ラベル ◆日本での活動記録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ◆日本での活動記録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

ただいま執筆中!


明日15日の東京新聞・中日新聞のイラスト
本文は明日のお楽しみに


新聞連載には年末進行というのがあって、原稿を前倒しで仕上げないといけません。

ということでここ一週間は、本文とイラストのほうに集中していました。

来年2月2日分まで、合計6本を完成! これで私もしばらく他の仕事に専念できます。

『ブッダを探して』は、読者の皆さんからお問い合わせいただいていますが、単行本としてまとめられるかは未定です。

文芸的・自伝的作品なので、文芸に強い出版社にお声をかけてもらえたら・・と思っているのですが。

この作品、週に一本800字ほど、さりげなく、あっさり書いていますが、内容はかなり濃厚かつディープです。仏教や瞑想についても、実はかなり掘り下げた内容を薄口・淡泊にまとめています。

なんとか与えられた連載期間の中で、現代編さらには未来の展望にまで漕ぎつけたいと思っています。



2024・12・14

里のアーカイブ 公園の猫

<おしらせ>
★東京の講座は、12月15日の働き方講座、22日の坐禅会、28日の仏教講座・総集編で締めくくりです。

・・・・・・・・・・・・・・
※昔のブログ記事を”発掘”したのでおすそ分けします:


2016年10月2日

今朝起きたら、すっかり秋の気配が。肌寒くなってきました。

気になるのは、近所の公園に一週間ほど前に現われた、白地に雉模様の若い猫。

最初は怖がって近づいてこない。だから、エサを遠くから放る。チョッチョッチョッと舌を鳴らして音を覚えさせる。雪駄の音もわざと大きめに鳴らして、〝この音が聞こえたら、エサくれる人〟というのを覚えさせる。

2、3日そうすると、音を鳴らすだけでミャアと草むらの中から声がするように。近くでエサを食べるようになった。それでも恐る恐る。近づくと逃げる。食べながらも周囲をうかがうことは忘れない(一度、近所の黒の飼い猫がいやがらせにやってきて、走って逃げて行ったことがあった。人間に対しても相当警戒心が強い)。

私はそのそばでじっとして、気配を消す。視線も合わせない。でもチョッチョッと舌を鳴らして、敵じゃないということに馴染んでもらう。

二日ほどすると、食べた後に、思いきり背筋を伸ばしてみせるようになった。「ごちそうさま」という合図らしい。その場で尻尾を丸めて、じっとうずくまって見せる。

それでもまだ警戒心が強くて気が休まらないのか、近くのやぶの中に入っていく。逃げるわけじゃなく、やぶの中でこちらの気配をうかがっている。それに対して、「大丈夫だよ」という思いを送る。

誰かに捕まったら殺処分? この界隈に野良猫はほとんどいない。それは可哀そうだからこちらで保護しようかと思ったが、しかしそれは仏教じゃないなぁと思う。気持ちを送って、相手が近づきたいと思うようになるのが、自然な成り行き。とりあえず、近づき方、距離の取り方、すべて猫のリアクションをみてから決める。これが仏教流、つまり正しい理解(笑)。

今朝は、いよいよ、エサを食べた後に、道の途中まで私についてくるようになった。公園を出ていく私を追いかけて、やぶを抜け柵の下を潜り抜けて、道の真ん中でミャアと鳴く。「ウチにおいで」と言ってみるが、まだそこまで決心がつかないらしい。結局、向かいのマンションの生垣の下に隠れて、部屋に入った私の様子をうかがっている。今のところ、こんな感じ(笑)。


相手が動物であれ、人間であれ、こちらに一方的な(あるいは最初に)思惑や「かくあるべき」という判断や、「こうあってほしい」という要求があっては、もうそれだけで〝心の通じ合い〟は遮られてしまう。

一定の判断や、明確な働きかけが必要な時、功を奏する時もあろうが、それはえてしてこちら側のエゴや勝手な思惑であることが多い。「相手のことがよくわからない」と悩む人が多いけれども、そういう場合はたいてい「私はこう思う(こう考える)」というところが最初にあって、その思いにしがみついていることが多い。

「私はこう思う」というのは、極端にいえば、「どうでもいい」(笑)。それよりも、相手を、今の状況をよく見透せていること(理解できていること)のほうが圧倒的に大事。というか、心の向け方としては、「理解すること」が最初なのだ。

解釈するのでもなく、良し悪しを判断するのでもなく。妄想するのではなく、反応するのでもなく、ただ理解する。相手の心をよく理解できたときには、びっくりするくらい、いろんなことが見えてくる。たぶんアレコレと妄想して悩んでいた人にとっては、「え、こんなにラクでいいの?」と戸惑うくらいに、物事が見えるようになる。わかりあえない苦悩やストレスからも、無縁になれるかもしれない。

もちろん、本当の理解というのは、限りなく難しく、「妄想」との境界線はかぎりなく曖昧だ(だからこそ「わかっている」と思うこと自体が、慢であったり妄想だったりする可能性はかなり高い。だから、仏教では「わかっている」とは最後まで判断しない)。

だが、妄想を捨てて「ひたすら理解する」という心がけに立ち続けることで、妄想が作り出す悩みや、人間関係をめぐる誤解や感情的ストレスは、大幅にカットされるものである。

「理解する」ためには、つつしみ(謙虚さ)も欠かせない。ゆめゆめ、「わかっている」と思ってはいけないのだ。そう思ってしまった時点で、その理解は「正しい理解」ではなくなってしまう。


はて、私はこの猫――サラと呼んでいる(沙羅双樹のサラ)――の心をどれくらい理解しているか。一度は飼われた猫らしい。去勢手術も受けて、まだ生後半年くらい? なんの因果か、夏の終わりに、公園でひとり生きることになってしまった。

完全な野良なら懐かぬ可能性もあろうが、一度飼われたことがある猫なら、人に期待をかける部分はまだ残っているかもしれない。寒くなる前に、「ウチにきていいよ」というところまで伝わってほしいものだと思っている。


8年後(現在)のサラ
猫ハウスより古新聞の中にやすらぎを感じるらしい
このあたりも飼い主に似ている




人生の選び方


人生を選ぶとは、手にしたものを何に使うかを選ぶことだ。

何を考え、何を語り、何を行動するか。時間を、お金を、何に使うか。


たいていは、自分が最初に思いつくこと、衝動、欲求、願望、都合、打算計算で選ぼうとするのかもしれない。

だが、仏教を知ると、別の考え方をするようになる。


手にしたものを、自分以外の誰かのため、世界のため、未来のために使う――という発想が入ってくる。

自分を越えた価値のために、手にしたものを何に使うか、を選ぶ。


今進めている「寺子屋」は、半世紀以上生きてようやくさずかったものを活かそうという試みだ。

いつも考えるのは、この場所は誰のためか?ということ。

自分のためでは、あきらかにない。自分の寿命(時間)なんて、そう長くはないのだから。

人はあっという間にいなくなる。私も同じだ。
 

だから、自分のためというより、自分の後に残る家のため。

未来に残るのは、自分ではなく家のほうだから。

では家は誰のためかといえば、その土地のため、その土地の未来に生きる人たちのためということになる。

土地にとって、未来にとって価値あるものを残せるかもしれない――そうした思いこそが、家づくりという冒険を引き受ける理由になる。

 

人生は短いからこそ、人生を越えた価値を見据えて生きることなのだろうと思う。

それがはたして可能かどうか、

今のところ、不可能ではないという場所にいる。可能かもしれないという地点に。
 

人が最後に選ぶのは、希望であり、未来につなごうというポジティブな意志であるべきだ。

そうした、自分を越えた本当に価値ある選択こそが、人生最後の選択肢。

そのことがわかっていれば、正しく生きている――価値あるものを選んで生きているという納得に帰ることができる。

何が人生で大事なことかという道を、見失うことなく生きていける。



2024年11月下旬


踏み出すか、留まるか


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』などの著作に託した内容が、「社会常識」になってくれるくらいに、広く知ってもらえたらという思いはあります。

今はSNSはやっていませんが、近い将来ネットメディアを活用して、もっと情報発信していく時期が来るような(始めなければいけないような)気もしています。

大きな目でみれば、日本という社会から次第に希望が減りつつある気が(ある程度の年齢を重ねたからかもしれませんが)してなりません。

「心の使い方」という合理的な視点を貫くからこそ、広く受け入れてもらえる余地が広がり、その分、希望を増やすことに貢献できるかもしれないと感じています。

ただ、現時点では、ネットメディア(SNS:Y○○T○○○も含む)に出ていく心の準備ができていません・・・。

こうした媒体ではたしてどこまで伝わるのか。時間潰しに使われるだけではないか(お気軽に視聴できるだけに、お気軽な範囲でしか心に残らない)と思わなくもなく、

でもそうした傾向はあるとしても、ならば軽い範囲で届く内容を伝えればいいのではないか、伝わらない(伝えない)より、伝わる可能性があるほうが、よいのではないか、

こうしたメディアを通してでないと伝わらない、出会えない、でも受け止めてくれる人たちもいるのではないか、という思いもあります。

特に思うのは、毎日仕事に追われているであろう勤め人の人たちとか、遠い場所でひっそり暮らしている人たちとか。

そうした人たちに届く、伝わる、出会えるという純粋な価値だけ作れるのなら、やってみる意味はあるかなと思わなくもありません。
 

この点は、ずっと考え続けてきたけれども、まだ答えは出ていません(ずっと思春期(笑)?)。


もし踏み出すなら、みんな幸せになって(なろうよ)、元気出そうよ、という思い全開で、つまりはもとのキャラを全開にして届けたいと思っていますが、そんな動機が通用するような世界なのかどうか・・。






こんな感じ?(『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)




2024年11月中旬

ブディズムの可能性


いや、この一週間はたいへんだった。いわゆるテンパるという状態が続いていた。

『反応しない練習』のコンテンツを講演用のスライドにしていたのだ。引くべき文章はそのまま引き、関連する仏典の引用やパーリ語の解説や本文注釈、最新の話題、仏教以外の関連図書(社会学・経済学・心理学等)のリストや、未公開原稿を付けたりして。

名づけて、『反応しない練習 The Upgrade』。

スライドだが、百ページ近くになった。今後さらに膨らませていくから、最終的にはもっと増える。

徹夜が続いたが、やっと終わった。そして成果を活かす機会が、さっそく完成当日にあった。

『反応しない練習』を解説し、実際に体験してもらう講演会だ。

講演というのは生ものだから、本の活字よりは、伝わる情報量や表現の正確度は落ちる気はしている。だがライブで直接伝えることには、正確さとは違う価値があるらしい。

(考えてみたら、アーティストの音楽も、スタジオ収録とライブ・コンサートは、伝わるものが違う。前者が作品としてのクオリティを上げることをめざす半面、後者は、目の前の観衆にダイレクトに伝える、まさに訴えることをめざす。ライブのほうが圧倒的に声に迫力があったり深みを感じたりすることがよくある(だから泣く観衆も出てくる)のは、それだけ送り手・受け手の心が激しく動いているからだろう。まさにライブだから伝わるものがあるのだ。)


今回は、50ページを超える本に近いスライド資料も用意したから、それなりに価値のあるコンテンツを作れたような気がしなくもない。「読む講演」的な。


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』は、現代社会を生き抜くうえで欠かせないスキルを集めた3部作だ。

これらの作品は、今を生きていくうえで不可欠。だが、ほとんどの人は知らない。合理的な心の使い方、業(ごう)、そして正しい怒り方について(※怒ってはいけないなんていうムリな発想は卒業してくださいw)。

これらを知っているかどうかで、人生はまったく変わってくる。本当は、企業に入った最初の時点で学んでおくべき内容が含まれている。

きちんと読んでもらえば、人生に見通しがつくようになる。ラクに生きられるようになるだろう。そうあってほしいと願う。


一人一人の人間は、広い世界の歯車に過ぎないかもしれない。だが、それぞれが小さな役割を果たすことで、この大きな世界が回っている。

どんな仕事であっても、その人が元気に働いている。それが、社会にとってどれほど大切なことか。

だから、一人として欠けてほしくない。働ける人は、働ける限り働いてほしい。元気に、幸せに。

そういう人としての思いをこめてお伝えして帰ってきた。充実した一日だった。


一人打ち上げとして外食しようと思ったが、いつの間にか値段がグンと上がっていた。久しぶりに(?)スーパーに行ったら、お米だけでなく、いろんなものが高くなっていた。値上げぶりが容赦ない。もはや隠そうともしなくなったようだ。

収入が連動して上がるわけではないから、急に暮らしが厳しくなったと感じる人は多かろう。さながら不意に水位が上がって溺れかけるかのような気分か。

そんな時勢に〇〇党は、ろくでもないことをやっている。あの党は壊れている。だから国を滅茶苦茶にしてしまっているのだ。任せていたら、ますます国を壊して復旧可能になるぞ。ガチで終わらせないとダメだ。この国全体を覆う閉塞感と為政者の絶望的な愚昧さは、この国は過去何度か体験しているはずだが、はてこの先変わる機運は高まってくるのだろうか。


これでようやく休めると思ったら、新聞連載のイラスト描きが残っていた。また徹夜か・・。

でも久しぶりに、集中を継続できた。働いたという実感を思い出した(笑)。

そろそろ本の執筆でも、この継続モードを起動せねばなるまい。



2024・11・13

マイペースは老化のあらわれ?


出家の独り言――

最近、仕事が遅くなった気がしてならない。

仕事とは本づくり(執筆)のこと。

週イチの新聞連載は確実快調に進めているが(落としたら犯罪級なので、これは当然のこと)、

単行本の執筆となると、なかなか進まなくなった気がしてならない。

(気がするというより、確実にそうなっている・・『これも修行のうち」』と『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』は、『反応しない練習』の翌年にほぼ同時期に上梓したのに・・客観的に見ても、あの2作は中身の詰まった本だと思う。それを半年以内でほぼ同時に書き上げたのだ。)

仕事のペースが遅れがちなのは、なぜか。執筆以外の雑事が増えてきたのか・・。

正確にいえば、できることなら新しいもの(路線・内容)をという自分に課するハードルと、慎重にという性分はそのままに、いろんな物事が上乗せされてきたからというのが、正しいかもしれない。

本づくりについても、新たな作業が入ってきた。

新しいものをというハードルをクリアするには、「勉強」せねばならない。

ところがこの勉強が、率直に告白して面白いのだ。

映画を観たり、小説を読んだり・・正直、これだけをやり続ける暮らしがあってもいいかもと思ってしまうくらいに楽しい作業ではあるのだ。

(楽しんでいるだけでなく、作品にどう活かすかという視点で、表現の技法や演出の方法や展開の順序を学んだりと、かなり心はせわしなく働かせているのだが)。

だが、こうした作業は、あくまで自己満足にすぎない。いうなれば、自分優先で、出版社・編集者様本位ではない。

自分のことを優先させて、仕事で関わる人たちにもうしばしの猶予を求めてしまう・・というのは、プロの仕事人としては、劣化であり、老化、退化なのだと思う。

自分で配分やペースを選んでしまう、それが許される気がしてしまう・・・このあたりが、物書きの、いや独立自営業者の老化の現れだ。そんな気がしてきた。


本来なら、依頼者(出版社・編集者)様目線で、速攻で書き上げる! 中身も素晴らしい! しかも多くの読者に届く!! というのが、理想なのだろう。そうは承知しているのだが。

わがまま、マイペースは、老化の現れ。これは受け入れてはならない。

もっと速く! おまえならできる! やれ! 急げ!! と鈍亀になりつつあるかもしれない自分に危惧を覚えつつ、ムチを打つ。

(まずは時間割を工夫しよう・・書く日は書くだけにしないとダメだ・・とまずは初歩的な反省から・・)


もっと頑張れよ、自分。



2024年11月1日
・・・・・・・・・・・・・・・・

悩ましい問い:メディアとの関わり


見つけてくれることは、たいへんありがたく・・。

でも出家の立ち位置からすれば、すぐには乗れない話が、メディアからの依頼。

テレビ、新聞、動画、ネットメディアーー

この社会の幸福の総量を増やすことにつながるか、

それとも一見意味があるように見えて、実は消費されるだけで、まったく意味がないか。

後者の可能性をまったく恐れない人であれば、どんどん乗っかって露出が増えていくのかもしれないけれど、

そうした部分に価値を見ない出家にとっては、前者のみが、メディアとの関わりを決める基準になる。

ときおりお声がかかる。しばらく悩む。せっかくお声をかけていただいたのにお応えできない申しわけなさを背負ってしまう。

かつての対応の一部を抜粋します(ネットメディアの最先端をゆく某メディア様への出家的回答です):


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今回、興味深いオファーをいただいたと感じ、前向きに検討するつもりで、ご案内のコーナーを拝見致しました。

・・・・・やはり、SNS(ツイッター)と同じ価値観でプラットフォームを構築されておられるのですね。

目が傷みます×▽×)

記事あるいは個人と読者とのやり取りに、フォロワー数の表示は必要なのでしょうか・・・。

今の世の中・時代が、人の心に過剰に負荷をかけている一因は、純粋な言論・表現に、逐一数値による評価を押しつける節操なき仕組みにあります。ツイッターがその最たるもの。「完全に病気」だと個人的に感じています。

人には承認欲があるので、フォロワー数とか視聴回数とかチャンネル登録者数とか、いちいち数値化されると、どうしても反応して、それに応えようとします。結果的に本来の目的(交流・共有)から離れて、過剰に他人の評価を気にせざるをえなくなります。

ご紹介いただいた方の記事も、自分では制御できない部分まで、自前の承認欲に基づいて妄想を広げて、最終的に疲弊なさったのだろうと感じます。

(妄想に快を感じ追いかけている時がハイで、疲弊した状態がローです。躁鬱とは妄想が作り出す心の病です。思考によっては抜け出せない。妄想を解除しないと。その原点にある承認欲を書き換えないと。)


もともと人の心には、負荷(ストレス)が過剰に達するまでの許容範囲があります。その範囲は人さまざま。

人さまざまだからこそ、画一的な価値観をもって数値化し評価する仕掛けを採用することで、適応しきれない人たちが病んでゆくのです。

過剰な数値化によって人の心を扇動することで、一時的には利用者のモチベーションが上がったり、その数値を見て注目する人が増えたりするかもしれません。ビジネスモデルとしては一見成功して見えることでしょう。

しかし、「数値」というノイズが入る限り、情報の真価・本質が見えなくなります。簡単に見抜けること(自分にとっての価値の高低)さえ見えなくなる。

本質を見極めようと思えば、不必要な情報(たとえば経歴・ポスト・数値)を捨象したほうが、速くたどり着けるものです。今の時代は、必要のない刺激と情報が過剰なために、本質を見極めることが逆に難しくなっている印象があります。

おそらく〇〇〇〇の読者様たちは、価値ある情報を掘り起こすために、選別に相当なエネルギーを使っておられるのだろうと察します。しかも何を語るか、自分をどう見せるかを、目まぐるしく計算しながら・・。

 
現在のSNSの設計は、発信する側にも負荷がかかり、見る側にも負荷がかかります。

その根本的理由は、自己顕示欲をベースに設計しているから。心の病が極北まで進んだ海の向こうの国の価値観(病気)に基づいているからです。同じことをしなくてもいいのに・・・。

数値が価値を持つというのは、一つの価値観。しかし、数値は無駄(なくていい)というのも、正しい価値観です。

価値観というのは、平等。どちらかだけが正しく、優れているということはありません(価値観そのものは妄想だからです(笑))。

二つの価値観が併存してこそ、価値観が豊かだということになります。さまざまな価値観が併存するプラットフォームを作る場所こそが、多様な価値観を実現する、それこそ「一歩先をゆく」場所ということになります。

現時点で、本当に先進的なプラットフォームは、存在するのでしょうか。ないかもしれない。
 

現代の宿痾(止み難き病)の一つは、自己顕示欲・承認欲を煽り、煽られる仕掛け「だけ」が、唯一価値を持つかのように、社会全体が勘違いしていることにあります。


単純に価値観が貧しいということです。その閉塞ぶりが、人々に過剰な負荷を強いている。

この国の人たちが、みな、単一の価値観の中に閉じ込められているように、私には映ります。

他にいくらでも、生き方・価値観・制度設計はありうるのに、みんな「乗っかる」ことに必死で、別の可能性を探そうとしない。

この国が迷走し続けているのは、別のあり方を想像し、かつ創造する知性が枯渇しているからです。

豊かなようで、きわめて貧しく、先進的に見えて、実はかなり遅れている。なぜなら、この世界のあり方を疑い、別の可能性を提起する知性が、ほとんど見当たらないのだから。

みんな、乗っかってしまっている。根底から考えるということをしていない。

と、かように懐疑的なので、今の世界(貴誌のプラットフォームも含め)とは一線を引いて活動しています^^。


とはいえ・・・〇〇様のように見つけてくださる人もいます。それは、とてもありがたいことです。

本当は、 〇〇様のような人たちに向けて、もっと多くの言葉を届けたいとも思ってやまないのですが。

私はSNSも一切やっていません。今の私は、この殺伐とした異常な世界にあって、見えるようで見えない場所にいるのだろうと思います。

それでも本を見つけて、やすらぎを見出してくださる人たちが、たくさんいます。

そうした人たちとつながっていけるなら、それでいいのかなというのが、今の心境です。

わざわざ自分から出ていくことも、過剰な数値化を強いてくる歪な世界に乗っかることも、まだまだ先の話でいいのかなと思っています(永久にないかもしれません)。

ご案内くださったプラットフォームが、もう少し優しい(というか合理的な)設計であるなら――たとえば、フォロワー数をデフォルトで開示するというツイッターもどきの仕組みを採らないことも選択できるなら^^;)、

この世界で頑張って生きている人たちとつながるつもりで、言葉を発することもあっていいかなとは思います。

現時点では、まだ躊躇する思いのほうが大きい次第です(踏み切るだけの名分がまだ見えない)。時機を待ちたいと思います。


多くの人が自分を語り、自分を見せつけたがる、「見た目、痛い」世の中です。


そんな中で、優しさやまっとうな生き方を貫いて頑張る人たち(〇〇様もそのお一人なのでしょう)のことを想って、地道に作品を送り出していきたいと思っています。




2024・10・25
・・・・・・・・・・・・・・

市井のプロフェッショナル


15日は、名古屋での講座。新規では「オーディオブックを聞いて」とか「新聞連載を読んで」という人が増えた。

新聞連載は12字✕70行しか書けないし、週に一度の読み切りなので、細部をかなり端折っている。今回の連載には書けない部分もある。いずれ機会があれば、すべての出来事を明らかにしたいと思っているが、その機会がいつ来るかは、わからない。

この講座では、膨大な原始仏典の中から、比較的、世俗の人に伝わりやすい&興味を持ってもらえそうなエピソードを、自前で翻訳して紹介している。

本当は全編訳していきたいのだが、内容が非現実的だったり、高度すぎたり、観念的過ぎたりする部分も多く、ついてきてもらえないだろうと思って省略している。

すべてを伝えようというのは執着だ。その人に伝わる範囲で伝わればいい。

そうした脱力があるから、みなさん気軽に集まってくる。シニアの人たちもいい表情だ。末永く続けられたらと思っている。



翌々日、奈良某所。どっちゃりと溜まった廃材を引き取りに、業者の人たちが来てくれた。午後3時すぎに現地に着くと、あれだけあった廃材がきれいに無くなっていた。恐れ入った。

あの廃材・残材・私物は、本来は他の人間たちが責任をもって処分せねばならないものだ。ところが彼らは無責任・不誠実の極みで、すべての責任を放棄した。そういう人物たちも世の中にはいる。

だが今回の業者さんは、わずか3人で、6時間ほどかけて、すべての残材を運んで行ってくれた。

しかも午前に電話があって、「予想以上に量があって、今日一日じゃ終わらないかもしれません」と言ってきた。

恐縮して、「たくさんあってすみません、追加料金はお支払いします」と言ったら、

「いえ、これは私たちの問題なので、追加はいただきません。ただ、今日中に終わらないかもしれないことだけ、お詫びしたかったのです」と言う。

実際は、無事一日で終わったのだが、昼食を抜いて作業してくださったという。現場は車が入れない路地裏なので、近くの駐車場に止めた3トントラックまで人力で運ばねばならなかった。そういう多大な労も引き受けて、仕事終わりの晴れやかな顔をなさっていた。

こういうことは気持ちだ。見積もりの額の他に、せめてもの御礼を足してお支払いした。


こういう人たちがプロなのだろうと思う。手を抜かず、依頼者に迷惑をかけず、裏切らず、自分が言ったことは確実に遂行して、できなかった部分は自分が持ち出してでもやり抜こうとする。

本物の矜持を備えたプロフェッショナル。年齢も肩書も関係がない。すさまじく高い職業倫理を持った、胸のすくような人たちだ。

そうしたプロの青年たちと比べるのは実に野暮だが、今回の残材を放り出して逃げ続けている無責任な男たちがいる。彼らに最低限の誠意や責任感があれば、今回のプロの青年たちにお願いせずにすんだことだ。

世の中、カッコばかりつけて、キレイごと言って、エラそうな肩書きを集めながらも、都合が悪くなると嘘、難癖、屁理屈をつけて、逃げまくる罪深き人間もいる。カッコ悪さの極み。

こうした人間は責任を負うということを学ばないから、いつまで経っても成長せず、最後は罪人としての馬脚を露わにしてしまう。


そうはならないように、本当に今のままでいいのですか?(いずれ社会に知られることになりますよ)と伝えても、耳を塞いだままでいるらしい。


本当の矜持を持ったプロフェッショナルな人たちと、話にならないレベルの人たちと。

人生の理想は、後者に遭遇せず、前者にのみ出会えることだ。


世の中には、醜悪な人間もいるが、善良な人、心が美しい人、気高く働く人たちもいる。

そういう人たちとたくさんめぐり逢えている今が楽しい。




2024年10月下旬




講座最新スケジュール11・12月

 
興道の里・最新スケジュールをお知らせします:

生き方として学ぶ仏教講座・最終期は全3回です。
 
11月に2コマ、12月に総括編1コマを開催します。

11月は種田山頭火を題材とします。原始仏教、禅の思想、業と執着など、仏教講座の締めくくりにふさわしい内容です。

専門的な内容も含みますが、生き方に役立つ合理的・実用的な内容です。参加者の質問・相談にもお答えします。
 
今の形での東京での講座は、これが最後です(おそらく)。
 
仏教という枠を越えた内容をお届けしています。初めての方も積極的にご参加ください。
 

・・・・・・・・・・・・・・
<講座スケジュール>

11月2日・30日(土)および12月(※12月は後日告知します)
18:00~21:00
生き方として学ぶ日本仏教・2024年後期(全3回)

<内容>
仏教を「生き方・考え方」として学んでいくシリーズ講座。原始仏教から大乗・日本仏教まで、仏教思想の全貌を明快に解説していきます。毎回オリジナル資料を使用。世間の話題をめぐる仏教的解説や質疑応答のコーナーも。1回の参加で多くのことを学べます。 一般的イメージと異なる斬新かつ実用的な内容です。
★2024年度は日本仏教編。後期は種田山頭火ほかを予定。全3回。


11月4日(月祝)13:00~16:30
座禅会(瞑想と法話の会)
東京・新宿区 


11月10日(日)18:00~22:00
個人相談会
東京・新宿 

<時間枠> 
➀18:00~18:45 ✕(予約済み) ②18:50~19:35 〇 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ✕ ⑤21:20~22:05 〇
※ ✕(予約済み) 〇の時間枠のみ受付可能です
※ご希望の時間枠と相談内容を事務局までお送りください


10月15日・11月19日・12月17日(火)
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html



・・・・・・・・・・・・・・・・ 

スケジュールの詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。

※参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 

<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。

 

よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
 
興道の里事務局
 

しあわせになるために学ぶんだよ



 

 

あたらしい青春


ただいま青春爆走中だ。病的に長引く猛暑もなんの暑(そ)のだ。

定期券が、これほど破格の力を持つとは想像していなかった。

自宅から1分の最寄り駅から電車に乗れば、冷房が効いた快適な空間にたどり着ける。

移動中は文庫本をチェックする。歩くときはズボンの後ろポケットに入れる。

スマホで眺める情報は、すぐに流れ去る程度のものだ。だが本は、自分のテーマがあって選んで読むものだ。まったく違う。

スキマ時間にスマホを眺めるのと、文庫本を読むのとでは、実は後者のほうがストレスが少なく、かつ価値が高いように思う。滋養として心に残ってくれるからだ。

今は電車の乗客のほぼ9割方がスマホをにらんでいる。あきらかに空席を探しているシニアの人が乗ってきても、若い人も子供でさえもスマホをらんで、気づこうともしない。

電車の中では、なるべく立つことにした。立っていられる体力があるなら、立ってバランスを取って下半身の筋肉を鍛えよう。

思い出したが、私は二十代前半の学生の頃も、電車の中では立つことを選んでいた。自分が座れば、座れなくなる人が一人出てしまうからだ。上京してきた両親が、そこまで頑張らなくてもいいんとちゃうかと言って、その時だけは空席があったので座った記憶を思いだした。

余談ついでだが、座ったままというのは、筋力を激しく衰えさせる。長時間座ったままでいると命を縮めるという説をよく聞くが、私のように座る時間が長い人間には、それが真実だとよくわかる。

座ると、足のつけ根から、ほとんど筋肉を使わないのだ。筋肉が死んだ状態。これがものすごく体に悪いことが実感できる。急速に筋力が衰えていく。足が死に近づいていく(笑)。

だからこの夏から、「座らない」実践を始めた。電車の中ではなるべく立つ。揺れる車内で立っているだけでも、足腰の筋肉を使っていることが伝わってくる。

移動中の階段は「一段飛ばし」をルールとした。これもかなり効く。足腰の筋肉だけでなく、心にもだ。昇るスピードやリズムが、一段ずつ上るのと違う。心が若返る。かつてはこれくらいのテンポで動いていた。その頃の心に戻れるのだ。50過ぎて一段飛ばしの男(笑)である。エスカレーターで昇る人たちにとっては、変わった人に見えるかもしれないが。

電車旅とはすごいもので、30分も過ぎれば、非日常の場所に着いている。新しい商店街、新しいスーパー、新しい道。そして、お目当ての場所に着く。最近見つけた図書館だ。



出家前に日本を離れてから、本を読むことを意図的にも遠ざけてきたところがある。必要がないと。自分が身に着けた仏教ベースの知力で仕事はできると。実際、ここまでの作品は、基礎とする仏典・資料に材料を絞り込んで書いてきた。それでも足りた、のである。

だが今から書こうとしているのは、十代向けの生き方の本であり、また自身が新しく始めようとしていることは、十代までの子供たちに、未来につながる知力の本質を伝える活動だ。

だから、彼らにとってのリアル(その心に届きうる知識や表現)を学び直す必要がある。

今進んでいる大きめの企画は2本。いずれも子供・十代が対象だ。ひとつはストーリーで、もうひとつは十代向けの生き方・学び方の本(自己啓発的な内容と勉強法的な内容を混ぜた本)だ。

そこで今重点的に読んでいるのは、児童文学と、十代向けのいろんなジャンルの本。

児童文学はすごい。絵本もすごい。子供向けの解説本もすごい。理科・社会・国語という分類を越えた精緻なテーマで巧みに解説している。「子供だまし」とは真逆で、「本質」を描いている。

その本質が複雑化・深化していった先に、大人たちにとって科目や専門分野がある――はずであり、あるべきである。高度な学びにシームレスにつながっている内容こそが、本質だ。

本質を学べる子供向けの本が、けっこう出ていることを最近知った。

大人もまた、学びの道を見失ったときは、子供が手に取る本からスタートすればよいのだ。「わかる」本がたくさんある。

ところが、子供から大人まで学びの階梯をつなぐ本の間に障害物として入ってくるものがある。それが中高生向けの教科書であり、大学入試に縛られたいわゆる「勉強」だ。途端に内容が歪(いびつ)になる。

図書館には中高生も来ているが、その教科書や参考書を眺めると、なんともわかりにくい。本質から遠く離れてしまった「概念」のオンパレード。実感も持てず、記憶にも残らない、知識の死骸みたいなものに見える。

中高生も、教師も、大人たちも、勉強とはそんなものだと思い込んでいるかもしれない。だからこそ「干物にもならない干物」を噛んでも、それなりにやっていられるのだろうと思う。本当の干物ならまだ味があるが、彼らが勉強と思っているものは、さしたる味もない概念の羅列でしかなかったりする。たとえば世界史--トルコ・マンチャーイ条約? セポイの乱? おいおい。そんな単語を年号と一緒にきれいにノートに取って、はて頭に何が残るのか。

本当の学び・教養というのは、たとえば日本を離れた時に、いろんな文化背景を持った人たちとコミュニケーションを取るための話題・材料になりうるものだ。世界を見通す手助けになるもの。

今の学校で学ばせているものが、はてどれくらい使えるか?

中高生が机にかじりついてやっている勉強の中味は、世界・国際には役に立たない「オワコン」であり、概念の死骸かもしれないと思う。

これは海外の教科書や勉強事情を調べてみなければならないが、東大を初めとする難関大学卒の優秀とされる官僚が(←世俗の価値観に沿って語ってみる)海外の大学に留学すると、低くない確率で留年・退学になったりすることの一因かもしれない(※恥ずかしくて公表していないだけで、実態はけっこう深刻だとも聞く)。

数学もできず、歴史も語れない、文学・芸術をどう論じるかもわからない。完全に大学入試で止まっている頭では、海の向こうには渡れない(通用しない)し、国内においても前例踏襲のほか何もできない。

日本の教育は、形は多少変われども、中身はまったく変わっていない気配が濃厚だ。気づいていないのは自分たちだけ。これもガラパゴス。大学の先生方でさえ、それでいいと思っている可能性も案外高い。




本題に戻すと、十代向けの本を書くために、いろんな本を読んで調査・研究・思索せねばということだ。その最適の環境が、最近見つけた図書館だ。

定期券を買えば、元を取るべく休まず通おうという気にもなる(貧乏性ゆえ)。入れば快適な冷気に包まれる。そして静かで清潔な環境の中で、豊饒な本の世界に遊ぶことができる。

いや、本がこれほどたくさんあるとは、しかも良書がこれほど多いとは。いくらでも学ぶことがある。それを自分の目的(マイ・テーマ)に沿って作り直して、本と活動に活かしていく。その作業を進めている。脳を、未来を、耕している。


近くのアパートの下見に行った。今すぐ動けはしないが、引っ越せば新しい生活が始まることを実感できた。まるで学生時代に戻ったかのような気分が味わえた。

つくづく楽しい毎日だ。充実感が半端ではない。心はバック・トゥ・20代。手つかずの未来が見える気がしてしまうのだ。まさに青春である。



帰りはバスに乗った。東京の街を眺めていた。

もし上京したばかりだとしたら? 

手つかずの未来につながる空が目に映ることだろう。

もうごくわずかしか時間が残されていない末期だとしたら?

今見ている夕暮れどきの空は、人生で最後に見る空になるかもしれないと思いながら見つめるだろう。

そう、現実の私は、きっと近い将来に、東京を離れてしまうのだ。

今見ている明日の夢は、夢のまま終わる。きっと。

「あの頃の桜は、もうどこにもない」と、ある映画の中で登場人物が語っていたけれど、

たしかにあの頃の夢は、もうどこにもないし、

今見ている夢も、たぶんどこにもなくて、

ただ、これが最後かもしれないと思うこの心にだけ見えている、

せつない幻影かもしれないとも思う。


人生はいつか終わるけれど、青春はそれより早く終わる。

でも奇跡的に、まだ青春の中を生きている。

もうしばらく、この新しく始まった青春を楽しませてもらおうと思っている。



2024年9月中旬

 

 


夏の日の独り言 8月15日


8月15日は、あの戦争が終わった日。


だがあの戦争を覚えている人は、徐々に確実に少なくなっている。

心なしか、戦争を振り返る声(報道や行事)も減りつつある印象もある。

あの戦争を振り返る時はたいてい、戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦争が起こらないようにという願いを確認するものではあるけれど、


もっと正確に言えば、戦争を繰り返さないためには、「思考する」ことを育てなければいけないのだろうと思えてくる。


現実に何が起きているのか。

それがどんな結果をもたらしうるのか。何が原因か。

どんな方法がありうるか。


こうしたことを考え抜いて言語化しなければ、問題が起きても気づかず、気づいても方法を思いつかず、

よくて現状維持、悪ければ現状悪化、さらには心が持つ弱さ・醜さ・狡猾さに負けて、個人の人生に、そして世界に、いっそう苦しみを増やしてしまう事態につながりかねない。


共通するのは「無思考」だ。問題を見ず、原因を考えず、方法を考えず、望ましい未来を思い描かず、苦しみに満ちた未来を想像しない。


あの戦争においては、本当に戦争を始める必要があったのか、いつ終わらせるのかを、冷静に考えた人間は少なかった。当時の人々の多くは(すべてとは言わないが)、正しい戦争をしていたと信じていたし、終わらせようとも考えていなかった。

(※日清・日露戦争当時から、日本人は戦争することを願っていたのだ。メディアも市井の人々も。日本人は戦争を好んだ。そのことは否定できない事実であったように見える)。

 

無思考こそが、あの戦争の原因だった。


今の時代はどうかといえば、やはり同じだ。おそらく本質は変わっていない。

気候変動どころか、沸騰化しつつある大気の原因を考えない。打開する方法を真剣に模索しない。なんとなくこのままでも経済活動は続けられると信じている。無思考。


政治システムが変わらない。腐敗と停滞は長すぎるほど続いているのに、変わらなければという声が実を結ばない。変わるためにはどんな制度(アイデアと法律案)がありうるかを議論せねばならないが、真剣に考える人間は、政治家にも(与党にも野党にも)、かつては立案の多くを担っていた行政官僚にも、学問・思想の世界にも、いない。無思考。

(※ここで想定しているのは、法案の前段階になりうる草案レベルのアイデアだ。すぐにでも国会で議論できるくらいに洗練された制度案。それを考え、実際に書ける職業人。)


教育が変わらない。学校の現場は限界を超えているし、知的創造力を育てる教育プログラムはいくらでも議論し変えていいのに、いまだに国が管理し、教育のすべてを統制しようとし続けている。無思考。


個人が生き方を考えようとしない。心の魔(悪意)に流されて、他人を傷つける言葉を平然と語り、自己顕示と自己主張にエネルギーを費やす一方で、どうやら幸せは増えていない。無思考。

命と健康を守るはずの医療が、営利か別の思惑があるのか、人々に過剰な負担と未知の危険を強いる、そんな事態に無神経になった。無思考。


マスメディアは公平さと分析力を失った。報道本来の意味を考えず、表面的な話題と恣意的に選択(忖度)した情報だけを流すようになった。主観的印象に過ぎないが、そうだとすれば、これも無思考だ。


最大の憂慮すべき問題は、そもそも思考するとはどういうことかが、わからなくなったことかもしれない。学者・知識人・評論家・専門家・文化人と称される<知>を担う者たちが、個人的な意見や感想しか語らなくなった。


現実に何が起きているか? 事実か否か? 客観的なデータは? どう分析すればいいか? どんな解釈がありうるか? そもそもの目的は? どんな方法がありうるか? どんな結果・効果が考えられるか? どんな基準で選択すべきか? 人は何を大切にすればいいか? いかに生きることが正解なのか?


すべては言語化できるもので、言語化することが<知>の役割であるはずだが、<知>を明瞭な言葉で示してくれる人間の数が減った。

政治・経済の機能不全、メディアの偏向、SNSを通じた自己顕示と自己主張の増殖、価値観の閉塞、<知>の衰退・・・

同時進行中であろう原因は複雑多岐にわたるが、共通するのは「無思考」である。そんな気がする。


無思考が続く限り、人間は過ちを繰り返す。

なぜなら心は、過ちの原因である貪欲と傲慢と妄想と怒りに満ちているものだから。


あの戦争を思い起こす日とは、無思考の罠に気づくべき日であるような気がする。

そもそも思考とはどういうものか。思考とは何だったか。それを思い起こす日にせねばと思える。


せめてこの場所は、思考とはどういうものかを思い出し、思考するとはどういうことかを改めて学ぶ場所であろうと考える。


8月15日は、思考の日。


それがこの場所における受け止め方。独り言。


※著作・講座・講演・看護専門学校での講義ほか、すべての場所において「思考」し続けます。その中身は、それぞれの場所においてのみ(思考を求める人との間でのみ)伝えていきます。慈悲にもとづく思考--それがこの場所の役割です。


2024年8月15日




この命の使い方(日本全国行脚道中記)

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

今回の講義には、東京、千葉、愛知の医師や医学生等が見学。地元の看護師さん(卒業生)も。

みなさん、その道のプロであり、プロになろうという人たちで、素人は私だけなのだが(笑)、プロといえども、見るべき点がすべて見えていることはほとんどないので、

この講義のように、医師、看護師、患者などすべての当事者に共通する「見えていなければいけない点」を技法に沿ってあぶりだすというアプローチは、確実に役に立つ。

医療・看護倫理は、まだまだ発達途上であって、いつ確立できるかわからない段階だ。かなうことなら、専門家の先生に活かしてもらって、「これだけは外せない、苦しみを増やさない最善の選択を導くための手順」を確立させ、普及させてほしいと思う。

3日目はグループワークを中心に進めて成功した。講師としては納得の一日。見学してくださった方々も、得たものは多かった様子。


そのあと奈良に入って、建築士さんと現地で打ち合わせ。ほんとに無事家屋が完成するのか素人にはわからないのだが、できます、と自信をもって言ってくださる。

完成すれば、今回の傷も癒されるだろう。最大の傷は、未来を育てるという教育活動が遅れを取ったことだ。

とにかく一日も早く形を作り、次の世代に生き方・学び方を伝える努力を始めたい。

 
夜に新幹線で東京へ。翌朝は早くに茨城に向かう。こちらは地元JA向けの講演会。

この一週間、徹夜続きで、看護学校での講義の合間に徹夜して新聞連載のイラストを仕上げるなど、かなりシュールな日常だった。器用な坊さんではある(笑)。いろんな分野でオリジナリティを発揮できている。

一度自分を捨てたことが、今につながっている。やりたいかやりたくないかという軛(くびき)を外して、求めに応じて、できることを謹んで確実にやる、という立場に立ってから、すべてが始まった。

茨城の講演会は、終活セミナー。歳を取るほど幸せになれる生き方について。農業を支える地元の女性たちがメインの対象。

日本の農業は実はピンチ。日本の社会そのものが、かなりの危機に直面している。それでも日本全国を旅すると、どの土地にもそれなりに人がいて、経済はまだ回っている。

巷間叫ばれている人口激減や継承者不足、食糧自給の危機などは、本当は夢なのではないか、まだこの社会は無事に回っていくのではないかと思いたくなるのだが、

だが、肉体の老いが刻々と目立たない速度で確実に進むように、社会の劣化・危殆化も、じわりじわりと進んでいるのだろう、と現実に目を覚ます。
 

まだ見えない危機を先取りしてシステムを変えていくことが、本来の社会的イノベーション・リノベーションであって、それが常態と化すことが理想なのだろうが、現実は程遠い。日本社会の時間は止まったままだ。いや、世界全体が、人類そのものが、か。

人間の心は、第一に己の妄想を見て、第二に執着することを選ぶ。見えない危機も未来も、他にありうる可能性も想像できないくらいに、小さな知力しか持ち合わせていないのだ。


日本社会の分断・萎縮・劣化・衰退は、自業自得と言えなくはない。だが、せめてその中で、新たな可能性を育む側に立たねばならぬという思いは、つねにある。


怒涛の一週間がやっと終わった。こんな日々をずっと続けたら、さすがに過労死するであろうと実感できるレベルの一週間だった。

実際に過労死する人たちも、この世の中には存在する。ひとり自死する人も、身投げする人も。忘れたことはない。

目の前で人が滅びつつあるのに、人間は現実を見ずして、まだおのれの欲と妄想にしがみつき、快楽と執着の中に留まっている。


世界は残酷だ。現実の苦しみを見ようとしない、その無知こそが、残酷な世界を作る最大の理由なのだ。

現実をよく見て、その中で己(おのれ)の命の使い方を見きわめる。

現実を見て感じる痛みを、熱量に変えて、この時代・この社会において、自分にできることをなす。

その道をどこまでも突き進むことが答えなのだと、今は知っている。ゆけ。



2024年7月20日
・・・・・・・・・・・・・


医療倫理としてのブディズム2

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

看護学校3年生とは、2年ぶりの再会だ。

2年前に比べると、やはり大人になった印象はある。これは毎年感じること。

本当の知識は、覚えられる、思い出せる、使える ものでなければならない(学習3原則)。最初から心がけて知識を学ぶことだ。

でないと、すぐ忘れる、出てこない、試験・現場で使えないことになる。下手な勉強とは、そういうものだ。

2年前にやった事例や話題を振ってみたが、やはり忘れていた学生も少なくなかった(^^;)。覚えている人も、2年前のレポートを持参してきた人も。こうした人たちは、2年前の学びと今がつながっている。ありがたい話(笑)。


これも毎年のことだが、「業」の話をすると、とたんに元気を失う学生もいる。高い確率で、親との関係が「心の荷物」(負荷)になっている人たちだ。

親から「自立」することは容易ではない。

①経済・生活において自立すること(つまり働けるようになること)、

②精神的に自立すること――
「あなた(親)の思い通りにはなりません、まずは自分の人生をしっかり生きます」といえること、

業の深い親に向けては、①親がどんな業の持ち主かを正しく理解し、②距離を置き(反応せずにすむだけの距離を確保し)、③自分自身の業(心のクセ)を自覚して、④少しずつ別の生き方・考え方に置き換えていく必要がある。

人はみな、自分のために生きることが基本だ。親に振り回されたり、荷物を背負わされ続けたりする必要はない。

自分の人生は自分で選ぶこと。

「今の自分に納得できている」ことが、正しく生きているかを測る基準になる。


3年生は、3日目もしっかりワークをしてくれた。

講義で取り上げる知識・情報は、リソースによって変わってくる。教科書、専門サイト、医師・専門家・看護師によって、さまざまに変わる。

だから決して鵜呑みにせず、しかし「技法」だけは守って、技法に沿って、必要な時はもう一度自分で調べて、自分で考えて、「覚えられる、思い出せる、使える」ように工夫して、学び、またレポートを作成してほしい。

3年生はよく頑張ってくれた。さすがに心の体力がついている。講師としても納得で終わった。感謝とリスペクト。


その一方で、これも数年に一度のことだが、「喝」を入れざるを得ないこともある。

多くは、やはり1年生のクラス。まだ高校生気分が抜けていない様子が見えることが、たまにある。

いろんな理由・事情があるのだろうという同情もあるが、自分の判断で、勝手に手を抜いたり、講義中に寝てみせたりする。

努力しても寝てしまう・・というなら同情するだけで終われるのだが、「これくらいやっても大丈夫」と判断している様子が伝わってくることがある。

疲れている、お昼を食べて消化に血液が取られている(頭に回らないw)、知識の解説が続いて苦痛、先生の説明の仕方が及んでいない・・いろんな可能性はある。

こうした時、おそらく多くの先生方は「大目に見る」ことを選んでいる。見ないフリをしてやり過ごす。雰囲気を壊したくないという思いもあるかもしれない。

だがこれは、人間と人間のサシの(直接の)関係性だ。自分のあり方と、相手のあり方の両方が問われる。

一方が真剣に話している場面で、あからさまに無視したり寝て見せたりしたときに、相手が何を感じるか。そのあたりの想像力は、持っていないと始まらない。

今回印象的だったのは、知識の解説で寝たのではなく(それならば心情は理解できるし、講師の側で工夫せねばと思うことも可能なのだが)、

体の感覚を意識しましょうという、マインドフルネス、瞑想と呼ばれる体験の時間を始めた時に、机に突っ伏して寝始めた学生が何人か出たことだ。

特に難しいことではない。だが体験することを、自分一人の判断で拒絶した(全員とはいわないが、そうした可能性を感じた生徒も何人かいた)。

さすがに、言わざるを得ないと判断した(何年振り?)。


そもそもこの場所に来たのは、誰の意志か。誰かに引きずられてやってきたわけではあるまい。

自分で看護師になろうと志し、自分の意志で学校まで歩いてきた。すべて自分の選択だ。

中高生と違って、「やらされている」ことはゼロである。自分の物事、自分の人生、自分の未来。

ところが、そうした自覚もまだ持てない、自覚を示せない人がいる。

そうした人を周りも許容してしまう。慣れてしまって「問題に気づかない、問題が見えなくなっている自分」そのものが問題だということに気づかない。


ちなみに、講義中にスマホやタブレットで芸能人やら漫画やらを覗き見ている学生も、たまにいる(※今年の3年生にもわずかだがいた。大目に見たけれどw)。

あえて何も言わないが、見えてはいる。

「ふとよそ見をしてしまう」(雑念が湧く)ことは、心の性質だが、その心に流されてしまう自分の弱さ、だらしなさを受け入れるかどうかは、自分のあり方の問題だ。

ほんの少し努力すれば強くなれるのに、簡単にラクに流される

その結果、弱くなる。弱くなるだけ、しんどいと感じる物事が増える。

自分を甘やかすことは、単純に、自分にとってマイナスなのだ。


幼い子供なら、成長の途上だからと大目に見ることはありうるが、この場所は、プロの看護師になろうという人たちが集まっている場所だ。当然、求められる最低限の態度というものがある。

この講義で毎年最初にお伝えするのは、「患者目線で見る」ということ。患者として、この人はちゃんと向き合っているか、最低限の礼儀や常識はあるかを見る。

苦しみを抱え、ときに命がかかっている。そんな人が病院で出会うのが、看護師だ。

その看護師が、別のことを妄想していたり、スマホを呆けて眺めていたり、目の前で寝たりして見せたら、当然、怒るか、絶望するか、その看護師を拒絶するか、

絶対に看てほしくない と思うだろう。


今回は、自分のため・自分の物事であるはずの場所において、至近距離にいる一人の人間が何を見て何を感じるかを想像もせずに、「寝ていい」という安易な選択をしたように見えた。

だから「喝」を入れた。

いろんな理由・事情・思いもあるだろうし、先生はみな工夫を重ね続ける義務を持っている。この看護学校に手を抜く先生は、おそらくいない。先生方はみんな真剣だ。私だって毎回連日ほぼ徹夜だ(今回も、3年生2日目の講義を踏まえて3日目の追加資料を作るために徹夜した笑)。

つねに何が起きているのかを見つめて、理由を突き止め、改善すべき点を改善する。それが、先生側の義務であり、約束ではある。


だがさすがに、内容次第で寝たり起きたり、あるいは先生の様子を見て態度を使い分けたりというのは、

自分の物事・自分の仕事として引き受けようというプロの予備軍が許容すべきことではない。アウト。

今回はさすがに見過ごすべきではないと判断して、ド厳しい(かもしれない)喝を入れさせてもらった。


来年以降も、𠮟るべき時と判断した時は叱らせてもらう。

人間として伝わってきたもの、感じたことについては、正直に、素直に、伝えさせてもらう。

求めるのは、自分(講師)が相手(学生)を理解することであり、自分(講師)が相手(学生)に理解してもらうことだ。

理解しあえることは、人間関係の目標だ。学生たちが将来看護師として患者と向き合うときのゴールにもなる。患者を理解し、理解してもらうことが、信頼関係を作る。

もっとも、理解しあえる関係は、遠い夢のようなものでもあり、どんな場面でも、手探り状態で、永久に手応えが持てない理想でもある。

だが、だからこそ努力すべきは、自分が言葉を尽くして精一杯伝えることだ。


先生も然り。目に余った時は、怒って見せていい。ただし、生徒たちが言ってくる(言ってきてくれる)ことを、全身で受け止める覚悟が必要だ。ときに反省を迫られる指摘・批判であっても、誠実に受け止めて、「教師として自分にできること」につなげていく覚悟だ。

それだけの覚悟があるなら、失礼な態度や、本人にとってマイナスだと見えた時には、「人間として」本気で怒って見せていい。教師たるもの、真剣たれということだ。


特に職業専門学校というのは、すべての学校の中で、教員も学生も、最も真剣でなければならない場所だ(無論、楽しいところは楽しめばいいのだが)。

看護専門学校は、自分の意志で集う場所。目標は、学べるだけ学んで、知識と手技と体験を重ねて、国家試験に合格して、プロの看護師になること。

すべては自分のためであり、自分の物事。

ならば、今の自分のあり方が正しいか、自分で自分に納得できるかも、自分で判断できなければならない。

人のためではなく、人のせいにするのもアウト。すべて「自分が自分に納得できるか」だ。


この先も、看護師になろうという意欲をもって来たはずの人たちには、一人の人間として見て、是は是、否は否として向き合っていく。

それが、将来がかかっている学生たちへの、最大限の礼儀だと思っている。


坊さんの喝は(寺の修行とはそういうものだが)、逃げられない厳しさがある。

「汝、わかるか?」(あなたは理解できる人ですか?)

ということを突きつける(問う)ことだから。


わかってもらえればよし(その時は感謝と尊敬を)。

わからねば、わかるまで伝える努力をする。

わかろうという意欲がないとわかったときは、静かに身を引く(関わりを終える)。

人間関係とはシンプルなものだ。


2年後にどう変わっているか。楽しみに待つことも、毎年の恒例だ。


人々の苦しみを癒せる看護師として、この先の世界を支えてほしい。

そんな夢を見ながら、全力で向き合おうと思っている。




2024年7月19日
・・・・・・・・・・・・・・

医療倫理としてのブディズム


7月17日から3日連続で看護専門学校で講義。大阪のとある学校。

初日は、1年生向けの月イチ講義の最終日と3年生向けの初日。

1年生は平均年齢20歳未満という若いクラス。人は年を重ねるにつれて、年齢差・世代差が開いていく。そのことを気にする人たちもいる。

だが、伝えねばならないことに、年齢も世代も関係がない。

伝える価値があることは、①時代を越えて普遍的な内容と、②日々新しくなる知識や情報・技術をいかに見るかという「視点」である。

その部分を伝えることが、先生・講師の役割だ。その役割に、年齢は関係がない。伝えるべきものを選別する眼と、伝えようとする情熱と、どうすれば伝わるのかという工夫だ。

工夫はつねに新しくなる。その工夫を重ねることに情熱を持てるならば、先生役としては合格だ。他方、情熱が失せれば、その時点が引退すべき時だ。

前日夜は、大阪の宿に着いてレポートを採点する(またほぼ徹夜だ)。この講座の目的は、「技法に沿って目の前の患者に向き合ってもらう」こと。正しく理解し、方法を網羅し、明確な基準・根拠をもって選択してもらう。

すべてが漏れなく見えている(理解できている)ことが、看護、いやプロフェッショナルな仕事のすべてにおいて必要。

だから、技法を無視して、自分の考えだけを述べている答案は、失格とする。「私はこう思う」で終わるなら、勉強は要らないし、成長もしない。素人どまりだ。

つい「私はこう思う」で片づけがちな脳を、「技法に沿って」、つまりは、その仕事において絶対に欠かせない、「私」を超えて、「私」の前に置くべきいくつかのチェックリストに沿って考えを組み立てる。

それができて初めて「倫理的な」看護であり医療たりうるのだ。


仏教を専門とする私にこうした講義ができるのは、「技法」「倫理」「思考の道筋」は、普遍的なロジックであって、医学・看護の専門知識以前の常識であり、誰もが共有すべき知性そのものだからだ。

医師であれ、看護師であれ、患者であれ、立場の違いは関係ない。

立場を超えて共有せねばならない思考の道筋がある。それが「倫理」と呼ばれてきたものだが、その内容が過去あまりに漠然としていたため、

この講座では、徹底的にその中身を分析し、「これが倫理の本質だ」ということを言語化して伝えている。


医療倫理は、答えが出せない問いだという声もあるが、とんでもない勘違いであり、怠慢だ。目の前の人間の全人生がかかっているのに、答えを出せないなんてあってはいけない。

出せるように頭を鍛える。実際に出すための技法(論理)は、存在する。

その技法を伝えてきたのが、この講義だ。

すでに9年目か。医師、看護師、医学生など見学に来る人たちも毎年いる。ぜひ見学に来てほしい。

この講義では、徹底して「患者」の側に立って、最低限見えてほしい、考えてほしい問題点を問う。あえて突きつける。

プロとして明快に答えられないなら、そこに盲点がある。倫理の欠落だ。それが顕在化した時に、医療過誤や患者の悲しみや取り返しのつかない後悔が起きてしまうのだ。

日本の医療政策、ワクチンと言いつつ実はワクチンではない(遺伝子組み換え・改変剤)別物、その安全性と有効性、さらにはマイナス(副反応・副作用・後遺症・死に至るリスク)、一人一人において当然選択は違ってくるという医療の本質。

どれだけ事実を調べたか、データを把握しているか、現実に生じている苦しみを見て、何が原因か、防ぐためにどう理解すればいいか。

試しにいくつか問うてみるが、まともに答えられる医師や看護師は、実はほとんどいない。「そういわれているから、たぶんそうなのだろう」程度の浅い理解で簡単に選択してしまっている。

プロフェッショナルとは、素人に見えない部分まで、漏れなく見える者のことだ。

そして自分の思い込みや、思惑や、利権や打算計算や面子やプライドではなく、苦しむ人の苦しみをやわらげ、病んだ人を健康な日常へと戻し、できれば健康なまま長生きしてもらって、そのぶん、多くの幸せな体験をしてもらう。

そうした願いをもって、最も苦しみを増やさないですむ合理的な選択を促す。励ます。寄り添う。

それができる者をプロフェッショナルというのだ。


いわば当たり前の職業倫理だが、その倫理が急激に「別の何か」にすり替えられている印象も、なくはない。

プロであるべき医師や専門家たちが、合理的な選択のための思考の手順・基準を示すのではなく、

簡単に結論そのものを勝手に出してしまう。思考することなく、最初から選択肢を一つに決めつける。患者としては一番腹立たしい態度だ。

その結果、現実に苦しみが生じているのに、その苦しみを見ようとしないのだ。結論一択を押し通す。

こうした現実があるから、一般の人・犠牲になった人たちが苦しみの声を挙げているのだ。


今の時代ほど、医療への不信が高まった時はない。

その責任は、特に苦しみを背負った人たちを納得させられない者たち。いわば倫理が欠如したプロフェッショナルにある。


看護師は、医療の最前線に立つ人たちだが、看護師もまた見えていない人が多すぎる印象はある。みんな優秀で真面目。だが業務に追われて、「苦しみを増やさない選択」を導き出す時間がない。そもそも選択するための論理的な思考の手順を持っていない。

このままでは、患者の苦しみを救えない。それどころか、疲弊し辞めてしまったり、医療政策・病院・医師の側の思惑に振り回され、ときにいいように利用される「都合のいい医療従事者」になってしまう。

患者も、看護師も、もちろん医師も、現実を正しく見るための技法が必要だ。かつては「倫理」と呼ばれてきたもの。この学校では「技法」と呼んでいる。



(つづく)

2024年7月17日
 

宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
・・・・・・・・・・・・

歴史学としてのブディズム


7月15日は東京での仏教講座。今、明治から昭和初期(戦前)までの日本と仏教との関係について講義している。

日本における仏教が、いかに役に立っていなかったか、特に日本社会の凶暴化(明治維新、日清、日露、日中そして太平洋戦争)に加担までしていたことが、史実をたどると見えてくる。

言葉だけの慈悲であり、理屈でしかない「お釈迦様・ご開祖様の教え」だ。

現実を見据えて、人の苦を増やさない方法を考え抜く。その時代・社会における危うい風潮や妄想を見抜いて、新たな可能性を智慧(知力)をもって切り拓く。

本来のブディズムは、人間の心に救う迷妄(≒衝動に駆り立てられ、妄想に取り憑かれた心の状態)を突き破るもの。いわば「知」の最先端であり最強の方法だ。

だが、その方法としての真髄とは、はるかに遠い仏教の現実がある。

自分たちが世と同じレベルの欲と妄想に取り憑かれたままでは、決して妄想を越えられず、智慧を得ることはない。

「過ちを二度と繰り返しません」とか、「世界に平和を」と言ったところで、永久にかなわない。それどころか、世のため、人のためと言いつつ、平然と人に苦しみを強いることを犯してしまう。

戦争が終わるまでの日本仏教はまさにそうだったし、実は今も続いている。

そうした理解を得るために、文献を漁って教材にまとめる作業をひと月ほどやってきたが、最後にまとめるにも時間がかかって、結局徹夜になってしまった。


歴史から何を学ぶか。歴史は繰り返すというが、これも厳密にいえば少し浅い理解だ。

歴史を作るのは、人間の営みであり、社会を動かすいくつかの因子だが(因子の一つが、権力者の選択であり、メディアが醸成する社会の風潮であり、人間一人一人の選択であり、その他さまざまあるのだが)、

その因子は「変数」であって「定数」ではない。どんどん変わってゆくものだ。

変わりうる因子のことを計算に入れずに、「過去こんなことがあったから、未来にはこんなことが起こります」と予測することはできない。

表面的に「歴史は繰り返す」ように見えるとしても、それは繰り返しているように「見たいから見えている」のであって、「そのように見ようと思えば見える」レベルの繰り返しを見ているだけである可能性が高い。

変わりうる因子は、どんどん新しくなっているし、その量も増えているのかもしれない。

だから未来は基本的に予測不能。

ただし、因子を作るのは、人間の心であり、心の動きは、実は有史以来それほど変わっていない。

その心の動きにまで深く掘り下げて、「なぜこうなったか?」を歴史上の事実を通じて振り返れば、どのような歴史上の惨禍にも「確かな理由があった」ことが見えてくる。

その本当の理由を掘り下げるには、「人間の心そのものを見る(歴史上の表面的な事実だけではなく)」という視点が欠かせない。


そうした視点に沿って、日本仏教の歴史を講義してきた。そろそろ終着地点に近づいてきた。

人間というもの、人間が作る社会、そしてその軌跡としての歴史は、決して美しいものではない。

価値あるものも無数に紡ぎ出されてきたが、やはり人間は人間だ。取り返しのつかない(未来が決定的に変わってしまう)過ちも多数犯してきている。

悲劇的なのは、その過ちの原因となった「心」そのものを、人間がまだ理解できていないことだ。

心を理解できれば、なぜ歴史上の過ちが起きたのか、今後、どのようなことが起こりうるのかという可能性が見えてくる。

ブディズムを活かして、歴史を理解し、未来を予測することも少しは可能になる。

ちなみに予測しうる未来というのは、いくつかの変数の組み合わせによるから、必然的に「複数」出てくる。

その複数ありうる未来のどれを選ぶか。最も望ましい(苦しみを増やさない)選択をするには、自分自身が、個人としてどのように理解して、どんな選択をするか、

自分自身のあり方を明瞭にすることに、最後は帰結する。


生き方として学ぶ日本仏教(この場所での講座)は、ごくわずかな人たちに向けての、限りなく自制された内容だ。広く知ってもらおうとは思わない。

ほぼ確実に、日本、いや世界でココだけ。本に著した内容もオリジナルだが、この場所で伝える仏教及び歴史も、さらに輪をかけてオリジナル。

偏った内容ではなく、「史実をいかに見るか」という点では、歴史学の定説・主流以上に「深く、鋭い」内容になっている。

この複雑な世界を正しく理解するための、仏教はその技法たりうる。歴史学としてのブディズムだ。



2024年7月15日
 

一人じゃないよ


中日新聞の連載記事を見て、名古屋まで足を運んでくださる人が増えました。

本の前書き(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)で伝えたとおり、
 


ほんとうに、よくここまで生きてきたね


という言葉をそのままお伝えしたくなるような日常を生きている方々がたくさんおられます。



そうした人たちとの出会いを、今回の連載はあらためて授けてくれることになりました。

いつも感じることは、この場所・この命にできることは、あまりに限られていて、無力・非力を痛感せざるをえない(痛感することくらいしかできない)こと。

一人一人は、自分の人生を生きるしかなくて、

その事実は、これからもずっと変わらないのだけれど、

それでも、だからこそ、そうした現実の中に、わずかでも新しい希望というか、可能性というか、

少なくとも なにか方法があるかもしれない

という予感だけはあるほうがよくて、また実際に予感して会いに来てくださる人たちが、こうして新しく出てきたことは、

あまりに無力な現実を思い知って、つつしむことくらいしかできないのですが、

それでも、よき変化であり兆候だと思えてきます。


この命は、できることはあまりに限られているけれども、

少なくとも気持ちにおいては、誰も置き去りにはしないように、そう願い続けています。

だから調子に乗ることもないし、欲を張ることもありません。


この命は、自分だけのものではないぞ


というのは、出家した時に約束したことでもあるから。


ちゃんと声を届けていきます。



この世に生きる多くの人たちのことを想いながら、

この命の使い方についても慎重に考えていきたいと思っています。



これまでも。
これからも。





2024年6月


出家の日々(記録)

6月17日(月) 
『怒る技法』オーディオブック収録完了。

朗読の時は、ポッドキャスト(おしゃべり)のほうが簡単だと思い、ポッドキャストの時は、朗読のほうがやりやすいと感じる。

結局は何をやっても、難しいということか。だが難しいと思えるくらいのほうが、頭も使うし、努力もするし、めざすべきレベルが上にあるということだから、創造にとっては好ましいということなのだろう。

自分にとっては、達成感や満足が毎回残らないので、苦行としての色合いは消えないのだが。これが自分の業というものか。

お経も収録したいと申し出たが、あっさり却下されてしまった(^△^;)。


6月18日(火)
月に一度、名古屋へ。新しくオープンしたビルは、ホテル並みに豪勢で、お客さんも一杯。だが講師控室(コーヒーを飲めたし着替えもできた)がなくなってしまった。

こんなに立派な施設の大教室(上限80名)を使って、一人3000円弱の講座を開くのだから、スクールも経営が大変だ。なんとか貢献し続けねばと思う。

中日新聞の連載を読んで受講したという人たちも。自分で文章も絵も手がけることができるというのは、奇跡みたいなものだ。かつて中日新聞論説委員の人が書き下ろした『無 本当の強さとは何か』という本に蒙を啓かれたことがあったが、その中日新聞にささやかながら恩返しさせていただいている気分にもなる。


6月19日(水)
看護学校の講義。4月から始めて3か月目。医療倫理の事例にグループで取り組んでもらう。今回は腰痛、アデノイド肥大、気管挿管事例。かなり専門的な内容だが、人間としてどう向き合うかを、まだ知識がない一年生の段階で考えてもらう。たぶん日本でここだけのオリジナル。

グループの結論が出たら手が挙がるので見に行く。このスタイルは、頭を使うこと、互いの距離が近くなるだろうこと、講師と学生たちの距離を縮めることができる点で利点が多い。

1年生(平均20歳未満)は愛おしいが、一人一人を知る前に講義が終わってしまう。そこが毎年残念なところ。


6月21日(金)
1日空いたので、入江泰吉写真美術館へ。かつて父だった人が、奈良の古い景色を写した写真集を集めていた記憶がある。昭和初期のセピアの写真。奈良の街並みと人々の姿を覚えている。自分にとっても原風景みたいなものになっている。

景色も人もうつろいゆく。未来になれば世界の色がいっそうあざやかになるとは限らない。古色をそのまま残したほうが幸せを減らさずにすむ部分がある。奈良はまだたくさんの古色を残している土地だ。その古色の中に生きて、古色の中の鮮やかな色をよみがえらせて後世に遺す。

そうした営みをした先人たち――写真家、画家、作家たちのことを、ひとまず勉強しようと思う。そのうえで自分なりの古色の遺し方を探りたい。

この美術館には、古今東西にわたる膨大な写真集がある。どの本も圧倒的だ。圧倒的な写実と、圧倒的な量の時間が詰まっている。

写真とは本当に不思議なもので、動かない平面でしかないのだが、いろんな色や表情や動きや時間が閉じ込められている。見つめて、ほんの少し想像力を働かせると、表情が動き出し、乗り物が走り出し、世界が色づいて、たちまち三次元が立ち現れる。

実際にかつては、本当に動き、色づいていた世界がある。その世界に写真を通してどこまで入り込めるか、いわば時空を超えて旅できるかは、見る者の想像力や感性にかかっている。

臨時展示場で写真家のNさんと立ち話。今はレタッチで色を出せるとか。たしかにそうだろう。しかも合成すれば、どんな景色も作り出せる。写真を決定づけるものは何か。ひとつは素材。そして構図。色は、効果を持つ限りで意味を持つ。精緻もアバウトも、伝わるかどうかという一点においては、どちらが正解とは言いきれない。

結局は、何を伝えたいかという写す側の感性で決まる気はする。うまいか下手かではなく、何を伝えたいか、どのように伝えるか。結局は伝わるか。絵も文も同じだ。最後に決めるのは、創る者がその心に見ているもの。心そのものだ。


6月22日(土)
大阪で保健師さん向けの講演会。みんな看護師資格も持っておられるという。前半は業の話。後半は反応しない練習。動じないためには「足の裏が大事」(笑)。

業(ごう)は、今後必ず注目されるであろう最前線のテーマ。みなさん熱心に聞いてくださった印象。

話は難しくしても、あまり意味はない。むしろ応援の思いを最大限伝えることをめざしたほうがいい。今回言いそびれたが、保健師さんたちは、コロナ騒動中相当な負担を強いられたはずなのだ。だが、人を救いたくて日々奔走されている。相手は子供から高齢者まで。社会派のお坊さんに近いといっても遠くはあるまい。


100分はあっという間で、参加者の皆さんも同じ感想だったようだが、今後あらためて再会できればと伝える。「以上、足の裏とともにお届けいたしました!」(笑)。

どの場所においても同じだが、とにかく最後は明るくエールを送って締めようと思う。今回もそれができたので、自分としては満足・納得。また会えたらと願う。


新しくなった名古屋・栄中日文化センター

来年は夜間にお勤め帰りの人向けの生き方講座を開こうと計画中

 

 

 




『怒る技法』オーディオブック始動

東京は快晴。今年の夏も暑くなりそうです。


今、『怒る技法』(マガジンハウス2023)のオーディオブックの収録中です。

今回も著者本人が朗読しています。

声優さんの朗読と違う点は、伝え方の強弱や工夫をつけられるところでしょうか。声優さんは、他人(著者)の文章だから正確に読み上げることしかできないのだけれど、著者本人が読む場合は、内容がわかっているから、内容に即した朗読の仕方を選べます。

テンポよく進めるところもあれば、じっくり真面目に語るところもあり。文中のセリフは感情をこめて朗読することができます。

ディレクターさんいわく、他のオーディオブックとは違う新しいジャンル。

著者が直接読み上げる作品は、かなりレアものだとか。


著者朗読版は、『反応しない練習』の最初のオーディオブック作成時に、特典として著者メッセージを収録したことがきっかけ。それまで前例がなく、関係スタッフも配信元も慎重だったのだけど、やってみると、意外といいかも?という話になって、『反応しない練習』の著者朗読版が実現。

その後『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』と進み、

ポッドキャストも第3弾まで実現することができました(いずれもAmazonオーディブル)。

奇跡みたいなもの。本当にありがたく感じています。




朗読は、やってみると、すごく奥が深い世界です。


文章の区切りとつなぎ、抑揚、強弱、間の取り方・・。音(声)の出し方も、文章を書くのと同じように、さまざまなバリエーションがあります。末尾の「た」「す」をどう発音するか・・「うまく声を出せた」と思うところもあり、「ちょっと弱かったか」と思うところもあり(そういうときはリテイク)。

聴く人はおそらくまったく気づかないかもしれないレベルでの音(声)選びが続きます。全神経を使うので、かなり疲れます。

今回は、競馬中継や、文末に小声で「シャキーン!」と語っていたりと、まだ本を読んでいない人にとっては、なんのことやらまるでわからない部分も入っているのですが、このあたりも何度かリテイクして確定。


読み返して感じるのは、この作品は、今の時代に必要な本だということ。今の世の中を生き抜くうえで必要な技術が詰まっています。一年ぶりに読み返して、一層そう感じます。

『反応しない練習』は、自分の内側を変えるもの。でも、外の現実は、つねに他者との関わりだから、「関わる技」が絶対に必要になります。その部分を掘り起こしたのが、『怒る技法』。

怒ってはいけないなんて、とんでもない。ときには怒って見せなければ、本気で怒らなければいけないこともあります。

ただそれは、感情だけで怒るのではなく、技を使って怒るということ。正しく怒ってみせることが大事。

この技を知っているかどうか、使えるか使えないかで、人生はまったく変わってきます。正しい怒り方を知らないと、怒りの出し方に失敗し、ストレスを溜め込み、疲弊して動けなくなってしまいかねません。

他方、正しい怒り方を知る人は、現実に直面した時に、どう動けばいいかをすぐ言語化できるし、その方針に沿って動けるので、ストレスが増えません。

それでも生じるストレスは、『反応しない練習』でリセットできます。結果的に快適な自分を維持できる。

怒る技法で現実に立ち向かい、反応しない練習でストレスを即解消--まさに最強の心が手に入ります。

著者の脱線トークつき。公開までもうしばらくお待ちください。






ある土地の話


不思議といえば不思議と言えなくもないご縁によって、

ある土地にたたずむ小さな家にたどり着くことになりました。

家というのは、持ち主のものであるように見えて、それだけではないところも実はあって、

持ち主(家主)はせいぜい数十年しか生きられないけれども、家はその後もその土地にあり続ける。家のほうが家主よりも長生きする。

とすれば、土地にとっては、家の持ち主よりは、家のほうが大事ということになります。

家主はあくまで一時的な預かり人であって、間借りさせてもらう程度の存在でしかなくて、

家主はその家を通して、その土地に貢献するというか、未来に遺しうるものを捧げる役回りを担うというのが、

家主の短い人生を越えて、もっと長い時間、長い土地の歴史を思えば、それが真実であることが見えてきます。


だからその土地に住まう人間とすれば、

その土地が迎え入れてくれるような調和と風合いがある家を、

家主がこの世界からいなくなっても、その土地の風光明媚に小さな貢献ができる外観を、

整えていくことが務めのようなものであり、

土地の風景がひとつのパズル絵のようなものだとすれば、その絵の美しさ・彩(いろどり)に小さく貢献するパズルの一片が、一軒の家ということになります。

だから家の持ち主の期待とは関係なく、むしろそれを越えて、その土地に喜んでもらえる、未来にその土地に生きる人たちにとっても親しみを感じられる、

そうした姿を造っていくことに、家主はつつしんで貢献するという心構えのほうが本来のあり方だろうと感じます。


その土地は、自分が幼い頃に訪れた美しい場所であり、十代の頃にもひとり自転車で尋ねたところです。

その土地には、1500年以上にわたり田畑を耕し、野山をいたわり、美しい風景を維持してきた先代の人たちと、

今も誠実に暮らしている人たちがいます。

そうした人たちが、これからも美しい風景の中で暮らし続けていけるように、未来を見すえて、小さなご縁をさずかった身の上として、できるかぎりのことをしてゆきたいと思っています。


この命なりに、その土地を愛すること。人を慈しむこと。

一人の人生は短く、儚い。

だけれど家は、土地は、一人の人生が土に還っても、続いていく。

やがてすべては消えゆく定めにあるのだとしても、

せめてその土地の未来を想いながら、その土地に住む人たちの幸せを願いながら生きていく。

そんな自分でありたいと思っています。


縁(めぐりあわせ)とは不思議なもので、ふさわしくない縁は自ずと潰え、ふさわしい縁だけがつながって、未来へとつながってゆく。

これもその土地が、土地にたたずむ家が、人を選んでいるのかもしれないとさえ感じることがあります。不思議なものです。
 
 
土地の皆さんには、ご迷惑をおかけしています。
もう少しだけ時間をください。
 
次のステージまで、あと少し――。