中学受験に大切なこと1


この時期になると、受験の話題が増えますね。特に中学受験。

中学受験をめぐって印象的なのは、

子供以上に親・塾の先生がのめり込んでいるらしいこと。

身につけるべき知識・知的能力とはどういうものか(「勉強」の背後に潜む「本質」)をつかんでいる大人は多くないかもしれないこと。

無我夢中で突入して、合格・不合格をめぐる悲喜交々で終わってしまうこと。


結局、どこの中学に受かった、落ちたといった物差ししか、大人たちの中になさそうな様子です。もちろん一部に当てはまる印象にすぎませんが。


中学受験を“一大行事化”しても、あまり得るものはない気もします。一大行事化とは、「人生がかかっている」と思い詰めてしまうほどのプレッシャーを感じること。


中学受験に受かること以上に大事かもしれないことは、

〇学びには、高校、さらに大学へとまだ先のステップがあって、仮に中学受験に失敗したとしても、その後に「挽回」することは、かなりの確率で可能であること。

〇中学受験にプレッシャーを覚えるより、もっと大きな目で“知的能力”を見て、その一端を身につけるきっかけとして、中学受験を利用する――くらいの鷹揚さ(長期的視点)があってもいいこと。


〇どんなにハイレベルな入試に見えても、人間が手にしうる知的能力は、それほど変わらない。その先の中学・高校で学ぶ内容も、それほど変わるわけじゃないこと。


中学受験という通過儀礼に囚われるより、将来世の中を渡っていける、あるいは高校・大学入試につながる知的能力を身につける”きっかけ”として利用するくらいのほうが、得るものは大きく、仮に失敗しても失うものは少ないのではないかと思います。
 

一番危険なことは、親や先生たちが中学受験を過大視して、子供を煽って、追い詰めて、受かった、落ちたという結果だけで一喜一憂してしまうこと。これは子供にとっては、残酷かつ意味がないことです。

子供はまだ小学生。勉強する意味や面白さを理解していない子のほうが(おそらく)大多数。まして、試験に求められる知的能力がどういうものかを把握できるわけもありません。

そもそも中学に受かること・落ちることが、それほど重大なことなのか、ピンと来ていない子供だって少なくない。正直、それでよいのです。この年頃の子供は、勉強そのものより、友達と遊んだり、いろんな体験をしたりすることで、心を育てていく過程にあるからです。


つづく



同じ時代を生きる人に向けて


1月中旬にポッドキャストの収録がありました。


2024年2月公開予定
Amazonポッドキャスト
反応しない練習エクストラ【希望編】
大人になった僕らは今どう生きるか


チーム内で議論もありましたが、素通りすることは、自分の思いから乖離するということで、能登半島地震のことについて冒頭触れさせてもらいました。

今回は残りの内容も、時勢を意識したものになりました。鮮度が落ちやすくなる恐れはありますが、それでも今回は真面目に、社会の現状を踏まえて「希望」を語ることにしました。

今回はポッドキャスト3部作の完結編。告白編、脱走編に続く希望編。かなり真面目に語ってしまいました。なぜ出家したのか、なぜ結局日本に帰ってきたか。よく聞かれますが過去のポッドキャストで答えていなかった部分を、ひと通り話してみました。

最終的に伝えたかったことは、シンプルですが、きわめて大事なこと――

 


人生には希望が大事。

世界が殺伐とした荒野になってしまっても、人間は希望の種をまき続けるしかない。

自分も続ける。新しい場所で希望を育てる活動を近いうちに始めたい。

世界も、人生も、まだまだ続く。

希望をもって、生きてゆきましょう――。


 

心からの願いです。

毎回、アレを話せばよかった、コレはこう話すべきだったと反省が出てくるのですが、時すでに遅し。せめて思いの熱量だけは伝わってくれるようにと祈るしかありません。



本当にこの世界には痛みが満ちています。

これだけ苦しみが溢れているのに、世界は「執着」にとらわれたまま。



限られた時間の中で何ができるのか、歳月を重ねるほど、考えるようになった気がします。




2024年1月25日




心を壊しているもの2

 

 「頭がいい」も「学歴」も、それだけなら妄想にすぎません。


本当の頭のよさとは、社会の苦しみを減らし、幸せを増やす知性のこと。

本当に頭がいい人を大事にするのが、成熟した社会。

頭の良さを社会のために使うことに必死にならない人間をもてはやすのは、未成熟な社会。
 
人々がまだ気づいていない問題を見つける。方法を探す。新たな価値を創造する。課題を解決する。社会に還元する。

それこそが学びの、教育の目的です。そこにたどり着いていない知性は、知性とは言えない。途上にすぎない。
 

そんな成熟した、いい意味で厳しい価値観(評価の基準)が、社会に定着したら?――百年経ったら、世界はどれだけ変わるだろう?

心が持つ力は凄まじく強いのです。世界を変える力を持つ。その心を育てるのが、教育です。


まずは、一人一人が妄想から目を醒ますことだろうと思います。

「勉強ができる」「有名大学を出ている」程度の妄想を「わあ、すごい」なんてヨイショしないこと。
 
消費しないことです。見ない、聞かない、買わないこと。文字通りの「オワコン」にしていい。
 

人生は、もっと自由でよいものです。
自分にあったやり方で、好きな場所、好きな道具、好きな順序で、自由に学べばいい。

十代になったら、将来への準備も考える。
準備して、社会に出て、自分らしい人生を生きる。
自分なりのやり方で、この世界に貢献する。

そのために学ぶのです。


ちなみに、形骸化した学校の勉強に縛られず、「本質」を最初から学ぶようにすれば、学校でやる6年分の勉強は、半分以下の期間でできるようにも思います(ここは異論もあるかもしれませんが笑)。


学ぶべき<本質>がある。
本質を外さない<学び方>がある。


この二つをそろえれば、必要なことを学び、自分の頭でしっかり考え、自己ベストの生き方をまっとうし、しかもちゃんと社会の役に立ってくれる人間が育っていくのではなかろうか。そんな気がしています。


そういう教育=学ぶ仕組みを、これから個人的に作ってみようと思っています。




2024年2月公開予定
Amazonポッドキャスト
反応しない練習エクストラ【希望編】
大人になった僕らは今どう生きるか から
※音声ではもっとカジュアルに語っていますが、伝えたかったことは上記の通りです。



心を壊しているもの


心を壊しているものは、「教育」かもしれません。戦後から70年以上、いやもしかしたら明治期から百年以上変わっていない、社会停滞の隠れた犯人かもしれません。

教育を通しての価値観の摺り込み・・・

「勉強とは、教科書・参考書・ドリルを使ってやるもの」

「学力の評価はすべて、学校のテスト・入試で測るもの」
 
「成績が優秀であることが、それだけで価値を持つ」など。
 
でも、教科書をはじめ「これが勉強だ」「試験に出るぞ」とされている中味は、一部の大人たちが仕切っていて、面白いか、興味が持てるか、そこで得た知識や知的能力が、社会とどうつながっているのか、といった問いとは関係がない様子。

そうした「勉強」という思い込みに縛られている教育産業やメディアが発信する情報もまた偏っている可能性は少なくありません。


教科書に載っているのは、意味が抜け落ちた概念の羅列・・・坊さんになった今の私でも、教科書を開くと、正直ウンザリします。数ページも読みたいと思えないのです(すみません笑)。

中味はつまらないのに、「テストに出るぞ」「卒業できないぞ」「もっといい高校へ、大学へ」と、窮屈な学校システムへと子供たちを追いやり、

テスト、点数、成績、内申書、偏差値、順位付け、学校のランク付け、一部の有名校、難関大学を賞賛する社会の風潮を通して、

子供たちを煽って、追い詰めて、無理やり勉強させ続けて、もう一世紀近く・・・でしょうか。

面白くもないし、知的能力も育たない。試験で点を取るための勉強は、知的能力を鍛えるというより、特殊技能を身につけるものにすぎない。
 

その特殊技能が、どれほど社会に役立っているか。それは、今の日本を見れば、ある程度測れるような気もします。

何十年にもわたる停滞と委縮。「頭がいい」ことが、単純な学歴勝者を意味するようになり、メディアの消費コンテンツになり下がってしまった現状。


閉塞したこの社会をどう変えるのか。

人間が抱え込んだ苦悩と課題をどう解決するのか。

社会への信頼と未来への希望を、どうやってこの世に増やすのか。


そうした最も価値ある問いに、頭がいいとされる大人たちが悩まない。
 
今の教育・学校・受験のシステムが作り出しているのは、社会全体の思考停止と、学歴勝者の自己満足。


こうした現状を繰り返しても、未来永劫、社会は変わりません。発想が止まっているからです。
 

結果的に、本来もっと自由でいいはずの生き方が制約される。歪みが生まれる。未来の可能性が潰される。
 
社会にとって大きな損失だと思うのですが、はてどれくらいの人たちが賛同してくれるのでしょう。
 

今の社会が哀しいのは、成績・学歴で測られる「頭のよさ」を礼賛する風潮に、異議を唱える声が少ないように見えること。

学校とは、勉強とは、教育とは、「こういうものだ」(これしかない)という思い込みが、ますます拡大・定着しつつあるように見えること。
 

学びも教育も、本当はデザイン(設計)してよいものです。もっと自由で、創造的なもの。
 
一人一人が自分らしく生きられること。
新しい社会を創造していく力を身につけること。
 
そのための学び・教育であるはずなのに、「この程度のもの」とされつつある現状に、もっと疑問を持っていいと個人的には思うのだけど。
 
 
つづく
 

2024年2月公開予定
Amazonポッドキャスト
反応しない練習エクストラ【希望編】
大人になった僕らは今どう生きるか から
※音声ではもっとカジュアルに語っていますが、伝えたかったことは上記の通りです。



この世で最も価値ある営み

 

世の中で最も意義(価値)があること・・・それは、人が生きるため、世が続いていくために、必要なものを創り出すことにあるような気がします。

たとえば、食べるものがなければ生きていけない。だから、食べ物を作る仕事こそが最も(というと語弊がありますが、あえてそう言ってみましょう)価値がある。

なくても生きていける・・ものは、「豊かさ」ではあるけれど、それでも、なければ生きていけないものを作り出すことを、人と社会は最も尊重しなければいけない。リスペクトの順序とでもいえるもの。

子供を育てることは、その点で、最も尊重されるべき価値あることです。

新しい命こそは、本人がこの先この世界でたくさんの可能性を体験できることを意味する。

親になった人がこの世に生きた証にもなる。

この世の中を遠い未来に支えてくれるであろうことでもある。


なおこうした真実を語ると、「私は結婚していないし」「子供もいないし」といった「自分寄せ」の反応をしてしまう人が出てきます^^。

認められたいという欲求が作り出す自意識が、自分に当てはまらない声(見解)を聞いた時に、「私はそうじゃないんだ」という自己否定感(妄想)を作り出してしまう。

でも、それは正しい理解ではありませんよね。

単純に、人それぞれに生き方が違うというだけ。

自分の人生に価値を見出すのは、自分自身。

どのような人生を生きようとも、自分への肯定は自分一人で作るもの。

誰かの見解に自分を当てはめること自体が、妄想の拡張なのです。

※だから世の中の話題でやたら意見の衝突が生まれているのも、本当はおかしいのです。あくまで「仏教に基づく」「この場限りの言及」ですがw。


⇒ ここから「子育てはほんとはもっとシンプル?」に続きます。

 

 

 




子育てはほんとはシンプル?2


子供は、生き物としては、すごくシンプルです。妄想を残さないから。


シンプルな子供に、親ができること・すべきことは、やはり、子供の姿をよく見て、子供が求めていることを理解して、その都度与えてあげること。それに尽きるような気がするのですが、いかがでしょうか。

生き物としての子供が求めるものは、それほど複雑ではないはず・・・たとえば「大泣きしている」姿を見た時に、

なぜ泣いているんだろう?と理由を探って、どこかに不快があるのか、体の苦痛があるのか、求めているものがあるのか、本人もよくわからず泣いているのか・・・大きくいくつか分けてみて、

不快があるなら、ケアするし、

苦痛があるなら、必要そうならお医者さんに診てもらうし、

何か求めているものがあるなら、応えるかどうかを決めることになるし、

本人もよくわからず泣いているなら、これはもうどうしようもないので(笑)、泣きやむまで「やれやれ」とお付き合いしあげることかもしれません。


生き物が求めるものは、本来そんなに難しいものではないのかも。子供もあれこれと全力で反応して訴えてきているだけで、「親の手に負えない」ことはないのかもしれません。

「手に負えない」のは、子供のせいというより、親の側に理由があるから?・・・だとしたら、その理由を自覚して、取り除けば、親としての基本だけに帰れる。するともっとラクになれるのかもしれません。




子育ては、シンプルなほうがいいですよね。子供の将来については、世の中に合わせる必要もあって、その部分は、親個人の経験だけでは追いつかない部分もあるかもしれない。その部分は人に助けを求める必要はあるけれど、それでも親たちが思うほど難しいことではないかもしれない。

いや、難しくないはず。難しいはずがない。難しくならないように、生き方も、育て方も、工夫する。というか、コレだけは間違いないという親としての基本だけ、しっかり心がけていれば十二分。




難しくない子育て――そうした本来の姿を取り戻せれば、親と子は、わかりあえる友だち同士として、生きていけるかもしれません。

なにしろ親の自分だけでは得られない、もう一つの人生を、さらなる未来を、間近で見せてもらえるのだから。

 

人生が倍になる。たいへんだけれど、楽しさもたくさんある――。


本当の子育ては、そういうものじゃないのかなと妄想(?)しています。


子育て中のご家庭に、たくさんの幸せが訪れますように――。

 


2024年1月14日

子育てはほんとはシンプル?


世の中で最も意義(価値)があること・・・それは、人が生きるため、世が続いていくために、必要なものを創り出す営みにあるような気がします。

たとえば、食べるものがなければ生きていけない。だから、食べ物を作る仕事こそが、最も(というと語弊がありますが、あえてそう言ってみましょう)価値がある。

なくても生きていけるものは「豊かさ」ではあるけれど、それでも、なくては生きていけないものを作り出す営みを、人と社会は、最も尊重しなければいけない。リスペクト(社会的価値)の順序とでもいえるもの。


子供を育てることは、その点で、最も尊重されるべき価値あることのように思います。

新しい命は、本人がこの先、この世界で、たくさんの可能性を体験できることを意味します。親になった人がこの世に生きた証にもなります。この世界を未来に支えてくれるであろうことでもあります。


そうした価値ある営みが「難しい」はずはありません。難しくしてはいけないのです。なぜなら世界の「基本」だから。

基本が、過剰に難しくなっていること自体、何かがおかしいのです。


たしかに子育ては、神経も使うし、責任もあるし、苦労が多い仕事です。子供の健康や身の安全は、それこそ親にとって、自分の物事を越えた関心事・・・その点で子育てはラクではありませんよね。


でも親にできること・すべきことは、よく観て(観察して)、その都度必要なものを与えること。それ以上はないはずだと思うのです。自分で与えられないものは、外の人たちの助けを借りる・・・身内、友人、お医者さんと、保育士さんなど? でもやっぱり、観て、あげるという基本は変わらない。


よく観て、必要なものを与えてあげることを「ケア」と呼ぶとすれば、子育ては、ケアをちゃんとすればいい(十分)ということかもしれません。

しかも、ケアというのは、そんなに難しくないかもしれない。なにしろ子供には、持ち前の生命力があるから。

それは他の生き物の姿を見ていれば、なんとなくわかる気がしてこないでしょうか。親はできる範囲でのみケアする。するといつの間にか成長して、やがて親を必要としなくなる時期がやってくる。

もし子育てが難しいことなら、この世界に生きる多くの生き物は、すでに滅んでしまっているのでは。人間だって、もっと過酷な状況においても育ててきた。育ってきた。

子育ては、ほんとは難しくない・・・よく観て、その都度必要なものを与えてあげる。それが育てること、親であることの本質なのです。



ではなぜ、子育てが難しいものに思えてくるのか。「子供がその都度必要としているもの」を越えて、大人の側が難しくしているのかもしれません。

そう、親の側の妄想・・・一見子供のために見える過剰な心配・不安・杞憂や、期待過剰・過干渉・過判断・過反応。

親の側の妄想と、別の原因あって抱え込んだストレスと、引きずってきた執着と、さらには心の内で繰り返される業と・・・。

これは、いわば親の側で自家発電しているもので・・・幼い子供には想像もつきません。まさかお父さん・お母さんが、そんな心のビョーキを持っているとは・・・(笑ってもらっていい部分ですw)。

つづく

 

入試に向かうみなさんへ

 

新年が始まりました。
看護師国家試験まであとひと月ですね。

この世界にはさまざまなことが今も起きています。
地震のあとで人生が変わってしまった人もいます。

でも確実に正しいのは、今できることがある人は、今できることをしっかりやるということです。

働ける人は働く。勉強できる人は勉強する。

みなさんのように国家試験に挑もうという人は、最後までやり遂げる。

世の中(社会・経済)というのは、すごいシステムです。そうやって、「できることをやる」ことで、人・物・お金・情報が回り、遠くの人たちを助けることが可能になるのです。

「無力だな」と思う人も、実は自分の日常をしっかり生きることで、違う誰かを支える力になっていたりします。それが社会というものです。

皆さんにできることは、もうこの時期に来たのだから、試験当日に向けて、しっかり一日を生きることです。

なすべきことは、見えていますよね。それを妄想なくやるだけです。



試験は「言葉」でできているので、毎日しっかり言葉で考えることです。妄想のスキを作らず。

参考書や過去問を読み、問いを言葉で理解し、言葉で答えて、「なぜこれが正解になるのか」を言葉化して、「上手な覚え方」を工夫して(※いくつかの知識をセットにしたり、略語化したり、いくつかの問いをまとめる原理・体系・発想を言葉化したり・・・)

声に出したり、書いたりして、試験に必要な知識をとにかく「言葉にする」ことなのかなと思います。

言葉にするとは、勉強を「作業」にしてしまうことでもあります。声に出して説明するとか、記憶を定着させるとか、書いて覚えるとか、一度やった問題をもう一度ざっと解いて、解けるかどうかを確認するとか。

ぜんぶ「作業」です。もし不安や雑念など、メンタルが崩れかけたら、作業に帰ってください。妄想に勝つには、作業です。


ほかにもいくつか、試験直前に役立つ心がまえがあるので、お届けする予定です。

第一弾は、とにかく作業をしっかりと です^^。

 

*草薙龍瞬は看護専門学校で医療倫理を担当しています。看護学生のみんなに向けてのメールから:


2024年1月12日

次の使命

 

そろそろ私も命の閉じ方(人生の卒業)に備えなければいけない。

そうした現実をふまえての、最近思うこと。

テーマはやはり、この国・この世界の未来だ。

未来を育てることに、残りの命は燃やさねばなるまい。


親として未来を育てる仕事は約20年。

教師・先生としての仕事は何年か? 中高が基本3年だから3年? いや、実はもっと長い。

 

先生の仕事は、本人の心を育てることだ。体験する機会を提供することから始めて、親にはできない知識・技術・ノウハウなどを伝えていく。

「世の中を渡っていける人間」に育ってもらうための訓練。それが先生の仕事だ。


育つには時間がかかる。親の元を離れることができたとしても、しばらくの間は(決して短い期間ではない)、みずから体験を重ねて、「できる」レベルに持って行って、さらにその「できる」が社会に通用するレベルにまで上達する必要がある。


いわば「社会的立場を確立する」こと。目安としては30年。



つまり、教育には30年必要ということ。本人の学びを促す役割を追う大人たち、いわゆる「先生」は、30年かけて、ようやく自分たちの「教育」という名の努力が、実ることになる。

苗木が大きな樹木に育つ期間と同じくらいだ。

教育は、30年後の実りを見すえて、今を育てるという大きな事業だ。


この命の次の段階は、この事業を始めることにあるらしい。

 

※十代までのお子さんをお持ちの方は、お名前・自己紹介・簡単なご家族構成を、興道の里までお寄せください。教育・子育てに関する話題を個別にお届けしていきます。

(興道の里については、このブログの<活用ガイド>をご覧ください。草薙龍瞬については、著作のほうでご確認いただけます。)




世の苦しみが増えるほど


世界に苦しみが増えるほど、自分の命の使い方にいっそう慎重にならねばなりません。

苦しみを増やしている場合ではなく、

自分の内なる苦しみは早めに手放し、

自由になった心を幸せのために使う。

そして、自分以外の誰かの幸せのためにも使えれば、なお理想。


そうやって、苦しみが増えゆく世界に対して、自分にできる範囲で、幸せを一つでも増やす。


そうした心がけがあれば、世の中のバランスが少しは取れるような気がします。
 
 
つつしんでおのれの務めを果たすのみ。
 
生きてゆくのみ。



この一年をどう過ごすか~2024年始動



始動しようと動き始めたら、痛ましい出来事が起きていたことを知りました。

こうした時・・言葉はあまり意味を持ちません。


悲の心をもって、謹んで受け止める。

現実を見据えて、自分に何ができるか、何をすべきかを考える。

いつも以上に冷静に。



すると、やはり、第一に足元の自分の人生をしっかり生きる ことが基本であることに帰ります。

楽しい時間を過ごせる人は、おのれの幸いを自覚しながら、ちゃんと楽しむ。

悲の心を大事にして、できることを行動に移していく。

そういう当たり前を生きることが、社会にとっての力になります。

自分にとってのノーマル・日常こそが、実は社会を支える力になっているのです。

 

唯一危ういのは、自分のことしか考えない姿です。

人の痛みに想いをやれない姿だけは、慎まねばなりません。
 

人としての真っ当な姿とは、


悲の心で現実を見据え、

みずからがなすべきことを謹んでやること。



これが終始一貫通すべき生き方なのかもしれません。過去も、今も、これからも。


悲の心を保ちつつ、おのれの人生を生き抜くことができれば、誰かにとっての力になる。

おのれを生きることが、人を、社会を支えることにもなる。


理想とすべきは、そういう生き方を確立することだろうと思います。


この一年は生き抜く一年です。

しっかり生きて、自分にとって最善の一年をめざすこと。

 

きっと、この一年を生きるすべての人にとって、間違いない方角です。

 

現時点でできる最善は、支援金を送らせていただくことかと心得ます。

こちらで見つけたいくつかの窓口に謹んでお送り致します。