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中学受験をする親と子のみなさんへ


なんだか中学受験が、日本の冬の風物詩っぽくなってきた感があります(けっしてプラスの価値があるとは思っていませんが)。

中学受験に向かう小学生というのは、まだ脳と心の発育段階においては、「思考」未満の「感覚、感情、そして反射神経レベルの段階」だと理解してください。

「思考」レベルの勉強・受験というのは、出題傾向や出題者の意図(問題の傾向や解法のコツ)まで見抜いて、手順を言語化できて、「これだけのことをやれば、これくらいの点数は取れる」という結果まで、ある程度計算できるレベルのことです。

難しいことに聞こえるかもしれませんが、大学を受験するくらいの年齢になれば、こうした思考レベルの勉強(いわゆる対策)はできるようになります(やろうと思うか、場当たり的な受験で終わらせるかは、本人次第ということになりますが)。

でも、小学生は、そこまで進んでいません。そうしたレベルにまで進ませていいかといえば、そうでもありません。

脳と体には、発達のためのプロセスがあるのです。まずは健康を保って、適度に運動して、適度に五官をつかって感覚を刺激して、喜怒哀楽の感情を味わって・・という。心の成長には、このひとつひとつの体験が欠かせないのです。

中学受験に飛びついてしまうと、このプロセスが阻害される可能性が出てきます。すると、中学以降に成長が止まります。あるいは反射神経の延長として勉強し続けて、伸び悩むか、感情が育たず喜びのない(たまにサイコパス的な)大人になる可能性もなくはありません。

そうした状態でも大学受験程度のことなら(←それほどレベルは高くないという意味を含んでいます)、できてしまえる人もいます。狭い日本社会なら、いい大学に入った優等生と思ってもらえるかもしれません。

ただ、それは知的能力をフルに伸ばした成果とはいえないものがあります。


要するに、お伝えしたいことは、中学受験というものを過大視しないこと、入れ込みすぎないほうがいいですよ、ということです。

ほとんどの小学生にとって、中学受験というのは、やりたいことの範疇に入ってきません。いつのまにか放り込まれていた程度のものではないでしょうか(大人が、社会が、そういう制度を押しつけてきたから、なんとなく引き受けた程度のもの)。

そこでやる勉強は、まだ言語能力・思考力が育ちきっていない状態でさせられるものなので、本当はよくわかっていないのです。それでもできちゃえる(できるように見える)子はいるので、中学受験そして進学指導というのが成り立ってしまうわけなのですが。

わかっていないうちに巻き込まれて、みんなが受験、受験と言い始めて、塾の先生も親もなぜかそれしかないというような熱病モードに入ってしまっている。もちろん子供には、他に居場所なんてないから、その場所に留まろうとするし、受験もするかもしれませんが、

多くの子にとって、中学受験は、よくわからないままやってきて、わからないままに終わる(でも合格・不合格の結果は当然出てくる)。そういうものではないでしょうか。


よくわからないものに過剰な価値を見出すのは、明らかに間違いです。大人(親や塾の先生)は、こういう無神経なことを平気でやってしまいます。

よくわからないけれど、合格できなかった――その事実は子の心を傷つけます。「あんなに頑張ってくれたお母さん、お父さんに申しわけない」という後ろめたさも残ります。親ががっかりする姿(なんて身勝手な姿かと思いますが)を見て、子供はいっそう傷つきます。


中学受験のための勉強で身に着く程度の学力なら、正直、その後の六年間をちゃんと生かせば、十分身に着くものです。

一番大事なことは、脳と体の成長を阻害しないこと――きちんと段階を経て育てていくことです。

多少の知識や技能や、思考力の基礎的なものは、教え方が上手であれば、中学受験でも身に着けることは可能です。「その限りでは」意味を持ちますが、

わかっておいてほしいのは、親や先生たち(煩悩にまみれた)大人が思うような「勉強」は、まだ小学生の子供には無理(器としての脳に入らない)ということです。

大人が考えている「勉強」と、小学生の子供に見えるものは、違うということ。塾の授業も教材もです。

大人がやってしまう間違いは、子供の心に入るもの、必要なものをすっかり忘れて(というか自分自身も身につかないまま終わってしまって)、

大人になった自分がかき集めてきた、あるいは外からどんどん放り込まれてくる、受験とは、勉強とは、成績とは、お友達のあの子は何点、塾からこんな連絡が来た、受かったら見栄を張れる、落ちたら恥ずかしい、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら・・・というゴミのような妄想に支配されて、

親である自分がアップアップというか、舞い上がったり落ちこんだりと、自分の物事以上に中学受験を巨大視してしまって、結果的に子供に自分の体重分のプレッシャーを上乗せしてしまっているという状態です。

自分だってわかっていないことを、自分だってしなかったことを、自分だって今になってもできないかもしれないことを、

子供が何も言わない、まだ素直に言うことを聞くことを利用して、つけこんで、やらせようとしていませんか?

子供のことより、まずは自分がどれだけ妄想でヒートアップしてしまっているかに気づいてください。頭を冷やすこと。


まだ思考力が発達途上の子にとっては、中学受験は「おみくじ」に近いと思っておくほうがよいと思います。

受かればラッキーだけど、そうでなくても大したことはない。未来なんて、体験してみないとわからない。今、親である人が思っているような妄想(期待や予想)とは違う未来が待っている。その未来は、中学受験に受かっても受からなくても来る。いい未来にすることも可能なのです。


中学受験をする子は、ここからの時間をどんな方針で過ごすかだけ、言葉にしておいてください。

「先につながる勉強」を今のうちにやっておく――それが基本です。

読み方・書き方・解き方を増やすという方針なら、受験勉強も無駄にはならないかと思います。

新しい言葉や知識を覚えることも、意味を持ちます。ただし「試験に出るかも」とか「落ちられない」といった切羽詰まった思いで覚え込むのではなく、

「大人になっても使えるように(誰かに話せる・モノの見方として役に立つ)」くらいの気持ちで落ち着いて、知って、覚えて、という時間を過ごすほうがよいかと思います。

「反射神経」でできてしまえる器用な子も、周りには当然います。でもそうした反射神経ぶりは、子供によって違うので、較べてもしようがないのです。

 大事なことは、自分にとってプラスが残るような体験をすること。

「プラスになるような学び方」こそが大事なのだという意識を持つことです。

親の側も、子供以上に深刻に考えないで、大人目線を崩さずに、頭の体操として問題を解いてみたり、自分も知らなかった知識を覚えたりする時間にしてしまうほうがよいように思います。

くれぐれも自分はただ心配する側(追い詰める側)に回って、勉強という孤独な時間に子供を追い詰めないことです。


中学受験程度の勉強は、あとでなんとでもなります。成長の阻害や心の傷として残らないように。

仮にうまくいかなかったとしても、そこで体験した読み方・書き方・解き方や知ったことは、後にも残る――そういう時間を過ごしてもらえたらと思います。



2024年12月中旬





親戚の子とどう向き合うか


親戚の子との向き合い方について

まずは一般論。相手を変えたい・影響を及ぼしたいと思う――

そんなとき、人は言葉か態度を使います。そうして及ぼす影響力のことを、広い意味で「権力」(パワー)と表現します。

これは物理的な暴力や、妄想の押しつけ(圧力)とは違うので、要注意。

自分の思いが届くかどうか。伝えることで、相手の考え方や振る舞いが変わるかどうか。

届く、変わるなら、権力(影響力)を持っている、と表現します。

人間関係、特に大人が子供に関わる場合は、はてどの範囲で、どの程度の権力(影響力)を、どうやって及ぼすか。及ぼしていいのか。

多くの場合、それがテーマになります(権力という表現はあまり穏やかではないけれど、社会学ではよく使われるし、思考を整理する記号としては役に立つので、今回はあえて使ってみます)。


たとえば、自分がおじさん・おばさんの場合。親戚の子供(甥・姪)が学校に行かないとか、ゲームばっかりやっているとか。

そばで見ている大人の自分としては、いいことだと思わない。本人の様子を見ても、決していい状態じゃないように思う。

でも、肝心のその子の親たちは、クセがあったり、無関心だったりと、子供たちになにもしようとしない。

なんか割り切れない、やきもきしてしまう。そんな状況にあるとしましょう。

そんなとき、心あるおじさん・おばさんとしての自分は、どうするか? 

結論からいうと、「自分に何ができるだろう?」と考えて、「使える範囲で上手に権力(持っているもの)を使う」ことになります。


子供に最も権力を持っているのは、親です。お金を出さない。真剣に叱る。あるいは、じっくり話を聞いて、考える時間を与えて、一定の時間が経った後に、何を体験したか、何を考えるか、今後どうするかを、よく聞いて、親の側の思いも伝える。

これはプラスになる権力の使い方。大事です。

親ならば、子供との距離は選べます。その選び方があまりに下手というか、考えていない親も多いことが、今の世の中の問題の一端でもあります。

他方、最も権力がないのが、公立校の先生や塾の教師かもしれません。子供への影響力が限られている。学校の先生なら業務に追われてそもそも一人一人の生徒をフォローする余裕がなかったり、制約が多すぎたりする(義務教育というイケスの中でしか動けない)。塾なら、生徒はお客さん。辞められたら困るし。生徒からの評価・評判を落とせないし。

では、親戚の子を憂うおじさん・おばさんはどうか。

子供といい関係を築けているなら、会話の中で自分の思いを伝えることも可能です。だから、まずは子供との関係作りがテーマになります。

他方、それほどの関係が育っていない場合は? その場合は、自分が権力(影響力)を持てる範囲を確認することになります。


一番わかりやすい権力の発動どころは、お年玉・お小遣いをあげるとき。その時に話をするか、交換条件としてこちらの思いを伝えるか。

もちろんそれが届くかどうかは、子供次第。「うざい」と思われて終わるかもしれない。そうした関係性においては、権力はゼロということになる。

自分の直接の子供ではない子供に、自分の思いを伝えるには、それなりの関わりが育っていること、あるいは権力を持っている必要がある。

わかりやすい例を挙げれば、

「話ができない(伝わらない)なら、与えない」

「あれを頑張ったら、これをあげる」という権力。

わかりやすい。ドライすぎて戸惑う人もいるかもしれないけれど。

もし親戚の子供がゲームばっかりやっていて、はたから見てマズイなと思ったら、本人にどう思っているのか直接聞いてみることから始めて、「〇〇ができたら(努力できるなら)、おこづかい・お年玉をあげる」という話に持って行く。

達成できなければ、自分としては何もしない。与えない。それが自分にできる最低限の権力行使ということになる。



えてして親戚の子については、おじさん・おばさんは権力ゼロのことが多い。

特に、親がその子をスポイル(ダメに)している場合。無関心、甘やかし、将来について無計画。中には、子供には自分を越えてほしくない、自分の支配下に置いておきたいという、子供の足を引っ張る毒親(蜘蛛親と呼ぶべきか)も、たまにいる。

親がこういう人だと、子供は、社会も未来も人生も何もわからない段階で、「何をやってもいい」という状況に置かれてしまう。そこにスマホ、ゲームなどがあれば、あっという間に染まってしまう。「依存」レベルに達すれば、勉強どころではなく、学校にも行けなくなり、脳が、未来が、壊れる。

こういう親子・家庭も、今はものすごく増えている。


残念ながら、こうした家については、心あるおじさん・おばさんの権力はゼロ。ほぼ何もできません。

唯一の権力である(という言葉自体があまりにしょぼくて無粋で悲しいけれど)、お金(おこづかい・お年玉)さえ、親がザルなら、子供にあげても無意味。ドブに捨てるようなもの。

そのときは、いったん権力を行使しない――つまり何も与えず、何もしないことが唯一の正解になる。「本当に今のままでいいのかい?」と、ラストチャンスで声をかけるくらいは可能かもしれないけれど。

もし誰かが、中学生くらいの甥っ子・姪っ子におこづかいやら進学祝いやらのお金をあげてしまって、それをゲーム課金に使われてしまうようなことがあったら、

それは、その人が「負けた」ことを意味します。ムダなことをしてしまった。あるいは、唯一権力を行使できる機会をうまく活かせなかった。

本来は、自分の思いをその子に伝えて、せめて交換条件を提示する。そこまでが自分にできること。

伝わらない、聞かない、交換条件を受け入れない――というなら、権力を行使しない。与えない。

自分にできるのは、そこまでです。

親であれ、先生であれ、その他の大人であれ、自分の手が届く(影響力を行使できる)範囲で、適切に権力(いい意味ですよ)を使う訓練を積むことです。

気兼ねしたり、言葉が出なかったり、相手のご機嫌をうかがったりして、権力をうまく使い損ねた時は、自分の負け。まだまだ力不足(智慧と覚悟が足りない)ということです。

子供になくて、大人にあるのは、体力だったり、言葉だったり、お金だったり、智慧だったり、体験だったりします。いろんな権力の源泉がある。うまく使えば、プラスの影響力を行使できる。

それをうまく使える大人を目指すこと。


力が及ばないことには、ヤキモキしない。相手と自分は違う人間なのだから。妄想を広げない。

でも力を及ぼせる限りは、子供の状況を理解し、将来のことも想像して、どうしたいのか、どうするつもりなのか、このままでいいのか、

子供の立場に立って、子供自身にまだ見えていない部分のことも考えながら、


でも押しつけるのではなく、理解者であろうと意識して、なおかつ毅然と向き合う――という自分をめざすことになります。


大人が子供に向ける思いには、執着も、慈しみも、慢も、妄想も、混じるものです。距離が近い関係性なら、なおさらです。大人の側の思いをきれいに区別する必要はないし、できない可能性のほうが高いものです。

むしろ、自分が権力を行使できる範囲--まだ言葉が届く、影響力を及ぼせる範囲を明確にして、

そうした範囲(立場)に自分がまだいる間に、

自分なりのベストを尽くす――子供の将来にとって何が価値あることかについて、自分なりに答えを出す、伝わる範囲で伝えようと努力する。

大人として関わることは、その繰り返しであり、それだけでよいのだろうと思います。

イラスト満載の『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書から

 


2024年11月下旬



いつかはチョキン✂と


苦しみの原因は執着だ、とブッダは言ったけれども、これはかなり深い洞察に基づいた言葉です(まさにinsight:内側を見抜いた言葉)。

というのも、反応だけなら、いずれ消えるし、生きていくうえで反応は欠かせないものでもある。

(※たまに「反応しないなんてムリだ」と言う人もいる様子だけれど、本で伝えているのは「ムダな反応をしないこと」だ。本の冒頭で言っているのに・・伝えることは本当に難しい^^;)

業については、人生を丸ごと作る(支配する)くらいに強い力を持っているけれども、なぜ業が人生を支配するかといえば、執着してしまうからだ。

業を抜けて、自由を手にして、自分自身の(納得のいく)人生を生きるには、執着を切って捨てることが必要だし、それが始まりになる。


人がなぜ苦しみを背負うのか。苦労を重ねてしまうのか。

そこには、相矛盾する執着が潜んでいることが多い。

ちなみに苦労して家を支えるとか、苦労して子供を育てるというのは、自分で選んで納得して背負っているかぎりは、ここにいう執着ゆえの苦しみには当たらない。納得して頑張って生きている人たちは、尊き人たちだ。

ここで考えようとしているのは、慎重に選んでいるつもりが裏切られたり、うまく行かなかったりする場合。「なんで?」と自分でも首をかしげる事態に遭遇してしまう人のケース。

たいていは、親、子、結婚相手が絡んでいる。身近な人との間で苦労を背負う。

身近だからこそ重い。そして、報われない。

そうした日常の中を、暗中模索、五里霧中気分で生きて、いつの間にか報われない事故のような出来事に遭遇してしまう。

その出来事は、たいていは「外から」だ。事故のようにやってくる。だが不思議なことに、事故に自分から突っ込んでいっているかのような状況もある。

なんで?(なぜ私だけが?)と本音では首をかしげている。でも本人は殊勝に頑張り続けている。頑張れる体力がなぜかある。苦労を背負い続けて、心の体力だけはついているのかもしれない(それも限界があるけれど)。

なぜ望んでもいない苦労をいつの間にか背負ってしまうのか。

たいていは、執着が原因だ。しかも一つじゃない。二つ以上の執着。相矛盾する、ほんとは両立しない執着。

その執着を抱え続ける限り、人生を間違う。


一体自分は何に執着しているのか。どの執着を手放さなければいけないのか。

じっくり見つめて考える時間が必要だ。


それが、その人にとっての人生の転機。再生--人生のやり直し――の始まりになる。


どこで謎が解けるか、つまりは自己矛盾、二律背反の精神状態に気づけるかが、人生の分岐点になる。


最初の転機を迎えるのは、多くは三十代後半だ(※『心の出家』参照)。

しぶとく頑張って(執着して)いるうちに四十代に入る人も多い。

五十前後にもなれば、たいてい持ち前の業と、相矛盾する執着に取り憑かれて、「わけがわからない」状態になっている人もいる。

ブディズムという視点を通せば、なぜ自分の人生がかくもこんがらがってしまったのかは、ほとんど解き明かせる。

どんな迷走も混乱も、「必然」だったとわかる。その必然とは、執着が作り出すものだ。


その執着をほどくことができれば、矛盾、混乱は解消する。本来の自由な心、本人が「自分らしい」と思える自分を取り戻せる。

本当の人生は、そこから始まる。

執着さえ突き止めて、チョキン✂と切って捨てれば、人生をやり直すことは可能だ。おそらく何歳になっても。


今は熟年離婚も増えている。ひそかに「家出」する既婚女性もいる。逆に、振り回されて生き血を吸われてきたかのような夫が目を醒ますこともある。

本来、家とか子育てとか男女の仲とか、社会を未来につなぐために必要とされてきたもの、それはこれからも欠かせないはずのものが、崩れつつあるのが、今の日本かもしれない。

それはそれで痛ましい話ではあるのだが、間違った関係性を続けても、苦労が続くだけで、一人一人が病んでしまうから、

いったん関係性を解消して、自由を取り戻して、本当の生き方を一人一人がつかみ取って、できればその状態で未来につながる関係性をもう一度育てていく、という方角の方がよいだろうとは思う。

(人生は短すぎるから、解消するところまでで精一杯になることが多いけれど。でも始まらないよりは、まだそのほうがいいだろうとは思う。まずは自分らしい生き方をつかもうということだ)。


ともあれ、人生の迷走、混乱、行き止まりは、相矛盾する執着を抱え込んでしまった状態から来る。

その状態のままでは、まっすぐ進んでもなぜか事故る。そういうものだ。

何に執着しているのかをじっくり見つめて、答えを出すこと。

「これか」と突き止めて、チョキン✂と切除する。そうすれば、人生の病気は治る。何歳であっても治せる。


その希望だけは覚えておいてください。

頑張っているあなたに敬意を表します。


2024年11月中旬




離婚記念日のススメ

(決断であり、卒業した女性たちへの素直な祝福の記・・)
 
 
今日は、おめでたいことが2回続きました。

その2回とも、内容は限りなく近いものでした。

離婚して、自分の人生に踏み出すことを決意したという女性からの報告でした。

しかも新しい部屋を借りて自分だけの生活をまもなく始めることも、共通していました。


いや、すばらしいというか、おめでとうというか、よくがんばりましたね(祝)というか。


結婚生活を続けてきた背景は若干違いますが、今回の栄えある決断をした相手(夫側)には、共通項があったのです。

どちらも、やはり一言で言うなら「慢の人」だったという。

男という生き物は(と一応男に分類される私がいうのも妙ですが)、慢の生き物であることが多いものです。

それは、男の側が、同じく慢の生き物である父親から学んだ(刷り込まれた)部分もあるだろうし、

母親に甘やかされて慢を育てていった部分もあるだろうし、

生物学的性に由来する部分もあるかもしれません(攻撃性から来る慢。育てる本能を持つ生物学的女性とは異質のもの)。

最初の段階では、その慢はあまり表に出てこなかったとしても、女性の側が合わせたり、そもそも女性が逆らえない性格だったりして、

そういう「一歩下がる」「一段下に立つ」女性の姿を見て、男性(夫)側の潜在的慢が刺激されて、「こいつの上にオレは立って(君臨して)いいんじゃないか?」と思うようになってきて、

こうした潜在意識レベルのやり取りが積み重なっていくと、いつの間にか、男(夫)が完全に上で、女(妻)が完全に下、という関係性にたどり着いている、ということが、頻繁に起こるものなのです。


慢で固まった老いた男という生き物は、共通して、視野が狭く、自己中心的、独善的で、ケチ臭い。

しかも女性(妻)を、絶句レベルで見下し、モノ扱い(私有物)扱いする。

さらにこうした男に共通するのは、中身が空っぽということ。仕事くらいは真面目にやる男もいるけれど、総じて家の中では何もしない。あるいは、妻の領域を脅かすようなふるまいをする。
 
つまりは口うるさく干渉し、やりたいようにやりたがり、妻がやることは(自分のやり方と違うという判断をもって)否定したり、干渉したり、「教育」しようとしたりする。

妻は奴隷か、人形か、ペットか・・言葉にするととんでもないけれども、それくらい妻が人間であるということが見えない。わからない人間。


こうした男は、妻が言い返してくるということを想定していない。妻が反論すると、生意気とか、素直じゃないとか、性根が曲がっているとか、心を持った人間だということさえ認めないような物言いをしてくる。まさに何サマ?と思わざるを得ない言いざま。

その心理には、自分の都合しか見えていない。自分が完全であり、支配者であり、主人である。

対する妻(と「オレが認めてやった女」)は、不完全であり、従順であるべき奴隷であり、奉公人である。「なにしろ養ってやっているんだから」みたいな思い上がりを本気で持っていたりする。

こうした思いを、男は無自覚のうちにやっている(問題だと思っていない)。
 
無自覚だからこそ、本音・本心がポロポロとこぼれ出てくる。
 

女性は次第に、自分が対等な人間扱いされていなかったことに気づき始める。

本当はもっと早くに気づいてもよかったかもしれないけれど、こちらの心にもいろんな課題があって混乱してもいたから、気づけなかった。

でもようやく見えるようになった・・・で、見えたから決断して、行動に移した。離婚、そして脱出。


そういう女性が複数いたのが、今日という日。
 
3連休最後の祝日は、離婚(報告)記念日だったのです。


別れて生きること(離婚)を持ち出した時の、慢の生き物(夫側)の反応は、2タイプあるような気がします。

1つは、何を言っても無駄だというあきらめに立つタイプ。もともと他人だから・・と切り替えてしまう。つまりはそれくらい、実は最初から別の目で見ていた(見下していた・身勝手だった)かもしれないタイプ。

もう1つは、このオレ様に別れを切り出すとは生意気な、許せない、と根に持つタイプ。こちらのほうが多いかも。

こうした人は、過去の財産をどうするかなど、お金のことを言い始める。「損したくない(オレのものだ)」というのが、その本音。

前者のタイプなら、ラッキーと言えなくもない。こちらの執着を手放しさえすればいいのだから。あとは自分の人生を生きるのみ。

後者のタイプなら、脱出まで、もうひと苦労が必要。離婚後の人生のために、守るべきものは守らなければ。そのための作戦を練らなければいけない(ぜんぶ手放しても生きていけるという状況にある女性なら、出ていくだけでいいけれど)。


新しい人生に踏み出す女性が知っておきたい真実をいくつか:

◆長く続いた相手・生活から脱出することは、変化を嫌う心にとっては、それ自体が未知の挑戦であり、恐く、荷が重く、憂鬱で、不安を誘うもの。

でも、それは通過儀礼みたいなもので、避けては通れないが、一日一日を重ねていけば、次第に慣れていってしまう程度のもの。


◆失った時間は、喪失(間違っていた、無駄だった)に見えるかもしれないが、これは心が「そう見せる」もの(いわば錯覚)にすぎない。
 
心は過去に価値を見たくなる。意味があった、頑張った、報われた・・・と思いたがる。

そうした思いを通してみるからこそ、過去は意味がなかったように見える。だが、過去そのものは妄想だから、意味があってもなくても、実は大差ない。

大事なことは、この先の新しい時間をどう生きるか、だ。


◆女性によっては、恐くて足がすくむ・・・といった心理に駆られるかもしれないけれど、住む場所と仕事(生計の手段)があるなら、いずれ必ず新しい生活になじんでいく。

と同時に、自分のために使える時間が増えていく。もう誰にも支配されず、気兼ねすることなく、自分の毎日は自分で選べるようになる。

トータルで見れば、自由が増えて、不自由が消えていくということ。

別れる直前というのは、いわば、久しぶりの長旅に出る直前のようなもの。荷造りがめんどくさいな、やっぱり家にいようかなと思ったりもするが、いざ旅に出て、旅に慣れると、旅の楽しさが入ってくる。

そういうものです。


◆もし新しい自由な人生に足がすくむ思いがする女性がいたら、

いったん目を閉じて、自分のためらいや怯えを自覚して、

「この足を踏み出すんだな、恐いな」と思いつつ、

目を閉じたまま、実際に一歩踏み出してみよう。
 

あら、しっかり足がつく! ことを確認する。そう、それが本当の現実。

 
足がつくし、歩いていける。地面はどこまでも続いている。そっちが本当。

そのうち歩き慣れると、地面がある(足がつく)ことが当たり前になる。かつて落ちるかも、先がないかもと不安がっていた自分こそが、妄想だったのだとわかるようになる。


不安なく、歩きたい方角に歩いていける。
どこに出かけるも、どんな景色を見るのも、自由。


それが離婚した後に始まる人生です。大丈夫。


ある有名な短歌になぞらえるなら、


自分を生きようと決めたから
〇月〇日は離婚記念日


(自由記念日 のほうがいいかも?)
 


「なぜ似たタイプの人と出会ってしまうのだろう?」と思う人へ

 






2024年11月初旬


子供が壊れていく

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

子供が壊れていく・・。

街を歩くと、スマホゾンビ、スマホ奴隷がいたるところに闊歩している。

率直に言って、不気味な光景だ。

目の前に誰がいるかも、周囲がどんな状況かにも意を払わず、小さな画面に目を凝らしている。そのままフラフラと夢遊病者のような足取りで歩いている。

小学生の子供は歩きながらゲーム。いい年をした大人さえも、スマホ、ゲームをやりながら歩いていく。歩いてくる。

地下鉄の階段の前を、ヨロヨロと登っていくジャージ姿の中学生らしき男子がいた。

追い越してながめると、ゲームだった。

図書館でも、ノートや問題集を広げながら、大半はスマホいじり。
友だちと勉強しているようでいて、結局はスマホいじり。

教室でも一見勉強しているフリをしながら、頭の中には、ゲーム、スマホ、タブレットがチラついているはずだ。完全な依存状態だ。

一人でスマホをいじる中学生の姿もよく見かける・・・机に突っ伏して、片手にスマホ持って、親指だけでてれんてれんと、画面を眺めているだけ。

病気だ。もはや病気のレベル。

階段さえ登りきれない、本さえ開けない、虚ろな目をしてジャンクライトを浴び続けて、なんと子供によっては、6時間、9時間、24時間(つまりは寝ても醒めても)ということもあるという。


親も親だ。無責任にスマホやタブレットを与えて(国や学校が今やそれを率先してやっているというなら同罪だ)、歯止めがかからない様子を目の当たりにしても、叱れない。

叱れないなら、最初から与えるな。

子供の脳は、発達途上だ。体験して、考えて、選んで、これからの長い人生を生き抜くための知力・学力を身に着けることが、必須の課題だ。

人は必ず大人になるのだから、その将来のために準備しなければならない。そのために心身を育てること、知力を鍛えること。

学校、勉強というもの自体は、選ぶ余地はある。だが学ぶこと、脳を鍛えることは、選ぶものではなく、生き物として、そして社会に生きる人間として、外してはならないことだ。

脳は、育てるべき時期に育てないと、発育・成長は止まる。

ダラダラ、デレデレと、ただ画面を眺めて、テキトーに指先でいじって、そういう状態がラクだからこそ延々と続けていられるのだが、その程度のことにどっぷり浸かってしまっては、

脳も、心も、体さえも、育たなくなる。

現にスマホに溺れて、一日何もしないで終わる子供たちが続出している。

今が終わっている。ならば人生も終わるぞ。


脳が壊れれば、日常生活も、勉強も、仕事も、この先の長い人生も、何も始められなくなる。まさにゾンビであり、病人であり、奴隷だ。

それだけ忌々しき事態だということは、子供たち・大人たちの姿を見れば、簡単にわかるはずだ。

まともに歩けず、まともに学べず、ラクだけを好み、新たな体験を面倒くさいと思ってしまう。

そんな自分にこの先何ができる? 本当に何もできなくなるぞ。


今を壊して、未来をも壊す。取り返しのつかないことをしてしまっている。


親が、大人が、それを許容してしまっていることも、実に罪深い。
中には、親がスマホに夢中で、幼い子が手持ち無沙汰という光景も、目にすることがある。

大人たちがスマホゾンビ化しているから、子供に叱るとか、厳然たるルールを作るとか、そういう覚悟が出てこないのだ。

脳が壊されている。学習障害、発達障害・・当たり前だ。

こんなことをしていたら、障害どころではなく、人生そのものが壊されてしまう。

親のせいであり、社会のせいだ。壊れつつあることに気づかないのか?


酒・タバコ、 公営競技(いわゆる賭け事)は、二十歳から。それだけの有害性・依存性があるからだ。

ドラッグ(覚せい剤・麻薬)は禁止。人生を滅ぼしかねないからだ。

スマホ、ゲーム、タブレットも、同様の危険性はあるのだぞ。

なにしろ脳を壊し、時間を失う。一度失った脳も時間も取り返せない。ラクだからこそ依存性もある。取扱い注意の危険物だ。


手遅れになる前に、年齢制限をかけるべきだという立場に賛同する。

だが、ぬるま湯に浸かりすぎたこの社会においては、規制の動きには反対する声が上がるかもしれないとも思う。

大人でさえ、自分がどんな病的姿を晒しているかを自覚していないのだから。

もはや社会全体が依存症のレベルに入っているのかもしれない。



取り返しのつかない事態に進みつつある気がしてならない。

子供たちが壊されている。




2024年10月末日

親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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相談したいという人たちへ


この場所を見つけて、相談したいと連絡をくださる方々へ


この場所は、開かれた心と慈悲の思いをもって、なるべく多くの人に新しい可能性を見出してもらおうとしています。

だから、ご相談にはいつでも応じる方針でいますが、いくつか最初に、お役に立てる場合とそうでない場合とを分ける線引き(基準のようなもの)をお伝えしておくことにします:


1)求めるものは、あくまで自分自身の生き方である(でなければいけない)ということ。

本を読んで、「私の親に会ってください」とか、自分以外の誰かを変えよう(変わるように助けてほしい)」と考える人がいます。

でもこれは、見当違い。自分以外の誰かを変えることは、誰にもできません。本人が自ら見つけて、自分のあり方について直接相談してこない限り、変わる可能性はありません。

「自分以外の誰かを変えたい(変えてほしい)」と思っているということは、その誰かにまだ執着しているということ。

この場所が伝えられるのは、そうした自分自身の執着を断って、その相手から自由になる方法なのです。

この場所が伝えられるのは、人に執着して苦しんでいる自分自身を変える方法です。自分が執着している誰かを変えることではありません(その先は妄想の領域です)。


2)少しでもこだわりやプライド、譲りたくないものがある人も、時期尚早です。

わかりやすい例でいえば、「あなたのプライドが邪魔しているのですよ」と言われて、ムッとしたり、そんなことはありませんと言い返してしまうようなら、まだ自分を見つめる覚悟ができていないことになります。

それはそうです――プライドを乗り越えているなら、反応するはずもないし、プライドを越えねばならないことを自覚しているなら、「そうですよね(理解できます)」という言葉が自然に出てくるものだからです。

反応してしまうということは、まさに図星ということ・・でも図星であることを、まだ認めたくない段階だということです。ならば、時期尚早ということになります。


3)誰かをかばおうとしてしまう人も、まだ執着にとらわれています(ゆえにこれも時期尚早)。

最も多いのは、肉親の業(ごう※)を指摘されたときに、とっさに肉親をかばって弁護してしまうこと。代わりに自分が悪いのだと主張する人もいます。指摘されて腹を立てる人さえいます。
 
※ 業:ごう がわからない人は、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)をお読みください。

こうした人たちの心にも、プライドと同様に、肉親への執着が存在します。執着があるからこそこそ悪く言われたくないと思ってしまう。かばってしまう、指摘されると腹を立ててしまう。

でもそんな自分に決定的に影響を与えているのが、肉親だったりします。それが事実ならば、それはその通りですと受け入れなければ、自分への理解が進まず、結果的に前に進めなくなってしまいます。

端的にいえば、親のことを指摘されて「違う」と言いたくなるということは、自分と親との間の線が引けていない(まだ混同している)可能性が高いということです。まだ執着の只中にあるのです。
 
ちなみに、苦悩を抜ける道筋の大枠というのは、
 
①苦しみの原因を、自分か、自分以外の他者か(親も含む)に明瞭に分け、
 
②自分の中の原因を自覚して反応しなくなること、または
 
③他者を見ても、思い出しても、一切反応しなくなること

です。反応しなくなれば、苦しみは止まるので、苦悩は解消します。

ところが指摘されると反応してしまうーーなぜなら執着があるから。この段階に留まる限りは、苦悩は続きます。 


4)自分で連絡してこない人も時期尚早です。

これは技術的なことだけれど、自分で連絡せず、人を介して(利用して)くる人もいます。

これも成り立ちません。自分のことは自分でやること。自分のことは自分で語ること。

最低限の自立ができていること。それが前提です。

※他人のことなのに、線引きできずに、○○さんの相談に乗ってあげてくださいと「つないで」しまう人も、自立できていない可能性があります。というのも自立していれば、「それは自分でやらないとね」と気づけるし、言えるものだからです。

 

他にも、いくつかありますが、総じて、相談して変わりうる可能性がある人たちとは、


①事実を指摘された時に、それは事実ですと受け止められる人

自分のことであれ、誰かのことであれ、事実は事実。苦しみがある、その原因はこういう過去、こうした関係性にある・・そうした理解を、そのまま受け取れる人。

事実を指摘されて、まだ反応してしまう段階であれば、「相談→実践→変わる」のステップには入れませんよね。

その意味では。どんなに耳の痛い指摘も、冷静に、謙虚に、受け止める心の準備ができている必要があります。
 

②あくまで自分のあり方を見つめられる人

他人を語らない・論じないこと。自分以外の誰かを変えようとか、変わってほしいといった執着を、この場所に持ち込むことはできません。


③なすべきこと(実践)をやる覚悟ができている人

自分を変えるには、自分のあり方を自覚して、そうした自分を作り替えていくための実践に踏み出す必要があります。

いつまでも過去に執着したり、誰かを変えようともくろんだり、人に腹を立てたり責めたりしているのなら、本気で変わる覚悟がないということになります。

この場所は、原因をつきとめて、伝わる言葉で言語化して、この先何をしていけばいいか、具体的な実践・行動までお伝えすることを方針としています。

その行動に踏み出す覚悟や意欲があるかどうか。
 
ないということは、「変わらなくていい」ということ。となると、これもやはりお役には立てません。


他にも見るべきものを見たうえで、はたしてお役に立てる可能性があるのかを見極めています。

おそらくこの場所は、本人には想像できないくらいに、人の心の奥を見て(見えて)います。
 
利を図るという発想がないので、お役に立てる可能性があれば、どこまでも一緒にいるし、お役に立てない状況であるなら、様子を見ることになります。
 

ためらい、おそれ、プライド、自己弁護、ごまかし、美化、詭弁、正当化、誰かへの執着・・・そうしたものが少しでも残っていたら、ブッダの智慧という、ほぼ万能して、でもかなり鋭い(人によっては痛い)知力は役に立たないだろうと思います。
 
執着は、智慧よりも、強いので――こうした真実をきちんと伝えることも、この場所なりの配慮(人それぞれの人生の尊重)から来ています。 


自分の苦しみを自覚して、原因を突き止める作業を手伝ってほしいという気持ちが強くあって、何を指摘されても、そうか、それが執着にまみれた自分に見えていなかった真実だったかと思えるに至った人であれば、

お役に立てる可能性もあるかもしれません。



とはいえ、本当に苦しんできた人は、ある程度、自分のあり方について飽きている・懲りていることが多いものです。

また、誰かに苦しめられたり、傷つけられたりしてきた人は、本人が思っている(思い込んでいる)ほど悪くない(他に原因がある)ことが多いので、

そうした人たちは、この場所で、本当の原因を明快な言葉で指摘してもらって、その原因を取り除くステップを理解することで、スッキリして、希望を見出して帰ってゆくので、

この場所・ブディズムは、優しくて、元気が出る存在(味方)に映るはずです。


その一方で、捨てたくない執着の只中にある人にとっては、ここは敷居の高い、峻厳な場所に映るかもしれません。
 
優しかったり、厳しかったり・・まさにお寺であり、道場です。心によって、見えるものが変わるのです。

 
人の心は、みずからが作り出した執着の壁にぶつかっている状態だと思ってください。高くなったり、低くなったり・・・
 
壁が消える方法を(決して難しいことではありません)伝えるのが、この場所であり、ブディズムです。

苦しみも、原因も、自分の中にあります。そうした自分自身を正面から見すえる覚悟ができた時に、

ブディズムは、ほぼ万能の可能性をもって「優しい姿」で現れていたことを知るのだろうと思います。

 


人生は長いし、世界は広いので――

時間をかけて、真実(正しい理解)に近づいていけばよいのだろうと思います。


最終的に、答えが出ない人生は(答えを出さないことを本人が選ぶのではない限り)存在しないというのが、ブディズムの人生観です。

答えは出していいのです。終わりなき自問自答を生きることも価値を持つけれども、答えを出して、生きるという営みが持つ可能性の最果てまで体験することも、価値を持ちます。


答えを出さない生き方は、世の中に無数にあるから、

ひとつくらいは、答えを出しきる生き方もあるということ、その方法を示せる場所があってもよいと思います。
 

この場所は、つねに可能性を見ます。
 
人間が、十二分に生きて、心の隅々まで苦しみがない境地にたどり着く可能性を。


*相談してみたいと感じている人は、とりあえず各地の講座に足を運んでみるのが一番よいかもしれません。基本的に、この場所はオープンに、カジュアルに、フツーにやっています。



2024年7月1日


夫の立ち位置~結婚後のファースト・ルール


今回は、家庭問題のあるある(切実にしてとても多い悩み)を取り上げます。耳が痛い人もいるかもしれませんが、大事なことなので伝えることにします:


ときおり来る相談の中に、「妻が自分の母(妻にとっての義母・姑)との関係で悩んでいる、避けようとしている、そんな二人の間で板挟みになっている自分(夫であり息子)がつらい、どうしたらよいのでしょう?」という男性からの悩みがあります。

こうした場合に最も多いのが、夫であり息子にあたる自分の姿が見えていないこと。

最も多く、また罪深いケースは、自分の立場を固めていない、責任を取っていない、あくまで妻の悩みであって、妻がおかしい、自分は母(妻にとっての義母)とうまくやっている・・・と思っているらしい場合です。


こうした男性は、母親との距離が近い。近いどころか同じ敷地内・二世帯住宅に暮らしていることもある。男性自身にとっては、それが心地いい。妻にもいい顔、母にもいい顔ができる、そういう状況に潜む根の深い問題にまるで気づかない・・ということが、よくあります。


厳密にルールを決めてください。

母と息子の距離が近くてよいのは、結婚するまでです。

結婚したなら、自分と妻との関係が最重要であり、その関係だけでいったん完結していなければなりません。

自分の母親、妻にとっての義母・姑というのは、自分にとって以上に、妻にとって苦痛にならない距離に、つまりは自分たちの関係の外に置かねばなりません。

それが結婚後のファーストルールです。子供が生まれてからも同じです。


息子と母親との距離が近いと、妻には苦しみが生じやすいのです。そもそも他人だから。

仲の良い嫁・姑関係もあるけれども、そうではない関係もよくあります。

まして、同じ敷地や二世帯住居で暮らすことになれば、妻=嫁としては、常時アウェイの環境に置かれることになります。

それが、妻によっては(すべての妻にとってそうとはいえないけれども、少なくない確率でそうなりがち)苦痛の始まりになるということです。


妻と母との関係に悩む男性というのは、自分は安全地帯にいるから、こうした状況を理解できないことが多いのです。

自分は母親が与える蜜を吸ってきて、甘えることができて、結婚して、夫になった今も、なおその快適さは手放そうとしない。もしそういう選択を無自覚の内にしているとしたら、ルール違反です。

結婚したら、妻が第一。自分の母親はあくまで外様(とざま)です。それくらいの覚悟を決めないと。いつまでも母を第一に考える子供であってはいけないのです。


こうした男性は、自分で気づかないうちに、母親に優しく、妻に厳しく、上から目線になってしまっているものです。

妻が自分の母親とうまくいっていない。それが悲しい、嘆かわしい、腹立たしい、情けない・・などと語ります。

第三者から見れば、なんとも○○○します。あなたは何者?と思えるくらいに、妻に厳しく、冷たい。

「そんなつもりはありません」と、こうした状況に置かれた男性(夫であり息子)は語ります。

そのあたりが、甘ちゃんなのです。そもそもルールを犯して、妻と自分と子供たちだけで完結すべき環境に、自分の親を引き込んで(受け入れて)しまっているのだから。

こうしたルール違反を犯している時点で、そもそも間違っているのです。

たとえるなら、防犯の大事さはわかっているのに、家に鍵をかけないようなもの。たまたま盗まれない、誰も侵入しない状況が続いても、いつ入り込まれるかわからない危うさは続いている。

その危険を察知しているのは、妻かもしれないということです。

夫にあたる男性がこうした問題を自覚するかしないかは別として、危うい状況を作ってしまっていることは同じです。


母親とも妻とも仲良くやっていこう・・・なんて、虫の良すぎる言い分は控えることです。

妻が、姑が嫌いというなら、姑をかばってはいけません。妻の気持ちをそのまま受け止めること。

妻が、義母と関わりたくないというなら、関わらせてはいけません。「外様」に会いに行くのは、自分だけにしてください。

妻が、義父母との同居が嫌だというなら(もはや耐えられないとはっきり言うなら)、妻の気持ちを第一に考えて、現実に動いて見せてください。


どっちにもいい顔を見せようなどという(それも妻にとっては虫唾が走る、あるいは自分の味方でいてくれない夫への不信や嫌悪につながっていきかねません)幼い魂胆は封印することです。

結婚したら、夫は妻の味方であること。それが最初のルールです。


妻と義母、嫁と姑の間に起こる問題というのは、実は解決は簡単なものです。結婚後のルールを守るだけ。

事態をこじらせているのは、夫であり息子である自分。

妻と母の両方にいい顔をしようという立場の固まらない、ずるいといえばずるい自分のあり方が問題であることが多いのです。


立場を固めて、妻第一というファーストルールを守ること。

それが夫になった男が取るべき責任というものです。

まずはあなたが大人になってください、というべきなのかもしれません。


※上記は、あくまで一般論として。しかし妻第一というルールは絶対と思ったほうがよいです。結婚というのは、そもそもそういうもの。

他人だった相手と新たな人生を作り、親という存在を外に置くことを意味します。



2024年6月


子を失った親である人へ


ときおり、わが子が先に自らの意志で旅立ったという親である人が来ることがあります。

親であるその人は、その人なりに真摯な動機をもってやって来る――ものと本人は思っている様子です。

また、この場所や仏教ならば、自分が求める答えに近づけるのではないかという期待もある様子です。

しかし・・・

ひとめその姿を見た瞬間に、この命は、親であるその人と、自ら生きることを降りた子供との、あまりに遠い距離に愕然とすることがあります。

親であるその人が、この場所に訪ねてくる意図ーー本人が語る問いや動機というものが、

旅立っていった子供が求めていたものと、あまりにかけ離れている・・・


そうはっきりわかることが多いのです。


親であるその人が来た時、この命は、瞬時に「子供の側」に立ちます。

子供の目から見て、親であるその人がどう見えていたか、どう見えるかを、見据えるのです。


子供の目から見る親の姿ーー


それが見えた時に、子供の思いが伝わってくる気がしてきます。

「お父さん、また自分のことばかり話しているね」

「お母さん、またそうやって自分をかばって逃げ出すんだね」

「いったい、いつになったらぼくの話を聞いてくれるの?」

「いつになったら、わたしの気持ちをわかってくれるの?」


かつてこの世界に生きていたその子は、数えきれないくらいそう感じて、

泣いたり、怒ったり、ふさぎ込んだり、小さな絶望を繰り返したりして、

自分を守って、逃げ回って、都合のいい時だけ子供を利用して、都合が悪いことは子のせいにしてきた親に対して、

子供なりに精一杯言葉を発し、

伝わらないとわかったときはなんとか一人でやり過ごしながらも、

それでも心の底では、


お父さん、もっとわたしのことをわかってよ、

お母さん、もういいかげん自分を許してよ、わたしにも優しくなってよ、


と訴え続けてきた長い長い歳月が、透けて見える気がすることがあるのです。


この命が見るのは、子供の目から見た親の姿です。

親の側に都合のいい味方にはなりません。

正直にお伝えして、親であるその人は、子供のことをわかっていない。わかろうとしていない。


子をわかることよりも、自分のこと・・・自分自身の執着のほうを守っている、
 

子供からすれば、ずるくて、卑怯、自分勝手ーー


そう思えてくることが(それもひとめその姿を見ただけで)少なくないのです。


この命に見えるくらいだから、子供はもっと見えていたでしょう。見尽くしていたでしょう。

いらだちも、絶望も・・数えきれないほど重ねていたことでしょう。息が詰まるほどの至近距離で。


もし親であるその人が、自分勝手な執着を卒業して、

オレが、わたしが、という自分に求める思いを手放して、

本当の意味で大人になって、本当の意味での親になって、

大人であること、親であることに満足できる人であったなら、

子供をこれほどに傷つけたり、突き放したり、憤りを感じさせたり、追い詰めたりしなくてすんだのに、

つまりは子供はきっと今もすこやかに、笑って生きていられただろうのに――

と感じることが、とても多いのです。


親であるその人の姿、その人が語る何気ないひとこと、

そうしたものの中に、子供の目からすれば、

ぞっとするほど残酷だったり、

あきれるほど自己中心的だったり、

自分がかわいいがゆえに自分を守って、都合の悪いことからは逃げるというずるさだったりと、

いろんな真実が見えてきます。


私はそうした真実が見えた時(見えるまでの時間は本当に一瞬であることもあります)、

心の中で、今はこの世にいないその子に語りかけます――

「そうか・・・つらかったね」
「腹が立つよね」
「悲しいよね」
「絶望するよね」
「くやしいよね」

それが本当にその子に伝わる言葉かは、本人はもうこの世にいないからわからないけれども、そうした気持ちに染まることがよくあります。


子供の目からすれば、目の前の親は、自分がいなくなった後も、

やっぱり自分のことばかりで、自分勝手で、自分を守って、逃げてばかりいる。


「そうやって、また逃げるんだね、わたしから」

「そうやって、また私を傷つけるんだね」

と、この命は、今は亡き子供に代わって、親の背中に言葉を向けます。

お父さん、お母さんは、本当にずるい。


子供が生きていた間に、そう思うことができたなら、

「ほんとにずるいよね」と、その子の話を聞ける大人や友人が、そばにいることができたなら、

その子は絶望せずにすんだかもしれない。

ほんの少しでも、この世界にもいいところはあるんだな、生きてみてもいいのかな、と思えたかもしれない。

そんな思いが残ります。



子をなくした親は、仏教にすがろうとするかもしれないけれど、

親がそのままの自分を守るだけなら、その仏教は、自分に都合のいい言い訳、弁解、現実逃避にしかならない。もし慰めを感じる言葉があるとしたら、それはまやかしです。


もし親自身がほかの誰よりも、子供を追い詰めていたなら、傷つけていたなら、

その子が生きることを降りてしまうくらいの痛みや絶望を抱えるに至った「原因」の一つであったなら、

そうした親に伝えられる仏教など、ありません。

 

親のあり方・生き方が原因の一つとなって、子が生きることを降りた場合、

親は 罪人 なのですよーー。


伝えることに胸は痛みますが、真実です。

もし真実から目を背けるなら、親の罪は生涯続き、子は浮かばれず、

さらには親の生き方を支配する「業」は、子へ、孫へと、未来に受け継がれていきます。

 

かつて出会った親は、子に先立たれた動揺を紛らわせたくて、一生懸命お経を唱えていたけれど、

そんなお経は、申し訳ないけれども、親が自分自身をかばうための自己慰めにすぎません。

そんなことをされても、子供は嬉しくもなんともない。

「自分が旅立った後でさえ、まだ独りよがりの答えを出して、子供の思いをわかろうとしない、僕の、わたしの思いに耳を澄ませてくれない」


聞いてくれない親であるその人の姿を見て、ふたたび絶望するしかない。


世界でいちばんわかってほしかった相手に、わかってもらえないまま旅立った命は、

とても胸痛む真実だけれど、浮かばれないまま。


それはそうーー自分がなぜ生きることを降りたのか、

自分は生きていたころ何を思っていたか、何を本当は伝えたかったのか、

親であるその人に、かつてわかってほしかったし、

生きることを降りた後でも、やっぱりわかってほしいと思う。

そういう思いだけが、この世界に残ります。


誰にも聞いてもらえないまま。受け止めてくれないまま。


もし霊魂(たましい)と呼ばれるようなものが本当にあるとしたら、

わかってもらえなかった子供として短い人生を終えた霊魂は、

この世界を、いつまでもさまよい続けることになるでしょう。

なにしろこの広い世界の中で、自分の思いを受け止めてくれた人は、一人もいないのだから。

あまりにさみしく、あまりに孤独です。

そうして虚空をさまよい続ける霊魂と呼ばれるようなもの、かつて親であるその人の子供だった魂は、

受け止めてもらえなかったさみしさを抱えて、さすらい続けるほかないのです。


この命は、親の味方にはならない。そのような親に都合のいい話はない。

もし子に先立たれたという親である人が、私の前に来たならば、

私は、その子に代わって、その親の姿を見る。

そして子供の代わりに、湧き上がる思いを、親であるその人に伝えることになるだろう。


そんなに自分がかわいいですか?

子供が幸せに生きることよりも?


それは、親である人にとっては、自分の「罪」を突き付けられる時間になります。

優しくなどあろうはずがない。怖くてたまらない時間になるかもしれません。

なにしろ、自分がいかに自分本位だったか、自分しか見ていなかったか、子供としてそばにいてくれたその命に自分がいかに優しくなかったかを、突き付けられることになるからです。


それこそが本当は、子が生きている間に子が望んでいたことではあるけれど、

子の思いがまるで見えていなかった親であるその人にとっては、自分のあり方を正面から見せつけられることになるので、

よほどの覚悟と、本当の子供への愛情がないかぎりは、そうした場所には立てないだろうと思います。

これまでも、子に先立たれた親が訪ねてきたことはありました。

そうした親の姿を前にして、子供が生前に感じていたであろう思いが伝わってきたように感じる瞬間もありました。

ですが、子供の思いを伝える前に、親であるその人は逃げ出してしまうのです。

そのほうが楽だから。都合がいいから。


正面から受け止めて自分の罪を認めて、途方に暮れる(子からすれば、やっと泣いてくれる)親も、いなくはありませんが、

ほとんどの場合は、親であった自分を見つめようとはしません。できないのです。

 

すると何が残るか――。



わかってほしかった子供であった魂と、

わかることより自分を守ることを選んだ親であるその人との間に、

遠い、遠い距離が残ります。

永久に埋まらない距離。見えない平行線。


この世界は、そうした見えない絶望を無数に抱えて動いています。とても哀しい世界です。


いつか、いつか、いつか・・・子供だったその人の思いが届いて、浮かばれますように。

そう願いながら、仏者であるこの命は生きていくことになります。

それは深い哀しみでもあり、絶望でもあり。


でもこの命は、みずから生きることを降りたその子の思いだけは、いつでも受け止めよう、耳を澄ませようと努め続けています。

たとえ生きることを降りた後でも、その子の苦しみを置き去りにはしたくないからです。

たとえ親である人が、みずからの罪に恐れおののこうとも、

子が抱えていた苦しみには、絶対に及ばない。


だからこそ、親ではなく、亡き子供の味方でありたいのです。


自分自身を正面から見据える覚悟と勇気を、親であるその人がいつか持つことを、

この命は、子供であった命とともに、

ずっと待ち続けることになります。

 

子を失った親である人へ――


待ち続けている命があります。

親であるあなたが自分自身を見つめ直すことを。


本当は難しくありません。

そして、そのことが、旅立った命が最も望んでいたこと、心から喜べることです。


あなたの痛みを痛いほど感じながらも、あえてお伝え申し上げます。




親たる者の最後の目標

*あるお母さんから

(ブログ「親という名のノーコン投手」にちなんで)

(略)

情けなさばかりで前が見えなくなりそうになります。
自覚するとこんなにも苦しくなるのだと、

我が子にはこれ以上の苦しさを
長きにわたり感じさせていたのかと気づき愕然としています。

今やれることから逃げずに、自分の業と向き合います。
身体の感覚を付けていく練習をし
無駄な反応を減らすことを継続していきたいと思います。

(略)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


とても勇気づけられる正直な言葉です。

多くの親が、無自覚だった過去の自分を知るに至って、胸に痛みを感じます。

痛みを引き受けようとしない親は、幼く姑息。

痛みを引き受けようとする親は、大人です。

これだけのことを伝えられるお子さんも、奇跡に近いくらいに、大人になったのだと思います。

親としては尊敬と感謝を向けるしかない立派なお子さんです^^。

子に恥じない親にならねば、です。それこそが親たる者の最後の目標。

 


 

 

 

親という名のノーコン投手


親であることは本当に難しい。

と、親の姿を目の当たりにするたびに、痛感する。

私が出会う親というのは、たいてい子供の姿に悩んでいるか、子供の育て方について試行錯誤している人たち。悩んでいる時点で、親としては上等。悩まない親は、まず私と遭遇しないから(しかし問題がないわけではなく、むしろ悩む親よりはるかに問題を抱えていることが多いのだけど)。

悩む親には、「まず悩んでいることを話してみてください」と伝える。たとえるなら、野球のピッチャーをやっているが、キャッチャー(子供)がまともにボールを受けてくれないから悩んでいる、そう語るピッチャーに「ではボールを投げてみてください」というようなもの。

そして投げてもらう。日頃どんな姿で子供にボール(言葉・表情・ふるまい)を投げているのかを、確認してみる。

悩める親のみなさんには本当に申し訳ないのだけど、とんでもないボールを投げる。こちらがかまえているミットに入ってこない。とんでもない暴投。腕を伸ばしても、はるかに届かない。とんでもないところにボールを投げて、バックネットにぶつけたり、観客席に投げ込んだりする。

つまりは・・・子供の心がわからない。子供の目に、親である自分がどう見えているのか、想像がついていない。


子供の側に立った時に湧いてくる思いを言葉にしてみると、

「そこじゃないんだけどな(それはどうでもいいんだけど)」
「また自分の話?」
「どうせ私が悪いんでしょ」

みたいな感想が出てくる。親の無理解に対する感想。最初は「ん?」という小さな違和感。次に湧いてくるのは、イラだち。やがて烈しい怒り。だが親はまったく無自覚に暴投(無理解)を続けるものだから、そのうちあきれて、最終的には絶望になる。

「この人には何を言ってもダメだ(何も聞いていないもの)」


それが、(本当に申し訳ないのだけど)ノーコン・ピッチャーたる無理解な親に対して子が思うこと。

実はかなり早い時期に、子供はそういう思いにたどり着いている。怒りから不信。不信から絶望へ。その時点で本音を言わなくなる。

その時点で親子関係はいったん「断絶」している。だが、親子関係という形は続く。子供としては、親がいないと生活できないから。しようがない、と子は思う。だからケンカにはならない。

親にわかってもらおうと期待を向けている子供も多い。そういう子供は、親に合わせて、いい子供としてふるまう。たとえば勉強第一と思っている親の前では、勉強している振りをする。自分が勝利者であろうと世間の中で闘っている親に対しては、親のことをすごいと持ち上げる。

こういう関係性は<役割演技>だ――親がなりたいと思っている役割を親自身が演じられるように、子供がサポートしてしまう。と同時に、親が期待する、親に都合のいい役割を子供も演じようとする。

勉強を求める親の前では勉強しているが、勉強が好きかと言えば別の話。親のことを尊敬していると言ってはいるが、実は不信や怒りを隠し持っていたりもする。


いうなれば、ミットに全く入ってこないノーコン投手にあわせて、キャッチャーである子供がそれこそ立ち上がったり、ジャンプしたり、わざわざバックネットによじのぼって、ヒイヒイ言いながらボールをキャッチして見せてきたのに、

ピッチャーである親は、なぜか目に「補正」がかかっていて、自分は親としてストライクを投げ込んできた、子供はしっかりキャッチしてきた、だから自分はコントロールのいいピッチャーだと思い込んでいるようなもの。




親がノーコン・ピッチャー(暴投投手)であることの弊害は、子供がいつまで経っても親のためのキャッチャーでい続けなければいけないことだ。子供としてはいいかげん立ち上がって、別のポジションも守ってみたいし、バッターボックスにも入ってみたい。野球というゲームを楽しみたい。つまりは社会に出て、自分に何ができるかを自由に試してみたい。

親がある程度コントロールが良くて、かまえたミットにボールが入ってきて、ラクに「受ける」ことができれば、子供は親専属のキャッチャーを卒業できる。

だが、親がノーコンだと、子供はいつまでもキャッチャーでいざるをえなくなる。先に進めない。他のポジションやボールを打つという経験もできない。親がどんなボールを放って来るか、どう受けなくてはいけないか、必死で考えなくてはいけない。そのことでノーコン投手に振り回される。

また、子供の側にも期待がある。いつか、かまえたミットにまっすぐ投げてくれる――きっと私の思いをわかってくれる--と。

悲劇の理由は、ここにある。実はノーコン投手は、いつまでもノーコンだ。投げ方(生き方)を知らないから。

暴投しまくりのノーコン・ペアレントに、子供がお付き合いしてしまう。結果的に子供の人生が振り回されてしまう。




この不幸なバッテリー(親子関係)を解消する方法はあるのか? 二つある。

ひとつは、キャッチャーである子供の側が、「このピッチャー(親)はダメだ」と(いい意味で)見切りをつけること。「この人のボールを受けていたら、自分の野球人生が始まらない。別の人とキャッチボールしてみよう」と思えるかどうか。

そして別のクラブに入るとか、別の選手(大人)とプレーしてみる。すると、世の中にはもっと上手な選手がいることもわかる。そういう選手に野球を教わる。すると上達する。

上達した選手(子)は、いつか元々バッテリーを組んでいたノーコン投手(親)を見て、思うだろう。「よくあんなメチャクチャな球を受けていたなあ」と。

親に向けて「あなたは、ノーコンだからね、私はもう受けないよw」「まともなピッチャーだと思っていたけど、とんでもなくノーコンだったんだね」と笑って言えるようにもなる。

この時、親の側が「そうなんだよ、ごめんね。よくボールを受けてくれたよね、ありがとう、でももういいからね」と笑って言えれば、別の形で関係を続けていける。最後は「私はノーコンです」と親がいえるかどうか。


もう一つの方法は、親のほうからノーコン(無理解)だと自覚すること。とんでもないフォームで、とんでもないところにボール(言葉・態度)を投げてしまっていると自分から気づいて、愕然とすること。

自分のノーコンぶりがどれほどのものかを知るために一番効果がある方法は・・・

親がキャッチャーに回ってみることだ。つまりは子供の側に立って、自分の姿を見てみること。
 

自分が子供になったつもりで、親としてふるまっている自分の姿を想像してみるといい。

いろんなことに気づけたなら、自己理解が進んだということ。たとえば、

「この人(自分のことだけど)、ものすごくエラそうだな」
「話すことが自分のことばっかりだな」
「うわ、すごく子供に残酷」

そんな気づきが出てきたら、親だった自分の姿を子供目線で見ることが、少しはできたということ。


「仮にわかったとして、それが本当に意味があるのですか?(それがなぜ解決策になるというのでしょう?」と思う親もいるかもしれないが、実は計り知れない効果がある。

わかれば、ボールの投げ方(関わり方)を考えるようになるから。それまでの関係を改善できる可能性が出てくるのである。それ(わかる)とこれ(問題の解決)は、別ではある。だが、つながっているのだ。

もちろん難しいからこそ、手助けが必要になる。たとえば私にボールを全力で投げ込んでもらえたら、「とんでもない暴投ですよ」と言える(※子供との関係に困っている人は、いちどぜひ会いに来てください^^)。

親の側が、自分がノーコン投手だとわかって愕然としたところから、正しいボールの投げ方(親としての、いや人間としての関わり方)を学んでいくことになる。

めちゃくちゃを続けてきたピッチャーがフォームを矯正してストライクを投げられるようになるには、相当の時間と練習が必要になる。

ただ、自分が暴投ピッチャーだと自覚して、一球ずつフォームを矯正していけば、やがて球筋がまとまってきて、たまにキャッチャーが腕を伸ばせば、ボールをミットで捕らえられることも出てくる。

子供の言うことがわかってきた。

子供の気持ちをそのまま受け止めるということがわかってきた。


そうか、こういう投げ方をすればいいんだ--。


そういう「わかる」経験が親というピッチャーの側に増えてくれば、それは同時に、キャッチャーである子供にとっては、こう感じる機会が増えてくるということでもある。


「そう。それが私が伝えたかったことなんだよ、お母さん、お父さん」

 

それがキャッチボールが成り立った瞬間。

ほんとは、すごくシンプルなこと。どうということはないこと。

投げて、受けて、また投げて――そのどうということのないやりとりが楽しい。幸せだと思う。そういうもの。特別なことではない。特別なボールは要らない。

それがわかる日まで、ノーコン・ペアレント(ごめんなさい・・)は、自分の暴投(無理解)ぶりにショックを受け、あきれ、恥ずかしく思いながら、正しく投げる練習を続けるのです。





断るか従うか 親子の葛藤を越える計算式

 
<おたよりから> 
※本人の許諾を得て、一部編集してお届けしています

私の母は、今までも何かあると一番に私に電話してきます。必ずそれにこたえる形で動いてきました。

私自身は、子供の頃はバカ扱いされ、兄弟と比較され、そのうえ一番上という事もあり、大学費用は出せないという事で、奨学金をもらいながら働いて、親にお金を出してもらうことなく〇〇〇になりました。

それに対して、兄弟は皆大学まで親がお金を出し、生活を援助してもらい、ぬくぬくと学生生活を送り社会人になるという、あまりの違いに憤りさえ感じています、

なぜか何かあると一番に私に連絡が来て、私がお金を出したり動いたりしています。なぜそのようにしなくてはならないのか、なぜ兄弟が弟たちがやらないのか、不服を感じながら黙ってやっていました。

先日になって母から電話が何回かあり、何回話しても理解してもらえず最終的に仕事もあって断りました。
自分でも気がついているのですが、イラつきの強い口調で話しています。母も、変わったね、きつくなった。と言っていました。

私の中で何か変化が起きているのはわかっていますが、この変化が良い方向性に向いているのか、悪い方向性に向いているのか? 自分でも理解できていません。

後々両親がなくなった時後悔するのでは?と思ったりもします。特に今までの経緯で色々言われてきた母とは一線を引きたいと思っていますが、それが正しい事なのか。

過去に引きずられている私がいることも問題だと思うし、後悔しそうだし。私の身の振り方は誤っているのでしょうか。


◇◇◇◇◇

<おこたえ>

ここまでに起きた出来事は、本人の感想はともあれ、間違ってはいません。

過去には拒めなかったことを拒めるようになったのだから、成長しています。

その心を見れば、親・兄弟たちは、自分たちに都合の悪いことはこの相談者がやってくれるもの、それが当然、と思っているのでしょう。もともとそういう扱いだということ。生まれ持った環境における、家族の中での位置づけ・役割というのは、簡単に変わるものではありません。

この人は、いいように利用されてきたのです。他の兄弟に比べても、ろくな扱いを受けていない。兄弟が受け取ってきたものを、自分は受け取っていない。

この人は、自分の力で生きて、自分の力でここまで来たのです。恩に着る必要はありません。


「都合のいい時だけ頼るのは、やめてください」
「私は応えるつもりはないから、別の手段を考えてくれますか」
「他の兄弟がやってくれることになった? そうですか。別に私に報告しなくていいです」

くらいでよいのです。


ただしこの人は、ずっと昔から、「応えるのが自分の使命であり務め」と思い込まされてきた様子もあります。さらには親に愛されたいという子供の頃からの願望も、まだ覚めることなく残っている可能性があります。

そういう捨てきれない願い(妄想)があるから、応えないことに罪悪感を覚えるのでしょう。声(連絡)がかかると途端に落ち着かなくなるのです。応えなくてはいけないのでは?と思ってしまう。

罪の意識、良心の呵責・・・こうしたものは、相手の一方的要求に「応えてあげなければ」とつい持ち前の執着を向けてしまうことから生じます。かりに親が亡くなっても、執着は続くから、「もっと応えてあげればよかった」という思いが残ります。

さらには、応えないのは人でなし、冷たい人間、自分は人としてどうなのか、みたいな、自分を疑う妄想も噴出してきます。


こうした心情は、わかる人も多いのではないでしょうか。しかしこれを整理する計算式は、つねにシンプルです(『怒る技法』から)。

➀相手の思い(もっといえば魂胆)を見抜く。
 
②自分は自分の人生を生きる。できることはできるし、できないことはできない。
 
③相手の思いに利用されない。人は人、自分は自分だから。

➀については、「問いただす」ことが可能です。

過去覚えている相手の仕打ち(自分がされたこと)を振り返って、「どういうつもりだったのですか?」と直接聞く。

「兄弟に与えたものを、私にはくれなかった。そのことに理由はあったのですか? どんな理由?」と聞く。

「私が今思うのは、あなたたちは、都合よく私を利用してきたということ。その自覚はありますか? さすがにひどいと思いませんか?」

「単純に人として腹が立つ。私をなんだと思っているのでしょうか」

そうやって、自分の思いを偽ることなく伝えてみればよいのです。それに相手がどう答えるか。その答えによって、相手の思惑・魂胆・正体がわかります。

相手の思いが見えれば、その次にすべきは、その思いに利用されることを拒否することです。

他人に自分を利用する資格はない。人をいいように利用していい人間など、この世界に本当はいない。いてはならないのです。

だから、もし向こうが自分たちの思惑・都合だけを見ていて、こちらの思いを理解しようとしないなら、その先関わっても、相手に利用されることになってしまうから、関わること自体を辞退する。

「もうこれ以上、私にできることはありません(したくありません)から、連絡しないでもらえますか?」と伝えることも、選択肢の一つです。


その後に残るのは、「かわいそうかも」という罪悪感かもしれません・・。

しかし罪悪感を背負わせること自体が、実はおかしいのです。その関係性が対等ではないということ。

かりにもし相手が精神的に自立していて、子供たちを平等に思いやる、まともな親であるなら、

「そうだよね、あなたの気持ちもわかるよ(わかるように努力するよ)」
「甘え過ぎていたね、これからは自分も頑張るよ」

みたいな言葉が最初に出てくるものです。ちゃんと相手を思いやれる人から出てくるのは、第一にありがとう、すまないね、という言葉です。

それが出てこないのは、「利用して当たり前」と思っているからかもしれないのです。連絡してくるのも、まだ都合のいい期待を捨てていないから。語る言葉は、不満げ、ものほしげ、そしてイヤミ。
 
「やってくれないの・・・ああそう(あなたは冷たい子だね)」という言外のメッセージをわざわざ伝えようとするのです。
 
もしそれが相手(親)の本音だとしたら、こう切り返すことになります。

「自分の都合が通らない相手を、冷たいとか勝手だとかわがままだとか、そういう言葉しか出てこないあなたが、いかに身勝手か。今の私はそう感じます」
 
「自分勝手? その言葉、そっくりお返しします」


言いなりになるよりも、相手のご機嫌をうかがうよりも、ついキツくなってしまっても、仕方ないではありませんか。言い返せるほうがはるかにマシです。

どんどん言い返せばいいし、怒りが湧いてくるなら、怒りを伝えてよいのです。怒らないより、怒れるほうが、はるかにマシ。

慈悲(優しさ・思いやり)というのは、向ける場面が違うのです。一方的に利用してくる身勝手で無理解な、どうしようもない相手に対しても、慈悲を向けることはできますよ。でもリアルな関係においては、特に自分が苦しめられている場合は、まずは怒れること、伝えること、斬って返せることのほうがはるかに大事。混同させないことです。場面が違います。

総じて、この相談者は、執着まみれでぐちゃぐちゃになっていた一時期よりも、はるかによく見えるようになっています。正しい道の途上にいるし、これまでの選択は、何も間違っていません。

伝えるために努力するは、ヨシ。そして、伝わらないとわかった時点で、それが可能ならばですが、関わりをリセットすることです。関わらねばならぬ人間は、本当はいないものです。親であれ兄弟姉妹であれ、です。
 
「そんなことはない」という声も聞こえてきそうですが、なぜそう言えるのでしょう? もし自分が苦しめている側なら、「そんなことはない」と思うのは、まさに都合を押しつけているから。
 
もし苦しめられている側はそう感じるなら、「執着」があるのかもしれません。そんな(自分を苦しめるような)相手でも、まだ愛されたい、わかってほしい、あきらめきれないという執着が。


ともあれ、この人は間違っていません。すごくよく見えてきています。

自分の感情を大事にすること。

そのうえで技法をもって関わり方に答えを出すことです。


『怒る技法』マガジンハウス

 
2023年8月9日

自己愛というガラクタを捨てなくちゃ

どんな人にも、苦しみを越える方法はあるものです。

ただし・・・一つだけ最初に降りてもらう必要があるものがあります。

それが自己愛――。

自分が可愛い、自分は特別、自分はこんなものではない、もっと違う自分を、という自意識。自分への愛着。正確には自分に都合のいい妄想です。


自分を愛する(肯定する)ことと、自分に愛着を持つことは、まったく異なります。

自分への愛着は、えてして自分が特別、自分がすごい、自分がキレイと思ってもらいたいという執着に結びつきます。


本人にとっては、それは意味を持つように見えます。自分一人の人生なら、誰も止められないし、本人がイイと思うなら、問題ありません。しかし決定的な危うさに転じることもあります。


それが、子供がいる場合です。


自分は特別、自分は輝いている、趣味に、仕事に、社交に頑張っているワタシ!という自己愛を間近で見せつけられる子供は、

それだけで、自分が二の次、いわば自己愛に満ちた親にとってのお飾りでしかないことに、やがて気づきます。

親が第一で、自分は第二、第三・・・という位置づけを見せつけられて、最初は不安と戸惑いを感じ、いずれ寂しさや疎外感を覚え、自分を信じることができず、やがて愛されないがゆえの憤りや怒りへと変わっていく――。


親が自分を第一に愛する姿は、子供にとっては、深い傷になります。

それでも親はなお、自分、自分、自分を生きようとします。あろうことか「子供ため」という大義名分をふりかざすことさえあります。

そうして自己愛に満ちた親が頑張れば頑張るほど、子供はますます置き去りにされてきます。

たとえば宗教にハマる親。そればかりではありません。お稽古、お仕事、お勉強、趣味や社交に張り切って「イキイキと輝く」親。子供の受験に過剰に入れ込む親も、根っこは共通しています。


自己愛と子供への愛情は、両立しません。


親になるということは、子供の可能性のために譲歩するということでもあります。

自分に都合のいい妄想を降ろすこと。

自分のことはさておいて、子供の成長と自立を願うこと。


それでも自己愛は強烈だから、なかなか捨てられません。

自己愛が強いと、自分をきれいに見せる小道具をやたらかき集めようとします。知識、物、肩書き、交友の広さやSNS上の記号――。

そうした小道具を抱え込めば抱え込むほど、自分の姿が見えなくなります。子供のためといいつつ子供を阻害し、深く傷つけていることにも、気づかなくなるのです。


そんなに自分が可愛いですか――?


最初にそんな問いが浮かびます。


もし親自身が苦しんでいるなら、あるいは子供が苦しんでいる・子供の様子がおかしい、だからなんとかしたいと思えるくらいに「殊勝な」親であるならば、

まず最初に、自分が特別でいたい、キレイに見せたいという自己愛(取るに足りない自意識)を捨ててもらう必要があります。


もう一度尋ねます――自分って、そんなに可愛いものですか?

捨ててみれば、ラクになれるのに。

子供も救われるのに。


すべての苦しみの根源には「業」(親の影響)が隠れています
掘り起こすことが第一歩 

 

親であることの哀しみ


『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』という作品は、親と子を引き離すことを目的とした本ではありません。

親子の間にいつのまにか生じてしまった苦しみや壁を乗り越えて、最も快適な関係性を再構築するための道筋をまとめたものです。

親にも苦しみがある。その苦しみは親の親や、さらにその親にさかのぼって始まっている。

その親との関わりから、子が苦しみを強いられることがある。

親には自分しか見えないから、子の苦しみがわからない。

子はいつしか苦しみを自覚し、親にわかってもらえないことを悟ると、苦しみを越えるための闘いを、独りで始めることになる。

子が決意しなければ、親子の間に生まれた苦しみは永久に続く。


いずれかが気づかなければ、そして越える努力しなければ、苦しみが消えることはない。


苦しみに気づかず、何も問題がないかのように思い込んで、あるいはそのように装って、関係を続けていく親子もいる。

それは幸か不幸か。けっして幸とはいえない。
なぜなら苦しみは存在するのだから。
 
遅かれ早かれ、その苦しみは顕在化する。ごまかしきることは、残念ながらできない可能性のほうが高い。
 

親のほうが立場は強く、思い入れも強いことが多い。子はそもそも圧倒的に大きな親を見上げるところから人生を始めて、その後も親なくしては生きられないという制約の中にあって、さらに親への愛着も強いから、

どうしても親の思いにただ従うという時間が増えていく。


親との関係で宿った苦しみを自覚するには、時間がかかる。

苦しみがあることを認めることにも、勇気が要る。

まして苦しみの理由が親から始まっていて、そういう親に苦しみを感じていて、その苦しみを越えなければと決意できるのは、よほど強い子供である。



問題は、目覚めた子供が、苦しみを越える闘いを遂げることができるか--だ。

とても長く、そして一人きりのつらい時間を過ごすことになる。

その間に、この世を生きる上でつきまとう、さまざまな新たな苦悩も抱えることがある。

親との関係で背負った苦しみ以外に、苦しみを背負うことも少なくない。

とても聡明で、強くて、勇気を備えた子であっても、その試練を越えることは簡単ではない。

 
ある親は、わが子が『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を読んだと知って、自分も取り寄せて読んだそうだ。

子の思いを理解しようと努力できる親は決して多くはないから、この親は、その点だけでもかなり尊く立派だと思う。

そして本を読んでわかったことは、「子供は、私のことが嫌いなんだ」ということだそうだ。

苦笑することさえ可能な感想である。この親はえらい。そして優しい。

親としての自分が嫌われていることがわかったということは、子の思いを一つ理解できたということ。思いがわかった。その時点でほんの少し子に近づいたということ。

どこが、なぜ嫌いだったかを理解できれば、さらに一歩近づけることになる。

自分が嫌われる理由がわかれば、気をつけることも可能になる。自分が変わることができれば、子は許してくれるかもしれない。もう一度好きになってくれるかもしれない。そんな可能性も見えてくる。

子はもともと親を愛し、親を好きなところから人生をスタートする。親はすでに多大なアドバンテージを得ている。多少欠陥があっても、時に間違いを犯しても、子は許してくれるし、好きでいてくれる可能性が高いというアドバンテージだ。

そのアドバンテージを活かす努力ができるかどうか。
 
子にとってどんな親かは、その点にかかっている。


嫌われたり、遠ざけられたり、口をきいてくれなくなったり、縁を切られたり――そのこと自体は、いつでも起こりうる。子は子の人生を生きている。親とどう関わるかは、大人になった子が自由に選んでいいことのはずである。


大事なことは、親が子の思いをわかろうとしているか。
 
わかったことに対して、親がどんな努力を始めるかだ。


子の思いを理解しようと努力を始める親は、立派だと思う。

子に嫌われているとわかって、その事実を受け止められる親は、強いと思う。

嫌われている自分を自覚して、自分が変わろうと努力していく親は、最上級に尊い親だ。

なぜそういえるかといえば、子が望むことは、まさにそういうことだからだ。

自分の思いを理解して、変わろうと努力してくれる。

それだけで涙が出るほど嬉しいものだ。

子にとって、やはり親は世界で二人だけの、しかも人生の始まりにいてくれた人たちだからである。



他方、違う受け止め方をする親もいる。

自分が嫌われていることを知って動揺する。
そんなことがあるものか、あってたまるかと異議を唱える。

自分は親なんだぞ、できることはすべてやってきたんだぞ、これだけやってきた親をなんだと思っているんだ、親である自分に背を向けるというのか、何かがおかしい、原因はなんだ、その原因は自分ではない、他の何かだと訴える。


親としてできることはすべてやってきた--。


本当か? 親は、子の何をわかっていたというのか。本当にわかろうとしていたのか。

子が背を向けたとして、なぜそれが他人のせいになるのだろうか。

もしかしたら、自分自身に理由があったかも--しれないのに。

指摘するのは、あまりに残酷なことにもなりうるけれど。


親としてできることはすべてやってきたというのは、端的に嘘だ。しかも傲慢な言葉だ。

なぜなら、そうと認めるかは、子供が決めることだからだ。

どんなに親がそう信じても、子が求めていたことがそれとはまったく違っていたら、親にできることをすべてやったとは言えない。

親が信じる愛情や、できることはやったという自負は、言葉にするのは哀しいことだが、親の自己満足でしかない。


哀しい自己満足だ。


親が自分の愛情を採点するのは、間違いである。正しかったかは、親と子の関係に如実に表れる。親の自己採点が正しい点数ということではなく、点数を決めるのは、親を間近に見る子供の側である。
 
子を愛する親にできることは、子の思いを最後までわかろうと努力し続けることだ。

それが親に唯一できること、愛情の最初であり最後である。


『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を子供が読んでいたと知って動揺する親がいる。

だが動揺している時点で、自分が危うい勘違いをしてきたことに気づいてほしい。

この本は、親と子のどちらの味方につくわけでもなく、ただ互いをわかり合うための道筋を論理的にまとめただけの本だからだ。

この本は、ただの道筋。ニュートラル(どちらにも偏らない)真実が書いてある。

この本を読む子の姿に動揺したり、あるいはこの本を読んで、自分のあり方を突きつけられた気がしてショックを覚えるということは、

単純にそれだけ、子の思いが、そして親である自分の姿が、見えていなかったということに過ぎない。

それは、子への愛情というより、自分への愛着だ。

自己への愛着が強ければ強いほど、子の思いを知った時に衝撃を受ける。
 

この本と関係なく、世の中に無数に起きている出来事だ。


親が受ける衝撃は、親が哀しい無知の中にいた証拠といえる。

その衝撃こそが、本当の親と子の関係のスタート地点になる。

 


この本は、この場所は、子の味方だが、親の味方でもある。

幸せな親子になれるように--その願いしか語られてない。


せっかく親と子になれたのだから、
わかり合えるというはるかな地平をめざして、
頑張るしかないではありませんか。




 






親であることの狡さ、気づいていますか?

これは、仏教およびこの場所においては、もはや古典ともいえるテーマですが、

子供のあり方について悩んでいるという場合、

少なくない確率で、親自身が原因になっている(影響を与えている)ことが、ごく普通にあります。

子供の問題とは、すなわち親の問題である――

そういえるケースが多いのです。


なぜかといえば、

1,親は、子供が生まれた時から、基本的に強者である(立場が強い)。

なにしろ子供は自分一人では何もできず、言葉も話せず、親の一挙手一投足から生き方を学び(模倣し)、親の顔色をさながら自分の生死がかかっているかのような必死な思いで見つめ続けているのです。

親が怒れば、怯え、恐がり、傷つき、自分が悪いのではないかと自分を責め立てる。

親の機嫌がよければ、ああよかったと喜ぶ、安堵する。

子供にとって、自分が生きていられる場所は、家しかない。逃げ場はない。必然的に、親の顔色をうかがう他ない。

そのしんどさ、不自由さは、親の側はわからない。なぜなら家のことを決められるのは、親だから。

そういう圧倒的な立ち位置の違いがある。そのことが親にはわからない。

わかっていない時点で、親は強者なのです。


2,親は、その言葉、ふるまい、表情、顔色、すべてにおいて、子供の心に影響を与えている。

そもそも人のあり方が周りに及ぼす影響というのは、甚大なもの。

まして親子のように、朝から夜までそばにいて同じ空気を吸っているならば、なおさら。

それでも子供は最初は小さな生き物でしかなくて、親にとっては気兼ねが要らない。けっこう素の自分をさらしてしまっている。

その素の自分の中に、不安定な機嫌や、しつけや過干渉という名の妄想や、親がその親から受け継いだ心のクセ(いわゆる業)が潜んでいることに、

親自身は気づいていない。

そもそも人間は、自分のあり方に無自覚なものだから。

そして心のクセは、自分の日頃の姿の根底をなすものであって、自分の目に映らない(見えない)ものだから。


もちろん、親とは関係ないところで子供が問題を背負い込むことも、当然少なくない。

だが、子供のありようというのは、何が原因かは簡単にはわからない。場合によっては、かなり根の深い原因が隠れていることも多い。

だからこそ、あらゆる角度から、さまざまな可能性を検討する必要がある。

これは、病院で精密検査するのと同じ。いろんな検査をして病院の原因を突き止める。
場合によっては、本人が予期していない、「まさか」と思うような原因が明らかになることもある。

問題は、何が原因かわからない、もしかしたら親自身が原因かもしれない、その可能性が明らかになっても、親の側が冷静に、真摯に、謙虚に受け止められるかどうか。

親のあり方が変われば、当然、子供への影響も変わる。

親は強者にして、甚大な影響力を持っている。

親が問題である場合は、その負の影響力はすさまじいし、

親が子にプラスの影響を及ぼせる場合も、その力はかなりのものだ。

結局、最も大事なことは、子供の問題というのは、子供だけが問題(子供が変わればいい)というわけではなくて(親はついそう期待しがちだけれど)、

むしろ親のあり方も含めた、あらゆる角度からの原因とその改善策を探求しなければ、という親・大人の側の覚悟なのだろうと思う。これは真実。


子供の問題を抱え込んだ親の心痛や苦労は、察するに余りある。その点は本当に同情するのだが、

でも、自分のあり方を見つめるくらいは「どうということはない」(いさぎよく見つめよう)というくらいの覚悟がなければ、

子のあり方について悩んでいるとさえ、本当は言えないのではないかとも思う。


本気で子を思うなら、親が自分自身を越えていかないと。


この場所でずっと伝え続けている、普遍的なテーマです。

 

 

 2024年10月