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経営者の鉄則(仏教的な)

仏教の視点からお伝えできること:

 

経営というのは、性善説に立つと、たいてい、いやほぼ間違いないく失敗します。

性善説とは、人は信頼できる・時間を経ても変わらないという個人的印象のことです。

ですが、哀しいことに、人間の心には欲も慢もあります。

たとえば、その企業や社長、周りを批判的に見がちな性格の人が入ってくると、

その性格をもって周囲を批判し始めて、そのとき募ってきた不満を周りに愚痴や非難として垂れ流し、

それに触発されて、同調する人間が出始めたところで、組織の中に負の感情が肥大し始めます。

慢を持った人間が次にやることは、上を引きずり降ろそうという画策です。同調者を集め、上の立場の人のどこが問題かを言い募り始めます。

その理由というのは、ときに言いがかり・難癖に近いものもあります。


個人的な慢と、上の人を引きずり降ろすこと、あわよくば組織を乗っ取ってやれという個人的な強欲が、複数人の支持を得ると、

小さな組織は危機的状況に陥ります。

社長さんがお人よしで、役割に見合った内容以上の話を聞いてしまうとか、聞く姿勢を見せてしまうとか、そうしたスキ・甘さを見せると、その動きはさらに増大します。


「その人の仕事をはるかに超えてしまっている」ということに気づけるかどうか。


結局は「摘まみだす」(やめてもらう)ことが正解になります。というのも、そうした人が残っても、またその人に同調して作られた雰囲気というのは、必ずその場所を腐らせていくからです。「聞き入れる」ことに、あまり意味はありません。

こうした問題が生じた時は、いつ頃から始まったことか、誰が入った頃から始まったのか、時系列をよく見てください。

その人と話をしても、正直それほど効果は見込めません。その人物は性格で動いているのであって、話して解決できるものではないからです。


どのような組織も、必ずこうした内部の不穏な動きや声に、一度や二度は、やられます。性善説ではなく、文字通りの組織を、システムを、築いていかねばならないのです。

組織内の物事の是非というのは、立場を超えた意見交換や過剰な交流からではなく、立場・権限の上下で決めるべきことです。

それぞれに役割があり、その役割を果たすことが基本です。


本当に雰囲気のいい企業というのは、それぞれの立場・役割がはっきりしているものです。みんな、わきまえている。

だからこそ、それ以外の話も有意義なものになるし、多少の愚痴もガス抜きにはなるのです(もっともそうした愚痴めいた言葉もまた、結局、組織の生産性や円滑な運営に役に立つかどうかという目で吟味せねばなりませんが)。

役割を越えて愚痴や批判を語る人間は、その場所にとってはマイナスしかありません。早めに辞めてもらうことです。


極端な話をいえば、組織というのは、担っている人間が決めてよいのです。その組織のあり方が良いか悪いかは、上の立場、特に経営者が決めればいいのです。

もちろん企業というのは、営利・発展・維持という大前提があるので、最終的にその判断が正しかったかは、経営上の成果が決めることになりますが。


上の人(経営者)というのは、人間が時に弱く、悪にもなりうるということを前提としたうえで、それぞれが心地よく「役割を果たす」仕組みを作って行かねばなりません。

それがまさに経営というものでは?


最終的な判断は、自分で下さねばならないのです。なんでも聞くいい人ではいられないし、人に頼ることもできません。人の悪に触れることも、ときにあります。

経営者は孤独なものです。


小さな会社の社長さんは、こういう階梯をみんな進んでいくものです。

強くあらねばなりません。とはいえ、人間とは、組織とは、そういうものだと受け入れてしまえば、それが当たり前になるのですが。

強いというより、それが地(日常)になるということです。

 

 

*7月18日に大人のための学習会 自己ベストの生き方&働き方を考える を東京で開催します。課題を抱えている人は足を運んでみてください。

 

 

 2025年6月末日

 

 

 

揉めごとが生じた時は

(最近届いたおたより:学校での事故にちなんで)

 

人間関係や仕事で揉めた時は、どう動けばいいか。

最初の整理の仕方としては、その揉めた原因となった事実は、自分の側で作り出したものか、相手側が作ってしまったものかを考えることになる(『怒る技法』)。

事実を引き起こしたのは、どちらなのか。

こちら側も、その事実は誰が起こしたものかを理解しようと努めることになる。

と同時に、事実を相手側に理解してもらう


事実認定は慎重に。冷静に。過剰に反応せず、妄想をふくらませず。

事実そのものは、自分の輪郭外だ。いっそ他人事だと思えるくらいに客観的に、冷静になれるほうがいい。

できるかぎりの記録を確保して、事実を保全する。それが第一歩。


揉める(こじれる)可能性があるのは、事実を引き起こした側がどちらなのか、判定が難しい場合。一方当事者が「事実を否認」した場合も含まれる。

こうした場合に役立つのは、本来あるべきだった事実(事故やミスがなく進むこと)は、誰が担うべきだったか、役割として、仕事として――という視点。

もし現場に直接関わる側(教師や監督など)がいるなら、その現場で起きた事実については、その人たちが(現場に直接関わっていた人・監理監督すべき人)が、責任を負うことになる。


だから、揉めることなく事態が落ち着く(解決できる)のは、

事実について責任を負うべき側が、その部分についての責任をいさぎよく認める時だ。

もし自分がきちんと本来の仕事・役割を果たしていたら、その事実は発生しなかっただろうといえる場合は、その事実については責任を負う。

それで一件落着する。


難しくなるのは、事実にもとづく本来の責任さえ負おうとしない場合。

一般的に、事故・過誤・ミスが大事(おおごと)になっていくのは、この場合だ。

この局面に至ると、人間性というものが出てくる。

本当の役割・責任を担う人というのは、自分に都合が悪くても、「たしかにその通り、その部分については責任を負います」といさぎよく言える。誠意を示せる。

だが、人によっては、責任を負うことを拒んでしまう。事実を否認するか、自分には責任がなかったと言いたいがために、別の口実を見つけてきてしまう。

場合によっては、まったく関係のないことまで持ち出して、責任を負わないという選択を正当化しようとすることもある。


こうして段階を追って見ていくと、揉め事がなぜ生じてしまうかの本当の理由が見えてくる。

揉め事というのは、事実について、自分が担うべき役割・責任を負わない人間が出てくる場合なのだ。

単なる弱さか、ずるさか、幼さか、悪意があったかは、人による。揉め事が生じるまでは、すこぶる善良な、問題のない人も多い。

だが、いざ揉め事が生じた時に、地の部分が見えてしまう。人間性が「試される」ということだ。


試された時に誠意を示せれば、そんなにこじれることはない。

被害をこうむった側(その事故・ミス・欠落によって不利益を受けた側)が求めるのは、事実を認めて相応の責任を負ってくれることだけだから。

結局は、誠意を見せてほしいという一心に尽きることが多い。


小さな揉め事はあらゆる場面で起きている。こうした揉め事がいつまでも落ち着かないのは、

生じた事実について、役割・責任を負いきれない人がいる時だ。


もし事実に基づく責任を負わない事態が続くなら、その時は、第三者に理解を求めるという方向に切り替えることになる。

「それはあなたの側の責任ですよ」ということを、第三者に認定してもらうことになる。

手間・時間はかかるだろうが、その道筋に間違いはない。



この国の文化かもしれないけれど(平たくいえば、日本人というものはという類型的な言い方になってしまうのだけれど)、

いざという時に、事実にもとづいて責任を負うということが、きわめて弱い印象がある。

やはり雰囲気やノリで進めることに慣れているからか。「なんとなくそれでやってきた」という程度のあやふやな関係性を生きてきた。そういう仕事をしてきた。

だからいざ事実が起きた時に、いさぎよく責任を負うという選択ができない。うろたえたり、責任転嫁したり、へそを曲げたりというアタフタになってしまう。

自分が、自分の役割を果たすこと、

その役割の範囲内で起きた事実については責任を負うこと。

すべて、自分の物事であり、自分の仕事であり、自分の人生である――

という軸が定まっていれば、それほど困難もなくできることではある。


こうした軸が定まっていない人が、現実の社会には多い。日本という場当たり的な、人を見て立ち位置を替えるという ”間人” 文化に多い印象もなくはない。


もう一度あらためて言おう。事実にもとづく責任を負うことは、難しいことではない。

被害を被った側は、事実に基づいて責任を負うことを、相手に堂々と求めればいい。事実と責任について「理解を求める」ということ。「わかってほしい」と伝えていくだけでいい。

被害を与えた側は、自分が作りだした事実については(だけは)、いさぎよく責任を負えばいい。

伝えるべきだし、負うべきである。だが「べき」になってしまうのは、責任を担う側に、無責任あるいは甲斐性のなさが見えた時だ。本来は「伝えればいいし、負うだけでいい」という実に簡単な話。


最終的には、第三者が、社会が、判定を下すことになるが、そこまでいかなくても、

「これは自分の領域(仕事・物事)だ、だから自分が責任を負います」という軸さえ崩さなければ、問題がこじれることはあまりない。


最終的には、人間が問われる。自分はどういう人間か。

事実と責任を受け入れられる人は、誠意ある人間として堂々と生きていける。

そういう人間の一人であろうと思うし、あってほしいと思います。


2025年6月

 

 

 

いつまでも負けてはいられないだろう?

 

瞑想(自己理解)が進むとは、こうした矛盾(というか、思いと思いの連鎖)に自分で気づいて、切って分けることができるようになることです(だから”智慧”にも近くなってくる)。

執着タラタラ、というか執着を前提にして物事を考えてしまう。考え方も関わり方も、すべての足元に執着がある。努力さえも、執着をかなえるため。

だからこそ、自分の範囲でできる努力をはるかに超えてくる他者の言動に動揺して、不安や悲しさに呑まれてしまうのです。

すさまじく強い執着です。だからこそ弱い。


足元にある執着にまだ心の自由を奪われているから、簡単に足元をすくわれる。

執着する人というのは、相手からすると、凄まじく弱っちいのです。簡単に転がせてしまえる(笑)。転がされてしまう。身に覚えのある人は多いはず。


座談会の後半は、相手に執着を向け続けているからこそ、動揺するし、疎外されるがゆえに自信が持てない人の声を取り上げました。いわば負け続けてきた人たちの声です(←否定的な意味ではなくて、事実としてそうなっていたという意味です^^)。


大人になれ。

強くなれ。

そろそろ勝たないと。勝て。いつまでも負けてはいられないだろう?


そうお伝えしたのです。

 

2025・5・5某所にて 

仕事は誰のためにするものか


仕事は、相手のためにするものです。

仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。

だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。

投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。

ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。

趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。

これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。



だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。

自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。

自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。

こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。

この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。

これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?



解決策はシンプルです。

「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。

自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。

まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。

その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。

「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。

そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。

そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。



仕事で空けた穴を埋めることができるか。

仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。

できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。

穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。

「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。

穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、

穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、

「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。

そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。

成長し続けることが可能になるのです。



穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。

穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。


大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。

増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。

「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」

と客観的に自覚できるかどうか。


一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。

これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、

穴が空いている、空きつつあることに気づかない、

それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。

それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。



老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。

やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。

そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。

そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。

空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。

穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。


老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。

年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、

「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。

それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。




仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。

自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。

自分の側の仕事については、満点を出せること。

仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。

穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。

動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。

その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。

そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。



仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。


これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。

この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。


すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。



自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。

これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。

穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、

その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。

この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、

自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。


まずは自分自身と闘わねばなりません。





2025年5月3日
・・・・・・・・・・・・・・


人と人は理解し合えるものか


最近寄せられたおたよりにちなんで、人と人は理解し合えるものか?という問いについて考えてみましょう。

もともと理解というのは、人の心(厳密にいえば脳)の中で「わかった」と思えること。

それは、自分の中での認識(そういうものだと認知する)であり、実感(感情をともなう認識)といえるかもしれません。


自分が「わかった」と思える、思った。


でもそれは、相手の思いとは違うかもしれません。相手の心(脳の中)を確認して、すべての思いと自分の思いが一致しているかを確認することは、物理的に不可能だから。

もしそんなことが可能になったとしても、すべての思いが一致している確率なんて、宇宙の中で自分とまったく同じ心と体を持った生き物を発見する確率と同じくらい低いかもしれない・・それくらいのことかもしれません。


理解する・わかるというのは、あくまで自分が理解できた・わかったと思える範囲でのことなのだろうと思います。

その時点での、自分にとっての理解。でも、相手の思いや理解とは違うもの。

その意味では、分かり合うということは、ないのかもしれない――。


「あなたの気持ちはよくわかるよ」という言葉があるけれども、正確には「わかる気がするよ(すべてを正確にわかっているとは言えないけれど、わかる気がするような気がする・・今の自分にわかる範囲では」

と表現するほうがいいのかもしれません。




では、わかり合えるといえる場面や関係性は、どういう時に成り立つのか? 厳密にはわかり合っていないとしても、それでも話が通じる、わかってもらえた、そうだよねと納得できた、共感できたと感じられるのは?

それは、二つの思いが、ある程度共通していることが互いにわかるとき。

同じものを見て、互いに何かを感じたり考えたりして、

その思いや感情が似ているなと思えたり、伝わってきたり、言葉で「そうだよね」と確認しあえるときなのかなと思えてきます。

「話が合う」「この人ならわかってくれる」と感じられる

そこまでいかなくても、「この人はわたしのことを(この人なりに)想ってくれている」と感じられる。

たとえば、仲のいい友だち同士とは、話を聞いてくれる、伝わっている、こちらもよく聞いて、理解できる気がすると感じ合える関係です。

そういう関係なら、厳密にはいろいろとズレていたり、勘違いがあったりしても、わかり合える関係でいられるような気がします。

わかり合うというのは、アバウトなものなのです。だいたい、おおざっぱ、大まかに見れば・・同じものを見ている、感性や嗜好や価値観が近い、おおよそのところで話が合うと思える。

それが、わかり合える(理解し合える)ということなのかもしれません。



このアバウトなわかり合う関係というのは、そのままアバウトにわかり合ったまま続くこともあるし、わかり合えていなかったことが発覚することもあります。友情、恋愛、夫婦、親子・・あらゆる場面で起こります(そもそも完全な理解の一致はありえないからこそ)。

そのときは、「相手をわかっているはず」という思いは、ただの勘違いだったと気づくことになります。

「相手にわかってもらえている」という思いも、勘違いだったとわかることになります。

そのときに何を感じるかです。


もともと厳密な意味でわかり合うことは不可能。人は、他人の心(脳)をのぞけない。合わせることなんてできないし、合わせてもらうことも不可能。

だから、「ああ、勘違いだったんだな」と理解すること。相手は自分と違っていた、完全に他人(別の生き物)だったという事実を知るということです。


完全に他人だったという事実を、そのまま受け入れるなら、「そうなんだ、そうだったんだ、でも考えてみたら、当たり前か」という思いになるかと思います。

他方、もしそのときにショックや落胆を感じたとしたら、それは、わかっている、わかってくれているという”妄想”が作り出す反応です。

もし怒りを感じたとしたら、それだけ自分はわかっている、相手にわかってもらえていると思い込んでいたということ。実は違っていた現実に、妄想で反応して、怒っているということになります。


これらは、そのときだけの反応です。その反応がずっと続くとすれば、”執着”しているということになります。

執着は、相手への期待、要求、願望を止められないからこそ生まれる心の状態。

広い意味でいえば、承認欲から来る思いです。なぜ承認欲が長引くかと言えば、妄想ゆえということになります。

わかってほしい、わかってくれるはず、という相手に向けている自分の側の妄想。

わかりたい、努力すれば相手のことをわかるはず、という、これもまた自分の側の妄想。


この妄想は、間違っているわけではありません。こういう妄想があるから、人は人を好きになるし、信頼するし、わかろう、わかってもらおうと努力するのです。ほどほどの妄想は、人と人とをつなぐ、大切な接着剤(という言い方が無粋なら”きずな”のようなもの)です。

ただ、その一方で、この妄想が、わかり合えないどころか、苦しみをもたらしてしまうことも起こります。これは妄想過多の状態。求めすぎている、相手に夢を見てしまっているということかもしれません。

おそらく最も自然な関わり方とは、多少の妄想を、相手への好意や愛情や信頼の証だとして保ち続けて、それをエネルギーとして関わって、そのことで自分だけでは作り出せないさまざまなことを、人との関わりの中で体験することです。

この点においては、やはりほどほどの妄想も、人とのつながりも、大事なものなのです。



でも、その妄想が、落胆、怒り、悲しみといった自分を苦しめる感情をもたらすのなら、そしてその状態が長く続いているのなら、

その妄想は正しいものではないのです。過剰、あるいは勘違い、かもしれない。


とはいえ、ならば自分が妄想をすべて捨てて、執着を断ち切って、それでもその相手と関わり続けるのか?といえば、それは正解とはいいきれません。

その妄想(人への思い)は、自分の生き方や性格につながっているかもしれない。

その妄想はそのままでも、他の人には通用する、生きる、「わかり合える」と思えるかもしれない。

そのときは、その妄想は正しいものになります。価値がある。それは、人との関わり次第で変わるのです。相性次第ということでもあります。


もし自分の側の妄想や執着も、自分にとっては悪くないもの、それなりに価値があると思えるならば、

そのときは、そういう自分(妄想込み・執着込みの自分)を選ぶ。そのうえで「合わない相手」をどうするのか、関わり続けるのかを考えることになります。


この見極めは、けっこう難しいものです。

ほんの少し自分が妥協すれば(妄想を減らせば)、わかり合える関係になれるかもしれない。

でも、相手はまったく別の生き物で、こちらの思いを理解しようとも思わない人間で、

そんな相手に自分が歩み寄れば寄るほど、自分を見失って、犠牲になって、自分が何をしているのか、なんのために生きているのかわからないという状態になってしまうこともあります。


ではどうすればいいの?と思いますよね(笑)。

やはり「今の自分を大事にする」ということだろうと思います。

自分は、今の自分を生きることが基本。生まれてきて、ここまで生きてきて、自分に体験できる範囲でいろんな感情や考えた方を育ててきたはず。

そうやって育ててきた自分を前提にして、軸にして、そんな自分と話が合う、わかり合えると思える相手を大事にするほうがいい。

どんなに頑張っても、自分は他人にはなれないからです。


わかり合えると思える相手の数は、かなり限られてきます。気の合う友だち、異性、家族、仕事仲間・・たまにいるかもしれない。いないかもしれない。

ほとんどの人たちは、ほどほどにわかり合える関係でいられる人です。「完全にわかり合える」ではなく。

それでも寂しくない、苦痛にならないのは、相手に過剰な期待や願いを持たないから。「ほどほどでいられれば、それでいい」と思えるからでは?と思います。


「ほどほどにわかり合える、でも自分は自分のままで生きていく」

そんな自分にたどり着くために、人は学びながら、互いにほどほどに生きられる自分と相手を探して、生きていくのだろうと思います。



まとめると、

人はわかり合えないもの。それはごく自然なこと。

「ほどほど」の関わりの中で、自分も相手も心地よくいられる関係をめざす。

そうした関係は、

過剰な妄想、長引く執着を自覚して、その都度リセットして、卒業して、

人に求めすぎず、それでも怒りや落胆を感じたときは、自分の側の妄想に気づいて「ほどほど」に帰る――。

そういう繰り返し、積み重ねで、育っていくような気がします。


草薙龍瞬『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書 から





2025年5月2日

新しい職場・新しい仕事2


春の到来にちなんで、働き方編2をお届けします:

仕事とは面白いもので、その中身も評価も、自分では決められません。あくまで自分の働きが役に立っているか、評価されるかは、周りの人、その仕事を受ける人が決めるものです。

これは「ままならないストレス」かというと、そうでもなくて、「自分で決める必要はなくて、お任せでいい」と気楽に受け止めることも可能です。

たとえば、体を使う仕事で、足が不自由で走ったり、重たいものを持ったりすることができなくなってきた・・という場合。

そうした自分をヨシとするかは、本人の仕事観にもよるので、「本人がそんな自分に納得いかない」と思うなら、仕事を変える(辞退する・転職する)ことも、正解たりえます。正解かどうかは、その後の展開次第(自分の頑張り次第・周囲の受け止め方次第・相性次第・・)によるので。

でもその一方で、自分で答えを出す必要もなくて、「こんな状態ですが、仕事として成り立つでしょうか?」というのは、周囲の人に聞いてみてもよいのです。多くの仕事はチームでやるものだから。

ある作業が、自分の健康状態が原因で十分できない・・その状態を見てもらって、他の人がカバーしてくれて、他の人もそれでもいいと思ってくれるなら、

今の自分ができることは、なお仕事として十分に通用します。

周りのサポートを受ける分、別のことで貢献しようと考えることも可能です。

「迷惑をかけるから申しわけない」と思う。でも「辞めたくない」とも思う。そういう時は、そうした思いを丸ごとその職場・チームに伝えてみればよいのです。


一番つらくなるのは、自分一人で抱え込んで、自分一人で答えを出そうとしてしまうことです。こうなると、「辞めたくない」は自分のエゴで、「きっと務まらない」という思いが勝っていきます。

特に、自分一人で答えを出すこと、一人で抱え込むことに慣れてきた人(いわば業ということになりますが)は、そうした状況に陥りがちです。

別の角度で見てみれば、仕事というのはある程度は利己的でも良くて、やりたいと思うなら、辞めろと言われるまではやり続けることが正解だったりします。

(特に障害を抱えながら働いている人には、これはけっこう大事なポイントになります。生きる権利、働く権利を通すということ。社会は大きな布団みたいなところもあって、自分一人分載っても、大丈夫なくらいに大きな場所でもあります)。




もうひとつ、新しい仕事に向かう心構えは、「とにかく今できる、役に立てることを引き受ける」ことです。

たとえば、すぐに始められる仕事・職場があるけれど、別の仕事が本当は第一希望で、でもその仕事には現時点で空きがない・・という場合。

この場合、空きが出るまで待つことは(状況にもよるでしょうが)正しい選択ではないような気がします。

というのも、求められていて、できるかもしれないなら、それを引き受けて体験してみて、学びつつ、できる範囲を広げて、できるレベルを上げていくというのが、

自分にとっても、その職場・仕事にとっても、確実なプラスだからです。

そしてそういう自分を作って(準備して)おけば、そのうち、もっとやりたい・向いている職場・仕事からお声がかかるかもしれなくて、その時に新しい仕事を選ぶなら、元いた場所からは惜しまれつつ(あるいは感謝されつつ)離れて、自分がやりたかった仕事に就くことも可能になります。

「自分にはできないかも」「難易度が高いかも」というのは、妄想であることが多くて、「やっていた・やっている人もいるんだから、わたしにもできるかもしれない」と思うほうが正しかったりします。

「できるかも」から入って、やってみて、体験を通じてやり方を学んで、実際にできるレベルに持っていく――というのが、誰もが踏んでいるステップです。

最初からできる人なんていなくて、単に「できるかも」という入り口に立って、その後のステップを進んでいったから、結果的にできているのです。



新しい仕事の入り口としては、「やってみたい」「できるかも」というポジティブな入り方と、「やりたくない」「きっとできない」というネガティブな入り方とがありますが、

「やりたくない」は仕方ない(それが本人の気持ちなら終わるしかない)としても、

「きっとできない」というのは、やってもいないうちに判断できるはずもなく、確実に妄想ということになります。

「きっとできない」と「できるかも」は、両方、体験する前の妄想でしかなくて、客観的な状況としては、実は同じです。

なぜ前者に心の針が振れる人と、後者に傾く人がいるのかといえば、やはり過去や業(性格)だったりします。



理想は、やっていないことは、とりあえず「できるかも」という箱に入れてしまうことです。

お声がかかっているなら、断らないことです。仕事は、関わり次第、相手次第であって、自分一人では決められない。自分で全部答えを出すという発想で出した答えが、正しかった確率は、実は自分が思うほど高くなかったりします。

「お声をかけていただいてありがとうございます。私に務まるかどうかわかりませんが、しっかり頑張ります」でよいのです。

頑張るというのは、「体験することを頑張る」という意味です。これは自分の中で補っておけばよく、相手に伝える必要はありません。

体験して、できることを増やして、結果的に貢献できる自分になる、というステップさえ見えていればいいのです。

とりわけ、仕事は人間関係(理解ある人が周りにいるかどうか)で大きく左右されるので、自分のことを買ってくれている、わかってくれている人がその場所にいるなら、条件はそろっています。

「やりたい職場には空きがない」なら、なおさらです。客観的に「できるかも(でも実際はこれから)」という状況は、やりたくても今はできない職場も、今まさに求められている職場も変わらない。

ならば、求められている職場に応えて働きを果たす、ことしか答えはないのでは?

ひょいひょいと乗ってみればよいのです(難しいかもしれませんが)。

できるかな、やってみようか、やってみます!でよかったりするのです。


未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月

 

 

「許せない」を卒業するには?

※講座内の質問に答えて(一部抜粋):

 

 大人になるというのは、

①今の自分ならなんとかできる、

②理解してくれる大人は他にもいる(無理解な他者だけじゃない)

ということがわかること。

そこまで視野が広がって初めて、自分の怒りや「許せない」を相対化できるようになります。大人というのは、そういうことができるようになった状態です。


ただ、この人(質問者)の場合は、まだ心が子供のまま。なんとかできると思える状態にまで進んでいないし、理解してくれる大人というのは、実は世の中にたくさんいることを、実感レベルで理解できていないのだろうと思います。

それはなぜか?というと、ご自身の言葉の中に答えがあります。そう、父親があまりに大きく見えているから。ずっと父親のほうを見続けてきたからです。

この人は、父親にすさまじく執着していて、だからこそ怒りも「許せない」も、子供の頃とまったく同じレベルで燃やしているのです。

老いた親の姿を見て泣けてきたというのは、今の姿への同情(共感)もありうるけれども、心はたしかに往生際の悪いところがあって、

「今なら私の積年の願いがかなうのではないか」(つまりは良き父と子という関係を持てるのではないか)という方向に動いた可能性はあります。

その願いがかなう可能性があるなら、最後の親孝行をしてもよいとは思います。親の態度が変われば、「許せる」ようにもなるかもしれないし。その可能性はなくはありません。

他方、父親の地の部分が変わっていなくて、やっぱり怒りがぶり返す・・という事態もあり得ます。

この先の親との関わりは、「今の親の人間性」次第です。老いて素直になった、性格が変わった、呆けてしまった・・・いろんな理由はあり得ますが、

昔の親ではなくなった(少なくとも過去と同じ反応をしないですむようになった)なら、「新しい人」として向き合うことは可能です。新たな関わり方を選べばいいのです。

親との関わりは、①今の親のあり方(親というより一人の人間としてのあり方)と、②大人になった自分のあり方、の2つの組み合わせによって成り立ちます。

①も大事ですが、②も大事です。自分が大人になったといえるのか。過去の怒りや「許せない」を手放せたか。なぜ手放せないのか。

手放していないとしたら、自分の側の執着ゆえです。それは自分の側の選択であり、自分の問題。

遠い過去のことを、今なお怒り続けて、許せないと思い続けている。つまりは時間が止まったまま。子供のまま。執着の中に留まったままなのです。


過去はすでに終わっているのですよ。

だから過去と同じ感情を今に持ち込む必要は、本当はないのです。


過去は上書き&塗り替えることが可能です。


「大人になっていいのでは?」ということです。


2025年1月




「感謝」より大切なこと


感謝を語る人は大勢います。でも、感謝よりも大事なことがあります。

 

現実を正しく理解することです。


苦しみがあるなら、その原因をつきとめて、原因を取り除かねばならない。

過去に原因があるなら、過去を卒業せねばならない(※次の号で掘り下げます)。

相手との関わりに原因があるなら、関わりを清算せねばならない。

自分の業が原因であるなら、時間をかけて、自分の業を客観視して、反応のクセを書き換えていかねばならない。


そうした地道な、でも確実な道のりと、「感謝」というのは、まったく異質(無関係)なのです。


感謝というのは、即効性がありそうな気がする。だけれど根治療法には決してならない。

正しい理解 は時間はかかるし。簡単ではないのだけれど、

仮に同じ歳月をかけるとして、結果的にどちらが解決に近づくかといえば、

感謝ではなく、正しい理解だということです。


※なお、正しく理解して、問題を解決したうえで、それでも残った価値あるものに「感謝する」というのは、アリです。つまりは順序が違うのです。



2025年1月



真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



「人のせい」にする人間と遭遇した時は

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

ある人への返信から抜粋:

すぐ人のせい――相手が悪い、自分は悪くない――にする人間と遭遇した時の心がまえ:

人のせいにする人間は、 自分をかばって相手を責めようと考える。最初の動機。

それは幼く「終わっている」レベルだが、本人は「人のせい」で目一杯。

こうした人間は、相手を悪くいい、嘘をつき、都合がいいことを言い募って、都合が悪いことはなかったと言い張る、すぐに逃げ出す。


正攻法は、そんな相手に理解を求めることだが、

人のせいにする人間は、自分をかばって、相手を理解しようとしない。自分のあり方を見つめようという成熟を持たない。

そうした相手に対しては、法的措置に訴えることになる。つまりは、理解を求める相手を、「第三者」に切り替える。離婚訴訟も、建築紛争も、刑事告訴も、原理は同じ。


第三者に伝えるときの心がまえは、

「私にとって」という線引きを明確にして、自分にとっての事実と思いを素直に言葉にすること。自分を崩さないこと。

他責する人間に「自分にとって」という分別はない。すべて相手のせい。

そのような人間の本性は、語るに落ちるというか、言い分や態度を見れば、第三者には伝わるもの。馬脚は第三者がいる場所で露わになる。


もっとも、第三者に伝わるかどうかは、未知の要素がある。他人や世間が思うことが真実も限らない。

だからどんな結末になろうとも、「事実」を崩さないこと。

ひとえに「自分にとってはこうでした」ということを、堂々と伝えて、人さまの理解を求めるという方針で進むのみかと思います。

2024年7月

 









相談したいという人たちへ


この場所を見つけて、相談したいと連絡をくださる方々へ


この場所は、開かれた心と慈悲の思いをもって、なるべく多くの人に新しい可能性を見出してもらおうとしています。

だから、ご相談にはいつでも応じる方針でいますが、いくつか最初に、お役に立てる場合とそうでない場合とを分ける線引き(基準のようなもの)をお伝えしておくことにします:


1)求めるものは、あくまで自分自身の生き方である(でなければいけない)ということ。

本を読んで、「私の親に会ってください」とか、自分以外の誰かを変えよう(変わるように助けてほしい)」と考える人がいます。

でもこれは、見当違い。自分以外の誰かを変えることは、誰にもできません。本人が自ら見つけて、自分のあり方について直接相談してこない限り、変わる可能性はありません。

「自分以外の誰かを変えたい(変えてほしい)」と思っているということは、その誰かにまだ執着しているということ。

この場所が伝えられるのは、そうした自分自身の執着を断って、その相手から自由になる方法なのです。

この場所が伝えられるのは、人に執着して苦しんでいる自分自身を変える方法です。自分が執着している誰かを変えることではありません(その先は妄想の領域です)。


2)少しでもこだわりやプライド、譲りたくないものがある人も、時期尚早です。

わかりやすい例でいえば、「あなたのプライドが邪魔しているのですよ」と言われて、ムッとしたり、そんなことはありませんと言い返してしまうようなら、まだ自分を見つめる覚悟ができていないことになります。

それはそうです――プライドを乗り越えているなら、反応するはずもないし、プライドを越えねばならないことを自覚しているなら、「そうですよね(理解できます)」という言葉が自然に出てくるものだからです。

反応してしまうということは、まさに図星ということ・・でも図星であることを、まだ認めたくない段階だということです。ならば、時期尚早ということになります。


3)誰かをかばおうとしてしまう人も、まだ執着にとらわれています(ゆえにこれも時期尚早)。

最も多いのは、肉親の業(ごう※)を指摘されたときに、とっさに肉親をかばって弁護してしまうこと。代わりに自分が悪いのだと主張する人もいます。指摘されて腹を立てる人さえいます。
 
※ 業:ごう がわからない人は、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)をお読みください。

こうした人たちの心にも、プライドと同様に、肉親への執着が存在します。執着があるからこそこそ悪く言われたくないと思ってしまう。かばってしまう、指摘されると腹を立ててしまう。

でもそんな自分に決定的に影響を与えているのが、肉親だったりします。それが事実ならば、それはその通りですと受け入れなければ、自分への理解が進まず、結果的に前に進めなくなってしまいます。

端的にいえば、親のことを指摘されて「違う」と言いたくなるということは、自分と親との間の線が引けていない(まだ混同している)可能性が高いということです。まだ執着の只中にあるのです。
 
ちなみに、苦悩を抜ける道筋の大枠というのは、
 
①苦しみの原因を、自分か、自分以外の他者か(親も含む)に明瞭に分け、
 
②自分の中の原因を自覚して反応しなくなること、または
 
③他者を見ても、思い出しても、一切反応しなくなること

です。反応しなくなれば、苦しみは止まるので、苦悩は解消します。

ところが指摘されると反応してしまうーーなぜなら執着があるから。この段階に留まる限りは、苦悩は続きます。 


4)自分で連絡してこない人も時期尚早です。

これは技術的なことだけれど、自分で連絡せず、人を介して(利用して)くる人もいます。

これも成り立ちません。自分のことは自分でやること。自分のことは自分で語ること。

最低限の自立ができていること。それが前提です。

※他人のことなのに、線引きできずに、○○さんの相談に乗ってあげてくださいと「つないで」しまう人も、自立できていない可能性があります。というのも自立していれば、「それは自分でやらないとね」と気づけるし、言えるものだからです。

 

他にも、いくつかありますが、総じて、相談して変わりうる可能性がある人たちとは、


①事実を指摘された時に、それは事実ですと受け止められる人

自分のことであれ、誰かのことであれ、事実は事実。苦しみがある、その原因はこういう過去、こうした関係性にある・・そうした理解を、そのまま受け取れる人。

事実を指摘されて、まだ反応してしまう段階であれば、「相談→実践→変わる」のステップには入れませんよね。

その意味では。どんなに耳の痛い指摘も、冷静に、謙虚に、受け止める心の準備ができている必要があります。
 

②あくまで自分のあり方を見つめられる人

他人を語らない・論じないこと。自分以外の誰かを変えようとか、変わってほしいといった執着を、この場所に持ち込むことはできません。


③なすべきこと(実践)をやる覚悟ができている人

自分を変えるには、自分のあり方を自覚して、そうした自分を作り替えていくための実践に踏み出す必要があります。

いつまでも過去に執着したり、誰かを変えようともくろんだり、人に腹を立てたり責めたりしているのなら、本気で変わる覚悟がないということになります。

この場所は、原因をつきとめて、伝わる言葉で言語化して、この先何をしていけばいいか、具体的な実践・行動までお伝えすることを方針としています。

その行動に踏み出す覚悟や意欲があるかどうか。
 
ないということは、「変わらなくていい」ということ。となると、これもやはりお役には立てません。


他にも見るべきものを見たうえで、はたしてお役に立てる可能性があるのかを見極めています。

おそらくこの場所は、本人には想像できないくらいに、人の心の奥を見て(見えて)います。
 
利を図るという発想がないので、お役に立てる可能性があれば、どこまでも一緒にいるし、お役に立てない状況であるなら、様子を見ることになります。
 

ためらい、おそれ、プライド、自己弁護、ごまかし、美化、詭弁、正当化、誰かへの執着・・・そうしたものが少しでも残っていたら、ブッダの智慧という、ほぼ万能して、でもかなり鋭い(人によっては痛い)知力は役に立たないだろうと思います。
 
執着は、智慧よりも、強いので――こうした真実をきちんと伝えることも、この場所なりの配慮(人それぞれの人生の尊重)から来ています。 


自分の苦しみを自覚して、原因を突き止める作業を手伝ってほしいという気持ちが強くあって、何を指摘されても、そうか、それが執着にまみれた自分に見えていなかった真実だったかと思えるに至った人であれば、

お役に立てる可能性もあるかもしれません。



とはいえ、本当に苦しんできた人は、ある程度、自分のあり方について飽きている・懲りていることが多いものです。

また、誰かに苦しめられたり、傷つけられたりしてきた人は、本人が思っている(思い込んでいる)ほど悪くない(他に原因がある)ことが多いので、

そうした人たちは、この場所で、本当の原因を明快な言葉で指摘してもらって、その原因を取り除くステップを理解することで、スッキリして、希望を見出して帰ってゆくので、

この場所・ブディズムは、優しくて、元気が出る存在(味方)に映るはずです。


その一方で、捨てたくない執着の只中にある人にとっては、ここは敷居の高い、峻厳な場所に映るかもしれません。
 
優しかったり、厳しかったり・・まさにお寺であり、道場です。心によって、見えるものが変わるのです。

 
人の心は、みずからが作り出した執着の壁にぶつかっている状態だと思ってください。高くなったり、低くなったり・・・
 
壁が消える方法を(決して難しいことではありません)伝えるのが、この場所であり、ブディズムです。

苦しみも、原因も、自分の中にあります。そうした自分自身を正面から見すえる覚悟ができた時に、

ブディズムは、ほぼ万能の可能性をもって「優しい姿」で現れていたことを知るのだろうと思います。

 


人生は長いし、世界は広いので――

時間をかけて、真実(正しい理解)に近づいていけばよいのだろうと思います。


最終的に、答えが出ない人生は(答えを出さないことを本人が選ぶのではない限り)存在しないというのが、ブディズムの人生観です。

答えは出していいのです。終わりなき自問自答を生きることも価値を持つけれども、答えを出して、生きるという営みが持つ可能性の最果てまで体験することも、価値を持ちます。


答えを出さない生き方は、世の中に無数にあるから、

ひとつくらいは、答えを出しきる生き方もあるということ、その方法を示せる場所があってもよいと思います。
 

この場所は、つねに可能性を見ます。
 
人間が、十二分に生きて、心の隅々まで苦しみがない境地にたどり着く可能性を。


*相談してみたいと感じている人は、とりあえず各地の講座に足を運んでみるのが一番よいかもしれません。基本的に、この場所はオープンに、カジュアルに、フツーにやっています。



2024年7月1日


夫の立ち位置~結婚後のファースト・ルール


今回は、家庭問題のあるある(切実にしてとても多い悩み)を取り上げます。耳が痛い人もいるかもしれませんが、大事なことなので伝えることにします:


ときおり来る相談の中に、「妻が自分の母(妻にとっての義母・姑)との関係で悩んでいる、避けようとしている、そんな二人の間で板挟みになっている自分(夫であり息子)がつらい、どうしたらよいのでしょう?」という男性からの悩みがあります。

こうした場合に最も多いのが、夫であり息子にあたる自分の姿が見えていないこと。

最も多く、また罪深いケースは、自分の立場を固めていない、責任を取っていない、あくまで妻の悩みであって、妻がおかしい、自分は母(妻にとっての義母)とうまくやっている・・・と思っているらしい場合です。


こうした男性は、母親との距離が近い。近いどころか同じ敷地内・二世帯住宅に暮らしていることもある。男性自身にとっては、それが心地いい。妻にもいい顔、母にもいい顔ができる、そういう状況に潜む根の深い問題にまるで気づかない・・ということが、よくあります。


厳密にルールを決めてください。

母と息子の距離が近くてよいのは、結婚するまでです。

結婚したなら、自分と妻との関係が最重要であり、その関係だけでいったん完結していなければなりません。

自分の母親、妻にとっての義母・姑というのは、自分にとって以上に、妻にとって苦痛にならない距離に、つまりは自分たちの関係の外に置かねばなりません。

それが結婚後のファーストルールです。子供が生まれてからも同じです。


息子と母親との距離が近いと、妻には苦しみが生じやすいのです。そもそも他人だから。

仲の良い嫁・姑関係もあるけれども、そうではない関係もよくあります。

まして、同じ敷地や二世帯住居で暮らすことになれば、妻=嫁としては、常時アウェイの環境に置かれることになります。

それが、妻によっては(すべての妻にとってそうとはいえないけれども、少なくない確率でそうなりがち)苦痛の始まりになるということです。


妻と母との関係に悩む男性というのは、自分は安全地帯にいるから、こうした状況を理解できないことが多いのです。

自分は母親が与える蜜を吸ってきて、甘えることができて、結婚して、夫になった今も、なおその快適さは手放そうとしない。もしそういう選択を無自覚の内にしているとしたら、ルール違反です。

結婚したら、妻が第一。自分の母親はあくまで外様(とざま)です。それくらいの覚悟を決めないと。いつまでも母を第一に考える子供であってはいけないのです。


こうした男性は、自分で気づかないうちに、母親に優しく、妻に厳しく、上から目線になってしまっているものです。

妻が自分の母親とうまくいっていない。それが悲しい、嘆かわしい、腹立たしい、情けない・・などと語ります。

第三者から見れば、なんとも○○○します。あなたは何者?と思えるくらいに、妻に厳しく、冷たい。

「そんなつもりはありません」と、こうした状況に置かれた男性(夫であり息子)は語ります。

そのあたりが、甘ちゃんなのです。そもそもルールを犯して、妻と自分と子供たちだけで完結すべき環境に、自分の親を引き込んで(受け入れて)しまっているのだから。

こうしたルール違反を犯している時点で、そもそも間違っているのです。

たとえるなら、防犯の大事さはわかっているのに、家に鍵をかけないようなもの。たまたま盗まれない、誰も侵入しない状況が続いても、いつ入り込まれるかわからない危うさは続いている。

その危険を察知しているのは、妻かもしれないということです。

夫にあたる男性がこうした問題を自覚するかしないかは別として、危うい状況を作ってしまっていることは同じです。


母親とも妻とも仲良くやっていこう・・・なんて、虫の良すぎる言い分は控えることです。

妻が、姑が嫌いというなら、姑をかばってはいけません。妻の気持ちをそのまま受け止めること。

妻が、義母と関わりたくないというなら、関わらせてはいけません。「外様」に会いに行くのは、自分だけにしてください。

妻が、義父母との同居が嫌だというなら(もはや耐えられないとはっきり言うなら)、妻の気持ちを第一に考えて、現実に動いて見せてください。


どっちにもいい顔を見せようなどという(それも妻にとっては虫唾が走る、あるいは自分の味方でいてくれない夫への不信や嫌悪につながっていきかねません)幼い魂胆は封印することです。

結婚したら、夫は妻の味方であること。それが最初のルールです。


妻と義母、嫁と姑の間に起こる問題というのは、実は解決は簡単なものです。結婚後のルールを守るだけ。

事態をこじらせているのは、夫であり息子である自分。

妻と母の両方にいい顔をしようという立場の固まらない、ずるいといえばずるい自分のあり方が問題であることが多いのです。


立場を固めて、妻第一というファーストルールを守ること。

それが夫になった男が取るべき責任というものです。

まずはあなたが大人になってください、というべきなのかもしれません。


※上記は、あくまで一般論として。しかし妻第一というルールは絶対と思ったほうがよいです。結婚というのは、そもそもそういうもの。

他人だった相手と新たな人生を作り、親という存在を外に置くことを意味します。



2024年6月


健康な心と病みがちな心

5月のとある講座の中から:



ひねくれ者・・・でもそれが「考える」ということかもしれず。

無思考のまま、ありがたがると、この世界は大きく方向を間違えてしまう恐れがあって、実際にその恐れは顕在化している・・・

無数の無思考が積み重なって、本当の幸福や可能性というものがフタをされてしまっているーー

結果としての「世の中ってこんなもの?」「この状態で続いていくの?(続けていくつもりなの?)」と、そう疑問を覚える人たちだっているであろう、この世界の現状のような気もします。

個人的に考えたいのは、

特定の人物が驕慢にして狂慢に囚われてしまっていたことが真実であって、

その真実は姿を変えて、時代を問わず、どれほどミクロな日常の中にあっても、当然のように起こりうることであることも事実であるとして(それは前提としたうえで)、

そうした個人の傲慢がなぜ他の人にも伝播(うつ)るのか、なぜ人は容易に感化されてしまうのか、

そうした社会への影響(慢の感染拡大)を止めるには、どのような方法がありうるのか(言葉、思想、教育、制度、文化それぞれの面において)

を探究していくことです。そこを考えないと、慢の肥大化に歯止めはかからない。

もちろんブディズムの中に、その足掛かりというか、思索のための原型があることは確実ですが、しかしそれだけでは(ブッダの言葉のコピーと継承)だけでは足りないーー

今の時代に確実に影響を及ぼしうるような、別の方法を掘り起こしていく必要があるように感じています。

これは、方向性です。形にできるかどうかはわからないけれども、問題意識・目的意識として持ち続けるべきであろうと思える可能性。

慢という思いがもたらすものが、どれほどの可能性を殺すかーーもうしばらく歴史を追っていきたいと思っています(講座内で全部取り上げられるわけでもありませんが)。



日常を楽しむことができるのは、ひとつの才です。

才ある人は実は世の中にたくさんいる・・けれども、それは健康な心の状態にある人たちであって、その一方で、心の病気(慢はその一種)にかかる人たちもいるし、すぐ感染してしまう人たちもいる。

一人の人間においても、健康だったり、病気だったり、心の状態は時によって変わる。

できることなら、長く健康でいられるほうがいい。

そうした健康を保つ秘訣とはどういうものか。

まだまだ言葉にできる領域は残っています。言葉にしていきたいと思います。


追記: 思想とは、まだ言葉になっていない未知の領域を言葉にしていく知力のことです。微力ながらもそうした方向性を見すえて、世界の現実を見て考え抜く――そうした努力をこの場所は続けてゆかねばとも思っています。



2024年5月某日


歳の差は考えなくていい?


ここ一週間ほど、東京を離れていました。

4月26日(火)は、名古屋で今年最初の仏教講座。

栄中日文化センターは新しいビルに移って、お祝いの胡蝶蘭が飾ってあって、まるでホテルの新規開店みたいな雰囲気でした。

昨年来の人たちとも再会できたし、中日新聞連載中の『ブッダを探して』を読んで新規で来てくださった方々もいました。

最大80名入る大教室。カルチャーでこれだけの施設を維持運営するとなると、かなりコストがかかりそう。講師も頑張らなければと思いました^^。



17日は、大阪の某看護専門学校での1年生向けの講義。クラスの平均年齢20歳未満。

よく年代・世代の差について語られることがありますが、私の場合は、さほど歳の差を感じません(これぞ老害の第一歩?)。

心は、そもそもその時々にある思いや状態が違うので(歳の差関係なし)、人(他人)については、その時々の心を理解しようと努めるだけだし、

自分については、その時々の思いを相手に伝えようと努めるだけで、言葉が通じるなら、こちらの思いは伝えられると思うので(伝わる状況である場合)、

結局は、人を理解して、またこちらも理解してもらおうと努めるだけ・・・ということになるので、歳の差は意識しなくてもよい気がするのです。


歳の差を感じるというのは、彼我の「違い」を見ようとした時に出てくるもので。

その「違い」とは、結局は、自分の側の思いを先に置いた時に見えるものであって、

心がけるべきは、歳の差も、違いも意識しないで、

「ふーん」「へーえ」と無心に聞いて、

「自分にとってはこうなのです」ということを言葉で伝えるだけで良いのかなと思えてきます。

だから、どんなに年が離れていても、相手が幼い子供であっても、相手に合わせることは可能なのかなというつもりで関わっています。

新入社員とか新入生との新たな出会いは、こちらも楽しみではあります。

楽しみにできるうちは、伝える、教えるという役割も引き受けようと思っています。


2024年4月17日

 

 

木は木のまま生きていく(インド編)


ある日の午後、ラケシュと話をした。ラケシュは、私と出会うはるか前から、この地で活動してきて、今や知らない人はいないくらいの著名人だ。何しろJICAのデリー支局の日本人スタッフさえその噂を聞いていたくらいだ。ラケシュを慕って集まって来る人は、数えきれないほどいる。


ラケシュは誰のことも批判しない。人のために労を厭わず動くが、それ以外の時間は静かに読書して、子供たちの相手をして過ごしている。人として何ひとつ過ちを犯していない。

だが、そんなラケシュをわざわざ批判する人間たちがいるというのだ。さすがのラケシュも相当な心労を抱えることがあるらしい。そんなときは一人ビハールで瞑想するのだそうだ。

「いつかわかってくれるかもしれないね」という。

「でも変わらない人もいるよね But someone will never change」とも。


私は笑って、「どっちも、ブッダは気にしないよ。他人の姿は、自分のあり方に関係しない。 “期待” expectationがないからね」

期待という言葉にわが意を得たりという表情で、ラケシュは深くうなずいていた。仏教の話を私から聞く時、ラケシュは席を降りて床に座る。つくづく謙虚な人物だ。

「わかってほしい」「そのうち変わるかもしれない」というのは、期待。期待があるから反応してしまう。

「期待は妄想の一種だよ」と話した。


期待を切り離せば(detachすれば)、苦しみは生まれない――。
 

それは、冷たい人間になることかといえば、そうではない。純粋な慈悲であり、完全な尊重だ。どんな思いであろうと、他人が抱くことは自由。批判であれ、悪意であれ、嫉妬であれ、病的な傲慢であれ、何を思って生きるのも、人の選択だ。

その選択は尊重するしかない。

それが慈悲と正しい理解に立つ者たち、ブッダの教えに立つ者の心がまえだ。


期待を完全に切り離せば、他者の悪意によって苦しむことはなくなる。

自分は自分のまま。

ただ自分にできることをやる。価値あることをやる。

そうした自分を誰よりも理解しているから、誰にわかってもらう必要もない。一切影響を受けない。


そんなことができるのか――できる。

単純な話で、妄想を断ち切ればいい。期待という名の妄想が残っている状態が、妄想への執着。その執着を断ち切るとは、妄想を消し去ること、消し切ること。いさぎよく。

それで期待は消える。他人から影響を受けることが消える。


難しく聞こえるが、“自然”(しぜん)は、当たり前のようにやっている。たとえば、木は木である。わざわざ鳥になろうと木は思わないし、鳥にわかってほしいとか感謝されたいとも考えない。突(つつ)かれたって、木としての姿はまったく変わらない。

木は木のままでいて、満たされている。

生き物の呼吸を支え、動物たちにとっての安らぎの場になっている。


キッパリと妄想を斬るだけでいい。すると“木”になれる。
 

もうひとつ、人々の無理解(傲慢)という逆境・困難に遭遇した時こそ、「正しい自分」に帰ることだ。しかも正しさに磨きをかけること。

おのれの言葉を正し、行いを正す。

みずからの思い(仏教徒にとってはダンマ)を確かめ、純粋なつつしみに還る。


つらくなったら、期待という名の妄想を手放して、自分だけを見つめるのだ。

思いを見つめ、完全にまっさらにして renew your mind 、新しく生き直す。つねに新しく。


人々の傲慢に遭遇した時は、「この命はお役に立てない」(相手が求めていない)と知って、つつしみに帰る。つまりは消える。


人は人なのだ。人は異なる心を持つ。だから他人の悪意や傲慢を向けられることは、避けられない。だがこちらが心を使って、おのれの本然(本来の姿)を失うことは愚かなことだ。


大事なことは、人の中にあって、人に染まらず、振り回されずに、最良の自分を保つことだ。

それだけが唯一、人にできること。


生きたいように生きればいい。
僕らは僕らの道を生きていく。


そういう話をラケシュとした。単純に、これまで僕らがやってきたことを、そのまま続け、育てていくだけのこと。僕らは幸せな人生を生きている。これ以上の生き方があるだろうか。



そろそろ今回の旅も終わりに近づいてきた。
人はみな、愛おしい人たちである。


僕らは幸せな人生を生きている
これ以上は必要ないとつくづく思う


2024年2月



仏教 vs. 執着

読者の方々から質問・感想を日々お寄せいただいています。ありがとうございます。

今回紹介するのは、そうしたお声をふまえての仏教の話――原稿の一節と思ってくださって差し支えありません。

 

仏教 vs. 執着

仏教は、心に関する問題を解決するにあたっては、ほぼ万能とさえいえるほどの柔軟性と応用力を秘めています。

しかし仏教は、では完全にして誰にも使える処方箋たりうるかといえば、まったくそうではありません。むしろ仏教は非力にして無力です。

何に対して無力かと言えば、人間の”執着”です。



執着とは、広く定義すれば、「今の心の状態を変えない方向に働く心の動き」です。

たとえば、怒りが溜まっている人は、つねに怒りを抱え込んでいるばかりか、小さなこと、時に理由のないことにさえ、怒る理由を見つけ出して怒ります。

貪欲(もっと多くを求める心の動き)があると、つねに新しい何かを手にすることで問題を解決しようと考えます。

仮に「あきらめる」「反応しない」といった可能性を耳にしても、貪欲を持った心は「それでは、あきらめることになってしまう」「過去が無駄になってしまう」「そんな人生は面白くないのでは?」と失うものを見て、「やっぱり現状維持」を選ぼうとします。

妄想については、心はそもそも妄想まみれ。ほぼ常時、妄想維持モードのまま回り続けています。心のスキマ(何もしない時間)があると、瞬時に妄想で埋めようとします。

その結果、スマホ、SNS、ネット、ゲームといった手軽な妄想維持装置に手が伸びます。いったん手が伸びると、心は完全執着モードと化すので、外からの働きかけがない限り、止められなくなります。

何もしていなくても、心は妄想できるエサ・ネタを探して、あれこれと検索します。過去のこと、人のこと、将来のこと、「こんな自分なんて」という自己否定など。

そのほとんどは、ネガティブです。というのも、妄想に次いで手っ取り早いのは「怒る」ことだからです。すでに溜まっている怒りをもって何かを攻撃しようとする。「過去のせい」「あの人のせい」「世の中のこんなことが気に入らない」と、次々に怒るための燃料を探す(妄想する)のです。


 

さらに、慢もあります。著作(『反応しない練習』ほか)で触れているとおり、慢は、承認欲(認められたい・認めさせたい欲求)と、それを満たせるような妄想との混合物です。

自分を認めてもらうための妄想だから、どこまでも自分に有利な、都合のいい、自分が正しいと思える妄想を繰り広げます。そのうえに「執着」という心の動きが加わるので、「この妄想は正しい」「絶対に(どう考えても)正しい」と思うようになります。絶対、自分、正しい――の繰り返し。

「つねに自分が考える(妄想する)ことは正しい」というのは、心が思いつくすべてに当てはまります。

自分の見解が正しい。自分の怒りは正しい。自分の過去は正しい。自分の言葉は正しい。間違っているのは、相手だ、他人だ、世の中だ――。

承認欲と妄想はセットなので、自分のほうが優れている。優れているとも考えます。そうした思いに執着するからからこそ、他人を批判する、非難する、ケチをつける、悪口を言う自分が出てきます。

さらに、「正しい自分」が通らない現実や他者については、「正しい自分を否定するもの」としてとらえます。激昂したり、敵とみなして攻撃し始めたり。自分の期待や要求が通らないと烈しく怒って非難します。自分の要求を押し通すまで、あらゆる理屈を繰り出して、批判したり手なづけようとしたりします(モラハラはその典型)。

「こんな目に遭わされた、ひどい、自分は被害者だ」と思い込むこともあります(いわゆるクレーマー)。

「自分は正しい」という前提、つまり慢に立ってしまうと、実は自分が相手を苦しめているのに、自分こそが「苦しめられている、ひどい」(悪いのは相手だ)という言い分・発想になってしまうのです。

世の中にあるパワハラ、セクハラ、モラハラといった「思いの一方的な押しつけ」は、押しつけるための手段・理屈は違うものの、「自分は正しい」という前提は共通しています。



こうした数々の執着は、心につねに湧き上がります。執着こそが自分自身、いや人生そのものと喩えても間違いないくらいに、心を占領していきます。

長く生きれば生きるほど、執着が増え、強化されていきます。執着前提でモノを見るので、人の声や別の可能性は、聞こえません。

たとえば貪欲に駆られた心に、「手放して自由になる」可能性を伝えても、「そんなのはつまらない、意味がない」と感じます。

妄想に支配された心に、「それは妄想ですよ」と伝えても、「妄想じゃない、自分の考えだ、考えることの何が悪い」と訴えます。

慢に囚われた心が、「それは慢ですね」と指摘されると、「何を言うか、そういうあなたこそ慢じゃないか!」とムキになって言い返します。


執着にとらわれた心は、みずからの執着を通して外の世界を見ます。外の世界に自分の執着を見てしまうのです。いわゆる自己投影です。

たとえば怒りを隠し持っている人は、「相手が怒っている」ものと勘違いします。もっと進むと、みんな自分に怒っている、世界は敵ばかりだと思うこともあります。

疑いや不安といった妄想を持っている心は、その妄想を通して世界を見るので、「誰も信用できない」「どうせうまく行かない」といった、自分の中にある通りのものを結論として出してしまいます。

慢に囚われた心は、自分ではなく人が、相手が傲慢なのだと考えます。自分の慢(正しいという思い)を前提に、人を非難します。「あの人のここがダメだ」「あなたはこういうところがなっていない」と人の内面にまで踏み込んで攻撃し(結局、自分を見て言っているだけなのですが)、さらには「許せない」「謝罪しろ」と強要さえすることもあります。



 

真実とは皮肉なものです。人のことを「傲慢だ」と言う場合は、もしかしたら自分自身が傲慢の罠にかかっているかもしれないということです。

執着がある心は、その執着を、自分自身を、外の世界に、他人に投影します。他人を見ているつもりで、実は自分が抱え持った執着そのものを見ているのです。

だから他人について語ることは、自分自身の「開示」ということになるのです。
 

もし自分が慢ではなく、つつしみと慈悲(思いやり)に立っているなら、人さまを悪く語りません。「私にとっては、こういうことです」と自分の思いを伝え、「理解していただければ嬉しく(幸いに)思います」という言葉になります。もし理解されなければ「残念です」という控えめな言葉をもって、静かに身を引きます。

 

執着は、心の性質でもあるので、気をつけないと、誰もが囚われる可能性があります。ブッダがブッダであり続けたゆえんは、そうした心の性質(罠といってもよい)を自覚して、つねに自分の心を見張ることを一時も絶やさなかったからです。

ブッダの心には、自分の心をつねに見張り続けるサティと、つつしみ(慢や妄想を広げない)と、慈悲(幸せを願うこと・相手の悲しみ・苦しみを想うこと)があります。

 


執着を越えれば、

「心が自由になる」
「新しい可能性が開かれる」
「優しくなれる」

ことは真実です。その真実に目覚める方法(執着の手放し方)も、仏教は伝えることができます。ちゃんと実践すれば、心の性質にてらして、ほぼ百パーセント解消できます。つまり変われます。


ところが・・・執着に囚われた心は、その可能性を否定してしまうのです。

「自分は間違っていない」
「自分は自分の思うとおりに生きていく」
「自分の何がいけない?」

という思いのほうを選びます。

いけないことは何もありません。心はその人自身のもの。誰もが自分の人生を好きなように生きていい。生きることは、人それぞれの自由です。

ただし、苦しみを越えるには、自分の執着(変わりたくない・変わらない自分)を自覚して、克服していく努力をしなければいけません(これは法則みたいなもので、例外はありません)。

執着のままに生きるなら、当然ながら、心も変わらないまま続きます。

誰のせいでもありません。自分自身の選択です。


執着を選ぶ心には、仏教は何も伝えられません。無力にして非力です。

これは、2600年近く昔のインドから、現代に至るまで変わっていないのです。



執着と仏教とは、どちらが強いか。

執着です。はるかに強いのが、執着です。さながら別宇宙であるかのように、仏教は、人の心を支配する執着に手が届きません。


せめて「幸せでありますように」と願うほかないのです。



2024年2月6日


人はなぜだまされるのか


今年の仏教講座も大詰め。最近取り上げたのは、一休さん(一休宗純)の生涯。

人間は、複雑に見えて、本当はすごくわかりやすい。顔、表情、語ること、やっていることを見れば、その人の思いはわかる。

だが、自分の「わかる」が、客観的な「わかる」(真実)になっているかは、案外あやうい。意外と人は、他人の思いが見えないことが多い。



一休さんの生涯(アニメではなくリアルなほうw)は、6歳で母から引き離されて寺に入って以来始まった執着と屈折を、「オレは坊主だ、本当はエライんだ」という自意識で上塗りし続けて、迷走したまま終わった印象が残ります(一般には「風狂」と呼ばれるけれど、要はこじれた心が作り出す風変わりな言動のこと)。

自意識をこじらせて、いつも不機嫌で、人にやたらとケンカを売って、バ〇ヤロー、コ〇ヤローと悪態ついて、周りから見れば面倒臭い人になってしまった大人は、現代にもいなくはないのかもしれません。



人間としてまともに生きるのに、それほど修行は要りません。

市井の人であっても、立派に善良に生きている人は、たくさんいますよね。

むしろ形だけの寺、修行、仏教、坊主然とした姿に色(脚色)がつけばつくほど、空疎に、また醜悪になっていくのかもしれません。

一休さんはその真実がわかっていました。だからこそ嫌っていました。

嫌いはしたけれど、嫌うのはまだ執着しているからであって、最後は執着を手放さなければいけないのに、執着を手放せなかった。結果としてのこんがらがった人生です。

大なり小なり、人は執着ゆえの矛盾・葛藤を抱えるもの。

「どの執着を手放せばいいんだ?」とみずからに問うて、突きとめて、「手放す時期」を自分で決めること。最後はエイヤと手放す。

手放した人が、自由になった人です。



講座でもうひとつ取り上げたのは、禅の世界で有名な<南泉斬猫>の答え合わせ。

つねに本質に立って生きているなら、答えを出すことは難しくありません。

でも人間は、その場の雰囲気に呑まれたり、相手の見せかけ(肩書・権威・自己都合の強弁)に惑わされて、本質を見失ってしまう。

自分の頭で考えればすぐわかること、見抜けることが、見えなくなる。

結果的にすぐだまされるし、振り回される。自分が信じたことさえ、勘違いであることはよくあります。

だが哀しいことに、本人にはそれが見えません。

虚仮おどしに弱いのは、人間そのものが虚仮(妄想)に囚われているから――。


講座終了後、猫のサラに <南泉斬猫>のエピソードを聞かせて、「汝、どう答える?」と訊いたら、ほんとに にゃあ と答えました!

すごい。わかっている(笑)。
 

(※講座受けてない人にはなんのことかわからないと思います。すみません)




2023年12月3日





「裏切られた」という人へ

手ひどく「裏切られた」思うことは、ありますよね。

考えれば考えるほど、くやしいもの。


裏切られたと感じた時に、次に出てくる問いは、はて、この思いをどう解消するか。

解消しないと、自分が苦しむから――自分が怒りに焼かれて、その怒りが周囲に伝わって、結局は自分が独りになってしまうから。

裏切られた時はつらいし、自分にとっては、それが百パーセントの真実・・・かもしれない。


ただ、自分にとって真実だからこそ、その真実から「次の一歩」をどこに向かって踏み出すかが、一番大事な問いになるのでは・・・と思います。


仏教を活かすなら、「裏切られた」という思いを作っている、さらなる思いの数々を整理していくことになります。

相手への期待があった。その期待がかなわなかった。

期待がかなわない理由があったのです。その理由は、本当にさまざま。

ほんの少しのすれ違いだったこともあるし、相手の考え方、価値観、方向性が違っていた可能性もあります。

受け容れたくないかもしれないけれど、自分の側にも見えていない部分も、あったかもしれません。

こちら側に見えていない部分というのは、他の人や世の中そのものには見えるものだったりします――みな思いは違うし、見えるものも違う。

 

違うことは、当たり前であり、「お互いさま」なのです。

人の心も、世の中のありようも、こちらが期待する通りにはならないもの。

自分と、人の心、この世界というのは、まったく違うものだから。


もともと交わっていないのです。まったく接点のない別宇宙みたいなもので。

ときに交わっていたような、通じ合っていたかのような、期待や夢が通じるような相手であり、社会であり、そういう状況だと思うこともあったかもしれないし、これからもあるだろうし、本当にそうである可能性もなくはないけれど、

それもまた、自分と相手と、この世界と、一人一人には見えないし、手が届かないさまざまな事情や原因があって、一時的に成り立っているものなのだろう、と仏教では理解します。


かろうじて、信頼が成り立つこともあるかもしれないし、期待が届く可能性もあるかもしれない。でもそれも、一時的なものなのです。決して続かないもの。

なぜなら、自分の思いや自分に見えているものは、自分の中にしか存在しないから。

そもそも、自分以外のすべての人は、他人なのですよ。自分ではない。

自分の心とも体とも違う。心に見るものも、過去も、この先転がる方向性も違う。

まったく違うのです。それが真実。

 

だから「裏切られた」というのは、本当は当たり前だったりします。そのこと自体が問題ではないということ。

裏切られたというより、相手が裏切ったというより――「期待が通じない」状況に変わっただけ。

「そうか、たまたま関わることができていたというだけで、状況は変わったんだな」ということ。

あるいは、自分が思い描いていた展開が、まるごと一方的な期待、つまりは妄想であって、そのことが今になって見えてきたということ。


状況が変わったか、相手が変わったか、最初から自分の妄想だったのか。


いずれもありえます。いずれでもよいのです。現実は、いくつもの要素の関わり合いによって成り立つものでしかないから。

状況が変わることは、避けられません。世界は、自分の外にあるものだから、当然に変わります。

変わることに罪はありません。

相手が変わった・・・としても責めることはできません。その人は、こちら側のために生きているわけではないのだから。

自分の側から見れば、裏切った、変わったように見えるかもしれないけれども、それは相手の選択。

人には選択の自由がある。人は自分の人生を生きる自由がある。

その人の選択を止めることは、他人にはできない。自分にはできません。何もできないのです。


唯一、できるかもしれないことは、自分の思いを伝えること――理解を求めることです。

ただ、理解が届くかどうかも、これは相手次第です。


もし相手に届かないことがわかったら?――それが、最終的な理解(答え)ということになります。

相手に理解を求めたが、伝わらない。

その時に最終的に見えるのは、その相手は自分とは違う存在なのだということ。

違う存在だとわかった――その時点で、答えは出ます。「そうだったんだな」ということ。

わかったら、それで落着です。「そうだったか」で終わりです。



あとは、自分の命の使い方だけが残ります。

「裏切られた」と思ったかもしれないけれど、本当のところ何を失ったのかは、冷静に考えてもいいかもしれません。

期待をかけて、期待した時間が続いたということは、その間は、期待できたということ。

その間は自分なりに得るものがあった可能性が高いのです。

なぜ関わったか、なぜ期待できたのか。「自分のため」になると考えていたから。それが自立した大人の受け止め方です。


自分のために、相手と関わって、自分のために、時間を過ごした。

その期間は、自分のために、自分が納得したからそうしていた。

だとしたら、何も失ったことにはなりません。「自分のため」だと納得していたから、時間、労力、思い、言葉、おカネ、その他のものを捧げた・提供したというだけです。

自分にとって価値あることを、相手のためにもなると思ってやった。

その時点では、相手のためでもあるけれど、自分のためでもあった。自分も価値を得ていた。


互いに得ていたのだから、本当は、何も失っていないのです。


だとしたら、いいんじゃないのかな。状況が変わったとしても。また自分一人で生きることになっても。

人は人(その人)のために生きている。

自分は自分のために生きている。

自分が誰か(他人)のために何かをしたのは、自分が選んだから。

 

自分のために、自分が納得したからそうしたんだ――というのが、基本です。


だから、「裏切られた」という言葉は、正しくありません。


関わったのは自分の選択であり、関われなくなった、関わりたくなくなった、関わる目的を失ったという事実が生まれた。ならば、自分はどうするか? 新たに進んでいくのみです。


自分がいかに生きるか、だけが問い。

相手は関係ないのです。


「裏切られた」と感じた後に、気をつけるべきこと:

➀「理解を求める」は善し。ただし、当事者である相手に向けてのみ。必要のない人を巻き込まない。
 

②「理解を求める」とは、自分にとっての事実。気持ち(感情)。相手への希望。それだけ。
 

③それを越える悪口や人格批判はしない。

人には、みな心があるから・・・誰も傷つけられたくはない。罵られたり、蔑まれたりされたくない。

人を一方的に傷つける言葉を言い放つことは、もはや一方的な虐め・辱め・公開リンチと同じ。その時点で自分が「悪人」ということになる。


④人がどんな人間かを決めるのは、行動である。

実際に何をしているか。何に時間を使っているか。価値あることに時間を使っているなら、その人は価値ある人になる。

 

裏切られたと言い募る言葉も含めて、他人への悪口は、世の中の悪意を単純に増やす。

その点で価値がない。自分が価値のない人間になる。

関わらない人のことは、放っておけばいい。自分の人生を生きればいい。

 

それで、みんなが価値ある人間になれる


あらためて・・・人それぞれの思い・生き方を尊重すること。

それが社会の中で生きる人のルール。

そのルールを破れば、社会を壊すことにみずから加担することになる。

 

傷つく人が増える一方の世界は、何ももたらさない。まさに分断と破壊と、、、絶望に至る。

 

人はだれしも、いいところを持っている。もし自分の良心を、体験を、知識を、時間を、もう一度自分のため、人のため、社会のために、プラスの価値を生み出すために使うなら、まだまだできることはある。


あなたは、何も失っていないよ。


苦悩している人に向けて


2023・11・27


いじめを受けている人へ

※最近あった胸の痛む出来事に触れて:

 

いじめを受けることは、とてもつらい。

おおげさではなく、人生の危機だ。今のままでは自分が滅ぼされていく。


いじめの構図には、共通項がある。

最初は、いじめる人間個人の悪意。

次に周囲の無視。なぜなら悪意を言動に移せるのは、立場が強い人(上司・先輩・先生etc.)だから。周囲も見ないふりをする。

さらに、上の人の保身ーーいじめを訴えた人が直面する異質の原理。


いじめを受ける人は孤立無援だ。その場所に愛着があるほど、絶望は深くなる。

憧れをもって入った場所なら、その場所にい続けたいと思うのは、当然だ。自分が努力すれば、きっと進級できる、夢がかなうと思う。そういう場所だと聞いていたから、そう信じるのは当然の話。「まともな場所」なら、本人の意欲と努力が正しく評価される環境になっているものだ。

だが、現実には、「悪意」と「保身」がその場所の原理であり、伝統、文化、校風だったりする。

もともと悪意を向けても許されてしまうような、上下の構造や力関係があった。

あるいは、「上の人間」の保身が通るくらいの惰性が続いていた。伝統、歴史、閉塞性。


陰湿ないじめがときおり発覚するが、共通するのは、こうした条件がそろっている場所だ。



いじめを抜け出すために、確実に正しい道筋というものがある。

一つ、小さな悪意を容認しないこと。

悪意は悪意だ。加害者が先輩だからとか、上司、先生、校長、社長だからといった理屈は通らない。相手の悪意を察知した時点で、「やめてもらえますか」と伝えること。

いつ伝えるかは考えてよいことだ。でも受け容れることは正しくない。悪意は続くものだから。

穏便に伝えても、悪意は止まらないかもしれない。ならば真顔で伝えることを選ぶ。怒ってもいい。泣いてしまってもいい。

「やめてもらえますか(わかりますか?)」と伝えること。それが正しい選択。


二つ、他の人を探すこと。

伝えても伝わらないことが、現実には起こりうる。何しろ悪意は続く。相手は悪意を通せるくらいに「強い」人間だ。無視される。笑われて終わり。あるいはいっそういじめが悪化したり、報復されたりという事態も起こりうる。

その時は、ちゃんと記録を取ること。そして、この事態を誰に伝えるか、わかってもらえる人はいるかを、その場をよく見渡して考える。

「まともな場所」なら、言えば伝わる。あっさりと。「事実」ほど強いものはない。事実を確認する。こちらの思いも受け止めてもらう。

事実は、人によって違うこともあるから、簡単にはわかってもらえない事態も起こりうる。だが、だからこそ「記録」がモノを言う。

事実と感情ーーこの二つは、受け止めることが基本だ。「まともな場所」なら、感情は受け止めてもらえるもの。そして事実ならば、再発防止の策を直ちに取る。「まとも」とはそういうものだ。

だから、いじめというのは「まともな場所」なら、続かない。

「まともな場所かどうか」ーーこれも、よく周りを観察して、考えてみてほしい。結局は、伝わるかどうか。


三つ、外の人を探すこと。

「どうやらまともな場所じゃない」ということが見えてくることもある。

個人の悪意が通ってしまう。事態を訴えても、無視される、はぐらかされる、隠蔽される、いっそう追い詰められる。

そういう場所は、「悪意」と「保身」がまかり通っている場所だ。では、そこからどうするか?

もし自分の怒りが強いなら、「外の人」に伝えていくことも、選択肢になりうる。行政、弁護士、NPO、さらにはメディアやSNS――なるべく平穏無事に解決したいものだが、そのままでは解決しないとなれば、「外の人」に理解を求めていくほかない。


四つ、こちらから捨てること。

伝えても、理解されるかどうかは、わからない。
その場所に、いられなくなるかもしれない。

だが、悪意を受け続けるくらいなら、その場所は、どんなに愛着があったとしても、やはり留まる価値のない場所なのだろうと思う。

その場所から離れるのは、くやしいし、みじめだし、寂しいし、本当につらいものだけれど、自分が「伝える」という一本の筋を最後まで通して、「伝わらない」ことがわかったならば、もはやしようがないのかもしれない。

その先は、その場所の異常さとは無縁の「まともな世界」を探して、その中でまともに生きていく。

新しい人生を生きる。

それが最後のゴールということになる。

 


今いじめを受けている人には、「外」の誰かを見つけてほしいと思う。

君が死ぬ必要なんて、ない。

外の世界でだれか一人と出会えたら、生きていける。

 

生きてほしい。君は決して一人じゃない。