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東京で個人相談会を開きます

 

夏の日本全国行脚、まもなく告知します。

 

6月21日(日)東京で個人相談会を開催します。

相談ご希望の方は、公式カレンダーの告知をご覧のうえでご連絡ください。

 

 


 

 

 

緑茶と看護学生のみなさん


5月1日は、静岡島田の看護専門学校で講演会。

ほぼ全員が看護師国家試験に合格し続けている、かなり教育力の高い学校。

3学年120名の看護学生さんと先生方十数名。質問も続いて熱心に聞いてくださった様子。


仏教と看護は親和性が高いように思う。「人のため」という思いから始まっている気がする。

ただ明らかに仏教のほうが「人のため」からは遠いような気もする。自分のため、自己満足のため。仏教と言いつつ、パフォーマンスでしかない。

そういう形だけの仏教(仏教もどきと言ってもいいかもしれない)が蔓延しているといえなくもない現状に対して、看護の仕事には嘘がない。「ケア」が看護という仕事の本質だからだ。

看護の世界に生きている人たちは、いろんな悩みを抱えながらも、やっぱり誠実なお人柄が多い。話をしていて、安堵する自分がいる。どこか懐かしい感じもする。

看護が滅びる時は、人類が滅びる時。世界を支える偉大な仕事。

みんな頑張ってほしいと心から思う。


『反応しない練習』を図書室用に進呈させてもらった。この先はもっとこうした出会いを増やしたいとも思う。エールを届けたい。


また会えたらと思います。緑茶と黒大奴(くろやっこ)がおいしゅうございましたw。



2026年5月1日


枠を崩さずってどういう意味?

こんなおたよりをいただきました:


(先日のブログについて)

「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。

ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。



わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。

たとえばこう表現してみましょうか:

仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。

私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、

社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。


「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。

形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。

歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。

ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。


こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。

もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。

ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、

外の世界はつねに変わり続けている。

生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。


ということです。

「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。

新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。

こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり

外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。

それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。

正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。

正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。


私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。

外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。

そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。

その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。

だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。

そういう生き方をしていこうということです。

つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。

伝わりますでしょうか笑。

 

 

新生活、始動


第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。

栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。


寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。

栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、

「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。

政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。

こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?

いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。



この先は、仏教が不動の軸ではあるが、仏教という枠にとらわれない働きを果たしていくことになる。

教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。

そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。

最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。

枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。




2026年4月下旬

 

仏教を盗んでしまっている君へ


仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ


最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。

むしろ君の未来のことを気にかけている。


君は、4月7日にプレスリリースを発信したみたいだね。

そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?


君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど

その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。

だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、

君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。


そのことはちゃんと考えていますか?


私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。

ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。


CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない? 

そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?

そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。


もし君が、スジャト師らの長年にわたる努力と思索と研究と、

それを世界中の人たちに役立ててもらおうと慈悲の心で公開し続けてきた、


彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、

今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。


人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。

誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?



AIに反対しているわけではないんだよ。AIを使った人間の「悪」に反対しているんだ。

こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。

君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか

壊れないよ。
君が居場所を失うだけだ。


君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。

でもそれは、最後まで控えておこうと思う。

君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。


君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?

4月7日のプレスリリースでも、ずいぶん多くの人様・団体様の名前を使っている。

自分の正しさを分からせることに役立つと思ったかい?

真逆だよ。もし嘘の使われ方をしていることが発覚したら、君は確実に社会的信用をまた一つ失うことになってしまう。


私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。


君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。

PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。

もちろん配信者の事業を応援しようという思いも、彼らにはある。彼らは依頼者である君を信頼した。最後まで。信頼したからこそ、ほぼ無審査で配信し続けた。


だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。

君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。

いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。

でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。

君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。

君は想像しなかったのか? 嘘を配信させた彼らの看板に泥を塗ることになることを。


もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、

おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。


気づいているかい?

君の言葉にも、その行動の中にも、他者がいないんだ。

心と体を持った人間が。

奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。


君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、

人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。


もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、

嘘をつかず、

与えられていないものを受け取らず、

まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、

その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。


そして人様からの托鉢をもってその身を養い、

一日十二時間の瞑想をし、

パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、

少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、

日々の小さな務めを果たしてみるがいい。


できるかい?


できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。


もう一度言うよ。私は君の敵じゃない。


私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。

だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、

人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、

その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。


これがもし私だけの思いであるなら、安心してほしい。世界は厳しい場所だ。私が何を訴えても、人々は聞く耳を持たないだろう。

だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。

もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、

その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。


私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。

あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。


苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。

でも、おそらくそれは、孤独が長すぎた君が作り出した妄想だ。

私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。

嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、

だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。


そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。

苦しみが生まれるのは、誰かが、私欲や、嘘や、レトリック(言葉回し)や、権力をもってゴリ押ししようとした時だ。


君は世界の苦しみを増やしていないか?

君を信じたPR TIMESが、虚偽の情報を流し、配信先に迷惑をかけることになったこと、その築き上げた信用に傷がついたかもしれないことを、

君は想像しないのか?

だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?


誰も君を苦しめようとなんてしていない。

苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。



君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。


そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、

私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。



伝わるかな。

伝わるまで伝え続けるよ。



草薙龍瞬


P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。

私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。

だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。


だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。

自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。

なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。

それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。

私は、君に傷ついてほしくない。再び孤独に落ちてほしくないんだ。


敵じゃないんだよ。



2026年4月9日


『ブッダを探して』連載完結


中日新聞・東京新聞で連載されてきた『ブッダを探して』は、

2026年3月1日(日)日曜朝刊 全105話で完結しました。


2024年2月から週1のペースで文章とイラストを書き上げてきました。初めての体験。

大変でしたが、面白かった。

15年にわたってブログやメール通信の記事、本の草稿などを書きためていたおかげで、ネタ切れせずにすみました。


言葉のほうは、思いとほぼ合致したものを紡ぎ出せます。言葉については思いのまま。

絵のほうは、難しい・・うまく描けたと感じることもあれば、下手すぎて恥ずかしい(申しわけない)と思うことも。


全編読み通してみると、これは自伝ではあるのですが、旅物語(精神遍歴)でもあり、仏教の解説でもあり、世の中に居場所がない場合の第3の生き方でもあり、

舞台もインド、ミャンマー、日本(過去と現代)にわたる壮大なもの。


最終章は、「ブッダを探して」というタイトルの意味が明らかになる、いくつかのエピソードで構成されています。

文字数に制約があるので、掘り下げて書き切ることができず、わかりにくいという感想を持った人もいるかもしれません※。

(※連載途中では伏線的な文章を入れて、最終章の<現代日本編>で真相を明かすという構成を取っています。もう一度最初から読むと、すべてのエピソードがつながるようになっています。)

言葉が足りない部分は、書籍化の時に解説的文章を加筆して対応すべきなのだろうと思います。


できれば誰かのSNSや本のレビューなどをきっかけに、この作品の存在を、まだ知らない人たちに知ってもらえたら、書籍化の可能性も増えていくのかな・・と思ったりします。
 
 
見知らぬ人から感想をお寄せいただくことがあります。
 
いろんな場所で読んでくださっているのだなと胸が熱くなるのを感じます。
 
 
2年にわたる連載におつきあいしてくださった皆様、本当にありがとう。
 


2026年3月1日



人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。

それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。



この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。

その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、

地味に講座を開き続けて、

本を出すという縁にめぐまれて、

『反応しない練習』という作品が生まれました。


中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。

Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。

ひとつの締めくくり。



『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。

できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。

ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。

これも、ひとつの締めくくり。



人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。

やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。

少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。

先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。


どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、

生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。



私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。

これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。

締めくくって、前に進んでまいります。


2026年3月

 

 

 

そろそろ始動します


興道の里(草薙龍瞬)から:


2026年の活動をそろそろ始動します。

 

3月の名古屋での講座は2コマとも満席だそうですので、オンライン受講のほうをご利用ください(公式カレンダー内にスクールの情報が載っています)。

 

今年の目標は、

◇仏教講座のオンライン講座用の仕組みを整える(オンライン中継と録画:講座はアーカイブ化していく予定)

◇3月28・29日(土・日)にさっそく無料の国語キャンプを〇〇村で開催(公民館を予定)

◇5月連休までに、夏の国語キャンプ用の教材を用意(目標は小5から中3または高3までを想定して教材総計50本を準備)

◇4月以降は、月に一度のペースで名古屋で講座。態勢が整い次第、オンライン仏教講座も開始。

◇7月から日本全国行脚および十代のみんなに向けての出張授業(国語キャンプ)をスタート。

◇原始仏教を解説した単行本、および十代向けの生き方&学び方をまとめた本を準備

◇できれば ◯◯◯◯◯◯◯◯にチャレンジ(※今勉強中なのでまだお伝えできずw)



課題としては、さまざまな情報をどんな形で発信していくか・・。

ずっと同じことをお伝えしていますが、SNS型プラットフォームを今後活用するかどうか。

草薙龍瞬としての活動とは切り離した形での公式サイトも本当は作るほうがよいし。

やるならいさぎよく、積極的に発信することが筋かもしれないとは思うし。

このあたりは、もう少し悩もうと思います(ずっと悩んでいますが笑)。


今年は、日本での活動を始めて15年目。どう抵抗したって変わらなければいけない時期ではあります。

だから、いろんなものからの「卒業」(変化)もよいとは思うのだけれど、
 
それでもこれまでの流儀(世にあって世に見つからず)を貫くことにも、それなりの大義があるように思うので・・(いっそひっそりと消えていくのもオツなもの)。
 

 できることを無理なくやりつつ、自然に広がる範囲で広げていければと思います。

今年はよい春を迎えたいと思います。


草薙龍瞬




インタビュー記事


朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)


子育てと受験
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
 
いよいよ中学受験本番。多くの保護者が子ども以上にプレッシャーに悩み、合否の結果に一喜一憂するといいます。どんな心構えで向き合うべきか。ご自身も中学受験、大学進学の経験を持ち、多くの親子の相談に乗ってきたという僧侶・著述家の草薙龍瞬さんに聞きました。結果に振り回されることより、「転んでも損しない」ポジティブな考え方に切り替えることを、草薙さんは勧めます。受験を控えた親がラクになれる意外な方法とは?




自分の足で立って生きる場所

この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。

生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、

いつでも扉を開いています。


この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、

一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。


この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、

自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。


この場所が大事にしているのは、

自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。

出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、

そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、

誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、

つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、

せめて、今の自分に何ができるかと考えて、

この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、

という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。


この先の世界、本当にどうなるかわかりません。

だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。



2026年1月

 

 

 

謹賀新年2026

興道の里から


2026年があけました

本年もよろしくお願いいたします


仏教では、一年の区切りは観念でしかなく、心そのものはつねに新しいという前提に立ち続けるので、こうした恒例のご挨拶も厳密には成り立たない というのが正しい理解である一方、

言葉というのは、すごく強い力を持っていて、毎日繰り返されていたはずの日の出も、「初の日の出だ」と思えば、神々しく輝いて見えるという効果があるのも、真実なので、

そうか、これが一年の最初の日の出なんだ、今日が一年の最初の日なんだ、

と思えば、あら不思議、なんだか心がピカピカに洗われた気がしてきます(どうでしょう?)。

初めての空、初めての食事、初めてのお風呂、初めて見る人(家族も含めて)、初めての自分・・

「初めて見る」という心がけで、今日一日、そして正月三が日を過ごしてみるのはいかがでしょうか^^。


というひねくれた野暮な挨拶はさておいて(初野暮?)、

この場所は、この世の中にひとつでも幸福という価値が増えるようにと願いながら、ささやかに活動して参りますので、

なにとぞ皆さま、この場所なりの新しい創造にご一緒いただければ幸いと存じます。


善き一年にいたしましょう
新年もよろしくお願い申し上げます


興道の里
草薙龍瞬&沙羅(猫)


2026年元旦



この場所はダンゴ虫

 いよいよ2025年も師走に突入。

来年の展望は、改めてお知らせしますが、大まかな方針を言葉にしてみると、

子供たち向けの寺子屋活動を軸にして教育系の本を書いていくとか、

講座をペースメーカーにして仏教研究(原始仏典のアップデート)を進めるとか、

子供向けに漫画で仏教や生き方を解説するとか、

絵本を描くとか?

 

いずれにせよ、生産性をもっと上げないと。しかも新しい方向性に向けて。




そもそもこの場所は、自我や欲望の真逆を突き進もうという変わった場所。

ときおり、オンライン・サロンを開きませんか的な提案や、露出を促すWEBメディアからお声をいただくのですが(とてもありがたいことだと思ってはおりますが=人=)、

そうした場所をのぞいてみると、顔、顔、顔、顔、顔・・・みんな晴れやかでにこやかで、ワタシ頑張ってます(キラキラ☆)感全開で・・

ああ、それだけで気疲れしてしまいます(笑)。


今の時代は、SNSも含めて、どこも「見て見て」意識で作られていて、そうした自意識がお金になっていて。

 

自意識からの自由をめざすこの場所とは、根底にある価値観にズレがあるような気がします。


この場所は日陰が好き。裏道が好き。石の下にうじゃうじゃと身を寄せるダンゴ虫的な世界を好むのです(笑)。


この場所は、時代からも、世間からも遊離した場所。

「入った途端に違う世界を感じる」ような、それくらいの場所をめざしてもよいのかもしれません。


この世にあって、この世を越えた場所、

この世にあって、この世に見つからない場所。

寺子屋の跡地を尋ねて昔を想うように、

「昔はこんな場所もあったのかもしれないね~~」的に遠い目をして想像してもらえるような、

今の時代にあって稀有な、ある意味実在感のない不思議な、人里から遊離したような場所であってくれたらとも思います。

 

 

 2025年12月

 

 

闘えるうちは闘うということ

 
個人相談会と並んで、「隠れ相談会」というのもやっています。

ご連絡内容を聞いて、心身だけではなく経済的にもラクではない状況(誰しもそういう時はあります^^)だと知った時に、こちらから声をかけて、お代無料で相談の時間を作るというものです。

この場所が最大の価値とすることは、その人が課題を克服して、前に進んでくれること。

前に進むとは、自由になること、心が軽くなること、喜びが増えること。

その可能性がある限りは、応援したいという思いでいます。

この場所は、こちらの都合で動くことはありません。あくまでその人の姿を見て、必要なこと、できることはないかと探して、見えたものを差し出して、背中を押す場所です。

課題・苦悩というのは、人によって違います。同じものは存在しない。

自分と比べて、誰かの悩みは軽いとか、誰かの苦しみは重いとか、そういうものではありません。

みんな一生懸命生きているし、闘っている。どんな悩みも苦しみも、その人の目の前にあるということは、その人にとって、それが最も切実な悩みだということです。

命に軽重がないように、悩みや苦しみにも、軽い重いはないのです。


すべての悩みには、解決策が必要です。というか、解決できるように、体を、心を調整していかねばなりません。

苦しみを増やさないこと、できる範囲で苦しみを減らすこと。

なにかしら可能性がある限り、つまり、できることがあるかぎりは、それをやる、というのが ”闘い” という言葉の意味です。

闘えるかぎりは、闘ってほしいというのが、この場所の素直な思いです。可能性がある限り。

今回相談に来た人たちは、闘うべき相手・闘うべきテーマがあって、闘う方法もある人たちでした。

中身は違うけれども、どの人の悩みも壮絶。でも方法はある。

ならば、闘うべし。

しんどいとか疲れたと感じる人は、無理しなくてもよく、手放すことが正解になります。

ただ、それでもまだ使える体と心と時間が残されているならば、やはり闘って、つまりは試してほしいとは思います。

闘える間は、闘いを選ぶ、つまりは自分にできることをやる。

それができると思える人には、この命は”応援”したいと思っています。


◇◇◇◇◇◇

明日26日は愛知で講演会。12月には宮城、岡山を訪問します。

相談してみたいことがある人は、お声がけください。



2025年11月25日
・・・・・・・・・・・・・・




出家の秋

<おしらせ> 

11月1日(土)18:00~21:30
座禅会

11月2日(日)18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を

*詳しくは公式カレンダーをご覧ください。
*東京での講座は年内最後となる可能性があります。

◇◇◇◇◇◇

東京も急に寒くなりました。

サラ(猫)の家も冬仕様に(ボックス内に毛布を敷く。今年は素直に入ってくれました)。私も冬物を取り出しました。

そろそろ新しいものを買っていいかなと少し探しましたが、安いものは、ぜんぶ売り切れ。後はお金持ち、あるいは服にお金をかけていい人向けの、出家目線からすると見上げてしまうような値段の代物。

とはいえ実際の額を言えば、全然高くなくて笑われてしまうかも。


この貧乏性というかしみったれ根性は、育ちのせい。

考えてみたら、十代も貧乏。二十代も貧乏。三十代も貧乏(というか出家してからは無収入)。

四十代で日本に帰ってきて、貯金通帳見たら2万円しか残っておらず、転がり込んだ部屋に、段ボール箱で机作って、魚屋でもらった発泡スチロール箱に百均で買った氷入れて簡易冷蔵庫にして(冬は窓の外に吊るせば足りた。自然冷蔵庫w)。


当時の私に同情してくれたのか、ある人がチャージ入りのSuica(交通IC)をくださった。改札通るのもドキドキ(いよいよ妄想ワールドに突入した気がした)。

冬に毛糸の帽子をくれた人もいた。おおお!(あたたかくて感動)

冷蔵庫をくれた人もいた。これで夏もひと安心。

電子レンジをくれた人もいた。冷たかったものがチンすれば湯気を立てる。マジック(魔法)!

2度目か3度目かの冬に、灯油ストーブを買った。寒い冬の朝に「ボッ」と火がつくあの感動。

安いトースターを買った(安売りで2000円だったトースターを奮発)。みるみるこんがり焼けていく姿に感動(なぜか縄文時代の暮らしを連想した。それだけ感動したということらしい)。

一番ドキドキしたのは、百均でゼムクリップを買った時。どうせ全部使わない。なのに買う? 百円がものすごく贅沢に感じる・・「許される? 許されない? 許されるよね?」と自問自答してようやく購入。

 
いくつかのこんな鮮明な感動が記憶に残っています。いや、よく生き延びた――。
 

※ちなみに、なぜそこまで??と思われるかもしれない半生については、ただいま連載中の『ブッダを探して』で少し触れていく予定です(来年2月連載終了)。

 

貧乏性のDNAは入れ替わるわけではないので、この先も貧乏性で生きていくことになると思います。

なので、冬服も同じものを。まだまだ使えそう。どうせ春になるし。

「どうせ春になるし」は、冬を凌ぐための出家のキラーワード。2年前に札幌に行った時に、東京と違ってずいぶん寒く、古着屋に行ったら冬物ジャケットが1500円。

500円なら、あるいは1000円までだったら買っていたかもしれない・・でも1500円というビミョーな値段。こういう「ガラスの天井」が多い。ものすごく多い。

どうしようかな・・と思案した時に浮かんだのが、「どうせ春になるしな」という言葉。

で買わずにしのいで、結局、本当に春になったのでした! すごい!


ここから秋、冬と旅が続きます。寒さを噛み締めることにも妙な至福を感じてしまう(>w<*)のが、出家の性分です。

どんな寒さに出会えるか、と想像すると胸がときめきます。


年々短くなるであろう日本の秋と冬を愛おしみましょう、みなさん(誰に呼びかけてんねん)。


2025年10月中旬



これでいいのだ?


いや、娑婆(世俗)の世界は本当に疲れます。いろいろと考えなければいけないことが新たに出てきていることもあり・・。

出家というのは、ほんとは娑婆の世界に降りて(?)きてはいけない種族のような気もします。

でも山奥にひきこもれば解決ということにはならなくて、自分自身に解決すべき問題は残っていないので、やっぱり「新たな可能性を創る」ことくらいしか命の使い道はなく、

そうなると、やはりやれることというのは、今やろうとしていることで、

やろうとすると、こういう苦労も背負わざるを得なくなって、

苦労というのは背負える限りは背負う(ことがあってもいい)もので、

背負う限りは、「大変だけれど、そういう時期」として受け止めるほかないもので、

結局は「そういう時期なんだ」という思い(諦念)をもって受け止めて、

やっぱり歩ける限りは歩く・・という今の姿に落ち着くので、

最後は「これでいいのだ」というバカボン的心境に落ち着くのでありました。

めでたし、めでたし?


2025・9・23(そうか、祝日か・・)


「そういう時期」という理解


9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。

サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。

でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。

来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。




今がつらい人へ――

つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。

人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。

そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。

「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。

だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。

ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。

できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。

この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。きっと。



2025・9・11



やれることをやる


ここ一週間は、怒涛の忙しさ。生きるというのは、矛盾まみれの支離滅裂。

このブログも、全国行脚の続きとか、子育て論とか、さまざまな話題を用意しているのですが、まとまった時間が取れず。

音沙汰がないと心配する(?)人もいるかもしれないので、生きていますと報告する程度のおたよりをお送りしている次第です。



講座の本格的再開は、来春になるかな、と思っています。「ブッダの生涯」(原始仏教)をやるか、「大人の寺子屋~言葉で生きる(言葉で人生を作る)」講座(通信添削つき)をやるか、それとも両方やるか。

できることはやる。「やりたい(それを望む)」からではなくて、自分にできて、しかも価値がある(役に立つ)可能性があるなら、まずはやってみる。

与えられた時間は、可能性に挑戦する時間。いや、挑戦というより、やってみる程度の気楽さでいい。

できそうだから、やってみよう――その思いでやろうとしているのが、この先の活動です。


自分にとっては、命を使い切ることであり、

人にとっては、なにか役に立てることであり、

それは、苦悩を減らし、幸福を一つでも増やすことであり、

ある程度の年季を経た今となっては、「未来を育てる」という方向性に向かうことでもあります。


生きるというのは、必要なこともそうでないことも、価値あることもそうでないことも、バラバラに同時進行で背負うこと。整理しきれるものではないし、選び取れるものばかりでもない。もともとそういうものなのでしょう。

雑多な出来事を、それでも心のバランスを失わずにやっていけるのは、「この手を使ってできること」という確かな輪郭(限界)があるからです。


この手を使ってできることだけが、できること。

手を使ってもできないことは、現時点ではできないし、やらなくていい。


そういう線引きをはっきりさせていれば、外の物事が雑多かつ混乱しているとしても、心そのものは混乱しない。

この場所は、これからも、やれることを淡々粛々とやっていきます。


以上、近況報告でした。



2025・8・23

『怒る技法』オーディオブック配信開始!

 

いよいよ『怒る技法』オーディオブックの配信が始まりました(2025年8月1日)。
 

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く、

著者・草薙龍瞬による朗読シリーズ、第4弾です。
 

いつものように、ついついサービス精神(←慈悲の心の世俗バージョン)で、笑える(←本人は後悔する)演出や、ボーナストークの特典もついています。楽しくて役に立つ、充実のトラック。

本とは違う臨場感が味わえるはず。活字だけでは読み取れない深いニュアンス(意味合い)も、声を通してなら伝わります(聴く側からすれば、「そうか、そういうところを伝えたかったのか」という)。


足かけ1年半以上・・ずいぶん時間がかかりました。手がけてくださった皆さま、ありがとう!

ここからアクセスできます(←クリックしてください: 試し聴きもできる様子です^^)

いざ発進(配信)!


怒っていい。でも正しく

今の時代に伝えなければいけないことを、
著者一杯の思い(応援)をこめて



2025・8・1
 


博多に行きます~8月2日(日本全国行脚2025)


草薙龍瞬の夏の全国行脚2025博多入り、まもなくです。

毎年恒例の内容充実の特別講座(勉強会)です。この日この場所でしか得られない数多くのヒントが見つかります。

予約無しでも参加できますので、当日のご都合があう方はぜひいらしてください。

当日および翌日は九州に滞在します。個人的な相談がある方はお声がけください。

<日時>
2025年8月2日(土)
13時30分~16時30分

<会場>
福岡市内の公共施設(ご連絡くださった方にお知らせします)

<内容>
今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州・博多を訪問します。参加者の質問・関心に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。仏教の考え方をフル活用しますので、内容は幅広く、かつかなりディープです。

<参加費>
1組 2500円

※1組=家族3人まで
※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません
 
<その他>
*乳幼児をお連れの方を歓迎します(途中退室も自由です)。
*小学生・中学生が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください(ゲーム・タブレット等の電子機器は禁止です)。

*終了後に希望者に向けて個人相談の時間を設けています(希望者数によりますが、お一人20分ほどを目安とします。希望者はお声がけください。

<個人相談>
*当日および翌日以降は九州&西日本を回ります。個人的に相談したいことがある方は別途ご連絡ください。


全国行脚縮小版.png
さあ行くよ!


2025年7月27日
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言葉にならない時間

この季節になると、多くの人たちと同様に、「人類は滅びるのではないか」という懸念がよぎり始める。それくらいの猛暑だ。

今は、茹でガエル現象の途中。そのうち大気が沸騰して、水が枯渇し、農作物が枯れ、何十億人もの人間が、熱死するか餓死する。

それくらいの温暖化が顕著に進んでいるのに、奇妙なことに、誰も文明のシステムを見直そうとしなくなったように見える。人の価値観も行動様式も、気候変動が始まる前と変わらない。むしろ退化したかもしれない。大量消費と廃棄と炭素排出。まるで何も問題が起きていないかのように、人々は環境の変動に無関心になった。ひと昔まえのほうが「このままでは危うい」という警告のシグナルが強く点灯していた気がする。

ミクロの人々が見ているのは、どこにいてもスマホ。小さな画面以外は「どうでもいい」こと。度を増す高温に嘆息を吐きながらも、気にしているのは自分にとっての不快指数だけ。


マクロで見れば、気候変動に取り組もうという国際的機運は、ほぼ消失した感がある。どこを見ても、戦争か武力衝突。ばかすかミサイルを撃ち込んで、破壊だけでなく、その分大量に酸素を消費し、炭素を大量に排出し続ける。ウクライナ戦争だけでも排出量は爆上がり。大気の高温化に拍車をかけているはずだが、気にかけるという発想さえ枯れつつある気もする。

こんな世界が、あと百年と続くと、誰が楽観できるだろう。

殺し合うことを人類がやめようとしなくても、そうした愚行を可能にする地球環境そのものが破綻するかもしれない。このまま高熱化が進めば、近い将来、どうしたって生存不可能になる時期が来る。地球の大気が茹で上がる。どこにも逃げ場はない。


外の環境に関心を持たなくなった時が、ひとつの文明の転換期なのかもしれないとふと考えてしまう。



ひるがえって個人的な話題といえば、毎年夏になると、生活のパターンを微調整する。ここからは、人類がまだしばらく続くことを前提とした話。

滅びゆく世界の中でも、個人の生活自体はほとんど変わらない。私もまた能天気な茹でガエルの一匹であるには違いない。

まずは定期券を買う。これは昨年から始めたこと。で、お目当ての場所に通う。電車の中は空調が効いている。快適な読書空間を満喫する(茹でガエルは実に罪深い。結局、自分のことしか考えないし、動こうともしないのだ)。

地上に出る。車窓の外に、夏の青い空が広がっている。





夏の光と大気の暑さと。狂暑とさえいえる暑さではあるが、これもまた今年一度きりの夏の姿ではある。なお道を歩く時は、多少の暑さには目をつむり、夏の風情に心の感度をチューニングする。これぞ夏だ、ということをしっかり感じ取る。

電車の外に、巨大な東京スカイツリータワーがそびえ立っている。あのタワーは、私がいなくなった後も、百年後でさえも、同じ姿で屹立しているのだろう。今見ているのは、未来でもあるわけだ。



80年前の大空襲で亡くなった人たちも、焼け野原に立ち尽くしていた人たちも、その後一度も戦火を交えなかった東京が、ここまで復興して、こんなにもバカでかいタワーが出現するとは、夢想だにしなかっただろう。

戦争さえしなければ、街を破壊しなければ、これだけの繁栄が現れる。変わらない世の中への不平不満は続くにしても、退屈ではあっても、やはり平和のほうがいいに決まっている。激動なんてなくていい。平凡で少し退屈なくらいの日常が、百年、千年と続いていくほうが、はるかによいはずである。

人は人としての生涯をまっとうできるだけで十分なのだろうと思う。生きて、働いて、遊んで、ときには退屈をもてあまして、いっとき家庭を持って、新しい命を育てて、時期が来たら静かに身を退く。それだけで十二分。激動の十年よりも、退屈凡庸な百年のほうが、きっと価値はある。

この世界は、私という茹でガエルが一匹いなくなっても、きっと続いていくのだろう。遠い未来には、人類もこの地球も宇宙にも、やがて必ず終わりが来て、その後は果てしない虚無が永劫続く定めだとしても、人類という種は、もうしばらくは続く可能性が残っている。

今見ているこの夏の景色は、あの戦争を生き延びた人にとっての未来に当たる。80年分の過去を振り返って平和の証を見届けていることにもなる。今を生きる自分なき後の未来を見ている部分もある。

未来でもあり、過去でもあり、今でもある。今見えるのは、純粋に美しい青と光と、夏らしき暑さ。いろんなものを見ている今が、ここにある。言葉できれいにまとめることのできない「何か」。

きっと本当に美しく、せつなく、愛おしいものは、言葉にならない。「生きている」としかいえないもの。生きているとは、そういう時間。今がその時。


夕暮れの隅田川 いつもの景色のはずだが、未来を見ている気にもなる



2025年7月末