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夏の講座スケジュール

興道の里から
 
※最新のブログはこのページの裏に掲載していきます。左側スペースの見出し(スレッド)または、このページ末尾の「前へ」からさかのぼってご覧ください。
 
 
東京での講座を再開します。
あわせて日本全国行脚の日程もお知らせいたします。

*看護専門学校での公開講座は、医療・看護関係者はご見学いただけます。

*講座内容・参加費等の詳細は、公式カレンダーをご確認ください。

*初めての方は、必要事項の登録が必要です。興道の里活用ガイドを最初にお読みください。
 

・・・・・・・・・・・・・・
<講座スケジュール>

7月9日~11日
【公開講座】看護専門学校<3年生看護倫理>
★医療・看護関係者の見学可

7月 9日(水)13:00~16:30 第1・2回
7月10日(木)09:00~12:00 第3・4回
7月11日(金)09:00~12:00 第5・6回


7月15日(火)
13:00~15:00
名古屋 生き方として学ぶ仏教・原始仏教編「ブッダの生涯」
お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html

7月16日(水)
14:30~16:00
大阪・公開講座 生き方として学ぶ仏教・全4回 最終回

大阪・岸和田健老大学(NPO法人)


7月18日(金)
18:30~21:30
自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会

東京・新宿区 ※場所は案内メールでお知らせします

<内容> 仕事や日々の暮らしに悩み・課題を抱えている大人のための勉強会。当日までに寄せられた悩み・疑問を、仏教の智慧を使って解決します。「自分で考えて答えを出せる」ように考え方の道筋さらに個別の解決策まで取り上げます。当日用の特製資料を用意します。★事前の質問・相談を募集します。積極的にお寄せください。 
<対象> 今の仕事・生活に悩みがある人全般 ●オンライン受講可(要登録)。
 

7月19日(土)
13:00~17:00
個人相談会

東京・新宿 場所は予約者にお知らせします

<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、①お名前(実名) ②相談内容(可能な範囲でなるべく具体的に) ③臨時連絡先(携帯番号) ④希望の時間枠 をkoudounosato@gmail.com までご連絡ください。折り返し詳しいご案内をお送りします。

<時間枠> 
⑤16:20~17:05 
⑥17:45~18:30 
⑦18:35~19:20 
⑧19:25~20:10 
⑨20:15~21:00 
⑩21:05~21:50


7月21日(月祝)
13:00~16:30
夏の座禅会・午後の部
東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します

7月21日(月祝)
18:00~21:30
夏の座禅会・夜間の部

東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します

快適な毎日を過ごすには、心の汚れを落とすこと。お寺では学べない坐禅(瞑想)の秘密(アタマの中で何をするか?)を学べる坐禅会。①坐禅・瞑想の実践、②さまざまな話題に関するミニ仏教講座、③なんでも聞ける座談会の3本立て。初参加者には解説ガイドブックつき。希望者には終了後に無料の個人面談(相談)の時間を設けています。


8月2日(土)
13:30~16:30
博多勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州
福岡市の公共施設 ※場所はメールでお知らせします

<内容>今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

8月9日(土)
18:00~21:30
お盆休み座禅会

東京・新宿区 ※場所は案内メールにて告知します


8月16日(土)千葉
13:00~17:00
小中学生向け国語キャンプ 
 
<内容> 小5から中3の子供と親を対象に ”国語キャンプ” を開催します。教材を草薙龍瞬が用意して、国語の読み方・解き方・学び方をわかりやすく紹介。なんでも話せるゆるめの座談会つき。勉強の仕方もわかるし、学校・勉強・友だち・世の中のことも話しあえる一石二鳥のお得なイベントです。親子での参加を歓迎します。
※場所はメールでお知らせします。


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<初めての方へ>
*詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。
*参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 
<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。


よき学びの機会となりますように
 
上記ご案内申し上げます
興道の里



2025・6・23




興道の里とは


古い資料の中に、最初期の原稿が見つかりました。

興道の里を紹介するリーフレットを想定して作ったものです。

2012年6月24日付 つまり約13年前、『反応しない練習』(2015年7月)が出る前の ”原始時代” の言葉です。

眺めてみると、まったくブレていないことが印象的。心は変わりゆくから、十年以上昔の自分なんて完全に他人=今は別の人 になっていても不思議ではないのに。

むしろ自己預言していたかのように、当時考えていたことが正確に形になりつつある――という今だとわかって、

おぬし、なかなかタフよのう・・と当時の自分に声をかけました(笑)。

※文中「くさなぎ龍瞬」とあるのは、当時は弱気(?)で「草薙」は難しいのでは?という遠慮からでしたw。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

興(こう)道(どう)の里(さと)とは――

 将来に創りたい場所です。“お寺のような、学校のような、村のような”――人々が気軽に集まり、生活し、“幸福への方法”(正しい生き方)を学べる場所。

 その支柱となるものは、やはり“ブッダの教え”(正確にはブッダが見つけた幸福への方法)ということになるでしょう(僧侶くさなぎ龍瞬が一番お役に立てる分野ですので)。

 ただ、“宗教”的な場所にはしません。宗教というのは、特定の妄想を信じることで救われた気分になる思想だと言えます。しかし、それでは“信じる者しか救われない”という限界があります。

 私がめざしたいのは、信じる・信じないのレベルではなく、もっと広く、人それぞれが自分自身の幸せな・満足のいく・納得のいく人生をまっとうするための合理的な方法です。

 それぞれが自分の暮らしの中で自由に試し、実践できるオープンな知恵。そしてそれぞれのやり方で、この世の中の改善・前進のために役立つ何か(新しい価値)を創り出せるような生き方です。そういう生き方を学べる場所を最終的に作れたら、というのが、私の目標です。
 
 僧侶くさなぎ龍瞬の活動は、こうした目標を最終ゴールとして組み立てられています。“興道の里”とは、いわば私自身の人生の方向性なのです。

 



 現時点での課題は、「仏教をこの社会にどのような形で伝えれば、最も多くの人に役立つのか?」というもの。いわば “ベストの活用方法” を探している段階です。いくつかの場所で行っている仏教講座や、本の執筆なども、方法探しの一環として行っています。

 “このやり方なら仏教を宗教とせずに、より多くの人に役立ててもらえる” という手応えと、経済的基盤が手に入り次第、どこかに拠点を定めて、活動の新しいステージに入る予定です。それが整ったら、さらに次の段階へ――。徐々に整えていきたいと考えています。

 ひとの道(生き方)というのは、最終的には、自分以外の誰かの幸せの役に立ち、そのことが自分にとっての幸せになるというあり方に落ち着くのではないか、と個人的には思っています。

 僧侶くさなぎ龍瞬が創り出したいのは、人々の幸せにコレだけは欠かせないという生き方・考え方・価値観というものを、取り戻し・発見し・発展させていくための “きっかけ” です。どういう “きっかけ” がこれから生みだされていくか――見守っていただければと願っています。

 何より大切なことは、あなた自身にとっての“現実”の改善に、この場所を役立てていただくこと。この場所が提供するのは、心のわずらいを取り除き、浄化する方法。日々直面する問題を解決・改善する方法です。

 この場所でお伝えしている内容はすべて、宗教としての仏教ではなく、誰もが実践できる合理的な知恵・方法として組み立てられています。あなた自身の自由なやりかたで学び、活用していただければと思います。
 よろしくお願いいたします――。



2012年6月24日付

最初の発掘


今日は文京区の〇〇書院を訪問。医学・看護の専門書籍を発行する最大手だけに、威厳ただよう上質な建物。

看護教育という月刊誌の巻頭インタビュー記事のご取材をいただいた。


毎回だけれど、カメラに向かって笑ってくださいというのが難しい。「演技でいいです」というが(そりゃそうでしょ(笑))、演技は妄想しないとできないから、これも難しい。


医療・看護における倫理とは何か。従来の教科書や専門書は、哲学、歴史、最先端医療、現場の課題、事例研究など、ごった煮状態。

現場で何が必要とされているか、役に立つのか、という実際的な問題意識もなく、「なんとなくこういうものでしょ」レベルの内容で続いてきたのが、医療倫理・看護倫理だったように思える。

「答えが出ない問いだ」なんていう能天気な声も聞く。だが人生は有限で、まして医療・看護・救急救命の現場は一刻を争う選択を迫られている、

そういう現場において、人を救うための「ただ一つの答え」を出さねばならない。それが倫理というものだ。


どんな分野にも当てはまることだが、「見落としてはならない(絶対に見えていなければならない)」ものがある。

だが案外、どの分野においても見落としが多い。医療・看護の分野は、その見落としがひときわ多い印象がある。

言われるまでは思いつかないが、言われてみるとたしかにそうだ・・と思わざるを得ない視点・発想・手順がある。

そういう意外ではあるが、絶対に欠かせない、「現場で見えていなければいけないコレだけのこと」を視覚化・言語化したのが、私が伝えている倫理。


仏教の視点や構造的思考を活かすと、いろんな分野に応用が利く。

「心の使い方」という新しい視点で仏教を再構成・体系化して本に著したところ、「言われてみるとたしかにそうだ(これが本来の仏教か)」と、多くの読者さんが受け入れてくださったように、

今伝えている看護の技法(倫理)も、「たしかにそうだ」と、現場の医師・看護師さんに納得してもらえたらと思う。

今は小さな場所で伝えている”看護の技法”が、いつか医療・看護の一つのスタンダードになってもらえたらという思いもなくはない。


社会において、いつ、どこまで共有してもらえるかは、因縁によるものだから、執着しない(そもそも体一つの人生は短すぎて、そこまで意図を広げる余裕もない)。

ただ、今の時代・この社会において、案外見えていない部分、見つかっていない部分、でも掘り起こして見せれば「たしかにそうだ」と思わざるを得ない部分は、実はかなり残っているから、

そういう部分を最初に掘り起こすことが、この命の小さな役割なのだろうと思わなくもない。


仏教、看護、その次は教育だ。実は掘り起こされていない可能性がある。これを最初に発掘することを、この命の役目として引き受けようと思う。


<おしらせ>
7月9・10・11日と大阪南部の看護専門学校で看護倫理の集中講義を開催します。医療従事者は見学可能です。日時は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。見学申し込みは、お名前・所属・連絡先を興道の里まで。




2025年6月3日



看護に感情は要りません

某看護専門学校の講義にて:

 

 「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのです(1980年代)。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、CAと似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。


相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。


ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。結局、ストレスを強いられる側が努力しろという発想。いや、それはおかしい。コントロールとかマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスです。19日に学校で講演やりますw。


なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、優しくケアして患者の感情を「操作せよ」だなんて・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。


看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?

 

 2023年9月某看護専門学校にて

 

命が還る場所


春の日の法要に足を運んだ。今回の霊園は、無宗派・無宗教の人の墓も扱っているとあって、墓石はバラエティに富んでいる。御影石、大理石、黒曜石と材質は様々で、カタチもユニーク。故人が選んだメッセージを刻んだ墓もペットの墓もある。

海外の仏教国では遺灰を土か川に戻して終了だ。墓石は日本独自の伝統だが、子々孫々のつながりの象徴としての墓は大事にしていいものと思う。

今回の故人は自然葬を選ばれた。青い芝生の上に、直径十五センチほどの丸い穴が二つ。そこに係の人が遺灰を入れていく。さらさらときれいな白い故人が土に還っていく。芝生の蓋で丁重に閉じた。

その前で私は額づいて礼拝する。この日より始まる新たなつながりが久しく続くようにと。

故人を作っていた物質は土に還る。そのうち分解されて土へ植物へと姿を変えてゆく。いつしか命の連鎖に組み込まれて、はるか未来には別の命に宿っているかもしれない。すべての命は法縁(つながり)の中にある。

もし故人の姿が、生者の心に愛おしい姿で宿ってくれるなら、故人の命は形を変えてなお続くことになる。肉体は土に帰っても、生者の心の中に生きていく。

特に遺すべきは、旅立った命が懸命に生きた姿だ。たくさん苦労もしただろう。悲しい出来事もあっただろう。だが新たな命を育てて人生を全うした。命としての尊い勤めを終えたのだ。その奇跡に生者たちは尊敬と感謝を。

そして自分たちもまた幸福をめざして十二分に生きねばならない。その覚悟を墓の前で新たにするのだ。


生きていた間の苦しみは、死んだ後に持っていくことはできない。ブッダが語った八つの苦しみは、現実を生きる中で生まれる。心か体の苦しみだ。

だが体を作るものが自然に還り、それまでの心がほどけた後には、苦しみは続かない。つまり命の終焉は、やすらぎへの回帰だ。人の苦しみは永久には続かない。死をもってやすらぎに還る。あとはつながりの世界へ、目の前に広がる自然へと還っていくのみだ。


広い世界を見渡してみれば、日が登り、月が輝き、星々がきらめいている。青い空に流れる雲にほとばしる清流に海がある 無数の緑が今も呼吸をしてこの星は凄まじい速度で回り、宇宙を旅し続けている。

広い世界を見渡せばわかること。どこにも苦悩は存在しないということ。過去数えきれないほどの命が自然に還っていったが、その苦しみはどこにも見当たらない。それが命の帰結なのだ。澄明とやすらぎが待ってくれている。



※興道の里アーカイブ(過去の活動記録)から


2025年5月28日

 




夏の日本全国行脚2025 訪問地募集!

九州・博多訪問決定

8月 2日 (土曜日)⋅13:30~16:30
勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州

今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

参加希望者は、①お名前(実名) ②簡単な自己紹介 を koudounosato@gmail.com まで。折り返し当日の会場の場所を含む案内をお送りします。

参加費2000円(※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません) 

※子供が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください)。乳幼児の同伴は歓迎します(途中退室も自由です)。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今年も夏の日本全国行脚を開催します。

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある

など、お気軽にご応募ください。


夏の全国行脚は2013年から。今年で13年目に入ります。

よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、

ぜひご活用下さい。


◆◆◆◆◆◆◆
<訪問地募集>

期間 7月9日から9月15日まで:

7月9日(水)~21日(月祝) 西日本 近畿・中部・ 山陽・山陰
7月26日(土)~8月3日(日) 四国・九州
8月9日(土)~17日(日) 関東・東北・北海道
8月23日・24日(土・日) 北陸・甲信越
8月30日(土)~9月7日(日) 沖縄


◆◆◆◆◆◆◆
<確定済みスケジュール>

※スケジュールは、確定次第、公式ブログ内のカレンダーで公開します:

7月9(水)・10(木)・11日(金)
南大阪・看護専門学校特別講義(3日間) 
※医療従事者で見学をご希望の方はご連絡ください。詳細をお知らせします。


7月11日(金)午後 
神戸・講演会(非公開)

7月15日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター

7月16日(水)
大阪・岸和田 公開市民講座

8月19日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター


9月15日(月祝)
愛知・高蔵寺 特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 


◆◆◆◆◆◆◆
<全国行脚への応募方法>

1)応募のご連絡

下記をメールでご連絡ください:

①お名前 
②ご住所 
③連絡先(携帯番号)
  +
④訪問を希望する場所
※およそでかまいません。「自宅を希望」「〇〇という公共施設の使用を考えています」等)

⑤訪問希望日
※「〇月〇日から〇日までの間」「〇月〇日を希望します」など、およその日程をお知らせください。

⑥応募理由
※「仏教の勉強会を開きたいです」「〇〇について相談したいことがあります」「親族を集めて法事を執り行いたいです」等

※初めて応募する方は、詳しい自己紹介をお願いします(仕事・日頃の生活・課題などなるべく具体的に)。 
※勉強会については、会場を手配していただくことになります。告知は興道の里でも行います。
※個人相談をご希望の場合は、相談内容をなるべく具体的にお知らせください。内容をふまえて訪問の可否を検討します(さまざまな用事を調整して最終決定しますので、必ずお応えできるわけではありません。あらかじめご了承ください)。

※①から⑥までの記載が不十分・不明瞭な場合は、返信差し上げておりません。あらかじめご了承ください。


2)興道の里からご連絡

*ご応募内容を興道の里のほうで検討し、お応えできる可能性がある場合は、興道の里事務局から折り返し案内メールを差し上げます。

*全国行脚期間中は、直前のご連絡でも、スケジュール調整が可能であれば対応しています。いつでもご応募ください。


3)訪問日・場所の確定

*ご連絡をいただいてのち、事務局と応募者との間で、訪問場所・日時等の詳細を確定していきます。

*講演・勉強会など公開企画については、公式ブログ内のスケジュールに掲載するとともに、一般向けにも告知いたします。


4)予定日に訪問します


◆◆◆◆◆◆◆
<その他>
*いずれも真摯な動機・意欲が伝わってくることが条件となります。

*勉強会の内容は、仏教・子育て・働き方・心の健康・十代の生き方&勉強法など、ご希望に応じます。開催規模の大小は問いません。

*個人相談については、相談内容の詳細をお知らせください。内容によっては、ご要望にお応えできない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

*勉強会・講演の告知用の文面・タイトルなどは、主催者(応募者)からもご提案いただけます。興道の里もお手伝いしますので、お気軽にご相談ください。

*当日の参加費またはご負担のない範囲のお気持ち等で、交通費・宿泊費を調達します。旅の途中に立ち寄るという形式を取りますので、正規の講演・講座のような一定額のご負担を求めるものではありません。お気軽に、ご負担が過ぎない範囲でご協力ください。


ご応募・お問い合わせは、メールで  koudounosato@gmail.com までお寄せください。

お応えできる可能性がある場合は、折り返し詳細を記した案内をお送りします。


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夏の日本全国行脚は、毎年たくさんの出会いと学びを得られる貴重な機会になっています。
お気軽にご応募ください。


充実の夏をめざして
現地でお会いいたしましょう

興道の里・草薙龍瞬

さあ、夏が始まるよ!
(猛暑にだって負けないよ!)



一般公開
2025年5月12日



ひっそりと、つつましく


このプロジェクトがどのような規模になるかは、未知数です。

つつましく、でも確実に、というこれまでの方向性に沿って進める予定です。


できあがってしまった社会と人を変えることは難しい。

育てるならば ”芽” の段階からと、これまでの活動を通じて痛感したことが、きっかけです。


仏教だけでは、新たな価値を創造できない。

仏教ほど、人によってどうとでも受け取れる思想は、他にないかもしれない。

ゆえに都合よく利用され、奪われ、変容していく傾向は避けられない。


仏教と、金儲けや自己顕示とは、相容れない水と油、別宇宙のようなもの。

本来の仏教は、ただ、

苦しむ人のために、

自分の命を、この世界の片隅で、人の幸せのために活かそうと頑張る人のために、ある。



この世界はあまりに利己と狡猾と虚栄に満ち、

仏教という智慧さえも、私欲のために使おうとする場所だから、


仏教というものを、汚されず、利用されることなく、

本当に必要としている人に向けて届けようと願うなら、


必然的に、世にあって世に染まらず、

欲と怒りと妄想に満ちたこの世界とは、一線を引いて、

自己をさらすことなく、目を引くことなく、

ただひたすらに陰のなかを、地道に、つつましく進んでいくことになる。


この場所は、世俗的価値を追求しない。

そうしたものへの執着は、とっくの昔に手放しているから。


時流・世相に感化されることなく、

50年後も色褪せない普遍的な価値を遺せるように、

残りの時間を使って参ります。



わかる人たちに向けて

草薙龍瞬



いろんな場所で

春は本当に良い季節です。

新入生、新入社員・・若くてキラキラしている人たちが社会に入ってきます。

未来を見て、人を信じて、だからこそ優しくいられるというのが、本来の若さなのかなと思います。

(歳を重ねると、未来ではなく終わりを見て、人を疑って、やっかんで、だからこそ寛容になれない・・という大人もいたりします^w^;。野暮な対比ですけれど)

「彼らがこの世界の未来を創っていってくれるんだなあ」と感じてほのぼのできる、そんなJI&BAでありたいと思います(笑)。

※JI=じじ BA=ばば これも余計な注釈ですがw)


個人的には、この春は、人生の局面が大きく変わった季節です。人生そのもののパラダイム・シフトというか。

これまでは独りで生きて、自分の力でなんとかする(せねば)という人生でしたが、

この先は、人さまとのご縁によってさずかっているものを、どう未来に、もっと美しい可能性のために活かすか、ということを真面目に考える人生に入っていく気がします。

「育てる」ということ。この手のひらに受け取ったものを。未来を。

これは、完全に新しい挑戦です。

生きるというのは、面白い。

それを教えてくれたのは、この場所(本)を見つけて、これまで関わってきてくださった皆さんということになります。


見えているご縁も、見えていないご縁もあるようです。

いろんなところで、誰かが見つけて、その心に新しい何かを宿してくれている。

そんなことを教えてくれるおたよりもいただきます。たとえば・・


東京新聞2025年4月29日朝刊

春は別れの季節

 

某出版社の担当編集者Tさんが早期退職するという。突然の話。

西日暮里でお別れ会(?)をすることになった。

担当者が変わったら、本はよそ者になってしまうので、進行中の企画(十代の生き方・学び方)はいったんお蔵入りに。というより、版元を変えて出すことになった。

本づくりは、今の時代には割に合わない仕事だ。一生懸命書いて、編集して、校正かけて、デザイナーさんに凝ってもらって、印刷所の人たちの労力も介して、

あの厚くて重たい紙の本が出来上がる。それでも一冊1500円行くか行かないか。

90年代は、初版1万部が標準だった(それでも売れた)のに、今は4000部くらいで出して様子を見ることがほとんど。

本の原稿はライターさんが書くことも多いが(私の本は違うけれど)、今や本の数も印税率も下がっているから、著者だけでなくライターも食っていけなくなりつつあるのだとか。

出版業界が元気だったのは、80年代から90年代か。雑誌もムック本もよく売れた。だがパソコン(特にWindows)が登場して、スマホが登場して、プラットフォームが情報空間を寡占して、SNSや動画が普及するようになって、人々は本に手を出さなくなった。決定的な理由は「本を読むよりラクだから」だろうとは思う。

90年代は、カバーや帯も色校といって、何色か見本を出して、どっちがいいかなんて編集部内で話し合って、そのやりとりが楽しかったのに、今はそういう費用もかけないのだそうだ。表紙の次に来る色紙(厚めの画用紙みたいなページ)も、今はつけなくなっているとか。

雑誌やムックなんて、仕上げの段階では連日の徹夜だった。若い女性編集者も長髪で明かりを遮って、椅子を並べて簡易ベットにして寝ていたりした(寝起きは貞子状態)。

そんな時代もあったけれど、今は本も売ることが難しくなって、雑誌・ムックも廃刊が続いている。

Tさんの出版社では、社員の3分の1が早期退職に応じたのだそうだ。会社のカラーも影響しているようだけれど、「割に合わない」ことを実感している人がそれだけ多いということかもしれない。

二十代の頃、書き手ではなく、作り手として、出版業界の内部に”居候”していた時代がある。いろんな人たちがいた。作家もライターも編集者も出入りする人たちも、語弊があるかもしれないが、クセのある人たちが多かった。

本や雑誌を作るというのは、そういうクセのある人たち、闇を抱えた人たちにとっての溜まり場的な意味もあったように感じるけれど、この業界が小さくなっていったら、当時出会ったあの人たちは、どこで生きていくのだろうとふと思う。

世の中、世渡り上手な人ばかりではないだろう。その時代の風潮とかお金儲けの仕組みとか、そういうものに乗り切れない人だって、たくさんいる。

不器用でも、闇を抱えていても、クセがあっても、それなりにみんなが生きていける、そんな世の中であってほしいし、本に人生の時間を注いできた人たちが全員生き延びていける社会であってほしいと思う。難しいけれど。

「もののけ姫のテーマソングが聞こえてくる」という話になって、一緒に笑った。

次の仕事はまだ考えていないという。ゆっくり休んで、また新しい未来に歩んでゆかれることを願って手を振った。

春は別れの季節でもあった。



2025年4月25日



まだ彼岸にて

台湾メディアの人たちと東京・九段下で例の打ち合わせ。

オンライン配信は、コンテンツをどう切り抜かれるかわからない怖さがある。正直、手の届く範囲で価値を創り出せれば、個人的には満足なので、彼らが期待するほど、メディア露出(特に海外に)しようという思いになっていない。

だが、たしかに時代は、本ではなく、動画・映像に向かいつつある印象。本は、目を使い、頭を使って、活字(視覚)情報を、脳内の思考情報(知識やノウハウ)に移し替える必要がある。

それは、本来の脳の使い方(そこまでやらないと、知識は定着しないし、行動にも移せない)ではある。だがたしかに、ある程度の労力(意識というエネルギー、いわば心のカロリーの消費)が必要だ。

動画がなぜ人気かというと、思考情報に変換する手間が省けるのだ。音声で聞ける。活字ではなくビジュアルで把握できる。「見ているだけで、ある程度情報が手に入る(気がする)」のだ。

もっとも本来は、そうしてインプットした情報を、言葉または身体の動きに変換できないと、得た・学んだことにはならない。そのままでは見っぱなし、聞きっぱなし、で何も残らないことになりがちだ。

「いざ語るとしたら、行動するとしたら、その情報をどう活かす?」というところまで考えて、実際にやってみる(アウトプットする)必要がある。動画情報も同じこと。

その点では、動画であっても労力は必要なのだ。でもそこまでの労力が求められる(試される)機会はないから、たいていは見っぱなし、聞きっぱなしですんでしまう。結果的に、ずっとラクしていられる。だから「本よりも動画」になってしまうのだ。



情報を言葉や行動レベルに落とし込めるだけの「読み込み力」(学習力)を持っている人は、多くないかもしれない。だから、本であれ、動画であれ、”人それぞれの現実を変え、現実を創りゆく力”(効果)は、さほど変わらないのかもしれない。

力(効果)が同じなら、アクセス数(届く人々の数)を増やせば、全体の効果は上がることにはなる。ならば、動画も本以上の価値はあるのかもしれない。

ただそこまで論が及んだ時に、動画・ネットメディアの無秩序さ・低俗さ、それゆえの怖さ、そこに露出することのリスクを考える必要が出てきてしまうのだけれど。

そういう世界に身の半分を置いてよいのかどうか。置く価値があるのかどうか。

置けば、確実にプラスの価値も創造できる。それは確かだろうとは思うのだけれど。



台湾では、『反応しない練習』がロングセラーで、『これも修行のうち。』が続く。今は『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』が翻訳進行中。

『怒る技法』は、韓国版、アメリカ版が進行中。

『反応しない練習』は、韓国、台湾、中国、シンガポール、インドネシア、オランダ、ドイツ、ルーマニア、ポーランド、ハンガリー、スペイン、イギリス・・・(正直把握しきれていません笑)。


”合理的な心の使い方”というアプローチ(それが妄想を抜けたブッダ本来の伝えたかったことだろうと理解しているが)は、斬新ではあるだろうし、

宗教という踏み絵を敬遠する人々が求めることは、わかる気がする(それでも正直、どこをどのように受け入れてくださっているのか、著者としてはいまだによくわかっていないところがあるのだけれど^^;)。

理想は、自分自身は出て行かなくても、本が頑張って未来に遺ってくれること。リアルタイムの人生は、小さな創造の満足だけで終わらせることができれば、それが一番無難で安全。誰にも見つからず、人さまの不満や干渉を受けずに、静かに生きて終わること。

まだまだ自分の中でやらねばならないこと、できることはあるから。


まだ”彼岸”を選んでいる自分がいる。



『怒る技法』韓国語版
真ん中の4文字はメンタル・アーツ(心の技術)なのだそうです



2025年4月25日


「そんな人生もあったらいいな」の5年後

 

そもそも興道の里の「興」の字は、実は 同 ではなくて、幸 を両手で支え持つという象形文字です(勝手に造った漢字(笑))。

日本に帰ってきた2011年夏に、この国の幸せを増やせるような活動をしようと考えて、最終的に選んだのが、この呼び名でした。

「お寺のような、学校のような、里のような場所を作りたい」というのは、活動当初からお伝えしていたこと。

でも、その頃は、講座にもほとんど誰も来なかったし、本も出していなかったし、出しても(最初の本が2012年)まったく届かなかったし、

生きていけるかどうかもわからない。「いつかインドに帰れたら」という思いで、教室に竹筒を置いていたような状況でした(2013年12月にインド帰郷が実現)。

「里」と呼べる場所も、できたらいいねというくらいの話で、ほとんど現実味はなく、「せめてめざすとしたら」という、まさに方向性(妄想)として使っていたくらいの話だったのです。


幸いに、これまた奇跡というしかないくらいの幸運だったのだと思いますが、2015年夏にあの作品が世に出て、多くの人があたたかく迎え入れてくださって、

最初の方向性に、少しずついろんなご縁がつながっていって、

あのコロナ騒動に突入して、この世界の行く末と、個人的な身の置き所をいっそう真剣に考えるようになって、

いろんな偶然が重なって、今の場所にたどり着くことになりました。


この先どんな物語が始まるのか、紡くことができるのかは、これは想像がつかない(未来もまた因縁次第なので)ものですが、

それでも、方向性(意志)と因縁と、自分自身にできること――の組み合わせによって、不思議といえば不思議なことが、形になろうとしています。

本当に不思議--。


今思うのは、「めざしてよかったな」ということです。

そしてあきらめることなく(あきらめるというのは、負の妄想を選ぶということでもあるから)、

でも過剰に夢見ることもなく、

謙虚に、素直に、地道に、自分にできることを日々やり続けて、歩き続けただけですが、

その先に、最初に夢見たことが、ほんとに形になった――そんな未来にたどり着こうとしています。


下記に紹介するのは、2020年10月にお伝えしていたこと。場所を見つけるどころか、そんなことができる未来が来るとも想像しなかった頃に書いていたことです。不思議--


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

たとえば、どこかの古民家とか、旧診療所とか、集会所など、広めの家屋を、「使ってください」と提供してくれる人が、ひょんなきっかけに現われたら、

そこで、大人と子供たちを呼んで、〇〇〇〇〇を始める――というのは、現時点でも可能。


ちゃんと生き方を伝えますよ。人は幸せになるために生きている、その方法はちゃんとある。

学校や、世の中のおかしさも、ちゃんと伝えます。

こういう生き方のインプットは、小学生までが、ひとつの勝負どころ。


大部屋使って、「学校」みたいなことを始めます。

国語と英語と社会は、かなりレベルの高い、洗練された、本物の学びを提供できます。

数学だって、使う教材を選び抜いて、センスが身に着く、本物の学びをしてもらいます。

学者や作家や、その他あらゆる世界のプロが書いた言葉や映像に触れられる オリジナル教材を作って、

中味の面白い入試問題を選んで、それを使って、論理的な読み方・書き方・考え方を、体験してもらう。

大人がやっても面白い、知的能力が確実に育つ、本当の学びを提供する。


そこでは、和尚であり、父ちゃんであり、先生です。そこで、生き方をちゃんと吸収してもらう。

道場みたいな、学校みたいな、私塾みたいな場所――それなら、今でも可能です。


で、週末とか、夏・冬の休みには、全国から親子で来てもらって、

大人の悩みにも、子供たちの学びにも、朝から晩まで、つきそって、背中を押して、送り出してあげるという――。

ちっちゃな田舎の駅まで車で送って、バイバイ!みたいな。


そんな妄想をしてみました(>▽<*)。


きれいな夕焼け空が見える場所がよいです。

そんな人生も、あったらいいな。



その5年後に本当に見上げている空

空の色だけお見せします(笑)



人生はシンプルでいい

 
名古屋・栄での今年最初のレギュラー講座。テーマはずばり、”ダンマ”――仏教と呼ぶより、はるかにブッダの教えに近づける言葉だ(慣れるまで聞こえは怪しいけれど笑)。

特に今日は、宗教と長く関わってきた人が来ていたから、宗教とダンマの違いをお話してみた。伝わったかな・・。


執着が強い人は、宗教のほうに親しみを感じるものだ。というのも、現実逃避を求めているにせよ、ご利益を期待しているにせよ、その執着に応えてくれる妄想に惹かれるものだから。
 
最初に執着があり、叶えてくれそうな妄想を探す。その妄想を形にしてくれると予感した宗教に惹かれる。そして「信じる」段階に入っていく。

信じることが最初に来るのではなく、本人が自覚していない執着が前提としてあるのである。

その執着は、現実から逃れたいという思いかもしれないし、承認欲を満たしたいという我欲(上昇欲)かもしれないし、心の空洞を埋めたいという願いかもしれない。

そうした執着状態にある心が、「それらしい妄想」(理屈)に触れると、「きっとこれが答えに違いない」と興奮して、飛びついてしまう。

だが、そうしたものに飛びついても、問題は解決しない。
宗教という名の妄想をエサにして、執着が生き永らえるだけだ。

足元にある原因を、つまりは執着を自覚していないからだ。
 

本当は足元を掘り起こして、いったい自分は何に執着しているのかを自覚することが近道、というか唯一の解決策だ。

自覚できれば、捨てることも可能になる。あとはその方法を知って、実践すればいいだけになる。


ブッダが伝えた、一切の苦しみには原因があって、だがその原因は誰でも取り除けるし、その方法がある、だから後は実践するだけであるという言葉は、そうした真実を語っている。

まったく難しくない。そのシンプルな真実をひっくるめて”ダンマ”と呼んでいる。


本来のブッダの教えは、宗教とはまったく違う。真逆だ。宗教という名の妄想を克服するための方法を体系化したものだ。

心をめぐる問題に、答えがない問いは、実は存在しない。答えがない、考えてもわからないように見えるのは、自分の心が妄想によって曇らされているからだ。

心の苦しみについては、ほぼ百パーセントと言っていい確率で、抜け出せる。そもそもその苦しみは、心の中になかったものだ。今もまた、形も重さもない。実体のない(いわゆる無常)なものだからだ。

唯一必要なものは、ダンマ、つまり心の苦しみを抜ける方法だ。
 
その方法を受け入れるか。行動に移すか。それだけだ。もはや理屈ではない。考えることではない。やるか、やらないか。進むか、退がるか。受け容れるか、拒絶するか。


苦しみを抱えてさまよい続けてきた人が、ダンマに目覚めて苦しみを抜け、「この生き方で間違いない」という確信を持てるようになること。

それが、この場所の目的だ。時間はかかることが当然。そんな生き方しか知らなかったのだから。

焦らずに学んでもらえたら(自己理解を深めてもらえたら)と思う。
 
 
言葉は難しく聞こえるかもしれないが、伝える中身は、すべて友情に似た思いから発している。この命は、出会うことを喜びとする性質を持っている。よく来たね、と毎回心の中でエールを送っています。
 


2025年4月15日




4月7日

 

4月7日は、あの日です。

 

この命も、遠いところからになってしまいますが、あの人のことを想っています。

 

ずっと手を合わせています。

 

 

 (このことにこの場所で触れるのは、今回で最後にします。

 

でも、ずっと想っていますので。

 

いつか、手を合わせに行かせてください。)

 

 

 

 

 

 

春に思うこと


本格的な春到来でしょうか。

〇〇の拠点づくりは順調に進んでいます。

と同時に、「しっかり育てていかないと」という強い思いも新たにしました。


ちなみに、「しっかりやらなければ」という思いをプレッシャー(過重な責任感)に変えないためには、「(できることから)やってみる」という発想に切り替えることがコツです。

やってみるだけ。やるだけ。


まずは、夏以降に現地に移って(猫のサラも移住予定)、地元の人たちになじんで、

地域の子供たち、そして興道の里(大人)経由で足を運んでくる十代のみんなに向けて、簡単な寺子屋(授業)から始めたいと思います。





いくつか大きな隠れテーマ(あまり表立って言わない目的・方針)があって、

その一つは、「評価しない」ということ。

学び・勉強の仕方は伝えるし、結果的に成績が上がるだけのクオリティは維持するのですが、課題・問題に取り組むとしても、それに点数をつけたり、一時的な評価をしたりはしないようにしようと思います。

勉強、イコール評価(数値化)--という物差しが、どうしても学校・受験、つまり十代の人たちの世界にはつきまといがち。

でもそうした評価を、良し悪しを測る基準にしてしまうと、

もっと大きな、もっと広く深い、学ぶこと自体の面白さというものが、見えなくなってしまうと思うのです。


評価という物差しを外しても、面白い、知りたい、考えたいと思える心が最善。そうした心であれば、

大人になっても、歳をとっても、知ること、考えること、学ぶこと、体験すること、成長することが楽しくなる。純粋に楽しめる。

硬く表現するなら、「自立した知性」をアタマの中に育てる。

自分で学び、自分で知り、自分で考えて、自分で人生を創っていく。

評価されなくても、誰かに認めてもらわなくても、他人・周囲が別の方角を見ていても、

「人は人。自分は自分で答えを出す」

そういう生き方こそが本来の「当たり前」だというところに立てる人間をめざしたいのです。




なので、寺子屋で伝えることも、大人になった(なってしまった)私にとって意味あること、面白いと思えるものにする予定。

教科書・参考書も、面白い・役に立つと思えるものがあれば使うけれど、つまらないと感じたら(大人の自分が伝える気になれなければ)遠慮なく捨てて、別のものを使う。

伝える側(いわゆる先生)が、「これは面白い、伝えたい」と思えるかどうか。そこまで心動くものを使わないと、伝える側が楽しめない。当然、受け取る側も楽しくない。当たり前。

自立した知性というのは、年齢・学年を超越している。だから大学生でも、院生でも、社会人でも面白いと思えるであろう内容かどうかを、その時間・教材の中味を決める基準とする。

そうした大きな価値・本質というものを保つことを前提に、子供たち(主に小学5年生以降を想定)に伝わる言葉・内容を工夫していく予定です。




これ、けっこうハードルが高い。自分の心が若くないと(面白さがわかるくらいのみずみずしさがないと)、面白さがわからないし、伝えようというモチベーションも維持できない。

そこで寺子屋の完成と同時に、自分なりに禊(みそぎ)のイニシエーションをしなければ、とも思っています。

つまりは生活と仕事内容の刷新。古いものを持ち越さない。


せっかくのチャンスなのだから、自分自身をリニューアル。


興道の里も、第2章、いや完全な新章に入るということです。そうしましょう^^。




この場所(みなさんとのつながり)は、そのまま生きていきます。器として大事に守っていきますが、中身が入れ替わるということです。


中身は、新たな拠点で始まること、始めること。


こういうのは、行動あるのみ。やってみよう、ということです。


写真ありがとうございます

 

 

2025年4月初旬

ミャンマーを想う

ミャンマー中部で大地震が起きた(2025年3月28日/マグニチュード7.7)。

個人的にちょうどミャンマー編を新聞連載中で、あの国のことを思い出している最中だったから、いっそう心に沁みた。

かつて出会った人たち、今の人たちは、どんな思いでいるだろうか。

かつてミャンマーに入ったのは2008年。ナルギス台風の襲来で、一説には十万人を超すといわれる数の人々が犠牲になった直後だった。

軍政府の動きは遅く、支援もごくわずか。海外から大量の物資が寄せられたそうだが、現地に配られたのはスナック菓子1箱という地域もあったという。

国外には聞こえなかったかもしれないが、人々の批判・不満は相当なものだった。


私が入った大学の教授たちの反応は、二つに分かれていた。

軍政府の対応への疑問を語る人たちと、もう一つはこれが深く印象に残っているのだが、

「死んだ人たちは前世の行いが悪かった。今頃は別の生き物に生まれ変わっているから、大した問題ではない」という人たちだった。彼らの本音だろう。

ミャンマーは古い仏教観を持っている人が多い(あえて「古い」と表現しておく)。今の人生で悲惨な目に遭ったとしても、「前世の行いが悪かったのだ」「罰が当たったのだ」と発想する。自分以外の人のことも、そうした目で見てしまう。


長い間、権力者の無理解と視野狭窄に振り回され、内戦状態に突入して4年目に入り、多くの人たちが犠牲になってきた途上の今回の大地震だ。

いずれは、ミャンマーが変わるための試練の時として受け止める人たちも出てくるかもしれない。

いつか「あの日々は本当に大変だった、だが今は変わった、本当に良くなった」と言える日がくるなら、せめてもの慰めにはなるかもしれない。

現実は乗り越えていくしかない――だが、その現実を目の前にして、邪魔してくるものが、人々の意識に巣くう妄想なのだ。



もしあの頃に出会った大学教授(いわばミャンマーの知識人層で軍政府とつながっていた者)のように、今回の大地震もまた民衆一人一人の前世の報いだと考えるなら、

あのナルギス台風の時のように、軍政府は表面的なパフォーマンスを見せることがあっても、海外からの支援はすべて軍部に流れて、民衆には回らないだろう。

そもそも人々の痛みに共感できる人間ならば、これまでの非道な仕打ちはできないはずだとも思う。

今回、民主派は、2週間の一時停戦を早々に決めて、救済と復旧に当たるという。彼らの多くは十代、二十代の若者たちだ。

その彼らに対して軍政府は、地震直後に空爆を実施したという報道も聞こえている。

軍政府は海外に支援を要請したというが、真っ先に入ってきたのは、軍政府に近い国々だ。

しかも権力にしがみつく者たちの心の底に、あのとき語っていた教授のように、災害を受けるのは前世の報いであって、今頃は転生しているのだから問題ない、という冷酷きわまりない自己正当化の妄想があるとしたら、

地震後の権力者たちの動きには、何らかの裏があると思うほうが正解かもしれないし、彼らと闘う者たちに予期せぬ不利益や、民衆のいっそうの困窮(いわばほったらかし、支援物資の間接的収奪)が起こらないとも限らない。

ひたすら堅実に生きてきただけの多くの人々にとって、自分たちの平安を最後まで妨害しているのは、上に圧(の)しかかる権力者たちであって、

その権力者の心に巣くう際限なき強欲と、それを正当化してしまう妄想ゆえの視野狭窄だ。

彼らは、その妄想を”仏教”と呼んでいる。


過去踏みにじられてきた人々の中には、目醒め始めた者たちがいる。

だがいまだに時代錯誤の妄想に取り憑かれ、その巨体を人々の上に侍(はべ)らせて、欲望赴くままの贅(ぜい)と惰眠を貪り続ける者たちがいる。

今回の大地震によって、上にのさばる者たちを揺らし落とせればよいが、場合によっては、力なき人々がいっそう踏みにじられて終わる可能性だってある。


なにしろ今の時代は、力を持った者たちが私欲を押し通すことになんの臆面も持たなくなった時代なのだ。

力を持った者たちだけが好き放題に動きまわり、力なき者たちは奪われ続けるという時代。

そうした大きな動態(ダイナミズム)の中で、今回の大地震が起きた。


どんな苦しみも、妄想によって正当化することはできない。してはならない。

避けられない現実は、向き合って乗り越えるしかないし、

避けうる現実は、闘って変えてゆくしかない。


ミャンマーに戻りたいが――なんとももどかしい。


中日新聞・東京新聞連載中 最新イラスト


 

2025年3月末日

もうすぐ春ですね


今回は簡単な近況報告です:

*『反応しない練習』のドイツ語版、英語版は快調に進行中。カバーが送られてきましたが、ずいぶんシンプル(お見せできないのが残念)。

英語タイトルは、The Practice of Not Reacting (そのまんまやん)。

The Secret to Stress-free Life とあります。

英米では出版より半年から1年前くらいからプロモーションかけ始めるのだそうです。今回は翻訳出版権も(初の)入札をしてくださったそうで・・広く届くことを願います。

欧米の人たちにこそ「業」の話(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)を伝えたいのですが、こちらは台湾で翻訳出版が進んでいます。


*神楽坂の講座は、まだめどが立っていません。奈良の拠点づくりがひと段落つかないと予定が立てられない状況です。

でも春も近いし、一度みなさんのお顔を見られる機会を作りたいと思っています。


*早稲田エクステンション・センターのオンライン講座は、引き続き受講受付中です(専門的・学術的な話が入ってくる予定です)。


*帰国してから怒涛の日々(睡眠時間さえ削らねばならず)でしたが、大仕事がいくつか終わって、今週末は少しゆっくりできそうです。個別のやりとりもできるし、週末にはオンライン座談会もあります。
 

桜も開花し始めるそうなので、そろそろ春を迎える準備を始めたいと思います。


中日新聞・東京新聞連載 最新イラスト
(毎回、イメージに画力がまったくおいつかず自己嫌悪)


2025年3月27日



日本編、始動2

3月18日(火)
13時から講座。こちらはレギュラーの人たちが多かった。だが今日、講座申し込みをしようとしたら、すでに満席と言われた人がちらほら。10人以上がキャンセル待ちリストに入っているという。急きょ席を増やすことを検討。

かつては3人だけの受講生と2年以上も細々と続けていた時代もあったし、人が集まらず講座不成立の憂き目が続くこともあったが、状況は変わった。自分はまるで変わっていないが、他の条件が変わったのである。

講座終了後は無料面会。ここにはさまざまな事情を持った人たちが来る。そうした人たちにどんな言葉を届けるか。「まずは今日来る人たちのために(自分をいったん忘れて)」と考えるところも、この十五年間変わっていない。

考えてみれば、どの場所の講座・講演も、終わった後は深い反省と自己嫌悪に近い思いが残るのだが(あれも話せばよかった、これこそ話すべきだったという思い)、それだけ目の前の相手に応えようという真面目な動機があるからであって、その動機こそがこの生き方の生命線なのだということが見えてくる。

満足した試しはほぼ皆無なのだが、それだけどの場所においても、その時々の全力最善をめざしているということでもある。だからこそ多少は成長もしてきたのだろうし、地力が着実についてきたから、毎回教材を整えて話を準備できる。2時間なんてあまりに短い。いくらでもお伝えできることはある。

無料面会が終わって、昨日食べ損ねたジャンボおにぎりを一人食べる。このあたりの孤独ぶりも変わらない。自分を小さく素のままに保っているからこそ、いろんな人たちと向き合えるし、異なる場所でさまざまな活動ができる。これが出家という生き方なのだろう。

近くの宿で一泊。明日の打ち合わせの準備。

KADOKAWAから、イギリスでの出版が決まったと連絡が。いよいよ英語圏に進出決定。いろんなものが動きつつある。

ようやく怒涛の一週間が終わった。すっかり仕事モード。日本編の再始動だ。
 
 
 
3月23掲載予定のイラスト
(中日新聞・東京新聞日曜朝刊に連載中)



2025年3月

日本編、始動


3月16日は朝6時に出発して名古屋へ。今年最初の講座。

3月18日の講座がすぐ満席になったため臨時増設。これも満席。4月からのレギュラー講座も満席(新たな出会いが嬉しい。生きているというのは大きなこと)。新聞連載を見て、という人が多い(印象3割強)。

生きるとは○○することであって、自分とは○○に過ぎない。その当たり前の真実を妄想をもって簡単に超えてしまうから、真実が見えなくなり、人生は途端に難しいものになる。

この理解こそが、すべての命に当てはまる普遍的真理。プラス、社会内に生きる存在としての生き方がある。すなわち十歳未満は○○、十代は○○への○○、二十代は○○○○、三、四十代は○○〇〇、五十代以降は○○をテーマにするという生き方だ。

世の中、生き方をめぐる説はさまざまあるが、これも①普遍的な真実(誰にとっても当てはまる、また誰もが守らねばならないもの)と、②人それぞれに違う主観的真実(信条・価値観・個人的な意見や思想)というものがある。

人間と社会が、なかなか前に進まず、むしろ後退したり混乱したりするのは、この「誰にとっても外せない真実」と「人それぞれであっていい真実」との区別がついていないからだ。みんなが好き勝手なことを考え、その思いつきを主張して終わってしまう。政治的言論も学問的知見もジャーナリズムも、どれも同じだ。人の脳はあまり器用ではない。

だが、本当の思考というのは、「自分はこう思う」の前に、「自分がどう思うか以前に守らねば、保たねばならないもの」を先に置くものなのである。

たとえば、働きたいかどうか、どんな条件の仕事が有利かといった「自分にとって大事なこと」以前に、「働ける人間はまずは働くこと(働くべき・働くことが原則)」というのが、誰にとっても外せない真実だ。なぜなら働かなければ、「社会が」回っていかないから。働くことが、働かない生き方に先立つ。いわば社会を支える下部構造になる。

もちろん「働ける」こと、つまり働くことがその人にとって可能であること、心身の苦痛や負担がその人の限界を越えていないことが、大前提にはなる。

結婚するか、子供を持つかというのも、個人の生き方であり価値観だという見方も真実だが、それに先立つ真実は、子供を育てられる人は育てることが、正解(自然なあり方)だ、なぜなら子供が生まれなければ、未来につながらない(いずれ世界が滅びる)からというのが、正しい思考だ。

これも、「育てられる」こと、つまり子を持ち、育てることが自然にできる(過剰な負担を感じずにできる)ことが、前提になる。

無理を強いることは、社会の成熟ではないし、「かくあるべき」という立場にとらわれることは、社会共通の正解にはならない。

 本当は、どんな生き方も尊重されるし、可能である――それがめざすべき社会のあり方だと思うし、近づけることが、社会の成熟であり進歩ということになる。

今回伝えたかったことは、人はえてして自分の考えを正当化したい、他者にも認めてほしいと願うものだけれど、そうした思いとは別に、自分が今後の生き方を選択するうえで、「自分以外の価値」をも考えることができるか、という点だ。

自分より先に置くべきもの、「なくてはならないもの」とは何だろう? 生まれてから死ぬまでの人生において、自分を越えて守るべきもの。
 

この世に生きる人たちが、苦しみなく暮らせる社会を作ること。

この世界が、未来にも続いていくことを信じることができること。

 そうした価値こそが、本当は自分を越えて、大切なことだ。

そう”自然に”、つまり自分の生き方として、思えるかどうか。


自分を越えて大切なもの、他者にも、未来にとっても、価値あるもの。

そうした優先的な価値を、自分の思惑よりも優先させる。自分ファーストではなく、自分セカンド。
 
そうした発想ができると、面白いことに、いろんなものがうまく回っていくこともある。
 
自分の務め、役割をもって、今の自分のあり方に納得もできるようになる。
 
だからこそ、迷路や混乱を抜け出して「軸」をもって生きていけるようになる。
 
 
分断・格差・孤立が度を増しつつあるといわれる世の中で、確実に価値があるといえるのは、こうした発想ができること、できる人が増えていくこと――そんな気がしている。
 
幸いなことに、とても明るい雰囲気でこの講座は続いている。4月以降も楽しみだ。


午前の講座終了後すぐに新幹線で大阪へ。午後はNPO団体が主催する研修会。この団体は年に6回も勉強会を開いているそうだが、今日はふだんの参加者以上に、一般の人が多かった。以前個人相談に来た婦人も、本を熱心に読んでくれている若い男性も、シニアの人たちも。バラエティに富んだ顔ぶれだった。

参加者が大阪の人だと、こちらも昔培った関西人魂が覚醒して、口がよく回る。一人でボケて、一人で突っ込むという仏教漫談ともいえるノリになってしまう。余談雑談成分60%くらい。

でもその内容は、配布した資料に書いてある真面目な情報と一致している。笑いながら聞いていたことが、ちゃんと資料の中の仏教的な智慧そのもの(表面的な言葉だけが違っていた)ということが、後でわかるようになっている。

そうした構成が、いわば一番自然に聞けるし、役にも立つ。そんなスタイルも見えてきた気がする。



2025年3月

帰還

*インド編2025レポートの掲載をスタートしました。興味ある方はどうぞ:
 

帰ってきたのは、3月第2週。羽田を出ると、電車内の広告はメジャーリーグの遠征試合について。日本は平和。車内の人は、ほぼ全員がスマホを眺めて沈黙している。

「空気」だけでも、これだけパワーの高低があるのだなと感じます。


インドの場合は、心は「人」に向かう。自分かそばにいる誰かか。話しかけるし、自分のことも話すし、なんというか臆面がない(もちろん深いところでは別の思いがあるとは思うけれど)。

日本の場合は、心は「人以外」に向いている気がする。スマホの向こう側。SNSだかネットニュースだかゲームだか。

察するに、日頃人との関係で疲れることが多いから(その疲労の半分は自分の側の過剰な気遣い、いわゆる忖度とか判断とか先回りの妄想であるような気もするけれど)、

その分、一人でいるときはスマホを眺めて、現実(人間)逃避しているように見えなくもない。


毎年思う、この国の空気の希薄さと停滞ぶり。おそらく一人一人の心が相当「混乱」している。というのも、心は一定量のエネルギーを持っていて、ちゃんと使い方を自分で選べていれば、それほど疲弊しないものだから。

心の使い方を知らない、忘れてしまった、あれこれと無駄なことを考えすぎて崩れてしまった。「自分」というものさえ、よくわからなくなった。

そういう心の混乱。さらには、心の総量(いわゆる社会の集合意識)の確実な老化。

混乱していて、老いている。としたら、そうか、こういう空気になるのかなあと無責任な妄想が湧いてきた。


老いは確実に進むから、放っておけば、この国はもっと老いていく。

幸い島国で、過去半世紀に頑張った蓄えもまだ残っているみたいだから、すぐさま老いの果てが見えるわけではないだろうけど(でもかなり見えてきてもいるのだけど)、

今日の光景が十年後、二十年後にもそのまま続いているわけではない、というか変わっているであろうことは確実、というか確実だと心しておくほうがいいように思う。

これまた幸いなことに、何千万人という人間がまだこの先半世紀はこの国を支えているだろうし、危機感に目覚め始めた人たちが声を挙げる、行動に移すということも、少しずつだけれども増えてきているようだし、

この国の人々は、まとまれば強いし、それこそメジャーリーグで無双の活躍をしている彼らのように、個のポテンシャルはすさまじく高いから、

どの時点かで「本気」になれば、なんのなんの、まだまだこの国をよみがえらせることは可能だと思える。


国を若返らせるとは、「変わることがノーマル」になること。新しいアイデア、制度、商品、サービスをどんどん形にする。多少の失敗は前進の肥しにしてしまうこと。

「こんな新しいモノが出た」
「こんな法制度ができた(ただし改悪ではなく人々の心が明るくなるような法律・制度・システム)」

ということが頻繁に起こって、「なんだか世の中変わってきたな、前に進みつつあるな」とみんなが思えること。

変わることをノーマルにすることは、人々が真剣に願えば、それほど難しいことではないような気がする。

ここでも、変わることを嫌がる負の力が邪魔するものなのだけれど。その一例が、老いであり、怠惰であり、無気力であり、保身であり、自己疎外(自分の価値を信じられない心性)。

今のところ、後者の負の力のほうが幅を利かせている。停滞が30年以上も続いて慣れてしまっているところもある。

どこかで国の若返りが始まってくれたら・・と思う。
 

ということを、帰国早々考えてしまう。なぜかこの国に来ると、私は途端に母性・父性?に目覚めてしまう。大丈夫? 元気にしてる?みたいな。


16日から18日に講座が3コマ続くので、その教材を仕上げて、連載用のイラスト描いて、〇〇やって(←今この段階笑)、〇〇行って拠点づくりの打ち合わせ(細部選びがこれまたたいへん)、サラとの再会(引き取り)と続く。


一週間近く経ってすっかりモードが変わってしまいました。「出家の夏休み」はおしまい。終わってしまった・・。


挨拶遅れましたが、戻って参りました。

本年もよろしくお願いいたします。

草薙龍瞬




2025年3月中旬

メディアの方々へ

(あるネットメディアへの返信として)


私は、有名になることは望んでおりません。

全ての仕事(出版・出演)について、”人間の幸福にどれだけ貢献できるか?”を応諾の判断基準としています。

この世界が明日も続く保証はありません。

この世界がいつ滅びるかわからない危うい状況にあります。

そうした状況への危機感と、人間としての正しい生き方を伝えることが、出家である私の役割となります。

メディアへの出演・露出には慎重でありたいと思っております。

仏教は、世俗の価値観とは一線を画しております。

皆様も、営利中心のビジネスとしてではなく、”世界の幸福の総量を増やす”という大きな使命のもとにご活動ください。

その場合は協力できる可能性がございます。

草薙龍瞬謹白

 

 
動機(大きな方向性)を共有できるかどうか。

よき世界を作るために、自分の手が届く範囲で真剣になれるかどうか

真剣でありたいと願っています



2024年3月上旬