え、

他方、それを信奉する人間は、

先導する人間に自己投影して自分の価値が満たされたかのような錯覚を覚えたり、

外の世界で得られなかった上昇欲を満たそうとしたり、

思考する努力を放棄して、何も考えずに、先導する人間が語ることを鵜呑みにして、その通りに動くことに快楽を得たりする。

人間というのは、自立して思考することが苦手な生き物だ。そうした人たちは、考えずに、ただ信じる、ただ従うことを選ぶ。単純にラクだから。考えなくてすむから。

こうして、それぞれに蜜(利益)を得る閉ざされた共同体が出来上がる。


その中にいる人は、それぞれの欲と思考停止をもって完結している。得たいものを得ている。だから「理想の共同体」だと思い込む。

だが、外から見れば、妙な違和感を覚えざるを得ない。

なぜなら欲を満たして得々としている人と、思考停止の人たちの姿を見ることになるから。

特に思考停止というのは、多くの宗教・思想団体に共通する傾向だ。内部にいる人たちが考えていない。外の世界が見えていない。自分たちがやっていることの奇妙さを自覚できない。

その思考停止ぶり――見えていない姿――が、外から見ると、奇怪な姿に見えるのだ。

◇

哀しいことは、こうした閉ざされた共同体の中にいる人の眼には、自分の姿が客観的に見えなくなることだ。

それが企業なら、まだマシなのである。企業である以上は、利益を上げないといけない。だから。外の人にとって価値あるものを作り出さなければという形で客観性を維持できる。

もっとも、企業であっても、嘘や脚色や脅しをもって売りつければ、それは途端に怪しい、あやうい組織に代わる。一時的に外に売ることができたとしても、世に知られた途端に信用を失うか、犯罪として摘発されて頓挫する。

だが、外にモノを売る企業ではなく、内部の人間だけで完結する共同体となると、

そうした制約は通用せず、その内部だけで回せてしまう。客観性を失っても続けることができてしまう。

回ってはいる。だが閉ざされている。外から見れば、停滞している。偏っている。歪んでいる。腐敗している――。

こうした現象がたまに起こる。内輪の価値だけで固まってしまった「閉ざされた共同体」と化していく。いわゆるセクト化だ。

枚挙にいとまがない。宗教・思想に関する団体。いわゆるカリスマ社長が経営する企業。独自の価値のもとに活動するサークルなどだ。

◇

この場所が最も敬遠するのは、こうした内と外の”乖離”である。内側だけに通用する自己満足。客観的視点を失った思考停止。外には通用しない理屈――そうした不自然が混じることをよしとしない。

これは、この場所を預かる私という人間が、自我から自由であるから成り立つ姿だ。

見栄、欲望、思考停止という心の性質を、よく理解している。

どんな相手にも敬意を失うことはないが、そうした心の性質がこの場所に流れ込むことをよしとしない。きわめて高い感度をもって、そうした危うさを退ける。

自然を生きる生き物や植物が、その本来のあり方だけを維持し、その姿のまま命をまっとうするのと同じことだ。

みずからを歪めることも、本質を変えることも、汚すこともない。

明瞭な「違う」という一線を堅持する。

◇

だからこそ、これまでも、これからも、外の世界との関わりにおいては、慎重を期する。


個人的な承認欲のために利用しようという思惑を捨てきれていない人や、閉ざされた共同体の中にいる人たちとは、関わらないことを選んでいる。

そうした人や団体が、どのような人生・活動をしていくかは、その ”人さま・団体さま” の自由である。この場所は、誰をも否定しない。あくまで敬意をもって接する。

だが、だからこそ、関わらないことが正解になることもある。そうした時は、静かに退く。

◇

この場所は、普遍だけを大事にする。

普遍だけを大事にしようと思えば、自分の足だけで立つ必要がある。

内輪の価値や形の中に安住するのではなく、

自分の身と心ひとつで、むき出しのまま、外の世界と対峙する必要がある。

それがオープンさを保つということだ。

自立していることと、オープンであることは、両立する。むしろ表裏一体といっていい。

◇

私が出会い、関わるのは、欲や思考停止をよしとせず、そうした世俗のあり方にむしろ違和感を覚えるような市井の人たちだ。

みずからの足で立ち、自分自身に向き合い、自分の人生を最良のものにしようと人知れず努力できる人たち、努力しようと思える人たちだ。


それぞれが自立していること――。


そうした難しい挑戦をしているのが、この場所ということになる。

ご理解いただけると幸いです。

 


2026年8月末

 

 

夏の寺子屋

 

予期しない出会いから始まった、中学生向けの夏の寺子屋。

第1クールは7月22日から3日間。8月に第2~第4クールを開催。

午前9時から12時までの3時間。本人たちの希望で、英数国の3科目。

英語と国語は一緒に授業。数学は一冊の教材から、自分のやりたいところを進めていくことに。

◇

数学は、やみくもに問題を解くのではなく、問題に示された条件を数式・記号で表現して、それを使って計算して、答えを出していく。

条件を数的に表現するためには、読解力が必要。だからやっぱり国語力が大事になる。

問題を見た時に、「問題文にこうあるから、この3つの条件を数式化する」「段取りとしては、これをやって、次にこれをやって、さらにこれをやると、答えが出る」という段取りを考えたら、あとは計算すれば答えが出せる。

「段取り」を見失うから、自分が何をやっているのかが途中でわからなくなる。迷路に入ってしまう。

問題を解いた後は、答え合わせで終わるのではなく、「この問題から何を得たか」「どんな解き方・考え方を手に入れたか」を、きちんと確かめる。

◇

私自身、小・中の間は、数学はちんぷんかんぷんだった。「木を見て森を見ず」――つまり段取り・構成を最初に掴むという発想を知らなかった。

さらには、方程式とは、関数とは、といった「定義」がものすごく大事ということも知らなかった。

数学は、定義づけの積み重ねて構築していく体系だ。だが定義はつねに抽象的。一見、読んでもピンと来ない。だから飛ばして、いきなり我流で問題を解こうとしてしまう。

本当は、定義といった抽象的な記号・命題と、問題を解いて使い方を理解すること計算すること、つまり具体的な思考とは、セットでないと、数学は分からない。

小学生の算数の延長で、具体的な計算だけで解こうとすると、必ず壁にぶち当たる。国語の問題が、小説などの具体的描写から、次第に観念・概念の構築物へと抽象度が上がっていくように、数学も具体から抽象へと、思考の質が変わっていくのだ。

その、具体から抽象へという境目をつなぐのが、「定義」なのだけど、これを飛ばしがち(先生も説明しない)。だから途端に苦手になる。あとはチンプンカンプン笑。

抽象的な定義や解き方は、本の隅っこに小さく書いてあったりする。生徒は見落としてしまう。そのあたりを拾って、もっとわかりやすい「要するに」に置き換えて、そのわかりやすくなった考え方・解き方を、赤字で本に書き込んでもらう。

そうやって、問題を解くたびに、「解き方・考え方」という抽象的な思考を仕入れていく。

数学もまたやり方を間違えなければ、つまり手順を飛ばさなければ、必ずできるようになる(必ずと言っていいかは若干ためらいもあるけれど笑)。

◇

3時間、スキのない授業ができた印象。スキがないというのは、「何をすればいいかまったくわからない時間がなかった」ということ。どんな手作業をするかを、すべて言語化する。実際にやってもらう。一人ずつ見て回って、自分が何をしているのかを聞いて確認する。「今何をしているか、わかってる?」「うん」「じゃ、説明してみて」。

分かっていない時は、言葉が止まってしまうので、こちらで翻訳し直したわかりやすい言葉を、本に書き込んでもらう。で再び解き直す。

英・数・国と、スキのない時間を重ねて、お昼に。こういう濃密な時間を積み重ねていけば、確実に伸びる。

◇

子供たちが来ると、急に夏らしくなることを発見した。

歳を重ねると、夏はただの暑い季節になってしまう。外に出ると「暑い、暑い」とこぼし、「熱中症にご用心」とか「夏と冬は高齢者が亡くなりやすい季節だ」 「こんなに温暖化が進めば人類は滅びてしまう」とといった野暮な妄想ばかりをしがちだが、

小中学生にとっては、夏は夏だ。熱中症はたしかに要注意ではあるけれど、ある程度の気力・体力が自然に備わっている。だから暑いといいながらも、日差しの中を自転車で通えてしまう。


中学生の目に見える夏の空は、大人が見るものとは、まったく違うのだろう。

夏の空があり、手つかずの未来があり、広い未来がまだ茫漠たる状態のまま残っているからこそ、安心して今を過ごせる。今を生きることができる。

そうだ、夏ってこんな季節だった。

暑いとはいえ、何かが始まるぞ、何をしようか、夏休みだ、時間はたっぷりある――そういう季節だ。

子供たちが来るようになって、私の夏も始まった。懐かしい、あの夏だ。

差し入れてもらったスイカ
冷たく甘くみずみずしい極上の味でした



【おしらせ】 東京・9月の坐禅会&個人相談会

興道の里から

7月26日・30日の夏の国語キャンプ(千葉県)、まもなく開催です!

きたる9月の連休に東京での坐禅会を開催します。

あわせて個人相談会も行います。

ご希望の方は、公式カレンダーで詳細をご確認のうえ、必要事項をご連絡ください:

◇◇◇◇◇◇◇
2026年
9月19日(土)
18時~21時30分
坐禅会

<内容>
快適な毎日を過ごすには、心の汚れを落とすこと。お寺では学べない坐禅(瞑想)の秘密(アタマの中で何をするか?)を学べる坐禅会。坐禅・瞑想の実践となんでも聞けるゆるめの座談会の2本立て。初参加者には解説ガイドブックつき。

<会場> 東京 ※会場はご予約時におしらせします
 

◇◇◇◇◇◇◇  
9月21日(月祝)
午後・夜間  
個人相談会 

一人では答えを出せない課題・悩みを抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方に、個人相談の時間を設けます。

<対象> 十代から社会人・シニアまで。仕事、家族、今後の生き方、進路・進学・就職・勉強等をめぐるストレスや悩みなど。

<時間枠>
午後の部 
➀13:00~13:45 
②13:50~14:35 
③14:40~15:25 
④15:30~16:15
⑤16:20~17:05
夜間の部
⑥18:00~18:45 
⑦18:50~19:35 
⑧19:40~20:25 
⑨20:30~21:15 
⑩21:20~22:05(※予備枠)

自分一人では解決できない課題・悩みも多く存在しますので、この機会を積極的にご活用ください。

いずれも、詳しくは、公式サイト内のカレンダーをご覧ください。

 

2026年7月23日 

旅する寺子屋 千葉県野田市を訪問

興道の里から

2026年度夏の旅する寺子屋・国語キャンプ

ひきつづき訪問地を募集しています

関東は千葉県野田市・柏市 きたる7月26日および30日

チラシができましたので、参加ご希望の方は興道の里までご連絡ください:
 
※お名前とお子様の学年および当日の参加希望人数をお知らせください。
※大人の参加は小5から中3までの子供をお持ちの保護者に限ります。
 
※お願い インターネットで見つけて初めてご連絡いただく方は、自己紹介(ご家庭の状況・お仕事・お子様の学年・学習状況など)をお知らせください。
 
welcome@koudounosato.com  まで


・・・・・・・・・・・・・・・

言葉に出会うと毎日がもっと楽しくなる!
夏休み国語キャンプ

国語の1日寺子屋(教室)
をひらきます!

勉強っぽくない“ゆる系”の授業

面白くてチカラがつく文章を
使って、読み方・解き方を
わかりやすく授業します

参加無料!

小5から中3まで
友だち・家族と一緒もOK

話題なんでもありの座談会つき
筆記具だけ持ってきてください


7月26日(日)
午後1時から4時半

7月30日(木)
午後1時から4時半

※会場はご連絡いただいた方に個別にお知らせします(千葉県野田市・柏市)
 

*いずれかの日にご参加ください 構成は同じ:
ゆる系のおしゃべり ⇨ 国語キャンプ ⇨ 話題なんでもありの座談会
*スマホ・ゲームは電源オフ(なるべく保護者がお預かりください)
*高校生の勉強・進路相談も可(キャンプ終了後に対応します)

                    
プロフィール
僧侶・著述家 本名 草薙 龍瞬 くさなぎりゅうしゅん

東京大学法学部卒業後、30代半ばでお坊さんに。著書『反応しない練習』KADOKAWAは50万部超のベストセラー。毎年夏に“旅する寺子屋”を主催。教え上手の明るい性格。厳選したイイ言葉(国語教材)を手に日本全国を旅している。





一歩踏み出す勇気


静謐平穏な日々が続いています。


その一方で、今の時代は、人間の狂気・野蛮にいつ遭遇するかわからないし、


時代はいつの間にか、個人の静謐平穏や志というものを、そのままにしておいてはくれなくて、つねに情報として利用し、晒して、評価や判断という名の暴力を押しつける社会に変わり果てているので、

そうした社会にあって、「世にあって世に染まらず」という一線をどのように保つのか、いやはたして保てるのかというところを、今切実に「悩んで」います^^;)。



これも一つのグローバリズム――アメリカ発の巨大テック産業が繰り出す商品・サービス・情報環境(SNSや生成AI含む)によって、

人間のすべてが数値化され商品化され評価され消費される暴力的な世界。

情報を取れれば、お金になれば、何をやっても、言ってもいいという暴論的な世界。

そういう世界に、いつの間にか包囲されてしまっていることに気づいてしまった今日この頃です。



本当は何もしないほうが安全でいられる。ひっそりと歳を重ねていくだけで十分だと思うのだけれど。

ただそれは、新たなものを創り出してきた自分の人生そのものを放擲することにほかならず、

もし取り巻く環境がもっとまとも・真っ当であれば、なんの心配もためらいもなく、新たな挑戦・創造に挑めるであろうにと思いつつ、

でもそんな真っ当な世界は未来永劫こない――もはや完全に失われてしまった(かつて一度でもあったのかどうかは知らないけれど)だろうから、

この殺伐とした暴力的な世界の中を泳いでいくほかなく、



泳ぎながら、自分の心がおもむくことは、やはりこの世界において価値あるものを、というところだから、

だからこそ、個人的な価値あるものの創造をという志と、真っ当さを失ったこの無節操で残酷で暴力的な世界とが真っ向からぶつかってしまって、

今のところ「泳ぎにくい」という心境にたどり着いています。


この先、このぬかるみのような状況をどのように潜(くぐ)っていくのか、そのあたりに答えを出せる智慧を発揮していくことになるのだろうけれど、

智慧といっても現実に妥協迎合することとあまり変わらないように思う(この命の本質はあくまで静謐と清澄にあるから)のだけれど、

それでもやはり泳いでいかねばならないだろうから(何もしないという静謐は、この命の根底にある慈悲がヨシとしない――苦労している人はいつの時代もいるだろうから)、

なんとか智慧を働かせて、泳ぎだすための心がまえみたいなものを確立せねばと思っています。


一歩踏み出す勇気、になってくれそうな智慧が必要です。


外は台風前夜の小降りの雨が続いています。こういう時間がいとおしい命です。



2026年6月初旬


東京で個人相談会を開きます

 

夏の日本全国行脚、まもなく告知します。

 

6月21日(日)東京で個人相談会を開催します。

相談ご希望の方は、公式カレンダーの告知をご覧のうえでご連絡ください。

 

 


 

 

 

緑茶と看護学生のみなさん


5月1日は、静岡島田の看護専門学校で講演会。

ほぼ全員が看護師国家試験に合格し続けている、かなり教育力の高い学校。

3学年120名の看護学生さんと先生方十数名。質問も続いて熱心に聞いてくださった様子。


仏教と看護は親和性が高いように思う。「人のため」という思いから始まっている気がする。

ただ明らかに仏教のほうが「人のため」からは遠いような気もする。自分のため、自己満足のため。仏教と言いつつ、パフォーマンスでしかない。

そういう形だけの仏教(仏教もどきと言ってもいいかもしれない)が蔓延しているといえなくもない現状に対して、看護の仕事には嘘がない。「ケア」が看護という仕事の本質だからだ。

看護の世界に生きている人たちは、いろんな悩みを抱えながらも、やっぱり誠実なお人柄が多い。話をしていて、安堵する自分がいる。どこか懐かしい感じもする。

看護が滅びる時は、人類が滅びる時。世界を支える偉大な仕事。

みんな頑張ってほしいと心から思う。


『反応しない練習』を図書室用に進呈させてもらった。この先はもっとこうした出会いを増やしたいとも思う。エールを届けたい。


また会えたらと思います。緑茶と黒大奴(くろやっこ)がおいしゅうございましたw。



2026年5月1日


枠を崩さずってどういう意味?

こんなおたよりをいただきました:


(先日のブログについて)

「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。

ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。



わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。

たとえばこう表現してみましょうか:

仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。

私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、

社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。


「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。

形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。

歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。

ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。


こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。

もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。

ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、

外の世界はつねに変わり続けている。

生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。


ということです。

「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。

新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。

こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり

外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。

それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。

正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。

正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。


私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。

外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。

そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。

その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。

だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。

そういう生き方をしていこうということです。

つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。

伝わりますでしょうか笑。

 

 

新生活、始動


第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。

栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。


寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。

栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、

「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。

政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。

こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?

いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。



この先は、仏教が不動の軸ではあるが、仏教という枠にとらわれない働きを果たしていくことになる。

教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。

そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。

最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。

枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。




2026年4月下旬

 

仏教を盗んでしまっている君へ


仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ


最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。

むしろ君の未来のことを気にかけている。


君は、4月7日にプレスリリースを発信したみたいだね。

そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?


君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど、

その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。

だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、

君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。


そのことはちゃんと考えていますか?


私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。

ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。


CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない? 

そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?

そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。


もし君が、スジャト師らの長年にわたる努力と思索と研究と、

それを世界中の人たちに役立ててもらおうと慈悲の心で公開し続けてきた、


彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、

今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。


人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。

誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?



AIに反対しているわけではないんだよ。AIを使った人間の「悪」に反対しているんだ。

こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。

君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか?

壊れないよ。
君が居場所を失うだけだ。


君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。

でもそれは、最後まで控えておこうと思う。

君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。


君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?

4月7日のプレスリリースでも、ずいぶん多くの人様・団体様の名前を使っている。

自分の正しさを分からせることに役立つと思ったかい?

真逆だよ。もし嘘の使われ方をしていることが発覚したら、君は確実に社会的信用をまた一つ失うことになってしまう。


私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。


君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。

PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。

もちろん配信者の事業を応援しようという思いも、彼らにはある。彼らは依頼者である君を信頼した。最後まで。信頼したからこそ、ほぼ無審査で配信し続けた。


だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。

君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。

いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。

でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。

君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。

君は想像しなかったのか? 嘘を配信させた彼らの看板に泥を塗ることになることを。


もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、

おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。


気づいているかい?

君の言葉にも、その行動の中にも、他者がいないんだ。

心と体を持った人間が。

奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。


君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、

人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。


もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、

嘘をつかず、

与えられていないものを受け取らず、

まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、

その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。


そして人様からの托鉢をもってその身を養い、

一日十二時間の瞑想をし、

パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、

少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、

日々の小さな務めを果たしてみるがいい。


できるかい?


できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。


もう一度言うよ。私は君の敵じゃない。


私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。

だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、

人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、

その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。


これがもし私だけの思いであるなら、安心してほしい。世界は厳しい場所だ。私が何を訴えても、人々は聞く耳を持たないだろう。

だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。

もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、

その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。


私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。

あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。


苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。

でも、おそらくそれは、孤独が長すぎた君が作り出した妄想だ。

私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。

嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、

だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。


そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。

苦しみが生まれるのは、誰かが、私欲や、嘘や、レトリック(言葉回し)や、権力をもってゴリ押ししようとした時だ。


君は世界の苦しみを増やしていないか?

君を信じたPR TIMESが、虚偽の情報を流し、配信先に迷惑をかけることになったこと、その築き上げた信用に傷がついたかもしれないことを、

君は想像しないのか?

だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?


誰も君を苦しめようとなんてしていない。

苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。



君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。


そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、

私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。



伝わるかな。

伝わるまで伝え続けるよ。



草薙龍瞬


P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。

私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。

だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。


だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。

自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。

なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。

それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。

私は、君に傷ついてほしくない。再び孤独に落ちてほしくないんだ。


敵じゃないんだよ。



2026年4月9日


『ブッダを探して』連載完結


中日新聞・東京新聞で連載されてきた『ブッダを探して』は、

2026年3月1日(日)日曜朝刊 全105話で完結しました。


2024年2月から週1のペースで文章とイラストを書き上げてきました。初めての体験。

大変でしたが、面白かった。

15年にわたってブログやメール通信の記事、本の草稿などを書きためていたおかげで、ネタ切れせずにすみました。


言葉のほうは、思いとほぼ合致したものを紡ぎ出せます。言葉については思いのまま。

絵のほうは、難しい・・うまく描けたと感じることもあれば、下手すぎて恥ずかしい(申しわけない)と思うことも。


全編読み通してみると、これは自伝ではあるのですが、旅物語(精神遍歴)でもあり、仏教の解説でもあり、世の中に居場所がない場合の第3の生き方でもあり、

舞台もインド、ミャンマー、日本(過去と現代)にわたる壮大なもの。


最終章は、「ブッダを探して」というタイトルの意味が明らかになる、いくつかのエピソードで構成されています。

文字数に制約があるので、掘り下げて書き切ることができず、わかりにくいという感想を持った人もいるかもしれません※。

(※連載途中では伏線的な文章を入れて、最終章の<現代日本編>で真相を明かすという構成を取っています。もう一度最初から読むと、すべてのエピソードがつながるようになっています。)

言葉が足りない部分は、書籍化の時に解説的文章を加筆して対応すべきなのだろうと思います。


できれば誰かのSNSや本のレビューなどをきっかけに、この作品の存在を、まだ知らない人たちに知ってもらえたら、書籍化の可能性も増えていくのかな・・と思ったりします。
 
 
見知らぬ人から感想をお寄せいただくことがあります。
 
いろんな場所で読んでくださっているのだなと胸が熱くなるのを感じます。
 
 
2年にわたる連載におつきあいしてくださった皆様、本当にありがとう。
 


2026年3月1日



人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。

それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。



この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。

その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、

地味に講座を開き続けて、

本を出すという縁にめぐまれて、

『反応しない練習』という作品が生まれました。


中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。

Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。

ひとつの締めくくり。



『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。

できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。

ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。

これも、ひとつの締めくくり。

◇

人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。

やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。

少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。

先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。


どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、

生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。

◇

私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。

これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。

締めくくって、前に進んでまいります。


2026年3月

 

 

 

そろそろ始動します


興道の里(草薙龍瞬)から:


2026年の活動をそろそろ始動します。

 

3月の名古屋での講座は2コマとも満席だそうですので、オンライン受講のほうをご利用ください(公式カレンダー内にスクールの情報が載っています)。

 

今年の目標は、

◇仏教講座のオンライン講座用の仕組みを整える(オンライン中継と録画:講座はアーカイブ化していく予定)

◇3月28・29日(土・日)にさっそく無料の国語キャンプを〇〇村で開催(公民館を予定)

◇5月連休までに、夏の国語キャンプ用の教材を用意(目標は小5から中3または高3までを想定して教材総計50本を準備)

◇4月以降は、月に一度のペースで名古屋で講座。態勢が整い次第、オンライン仏教講座も開始。

◇7月から日本全国行脚および十代のみんなに向けての出張授業(国語キャンプ)をスタート。

◇原始仏教を解説した単行本、および十代向けの生き方&学び方をまとめた本を準備

◇できれば ◯◯◯◯◯◯◯◯にチャレンジ(※今勉強中なのでまだお伝えできずw)



課題としては、さまざまな情報をどんな形で発信していくか・・。

ずっと同じことをお伝えしていますが、SNS型プラットフォームを今後活用するかどうか。

草薙龍瞬としての活動とは切り離した形での公式サイトも本当は作るほうがよいし。

やるならいさぎよく、積極的に発信することが筋かもしれないとは思うし。

このあたりは、もう少し悩もうと思います(ずっと悩んでいますが笑)。


今年は、日本での活動を始めて15年目。どう抵抗したって変わらなければいけない時期ではあります。

だから、いろんなものからの「卒業」(変化)もよいとは思うのだけれど、
 
それでもこれまでの流儀(世にあって世に見つからず)を貫くことにも、それなりの大義があるように思うので・・(いっそひっそりと消えていくのもオツなもの)。
 

 できることを無理なくやりつつ、自然に広がる範囲で広げていければと思います。

今年はよい春を迎えたいと思います。


草薙龍瞬




インタビュー記事


朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)


子育てと受験
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
 
いよいよ中学受験本番。多くの保護者が子ども以上にプレッシャーに悩み、合否の結果に一喜一憂するといいます。どんな心構えで向き合うべきか。ご自身も中学受験、大学進学の経験を持ち、多くの親子の相談に乗ってきたという僧侶・著述家の草薙龍瞬さんに聞きました。結果に振り回されることより、「転んでも損しない」ポジティブな考え方に切り替えることを、草薙さんは勧めます。受験を控えた親がラクになれる意外な方法とは?




自分の足で立って生きる場所

この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。

生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、

いつでも扉を開いています。


この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、

一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。


この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、

自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。


この場所が大事にしているのは、

自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。

出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、

そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、

誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、

つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、

せめて、今の自分に何ができるかと考えて、

この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、

という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。


この先の世界、本当にどうなるかわかりません。

だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。



2026年1月

 

 

 

謹賀新年2026

興道の里から


2026年があけました

本年もよろしくお願いいたします


仏教では、一年の区切りは観念でしかなく、心そのものはつねに新しいという前提に立ち続けるので、こうした恒例のご挨拶も厳密には成り立たない というのが正しい理解である一方、

言葉というのは、すごく強い力を持っていて、毎日繰り返されていたはずの日の出も、「初の日の出だ」と思えば、神々しく輝いて見えるという効果があるのも、真実なので、

そうか、これが一年の最初の日の出なんだ、今日が一年の最初の日なんだ、

と思えば、あら不思議、なんだか心がピカピカに洗われた気がしてきます(どうでしょう?)。

初めての空、初めての食事、初めてのお風呂、初めて見る人(家族も含めて)、初めての自分・・

「初めて見る」という心がけで、今日一日、そして正月三が日を過ごしてみるのはいかがでしょうか^^。


というひねくれた野暮な挨拶はさておいて(初野暮?)、

この場所は、この世の中にひとつでも幸福という価値が増えるようにと願いながら、ささやかに活動して参りますので、

なにとぞ皆さま、この場所なりの新しい創造にご一緒いただければ幸いと存じます。


善き一年にいたしましょう
新年もよろしくお願い申し上げます


興道の里
草薙龍瞬&沙羅(猫)


2026年元旦