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自由を知るということ

過去のこと、親だった人たちへの思いも、まさに“執着”です。

許す、許さないという判断さえ不要。

慈しみを向けて自分の中の執着(わだかまり)を無化することも不要。

自分の視界に入れるのも入れないのも、自分次第、自由自在。


それが執着を手放した状態です。


そうすると、心というリソースを、百パーセント、自分にとって価値あるものに使うことができる。

これが、人が本来めざすべき心境です。

自分らしさを知るということ。

本来の自分を取り戻すということです。

 

 

 

2024年3月

心に論理を持つと何が変わるか

(おたよりの抜粋)

実は、おそらく2年ほど前になると思うのですが、ご著書「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」を取り寄せ勉強し続けてきました。

特に数学は、論理をみっちり練り上げるというやり方を繰り返してきたおかげで、重度の数学アレルギーだった私が、数学は友達だ!とまで思えるようになったのです。

この本は将来娘が勉強に行き詰まったときに贈りたい本です。
今もすぐ手の伸ばせる位置に置いて、勉強に行き詰まると読んでいます。

自分のいる立ち位置によって、読んで心に響く文章が変わるので、草薙先生の本は息をしている生き物のようです。

この勉強法が院試にも大いに力になってくれました。

「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」は、当時もう新書では手に入らなかったので、中古で取り寄せたのですが、なんでこんなに素晴らしい本がもう絶版?されているのか理解できず、中古でも手に入った幸運に感謝しておりました。

まさか先生ご自身が文庫本のお話をお断りして、完全書下ろしで書くと決断されていたのですね。

「客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し。」とおっしゃっていましたので、先生の本は買えるときに買っておかないとと改めて肝に銘じました。いつも手に入るとは限らないということをお話されていたこともあって、そのとき手元にない先生のご本をア〇〇〇でポチっとしました。

その中の一つ「消えない悩みのお片付け」で知ったタイムバーや純金タイムなどの考え方は「なるほど!」と共感し、実践しています。人生は作業の連続。作業に集中していたら妄想は減る。本当だなと実感しています。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

本というのは、本当に難しいのです。『勉強法』の本は、実は昨年(2024年)末に文庫本を出す話がありました。

でも、読み返してみると、筆者としてはウーンと思うことが書いてある・・「今ならこれは書かないな」「今ならこう書くよなあ」というダメ出しが増えてきて、

「やっぱり出しません(完全書下ろしの新刊を書きます!)」とお答えしてしまったのです(で、まだ新刊原稿書いていない・・)。

筆者としては「今ならもっとこう書けるのに」という思いが出てくる。でも作品そのものは、こうして探して手に取って(※筆者としては市場に出回っているものを回収したいのですが、できないために起こること笑)、

読んで役に立ててくれる人がいる(そういう人が少なくないのは事実です。ありがとう)。


つまりは、客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し(業?)。



数学は、世の中にデキる人たちは数えきれないほどいて・・それこそ歴史マニアと同じく、数学マニアの人たちも数多くいるらしく。

私自身は、小学生の頃は算数が苦手で、独学時代にようやく数学の本質が少し見え始めて、大学受験で数学的思考(とにかく論理でつなぐ、つなぐ・・これ文系的表現ですが笑)の真似事を始めて、

「面白いな、もっとやりたいな」と感じ始めた頃にはもう入試が迫ってきていたので、数学の本質は極めずじまいで終わってしまっています。

ごくたまに「もう一度大学受験しなければ」という夢を見るのですが(18歳に戻っている笑・・ありませんか?)、

「数学やりたい!」と思っている自分が夢の中にいます。数学は楽しいと感じている――何が楽しいか? 論理だけで答えを出す。途中に不純物が混じらない(矛盾や破綻がない、妄想がない笑)。

その美しさゆえのカタルシスは・・そうか、瞑想にすごく似ています(笑)。

瞑想も、自分の心に残っている不純物を取り除くために、①気づいて反応しない、②別の思考を組み立てる――ということをやります。

スッキリするための思考を考える、のです。なるほど、これは数学に近いのかも(今気づいた笑)。

数学的思考と瞑想と本の執筆は、私の中では、ほぼ一つです。本の場合は、書き出し(前提)を考えて、そこから論理でつないでいく。途中に破綻や矛盾が生じないようにする。

読む人の心を煽らない、凹ませない、傷つけないようにと気をつけながら(いわば前提条件)書く。最後は必ず励ましの思いを込める。

数学をやっていなかったら、瞑想も進まなかっただろうし、本も書けなかったと思います。

「わかりやすい」と言ってくれる読者は、論理的思考がもたらすスッキリ感の一端を感じてくださっているのかもしれません。

論理をフンフンとうなずきながら追っているうちに、いつの間にか答えが出ている。「そうか!」という浄化の快を感じている。だとしたら、数学的思考の賜物です。



誰かに向けて書く言葉というのは、本にせよ、研究論文にせよ、この人も言っているとおり、何のために、誰のために、どんな意味・価値を持つのかという、客観的な(他者を意識した)視点が必要になります。

「これは届ける価値のある言葉か?」を自問する。これもひとつのロジックです。

ちなみに世の中に飛び交う言葉が不毛にして殺伐としているのは、価値ある言葉かを吟味するという発想がないからです。思いついたことは、他人にとっても意味があると思い込んでいる。何でも言っていいと思っている。

そうやって守備範囲を外れて発する言葉によって、誰かの物騒なリアクションが返ってきたり、炎上したり、不毛な議論にもならない議論が勃発したりするのです。

しかも、発した自分自身が本当は一番害を被っている。いつも人の目(リアクション)を気にして、余計なことを言って、心無い言葉を浴びて、言わなければ嫌われないのに、言うことを選んでしまうことで自分を嫌う人の数が増えていく――。


「真実かつ有益な言葉のみを語る」という戒律(マイ・ルール)は、その点ですごく大事。

この言葉は人に届くだろうか、どんな価値を持つだろうか?と考えながら、テーマを選び、情報を集めて、整理して分析して、「これを届けたい」と思える内容・結論へと洗練・凝縮させていく。

すると、おのずと響く言葉が生まれてきます。言葉が熱を、力を持ち始める。

他者に届く言葉を繰り出せるようになると、関係性も変わります。関係性を自分で作っていけるようになる。

過去は関係性に支配されてきたかもしれないけれど、これからは関係性を選び、創造し、育てていけるのです。

その人生は、過去とはまったく違います。




自分らしさを取り戻すには


世の中、真っ当な人のほうが苦しみを背負うことがあります。これは人間関係にありがちな現象(化学反応みたいなもの)で、

そばにいる業の深い人と関わることで、真っ当な(良心的な、そして有能な)人のほうが、いつのまにか悪者にされたり、しわ寄せを受けたりするという現象です。

みにくいアヒルの子とかシンデレラとか(今回引っ張ってくる例としてふさわしいかどうかはわかりませんが笑)、

本人は本人のまま自然にいるだけなのに、周りが変わっていたりクセが強かったりすることで、相対的に真っ当な本人のほうが「ヘン」(異物)みたいな扱いを受けてしまうのです。

人間は自分のことがわからないし、自然体でもいられない。やっぱり認めてほしい、わかってほしいという思いもあるから、わかってほしい → でも理不尽な扱いを受ける・変だと言われる → きっとその通りなのだろう、と思ってしまう。

傷ついているのだけれど、周りの判断をつっぱねる強さや自信も人間なかなか持てるものではないので、その場におけるストレスを緩和するために、「きっと周りが言う通りなのだろう」と思って、その関係性を受け入れてしまうのです。

話をあえて広げましたが、この人も、その場所で抱く異物感みたいなものを長く抱えてきたように見えました。

はねつける強さを身に着けるには、どうするか?

自分のことがよくわからない自分一人の力ではなく、そんな自分と完全に違う立ち位置に立っている人のモノの見方や考え方に触れて、いわば同調して(これはいい意味)、自分を越える思考や発想を内面化することなのです。

だから、場所、人、出会いというのは、ものすごく大事なのです。そのためには求めること、動くこと。

幸いにこの人の場合は、求めて、動いて、この場所にたどり着きました。

この場所がどれほどの効力を持っているかは、それこそ人それぞれだし、この人のように自分で考えて、必要なものを吸収していける人であれば、いろんな場所や人との出会いを通して、遅かれ早かれ道を見出していったのではないかと思います。

とはいえ、そこまで役に立ったと言ってくれることは幸いです。この場所が価値を持った(貢献できた)ということだから。


(興道の里において)

 

 

未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月

 

 

「許せない」を卒業するには?

※講座内の質問に答えて(一部抜粋):

 

 大人になるというのは、

①今の自分ならなんとかできる、

②理解してくれる大人は他にもいる(無理解な他者だけじゃない)

ということがわかること。

そこまで視野が広がって初めて、自分の怒りや「許せない」を相対化できるようになります。大人というのは、そういうことができるようになった状態です。


ただ、この人(質問者)の場合は、まだ心が子供のまま。なんとかできると思える状態にまで進んでいないし、理解してくれる大人というのは、実は世の中にたくさんいることを、実感レベルで理解できていないのだろうと思います。

それはなぜか?というと、ご自身の言葉の中に答えがあります。そう、父親があまりに大きく見えているから。ずっと父親のほうを見続けてきたからです。

この人は、父親にすさまじく執着していて、だからこそ怒りも「許せない」も、子供の頃とまったく同じレベルで燃やしているのです。

老いた親の姿を見て泣けてきたというのは、今の姿への同情(共感)もありうるけれども、心はたしかに往生際の悪いところがあって、

「今なら私の積年の願いがかなうのではないか」(つまりは良き父と子という関係を持てるのではないか)という方向に動いた可能性はあります。

その願いがかなう可能性があるなら、最後の親孝行をしてもよいとは思います。親の態度が変われば、「許せる」ようにもなるかもしれないし。その可能性はなくはありません。

他方、父親の地の部分が変わっていなくて、やっぱり怒りがぶり返す・・という事態もあり得ます。

この先の親との関わりは、「今の親の人間性」次第です。老いて素直になった、性格が変わった、呆けてしまった・・・いろんな理由はあり得ますが、

昔の親ではなくなった(少なくとも過去と同じ反応をしないですむようになった)なら、「新しい人」として向き合うことは可能です。新たな関わり方を選べばいいのです。

親との関わりは、①今の親のあり方(親というより一人の人間としてのあり方)と、②大人になった自分のあり方、の2つの組み合わせによって成り立ちます。

①も大事ですが、②も大事です。自分が大人になったといえるのか。過去の怒りや「許せない」を手放せたか。なぜ手放せないのか。

手放していないとしたら、自分の側の執着ゆえです。それは自分の側の選択であり、自分の問題。

遠い過去のことを、今なお怒り続けて、許せないと思い続けている。つまりは時間が止まったまま。子供のまま。執着の中に留まったままなのです。


過去はすでに終わっているのですよ。

だから過去と同じ感情を今に持ち込む必要は、本当はないのです。


過去は上書き&塗り替えることが可能です。


「大人になっていいのでは?」ということです。


2025年1月




自分が先か、〇〇が先か


「自分」より先に「仏教」を置くこと。

「自分」より先に「人さま」を置くこと。

「自分」より先に「普遍的価値」を置くこと。

「自分」より先に「方法(誰もが共有しうる)」を置くこと。

どれも「自分を引いて考える」という点は同じです。

仏教は、慈悲、つつしみ、普遍的な価値を真っ先に考える思考法です。

「自分」が先立つものは慈悲じゃないし、「自分」が前に出るのはつつしみじゃない。自分、自分で発想すれば、普遍的価値は遠くなる。

仏教にもとづいて生き、仏教を伝える役目を負う人間というのは、そういう思考法・生き方が身に着いていることが資格のようなものなのです。



今の世の中は、多くの人が、自分語りに夢中。自分があれをやった、こう考えた、こんなことがあったということを、吟味することなく得々と、あまりに簡単に発信できる世の中です。

自分語りに夢中な人たちが一方にいて、もう片方に、他人事に夢中な人たちがいる。

両者とも一定数いるから、供給と需要がかみあって、その内容(真実か、価値があるかといった実質)に関係なく、お金や影響力まで生み出せてしまう奇天烈な世の中です。


この構図、「自分を越える価値」に思いをめぐらせるという発想や思考法とは、正反対です。

「自分ファースト」「自分のことだけ」に夢中な頭(脳)には、

自分以外の人のこと、世の中のこと、未来のことを考えるという「発想」が出てこない。

仏教というのは、本当は、そうした自分偏重の発想を突き崩す、いわば「ガツンと」ぶちかます威力を持っていなければいけないのですが、

そうした点をふまえてみれば、仏教を語る言葉は、弱い、弱い。

そう、「ガツンと」来ないといけないのでした(笑)。そのことをしっかり心に留めて、次の作品づくりに取りかかろうと思います。



ともあれ、「まずは自分を引く」というのが、仏教の思考法です。

かといって、それは卑屈になるとか負けを受け入れるという話ではなく、かりに理不尽を強いられたとしても、「仏教ならば?」と考えるということです。

「自分」から入る思考より、はるかに強力(その威力が見えないのは、まだ仏教の威力がわかっていないから)。

自分を越えるからこそ、自分を守れるし、大切な価値を守り抜くこともできる。仏教は、そうした可能性へと導く思想であり方法論なのです、本来は。

仏教に立っているか、自分に立っているか。

普遍的な(誰もが共有しうる、幸せにつながる)価値を見ているか、自分だけを見ているか。

そうした視点を持てば、世に飛び交う言葉も、自分自身の思考も、正しいか間違いか、どこがおかしいのか、気づきやすくなるのではと思います。





2025年1月下旬




「感謝」より大切なこと


感謝を語る人は大勢います。でも、感謝よりも大事なことがあります。

 

現実を正しく理解することです。


苦しみがあるなら、その原因をつきとめて、原因を取り除かねばならない。

過去に原因があるなら、過去を卒業せねばならない(※次の号で掘り下げます)。

相手との関わりに原因があるなら、関わりを清算せねばならない。

自分の業が原因であるなら、時間をかけて、自分の業を客観視して、反応のクセを書き換えていかねばならない。


そうした地道な、でも確実な道のりと、「感謝」というのは、まったく異質(無関係)なのです。


感謝というのは、即効性がありそうな気がする。だけれど根治療法には決してならない。

正しい理解 は時間はかかるし。簡単ではないのだけれど、

仮に同じ歳月をかけるとして、結果的にどちらが解決に近づくかといえば、

感謝ではなく、正しい理解だということです。


※なお、正しく理解して、問題を解決したうえで、それでも残った価値あるものに「感謝する」というのは、アリです。つまりは順序が違うのです。



2025年1月



歳を重ねて思うこと


歳を重ねて、行動範囲や交友関係が狭くなってくると、なんだか世の中、本当に大丈夫なのか、と心配になってきたりするものです。

聞こえてくるのは、悲惨な事件や事故、災難、病気や戦争、不祥事、そんな話題ばかり。

こういう醜悪な情報が耳に入ってきても心のバランスが取れるくらいに、仕事や家事に忙しくて、せいぜい世間の動向が、暇つぶしの話題レベルに留まっていればよいのですが、

自分の日常が一人静かで、特に新しい変化もなくなってきたら、なんだか世界は悲惨なことばかり、滅びに一直線に向かっている・・・ように思えてくるようになります。

ほんと、世界はいつまで続くのだろう・・・という不安、懸念。

人間は歳を取ると、そう思えるようになってきます。きっと多くの人が同じ。

動ける範囲が狭くなってくるぶん、外の世界の可能性も見えにくくなってくる。


だからこそ、自分以外の命のことを積極的に愛おしむことが大事になってくるのだろうと思います。

自分は老いつつあるけれども、若い人たちも生きている。
彼らには未来がある。未来を作っていく。

子供たちには、今と未来しか見えない。だからこそ動くし、考える。
自分には見えない未来が、彼らには見える。

だからこそ未来は彼らのもの。未来を創っていってもらう。

動物だって同じ。生まれた瞬間から未来しか見ていない。
植物も同じ。彼らも未来に向かって伸びていくことしか考えない。

生命というのは、みんな未来に向かっていく。未来を創っていってくれる。

そういう姿は、自分の周りにも、まだまだ溢れている。

そういう「未来」に気づける心でありたい。

自分自身については、できることをやって、働ける限りは働いて(それこそ70,80,90になっても働いている人はいる。働いている人のほうが元気だったりする。その可能性があるならチャレンジしたいと思う)、

もうほんとにムリということになったら、自分の範囲を小さくして、

その分、人でも動物でも植物でもいいから、「未来」に向かっている生命の姿を見つめて、

未来へと続いていくことこそがこの世界の本当の姿なんだ、という思いを新たにする。


そういう生き方でよいのではないか、と思っています。




2025・1・7



自分を大切にする一年に


(※最近「自立」へと踏み出した60代の女性に向けて)


親という生き物(結婚(してしまった)伴侶もそうですが)は、不思議な存在です。子供の幸せを願うどころか、勝手な怒りなのかやっかみなのか、子供の人生を妨害して、足を引っ張って、壊そうとさえする生き物さえいます。

最初のきっかけは、たぶん小さな妄想です。親の側の勝手。その妄想が悪い方向に転がって、親であるがゆえの権力(体力・経済力等)とあいまって、

最初の妄想(悪意)がどんどんと悪い方向へ、子供を苦しめる残酷な方角へと肥大していくことが起こります。まっとうな人間なら自分で歯止めをかけようと努力するものですが、たまに自分の悪意を受け入れてしまう(正しいと思い込む)人間がいたりするのです。

実家を出る、別れる、捨てる・・そうした選択が、自分を守るために必要なこともあります。そうした選択をしなくていい人もいますが、選択しなければいけない人もいます。

こればかりは、自分が置かれた状況をもとに決断するほかありません。答えを出せるのは自分。答えの正しさがわかるのも自分です。


決断の仕方は簡単です。相手が変わらない、変わろうとする努力を見せない、そんな相手との関わりが苦しくてたまらない・・という現実があるなら、

単純に相性が悪いということ。最も自然な選択肢は、離れることです。脱出すること。


たとえば老いた(でも病的な頑固さ・傲慢さは枯れない)父親に苦労してきた女性なら、そうした父親を捨てること。遠慮はいりません(笑)。

母親はどうするのかといえば、母親は、そんな男と一蓮托生で、それがその人の人生なのだから、子供である自分が背負う必要はありません。病院への付き添いなども不要(あるあるですが)。本当に必要ならなんとかしますよ、こちらが手をかけなくても。

子供はつい勘違いしがち。親の人生を背負わねばいけないの?と。良好な関係ならありうるけれど、自分を失ってしまうほどの苦痛を背負ってまで引き受ける必要なんて、本当はまったくないのです。

人の人生は人に委ねること。

自分は自分の人生を生きること。


もうひとつ、自由を求める人に大切なのは、家に置いてあるモノに執着しないことです。どうしても置いておけない大切なものは、(なるべくこっそり)運び出すとしても、生活用品程度なら、忘れてしまえばいい。

「半年旅に出たとしたら?」と想像してください。飛行機に乗ったと仮定しましょう。半年好きな場所を旅して、家に置いたものを思い出すか。思い出せるか。

思い出せない程度の物は、必要がないということです。

必要なものは、新しい生活の中で少しずつ増やしていけばいい。とりあえずすっからかんから、少しずつ必要なものをそろえていくのは、いかがでしょう。


しばらくはぶり返し(過去を思い出してしまう)が続くかもしれません。親だった人たちの良い部分を思い出そうとしたり、今なら優しくできるのではと考えてしまったり。

でもそれこそが、執着を断ち切る前に生まれる妄想です。その妄想と闘うことがカギになります。

もう闘わなくてよいのです。終わらせてください。


休める間はゆっくり休む。そんな自分を責めないように。
どんな状態でも、自分を許してあげること。
自分に優しく、寛容になりましょう。

そして、自分のために生きること。


人間は、自分のために生きてよいのですよ。犠牲になる必要はない。ましてこちらの幸せを願ってくれないような、自分の都合・要求で頭が一杯のちっぽけな人間のために、こちらの身をすり減らす必要はない。

自分のため、自分が好きだから、自分がやりたいから、自分が報われるから、やる。

そういう当たり前の前提に立ってできること(仕事も含めて)をもって、生活を作っていくことです。


人はもっと幸せに生きてよいのですよ。

幸せを知る一年にいたしましょう。


※なお、今回の言葉に抵抗を感じる人は、まだ執着の途上にあるのかもしれません。あるいは、今の関係性が、自分にとっての正解なのかも。答えを出せるのは自分自身です。


 

2025・1・5

興道の里・今年の抱負


新春のご挨拶第2弾は、興道の里の今年の抱負:

まずはインド出張。その後は、新刊の原稿書き。十代向けの学び方・生き方をまとめた本。

講座は3月16日&18日の名古屋での特別講座からスタート。

『ブッダを探して』の新聞連載は8月一杯か、2025年度内か。

レギュラーでやってきた仏教講座をどうするか。月に1回のペースでオンラインでやるか、夏までいったん休止とするか。

というのも、年の前半は本2冊を書き上げねばならず(ただでさえ遅れ気味で迷惑をかけているのでケリをつけなければ)、

新たな拠点の完成が7月頃。場所を変えて心機一転スタートするという形もありかと思っています(月に一度オンラインでいいからやってほしいという声があれば考えます^^)。

これまでは手広くやってきたけれども、そろそろ時間という有限のリソースを重点的に使うことも考えないといけない時期なのかもしれません。

子供たち向けの未来を育てるプロジェクト(やってみないと何ができるかわからない)。

本の執筆(未来に遺せる財産として)

そして、仏教講座。

この3点が活動のマックスかと。


悩ましいのは、どこまでの範囲に向けて発信するか。動画、SNS・・だけれど正直、そうした媒体を通して触れてもらったところで、遊びや暇つぶし、いわば消費コンテンツとしての位置づけを超えられるとは思えず。

学びを得るには、やはり相応の環境設定が大事。

自室でテレビの旅番組をながめたって、旅の醍醐味は味わえない。足を運んで、五官で感じることで、本物の旅になる。

学びも同じ。日常に浸かったままでは得られない学びというものがあるはず。

広く知ってもらうとか、ラクに学んでもらうといった便宜におもねる(媚びる)のではなく、少し敷居を高くして、

学びたい人はしっかり足を運んでもらって、リアルな体験として学んでもらう。この場所はやはり道場。エンタメじゃない。

そのうえ今のSNSや動画などの環境は、コンテンツがあまりに雑然としすぎていて、見るだけで精神的な負荷(無秩序ゆえのストレス)が溜まる構造になっている。

この構造は変わらないのかもしれないけれど、だとしたらあえて乗じることなく、まったく別の場所・別の形で、別の可能性を作っていくというのも、

ひとつの見識であり、良心的な選択といっていい気がする。

見つからなくていい、目立たなくていい。

志ある人が、偶然でも必然でもどんな形でもいいから、この場所を見つけてもらって、まずは連絡してもらって、足を運んでもらって、きちんとリアルな関係性を育てていく。

そうした関係性で生まれてくるものを選りすぐって、未来につながるものを残すようにすればいいんじゃないかな。

ということは、この先は、この場所で学んでゆく人たちと一緒に、「未来に何を遺すか」というテーマにチャレンジするということ。

その挑戦を始めるのが、新しい拠点ということになりそうです。


日本に帰ってきて十余年。作品が広く世に届いた、受け取ってもらえたということが、出家人生における第一の奇跡。

そして興道の里というイメージが、いよいよ具体的な形に結実して、新たなステージに入る今年は、第二の奇跡。

人の幸せ、社会の前進を真面目に願うという性格が、仏教という智慧を得ることで、社会的な価値を持つに至ったことが、第三の奇跡。

かつては「いいかげん大人になりなさい」とかさんざん言われた時代もあったけれど(笑)、その頃とまったく同じ思いが、今は、誰にも文句を言わせない(言ってもらってもいいけれど笑)形で、くっきりはっきりと姿を現しつつある。

捨てなくて(あきらめなくて)よかった・・というのが、今の実感。

予想もつかなかった未来に突入している。まさかこんな生き方があったとは。


まだまだ奇跡の途中。


みんなが幸せに生きられる可能性を願って、まじめに歩んでいくので、

この場所を偶然見つけてくださった人たちは、引き続き、静かに見守っていてくださいね。


 

2025・1・3

 

 

 

 

2025年 年初めのご挨拶


新年あけましておめでとうございます
(新年といっても観念=妄想にすぎぬではないかという絶望的なひねくれ思考はこの際捨て置いて笑)

いつもは4日以降の始動なのですが(みなさまの平穏を邪魔したくなく笑)、今年は1日早く始めます。

昨年を振り返っての印象は、ひとりで生きる決意を固めた人たちがけっこうな数出てきたこと。実に「善きかな」でした。

「地獄の実家」から脱出した人、

「最悪の旦那」とようやく別れることができた人、

呪いの家をなんとか飛び出して、新しい棲み処を探して、仕事も見つけて、

明日どうなるかはわからないけれど、まずは自由を手に入れたという勝者が、大勢いたのです。

みなさんそろって女性たち(そうした脱出劇を体験した男性もいるだろうけど、この場所での比率は圧倒的に女性たち)。

しかも50,60代かそれ以上。

たぶん40代くらいまでは、まだ親への執着も捨てきれなくて、そこまで覚悟が固まらないのかもしれません。

さんざん苦労して、迷路をさまよって、やっとこさ、このままではいけない、このあたりで変わらなければ、と決意できたのが今。

人生、遅すぎることはない。仕事だって、今の日本社会なら、まだまだ見つかるはず。
 

真面目に働けば雇ってもらえる・・そういう仕事・職場を探し続けることだと思います。それが今年のテーマです。


ともあれ、あっぱれです。よく頑張りました。

自立へと踏み出した人たち、でもまだ生活が不安定な人たちは、お気軽にご連絡ください。

実家脱出、離婚、一人暮らし・・そういう人たちを応援します。


まずは、新たな人生あけましておめでとうございます



2024・1・3

「宗教」に迷わされている人へ

名古屋・栄中日文化センターの講座は、12月16日が年内最後。

みなさん、おつかれさまでした。来年は4月から再開します。

3月18日の特別講座・大人になった私たちはどう生きるか? は、すでに満席。16日(日)に臨時増設します。


世の中には、人間はそもそも悪人だとか、死んだら何かに生まれ変わるとか、そういう理屈がまだ存在しているのだそうです。たまにそういうおたよりが来ます。

心はそういうものじゃないのでは?――生まれた時にすでに汚れているというようなものではないし、死んだ後にまで残るような自我は存在しません。

(酒や薬でさえ簡単に飛ぶような意識が、体が灰になっても残る? それはどういう原理で?)。

人間はとにかく欲深だし、妄想が好き。それだけ自我が強烈。そういう人間の心が、あれこれと思いつく限りの、心とは、前世とは、死後の世界とは・・・みたいな理屈が溢れています。


みずからも妄想にまみれている人間は、そうした妄想に簡単に染まってしまう。「そうかもしれない」「きっとそうなんだ」と妄想した瞬間に、人間が作り出した妄想に巻き込まれてしまう。

騙されやすい人、迷わされやすい人の多くは、妄想を自覚していない。ふわふわとたわいないことを考え続けている。だからこそ、他人が語る妄想に簡単に染まってしまう。

さまざまな妄想を繰り広げて、信じて、振り回されて、奪われて、失って、それでも「そうかもしれない」という妄想から抜け出せない・・。その状態自体が罪深い。

いや、妄想をさも真実らしく語る欲深で理屈に長けた人間たちが、罪深い。


人間の心はそもそも汚れてなどいないし、罪も悪もない。本来の状態は。

だがどう反応するかで、悪にも染まるし、関わりの中では罪をも犯す。その意味では人間は愚かだし、罪深い存在であることが多いけれど、だからといってそれが前提だと信じてしまうと、大事なことが見えなくなる。

死後など考えなくていいし、自分が罪深い存在だと否定する必要もない。違うのですよ、そんなことは、人間が勝手に作りだした妄想でしかない。

人間は、生きられるだけ生きて、寿命が尽きれば死ぬ。それだけの存在です。その当たり前のことが、悪だの罪だの、なにか特別な物語(妄想)のネタになってしまう。そうした思いつきこそが妄想だと気づかないとね。


フワフワ、フラフラと妄想しているうちに、人生が終わってしまいます。

他人が作り出した妄想を信じるよりも、自分の心を振り返ってみてほしい。


罪も悪も苦しみも、もともとは(生まれた時には)なかったはず。自分が忘れているだけで。

いったいいつ、何がきっかけで、今の苦しみが始まったのか。どんな妄想を積み重ねて、迷路のような今にたどり着いてしまったのか。

原因は、過去にあるのですよ。心の中に(過去の体験の中に)あるのです。

人間の心は妄想まみれだから、そうした簡単な謎さえも解けない。

でも解決することは、実は難しくはありません。


人を迷わせるくらいなら、宗教は要りません。

解決できないなら、どんな理屈も説明も無益です。

捨てちゃえばいい、人間が思いつく程度の妄想はすべて。

宗教という妄想に見切りをつけるほうが、人は、生きるだけ生きるという当たり前の姿に近づくことができる。それがこの場所の立場です。


いつでも人は自由と幸せを取り戻せるのに。本当に妄想は罪深い。



2024・12月下旬
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真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



いつかはチョキン✂と


苦しみの原因は執着だ、とブッダは言ったけれども、これはかなり深い洞察に基づいた言葉です(まさにinsight:内側を見抜いた言葉)。

というのも、反応だけなら、いずれ消えるし、生きていくうえで反応は欠かせないものでもある。

(※たまに「反応しないなんてムリだ」と言う人もいる様子だけれど、本で伝えているのは「ムダな反応をしないこと」だ。本の冒頭で言っているのに・・伝えることは本当に難しい^^;)

業については、人生を丸ごと作る(支配する)くらいに強い力を持っているけれども、なぜ業が人生を支配するかといえば、執着してしまうからだ。

業を抜けて、自由を手にして、自分自身の(納得のいく)人生を生きるには、執着を切って捨てることが必要だし、それが始まりになる。


人がなぜ苦しみを背負うのか。苦労を重ねてしまうのか。

そこには、相矛盾する執着が潜んでいることが多い。

ちなみに苦労して家を支えるとか、苦労して子供を育てるというのは、自分で選んで納得して背負っているかぎりは、ここにいう執着ゆえの苦しみには当たらない。納得して頑張って生きている人たちは、尊き人たちだ。

ここで考えようとしているのは、慎重に選んでいるつもりが裏切られたり、うまく行かなかったりする場合。「なんで?」と自分でも首をかしげる事態に遭遇してしまう人のケース。

たいていは、親、子、結婚相手が絡んでいる。身近な人との間で苦労を背負う。

身近だからこそ重い。そして、報われない。

そうした日常の中を、暗中模索、五里霧中気分で生きて、いつの間にか報われない事故のような出来事に遭遇してしまう。

その出来事は、たいていは「外から」だ。事故のようにやってくる。だが不思議なことに、事故に自分から突っ込んでいっているかのような状況もある。

なんで?(なぜ私だけが?)と本音では首をかしげている。でも本人は殊勝に頑張り続けている。頑張れる体力がなぜかある。苦労を背負い続けて、心の体力だけはついているのかもしれない(それも限界があるけれど)。

なぜ望んでもいない苦労をいつの間にか背負ってしまうのか。

たいていは、執着が原因だ。しかも一つじゃない。二つ以上の執着。相矛盾する、ほんとは両立しない執着。

その執着を抱え続ける限り、人生を間違う。


一体自分は何に執着しているのか。どの執着を手放さなければいけないのか。

じっくり見つめて考える時間が必要だ。


それが、その人にとっての人生の転機。再生--人生のやり直し――の始まりになる。


どこで謎が解けるか、つまりは自己矛盾、二律背反の精神状態に気づけるかが、人生の分岐点になる。


最初の転機を迎えるのは、多くは三十代後半だ(※『心の出家』参照)。

しぶとく頑張って(執着して)いるうちに四十代に入る人も多い。

五十前後にもなれば、たいてい持ち前の業と、相矛盾する執着に取り憑かれて、「わけがわからない」状態になっている人もいる。

ブディズムという視点を通せば、なぜ自分の人生がかくもこんがらがってしまったのかは、ほとんど解き明かせる。

どんな迷走も混乱も、「必然」だったとわかる。その必然とは、執着が作り出すものだ。


その執着をほどくことができれば、矛盾、混乱は解消する。本来の自由な心、本人が「自分らしい」と思える自分を取り戻せる。

本当の人生は、そこから始まる。

執着さえ突き止めて、チョキン✂と切って捨てれば、人生をやり直すことは可能だ。おそらく何歳になっても。


今は熟年離婚も増えている。ひそかに「家出」する既婚女性もいる。逆に、振り回されて生き血を吸われてきたかのような夫が目を醒ますこともある。

本来、家とか子育てとか男女の仲とか、社会を未来につなぐために必要とされてきたもの、それはこれからも欠かせないはずのものが、崩れつつあるのが、今の日本かもしれない。

それはそれで痛ましい話ではあるのだが、間違った関係性を続けても、苦労が続くだけで、一人一人が病んでしまうから、

いったん関係性を解消して、自由を取り戻して、本当の生き方を一人一人がつかみ取って、できればその状態で未来につながる関係性をもう一度育てていく、という方角の方がよいだろうとは思う。

(人生は短すぎるから、解消するところまでで精一杯になることが多いけれど。でも始まらないよりは、まだそのほうがいいだろうとは思う。まずは自分らしい生き方をつかもうということだ)。


ともあれ、人生の迷走、混乱、行き止まりは、相矛盾する執着を抱え込んでしまった状態から来る。

その状態のままでは、まっすぐ進んでもなぜか事故る。そういうものだ。

何に執着しているのかをじっくり見つめて、答えを出すこと。

「これか」と突き止めて、チョキン✂と切除する。そうすれば、人生の病気は治る。何歳であっても治せる。


その希望だけは覚えておいてください。

頑張っているあなたに敬意を表します。


2024年11月中旬




離婚記念日のススメ

(決断であり、卒業した女性たちへの素直な祝福の記・・)
 
 
今日は、おめでたいことが2回続きました。

その2回とも、内容は限りなく近いものでした。

離婚して、自分の人生に踏み出すことを決意したという女性からの報告でした。

しかも新しい部屋を借りて自分だけの生活をまもなく始めることも、共通していました。


いや、すばらしいというか、おめでとうというか、よくがんばりましたね(祝)というか。


結婚生活を続けてきた背景は若干違いますが、今回の栄えある決断をした相手(夫側)には、共通項があったのです。

どちらも、やはり一言で言うなら「慢の人」だったという。

男という生き物は(と一応男に分類される私がいうのも妙ですが)、慢の生き物であることが多いものです。

それは、男の側が、同じく慢の生き物である父親から学んだ(刷り込まれた)部分もあるだろうし、

母親に甘やかされて慢を育てていった部分もあるだろうし、

生物学的性に由来する部分もあるかもしれません(攻撃性から来る慢。育てる本能を持つ生物学的女性とは異質のもの)。

最初の段階では、その慢はあまり表に出てこなかったとしても、女性の側が合わせたり、そもそも女性が逆らえない性格だったりして、

そういう「一歩下がる」「一段下に立つ」女性の姿を見て、男性(夫)側の潜在的慢が刺激されて、「こいつの上にオレは立って(君臨して)いいんじゃないか?」と思うようになってきて、

こうした潜在意識レベルのやり取りが積み重なっていくと、いつの間にか、男(夫)が完全に上で、女(妻)が完全に下、という関係性にたどり着いている、ということが、頻繁に起こるものなのです。


慢で固まった老いた男という生き物は、共通して、視野が狭く、自己中心的、独善的で、ケチ臭い。

しかも女性(妻)を、絶句レベルで見下し、モノ扱い(私有物)扱いする。

さらにこうした男に共通するのは、中身が空っぽということ。仕事くらいは真面目にやる男もいるけれど、総じて家の中では何もしない。あるいは、妻の領域を脅かすようなふるまいをする。
 
つまりは口うるさく干渉し、やりたいようにやりたがり、妻がやることは(自分のやり方と違うという判断をもって)否定したり、干渉したり、「教育」しようとしたりする。

妻は奴隷か、人形か、ペットか・・言葉にするととんでもないけれども、それくらい妻が人間であるということが見えない。わからない人間。


こうした男は、妻が言い返してくるということを想定していない。妻が反論すると、生意気とか、素直じゃないとか、性根が曲がっているとか、心を持った人間だということさえ認めないような物言いをしてくる。まさに何サマ?と思わざるを得ない言いざま。

その心理には、自分の都合しか見えていない。自分が完全であり、支配者であり、主人である。

対する妻(と「オレが認めてやった女」)は、不完全であり、従順であるべき奴隷であり、奉公人である。「なにしろ養ってやっているんだから」みたいな思い上がりを本気で持っていたりする。

こうした思いを、男は無自覚のうちにやっている(問題だと思っていない)。
 
無自覚だからこそ、本音・本心がポロポロとこぼれ出てくる。
 

女性は次第に、自分が対等な人間扱いされていなかったことに気づき始める。

本当はもっと早くに気づいてもよかったかもしれないけれど、こちらの心にもいろんな課題があって混乱してもいたから、気づけなかった。

でもようやく見えるようになった・・・で、見えたから決断して、行動に移した。離婚、そして脱出。


そういう女性が複数いたのが、今日という日。
 
3連休最後の祝日は、離婚(報告)記念日だったのです。


別れて生きること(離婚)を持ち出した時の、慢の生き物(夫側)の反応は、2タイプあるような気がします。

1つは、何を言っても無駄だというあきらめに立つタイプ。もともと他人だから・・と切り替えてしまう。つまりはそれくらい、実は最初から別の目で見ていた(見下していた・身勝手だった)かもしれないタイプ。

もう1つは、このオレ様に別れを切り出すとは生意気な、許せない、と根に持つタイプ。こちらのほうが多いかも。

こうした人は、過去の財産をどうするかなど、お金のことを言い始める。「損したくない(オレのものだ)」というのが、その本音。

前者のタイプなら、ラッキーと言えなくもない。こちらの執着を手放しさえすればいいのだから。あとは自分の人生を生きるのみ。

後者のタイプなら、脱出まで、もうひと苦労が必要。離婚後の人生のために、守るべきものは守らなければ。そのための作戦を練らなければいけない(ぜんぶ手放しても生きていけるという状況にある女性なら、出ていくだけでいいけれど)。


新しい人生に踏み出す女性が知っておきたい真実をいくつか:

◆長く続いた相手・生活から脱出することは、変化を嫌う心にとっては、それ自体が未知の挑戦であり、恐く、荷が重く、憂鬱で、不安を誘うもの。

でも、それは通過儀礼みたいなもので、避けては通れないが、一日一日を重ねていけば、次第に慣れていってしまう程度のもの。


◆失った時間は、喪失(間違っていた、無駄だった)に見えるかもしれないが、これは心が「そう見せる」もの(いわば錯覚)にすぎない。
 
心は過去に価値を見たくなる。意味があった、頑張った、報われた・・・と思いたがる。

そうした思いを通してみるからこそ、過去は意味がなかったように見える。だが、過去そのものは妄想だから、意味があってもなくても、実は大差ない。

大事なことは、この先の新しい時間をどう生きるか、だ。


◆女性によっては、恐くて足がすくむ・・・といった心理に駆られるかもしれないけれど、住む場所と仕事(生計の手段)があるなら、いずれ必ず新しい生活になじんでいく。

と同時に、自分のために使える時間が増えていく。もう誰にも支配されず、気兼ねすることなく、自分の毎日は自分で選べるようになる。

トータルで見れば、自由が増えて、不自由が消えていくということ。

別れる直前というのは、いわば、久しぶりの長旅に出る直前のようなもの。荷造りがめんどくさいな、やっぱり家にいようかなと思ったりもするが、いざ旅に出て、旅に慣れると、旅の楽しさが入ってくる。

そういうものです。


◆もし新しい自由な人生に足がすくむ思いがする女性がいたら、

いったん目を閉じて、自分のためらいや怯えを自覚して、

「この足を踏み出すんだな、恐いな」と思いつつ、

目を閉じたまま、実際に一歩踏み出してみよう。
 

あら、しっかり足がつく! ことを確認する。そう、それが本当の現実。

 
足がつくし、歩いていける。地面はどこまでも続いている。そっちが本当。

そのうち歩き慣れると、地面がある(足がつく)ことが当たり前になる。かつて落ちるかも、先がないかもと不安がっていた自分こそが、妄想だったのだとわかるようになる。


不安なく、歩きたい方角に歩いていける。
どこに出かけるも、どんな景色を見るのも、自由。


それが離婚した後に始まる人生です。大丈夫。


ある有名な短歌になぞらえるなら、


自分を生きようと決めたから
〇月〇日は離婚記念日


(自由記念日 のほうがいいかも?)
 


「なぜ似たタイプの人と出会ってしまうのだろう?」と思う人へ

 






2024年11月初旬


理不尽と闘うということ

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)


世の中は、理不尽に満ちている。

理不尽を作っているのは、たいていが傲慢な人たちだ。

彼らは平気で人を傷つけ、害を及ぼし、その後に言い繕い、嘘をつき、難癖をつけ、言い逃がれの屁理屈を語り、

傷つけられた側が、いつのまにか悪者であるかのように見せる術に長けている。

真っ当な人たち、つまり傷つけられた被害者は、自分にも落ち度があったのではないか、自分が悪いのではないか、自分さえ我慢すれば、犠牲になれば、自分以外の何かを守れるのではないかと考えて、

背負わなくていい苦しみまで背負ってしまう。

どんなに被害者側が、なるべく穏当に、他の誰も傷つかないようにと、ひとり苦痛をかみしめ、犠牲・負担を背負っても、

現実に残るのは、傲慢な加害者たちの嘘と無責任と野放図と、何もなかったかのような欺瞞に満ちた日常だ。

彼らは、自分たちが、どれだけ人を傷つけ、損害を与え、苦しみを強いたかについては、最後まで見ないフリを決め込む。「なかった」(むしろ困らされているのは自分たちだ)というのが、彼らの言いグセだ。

こうした人間たちは、放っておいても、決して反省しないし改心もしない。責任を取るという発想は永久に出てこない。

人を傷つけておいて、自分はさも善人であるかのような顔をし続けようとする。

その時点で、彼らは悪人なのです。最もタチの悪い悪人たち。


もしあなたが、誰かに傷つけられて、いったい誰が悪いのか、もしかしたら自分が悪いのかと、まだ混乱の中にいて独り苦悩しているのなら、こう考えてください:


◆問題の原因を作っているのは、「事実」を引き起こした側である。
(その者たちがそんなことを言わなければ、しなければ、こんな事態は、こんな被害は生じていなかったといえるなら、罪を背負うべきはその者たちである)

◆その場合は、理解を求めることは間違っていない。

◆ただし、最終的には社会に理解を求めることになるので、事実(つまりは証拠)をきちんと示す必要がある。

◆いずれにせよ、他人が作った問題については、自分が悪いわけではない。

あなたは犠牲者であって、罪人では絶対にない。

◆被害を被った者は、被害を訴える権利がある。それが市民社会のルールである。


しっかり心を守ってください。

理不尽に対しては、泣き寝入りせず、堂々と被害を訴えてよいのです。






2024・10・27
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正しく生きることの意味(原始仏典から)

名古屋・栄中日文化センターで開催している仏教講座から一部抜粋します。

価値のある知識および生き方の両方を学べるように構成しています。

かなり硬派。でも教材の専門性(いわゆるガチ度)とは別に、講座そのものはゆるめの楽しい雰囲気で毎回やっています。

自分を向上させるには「学び」が必要です。

学ぶきっかけとして、活用していただければと思います:

 

正しく生きることの意味
Mahādhammasamādānasutta
Majjhima Nikaya 46

                            
 私はこのように聞いております。あるとき世尊は、サーヴァッティ近く、ジェタ草苑のアナタピンディカ長者の僧院に滞在しておられました。そこでこのような対話をなさいました――。

「道の者たちよ、人々はこのような願い、欲望、期待を持つものだ。ああ、嫌いなもの、欲しくないもの、気に入らないものが減って、好きなもの、望ましいもの、気が合うものだけが増えてくれたら!と。だが現実には真逆のことが起こる。それはなぜだと思うか?」

 弟子たちは、自分たちの見解を述べるよりも、純粋にブッダの言葉を聞くことを求めた。その真摯な姿を受けて、ブッダは話し始めた。

「生き方を知る(*原典は「高貴な」)人々に出会ったことがなく、その教えについて鍛錬も習熟も得たことがない者がいるとしよう。彼らは自分が取り組み、育むべき実践(修行)を知らない。どのような習慣を避けるべきかも学んでいない。

 そこで彼らは心赴くままに、手を出すべきではないことに親しみ、育てるべきことを鍛錬しようとしない。結果的に、好ましくない、望ましくない、気に食わない物事が目につくようになる。他方、好ましく、望ましく、気に入る物事は目に入らないようになる。これが道理を知らぬ者の定めである。

 だが、学のある(≒生き方を知っている)修行者は、そのように生きる(高貴な)者と出会い、その教えを習い、鍛錬し、習熟している。彼らは真実の人と真実の生き方を知っている。自らが鍛え育むべき実践(生き方)を知っており、手を染めるべきではない習慣も理解している。

 ゆえにおのれがなすべき実践に励み、遠ざけるべき物事から離れている。こうした心がけで生きるとき、好ましくなく、望ましくなく、気に入らない物事は減り、好ましく、望ましく、気の合う物事が増える。それが道理を知る者の定めである」。


<解説>

“執着”(維持したがる心の状態)は、みずからの反応の繰り返し(再生、いわば輪廻)と、生活環境、人間関係によって支えられる。反応の繰り返しは、そのことを思い返す(妄想する)ことで生じる。

 自分を取り巻く生活環境は、同様の刺激を心に与えることで、同じ反応を繰り返させる。同様の反応を促してくるのは、関わる他者も含まれる。

 学ぶとは、そうした執着状態にある心とは異質の生き方を聞いて、理解して、考えて、納得して実践することである。これは学ぶことでしか得られない。執着したがる心は、同じ反応を繰り返すことに全エネルギーを使うので、“新しい生き方”は発想として出てこないのである。

「なぜ自分は繰り返し不快な人間や苦痛な出来事に遭遇してしまうのだろう?」という問いへの答えは、「すでに不快・苦痛な人間や出来事に遭遇して思いきり反応してしまったために、執着状態に陥っているから」という説明が正しい。

 執着した心は、おのずと、同様の反応ができる刺激のほうに向いてしまうのである。「まったくどいつもこいつも‥」と文句を言っている人は、不満を覚えつつも、文句を言えるような相手だけを見ているのである(慢を満たせる快楽が、その状態をいっそう長引かせる)。

 問題は、不快・不満のループに見事に嵌っている自分自身を、相対化・客観化できるきっかけがあるかである。「バカバカしい。このままではいけない」と、多少の聡明さがある人間ならば、おのずと気づく可能性もある。だが執着に心が支配された人は、永久に執着し続ける。

「学び」は前者に属する人を助けてくれる。学びそのものが、執着を抜け出すきっかけになることもある。

 歳を重ねると、学びの機会が減ることも多い。すると執着しか見えなくなる。執着に慣れすぎて、学びの機会が視界に入らなくなることもある。

 この点において、学びの機会に恵まれた時期、つまり子供・青年時代は貴重ではある。できることなら、執着し始める前に「生き方」を知っておくほうがよいが、執着による苦しみを体験しないと生き方に目覚めないことも、真実である。「学ぶ」という営み自体が、執着する生き物である人間には、「高貴」であるに違いないのである。


*執着を劇的に強化する行いが、「四六時中スマホ」かもしれない。好ましいもの、望ましいものが欲しいという発想さえ駆逐されて、他人事への詮索、判断、妄想、気に入らないこと、不平不満、倒錯した正義感などへの執着に、心が占領されてしまう。

 こうした事態に陥ると、もはや学ぶという営みから切り離され、ひたすらネガティブな執着だけを繰り返して、そうした自分に気づくこともなくなる。執着の終着地点は、“心の廃人”かもしれないということである。



栄中日文化センター10月期開催中(単回の受講も可能です)

2025年は3月第3週の特別講座から始まります

お問い合わせ 0120 - 53 - 8164

https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html




心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


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<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


夏の日の独り言 8月15日


8月15日は、あの戦争が終わった日。


だがあの戦争を覚えている人は、徐々に確実に少なくなっている。

心なしか、戦争を振り返る声(報道や行事)も減りつつある印象もある。

あの戦争を振り返る時はたいてい、戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦争が起こらないようにという願いを確認するものではあるけれど、


もっと正確に言えば、戦争を繰り返さないためには、「思考する」ことを育てなければいけないのだろうと思えてくる。


現実に何が起きているのか。

それがどんな結果をもたらしうるのか。何が原因か。

どんな方法がありうるか。


こうしたことを考え抜いて言語化しなければ、問題が起きても気づかず、気づいても方法を思いつかず、

よくて現状維持、悪ければ現状悪化、さらには心が持つ弱さ・醜さ・狡猾さに負けて、個人の人生に、そして世界に、いっそう苦しみを増やしてしまう事態につながりかねない。


共通するのは「無思考」だ。問題を見ず、原因を考えず、方法を考えず、望ましい未来を思い描かず、苦しみに満ちた未来を想像しない。


あの戦争においては、本当に戦争を始める必要があったのか、いつ終わらせるのかを、冷静に考えた人間は少なかった。当時の人々の多くは(すべてとは言わないが)、正しい戦争をしていたと信じていたし、終わらせようとも考えていなかった。

(※日清・日露戦争当時から、日本人は戦争することを願っていたのだ。メディアも市井の人々も。日本人は戦争を好んだ。そのことは否定できない事実であったように見える)。

 

無思考こそが、あの戦争の原因だった。


今の時代はどうかといえば、やはり同じだ。おそらく本質は変わっていない。

気候変動どころか、沸騰化しつつある大気の原因を考えない。打開する方法を真剣に模索しない。なんとなくこのままでも経済活動は続けられると信じている。無思考。


政治システムが変わらない。腐敗と停滞は長すぎるほど続いているのに、変わらなければという声が実を結ばない。変わるためにはどんな制度(アイデアと法律案)がありうるかを議論せねばならないが、真剣に考える人間は、政治家にも(与党にも野党にも)、かつては立案の多くを担っていた行政官僚にも、学問・思想の世界にも、いない。無思考。

(※ここで想定しているのは、法案の前段階になりうる草案レベルのアイデアだ。すぐにでも国会で議論できるくらいに洗練された制度案。それを考え、実際に書ける職業人。)


教育が変わらない。学校の現場は限界を超えているし、知的創造力を育てる教育プログラムはいくらでも議論し変えていいのに、いまだに国が管理し、教育のすべてを統制しようとし続けている。無思考。


個人が生き方を考えようとしない。心の魔(悪意)に流されて、他人を傷つける言葉を平然と語り、自己顕示と自己主張にエネルギーを費やす一方で、どうやら幸せは増えていない。無思考。

命と健康を守るはずの医療が、営利か別の思惑があるのか、人々に過剰な負担と未知の危険を強いる、そんな事態に無神経になった。無思考。


マスメディアは公平さと分析力を失った。報道本来の意味を考えず、表面的な話題と恣意的に選択(忖度)した情報だけを流すようになった。主観的印象に過ぎないが、そうだとすれば、これも無思考だ。


最大の憂慮すべき問題は、そもそも思考するとはどういうことかが、わからなくなったことかもしれない。学者・知識人・評論家・専門家・文化人と称される<知>を担う者たちが、個人的な意見や感想しか語らなくなった。


現実に何が起きているか? 事実か否か? 客観的なデータは? どう分析すればいいか? どんな解釈がありうるか? そもそもの目的は? どんな方法がありうるか? どんな結果・効果が考えられるか? どんな基準で選択すべきか? 人は何を大切にすればいいか? いかに生きることが正解なのか?


すべては言語化できるもので、言語化することが<知>の役割であるはずだが、<知>を明瞭な言葉で示してくれる人間の数が減った。

政治・経済の機能不全、メディアの偏向、SNSを通じた自己顕示と自己主張の増殖、価値観の閉塞、<知>の衰退・・・

同時進行中であろう原因は複雑多岐にわたるが、共通するのは「無思考」である。そんな気がする。


無思考が続く限り、人間は過ちを繰り返す。

なぜなら心は、過ちの原因である貪欲と傲慢と妄想と怒りに満ちているものだから。


あの戦争を思い起こす日とは、無思考の罠に気づくべき日であるような気がする。

そもそも思考とはどういうものか。思考とは何だったか。それを思い起こす日にせねばと思える。


せめてこの場所は、思考とはどういうものかを思い出し、思考するとはどういうことかを改めて学ぶ場所であろうと考える。


8月15日は、思考の日。


それがこの場所における受け止め方。独り言。


※著作・講座・講演・看護専門学校での講義ほか、すべての場所において「思考」し続けます。その中身は、それぞれの場所においてのみ(思考を求める人との間でのみ)伝えていきます。慈悲にもとづく思考--それがこの場所の役割です。


2024年8月15日




今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

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