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仕事を見つけたいという人へ

 

前提(条件設定: うまくいかない原因と正しい心の持ち方)がそろわないと、頑張ってもなかなか前に進めないものかと思います。

前提というのは、たとえば自身の性格(繰り返している反応のパターン)や動機の部分です。
 

性格については、親の影響(業)を正確に把握する作業が最初に来ます。そのためには、親がどういう性格か、どのような関係のパターンを繰り返してきたのかを、客観的に理解する必要があります。

(『大丈夫』の本を、まだ読んでいないようなら必ず読んでみてください)


性格は、親との影響から作られるものなので、もし今の性格が社会との接点・関係を作るうえでマイナスに働いているのなら、やはり精神的に自立する(親から適度な距離を取る)ことも検討する必要があります。

この点、親と一緒に生活しながら精神的に自立というのは、なかなか難しいものではあります。どうしても過去の延長を生きることになってしまうので。


動機についていえば、仕事というのは、こちらから条件をつけるとうまくいかないものです。

仕事はただの役割でしかないので、相手の求めに応えるだけです。体を使う作業を求められているなら、自分の体を使って役割を果たすだけです。

おそらくご自身の「努力」の中身が、仕事を見つけることに結びついていないことも少なくありません。たとえばその努力の中身が、過去の親からの期待や要求を反映したものである場合です。

たとえば資格・技能というのは、直接役割には結びつきません。本人は努力する価値があるものと思えるにもかかわらず(親の影響は、こうした場面で親の期待に応えることもできる、といった妄想を作りだすことに作用します)。

 

役割に結びつくものは、ほかには、なんでもやりますという意欲 あるいは 経験 というものがあります。

経験というのは、なんでもやりますという意欲によって得られるものなので、最終的に最も大事になってくるのは、なんでもやりますという意欲 ということになります。

ご自身が、意欲だけで動けているかどうか、意欲というものの上に他の雑念(条件)を載せてしまっていないか、確認してみてください。

 

動機が、社会においてきちんと意味を持つ時というのがあります。

本当に人生が動き出すのは、その時から ということになります。

 

 

2026年1月

 

 

 

 

 

学校に居場所がないという君へ

(あるお母さんへの返信から) 

 

学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。

合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。

特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、

誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。

このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。




となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。

なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。

将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした

自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。

価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。


結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。

いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。

残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。

その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。


幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。

学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。

他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。

妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。

それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。


もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、

他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。


磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。

大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。

仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。




だから、最終的に考えるべきは、

自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使う
ことだろうと思うのです。

その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。


それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。

 

本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、

行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。

難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。


同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、

学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは

将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、

それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。


どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。

自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。

3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。


これからです。




2026年1月


出家したいという人へ


ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。

「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、



過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、

過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。


あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、

自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。


仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、

そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。

(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)



もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。

形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。

けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。



心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。

長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。

自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。

それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。



職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。

その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。

本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。

しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。

それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。



<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
 

本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。

他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、

サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。


心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。

お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。

実際に「やる」「なる」ことです。

本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。

そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、

人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。



まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。

そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。


どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。


理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。


2026年1月

自分の足で立って生きる場所

この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。

生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、

いつでも扉を開いています。


この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、

一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。


この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、

自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。


この場所が大事にしているのは、

自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。

出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、

そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、

誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、

つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、

せめて、今の自分に何ができるかと考えて、

この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、

という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。


この先の世界、本当にどうなるかわかりません。

だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。



2026年1月

 

 

 

自我への誘惑と突き破る努力

『反応しない練習』を最近読んだという方に向けて

「コレは!」と感じるものがあった人は、じっくり腰を据えて実践を続けることをお勧めします。

なるべく他の本もしっかり読んで、自分についての理解を深めてください。そして、「どうすればいいか」という具体的な方法を実践してください。半年、一年と。


多くの人は、自我(自分への執着)への誘惑に駆られた精神状態で生活しています。

だからこそ、そもそも本を読まない(学ぶ必要性を感じていない)人も世の中には多いものです。それは自然なこと。必要性を感じていないのだから、どのように生きるのも完全に自由だし、本人にとっては正解です。

他方、少しでも課題を感じている人、さらには明らかな悩みや苦痛がある人は、どこかに解決のヒントを探し始めるものです。

手っ取り早く動画やSNSやインターネット、生成AIに当たる人も多いはず。ただ、こうした世界は、お手軽な情報が手に入る便利さはあるけれども、やはり「それだけ(情報止まり)」で終わることがフツーです。

スマホやパソコンの画面を眺めて得られる情報には、自我への執着や妄想を突き破る力はありません。

それは本(活字を読むこと)でも同じですが、ただ、本の場合は、最初から最後まで一貫した書き手の視点で情報を追っていくという、それだけでも大きく違う作業が必要になります。

一貫して情報を追うというのは、それだけ能動的な知的作業が必要になる。しかも最後まで読み通すというのは、動画を断片的に眺めることでは得られない「視点をもって」、明確に限定された範囲内の情報に触れ続けることになる。

一定の知的作業、いわば心(脳)の姿勢みたいなものが一貫して必要になるので、得るもの・残るものも、それだけ(動画を眺めるだけに比べれば)深くなるのかもしれません。「頭を使う」ということでもあります。


そして、そこで得たものが自分にとって価値があると思ったら、しっかり言語化するか、行動に移して「習慣化」していくプロセスに入ることになります。

そのプロセスに入らないと、すぐに自我への執着・妄想モードに戻ってしまう。

自分のままに留まるか、自分を越える可能性へと踏み出すか、二者択一だということです。

だから、一冊の本を読んで「これはいい(価値がある)」と思ったら、まずは行動し続けること、実践を続けること。

そして、一冊の本には語られていない別の知識や情報や智慧(方法)があるかもしれないと考えて、同じ書き手の別の作品に手を伸ばす、という作業が必要になります。それこそが、深める、掘り下げるということです。



ですので、前向きな感想を送ってくださった方にお伝えできる次のステップは、「他の本も読んでみてください」ということになります。

相談に来る人たちに必ずお伝えしている、たとえば『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)を読んでみてください。

読まない人があまりに多いのです(それはそれでいいのだけれど^^)。

『反応しない練習』は入門編。たしかに読みやすい。でも自我への執着を突き破るところまでは進めない。

草薙龍瞬の作品は、同じことを書いていません(本質は共通しているけれど)。必ず新しい発見・学びが得られるように作っているので、一冊読んで「コレは!」と思える部分があったら、今こそ千載一遇のチャンスだと思って、ぜひ読んでもらえたらと思います。



(宣伝ではありませんよ、それだけ大事な、新しいことが書いてあるということです笑)。



2025年12月23日


自分で生活を始めたいという人に向けて

社会から長く離れて過ごしていた人から、

社会復帰したいという希望や、実家を離れたいという思いをお寄せいただくことがあります。

状況は人それぞれに違うので、簡単なことは言えないのですが、大まかな方向だけ言葉にしてみると、

社会に出ていくというのは、長く入院していた人が日常に帰っていくことに似ている気がします。

入院していた間に筋力はものすごく衰えているから、リハビリが必要です。

「自分の力でリハビリしよう」とはあまり考えないのではないかな。たいていはその道のプロの人に助けてもらうところから始めると思います。

社会復帰というのも、おそらく似たところがあります。自分の力だけで復帰しようにも、これまでは自分自身が重かったから、社会から離れて過ごしていたことになります。

だから、重たい自分の力で自分を動かそうとしても無理。すべてがしんどく面倒なことに感じて(打たれ弱くて)、結局元に戻ってしまう可能性が高いように思います(入院中のベッドに戻ってしまうようなもの)。

だから最初は、すぐに社会復帰しようと考えないで、自分以外の人たちがいる場所に「なじむ」ことから始めることではないかな。

地元の就労支援センターとか? 独り立ちするための支援をしてくれる行政プログラムをとりあえず体験してみるとか。

多少人に慣れてきたら、軽めの仕事でもいいし、職業訓練を受けてみるのもありかとも思うし。

最初は慣れること、体験してみること・・・何も考えずに。欲張らずに。小さいところから。

どんな体験もプラスにしかならない、とりあえずやってみる、そういう思いから始めるのです。


気をつけたいことは、最初が一番おっくうで、面倒で、つらいかもしれません。ただ、だからといって、戻っても、その時に見える景色はもう十分見てきているから、意味がない・・そう思えるかどうか。

もうひとつ気をつけたいことは、持ち前の欲張りが出てきてしまって、「すぐ復帰」「すぐ稼ぐ」「すぐ一人前」「できればもっと上の、ひそかに願っていた理想の自分」になろうとしてしまうこと。

そういう欲(求めすぎる心)に飛びついてしまうと、その欲をもって、目の前の人、場所、そして自分自身に反応してしまって、

不満を感じたり、失望したり、焦ったり、「うまくいかない」と思い込んで、結局元に戻ることを選んで(正当化)してしまいがちになります(理想の壁を自分で大きくしてしまうほど、障害が増えてしまう)。

リハビリは、脚を動かすところから。それができれば立ってみるところから。「ずっと入院して寝たきりだったのだから」と思えるなら、そういうチャレンジにも入っていけます。

社会復帰も同じことじゃないかな。少しずつ。まずは外へ。そして、人へ。外で人と過ごすこと。何かをやってみること。

まずは1日、そして3日、5日。半年くらいかけて、少しずつ。


やってみてほしいなと思います。




2025・12・7


あえて親を親と思わないこと


どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。

“見える”ものは、伝えることもあるし、今後の因縁に委ねようということで秘して語らないこともある。

業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、さらに子々孫々へと続いていくこともある。

だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、その未来に向かう力は、負の業の力にも打ち勝ちうるほどに強力であることも多いことだ。

つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・どの場所・どの一族においても、せめぎ合っているものだが、後者のほうが勝っていくことも、さほど珍しくない確率で起こるということだ。

苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、幸福をもたらすものが、善の業である。

どうした場合に善の業が育っていくかといえば、代表的なものを挙げれば、子の幸せを願う親の純粋な愛情であり、悪を繰り返さないための忍耐や自己犠牲だろうかと思う。

「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」


といった強い思いを持てる誰かが出てきたときに、悪の業を善の業が上回る可能性が出てくる。



悪の業を長引かせる原因の一つとなりうるのは、その業を持った人間に執着することによって、負の業を繰り返す可能性を宿してしまうことだ。

その可能性は、自分の人生に出てくるとは限らない。別の部分に、想像もしなかった意外な場面で、不意に現れることがある。悪の業が未来への可能性を枯らし始めるのだ。

最も正しい選択は、悪は悪として冷徹に理解して、斬って捨てることだ。親として子としての情は要らない。

肉親だからこそ執着して、さまざまな“夢”を見てしまうものだが、その夢こそが、悪を悪として見抜く心の眼を濁らせて、代わりに悪の業が生き延びる土壌を育ててしまうこともある。

最も望ましいのは、「親を親として見ない」態度だ。ただの人として見る。そもそも血のつながりなど、生物学的も存在しないのだから(母親の血が胎児に流れ込むわけではないのだから)、親だった人間をあえて他人と見て、一切夢を見ず、執着せず、自分がその人の子であるという思い(妄想)をも切って捨てて、ただの人間として見ることが、正解なのである。

いわば、善も悪も、いったん自分の外に置いてしまうこと。そのことで自分が自由になれる。業さえも選べるようになるのである(かなり難易度の高い話ではあるが)。

悪は悪。だが遠い悪であって、今の自分には関係がない――それくらいに思える境地に立てるならば、あとは前を向いて生きていくだけで、悪の業が希薄化していく可能性も出てくる。

くれぐれも執着しないことだ。


業とは心のクセ・反応パターン

いわゆる性格や慢性的気分です

つい繰り返してしまう、

自覚があまりない、

そして

親から子に受け継がれる

ことが特徴です

詳しくはこの本をぜひ読んでください(筑摩書房から)

 

「宗教は嫌いです」という人に向けて

 

この場所とご縁いただいてまだ日が浅い人もいると思うので、あらためてお伝えしておくと、

・この場所は宗教を語る場所ではない。

・「仏教」と便宜的に呼んでいるが、本当は仏教でもない。

・人それぞれのテーマを解決する頭の使い方(若干おおげさに言えば知力)を育てる場所である。

そういう場所です。

付け足すなら、貪欲(過剰を求めること)が嫌い、自己愛も嫌い(自己愛とは承認欲が作り出す自己の正当化・美化)、

つまりは、虚飾も虚栄も我欲も自己演出も自己顕示も、すべてが嫌い(なんとひねくれた場所・・^◇^;)。

嫌いというのは「判断」になっちゃいますが、あえてそういう言い方をしておきます(笑)。俗世用の表現。

出家(仏教)の世界では「関わらず」ということです。



宗教とは、他人に見えないもの(理屈でもイメージでも)を信じることをいいます。つまりは、妄想を信じる(在るとみなす)ということ。

本人には「在る(見える)」のかもしれません。だからありがたいと思うし、信じることに快を感じます。

自分にとっての快・やすらぎ・満足を得るというだけなら、自分の輪郭内のことなので、第三者は関係ありません。「そのままでいい(その人にとっては正しいこと)」のです。

でも、「在ると信じる(見える)」ということは、それ(信仰)以外のものは見えなくなるということです。

周りの信じない(無いように見える)人たちとの間に、その時点で距離が生じます。

その距離は、無関心・無理解・勘違いを作り出します。



さらに利欲(信じること・信じさせることに利益がある)が絡むと、自分が信じるものを他人にも信じさせようという圧力や攻撃につながっていきます。

一見、人を救うためとか、誰かの役に立ちたいとか、それっぽい美徳・大義名分を作り出します。

しかしその動機の根底に、自分の信仰や正しさをわからせたい、もっと利益を上げたい、富、名声、権力を手に入れたいという(お決まりの)欲望が潜んでいると、

自分たちの信仰をもっと広めるため、信じさせるため、自分たちが求める利益を手にするために、さまざまな「戦略」を作り出していきます。

常識的にはありえないような利益(信じたことでこんな奇跡が!的な)や、

自分たちの信仰共同体の美しさや特別感をアピールするとか、

人の妄想(不安・心配・現実逃避願望)につけこんで、脅したり、いっそう不安がらせたりとか、

相手の妄想をぜんぶひっくるめて、自分たちの信仰にすげ替えることをもくろんだりとか(いわゆる洗脳)、

とにかくありとあらゆる無理--つまりは妄想の拡張、もっといえば侵略につながっていきます。



客観的に存在しないもの、つまりは信じない人には見えないものというのは、

存在するとは言えない(言わない方がいい)し、

存在するものと思い込んでしまえば(信じてしまえば)、その分必ず、見てもらえない、つまり認めてくれない、愛されない、放置されたり無視されたりする人が出てきます。

その最たる犠牲者が、子供や家族です。



信仰を持つというのは危うい面もあります。客観的に見れば、妄想に思考を委ねてしまって、考えない状態になるというかもしれない。現実逃避であり、思考停止。

「考えない」ことはラク。ただ言われるがままに、言われたことをやるだけでいい。

「自分は一生懸命にやっている」という自己満足が得られる。現実が見えなくなり、自分が信じているものしか見えないから、ますますこの信仰が絶対に正しい、自分は正しいことをやっていると思えてくる。


しかし客観的に見れば、周囲との距離はいっそう広がり、ちゃんと見てほしい相手(たとえば子供)を深く傷つけ、周りとの関わりを失い、

しかも信仰の実践という名目で、膨大な時間とお金と労力を奪われ続ける。



儀式的なもの(いわゆる宗教行事、読経も含まれるかもしれない)は、ある程度までは、行いに意識を使うという点で、感情が落ち着いたり、心の状態が整うという効果はあるかもしれない。

でも過剰になれば、それはただ無思考を延長させるための手段、まさに「無思考の儀式」と化してしまう。

「瞑想」なんて、とんでもない間違いかもしれない(笑)。目をつむって、現実から目を背けて、都合のいい妄想に浸る状態なのであれば。

こういうのは、瞑想ではありません。というか、瞑想という言葉が本当は間違いなのです(仕方ないのでこの場所でも使ってしまったりしていますが)。



信仰を持った親との関係で苦労している人であれば、

①自分自身の妄想グセを克服することと、
②焼きついた親の映像(姿)をも妄想として消してしまうこと

が、課題になります。

具体的にはどうすればいいか。日頃お伝えしている方法が役に立ちます。

あえて足すなら、「徹底して距離を取る」(物理的に最も遠い彼方に親を置く)ことが必要になるかと思います。

それが難しければ、自分にできる範囲で徹底して「妄想を退治する」こと。

まずは「方法」を実践することが、当面の方針です。


2025年10月末日



人に伝える資格

(ちょっとネガティブかもしれない話題:)


人に伝えるというのは、

特に、社会的な役割(職業)あるいは対価を得るプロフェッショナルとして伝えるというのは、

当たり前だけど、それだけの価値を自分が持っている必要があります。

知識、技術、ノウハウ(方法)、さらに決定的なものは、体験です。

体験がオリジナルであればあるほど、他人(人様)が聞く価値が出てきます。


たまに大丈夫かな?と思うのは、自分は伝える資格があるという装いをし、実際にプロとして活動していながら、

この場所にその分野について ‶教わりに‶ 来ようとする人がいることです^◇^;?


特に仏教、瞑想その他、心・生き方について、人に伝えるプロとして活動していながら、教わりに来るというのは、どういう状況なのでしょう?

すでに資格・立場を得たと自認しているわけでしょう?

だったら自分の力でやっていかないとね。

 

厳しい言い方になってしまうけれど、

伝える資格がないと感じているなら、資格があるフリをしてはいけないし、

伝える資格があるという看板を掲げているなら、その姿に責任を持たないと。

でないと、自分が偽者(はりぼて)、嘘をついている可能性が出てきてしまう。

それはね、絶対にしてはいけないことなのですよ。


過剰な見栄や野心など、承認欲が暴走した時に、人はつい自分以上の自分であろうとしてしまう。

「これくらい盛っても、見せかけても、通用するだろう」と妄想してしまう。いうなれば、虚飾。



虚飾は、等身大の自分を見えなくする。社会に欠かせない本当の価値を枯らせてしまう。

世の中、「なんちゃって〇〇」という立場・肩書、名乗った者勝ちという風潮も少なくないようだけれど。


この場所は、真っ当であること、誠実であろう、本物であろうという意志を大事にするところなので、

自分のあり方について悩んでいるような、真っ当な心がある人については、人として相談に乗りたいと思っています。



本当の人生は、飾り・ごまかしを捨てた時に始まるものです。

本当の自分を見極めたいという思いでいる人に向けては、応援したいという思いでいます。




2025・10



辛抱する人に贈る言葉


人生は山あり谷あり。

快調に進める時もあれば、辛抱強く日々を重ねるだけの時もある。

すべては因縁が決めることでもあるので、

倦まず、撓まず、焦らず、奢らず、

黙々淡々と日々を重ねることだけが、

正解なのだろうと思います。


2025年10月上旬

 

 

「そういう時期」という理解


9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。

サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。

でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。

来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。




今がつらい人へ――

つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。

人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。

そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。

「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。

だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。

ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。

できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。

この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。きっと。



2025・9・11



壁にぶつかったときは


子供の頃に、ラジコン・カーで遊んだことがある人は、わかるだろうと思いますが、

車が壁にぶつかったときに、同じ方向にレバーを入れていたら、いつまでも壁にぶつかったまま。

少し下がっても、ギアを入れたら、また壁にごっつんこ。

いつまでも壁にぶつかりっぱなし・・という事態になってしまいます。


この事態を抜け出すのは簡単で、いったんバックして、距離をおいて、ハンドルを切って、向かう方角を変えるだけでいい。

壁があるのは一方向だけで、他は空いているから、自由に走れる。自由に遊べる。


日常が行き詰まるときも同じ。同じ方向にしか向かっていない。つまりは過去の生き方(方角もスピードも)に執着したままでいる。

執着している自分に気づいて、「このままじゃどこにも進めない」とわかったら、いったん退がって、方向を変えればいい。

なぜその切り替えができないかといえば、同じ方向にしか向いていない、つまりは執着して手放せていないものがあるから。しかも自覚していないから。

まだ、壁のほうに「何か」があると思っている。世俗における成功とか、親と仲良くなりたいとか、もしかしたら相手が変わってくれるかもしれないとか。


壁にごんごんごんとぶつかり続けて、「なんでうまくいかないんだ」とだんだん腹が立ってきたり、

「自分にはこれしかないんだ、これまでもこうして頑張ってきたんだ」と、わざわざ自分に言い聞かせたり、

「どうせ自分は何をやってもダメなんだ」と結論づけてしまったり(何をやってもって、それしかやってないのに)、

「まあいいや、ネットやゲームで遊べるし」と、結局はラクに流れるための理由として利用してしまったり。

その他いろんなパターンがあるけれども、共通しているのは、壁ごっつんこを続けている姿。


「はい、いったん退がってください、ハンドル切りましょうか」と状況整理して伝えて、素直にそのとおりにできるなら、簡単にその窮地は抜け出せる。

「へえ、こんなにスイスイ、広々とした場所を走れるんですね」と、びっくりする声も聞ける。


この場所と縁があるのは、「壁ごっつんこ」にふと気づいて、「痛い」と感じ始めた人たち。

素直に切り替えられる人、切り替える努力を始められる人であれば、この場所は役に立てる。


自由に走れる人たちが世の中に増えてくれれば、それでいい。

他の人をはねたり、巻き込んだりしないで、自分の人生を爽快に走れる人が増えてくれたら、

というのが、この場所の願いであり、そのきっかけ(方向転換の)であることが、この場所の役割です。

『怒る技法』台湾語版、まもなく




2025年7月初旬


経営者の鉄則(仏教的な)

仏教の視点からお伝えできること:

 

経営というのは、性善説に立つと、たいてい、いやほぼ間違いないく失敗します。

性善説とは、人は信頼できる・時間を経ても変わらないという個人的印象のことです。

ですが、哀しいことに、人間の心には欲も慢もあります。

たとえば、その企業や社長、周りを批判的に見がちな性格の人が入ってくると、

その性格をもって周囲を批判し始めて、そのとき募ってきた不満を周りに愚痴や非難として垂れ流し、

それに触発されて、同調する人間が出始めたところで、組織の中に負の感情が肥大し始めます。

慢を持った人間が次にやることは、上を引きずり降ろそうという画策です。同調者を集め、上の立場の人のどこが問題かを言い募り始めます。

その理由というのは、ときに言いがかり・難癖に近いものもあります。


個人的な慢と、上の人を引きずり降ろすこと、あわよくば組織を乗っ取ってやれという個人的な強欲が、複数人の支持を得ると、

小さな組織は危機的状況に陥ります。

社長さんがお人よしで、役割に見合った内容以上の話を聞いてしまうとか、聞く姿勢を見せてしまうとか、そうしたスキ・甘さを見せると、その動きはさらに増大します。


「その人の仕事をはるかに超えてしまっている」ということに気づけるかどうか。


結局は「摘まみだす」(やめてもらう)ことが正解になります。というのも、そうした人が残っても、またその人に同調して作られた雰囲気というのは、必ずその場所を腐らせていくからです。「聞き入れる」ことに、あまり意味はありません。

こうした問題が生じた時は、いつ頃から始まったことか、誰が入った頃から始まったのか、時系列をよく見てください。

その人と話をしても、正直それほど効果は見込めません。その人物は性格で動いているのであって、話して解決できるものではないからです。


どのような組織も、必ずこうした内部の不穏な動きや声に、一度や二度は、やられます。性善説ではなく、文字通りの組織を、システムを、築いていかねばならないのです。

組織内の物事の是非というのは、立場を超えた意見交換や過剰な交流からではなく、立場・権限の上下で決めるべきことです。

それぞれに役割があり、その役割を果たすことが基本です。


本当に雰囲気のいい企業というのは、それぞれの立場・役割がはっきりしているものです。みんな、わきまえている。

だからこそ、それ以外の話も有意義なものになるし、多少の愚痴もガス抜きにはなるのです(もっともそうした愚痴めいた言葉もまた、結局、組織の生産性や円滑な運営に役に立つかどうかという目で吟味せねばなりませんが)。

役割を越えて愚痴や批判を語る人間は、その場所にとってはマイナスしかありません。早めに辞めてもらうことです。


極端な話をいえば、組織というのは、担っている人間が決めてよいのです。その組織のあり方が良いか悪いかは、上の立場、特に経営者が決めればいいのです。

もちろん企業というのは、営利・発展・維持という大前提があるので、最終的にその判断が正しかったかは、経営上の成果が決めることになりますが。


上の人(経営者)というのは、人間が時に弱く、悪にもなりうるということを前提としたうえで、それぞれが心地よく「役割を果たす」仕組みを作って行かねばなりません。

それがまさに経営というものでは?


最終的な判断は、自分で下さねばならないのです。なんでも聞くいい人ではいられないし、人に頼ることもできません。人の悪に触れることも、ときにあります。

経営者は孤独なものです。


小さな会社の社長さんは、こういう階梯をみんな進んでいくものです。

強くあらねばなりません。とはいえ、人間とは、組織とは、そういうものだと受け入れてしまえば、それが当たり前になるのですが。

強いというより、それが地(日常)になるということです。

 

 

*7月18日に大人のための学習会 自己ベストの生き方&働き方を考える を東京で開催します。課題を抱えている人は足を運んでみてください。

 

 

 2025年6月末日

 

 

 

業の活かし方&未来への遺し方

中日文化センター1日講座受付開始しました:

愛知高蔵寺 公開講座  仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 

無料相談会つき

申し込み&お問い合わせ先 高蔵寺中日文化センター 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html

*「わたしが覚えているあの日の幸福」
思い出&エッセイを募集します。応募くださった方にもれなく当日に特製ポストカードをプレゼント。
(※個人的な内容を省略し一般化したうえで、当日の教材内で紹介させていただくことがあります/匿名・ペンネーム可)
応募は koudounosato@gmail.com まで


(オープン・カレッジの受講生の方から)

善い方向に導く業とはどのようなものでしょうか?

また、悪い方向に導く業の連鎖を産まない、正しい親子関係とはどのようなものでしょうか?

人生を作る要素として、〇〇と因縁があり、因縁はコントロールできないけど、無常でもあるので、変化する部分もあるとのこと。

親と縁を切っても、そこは切っても切れない、仕方のないものだけど、たしかに人生を作る要素だなと思いました。


人生の目的とは何か?についても考えました。結局、ヒトは自分が生きた証をなんらか後世に残したいと思うものなのかな?と思いました。

そのような思いは、自分の生きた証を残したい欲、〇〇欲?みたいなのものとは違うのでしょうか?

自分自身の人生の目的を考える良い方法があれば教えてください。大それたものではなく、慎ましく穏やかに過ごす、とかでも良いのかとも思うのですが、

これだ!と自分で思えるものをどうやって見つけるのが良いのでしょうか。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 ※初めて聞く人にとっては、あやしげな言葉に聞こえるかもしれませんが、性格や慢性的な気分のことを、仏教の世界では業(ごう)と呼んでいます。心を理解する工夫のひとつだと思って、気軽に読んでください^^)


業というのは、事実として存在する反応のパターン、心のクセなので、正確にいうと、善いも悪いもありません。


今回の講義で取り上げたように、悪は、自分にとって苦しいか、誰かを苦しめる時に成り立ちます。

業が自分を苦しめるなら、悪業です。その場合、

①業が苦しみをもたらしている、つまりは悪であると自覚する。 

  ↓

②まずは原因となっている関係性から距離を置く(外部要因を最初に取り除く)

  ↓

③自分の業を自覚する。軽減・解消する練習をする。

という手順を踏むことになります。

(※詳しくは『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を参照)


もし親子関係が、その業の原因であるなら(その可能性はきわめて高い・・原因である可能性は95%くらいかもしれない・・印象にすぎませんが)、

その親子関係を解消する、つまり親と距離を取る(反応しないでいられる距離)ことが、第一歩になります。



面白いのは、悪業であっても、善業として働く可能性もなくはないということです。

その場合の善は、”関わり”において発揮されます。たとえば、承認欲の不満がある → 頑張らねばと思って頑張ってしまう(業)→ 完璧主義で自分が疲れるし、そばにいる人も疲れさせてしまう → でも仕事においては、それが緻密さとして評価されることもある

という場合は、自分の内面においては苦しみだけれども、その業のおかげでいい仕事ができている、ということもありえます。


業の善し悪しを決めるのは、第一は「自分にとって」ですが、第二は「関わりにおいて」だったりするのです。




「生きた証」は、遺したい人は、何を遺せるかを考えて、できることをやってみることになります。

でも、それが執着になってしまったら、求めすぎ(妄想)ということになるので、「遺せる範囲で考える」というのが、一番バランスが取れた発想になるかと思います。

遺してもいいし、遺さなくてもいい。それくらいの吹っ切れた感覚が、執着しないということです。


遺せたとしても、それもまた自分の満足にすぎなくて、世界はどんどん変わっていくし、生まれ変わっていくし、

生きている命は自分のことで精一杯だから、去っていったもの、過去の遺物というのは、未来においては、ほぼ存在しないに等しいものです。


結局、大切なことは、自分が、たしかに存在する今に、どう向き合うかという一点のみです。

心に苦しみがなければ、それが最上のゴールだし、正しい今の過ごし方ということになります。


何かを未来に遺す・残すというのも、自分なりに、

自分以外の命を想う(その命は、今生きている命でも、未来に生きることになる命でもよく)、

ことが、今の自分にとって幸福・納得のひとつになるからです。

遺らなくてもいいし、遺っても消えてゆく(姿を変えていく)だろうし、世界は、自分自身の思惑や願いとは関係なく進んでいく。それはそれでまったくかまわない(関係しない)。


それでも自分自身の心の発露(思い)として、未来につながることを考えて、小さなことを形にするというのは、


自分なりに正しく生きたという納得につながるのではないかと思います。


(略)

 

だけでも、未来につながる何かを、自分の手で形にしたことになります。


よき未来のために、という思いを、執着なくできること



そんな生き方もあるような気がします。



2025年6月1日




ナンバーワンをめざすのは正しいか

<おしらせ>

日本全国行脚2025 訪問地募集中です。

福岡・博多での勉強会の開催が決まりました。詳細は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。


◇◇◇◇◇◇◇◇ 

(オンライン講義での質問~「勝ちたい」「日本一」「世界一」をめざすのは正しいか?についての答え) 


これらは目的というより、動機ですね。「○○をめざしてがんばる」という。

動機は本人限りのものです。他者が認める客観的事実、つまり結果とはじつは直接結びつきません。

つまりは、本人が思い描く妄想でしかない。どんなに本人がヤル気になれるとしても。

だから「日本一」「世界一」をめざすというのは、すごくおかしな表現であり発想なのです。中身がない。結果がない。ナンバーワンをめざすというのは、妄想止まりの自己満足--そんな姿だったりします。


「動機(自分にとっての価値)」と「結果(他者が認める客観的事実)」は違う――この当たり前の理解を持っているかどうか。

動機で目一杯の(自分にとっての価値しか見えない)人は、結果(人が認める客観的事実)に、なかなかたどり着けないものです。

「これは本当に正しいのか(自分がめざすもの・やっていることが客観的に通用するか)」という視点がないからです。

他方、結果を出せる人というのは、動機に留まらず、つねに他者が認める結果・成果を見すえているので、「これで本当に正しいのか」という問いを持つことが可能になります。方法を考える、工夫する、そして専念する。

動機という自己満足を卒業して、方法そのものにエネルギーを使うから、結果が出る確率が上がるのです。

ビジネスなら「売れて(求められて)ナンボ」ということがわかっているから、売るための努力を惜しまない。

学びならば、「学んで(覚えて、できるようになって)ナンボ」ということがわかっているから、淡々黙々とインプット&アウトプットを繰り返す。

スポーツの世界でも、結果は自分のパフォーマンス次第という当たり前の事実を知り尽くしているから、自分を追い込んで練習する。

本当の結果・目標というのは客観的なもので、自分の妄想が通用しない。
方法を実践しなければ、結果を出せない。

そういうことがわかっているからこそ、努力できるし、人に通用する価値・結果を出せる。結果的に勝利・上位・一番にもなる、ということになります。



「結果的に」というところがポイントです。勝利・上位・一番というのは、めざせばかなうというものではなく、

まったく別のところ(方法)に思い・体・時間を投入した時に、あくまで結果として出てくるものなのです。

だから、動機としては正しいとしても、動機止まり。
結果を出すには、動機だけではまったく足りない。

その意味で、間違っている(足りない)ということになります。




2025年5月22日 オープンカレッジ・オンライン講義にて

 

 

 

ひっそりと、つつましく


このプロジェクトがどのような規模になるかは、未知数です。

つつましく、でも確実に、というこれまでの方向性に沿って進める予定です。


できあがってしまった社会と人を変えることは難しい。

育てるならば ”芽” の段階からと、これまでの活動を通じて痛感したことが、きっかけです。


仏教だけでは、新たな価値を創造できない。

仏教ほど、人によってどうとでも受け取れる思想は、他にないかもしれない。

ゆえに都合よく利用され、奪われ、変容していく傾向は避けられない。


仏教と、金儲けや自己顕示とは、相容れない水と油、別宇宙のようなもの。

本来の仏教は、ただ、

苦しむ人のために、

自分の命を、この世界の片隅で、人の幸せのために活かそうと頑張る人のために、ある。



この世界はあまりに利己と狡猾と虚栄に満ち、

仏教という智慧さえも、私欲のために使おうとする場所だから、


仏教というものを、汚されず、利用されることなく、

本当に必要としている人に向けて届けようと願うなら、


必然的に、世にあって世に染まらず、

欲と怒りと妄想に満ちたこの世界とは、一線を引いて、

自己をさらすことなく、目を引くことなく、

ただひたすらに陰のなかを、地道に、つつましく進んでいくことになる。


この場所は、世俗的価値を追求しない。

そうしたものへの執着は、とっくの昔に手放しているから。


時流・世相に感化されることなく、

50年後も色褪せない普遍的な価値を遺せるように、

残りの時間を使って参ります。



わかる人たちに向けて

草薙龍瞬



仕事は誰のためにするものか


仕事は、相手のためにするものです。

仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。

だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。

投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。

ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。

趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。

これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。



だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。

自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。

自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。

こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。

この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。

これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?



解決策はシンプルです。

「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。

自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。

まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。

その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。

「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。

そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。

そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。



仕事で空けた穴を埋めることができるか。

仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。

できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。

穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。

「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。

穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、

穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、

「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。

そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。

成長し続けることが可能になるのです。



穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。

穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。


大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。

増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。

「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」

と客観的に自覚できるかどうか。


一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。

これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、

穴が空いている、空きつつあることに気づかない、

それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。

それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。



老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。

やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。

そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。

そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。

空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。

穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。


老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。

年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、

「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。

それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。




仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。

自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。

自分の側の仕事については、満点を出せること。

仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。

穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。

動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。

その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。

そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。



仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。


これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。

この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。


すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。



自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。

これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。

穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、

その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。

この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、

自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。


まずは自分自身と闘わねばなりません。




自分を救えるのは自分だけ

生きるという当たり前のことが難しくなっている――

その理由は、過去にあります。たとえば①自分が罪深い存在だ、生きる価値がないと思い込んだか、②誰かとの関係性で刷り込まれたか、です。

①は、自分自身の思い込み。②は、たいていは親との関係性です。

たとえば、親が子供を徹底して否定してきたか、病的に干渉・支配・搾取してきたか。

普通に生きることをことごとく邪魔してきた「毒親」だった可能性があります。


こうした親に、生命としてのエネルギーを挫かれ、「生き血を吸われて」、独り立ちする機会を失ったまま、歳を取る――こうした人は少なくありません。

若い頃から自立を妨げられて、人生がうまくいかなくなった。50代に入った頃には、心身ともにボロボロ。苗木だった自分に養分が回らず、もやしのような心と体と化している(もやしのほうがまだ元気かもしれません)。そんな状態に至る人もいます。


外に出る体力・気力も湧いてこない。実家にこもっているしかない。

だがその実家には毒親がいて、昼夜生き血を吸い続けてくる。

本人としては、生きているのか死んでいるのかもわからない。生きている実感がまったくないから、死んだほうがマシかもと思う。

そういう半生半死状態でも、考えること(妄想すること)は可能です。妄想は低出力で、ほとんどエネルギーが要らないから。


その時に湧いてくる妄想は、現状維持を好む傾向があります。あれこれと理屈をつけて、「留まる」ことを選んでしまうのです。それが最もラクだからです。


本当は、脱出して毒親との縁を断つことが先決であり、それが唯一の解決策です。脱出して自由になれば、生きるエネルギーくらいは自然に湧いてくるものです。

ところが、そうした選択肢を、怖い、億劫、気力が出ない、お金がない、親がかわいそう、そんな自分は子供としてどうなのか・・等々と理屈をつけて、みずから潰してしまうのです。現状維持の重力に囚われているから。

こうなると、自分が干からびて死ぬまで、生き血を吸われ続けます。

でもそれが自分が望むことだから致し方ない――という希望のない状況にたどり着くのです。


思考を拒み、行動を拒む。親に人生を挫かれてきた人は、それでも親を敵に回したくない、対決したくない、怖い、愛されたいという夢を失ってしまう、外に飛び出すより家の中で生き血を吸われているほうがラク・・・いろんな思惑をめぐらせているものです。

出口の見えない現状維持の迷宮の中で、唯一できることが、妄想(楽だから)。

その曖昧な妄想の中で、現状に留まるための理屈が浮かんで来たら、それに飛びついて、言葉にして、自分にとっての答えにしてしまうのです。「やっぱり今のままがいい」「この状態しかない」「きっとこれが私にふさわしい状況なのだ」と思い込む。

こうして、現実は何一つ変わらず、ただ現状に留まり続けるのです。




そもそも生きるという、どんな生命でも当たり前のようにやっていることができない。

その原因は、生きることを妨害し、生きるエネルギーを吸い取ってきた環境にある。

ならば、その環境を抜け出さなければ、生きるエネルギーを取り戻せることはない。

環境に留まったままあれこれと考える妄想は、すべて意味がない。


原因は明らかで、方法も明らか。

脱出して自由になりなさい――。



それが正解ということになります。あまりにわかりやすい、過去に何度も聞いていることです。

あとは本人の決意と行動次第です。



自分を救えるのは、自分だけだということです。

他人の妄想に甘えるな、ということでもあります。




2025年4月下旬



人生はシンプルでいい

 
名古屋・栄での今年最初のレギュラー講座。テーマはずばり、”ダンマ”――仏教と呼ぶより、はるかにブッダの教えに近づける言葉だ(慣れるまで聞こえは怪しいけれど笑)。

特に今日は、宗教と長く関わってきた人が来ていたから、宗教とダンマの違いをお話してみた。伝わったかな・・。


執着が強い人は、宗教のほうに親しみを感じるものだ。というのも、現実逃避を求めているにせよ、ご利益を期待しているにせよ、その執着に応えてくれる妄想に惹かれるものだから。
 
最初に執着があり、叶えてくれそうな妄想を探す。その妄想を形にしてくれると予感した宗教に惹かれる。そして「信じる」段階に入っていく。

信じることが最初に来るのではなく、本人が自覚していない執着が前提としてあるのである。

その執着は、現実から逃れたいという思いかもしれないし、承認欲を満たしたいという我欲(上昇欲)かもしれないし、心の空洞を埋めたいという願いかもしれない。

そうした執着状態にある心が、「それらしい妄想」(理屈)に触れると、「きっとこれが答えに違いない」と興奮して、飛びついてしまう。

だが、そうしたものに飛びついても、問題は解決しない。
宗教という名の妄想をエサにして、執着が生き永らえるだけだ。

足元にある原因を、つまりは執着を自覚していないからだ。
 

本当は足元を掘り起こして、いったい自分は何に執着しているのかを自覚することが近道、というか唯一の解決策だ。

自覚できれば、捨てることも可能になる。あとはその方法を知って、実践すればいいだけになる。


ブッダが伝えた、一切の苦しみには原因があって、だがその原因は誰でも取り除けるし、その方法がある、だから後は実践するだけであるという言葉は、そうした真実を語っている。

まったく難しくない。そのシンプルな真実をひっくるめて”ダンマ”と呼んでいる。


本来のブッダの教えは、宗教とはまったく違う。真逆だ。宗教という名の妄想を克服するための方法を体系化したものだ。

心をめぐる問題に、答えがない問いは、実は存在しない。答えがない、考えてもわからないように見えるのは、自分の心が妄想によって曇らされているからだ。

心の苦しみについては、ほぼ百パーセントと言っていい確率で、抜け出せる。そもそもその苦しみは、心の中になかったものだ。今もまた、形も重さもない。実体のない(いわゆる無常)なものだからだ。

唯一必要なものは、ダンマ、つまり心の苦しみを抜ける方法だ。
 
その方法を受け入れるか。行動に移すか。それだけだ。もはや理屈ではない。考えることではない。やるか、やらないか。進むか、退がるか。受け容れるか、拒絶するか。


苦しみを抱えてさまよい続けてきた人が、ダンマに目覚めて苦しみを抜け、「この生き方で間違いない」という確信を持てるようになること。

それが、この場所の目的だ。時間はかかることが当然。そんな生き方しか知らなかったのだから。

焦らずに学んでもらえたら(自己理解を深めてもらえたら)と思う。
 
 
言葉は難しく聞こえるかもしれないが、伝える中身は、すべて友情に似た思いから発している。この命は、出会うことを喜びとする性質を持っている。よく来たね、と毎回心の中でエールを送っています。
 


2025年4月15日




新しい職場・新しい仕事2


春の到来にちなんで、働き方編2をお届けします:

仕事とは面白いもので、その中身も評価も、自分では決められません。あくまで自分の働きが役に立っているか、評価されるかは、周りの人、その仕事を受ける人が決めるものです。

これは「ままならないストレス」かというと、そうでもなくて、「自分で決める必要はなくて、お任せでいい」と気楽に受け止めることも可能です。

たとえば、体を使う仕事で、足が不自由で走ったり、重たいものを持ったりすることができなくなってきた・・という場合。

そうした自分をヨシとするかは、本人の仕事観にもよるので、「本人がそんな自分に納得いかない」と思うなら、仕事を変える(辞退する・転職する)ことも、正解たりえます。正解かどうかは、その後の展開次第(自分の頑張り次第・周囲の受け止め方次第・相性次第・・)によるので。

でもその一方で、自分で答えを出す必要もなくて、「こんな状態ですが、仕事として成り立つでしょうか?」というのは、周囲の人に聞いてみてもよいのです。多くの仕事はチームでやるものだから。

ある作業が、自分の健康状態が原因で十分できない・・その状態を見てもらって、他の人がカバーしてくれて、他の人もそれでもいいと思ってくれるなら、

今の自分ができることは、なお仕事として十分に通用します。

周りのサポートを受ける分、別のことで貢献しようと考えることも可能です。

「迷惑をかけるから申しわけない」と思う。でも「辞めたくない」とも思う。そういう時は、そうした思いを丸ごとその職場・チームに伝えてみればよいのです。


一番つらくなるのは、自分一人で抱え込んで、自分一人で答えを出そうとしてしまうことです。こうなると、「辞めたくない」は自分のエゴで、「きっと務まらない」という思いが勝っていきます。

特に、自分一人で答えを出すこと、一人で抱え込むことに慣れてきた人(いわば業ということになりますが)は、そうした状況に陥りがちです。

別の角度で見てみれば、仕事というのはある程度は利己的でも良くて、やりたいと思うなら、辞めろと言われるまではやり続けることが正解だったりします。

(特に障害を抱えながら働いている人には、これはけっこう大事なポイントになります。生きる権利、働く権利を通すということ。社会は大きな布団みたいなところもあって、自分一人分載っても、大丈夫なくらいに大きな場所でもあります)。




もうひとつ、新しい仕事に向かう心構えは、「とにかく今できる、役に立てることを引き受ける」ことです。

たとえば、すぐに始められる仕事・職場があるけれど、別の仕事が本当は第一希望で、でもその仕事には現時点で空きがない・・という場合。

この場合、空きが出るまで待つことは(状況にもよるでしょうが)正しい選択ではないような気がします。

というのも、求められていて、できるかもしれないなら、それを引き受けて体験してみて、学びつつ、できる範囲を広げて、できるレベルを上げていくというのが、

自分にとっても、その職場・仕事にとっても、確実なプラスだからです。

そしてそういう自分を作って(準備して)おけば、そのうち、もっとやりたい・向いている職場・仕事からお声がかかるかもしれなくて、その時に新しい仕事を選ぶなら、元いた場所からは惜しまれつつ(あるいは感謝されつつ)離れて、自分がやりたかった仕事に就くことも可能になります。

「自分にはできないかも」「難易度が高いかも」というのは、妄想であることが多くて、「やっていた・やっている人もいるんだから、わたしにもできるかもしれない」と思うほうが正しかったりします。

「できるかも」から入って、やってみて、体験を通じてやり方を学んで、実際にできるレベルに持っていく――というのが、誰もが踏んでいるステップです。

最初からできる人なんていなくて、単に「できるかも」という入り口に立って、その後のステップを進んでいったから、結果的にできているのです。



新しい仕事の入り口としては、「やってみたい」「できるかも」というポジティブな入り方と、「やりたくない」「きっとできない」というネガティブな入り方とがありますが、

「やりたくない」は仕方ない(それが本人の気持ちなら終わるしかない)としても、

「きっとできない」というのは、やってもいないうちに判断できるはずもなく、確実に妄想ということになります。

「きっとできない」と「できるかも」は、両方、体験する前の妄想でしかなくて、客観的な状況としては、実は同じです。

なぜ前者に心の針が振れる人と、後者に傾く人がいるのかといえば、やはり過去や業(性格)だったりします。



理想は、やっていないことは、とりあえず「できるかも」という箱に入れてしまうことです。

お声がかかっているなら、断らないことです。仕事は、関わり次第、相手次第であって、自分一人では決められない。自分で全部答えを出すという発想で出した答えが、正しかった確率は、実は自分が思うほど高くなかったりします。

「お声をかけていただいてありがとうございます。私に務まるかどうかわかりませんが、しっかり頑張ります」でよいのです。

頑張るというのは、「体験することを頑張る」という意味です。これは自分の中で補っておけばよく、相手に伝える必要はありません。

体験して、できることを増やして、結果的に貢献できる自分になる、というステップさえ見えていればいいのです。

とりわけ、仕事は人間関係(理解ある人が周りにいるかどうか)で大きく左右されるので、自分のことを買ってくれている、わかってくれている人がその場所にいるなら、条件はそろっています。

「やりたい職場には空きがない」なら、なおさらです。客観的に「できるかも(でも実際はこれから)」という状況は、やりたくても今はできない職場も、今まさに求められている職場も変わらない。

ならば、求められている職場に応えて働きを果たす、ことしか答えはないのでは?

ひょいひょいと乗ってみればよいのです(難しいかもしれませんが)。

できるかな、やってみようか、やってみます!でよかったりするのです。