草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
闘えるうちは闘うということ
2025年度最終スケジュール(年内の講座予定)
◆
13:00~15:00
岡山訪問(講演および個人相談)
東京・新宿区/オンライン受講可
個人相談会(2025年最終)
出家の秋
<おしらせ>
11月1日(土)18:00~21:30
座禅会
11月2日(日)18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
*詳しくは公式カレンダーをご覧ください。
*東京での講座は年内最後となる可能性があります。
◇◇◇◇◇◇
東京も急に寒くなりました。
サラ(猫)の家も冬仕様に(ボックス内に毛布を敷く。今年は素直に入ってくれました)。私も冬物を取り出しました。
そろそろ新しいものを買っていいかなと少し探しましたが、安いものは、ぜんぶ売り切れ。後はお金持ち、あるいは服にお金をかけていい人向けの、出家目線からすると見上げてしまうような値段の代物。
とはいえ実際の額を言えば、全然高くなくて笑われてしまうかも。
この貧乏性というかしみったれ根性は、育ちのせい。
考えてみたら、十代も貧乏。二十代も貧乏。三十代も貧乏(というか出家してからは無収入)。
四十代で日本に帰ってきて、貯金通帳見たら2万円しか残っておらず、転がり込んだ部屋に、段ボール箱で机作って、魚屋でもらった発泡スチロール箱に百均で買った氷入れて簡易冷蔵庫にして(冬は窓の外に吊るせば足りた。自然冷蔵庫w)。
当時の私に同情してくれたのか、ある人がチャージ入りのSuica(交通IC)をくださった。改札通るのもドキドキ(いよいよ妄想ワールドに突入した気がした)。
冬に毛糸の帽子をくれた人もいた。おおお!(あたたかくて感動)
冷蔵庫をくれた人もいた。これで夏もひと安心。
電子レンジをくれた人もいた。冷たかったものがチンすれば湯気を立てる。マジック(魔法)!
2度目か3度目かの冬に、灯油ストーブを買った。寒い冬の朝に「ボッ」と火がつくあの感動。
安いトースターを買った(安売りで2000円だったトースターを奮発)。みるみるこんがり焼けていく姿に感動(なぜか縄文時代の暮らしを連想した。それだけ感動したということらしい)。
一番ドキドキしたのは、百均でゼムクリップを買った時。どうせ全部使わない。なのに買う? 百円がものすごく贅沢に感じる・・「許される? 許されない? 許されるよね?」と自問自答してようやく購入。
いくつかのこんな鮮明な感動が記憶に残っています。いや、よく生き延びた――。
※ちなみに、なぜそこまで??と思われるかもしれない半生については、ただいま連載中の『ブッダを探して』で少し触れていく予定です(来年2月連載終了)。
貧乏性のDNAは入れ替わるわけではないので、この先も貧乏性で生きていくことになると思います。
なので、冬服も同じものを。まだまだ使えそう。どうせ春になるし。
「どうせ春になるし」は、冬を凌ぐための出家のキラーワード。2年前に札幌に行った時に、東京と違ってずいぶん寒く、古着屋に行ったら冬物ジャケットが1500円。
500円なら、あるいは1000円までだったら買っていたかもしれない・・でも1500円というビミョーな値段。こういう「ガラスの天井」が多い。ものすごく多い。
どうしようかな・・と思案した時に浮かんだのが、「どうせ春になるしな」という言葉。
で買わずにしのいで、結局、本当に春になったのでした! すごい!
ここから秋、冬と旅が続きます。寒さを噛み締めることにも妙な至福を感じてしまう(>w<*)のが、出家の性分です。
どんな寒さに出会えるか、と想像すると胸がときめきます。
年々短くなるであろう日本の秋と冬を愛おしみましょう、みなさん(誰に呼びかけてんねん)。
2025年10月中旬
これでいいのだ?
いや、娑婆(世俗)の世界は本当に疲れます。いろいろと考えなければいけないことが新たに出てきていることもあり・・。
出家というのは、ほんとは娑婆の世界に降りて(?)きてはいけない種族のような気もします。
でも山奥にひきこもれば解決ということにはならなくて、自分自身に解決すべき問題は残っていないので、やっぱり「新たな可能性を創る」ことくらいしか命の使い道はなく、
そうなると、やはりやれることというのは、今やろうとしていることで、
やろうとすると、こういう苦労も背負わざるを得なくなって、
苦労というのは背負える限りは背負う(ことがあってもいい)もので、
背負う限りは、「大変だけれど、そういう時期」として受け止めるほかないもので、
結局は「そういう時期なんだ」という思い(諦念)をもって受け止めて、
やっぱり歩ける限りは歩く・・という今の姿に落ち着くので、
最後は「これでいいのだ」というバカボン的心境に落ち着くのでありました。
めでたし、めでたし?
2025・9・23(そうか、祝日か・・)
秋の講座スケジュール 10・11月
興道の里から
講座の最新スケジュールです。
9月16日に愛知・高蔵寺で開催した公開講座
<仏教で思い出そう「あの日の幸福」を>
東京でも開催します(構成・教材はほぼ同じです)。
会場は東京都内です。詳細は、公式カレンダーでご確認ください。
興道の里の講座は登録制です。受講希望の方は、公式ブログ内の<活用ガイド>をご覧のうえ、必要事項をご連絡ください※。
※たいへん小さな場所ですので、すべての方にご参加いただけるわけではありません。あらかじめご了承ください。
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10月26日(日)
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂
<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05
<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、お名前・相談内容・ご希望の時間枠をご連絡ください。折り返し詳しいご案内をお送りします。
11月1日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京・神楽坂
11月2日(日)
18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
特製オリジナル資料つき
「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。
よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
興道の里
2025・9・17
とはいえ、早く
分校の工事は時間がかかっているし、その他の重たい課題もあるけれど、
とはいえ、早く移って、「子供たちと勉強したい!」という思いが沸々と湧いてきますw。
私がこの歳になって(何歳かは秘密・・にしたかったw)なお、
子供たちと同じ目線でいろんなことを学びたいと本気で思えるのは、
成績を上げるためとか、いい大学に進むためといった見栄や打算のための勉強に心が汚染されなかったことが、大きい。これ、ほんとに大。
学校に通ってしまった人(よい面もあるはずだけれど、ここでは悪い面を前提にしている)、
いい成績を維持して見栄とプライドを守り続けてきた人にとって、
勉強とは、学ぶ意味も面白さもよくわからないが、とりあえず周りがやっているから自分も合わせてやる(やらざるをえない)とか、
点数・成績という中身のない妄想を、プライドを支える実体あるものと勘違いして、意味はさておいてとにかく頑張る
ものだったように見える。
だから、大人になっても、プライドを捨てきれず、しかし学んだことの意味や、身に着けた能力を活かしきれていなかったりする。
そもそも試験でいい点数を取るという「特殊技能」と、社会で価値ある働きをするという(生産・貢献・改善)能力とは、まるで違う。
特殊技能は、試験が終われば(卒業すれば、合格すれば)、その時点で役に立たなくなる。
そういう勉強しか知らない大人が、「勉強なんて意味がない」と言いたがる。
勉強に意味がないのではなくて、もともと意味がないものしか勉強していないから、勉強が終わった後に「意味がない」という感想が残るのだ。
つまりその言葉は、自分が意味のない勉強しかしてこなかったという告白だ。
勉強が終わったのだから、「意味がない自分」が残ったということだ。
学校や試験という制度を根拠とした「勉強の意味」というのは、それ自体が歪(いびつ)で狭くて偏ったものでしかない。その「意味」は、本当の意味ではない。
本当の意味というのは、純粋に知ることが楽しいし、体験することが楽しいし、できたこと、できるようになることが楽しい――
そういう生き物としての知的好奇心(生存本能から来ている。動物にもある)から来る純粋な喜びだ。
この夏、十代向けの本や参考書に触れて感じたのは、「こんなに面白い、考えさせられる、心をくすぐってくれる、感動させてくれる言葉が、世の中にはあるんだ」という純粋な感動だった。
参考書そのものは、「意味のない勉強」に合わせて作られているから、その姿そのものには魅力がない。むしろゲンナリする。
だが、その中に取り上げられた、広い世界の、各分野のプロや「その道を生きている人」の言葉というのは、それ自体が無性に面白い。
こういう言葉に出会えるだけでラッキー、と思える(これ、主に国語の話をしています)。
この純粋に楽しめる感性は、私が十代の頃に育てたものだ。「意味のない勉強」から離れて、独りになって、いったん心を「漂白」して、
真っ白になった心で、純粋に楽しめる言葉を探し始めたところから、私の「意味のある勉強」が始まった。
その勉強は、本当に意味があった。ちゃんと面白さ、つまりは本質が見えていた。
だからこそ、何十年も経った今でも、その頃と同じように「面白い」と思える。
「面白い」うえに、「わかる」し、さらに自分で「足す」ことも可能になっている。「こんな書き方も可能」とか「ここからこんな展開もできる」とか。
さらには、自分がとらえた本質を発展させるような問いを作り、関連する知識や情報やテーマに「広げる」ことも可能になっている。
「やっぱり勉強って面白いなあ」と感じたその瞬間に、脳がグンと若返った気がした(笑)。これ、ほんと。
「あれ、自分、歳取らないぞ?」と感じた。ものすごく心が若い。「こんなに面白いことが、人生にはまだまだあるんだ」と思えたから。
年齢という概念を超えた境地。いわば、仏教で得た境地と、本当の勉強で得た知力が融合して生まれた、”草薙龍瞬3.0”的な心境(なんか陳腐でヤな表現だがw)。
こんなに面白いことを伝えない手はない。面白いから伝えたい。
「はよ子供たちと勉強したい」とは、そういう心境から出てきた言葉。
なお、大人のみんなも、同じ勉強を体験してもらおうと思います。同じ言葉に触れて、同じように考えて、みずからを振り返ってもらう。
他人の言葉を通して、他人の心の中やその人生に触れる。すると、自分の人生を外から見ることも少しできるようになる。
さらには、自分以外の人生に「仏教をどう活かすか」という新たな視点で思考することができる。
これまで学んだことが、「そうか、場面が変わったからわからなかったけど、仏教はこうやって活かすんだ」とわかる。
子供も大人も楽しめる。大人も同じように”通信添削”を受けてもらうことも可能w。
最初はおそらく難しすぎて、脳の血管がプチプチ切れるのを感じるかもしれない(ヤバいか笑)。それは、固まってしまった自我を一度解体する時間でもある。
そういう”プチプチ”を重ねていくと、次第に考えることが楽しくなってくるだろうと思う。
「心は歳を取らない」ということが、ふとした瞬間にわかる時が来る。
そういう面白さも見えるから、「とはいえ、早く子供たちと学びたい」という思いが出てくるのでありました。
2025・9・11
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「そういう時期」という理解
9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。
サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。
でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。
来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。
◇
今がつらい人へ――
つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。
人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。
そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。
「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。
だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。
ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。
できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。
この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。
2025・9・11
夏の国語キャンプによせて
<おしらせ>
9月21日(日)午後に個人相談会を開催します。ご希望の方は、公式サイトおよびカレンダーをご覧のうえ、必要事項をご連絡ください。
◇◇◇
夏の国語キャンプにご参加くださった皆様、おつかれさまでした。そしてありがとうございました。
興道の里では、大人向けの仏教講座を開催してきましたが、今回は子供たち向けの初の試みとなりました。
遠い昔、まだ自分が何者かわからなかった頃に、いくつかの世界を渡り歩き、その間に多くの十代の若者や子供たちと出会ったことがあります。
かつての私にとっては、ただ勉強を教えるというより(そもそもそういう発想は大嫌い)、自身が高校に行かなかった空白を埋めるための時間であり、授業をきっかけに新しい知識や言葉を見つける個人的な趣味でもあり、前に進もうとしている若い人たち・子供たちへの純粋な励ましでもありました。
私は個人的に、人を応援することが大好きなのだと思います。これは性格です(出家前の)。
子供たちとのやり取りは純粋に楽しく、子供の姿を受け止めて、価値あること(生き方・学び方)や励ましの言葉を向ける仕事は、もともと人間が好きで、かなりの熱血でもある私の「性に合う」ものです。
今の私はいくつかの役割を授かっていますが、教えること、それも十代の子供たちに――というのは、もともと得意でもあり好きでもある「天職」の一つであろうと思うので、
このプロジェクト(明日を育てるプロジェクト#旅する寺子屋#国語キャンプ)は、今後も続けていこうと思っています。
◇
子供たちと向き合うのは久しぶりで、どうなることやらと思っていましたが、個人的には、子供たちとの垣根を感じませんでした(坊さんになって完全自由な心を得てからは、やりとりの技みたいなものに、いっそう磨きがかかったかも笑)。
来てくれた子供たちは、みんな頑張ってくれたし、素直だし、一見聞いていないように見えても実はちゃんと聞いているし(すごい(笑))、元気がなさそうだった子供も終了後に挨拶に来てくれたりと、
みんながそれぞれに受け止めてくれたような気がして、「やってよかった」と感じ入りました(TへT)。
あの子たちが、揺れやすい十代という時間を、大切なことを見失うことなく、無事潜り抜けていってくれたらと願ってやみません。
親との関係や、家での時間や、学校の友だちや先生や勉強・進路のことなど、心を重くする物事を、すでに背負っている子はいるだろうし、これから背負う子も出てくるだろうと思います。
そんな時にほんのわずかな時間でいいから、会って話ができる場所や機会があれば、「心の荷物」を早めに下ろすことも可能な気がするのです。
その意味では、それこそ週に一度でも教室を開きたいくらいですが、それはかなわず・・。
今回出会った子供たちが、この先も自分らしく育ってくれることを願っています。
<旅する寺子屋・国語キャンプ>の来年以降のスケジュールは、決まり次第、公式ブログ内で告知します。
子供たち向けのこのプロジェクトは、この命の情熱が続くかぎり(まだまだ燃えております)、続けていきたいと思っています。
またお会いできれば幸いです。
みんな、元気でね!
※授業のフォロー(解説その他)をお送りしていますので、当日の参加者でメールアドレスを登録していない方は、koudounosato@gmail.com までお知らせください。
2025年9月1日
やれることをやる
ここ一週間は、怒涛の忙しさ。生きるというのは、矛盾まみれの支離滅裂。
このブログも、全国行脚の続きとか、子育て論とか、さまざまな話題を用意しているのですが、まとまった時間が取れず。
音沙汰がないと心配する(?)人もいるかもしれないので、生きていますと報告する程度のおたよりをお送りしている次第です。
◇
講座の本格的再開は、来春になるかな、と思っています。「ブッダの生涯」(原始仏教)をやるか、「大人の寺子屋~言葉で生きる(言葉で人生を作る)」講座(通信添削つき)をやるか、それとも両方やるか。
できることはやる。「やりたい(それを望む)」からではなくて、自分にできて、しかも価値がある(役に立つ)可能性があるなら、まずはやってみる。
与えられた時間は、可能性に挑戦する時間。いや、挑戦というより、やってみる程度の気楽さでいい。
できそうだから、やってみよう――その思いでやろうとしているのが、この先の活動です。
自分にとっては、命を使い切ることであり、
人にとっては、なにか役に立てることであり、
それは、苦悩を減らし、幸福を一つでも増やすことであり、
ある程度の年季を経た今となっては、「未来を育てる」という方向性に向かうことでもあります。
生きるというのは、必要なこともそうでないことも、価値あることもそうでないことも、バラバラに同時進行で背負うこと。整理しきれるものではないし、選び取れるものばかりでもない。もともとそういうものなのでしょう。
雑多な出来事を、それでも心のバランスを失わずにやっていけるのは、「この手を使ってできること」という確かな輪郭(限界)があるからです。
この手を使ってできることだけが、できること。
手を使ってもできないことは、現時点ではできないし、やらなくていい。
そういう線引きをはっきりさせていれば、外の物事が雑多かつ混乱しているとしても、心そのものは混乱しない。
この場所は、これからも、やれることを淡々粛々とやっていきます。
以上、近況報告でした。
2025・8・23
『怒る技法』オーディオブック配信開始!
博多に行きます~8月2日(日本全国行脚2025)
草薙龍瞬の夏の全国行脚2025博多入り、まもなくです。
2025年8月2日(土)
13時30分~16時30分
<会場>
福岡市内の公共施設(ご連絡くださった方にお知らせします)
<内容>
今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州・博多を訪問します。参加者の質問・関心に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。仏教の考え方をフル活用しますので、内容は幅広く、かつかなりディープです。
<参加費>
1組 2500円
*乳幼児をお連れの方を歓迎します(途中退室も自由です)。
言葉にならない時間
この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。
今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。
それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。
マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。
こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。
外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。
◇
ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。
滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。
まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。
地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。
80年前の大空襲で亡くなった人たちも、焼け野原に立ち尽くしていた人たちも、その後一度も戦火を交えなかった東京が、ここまで復興して、こんなにもバカでかいタワーが出現するとは、夢想だにしなかっただろう。
戦争さえしなければ、街を破壊しなければ、これだけの繁栄が現れる。変わらない世の中への不平不満は続くにしても、退屈ではあっても、やはり平和のほうがいいに決まっている。激動なんてなくていい。平凡で少し退屈なくらいの日常が、百年、千年と続いていくほうが、はるかによいはずである。
人は人としての生涯をまっとうできるだけで十分なのだろうと思う。生きて、働いて、遊んで、ときには退屈をもてあまして、いっとき家庭を持って、新しい命を育てて、時期が来たら静かに身を退く。それだけで十二分。激動の十年よりも、退屈凡庸な百年のほうが、きっと価値はある。
この世界は、私という茹でガエルが一匹いなくなっても、きっと続いていくのだろう。遠い未来には、人類もこの地球も宇宙にも、やがて必ず終わりが来て、その後は果てしない虚無が永劫続く定めだとしても、人類という種は、もうしばらくは続く可能性が残っている。
『看護教育』
医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。
十年間なんとか続いた看護専門学校での講義について。
『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です(その内容充実ぶりにびっくり)。
看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。
看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。
とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。
無理なものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。
どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、見える部分は明らかに見えているのに、
みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。
大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。
「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。
だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、
でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。
坊さんというのは、いろんな分野に通じる ”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(とざま:部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。
問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、
中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。
心優しき全国の看護師さんたちみんなと、つながることができたらと願っているのだけれど。
2025年7月25日
8月・9月の講座スケジュール
興道の里の最新スケジュールです。
詳しくは公式カレンダーをご確認ください。
*愛知(栄および高蔵寺)の講座は主催者が異なりますので、スクールで直接お手続きください。
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8月16日(土)
子を持つ親の生き方&育て方学習会
13:00~17:00
千葉県野田市
子育て中の親のための学習会を開催します。親と子供の両側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。子育てに後悔したくないお父さん・お母さんの参加を歓迎します。
8月31日(日)
小中学生向け夏の国語キャンプ
13:00~17:00
千葉県野田市
<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。
8月29日(金) ※8月30日は満席のため臨時増設しました
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂
<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③相談内容(可能な範囲で具体的に) ④ご希望の時間枠 ⑤連絡先(臨時連絡用) を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。
※初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。
※すでに満席の場合および相談内容にてらしてお役に立てる可能性が低い場合は、返信しておりません。その場合はお寄せいただいた情報を消去する形で対応しています。あらかじめご了承ください。
<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05
9月6日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京 要予約
※登録制です。初めての方は、公式サイト内の<活用ガイド>をご覧ください。
9月13日(土)
18:00~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会
東京 要予約
<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。オンライン受講可(要登録)。
★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。
参加ご予約は、①お名前 ②自己紹介(お仕事・生活など) ③当日のテーマ(質問・相談などを可能な範囲で具体的に:内容を一般化したうえで当日お答えします) ④連絡先(臨時連絡用)を koudounosato@gmail.com まで。折り返し詳しいご案内をお送りします。
9月15日(祝月)
13:30~15:30
愛知高蔵寺・公開講座「仏教で思い出そう『あの日の幸福』を」
無料相談会つき
「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。
会場 高蔵寺中日文化センター
予約・問い合わせ 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html
久しぶりの坐禅会
7月は、大阪・看護専門学校での講義に始まり、市民講座や企業向けの講演や奈良入りや名古屋での講座を経て、東京での久しぶりの個人相談会&坐禅会、さらには連載中の原稿&イラスト描きと、かなり忙しい時期が続いて、
昨日、7月ラストの坐禅会が終了して、ようやく一息(といいつつ実感としては半息くらいだけれど)つけるようになりました^^。
昨日夜の坐禅会は、みんな久々に来てくださったのに、それぞれの近況を聞き損ねてしまいました。申しわけなかったな・・と思います。今度一人ずつ感想・近況を聞くようにしましょう。
でも、みなさんのお顔を見ることができて、よかったと思います^^。
個人相談会も、いろんな人と有意義な時間を過ごせました(今回は昼夜開催だったので、合計10名)。十代の若い人も、人生の締めくくりを一緒に始めようという人も、関西から来た人もいました。
相談内容もほんとに個性的。一人一人が、まったく別の課題に向き合っている。そうした人生の大事な場面にご一緒できることは、とてもありがたく、幸せなことです。前に進んでもらえたらと思います。
9月にも、個人相談会と坐禅会、生き方勉強会を開催します。いずれも、毎回かなり有意義な時間になっています。
前に進みたい人は、ぜひいらしていただければと思います。
2025年7月
色とりどりの皿回し
今年の全国行脚、ぼちぼちスタート。皮切りは、大阪の看護専門学校での3日連続講義。
完全徹夜で大阪入りして、翌朝8時に車で運んでもらって、午前は3年生。午後は1年生。
「患者目線で向き合う」が、最初の約束。
だから、だらしない姿を見せた時は、遠慮なく喝を入れさせてもらう。今回は2回ほど。
今年の講義は、中身もガチ・モードだった。救急救命時の気管挿管の判断という、これは1年でやったことの復習。某薬剤の検証も。
いくつかの資料を見せて、「せめてこれくらいの事実を把握してから判断しなさい」という話。現場の医師も看護師も、学校の先生たちも、ろくに事実を調べず、検証もしていない。
たとえばクラス40人のうち1人でも、歩けなくなったり、最悪死んでしまったりしたときに、親も、医師も、学校も、責任を取れやしない。
取れっこないのだから、最初から無責任なことをするな、言うな、というのである。
「当たれば100%のロシアン・ルーレット」ということを、骨身に沁みて自覚せねばならない。一度失ったら、永久絶対に帰ってこないのだから。未来の可能性も、命も。
他には、くも膜下出血で運び込まれた患者への対応如何と、5歳の女児にアデノイド摘出手術をするかの検討。
きちんと手順に沿って知識・情報を整理して、本人が納得できる結果にたどり着くことが、プロに求められている仕事。そのための技法を伝えるのが、この授業の狙い。
錯綜する情報をどのように整理すればいいか、その視点(いかに理解するか)と、どんな手順で結論を導き出すかという論理的道筋を、伝えることが目的だ。
1年生にも3年生にも、同じ熱量と充実の中味を伝えたつもり・・だが、どれだけその心に残っているかは未知数。
でも今年も、納得のいく講義ができた。自己満足。だが自己満足こそは、教育の基本だ。
3年生は、これでお別れ。せっかく3年間、いい体験をしてきたのだから、一人たりとも落ちないように、と最後にエールを送った。
◇
私はただの坊主に過ぎない。医療・看護の素人にすぎないが、人の命を想う熱と真剣さは尋常を越えたレベルで持っている。
その部分こそがずっと燃やし続けてきたものであり、看護学生に伝えられる最も価値ある部分、つまりは「倫理」であろうと思う。
私が伝えている程度の知識や情報など、プロになった時の彼らには、常識として知っておいてもらわねばならない。私以上に人の痛みを感じ、救うための方法を選び取り、患者の心身の痛みを取り除いて、その日常に戻ってもらう。その手助けをしてもらわねば。
日進月歩の医学・看護の知識も、私以上に通暁して、素人の坊主である私にもはや教えられることはなく、次回は病院にて、弱くなった体をケアしてもらう、おとなしい患者の一人として再会してもらわねばならない。
彼らが進もうとしている道は、仏教とは離れた世界なのだが、人に貢献しようという情熱は共通しているはずだ。
そもそも医学も看護も、患者の苦しみを癒すための技術なのだから、患者目線で納得できるものでなければならないことは当然だ。
ならば、伝えられることもある。
今回は、いずれのクラスにも、よい変化が生まれたような気が(勝手に)している。
しっかり学び続けて、無事合格してもらいたいものだと思う。
◇
授業終了後は即移動して、神戸で企業向けの講演会。終了後はどしゃぶりの中を新神戸駅まで走って、新幹線でいったん帰京。週末2日で次の講義の教材を作って、月曜には奈良、火曜は名古屋、水曜は大阪だ。
いや、忙しい。だが幸せな忙しさだ。いろんな役目を授かっている(そういえば、この3日の間に新聞連載用の絵も描いた笑)。
色とりどりの何枚もの皿を頭の中でめまぐるしく回している思いがするが、これくらい同時進行で廻っているほうが快適なのだ。
遠い昔は、一つの仕事・一つの世界に収まりきれない自分がおかしいのかと思っていた。変わった人間だと実際に言われていた時期もあった。周りに合わせて一つの器に自分を押し込めようとして、頭も心も回らなくなってしまった時代があった。
あの頃の自分と、今の自分は、まったく別人だ。今の自分は生きている。縦横無尽に動いて、持っているものを、存分に活かすことができる。
まさかこんな “仕事” がありうるとは。人生は不思議で面白い。
2025年7月
夏の国語キャンプ2025開催のおしらせ
勉強だけど、勉強っぽくない“ゆる系”の国語です。でもちゃんとチカラがつきます。筆記具だけ持参してください。お友だちや親と一緒もOKです!
夏の講座スケジュール
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<講座スケジュール>
13:00~15:00
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html
大阪・公開講座 生き方として学ぶ仏教・全4回 最終回
大阪・岸和田健老大学(NPO法人)
18:30~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会
東京・新宿区 ※場所は案内メールでお知らせします
個人相談会
東京・新宿 場所は予約者にお知らせします
<時間枠>
⑥17:45~18:30
⑦18:35~19:20
⑧19:25~20:10
⑨20:15~21:00
⑩21:05~21:50
夏の座禅会・午後の部
東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します
夏の座禅会・夜間の部
東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します
博多勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州
お盆休み座禅会
東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します
小中学生向け国語キャンプ
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。
よき学びの機会となりますように
興道の里
2025・6・23
興道の里とは
古い資料の中に、最初期の原稿が見つかりました。
興道の里を紹介するリーフレットを想定して作ったものです。
2012年6月24日付 つまり約13年前、『反応しない練習』(2015年7月)が出る前の ”原始時代” の言葉です。
眺めてみると、まったくブレていないことが印象的。心は変わりゆくから、十年以上昔の自分なんて完全に他人=今は別の人 になっていても不思議ではないのに。
むしろ自己預言していたかのように、当時考えていたことが正確に形になりつつある――という今だとわかって、
おぬし、なかなかタフよのう・・と当時の自分に声をかけました(笑)。
※文中「くさなぎ龍瞬」とあるのは、当時は弱気(?)で「草薙」は難しいのでは?という遠慮からでしたw。
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興(こう)道(どう)の里(さと)とは――
将来に創りたい場所です。“お寺のような、学校のような、村のような”――人々が気軽に集まり、生活し、“幸福への方法”(正しい生き方)を学べる場所。
その支柱となるものは、やはり“ブッダの教え”(正確にはブッダが見つけた幸福への方法)ということになるでしょう(僧侶くさなぎ龍瞬が一番お役に立てる分野ですので)。
ただ、“宗教”的な場所にはしません。宗教というのは、特定の妄想を信じることで救われた気分になる思想だと言えます。しかし、それでは“信じる者しか救われない”という限界があります。
私がめざしたいのは、信じる・信じないのレベルではなく、もっと広く、人それぞれが自分自身の幸せな・満足のいく・納得のいく人生をまっとうするための合理的な方法です。
それぞれが自分の暮らしの中で自由に試し、実践できるオープンな知恵。そしてそれぞれのやり方で、この世の中の改善・前進のために役立つ何か(新しい価値)を創り出せるような生き方です。そういう生き方を学べる場所を最終的に作れたら、というのが、私の目標です。
僧侶くさなぎ龍瞬の活動は、こうした目標を最終ゴールとして組み立てられています。“興道の里”とは、いわば私自身の人生の方向性なのです。
現時点での課題は、「仏教をこの社会にどのような形で伝えれば、最も多くの人に役立つのか?」というもの。いわば “ベストの活用方法” を探している段階です。いくつかの場所で行っている仏教講座や、本の執筆なども、方法探しの一環として行っています。
“このやり方なら仏教を宗教とせずに、より多くの人に役立ててもらえる” という手応えと、経済的基盤が手に入り次第、どこかに拠点を定めて、活動の新しいステージに入る予定です。それが整ったら、さらに次の段階へ――。徐々に整えていきたいと考えています。
ひとの道(生き方)というのは、最終的には、自分以外の誰かの幸せの役に立ち、そのことが自分にとっての幸せになるというあり方に落ち着くのではないか、と個人的には思っています。
僧侶くさなぎ龍瞬が創り出したいのは、人々の幸せにコレだけは欠かせないという生き方・考え方・価値観というものを、取り戻し・発見し・発展させていくための “きっかけ” です。どういう “きっかけ” がこれから生みだされていくか――見守っていただければと願っています。
何より大切なことは、あなた自身にとっての“現実”の改善に、この場所を役立てていただくこと。この場所が提供するのは、心のわずらいを取り除き、浄化する方法。日々直面する問題を解決・改善する方法です。
この場所でお伝えしている内容はすべて、宗教としての仏教ではなく、誰もが実践できる合理的な知恵・方法として組み立てられています。あなた自身の自由なやりかたで学び、活用していただければと思います。
よろしくお願いいたします――。
2012年6月24日付
最初の発掘
今日は文京区の〇〇書院を訪問。医学・看護の専門書籍を発行する最大手だけに、威厳ただよう上質な建物。
看護教育という月刊誌の巻頭インタビュー記事のご取材をいただいた。
毎回だけれど、カメラに向かって笑ってくださいというのが難しい。「演技でいいです」というが(そりゃそうでしょ(笑))、演技は妄想しないとできないから、これも難しい。
医療・看護における倫理とは何か。従来の教科書や専門書は、哲学、歴史、最先端医療、現場の課題、事例研究など、ごった煮状態。
現場で何が必要とされているか、役に立つのか、という実際的な問題意識もなく、「なんとなくこういうものでしょ」レベルの内容で続いてきたのが、医療倫理・看護倫理だったように思える。
「答えが出ない問いだ」なんていう能天気な声も聞く。だが人生は有限で、まして医療・看護・救急救命の現場は一刻を争う選択を迫られている、
そういう現場において、人を救うための「ただ一つの答え」を出さねばならない。それが倫理というものだ。
どんな分野にも当てはまることだが、「見落としてはならない(絶対に見えていなければならない)」ものがある。
だが案外、どの分野においても見落としが多い。医療・看護の分野は、その見落としがひときわ多い印象がある。
言われるまでは思いつかないが、言われてみるとたしかにそうだ・・と思わざるを得ない視点・発想・手順がある。
そういう意外ではあるが、絶対に欠かせない、「現場で見えていなければいけないコレだけのこと」を視覚化・言語化したのが、私が伝えている倫理。
仏教の視点や構造的思考を活かすと、いろんな分野に応用が利く。
「心の使い方」という新しい視点で仏教を再構成・体系化して本に著したところ、「言われてみるとたしかにそうだ(これが本来の仏教か)」と、多くの読者さんが受け入れてくださったように、
今伝えている看護の技法(倫理)も、「たしかにそうだ」と、現場の医師・看護師さんに納得してもらえたらと思う。
今は小さな場所で伝えている”看護の技法”が、いつか医療・看護の一つのスタンダードになってもらえたらという思いもなくはない。
社会において、いつ、どこまで共有してもらえるかは、因縁によるものだから、執着しない(そもそも体一つの人生は短すぎて、そこまで意図を広げる余裕もない)。
ただ、今の時代・この社会において、案外見えていない部分、見つかっていない部分、でも掘り起こして見せれば「たしかにそうだ」と思わざるを得ない部分は、実はかなり残っているから、
そういう部分を最初に掘り起こすことが、この命の小さな役割なのだろうと思わなくもない。
仏教、看護、その次は教育だ。実は掘り起こされていない可能性がある。これを最初に発掘することを、この命の役目として引き受けようと思う。
<おしらせ>
7月9・10・11日と大阪南部の看護専門学校で看護倫理の集中講義を開催します。医療従事者は見学可能です。日時は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。見学申し込みは、お名前・所属・連絡先を興道の里まで。
2025年6月3日
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