就職活動やお見合いや試験について、うまくいく仏教的秘訣は、
結果はひとさま次第
というところに立つことです。
自分を選んでくれるかは、相手(ひとさま)次第。どちらでもかまいません。
という立場に立ってしまうこと。
相手が完全に自由なのだと、相手に伝わることが大事になります。
そのうえで、
働く機会を与えてくれたら、がんばりますよ、
一緒に生きていくことを選んでくれたら、大切にしますよ、
これまでの努力と成長を認めてくれたら、合格後も努力しますよ
という思いを向けること。
いずれにせよ、成るも成らぬも、ひとさま次第――というところに立つことです。
そうして、相手も自分も自由になること。
まだなんの関係性も成り立っていない以上は、互いに完全自由という状態こそが、本来の姿なのです。
◇
そこに執着・思惑が入ってくると、本来の姿に歪みが生じ始めます。
特に、選ぶのが相手方(ひとさま)にある場合は、その歪みというのは、圧力や過剰な期待として伝わってしまいます。
こちらの不安、焦り、ああではないか、こうなるのではないかという妄想もまた、不穏な圧力めいた雰囲気として伝わってしまう。
その雰囲気を察知した時点で、相手は逃げてしまいます。
◇
ちなみに、お見合いや男女間において、持ち込まないほうがいい筆頭が、宗教です。
「お仕事以外はどんな過ごし方をされているのですか?」と聞くのは、相手を知るため、日常会話の範囲内ですが、
「どんな信仰をお持ちですか?」
「どの占い師が好きですか?」
「スピリチュアルに興味ありますか?」
といった質問をするのは、自爆行為です(そんなことを聞く人もめったにいないと思いますがw)。
一人で生きていた時代に見つけたものは、一緒に生きていく誰かを見つけたときには、本当は「卒業」すべきものです。
あるいは、最初から、そうしたことが共通している人を探すかです。
自分にとってこだわりがある、大事にしたいものなら、最初から正直に伝えるべきだろうし、
それほどでもない、卒業していいと思えるものならば、誰かと生きていくと決めたときには手放してよいものです。
手放せるものであれば、最初から伝えなくてもいいのではと思います。昔付き合っていた彼女・彼氏と同じようなものかもしれません。いちいち言いませんよね(笑)。
新たな関係に必要ないものは、持ち込まない。静かに手放す。
新しい場所・新たな関わりに必要なもの、価値を持つものだけを持っていく。
ということです。
ともあれ、人と人との関係は、互いに自由、ひとさま次第というのが、自然です。思惑を持ち込むと、あまりいい展開にはなりません。
もちろんいったん生じた関係については、理解を求めての努力が必要にはなってきます。
そのときには、伝え合うこと、交渉すること、さらには駆け引きや、ときには揉め事・争い事にまで至る可能性もなくはなく、それはそれで仕方がないこと(関わったことにもとづくコスト)として引き受ける必要があります。
ただ、人間同士の本来のあり方は、
自分も自由だし、相手も自由。
受け入れてくれるかは、ひとさま次第。
という境地でいることなのです。
よき展開を祈っています。
2026年8月11日
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
就活・婚活の満願成就
撒いた種が実るのは
着実に技(こういう場面ではこう対応する)を身に着けていけば、次第にラクに成果が出せるようになると思います。
続けるほど楽になっていく、実りは大きくなるというのは、間違いのない、自分らしい道を歩いている時に起こります。
できることは残されている
かつて肉親であった人たちのこと、詳しくお聞かせいただきました。
◯親については、「それ以降会っていない」ということですから、すでに終わった人間です。もし今なお影響を受けているとしたら、自分自身の執着です。
本当は、妄想の残り滓だと割り切って、思い出さないくらいに遠い過去にしてしまうこと一択です。
なりたかった職業というのも、今となっては妄想に過ぎません。別の役割を果たしなさい、別の人生を生きなさいというメッセージなのです。
逃げグセなどの影響が残っていることは、よくあります。そうした「呪い」のような負の影響から全力で脱出することが、人生の第一の課題です。
いずれの親からの影響が強いかについては、
自分の執着がどちらの人間に対してより強いかによって決まります。
自分が覚えている人間の姿というのは、必ず影響を受けています(完全に忘れることが一番正しい方向性である所以=理由です)。
が、怒りであれ、わかり合いたいといった未練であれ、その人間を脳裏で追いかけているという状態そのものが、執着に当たるのです。
怒りといっても、もう「終わった」はずなのだから、それを引きずっているのは、自分自身の執着でしかありません。その執着を切除すれば、解決します。
喩えるなら、あなたは負の影響を受けて「風邪を引いている」状態なのかもしれません。
執着をすれば、伝播(感染)する。意味がありません。「意味がない」と自覚したところから、心に刷り込まれた負の影響との「闘い」が始まるのです。
人は気づかないうちに、親だった人間そのものになってしまっているものです。
抜け出すための努力だけを、どれだけ積み重ねるか。それだけが唯一、考える価値のあることです。
大抵の場合、「もっとまともな、マシな人生(を生きたかった)」というのは、貪欲、つまり都合の良い妄想だったりします。
正しい思考は、「本気で願うなら、まずは自分の足元を掘り起こせよ」ということになります。
人間はただでさえ欠落や弱さだらけなのだから、不満を感じた場合は、ほぼ百%の確率で、まだ自分の側でやっていないこと、まだできることがあるものです。
できることを数えれば百でも千でも見つかるだろうけど、それを追いかけるとまた都合の良い妄想(貪欲)になってしまうから、「まずは一つできることをやる」ことになります。小さなプラスを重ねて(増やして)いく。
まともな人生を生きようと願うなら、本当は、それしかないのです。
執着にとらわれた人(心の状態という意味ですが)は、とらわれた心を通して世界を見るから、出口が見えない。心が動かない。壊れているとも言えるし、固まっている、凍っているとも言えます。
ただ、それは執着にまみれた心を通してしか見えないから(ごく自然なこと)です。わかりますか?
その心の中にある原因さえ取り除けば、壊れていたと感じていた心は治るし、動き出すものです。
「生まれ変わった」という実感は、単純に、心を支配していた過去などの執着がなくなった時に、自然な感想として出てくるものです。
仕事は変えてもいいのですが、心が変わらなければ、どこにいても、何をしても、感じることは同じままです。それは確か。
ただ、仕事をしない、何もしない、という選択は、正しい治療法(選択)にはなりません。原因は、仕事や外で出会う人たちではなく、自分の心の中にあるからです。
ひとつお勧めします。この手紙を読んだら、何も考えずに、理由を探さずに、財布だけ持って外に出てください(携帯は置いていくほうがよいです。財布は何か買いたくなったとき用w)。
「心の声に耳を貸さない」ことも、すごく大事な意味を持ちます。まずはいったん外を歩いてみること。
できるでしょうか。
2025年6月
親からの負の影響を脱出するには
「これまで何をして生きてきたのだろう」という人へ
おたよりありがとうございます。
全体に目を通した感想を最初にお伝えするなら、「十分に頑張ってきた(頑張らなくていいことまで頑張ってきた)ので、無理をする必要はありませんよ」というところになるかと思います。
生きるというのは、もともと単純素朴なものでよいのです。ただ働く、ただ生きる。それだけ。「事実としてとらえる(生きる)」ということかと思います。
人間以外の生き物は、おそらくそういう生き方をしています。命がかかっている過酷な環境にはあるけれども、悩んではいない。ただ生きる、ということを続けているだけです。
これは、一切の妄想から解放された仏教的な生き方とすごくよく似ています(違うのは、「仏教的な生き方」は、そうした「ただ生きる」を自覚的に選んでいるところです)。
◇
そうした生きるの基本線に照らしてみると、本来ならいくつか理解を掘り下げてほしい部分が出てきます。
ひとつは、やはり親の影響。どういう親から、どんな影響を受けて、今の自分にどんな心のクセがあるのか。いわゆる業を自覚する(言語化する)ことです。
言語化できれば、そうした心のクセが出てくるたびに、「また出てきた」と気づくことが可能になります。気づいたうえで、妄想を切って捨てる実践に入ります。実践というのは、事実確認(ラベリング)とか、間隔を意識するとか、つつしみに帰るといった仏教的方法の基本をやることです。
※『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』筑摩書房
◇
幸福とは何かが分からないということについて――幸福が分からないというより、「生きている実感がない」ということです。生きている実感を体験することが、めざすべきことです。
それには、業(心のクセ)を自覚し、妄想から抜ける実践をすることです。
つまりは、考えるよりもまずは外に出るということ。どこでもいいので「向かってみる(出かけてみる)」こと。『反応しない練習』の中では歩くだけ歩こうという話が出てきます。あのあたりの話です。
幸福というのは、本来は「ただ生きる」時間そのものを言うのです。何もしていなくても、考えなければ(妄想しなければ)その時間を幸福と表現することは可能です。というか、何もしない時間を当たり前のように過ごせることをめざすのです。
「それができないから悩んでいる」と思う人は多いと思いますが、今の自分の脳内言語(思考)の順序が真逆(あべこべ)になっていることに気づいてもらえたらと思います。
考えてもしようがないことは考えない。幸せという言葉で思考を組み立てることも、正しくない。
「幸福を感じられない」ということは、「生きている実感が持てない」という事実のことであり、そこには「心の動きを止めている原因がある」ということを理解して、「ならば本当の原因は何だろう?」と考えて、先ほど伝えた「実践」に戻る――。
それで、「考える」は完結です。それ以上に考えることは意味がありません。「これ以上考えるとしたら、それは妄想だ」と自覚する。そこまで(終了)です。
◇
今の仕事が苦痛でこれ以上無理だというなら、無理する必要はないように思います。「ただ生きる」という生命線(前提)さえ確保できれば、仕事というのはなんでもよいはずなので。
「働かないとする事がない」というのは、働く理由として立派(正しい)です。人間というのは一般論として、それほど中味はなかったりするもの(それが真実)です。空っぽ。そもそも「無我」。
だからこそ、何かをして埋めていくことになります。生きるために糧を得る必要がある、だから働くというのが正解だし、それとは別に「他にすることがない」から働くというのも、立派な理由です。それでいいのです。
「それでいい」と思えないのは、妄想するからです。まだ何かを求めている(期待している)のかもしれません。
それは何なのでしょう? 誰かを見返したいのか、誰かからの期待にいまだ応えようとしているのか、それとも刷り込まれた自分の中の承認欲が働いているのか――。
そういうものは「もういい(必要ない)」と思えるようになるまで、きちんと自分の心のクセ・アタマの中(思考)をしっかり見つめて、書き出して(言語化して)、客観化するのです。
ほとんどの時間を妄想に使っているから、後になって「何をやってきたのだろう」と思うのです。ほとんどの妄想は残らないから。残る妄想は決まりきったパターン(もう何度も繰り返してきているもの)でしかないからです。
◇
働き続けることは、正解です。場所・仕事内容は、なんでもいいのです。生きるため。あるいは、誰かの役に立つため。
役に立っているというのは、すごいこと(価値あること)なのですよ。それだけで人生を丸ごと肯定していいくらいの偉業です。
役に立てる限りは役に立って、それも難しくなったら、その時こそ自分のために、自分の時間だけを過ごす日々に入っていくのです。
生きるというのは、どんな段階にあっても価値がある、生きる意味があるものであって、それは仕事があってもなくても、身を引いた後でもまったく変わりません。不動です。
なぜなら、「ただ生きる」ということだけが、生きるという営みの本質(すべて)だからです。
だから、何歳になろうと、どんな状況にあろうと、生きること自体は肯定すべきもので、そのためにこそ無駄な妄想・負の妄想にとらわれないように心がけることが、「仏教的生き方」ということになります。
それはこれからもできるのではないでしょうか。
2026年6月
後悔しない選択を
人生の最終ゴールは、「これでよかった」「この人生が最良」と思えること。
それは完璧な人生を生きることではありません。生きることは不確実な出来事の連続だから、望まないことにも遭遇します。
望まない相手、たとえば人間や事故や病気にも出会います。
そのうえ自分自身もけっこう弱くて、危(あや)うかったりします。遭遇する出来事に過剰反応したり、引きずってしまったり、だらしなく過ごしてしまったり。
スイスイと順調に進むことのほうが少なくて、進み始めた途端に衝突したり故障したりと、まあほんとに「うまくいかない」ことのほうが多いものです。
生きるというのは、きっとこうしたつまずきや妨げに満ちているもの。ガラクタの中を進んでいくようなもので、進む自分もまた期待するほど上等ではなかったりします。不器用でどこか抜けてしまっているかのような。
後悔しない選択をする――ことのような気がします。
「あとで後悔しない」ような過ごし方をすること。
後になって、「あの時もっとやっておけばよかったな」とか「もっとできたはずだよな」と思わないように過ごすこと。
「今を正しく過ごせているか」を自分に訊くようにすること。
もしあまりいい時間の過ごし方ができていなくて、過去に遭遇した相手や出来事を引きずっていたり、弱い自分に流されていたりした時は、
「今の自分をこのまま続けていたら、どうなる?」と想像してみること。
正しく過ごせていない今をそのまま繰り返しても、やっぱりその未来には正しく過ごせていない今がやってくる。
しかもずっと正しく過ごせていない自分が続いているのだから、どこまで行っても、自信が持てない。胸を張れない。「これでいい」という納得にはたどり着けない。
だから、今の自分はいい状態じゃない、今を正しく過ごせていないと感じるなら、どこかで必ず「今を断ち切る」必要が出てきます。
断ち切って、やり直す。もう一度イチから始める――というのが、唯一の正解。
その一本の道筋を邪魔してくるものが、外で遭遇する出来事(人間も含む)と自分自身の弱さ。
これらのつまずきは、きっとこれからも続く。まったく邪魔されずに万事がスイスイ快調に進むということは、そもそもない。
だから人生は、「やり直す」と「遭遇したくない出来事」とのせめぎあい。
負けることもある。でもやり直す。
負けが混む(続く)こともある。でもやり直す。
それが、あとで後悔しない自分を作る。
「あとで後悔しない自分」と「やり直す」は、イコール。
「あとで後悔しないか?」と自分に訊いて、「このままでは後悔しそうだ」と感じたら、「もう一度やり直す(やり直そう)」と考える。
枠を崩さずってどういう意味?
こんなおたよりをいただきました:
(先日のブログについて)
「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。
ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。
たとえばこう表現してみましょうか:
仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。
私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、
社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。
「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。
形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。
歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。
ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。
こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。
もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。
ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、
外の世界はつねに変わり続けている。
生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。
ということです。
「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。
新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。
こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり
外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。
それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。
正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。
正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。
私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。
外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。
そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。
その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。
だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。
そういう生き方をしていこうということです。
つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。
伝わりますでしょうか笑。
仏教を盗んでしまっている君へ
仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ
最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。
むしろ君の未来のことを気にかけている。
そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?
君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど、
その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。
だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、
君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。
私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。
ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。
CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない?
そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?
そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。
彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、
今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。
人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。
誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?
こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。
君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか?
壊れないよ。君が居場所を失うだけだ。
君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。
でもそれは、最後まで控えておこうと思う。
君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。
君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?
私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。
君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。
PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。
だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。
君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。
いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。
でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。
君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。
もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、
おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。
心と体を持った人間が。
奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。
君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、
人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。
もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、
嘘をつかず、
与えられていないものを受け取らず、
まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、
その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。
そして人様からの托鉢をもってその身を養い、
一日十二時間の瞑想をし、
パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、
少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、
日々の小さな務めを果たしてみるがいい。
できるかい?
できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。
私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。
だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、
人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、
その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。
だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。
もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、
その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。
私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。
あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。
苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。
私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。
嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、
だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。
そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。
君は世界の苦しみを増やしていないか?
君は想像しないのか?
だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?
誰も君を苦しめようとなんてしていない。
苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。
君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。
そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、
私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。
伝わるかな。
伝わるまで伝え続けるよ。
草薙龍瞬
P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。
私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。
だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。
だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。
自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。
なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。
それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。
敵じゃないんだよ。
2026年4月9日
苦悩ある人・場所にこそ
この場所は、あくまで 苦しみ(課題)を越える という目的をめざすところだから、
苦悩している人、同じ目的を共有している人や場所にこそ、関わる意味(役割)があるのではないかと思っています。
どれくらい自分自身の苦しみ・悩み・課題を自覚しているか、
(自分以外の人・物事、たとえば自分の子供のあり方についてではなくてね)
どれくらい真摯に、素直に、自分自身を見つめることができるか、つつしみを保てるか。
苦しみを越えられる可能性があることが伝わってきたときには、この場所はすぐにでも動きます。
その一方で、苦しんでいない人、悩んでいない人、自身の課題に気づいていない人や、
見ているものが自分の利益(お金や名声や自己顕示欲や承認欲の満足)にある人については、
そうした生き方・あり方はその人の自由(それも価値あること)ではあるけれど、
この場所はお役に立てない可能性が高いので、すみません(お役に立てません)とお答えすることになります。
この場所は、純粋な(というのも気恥ずかしいのだけれど真実)動機に立って、
どれだけ人・場所・世の中の苦しみや課題を越えていけるかを探っていくところだから、
その目的に特化して、それ以上に輪郭(守備範囲・対応できる範囲)を広げることを善し(価値あること)としない場所なのです。
だから、お役に立てないことが少しでも見えた(予感した)ときには、
静かに退くことにしているのです。
というのも、前提(動機)あるいは方向性(目的)にズレがある、そうした関係性について踏み込む(あえて言葉にする・説明する)ことは、
無用のストレス(相手からしたら快く思わないかもしれない)を招きかねないので、
これもあえて言葉にしないことを選ぶことにしているのです。
仏教の世界では「無記」といいます。
単純に、お役に立てません(でも言葉にすることでもありません、言葉にするところまでは行きません、そのほうがいいと理解しています)ということなのです。
これは、仏教に古来から伝わっている、守るべき戒律でもあります。
ブッダ自身が、そうした姿を保っていました。
他の意図はありません。単純に、純粋に、「この命(この場所)はお役に立てません」という意味しかありません。
そうした形で、マイナス(苦しみ)を増やさない(人さまに不快な思いをさせない、傷つけない)関係性を探ってゆくのです。
それでも、仏教の外の世界では、それぞれの期待や思いを広げる傾向にあるので、そうした思いを受けることも起こります。
そんなときにも、仏教においては、無記を保ちます。
「お役に立てません」という思いだけに立つことで、
自分の輪郭を保ち、また外の世界のさまざまな人さまの思いをも尊重する(肯定する)ことをめざしているのです。
あえて語らないことにも、仏教の世界においては、さまざまな配慮があります。思いやりという言葉に近い思いです。尊重、愛情、肯定、応援、配慮ともいえる思い・・。
この場所は限りなく小さく、研ぎ澄まされた善(価値)だけを大事にするところです。理解していただけたらと思います。
みんなそれぞれの場所で生きています。
それぞれの目的を、それぞれの価値を成就できますように。
みんなが幸せ(誰も苦しめない価値を実現すること)であることを祈念しています。
2026年3月
絶対に失敗しないコツ
『ブッダを探して』の連載終了後に、新聞社宛そして興道の里に感想のおたよりが届くようになりました。
そうかぁ、そう受け止めてくださっているんだなぁと少し新鮮に感じました。
「動く」ということが当たり前のこととして心に組み込まれているからかな、と感じました。
自分に動ける範囲で動く。思いついたことは「やってみる」。
結果的にかなり遠大な目標があるとしても、そこに飛びつくでもなく、また途中経過を人に見せたり認めてもらおうとすることなく(妄想ゾーンを広げず)、
とりあえずできることに手を着ける、ということを「やってみる」ように心ができているように感じます。
たとえば今回の連載のイラストは、「絵の勉強しよう」と思ってタブレットを買って、ちょこちょこいじってみるところからスタートして(十年ほど昔?)。
「やってみる」が重なって、結果的にできることが増えていて、
◇
これから始める活動も、たぶんそういう展開になると思います。
まずは着想から。そして今できることをやってみる。
もともと仏教講座もそうでしたが、私の場合は、生活のためとか事業の成功とかそういう動機でやっていることは一つもなくて、
「一人でも求めてくる人がいるならば」という思いでやってきたことです。
一人でも足を運んでくるなら、それだけで自分にとって価値あることになります。
社会的には無に等しくても、自分の活動が誰に見つからなくても、自分の中で価値を感じられる。
だから、「やってみる」だけで、即自分にとっては「成功」というか「達成」になってしまうのです。
よく何かを成し遂げた人が、「とにかく続けること」を秘訣として語りますが、それに近いのかもしれません。
で、やってみるときには「どうすればできるようになるのだろう?」という方法探求モードにすぐ切り替わるので、「できる」ことが増えていく。
仕事を見つけたいという人へ
前提(条件設定: うまくいかない原因と正しい心の持ち方)がそろわないと、頑張ってもなかなか前に進めないものかと思います。
前提というのは、たとえば自身の性格(繰り返している反応のパターン)や動機の部分です。
性格については、親の影響(業)を正確に把握する作業が最初に来ます。そのためには、親がどういう性格か、どのような関係のパターンを繰り返してきたのかを、客観的に理解する必要があります。
(『大丈夫』の本を、まだ読んでいないようなら必ず読んでみてください)
性格は、親との影響から作られるものなので、もし今の性格が社会との接点・関係を作るうえでマイナスに働いているのなら、やはり精神的に自立する(親から適度な距離を取る)ことも検討する必要があります。
この点、親と一緒に生活しながら精神的に自立というのは、なかなか難しいものではあります。どうしても過去の延長を生きることになってしまうので。
動機についていえば、仕事というのは、こちらから条件をつけるとうまくいかないものです。
仕事はただの役割でしかないので、相手の求めに応えるだけです。体を使う作業を求められているなら、自分の体を使って役割を果たすだけです。
おそらくご自身の「努力」の中身が、仕事を見つけることに結びついていないことも少なくありません。たとえばその努力の中身が、過去の親からの期待や要求を反映したものである場合です。
たとえば資格・技能というのは、直接役割には結びつきません。本人は努力する価値があるものと思えるにもかかわらず(親の影響は、こうした場面で親の期待に応えることもできる、といった妄想を作りだすことに作用します)。
役割に結びつくものは、ほかには、なんでもやりますという意欲 あるいは 経験 というものがあります。
経験というのは、なんでもやりますという意欲によって得られるものなので、最終的に最も大事になってくるのは、なんでもやりますという意欲 ということになります。
ご自身が、意欲だけで動けているかどうか、意欲というものの上に他の雑念(条件)を載せてしまっていないか、確認してみてください。
動機が、社会においてきちんと意味を持つ時というのがあります。
本当に人生が動き出すのは、その時から ということになります。
2026年1月
学校に居場所がないという君へ
(あるお母さんへの返信から)
学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。
合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。
特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、
誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。
このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。
◇
となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。
なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。
将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした
自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。
価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。
結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。
いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。
残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。
その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。
幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。
学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。
他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。
妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。
それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。
もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、
他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。
磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。
大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。
仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。
◇
だから、最終的に考えるべきは、
自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使うことだろうと思うのです。
その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。
それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。
本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、
行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。
難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。
同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、
学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは
将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、
それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。
どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。
自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。
3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。
これからです。
2026年1月
出家したいという人へ
ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。
「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、
◇
過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、
過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。
あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、
自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。
仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、
そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。
(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)
◇
もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。
形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。
けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。
◇
心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。
長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。
自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。
それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。
◇
職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。
その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。
本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。
しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。
それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。
◇
<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。
他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、
サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。
心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。
お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。
実際に「やる」「なる」ことです。
本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。
そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、
人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。
◇
まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。
そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。
どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。
理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。
2026年1月
自分の足で立って生きる場所
この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。
生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、
いつでも扉を開いています。
この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、
一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。
この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、
自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。
この場所が大事にしているのは、
自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。
出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、
そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、
誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、
つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、
せめて、今の自分に何ができるかと考えて、
この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、
という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。
この先の世界、本当にどうなるかわかりません。
だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。
2026年1月
自我への誘惑と突き破る努力
『反応しない練習』を最近読んだという方に向けて
「コレは!」と感じるものがあった人は、じっくり腰を据えて実践を続けることをお勧めします。
なるべく他の本もしっかり読んで、自分についての理解を深めてください。そして、「どうすればいいか」という具体的な方法を実践してください。半年、一年と。
多くの人は、自我(自分への執着)への誘惑に駆られた精神状態で生活しています。
だからこそ、そもそも本を読まない(学ぶ必要性を感じていない)人も世の中には多いものです。それは自然なこと。必要性を感じていないのだから、どのように生きるのも完全に自由だし、本人にとっては正解です。
他方、少しでも課題を感じている人、さらには明らかな悩みや苦痛がある人は、どこかに解決のヒントを探し始めるものです。
手っ取り早く動画やSNSやインターネット、生成AIに当たる人も多いはず。ただ、こうした世界は、お手軽な情報が手に入る便利さはあるけれども、やはり「それだけ(情報止まり)」で終わることがフツーです。
スマホやパソコンの画面を眺めて得られる情報には、自我への執着や妄想を突き破る力はありません。
それは本(活字を読むこと)でも同じですが、ただ、本の場合は、最初から最後まで一貫した書き手の視点で情報を追っていくという、それだけでも大きく違う作業が必要になります。
一貫して情報を追うというのは、それだけ能動的な知的作業が必要になる。しかも最後まで読み通すというのは、動画を断片的に眺めることでは得られない「視点をもって」、明確に限定された範囲内の情報に触れ続けることになる。
一定の知的作業、いわば心(脳)の姿勢みたいなものが一貫して必要になるので、得るもの・残るものも、それだけ(動画を眺めるだけに比べれば)深くなるのかもしれません。「頭を使う」ということでもあります。
そして、そこで得たものが自分にとって価値があると思ったら、しっかり言語化するか、行動に移して「習慣化」していくプロセスに入ることになります。
そのプロセスに入らないと、すぐに自我への執着・妄想モードに戻ってしまう。
自分のままに留まるか、自分を越える可能性へと踏み出すか、二者択一だということです。
だから、一冊の本を読んで「これはいい(価値がある)」と思ったら、まずは行動し続けること、実践を続けること。
そして、一冊の本には語られていない別の知識や情報や智慧(方法)があるかもしれないと考えて、同じ書き手の別の作品に手を伸ばす、という作業が必要になります。それこそが、深める、掘り下げるということです。
ですので、前向きな感想を送ってくださった方にお伝えできる次のステップは、「他の本も読んでみてください」ということになります。
相談に来る人たちに必ずお伝えしている、たとえば『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)を読んでみてください。
読まない人があまりに多いのです(それはそれでいいのだけれど^^)。
『反応しない練習』は入門編。たしかに読みやすい。でも自我への執着を突き破るところまでは進めない。
草薙龍瞬の作品は、同じことを書いていません(本質は共通しているけれど)。必ず新しい発見・学びが得られるように作っているので、一冊読んで「コレは!」と思える部分があったら、今こそ千載一遇のチャンスだと思って、ぜひ読んでもらえたらと思います。
(宣伝ではありませんよ、それだけ大事な、新しいことが書いてあるということです笑)。
2025年12月23日
自分で生活を始めたいという人に向けて
社会から長く離れて過ごしていた人から、
社会復帰したいという希望や、実家を離れたいという思いをお寄せいただくことがあります。
状況は人それぞれに違うので、簡単なことは言えないのですが、大まかな方向だけ言葉にしてみると、
社会に出ていくというのは、長く入院していた人が日常に帰っていくことに似ている気がします。
入院していた間に筋力はものすごく衰えているから、リハビリが必要です。
「自分の力でリハビリしよう」とはあまり考えないのではないかな。たいていはその道のプロの人に助けてもらうところから始めると思います。
社会復帰というのも、おそらく似たところがあります。自分の力だけで復帰しようにも、これまでは自分自身が重かったから、社会から離れて過ごしていたことになります。
だから、重たい自分の力で自分を動かそうとしても無理。すべてがしんどく面倒なことに感じて(打たれ弱くて)、結局元に戻ってしまう可能性が高いように思います(入院中のベッドに戻ってしまうようなもの)。
だから最初は、すぐに社会復帰しようと考えないで、自分以外の人たちがいる場所に「なじむ」ことから始めることではないかな。
地元の就労支援センターとか? 独り立ちするための支援をしてくれる行政プログラムをとりあえず体験してみるとか。
多少人に慣れてきたら、軽めの仕事でもいいし、職業訓練を受けてみるのもありかとも思うし。
最初は慣れること、体験してみること・・・何も考えずに。欲張らずに。小さいところから。
どんな体験もプラスにしかならない、とりあえずやってみる、そういう思いから始めるのです。
気をつけたいことは、最初が一番おっくうで、面倒で、つらいかもしれません。ただ、だからといって、戻っても、その時に見える景色はもう十分見てきているから、意味がない・・そう思えるかどうか。
もうひとつ気をつけたいことは、持ち前の欲張りが出てきてしまって、「すぐ復帰」「すぐ稼ぐ」「すぐ一人前」「できればもっと上の、ひそかに願っていた理想の自分」になろうとしてしまうこと。
そういう欲(求めすぎる心)に飛びついてしまうと、その欲をもって、目の前の人、場所、そして自分自身に反応してしまって、
不満を感じたり、失望したり、焦ったり、「うまくいかない」と思い込んで、結局元に戻ることを選んで(正当化)してしまいがちになります(理想の壁を自分で大きくしてしまうほど、障害が増えてしまう)。
リハビリは、脚を動かすところから。それができれば立ってみるところから。「ずっと入院して寝たきりだったのだから」と思えるなら、そういうチャレンジにも入っていけます。
社会復帰も同じことじゃないかな。少しずつ。まずは外へ。そして、人へ。外で人と過ごすこと。何かをやってみること。
まずは1日、そして3日、5日。半年くらいかけて、少しずつ。
やってみてほしいなと思います。
あえて親を親と思わないこと
どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。
“見える”ものは、伝えることもあるし、
業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、
だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、
つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・
苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、
どうした場合に善の業が育っていくかといえば、
「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」
◇
最も望ましいのは、「
いわば、善も悪も、いったん自分の外に置いてしまうこと。
業とは心のクセ・反応パターン
いわゆる性格や慢性的気分です
つい繰り返してしまう、
自覚があまりない、
そして
親から子に受け継がれる
ことが特徴です
詳しくはこの本をぜひ読んでください(筑摩書房から)
「宗教は嫌いです」という人に向けて
この場所とご縁いただいてまだ日が浅い人もいると思うので、あらためてお伝えしておくと、
・この場所は宗教を語る場所ではない。
・「仏教」と便宜的に呼んでいるが、本当は仏教でもない。
・人それぞれのテーマを解決する頭の使い方(若干おおげさに言えば知力)を育てる場所である。
そういう場所です。
付け足すなら、貪欲(過剰を求めること)が嫌い、自己愛も嫌い(自己愛とは承認欲が作り出す自己の正当化・美化)、
つまりは、虚飾も虚栄も我欲も自己演出も自己顕示も、すべてが嫌い(なんとひねくれた場所・・^◇^;)。
嫌いというのは「判断」になっちゃいますが、あえてそういう言い方をしておきます(笑)。俗世用の表現。
出家(仏教)の世界では「関わらず」ということです。
◇
宗教とは、他人に見えないもの(理屈でもイメージでも)を信じることをいいます。つまりは、妄想を信じる(在るとみなす)ということ。
本人には「在る(見える)」のかもしれません。だからありがたいと思うし、信じることに快を感じます。
自分にとっての快・やすらぎ・満足を得るというだけなら、自分の輪郭内のことなので、第三者は関係ありません。「そのままでいい(その人にとっては正しいこと)」のです。
でも、「在ると信じる(見える)」ということは、それ(信仰)以外のものは見えなくなるということです。
周りの信じない(無いように見える)人たちとの間に、その時点で距離が生じます。
その距離は、無関心・無理解・勘違いを作り出します。
◇
さらに利欲(信じること・信じさせることに利益がある)が絡むと、自分が信じるものを他人にも信じさせようという圧力や攻撃につながっていきます。
一見、人を救うためとか、誰かの役に立ちたいとか、それっぽい美徳・大義名分を作り出します。
しかしその動機の根底に、自分の信仰や正しさをわからせたい、もっと利益を上げたい、富、名声、権力を手に入れたいという(お決まりの)欲望が潜んでいると、
自分たちの信仰をもっと広めるため、信じさせるため、自分たちが求める利益を手にするために、さまざまな「戦略」を作り出していきます。
常識的にはありえないような利益(信じたことでこんな奇跡が!的な)や、
自分たちの信仰共同体の美しさや特別感をアピールするとか、
人の妄想(不安・心配・現実逃避願望)につけこんで、脅したり、いっそう不安がらせたりとか、
相手の妄想をぜんぶひっくるめて、自分たちの信仰にすげ替えることをもくろんだりとか(いわゆる洗脳)、
とにかくありとあらゆる無理--つまりは妄想の拡張、もっといえば侵略につながっていきます。
◇
客観的に存在しないもの、つまりは信じない人には見えないものというのは、
存在するとは言えない(言わない方がいい)し、
存在するものと思い込んでしまえば(信じてしまえば)、その分必ず、見てもらえない、つまり認めてくれない、愛されない、放置されたり無視されたりする人が出てきます。
その最たる犠牲者が、子供や家族です。
◇
信仰を持つというのは危うい面もあります。客観的に見れば、妄想に思考を委ねてしまって、考えない状態になるというかもしれない。現実逃避であり、思考停止。
「考えない」ことはラク。ただ言われるがままに、言われたことをやるだけでいい。
「自分は一生懸命にやっている」という自己満足が得られる。現実が見えなくなり、自分が信じているものしか見えないから、ますますこの信仰が絶対に正しい、自分は正しいことをやっていると思えてくる。
しかし客観的に見れば、周囲との距離はいっそう広がり、ちゃんと見てほしい相手(たとえば子供)を深く傷つけ、周りとの関わりを失い、
しかも信仰の実践という名目で、膨大な時間とお金と労力を奪われ続ける。
◇
儀式的なもの(いわゆる宗教行事、読経も含まれるかもしれない)は、ある程度までは、行いに意識を使うという点で、感情が落ち着いたり、心の状態が整うという効果はあるかもしれない。
でも過剰になれば、それはただ無思考を延長させるための手段、まさに「無思考の儀式」と化してしまう。
「瞑想」なんて、とんでもない間違いかもしれない(笑)。目をつむって、現実から目を背けて、都合のいい妄想に浸る状態なのであれば。
こういうのは、瞑想ではありません。というか、瞑想という言葉が本当は間違いなのです(仕方ないのでこの場所でも使ってしまったりしていますが)。
◇
信仰を持った親との関係で苦労している人であれば、
①自分自身の妄想グセを克服することと、
②焼きついた親の映像(姿)をも妄想として消してしまうこと
が、課題になります。
具体的にはどうすればいいか。日頃お伝えしている方法が役に立ちます。
あえて足すなら、「徹底して距離を取る」(物理的に最も遠い彼方に親を置く)ことが必要になるかと思います。
それが難しければ、自分にできる範囲で徹底して「妄想を退治する」こと。
まずは「方法」を実践することが、当面の方針です。
2025年10月末日
人に伝える資格
(ちょっとネガティブかもしれない話題:)
人に伝えるというのは、
特に、社会的な役割(職業)あるいは対価を得るプロフェッショナルとして伝えるというのは、
当たり前だけど、それだけの価値を自分が持っている必要があります。
知識、技術、ノウハウ(方法)、さらに決定的なものは、体験です。
体験がオリジナルであればあるほど、他人(人様)が聞く価値が出てきます。
たまに大丈夫かな?と思うのは、自分は伝える資格があるという装いをし、実際にプロとして活動していながら、
この場所にその分野について ‶教わりに‶ 来ようとする人がいることです^◇^;?
特に仏教、瞑想その他、心・生き方について、人に伝えるプロとして活動していながら、教わりに来るというのは、どういう状況なのでしょう?
すでに資格・立場を得たと自認しているわけでしょう?
だったら自分の力でやっていかないとね。
厳しい言い方になってしまうけれど、
伝える資格がないと感じているなら、資格があるフリをしてはいけないし、
伝える資格があるという看板を掲げているなら、その姿に責任を持たないと。
でないと、自分が偽者(はりぼて)、嘘をついている可能性が出てきてしまう。
それはね、絶対にしてはいけないことなのですよ。
過剰な見栄や野心など、承認欲が暴走した時に、人はつい自分以上の自分であろうとしてしまう。
「これくらい盛っても、見せかけても、通用するだろう」と妄想してしまう。いうなれば、虚飾。
虚飾は、等身大の自分を見えなくする。社会に欠かせない本当の価値を枯らせてしまう。
世の中、「なんちゃって〇〇」という立場・肩書、名乗った者勝ちという風潮も少なくないようだけれど。
この場所は、真っ当であること、誠実であろう、本物であろうという意志を大事にするところなので、
自分のあり方について悩んでいるような、真っ当な心がある人については、人として相談に乗りたいと思っています。
本当の人生は、飾り・ごまかしを捨てた時に始まるものです。
本当の自分を見極めたいという思いでいる人に向けては、応援したいという思いでいます。
2025・10
辛抱する人に贈る言葉
人生は山あり谷あり。
快調に進める時もあれば、辛抱強く日々を重ねるだけの時もある。
すべては因縁が決めることでもあるので、
倦まず、撓まず、焦らず、奢らず、
黙々淡々と日々を重ねることだけが、
正解なのだろうと思います。
2025年10月上旬
「そういう時期」という理解
9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。
サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。
でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。
来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。
◇
今がつらい人へ――
つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。
人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。
そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。
「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。
だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。
ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。
できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。
この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。きっと。
2025・9・11


