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「宗教」に迷わされている人へ

名古屋・栄中日文化センターの講座は、12月16日が年内最後。

みなさん、おつかれさまでした。来年は4月から再開します。

3月18日の特別講座・大人になった私たちはどう生きるか? は、すでに満席。16日(日)に臨時増設します。


世の中には、人間はそもそも悪人だとか、死んだら何かに生まれ変わるとか、そういう理屈がまだ存在しているのだそうです。たまにそういうおたよりが来ます。

心はそういうものじゃないのでは?――生まれた時にすでに汚れているというようなものではないし、死んだ後にまで残るような自我は存在しません。

(酒や薬でさえ簡単に飛ぶような意識が、体が灰になっても残る? それはどういう原理で?)。

人間はとにかく欲深だし、妄想が好き。それだけ自我が強烈。そういう人間の心が、あれこれと思いつく限りの、心とは、前世とは、死後の世界とは・・・みたいな理屈が溢れています。


みずからも妄想にまみれている人間は、そうした妄想に簡単に染まってしまう。「そうかもしれない」「きっとそうなんだ」と妄想した瞬間に、人間が作り出した妄想に巻き込まれてしまう。

騙されやすい人、迷わされやすい人の多くは、妄想を自覚していない。ふわふわとたわいないことを考え続けている。だからこそ、他人が語る妄想に簡単に染まってしまう。

さまざまな妄想を繰り広げて、信じて、振り回されて、奪われて、失って、それでも「そうかもしれない」という妄想から抜け出せない・・。その状態自体が罪深い。

いや、妄想をさも真実らしく語る欲深で理屈に長けた人間たちが、罪深い。


人間の心はそもそも汚れてなどいないし、罪も悪もない。本来の状態は。

だがどう反応するかで、悪にも染まるし、関わりの中では罪をも犯す。その意味では人間は愚かだし、罪深い存在であることが多いけれど、だからといってそれが前提だと信じてしまうと、大事なことが見えなくなる。

死後など考えなくていいし、自分が罪深い存在だと否定する必要もない。違うのですよ、そんなことは、人間が勝手に作りだした妄想でしかない。

人間は、生きられるだけ生きて、寿命が尽きれば死ぬ。それだけの存在です。その当たり前のことが、悪だの罪だの、なにか特別な物語(妄想)のネタになってしまう。そうした思いつきこそが妄想だと気づかないとね。


フワフワ、フラフラと妄想しているうちに、人生が終わってしまいます。

他人が作り出した妄想を信じるよりも、自分の心を振り返ってみてほしい。


罪も悪も苦しみも、もともとは(生まれた時には)なかったはず。自分が忘れているだけで。

いったいいつ、何がきっかけで、今の苦しみが始まったのか。どんな妄想を積み重ねて、迷路のような今にたどり着いてしまったのか。

原因は、過去にあるのですよ。心の中に(過去の体験の中に)あるのです。

人間の心は妄想まみれだから、そうした簡単な謎さえも解けない。

でも解決することは、実は難しくはありません。


人を迷わせるくらいなら、宗教は要りません。

解決できないなら、どんな理屈も説明も無益です。

捨てちゃえばいい、人間が思いつく程度の妄想はすべて。

宗教という妄想に見切りをつけるほうが、人は、生きるだけ生きるという当たり前の姿に近づくことができる。それがこの場所の立場です。


いつでも人は自由と幸せを取り戻せるのに。本当に妄想は罪深い。



2024・12月下旬
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真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



いつかはチョキン✂と


苦しみの原因は執着だ、とブッダは言ったけれども、これはかなり深い洞察に基づいた言葉です(まさにinsight:内側を見抜いた言葉)。

というのも、反応だけなら、いずれ消えるし、生きていくうえで反応は欠かせないものでもある。

(※たまに「反応しないなんてムリだ」と言う人もいる様子だけれど、本で伝えているのは「ムダな反応をしないこと」だ。本の冒頭で言っているのに・・伝えることは本当に難しい^^;)

業については、人生を丸ごと作る(支配する)くらいに強い力を持っているけれども、なぜ業が人生を支配するかといえば、執着してしまうからだ。

業を抜けて、自由を手にして、自分自身の(納得のいく)人生を生きるには、執着を切って捨てることが必要だし、それが始まりになる。


人がなぜ苦しみを背負うのか。苦労を重ねてしまうのか。

そこには、相矛盾する執着が潜んでいることが多い。

ちなみに苦労して家を支えるとか、苦労して子供を育てるというのは、自分で選んで納得して背負っているかぎりは、ここにいう執着ゆえの苦しみには当たらない。納得して頑張って生きている人たちは、尊き人たちだ。

ここで考えようとしているのは、慎重に選んでいるつもりが裏切られたり、うまく行かなかったりする場合。「なんで?」と自分でも首をかしげる事態に遭遇してしまう人のケース。

たいていは、親、子、結婚相手が絡んでいる。身近な人との間で苦労を背負う。

身近だからこそ重い。そして、報われない。

そうした日常の中を、暗中模索、五里霧中気分で生きて、いつの間にか報われない事故のような出来事に遭遇してしまう。

その出来事は、たいていは「外から」だ。事故のようにやってくる。だが不思議なことに、事故に自分から突っ込んでいっているかのような状況もある。

なんで?(なぜ私だけが?)と本音では首をかしげている。でも本人は殊勝に頑張り続けている。頑張れる体力がなぜかある。苦労を背負い続けて、心の体力だけはついているのかもしれない(それも限界があるけれど)。

なぜ望んでもいない苦労をいつの間にか背負ってしまうのか。

たいていは、執着が原因だ。しかも一つじゃない。二つ以上の執着。相矛盾する、ほんとは両立しない執着。

その執着を抱え続ける限り、人生を間違う。


一体自分は何に執着しているのか。どの執着を手放さなければいけないのか。

じっくり見つめて考える時間が必要だ。


それが、その人にとっての人生の転機。再生--人生のやり直し――の始まりになる。


どこで謎が解けるか、つまりは自己矛盾、二律背反の精神状態に気づけるかが、人生の分岐点になる。


最初の転機を迎えるのは、多くは三十代後半だ(※『心の出家』参照)。

しぶとく頑張って(執着して)いるうちに四十代に入る人も多い。

五十前後にもなれば、たいてい持ち前の業と、相矛盾する執着に取り憑かれて、「わけがわからない」状態になっている人もいる。

ブディズムという視点を通せば、なぜ自分の人生がかくもこんがらがってしまったのかは、ほとんど解き明かせる。

どんな迷走も混乱も、「必然」だったとわかる。その必然とは、執着が作り出すものだ。


その執着をほどくことができれば、矛盾、混乱は解消する。本来の自由な心、本人が「自分らしい」と思える自分を取り戻せる。

本当の人生は、そこから始まる。

執着さえ突き止めて、チョキン✂と切って捨てれば、人生をやり直すことは可能だ。おそらく何歳になっても。


今は熟年離婚も増えている。ひそかに「家出」する既婚女性もいる。逆に、振り回されて生き血を吸われてきたかのような夫が目を醒ますこともある。

本来、家とか子育てとか男女の仲とか、社会を未来につなぐために必要とされてきたもの、それはこれからも欠かせないはずのものが、崩れつつあるのが、今の日本かもしれない。

それはそれで痛ましい話ではあるのだが、間違った関係性を続けても、苦労が続くだけで、一人一人が病んでしまうから、

いったん関係性を解消して、自由を取り戻して、本当の生き方を一人一人がつかみ取って、できればその状態で未来につながる関係性をもう一度育てていく、という方角の方がよいだろうとは思う。

(人生は短すぎるから、解消するところまでで精一杯になることが多いけれど。でも始まらないよりは、まだそのほうがいいだろうとは思う。まずは自分らしい生き方をつかもうということだ)。


ともあれ、人生の迷走、混乱、行き止まりは、相矛盾する執着を抱え込んでしまった状態から来る。

その状態のままでは、まっすぐ進んでもなぜか事故る。そういうものだ。

何に執着しているのかをじっくり見つめて、答えを出すこと。

「これか」と突き止めて、チョキン✂と切除する。そうすれば、人生の病気は治る。何歳であっても治せる。


その希望だけは覚えておいてください。

頑張っているあなたに敬意を表します。


2024年11月中旬




離婚記念日のススメ

(決断であり、卒業した女性たちへの素直な祝福の記・・)
 
 
今日は、おめでたいことが2回続きました。

その2回とも、内容は限りなく近いものでした。

離婚して、自分の人生に踏み出すことを決意したという女性からの報告でした。

しかも新しい部屋を借りて自分だけの生活をまもなく始めることも、共通していました。


いや、すばらしいというか、おめでとうというか、よくがんばりましたね(祝)というか。


結婚生活を続けてきた背景は若干違いますが、今回の栄えある決断をした相手(夫側)には、共通項があったのです。

どちらも、やはり一言で言うなら「慢の人」だったという。

男という生き物は(と一応男に分類される私がいうのも妙ですが)、慢の生き物であることが多いものです。

それは、男の側が、同じく慢の生き物である父親から学んだ(刷り込まれた)部分もあるだろうし、

母親に甘やかされて慢を育てていった部分もあるだろうし、

生物学的性に由来する部分もあるかもしれません(攻撃性から来る慢。育てる本能を持つ生物学的女性とは異質のもの)。

最初の段階では、その慢はあまり表に出てこなかったとしても、女性の側が合わせたり、そもそも女性が逆らえない性格だったりして、

そういう「一歩下がる」「一段下に立つ」女性の姿を見て、男性(夫)側の潜在的慢が刺激されて、「こいつの上にオレは立って(君臨して)いいんじゃないか?」と思うようになってきて、

こうした潜在意識レベルのやり取りが積み重なっていくと、いつの間にか、男(夫)が完全に上で、女(妻)が完全に下、という関係性にたどり着いている、ということが、頻繁に起こるものなのです。


慢で固まった老いた男という生き物は、共通して、視野が狭く、自己中心的、独善的で、ケチ臭い。

しかも女性(妻)を、絶句レベルで見下し、モノ扱い(私有物)扱いする。

さらにこうした男に共通するのは、中身が空っぽということ。仕事くらいは真面目にやる男もいるけれど、総じて家の中では何もしない。あるいは、妻の領域を脅かすようなふるまいをする。
 
つまりは口うるさく干渉し、やりたいようにやりたがり、妻がやることは(自分のやり方と違うという判断をもって)否定したり、干渉したり、「教育」しようとしたりする。

妻は奴隷か、人形か、ペットか・・言葉にするととんでもないけれども、それくらい妻が人間であるということが見えない。わからない人間。


こうした男は、妻が言い返してくるということを想定していない。妻が反論すると、生意気とか、素直じゃないとか、性根が曲がっているとか、心を持った人間だということさえ認めないような物言いをしてくる。まさに何サマ?と思わざるを得ない言いざま。

その心理には、自分の都合しか見えていない。自分が完全であり、支配者であり、主人である。

対する妻(と「オレが認めてやった女」)は、不完全であり、従順であるべき奴隷であり、奉公人である。「なにしろ養ってやっているんだから」みたいな思い上がりを本気で持っていたりする。

こうした思いを、男は無自覚のうちにやっている(問題だと思っていない)。
 
無自覚だからこそ、本音・本心がポロポロとこぼれ出てくる。
 

女性は次第に、自分が対等な人間扱いされていなかったことに気づき始める。

本当はもっと早くに気づいてもよかったかもしれないけれど、こちらの心にもいろんな課題があって混乱してもいたから、気づけなかった。

でもようやく見えるようになった・・・で、見えたから決断して、行動に移した。離婚、そして脱出。


そういう女性が複数いたのが、今日という日。
 
3連休最後の祝日は、離婚(報告)記念日だったのです。


別れて生きること(離婚)を持ち出した時の、慢の生き物(夫側)の反応は、2タイプあるような気がします。

1つは、何を言っても無駄だというあきらめに立つタイプ。もともと他人だから・・と切り替えてしまう。つまりはそれくらい、実は最初から別の目で見ていた(見下していた・身勝手だった)かもしれないタイプ。

もう1つは、このオレ様に別れを切り出すとは生意気な、許せない、と根に持つタイプ。こちらのほうが多いかも。

こうした人は、過去の財産をどうするかなど、お金のことを言い始める。「損したくない(オレのものだ)」というのが、その本音。

前者のタイプなら、ラッキーと言えなくもない。こちらの執着を手放しさえすればいいのだから。あとは自分の人生を生きるのみ。

後者のタイプなら、脱出まで、もうひと苦労が必要。離婚後の人生のために、守るべきものは守らなければ。そのための作戦を練らなければいけない(ぜんぶ手放しても生きていけるという状況にある女性なら、出ていくだけでいいけれど)。


新しい人生に踏み出す女性が知っておきたい真実をいくつか:

◆長く続いた相手・生活から脱出することは、変化を嫌う心にとっては、それ自体が未知の挑戦であり、恐く、荷が重く、憂鬱で、不安を誘うもの。

でも、それは通過儀礼みたいなもので、避けては通れないが、一日一日を重ねていけば、次第に慣れていってしまう程度のもの。


◆失った時間は、喪失(間違っていた、無駄だった)に見えるかもしれないが、これは心が「そう見せる」もの(いわば錯覚)にすぎない。
 
心は過去に価値を見たくなる。意味があった、頑張った、報われた・・・と思いたがる。

そうした思いを通してみるからこそ、過去は意味がなかったように見える。だが、過去そのものは妄想だから、意味があってもなくても、実は大差ない。

大事なことは、この先の新しい時間をどう生きるか、だ。


◆女性によっては、恐くて足がすくむ・・・といった心理に駆られるかもしれないけれど、住む場所と仕事(生計の手段)があるなら、いずれ必ず新しい生活になじんでいく。

と同時に、自分のために使える時間が増えていく。もう誰にも支配されず、気兼ねすることなく、自分の毎日は自分で選べるようになる。

トータルで見れば、自由が増えて、不自由が消えていくということ。

別れる直前というのは、いわば、久しぶりの長旅に出る直前のようなもの。荷造りがめんどくさいな、やっぱり家にいようかなと思ったりもするが、いざ旅に出て、旅に慣れると、旅の楽しさが入ってくる。

そういうものです。


◆もし新しい自由な人生に足がすくむ思いがする女性がいたら、

いったん目を閉じて、自分のためらいや怯えを自覚して、

「この足を踏み出すんだな、恐いな」と思いつつ、

目を閉じたまま、実際に一歩踏み出してみよう。
 

あら、しっかり足がつく! ことを確認する。そう、それが本当の現実。

 
足がつくし、歩いていける。地面はどこまでも続いている。そっちが本当。

そのうち歩き慣れると、地面がある(足がつく)ことが当たり前になる。かつて落ちるかも、先がないかもと不安がっていた自分こそが、妄想だったのだとわかるようになる。


不安なく、歩きたい方角に歩いていける。
どこに出かけるも、どんな景色を見るのも、自由。


それが離婚した後に始まる人生です。大丈夫。


ある有名な短歌になぞらえるなら、


自分を生きようと決めたから
〇月〇日は離婚記念日


(自由記念日 のほうがいいかも?)
 


「なぜ似たタイプの人と出会ってしまうのだろう?」と思う人へ

 






2024年11月初旬


理不尽と闘うということ

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)


世の中は、理不尽に満ちている。

理不尽を作っているのは、たいていが傲慢な人たちだ。

彼らは平気で人を傷つけ、害を及ぼし、その後に言い繕い、嘘をつき、難癖をつけ、言い逃がれの屁理屈を語り、

傷つけられた側が、いつのまにか悪者であるかのように見せる術に長けている。

真っ当な人たち、つまり傷つけられた被害者は、自分にも落ち度があったのではないか、自分が悪いのではないか、自分さえ我慢すれば、犠牲になれば、自分以外の何かを守れるのではないかと考えて、

背負わなくていい苦しみまで背負ってしまう。

どんなに被害者側が、なるべく穏当に、他の誰も傷つかないようにと、ひとり苦痛をかみしめ、犠牲・負担を背負っても、

現実に残るのは、傲慢な加害者たちの嘘と無責任と野放図と、何もなかったかのような欺瞞に満ちた日常だ。

彼らは、自分たちが、どれだけ人を傷つけ、損害を与え、苦しみを強いたかについては、最後まで見ないフリを決め込む。「なかった」(むしろ困らされているのは自分たちだ)というのが、彼らの言いグセだ。

こうした人間たちは、放っておいても、決して反省しないし改心もしない。責任を取るという発想は永久に出てこない。

人を傷つけておいて、自分はさも善人であるかのような顔をし続けようとする。

その時点で、彼らは悪人なのです。最もタチの悪い悪人たち。


もしあなたが、誰かに傷つけられて、いったい誰が悪いのか、もしかしたら自分が悪いのかと、まだ混乱の中にいて独り苦悩しているのなら、こう考えてください:


◆問題の原因を作っているのは、「事実」を引き起こした側である。
(その者たちがそんなことを言わなければ、しなければ、こんな事態は、こんな被害は生じていなかったといえるなら、罪を背負うべきはその者たちである)

◆その場合は、理解を求めることは間違っていない。

◆ただし、最終的には社会に理解を求めることになるので、事実(つまりは証拠)をきちんと示す必要がある。

◆いずれにせよ、他人が作った問題については、自分が悪いわけではない。

あなたは犠牲者であって、罪人では絶対にない。

◆被害を被った者は、被害を訴える権利がある。それが市民社会のルールである。


しっかり心を守ってください。

理不尽に対しては、泣き寝入りせず、堂々と被害を訴えてよいのです。






2024・10・27
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正しく生きることの意味(原始仏典から)

名古屋・栄中日文化センターで開催している仏教講座から一部抜粋します。

価値のある知識および生き方の両方を学べるように構成しています。

かなり硬派。でも教材の専門性(いわゆるガチ度)とは別に、講座そのものはゆるめの楽しい雰囲気で毎回やっています。

自分を向上させるには「学び」が必要です。

学ぶきっかけとして、活用していただければと思います:

 

正しく生きることの意味
Mahādhammasamādānasutta
Majjhima Nikaya 46

                            
 私はこのように聞いております。あるとき世尊は、サーヴァッティ近く、ジェタ草苑のアナタピンディカ長者の僧院に滞在しておられました。そこでこのような対話をなさいました――。

「道の者たちよ、人々はこのような願い、欲望、期待を持つものだ。ああ、嫌いなもの、欲しくないもの、気に入らないものが減って、好きなもの、望ましいもの、気が合うものだけが増えてくれたら!と。だが現実には真逆のことが起こる。それはなぜだと思うか?」

 弟子たちは、自分たちの見解を述べるよりも、純粋にブッダの言葉を聞くことを求めた。その真摯な姿を受けて、ブッダは話し始めた。

「生き方を知る(*原典は「高貴な」)人々に出会ったことがなく、その教えについて鍛錬も習熟も得たことがない者がいるとしよう。彼らは自分が取り組み、育むべき実践(修行)を知らない。どのような習慣を避けるべきかも学んでいない。

 そこで彼らは心赴くままに、手を出すべきではないことに親しみ、育てるべきことを鍛錬しようとしない。結果的に、好ましくない、望ましくない、気に食わない物事が目につくようになる。他方、好ましく、望ましく、気に入る物事は目に入らないようになる。これが道理を知らぬ者の定めである。

 だが、学のある(≒生き方を知っている)修行者は、そのように生きる(高貴な)者と出会い、その教えを習い、鍛錬し、習熟している。彼らは真実の人と真実の生き方を知っている。自らが鍛え育むべき実践(生き方)を知っており、手を染めるべきではない習慣も理解している。

 ゆえにおのれがなすべき実践に励み、遠ざけるべき物事から離れている。こうした心がけで生きるとき、好ましくなく、望ましくなく、気に入らない物事は減り、好ましく、望ましく、気の合う物事が増える。それが道理を知る者の定めである」。


<解説>

“執着”(維持したがる心の状態)は、みずからの反応の繰り返し(再生、いわば輪廻)と、生活環境、人間関係によって支えられる。反応の繰り返しは、そのことを思い返す(妄想する)ことで生じる。

 自分を取り巻く生活環境は、同様の刺激を心に与えることで、同じ反応を繰り返させる。同様の反応を促してくるのは、関わる他者も含まれる。

 学ぶとは、そうした執着状態にある心とは異質の生き方を聞いて、理解して、考えて、納得して実践することである。これは学ぶことでしか得られない。執着したがる心は、同じ反応を繰り返すことに全エネルギーを使うので、“新しい生き方”は発想として出てこないのである。

「なぜ自分は繰り返し不快な人間や苦痛な出来事に遭遇してしまうのだろう?」という問いへの答えは、「すでに不快・苦痛な人間や出来事に遭遇して思いきり反応してしまったために、執着状態に陥っているから」という説明が正しい。

 執着した心は、おのずと、同様の反応ができる刺激のほうに向いてしまうのである。「まったくどいつもこいつも‥」と文句を言っている人は、不満を覚えつつも、文句を言えるような相手だけを見ているのである(慢を満たせる快楽が、その状態をいっそう長引かせる)。

 問題は、不快・不満のループに見事に嵌っている自分自身を、相対化・客観化できるきっかけがあるかである。「バカバカしい。このままではいけない」と、多少の聡明さがある人間ならば、おのずと気づく可能性もある。だが執着に心が支配された人は、永久に執着し続ける。

「学び」は前者に属する人を助けてくれる。学びそのものが、執着を抜け出すきっかけになることもある。

 歳を重ねると、学びの機会が減ることも多い。すると執着しか見えなくなる。執着に慣れすぎて、学びの機会が視界に入らなくなることもある。

 この点において、学びの機会に恵まれた時期、つまり子供・青年時代は貴重ではある。できることなら、執着し始める前に「生き方」を知っておくほうがよいが、執着による苦しみを体験しないと生き方に目覚めないことも、真実である。「学ぶ」という営み自体が、執着する生き物である人間には、「高貴」であるに違いないのである。


*執着を劇的に強化する行いが、「四六時中スマホ」かもしれない。好ましいもの、望ましいものが欲しいという発想さえ駆逐されて、他人事への詮索、判断、妄想、気に入らないこと、不平不満、倒錯した正義感などへの執着に、心が占領されてしまう。

 こうした事態に陥ると、もはや学ぶという営みから切り離され、ひたすらネガティブな執着だけを繰り返して、そうした自分に気づくこともなくなる。執着の終着地点は、“心の廃人”かもしれないということである。



栄中日文化センター10月期開催中(単回の受講も可能です)

2025年は3月第3週の特別講座から始まります

お問い合わせ 0120 - 53 - 8164

https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html




心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


◇◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


夏の日の独り言 8月15日


8月15日は、あの戦争が終わった日。


だがあの戦争を覚えている人は、徐々に確実に少なくなっている。

心なしか、戦争を振り返る声(報道や行事)も減りつつある印象もある。

あの戦争を振り返る時はたいてい、戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦争が起こらないようにという願いを確認するものではあるけれど、


もっと正確に言えば、戦争を繰り返さないためには、「思考する」ことを育てなければいけないのだろうと思えてくる。


現実に何が起きているのか。

それがどんな結果をもたらしうるのか。何が原因か。

どんな方法がありうるか。


こうしたことを考え抜いて言語化しなければ、問題が起きても気づかず、気づいても方法を思いつかず、

よくて現状維持、悪ければ現状悪化、さらには心が持つ弱さ・醜さ・狡猾さに負けて、個人の人生に、そして世界に、いっそう苦しみを増やしてしまう事態につながりかねない。


共通するのは「無思考」だ。問題を見ず、原因を考えず、方法を考えず、望ましい未来を思い描かず、苦しみに満ちた未来を想像しない。


あの戦争においては、本当に戦争を始める必要があったのか、いつ終わらせるのかを、冷静に考えた人間は少なかった。当時の人々の多くは(すべてとは言わないが)、正しい戦争をしていたと信じていたし、終わらせようとも考えていなかった。

(※日清・日露戦争当時から、日本人は戦争することを願っていたのだ。メディアも市井の人々も。日本人は戦争を好んだ。そのことは否定できない事実であったように見える)。

 

無思考こそが、あの戦争の原因だった。


今の時代はどうかといえば、やはり同じだ。おそらく本質は変わっていない。

気候変動どころか、沸騰化しつつある大気の原因を考えない。打開する方法を真剣に模索しない。なんとなくこのままでも経済活動は続けられると信じている。無思考。


政治システムが変わらない。腐敗と停滞は長すぎるほど続いているのに、変わらなければという声が実を結ばない。変わるためにはどんな制度(アイデアと法律案)がありうるかを議論せねばならないが、真剣に考える人間は、政治家にも(与党にも野党にも)、かつては立案の多くを担っていた行政官僚にも、学問・思想の世界にも、いない。無思考。

(※ここで想定しているのは、法案の前段階になりうる草案レベルのアイデアだ。すぐにでも国会で議論できるくらいに洗練された制度案。それを考え、実際に書ける職業人。)


教育が変わらない。学校の現場は限界を超えているし、知的創造力を育てる教育プログラムはいくらでも議論し変えていいのに、いまだに国が管理し、教育のすべてを統制しようとし続けている。無思考。


個人が生き方を考えようとしない。心の魔(悪意)に流されて、他人を傷つける言葉を平然と語り、自己顕示と自己主張にエネルギーを費やす一方で、どうやら幸せは増えていない。無思考。

命と健康を守るはずの医療が、営利か別の思惑があるのか、人々に過剰な負担と未知の危険を強いる、そんな事態に無神経になった。無思考。


マスメディアは公平さと分析力を失った。報道本来の意味を考えず、表面的な話題と恣意的に選択(忖度)した情報だけを流すようになった。主観的印象に過ぎないが、そうだとすれば、これも無思考だ。


最大の憂慮すべき問題は、そもそも思考するとはどういうことかが、わからなくなったことかもしれない。学者・知識人・評論家・専門家・文化人と称される<知>を担う者たちが、個人的な意見や感想しか語らなくなった。


現実に何が起きているか? 事実か否か? 客観的なデータは? どう分析すればいいか? どんな解釈がありうるか? そもそもの目的は? どんな方法がありうるか? どんな結果・効果が考えられるか? どんな基準で選択すべきか? 人は何を大切にすればいいか? いかに生きることが正解なのか?


すべては言語化できるもので、言語化することが<知>の役割であるはずだが、<知>を明瞭な言葉で示してくれる人間の数が減った。

政治・経済の機能不全、メディアの偏向、SNSを通じた自己顕示と自己主張の増殖、価値観の閉塞、<知>の衰退・・・

同時進行中であろう原因は複雑多岐にわたるが、共通するのは「無思考」である。そんな気がする。


無思考が続く限り、人間は過ちを繰り返す。

なぜなら心は、過ちの原因である貪欲と傲慢と妄想と怒りに満ちているものだから。


あの戦争を思い起こす日とは、無思考の罠に気づくべき日であるような気がする。

そもそも思考とはどういうものか。思考とは何だったか。それを思い起こす日にせねばと思える。


せめてこの場所は、思考とはどういうものかを思い出し、思考するとはどういうことかを改めて学ぶ場所であろうと考える。


8月15日は、思考の日。


それがこの場所における受け止め方。独り言。


※著作・講座・講演・看護専門学校での講義ほか、すべての場所において「思考」し続けます。その中身は、それぞれの場所においてのみ(思考を求める人との間でのみ)伝えていきます。慈悲にもとづく思考--それがこの場所の役割です。


2024年8月15日




今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

※来年から寺子屋を始めるので、ときおりこのサイトで最新情報をチェックしてください。個別の感想・おたよりも受け付けています。



この命の使い方(日本全国行脚道中記)

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

今回の講義には、東京、千葉、愛知の医師や医学生等が見学。地元の看護師さん(卒業生)も。

みなさん、その道のプロであり、プロになろうという人たちで、素人は私だけなのだが(笑)、プロといえども、見るべき点がすべて見えていることはほとんどないので、

この講義のように、医師、看護師、患者などすべての当事者に共通する「見えていなければいけない点」を技法に沿ってあぶりだすというアプローチは、確実に役に立つ。

医療・看護倫理は、まだまだ発達途上であって、いつ確立できるかわからない段階だ。かなうことなら、専門家の先生に活かしてもらって、「これだけは外せない、苦しみを増やさない最善の選択を導くための手順」を確立させ、普及させてほしいと思う。

3日目はグループワークを中心に進めて成功した。講師としては納得の一日。見学してくださった方々も、得たものは多かった様子。


そのあと奈良に入って、建築士さんと現地で打ち合わせ。ほんとに無事家屋が完成するのか素人にはわからないのだが、できます、と自信をもって言ってくださる。

完成すれば、今回の傷も癒されるだろう。最大の傷は、未来を育てるという教育活動が遅れを取ったことだ。

とにかく一日も早く形を作り、次の世代に生き方・学び方を伝える努力を始めたい。

 
夜に新幹線で東京へ。翌朝は早くに茨城に向かう。こちらは地元JA向けの講演会。

この一週間、徹夜続きで、看護学校での講義の合間に徹夜して新聞連載のイラストを仕上げるなど、かなりシュールな日常だった。器用な坊さんではある(笑)。いろんな分野でオリジナリティを発揮できている。

一度自分を捨てたことが、今につながっている。やりたいかやりたくないかという軛(くびき)を外して、求めに応じて、できることを謹んで確実にやる、という立場に立ってから、すべてが始まった。

茨城の講演会は、終活セミナー。歳を取るほど幸せになれる生き方について。農業を支える地元の女性たちがメインの対象。

日本の農業は実はピンチ。日本の社会そのものが、かなりの危機に直面している。それでも日本全国を旅すると、どの土地にもそれなりに人がいて、経済はまだ回っている。

巷間叫ばれている人口激減や継承者不足、食糧自給の危機などは、本当は夢なのではないか、まだこの社会は無事に回っていくのではないかと思いたくなるのだが、

だが、肉体の老いが刻々と目立たない速度で確実に進むように、社会の劣化・危殆化も、じわりじわりと進んでいるのだろう、と現実に目を覚ます。
 

まだ見えない危機を先取りしてシステムを変えていくことが、本来の社会的イノベーション・リノベーションであって、それが常態と化すことが理想なのだろうが、現実は程遠い。日本社会の時間は止まったままだ。いや、世界全体が、人類そのものが、か。

人間の心は、第一に己の妄想を見て、第二に執着することを選ぶ。見えない危機も未来も、他にありうる可能性も想像できないくらいに、小さな知力しか持ち合わせていないのだ。


日本社会の分断・萎縮・劣化・衰退は、自業自得と言えなくはない。だが、せめてその中で、新たな可能性を育む側に立たねばならぬという思いは、つねにある。


怒涛の一週間がやっと終わった。こんな日々をずっと続けたら、さすがに過労死するであろうと実感できるレベルの一週間だった。

実際に過労死する人たちも、この世の中には存在する。ひとり自死する人も、身投げする人も。忘れたことはない。

目の前で人が滅びつつあるのに、人間は現実を見ずして、まだおのれの欲と妄想にしがみつき、快楽と執着の中に留まっている。


世界は残酷だ。現実の苦しみを見ようとしない、その無知こそが、残酷な世界を作る最大の理由なのだ。

現実をよく見て、その中で己(おのれ)の命の使い方を見きわめる。

現実を見て感じる痛みを、熱量に変えて、この時代・この社会において、自分にできることをなす。

その道をどこまでも突き進むことが答えなのだと、今は知っている。ゆけ。



2024年7月20日
・・・・・・・・・・・・・


「人のせい」にする人間と遭遇した時は

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

ある人への返信から抜粋:

すぐ人のせい――相手が悪い、自分は悪くない――にする人間と遭遇した時の心がまえ:

人のせいにする人間は、 自分をかばって相手を責めようと考える。最初の動機。

それは幼く「終わっている」レベルだが、本人は「人のせい」で目一杯。

こうした人間は、相手を悪くいい、嘘をつき、都合がいいことを言い募って、都合が悪いことはなかったと言い張る、すぐに逃げ出す。


正攻法は、そんな相手に理解を求めることだが、

人のせいにする人間は、自分をかばって、相手を理解しようとしない。自分のあり方を見つめようという成熟を持たない。

そうした相手に対しては、法的措置に訴えることになる。つまりは、理解を求める相手を、「第三者」に切り替える。離婚訴訟も、建築紛争も、刑事告訴も、原理は同じ。


第三者に伝えるときの心がまえは、

「私にとって」という線引きを明確にして、自分にとっての事実と思いを素直に言葉にすること。自分を崩さないこと。

他責する人間に「自分にとって」という分別はない。すべて相手のせい。

そのような人間の本性は、語るに落ちるというか、言い分や態度を見れば、第三者には伝わるもの。馬脚は第三者がいる場所で露わになる。


もっとも、第三者に伝わるかどうかは、未知の要素がある。他人や世間が思うことが真実も限らない。

だからどんな結末になろうとも、「事実」を崩さないこと。

ひとえに「自分にとってはこうでした」ということを、堂々と伝えて、人さまの理解を求めるという方針で進むのみかと思います。

2024年7月

 









宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
・・・・・・・・・・・・

十代を生きている君へ

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  


ときおり十代を生きている人の母親・父親が訪ねてくることがあります。

学校に行かなくなった、

進学はしたい、

でも勉強は進んでいない、

という相談が多い印象があります。


進学はしたいという思いに至っていなければ、不登校の段階。

この段階で、本人に伝えられることは、ほとんどない。

今の自分を善しとするか。一度しかない人生を、この先どう作っていくのか。未来をどう生きるのか――

本人が考え始めて初めて、次の選択肢を、親や周りの人たちが一緒に考えることが可能になる。


この場所が相談に応じることができるのは、進学したいけれど勉強は進んでいないという状況にある十代に向けて。


もし君に、

進学したいという気持ちが少しでもあるなら、

心機一転して生活を立て直す

ことを勧めます。


心は弱いものだから、学校に行かない人は、崩れてしまっていることが多いもの。

ゲーム、スマホ、ネット、テレビ・・今は、流されるための道具はいくらでもあるから。


しかも、心は強くない。長々と寝て、起きて、ご飯食って、遊んでいるうちに、活動時間は終了。

僕自身も体験がなくはない。なんとなくダラダラと過ごしてしまう。

そのくせ、ネガティブな思いは弱くならない。過去を引きずるとか、親を責めるとか、要は、自分以外のことに理由を見つけて、腹を立てたり、サボる理由にしてしまったり。


結局、自分に甘い  ということなのだけど。


もし進学したいという願いがあるなら、どこかで弱い自分に区切りをつける必要がある。怠惰な自分に最大限の厳しさを向けることだ。


まずは、将来への計画を立てる。

進学したい大学や進路があるなら、はっきり見定めて、何が必要なのか、試験科目や手続きを調べる。

そこから逆算して、自分が使う参考書などをリストアップする。

一日の時間割を組み立てる。

家にいるとダラけるから、図書館、学習室、公園、喫茶店、電車の中など、勉強する場所を複数リストアップする。

そして実行に移す。

記録を取る。何時から何時まで、何をやったか。

何を学んだか。前に進んだか。自分は成長しているか。


こうしたことは、ぜんぶ自分の力でできる。工夫次第。意志の力次第。


本腰入れれば、怠惰な自分から、毎日を有意義に使うことに充実を感じる創造的な自分になれる。

ダラダラ過ごしていたら、こうした充実は味わえない。

どこかで怠惰な自分にケリをつけて、新しい自分を生き直す必要がある。


こういうのは、タイミング、気合次第。エイヤと起き上がれるかどうか。


なにしろ人生は一度きり。過ぎた時間は戻ってこない。

あとで後悔しても取り返しはつかない。

しかし逆に、気合を入れて、作戦を立てて、進学や勉強を目標にすえれば、学校に行かなくても、充実した毎日を過ごすことはできる。

過去は関係がない。親も関係がない。

純粋に、自分のためにやる。後悔しないために。後で不貞腐れないために。

本気で生きる人生のほうが、はるかに面白い。

しかももし進学できたら、やっぱり未来は変わる。視界が開けることは確か。


だから、進学したいという気持ちがあるなら、どれだけできるか、頑張ってみたら?と思う。

親の相談に乗ってもしようがない。本人の問題だから。

塾や学校の先生のように、勉強することが大事だとは言わない。大人にとっては、すでに乗り越えたことだから。


あくまで本人の人生の問題。


勉強したほうがいいなんて阿呆なことは言わないけれど、

でも本人に少しでも勉強してみたいと思う気持ちがあるなら、

どこまでできるか、体験してみればいいとは思う。

応援することはできる。

僕も似たような経験をしているし、勉強の仕方はしっかり考え抜いて、それなりの方法を知っているように思うから。


何より、前を向いて頑張ることを、応援したい。

勉強を応援するというより、人生を切り開くための努力そのものを応援したいと思っている。

だからもし、進学したい・勉強したいと思う十代の人がいたら、できれば親ではなく、自分で連絡してきてほしい。言葉を尽くして今の自分を語ってくれたなら、応援できるかもしれないから。

全国行脚中なら、近くまで足を運ぶことも可能だ。


頑張ることは楽しいこと。

どこまで頑張れるか、挑戦してみてほしい。


2024年日本全国行脚 開催中

本気になりたい十代の人のもとを訪問します

 

2024年7月


一人分の種


生き方は、大きく三つあるのかもしれない。

土を前に何もしない生き方、

土をいっそう荒廃させる生き方、

土に種をまく生き方。


種をまき、花を咲かせる  

その営みの価値が見える人は、世に少なくないが、多くもない。


花の美しさがわかるというのは、人生観による。どう生きてきたか、何に価値を見るか。

土に種をまき花を咲かせた体験がなければ、花の美しさはわからないかもしれない。

花の美しさがわかることは、世の中での成功や豊かさにはつながらないし、

そもそも花の美しさがわかる人たちばかりでもない。むしろまったく逆を好む人たちも多いのかもしれない。

だから自分一人分の土に種をまき、花を咲かせることは、人によっては価値のない、むしろ淋しい営みに見えるかもしれない。


だが、荒れ果てた土地や焼け野原が広がりつつあるように見える世界にあって、

自分一人分の土に種をまき、花を咲かせることは、

小さな営みではあるが、それでも価値あることに違いあるまい。


花の美しさが見える者たちが、種をまく。


そうした人々の数だけ、この世界に花が咲く。



花を咲かせようという試みだけは、生きるかぎり止(や)めてはならない。


自分一人分の土を持て。

まけるだけの種をまけ。

咲いた花をもって、わが喜びとするのだ。



2024年七夕


自分を越えるということ

<おしらせ>

栄中日文化センターの講座(夏学期)は、7月17日(火)から。

詳しくは、公式サイトのカレンダーをご覧ください。

または 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
 https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html


************

本は万人に開かれたもの。だから語り口はニュートラル。

このブログは、道(生き方)を求めて静かに訪れる人に向けて。

だから当たり障りのない話題よりも、多少難しくても有意義なことを。

かなりマニアックかもしれないけれど、いつか必要になる時が来るかもしれない、そんなごくわずかな人たちに向けて、価値あることを遺しておきます――

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<自分を越えるということ>

自分を越えることの難しさは、瞑想(心の観察)を続けることで初めて見えてくる。

裏を返せば、瞑想しないかぎり、自分を越える難しさはわからない。

心というのは、人間が想像する以上に、狡猾で、邪悪で、醜く、愚かで、怠惰で、強固だ。

よほどの智慧と意志がなければ、イチコロで執着の網の目に絡めとられてしまう。絡めとられたことにさえ気づけない。

はたからみれば、頑迷な巌が、まるで静止画のように存在しているだけ。本人は少しは巌の内から突き破ろう、打ち砕こうと闘ってみたつもりなのだが、なんのことはない、実は何も変わっていない。

瞬時に巌の内側に閉ざされてしまうから、外から見れば、ただ巌が存在し続けるだけ――それくらいの比喩が真相に近い。

それくらいに心の魔は、強いのだ。


心の苦しみを越えるには、その原因を突き止めるほかない。

原因を見つめることは、つらく、険しい。なぜなら自分の最も愚かな部分を直視せねばならないからだ。

しかも原因が見えると、心は激しく動揺し、反応する。全力で、原因から目を背けようとする。

目を背けるための理由が、まさに本人の心が作り出す都合のいいものだ。

たとえば現実から逃げたくてみずからを美化して生きてきた人は、自分を美化できるような理由を見つけて、そっちに走り出す。たとえば新たな仕事を始めるとか、別の活動に手を出すとか。

自分を変えるための行動だと本人は思うのだが、実際は、自分を美化するという業であり執着にうまく調和する選択だったりする。宗教や自己啓発はその典型だ。

またたとえば、過去から目を背け続けてきた人は、「答えは本の中に書いてあることはわかります」と言いつつ、本を読まず、書いてある実践もしない。

わかったふりをして、実際に目を向けることから逃げ続けて、これまでの自分をそのまま温存している姿だ。まさに心の思うツボ。
 
瞑想にも類似の罠は潜んでいる。

瞑想のプロセスにおいては、過去を見る、他人を見る、世界を見ることになる――見て、その時見えたものを言葉にする。自らを思い知るための下準備としてだ。

どんな言葉も発しているのは、自分の心。
だから心に見るものは、最終的には、自分の心を思い知るための材料になる。

だから相談に来る人たちには、まずは思うことを何でも言葉にしてくださいと伝える。瞑想や内観も同じ目的を持っている。

だが多くの人は、そのプロセスを飛ばしてしまうのだ。自分を見つめるだけの時間を作らない。自分の中に見えたものを言葉にしない。
 
本当はその言語化したものをふまえて自分自身を見つめていく作業が来るのだが、その困難な作業に進む前に、別の方角に、ラクなほうへと走ってしまうのだ。



自分を越える、変えるというのは、容易なことではない。

過去を越えることも、執着を断つことも、業を克服することも、

生涯かけてもたどり着けないくらいに、本当は難しい作業だ。

仮に50年生きた人がいるとして、その人がもし自分を越える、変える作業に乗り出そうというのなら、

その人は、50年も生きてしまった自分が、本当に越えることなどできるのだろうかと、事の重大さを自覚する、たじろぐくらいが、真っ当な感覚というものだ。

本当の意味で慚愧し、懺悔し、悔やんで、顔から火が出るほど恥ずかしく思って、

それでもこのまま生きていくことは望まないから、

できるかどうかはわからないが、やるしかないという立場に、最終的に立つ。

道に立つとは、本来それくらいの大事(だいじ)なのだ。



もちろんそこまでの難題・難行にすべての人が挑まねばならないということではない。
ブディズムはそもそも金科玉条という流儀を取らない。

だが、人間というものが、あやうく、また哀しいと思えてくるのは、

人間は、自分の心が仕掛ける罠に気づかず、いとも簡単にハマって、正しくない選択をしてしまい、しかもその選択が自分では正しいと思ってしまっている(気づかない)ことが多いことだ。

人が理解しておくべきは、
 
自分の心がよかれと思って選択することは、高い確率で間違っているということ。

簡単に心が仕掛ける罠にかかってしまっている。

そうした自分に気づけないのが、人間というもので、
その危うさは、業が深いほど、執着が強いほど、飛躍的に高くなっていく。

本当に自分を越える、変えることができる人というのは、自分に厳しい人ということになる。

自分に厳しいとは、他人を追いかけず、左右されず、外の世界を当てにせず、ひたすら自分を見つめる強さを持てることだ。
 
(※自分を見つめるきっかけとして、他人・過去・外の世界を振り返るはよい。だがそれは自分がその時どう向き合ったかを思い知るためだ)。
 

なにしろ人生の汚物はすべて、自分の心に詰まっている。

それを直視して大掃除することをしないなら、当たり前だが、汚物が消えることはない。いつ覚悟を決めるかだ。


厄介なことは、覚悟を決めたつもりが、実はそれは覚悟でもなんでもなくて、執着したがる心の罠にかかっているだけかもしれないことだ。

心が見るものが真実とは限らない。選択を間違い続けるのが、人間というものだ。

「間違えているかも」と思えるくらいの慎重さ、自分への健全な懐疑があってはじめて、いやそれでもなお難しいのだが、

ようやく自分が正しく見えてくる可能性が出てくる。

 

 

2024年7月

ある日の法話から

 

相談したいという人たちへ


この場所を見つけて、相談したいと連絡をくださる方々へ


この場所は、開かれた心と慈悲の思いをもって、なるべく多くの人に新しい可能性を見出してもらおうとしています。

だから、ご相談にはいつでも応じる方針でいますが、いくつか最初に、お役に立てる場合とそうでない場合とを分ける線引き(基準のようなもの)をお伝えしておくことにします:


1)求めるものは、あくまで自分自身の生き方である(でなければいけない)ということ。

本を読んで、「私の親に会ってください」とか、自分以外の誰かを変えよう(変わるように助けてほしい)」と考える人がいます。

でもこれは、見当違い。自分以外の誰かを変えることは、誰にもできません。本人が自ら見つけて、自分のあり方について直接相談してこない限り、変わる可能性はありません。

「自分以外の誰かを変えたい(変えてほしい)」と思っているということは、その誰かにまだ執着しているということ。

この場所が伝えられるのは、そうした自分自身の執着を断って、その相手から自由になる方法なのです。

この場所が伝えられるのは、人に執着して苦しんでいる自分自身を変える方法です。自分が執着している誰かを変えることではありません(その先は妄想の領域です)。


2)少しでもこだわりやプライド、譲りたくないものがある人も、時期尚早です。

わかりやすい例でいえば、「あなたのプライドが邪魔しているのですよ」と言われて、ムッとしたり、そんなことはありませんと言い返してしまうようなら、まだ自分を見つめる覚悟ができていないことになります。

それはそうです――プライドを乗り越えているなら、反応するはずもないし、プライドを越えねばならないことを自覚しているなら、「そうですよね(理解できます)」という言葉が自然に出てくるものだからです。

反応してしまうということは、まさに図星ということ・・でも図星であることを、まだ認めたくない段階だということです。ならば、時期尚早ということになります。


3)誰かをかばおうとしてしまう人も、まだ執着にとらわれています(ゆえにこれも時期尚早)。

最も多いのは、肉親の業(ごう※)を指摘されたときに、とっさに肉親をかばって弁護してしまうこと。代わりに自分が悪いのだと主張する人もいます。指摘されて腹を立てる人さえいます。
 
※ 業:ごう がわからない人は、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)をお読みください。

こうした人たちの心にも、プライドと同様に、肉親への執着が存在します。執着があるからこそこそ悪く言われたくないと思ってしまう。かばってしまう、指摘されると腹を立ててしまう。

でもそんな自分に決定的に影響を与えているのが、肉親だったりします。それが事実ならば、それはその通りですと受け入れなければ、自分への理解が進まず、結果的に前に進めなくなってしまいます。

端的にいえば、親のことを指摘されて「違う」と言いたくなるということは、自分と親との間の線が引けていない(まだ混同している)可能性が高いということです。まだ執着の只中にあるのです。
 
ちなみに、苦悩を抜ける道筋の大枠というのは、
 
①苦しみの原因を、自分か、自分以外の他者か(親も含む)に明瞭に分け、
 
②自分の中の原因を自覚して反応しなくなること、または
 
③他者を見ても、思い出しても、一切反応しなくなること

です。反応しなくなれば、苦しみは止まるので、苦悩は解消します。

ところが指摘されると反応してしまうーーなぜなら執着があるから。この段階に留まる限りは、苦悩は続きます。 


4)自分で連絡してこない人も時期尚早です。

これは技術的なことだけれど、自分で連絡せず、人を介して(利用して)くる人もいます。

これも成り立ちません。自分のことは自分でやること。自分のことは自分で語ること。

最低限の自立ができていること。それが前提です。

※他人のことなのに、線引きできずに、○○さんの相談に乗ってあげてくださいと「つないで」しまう人も、自立できていない可能性があります。というのも自立していれば、「それは自分でやらないとね」と気づけるし、言えるものだからです。

 

他にも、いくつかありますが、総じて、相談して変わりうる可能性がある人たちとは、


①事実を指摘された時に、それは事実ですと受け止められる人

自分のことであれ、誰かのことであれ、事実は事実。苦しみがある、その原因はこういう過去、こうした関係性にある・・そうした理解を、そのまま受け取れる人。

事実を指摘されて、まだ反応してしまう段階であれば、「相談→実践→変わる」のステップには入れませんよね。

その意味では。どんなに耳の痛い指摘も、冷静に、謙虚に、受け止める心の準備ができている必要があります。
 

②あくまで自分のあり方を見つめられる人

他人を語らない・論じないこと。自分以外の誰かを変えようとか、変わってほしいといった執着を、この場所に持ち込むことはできません。


③なすべきこと(実践)をやる覚悟ができている人

自分を変えるには、自分のあり方を自覚して、そうした自分を作り替えていくための実践に踏み出す必要があります。

いつまでも過去に執着したり、誰かを変えようともくろんだり、人に腹を立てたり責めたりしているのなら、本気で変わる覚悟がないということになります。

この場所は、原因をつきとめて、伝わる言葉で言語化して、この先何をしていけばいいか、具体的な実践・行動までお伝えすることを方針としています。

その行動に踏み出す覚悟や意欲があるかどうか。
 
ないということは、「変わらなくていい」ということ。となると、これもやはりお役には立てません。


他にも見るべきものを見たうえで、はたしてお役に立てる可能性があるのかを見極めています。

おそらくこの場所は、本人には想像できないくらいに、人の心の奥を見て(見えて)います。
 
利を図るという発想がないので、お役に立てる可能性があれば、どこまでも一緒にいるし、お役に立てない状況であるなら、様子を見ることになります。
 

ためらい、おそれ、プライド、自己弁護、ごまかし、美化、詭弁、正当化、誰かへの執着・・・そうしたものが少しでも残っていたら、ブッダの智慧という、ほぼ万能して、でもかなり鋭い(人によっては痛い)知力は役に立たないだろうと思います。
 
執着は、智慧よりも、強いので――こうした真実をきちんと伝えることも、この場所なりの配慮(人それぞれの人生の尊重)から来ています。 


自分の苦しみを自覚して、原因を突き止める作業を手伝ってほしいという気持ちが強くあって、何を指摘されても、そうか、それが執着にまみれた自分に見えていなかった真実だったかと思えるに至った人であれば、

お役に立てる可能性もあるかもしれません。



とはいえ、本当に苦しんできた人は、ある程度、自分のあり方について飽きている・懲りていることが多いものです。

また、誰かに苦しめられたり、傷つけられたりしてきた人は、本人が思っている(思い込んでいる)ほど悪くない(他に原因がある)ことが多いので、

そうした人たちは、この場所で、本当の原因を明快な言葉で指摘してもらって、その原因を取り除くステップを理解することで、スッキリして、希望を見出して帰ってゆくので、

この場所・ブディズムは、優しくて、元気が出る存在(味方)に映るはずです。


その一方で、捨てたくない執着の只中にある人にとっては、ここは敷居の高い、峻厳な場所に映るかもしれません。
 
優しかったり、厳しかったり・・まさにお寺であり、道場です。心によって、見えるものが変わるのです。

 
人の心は、みずからが作り出した執着の壁にぶつかっている状態だと思ってください。高くなったり、低くなったり・・・
 
壁が消える方法を(決して難しいことではありません)伝えるのが、この場所であり、ブディズムです。

苦しみも、原因も、自分の中にあります。そうした自分自身を正面から見すえる覚悟ができた時に、

ブディズムは、ほぼ万能の可能性をもって「優しい姿」で現れていたことを知るのだろうと思います。

 


人生は長いし、世界は広いので――

時間をかけて、真実(正しい理解)に近づいていけばよいのだろうと思います。


最終的に、答えが出ない人生は(答えを出さないことを本人が選ぶのではない限り)存在しないというのが、ブディズムの人生観です。

答えは出していいのです。終わりなき自問自答を生きることも価値を持つけれども、答えを出して、生きるという営みが持つ可能性の最果てまで体験することも、価値を持ちます。


答えを出さない生き方は、世の中に無数にあるから、

ひとつくらいは、答えを出しきる生き方もあるということ、その方法を示せる場所があってもよいと思います。
 

この場所は、つねに可能性を見ます。
 
人間が、十二分に生きて、心の隅々まで苦しみがない境地にたどり着く可能性を。


*相談してみたいと感じている人は、とりあえず各地の講座に足を運んでみるのが一番よいかもしれません。基本的に、この場所はオープンに、カジュアルに、フツーにやっています。



2024年7月1日


仕事というもの


仕事とはどういうものでしょう。真っ当な仕事--人として守るべきこと、外してはいけないこととは、どういうものでしょうか。

仕事は第一に、人(相手)のためにするものです。

人が求めるものに応えて、人の役に立つこと。

そのことで自分の働きに応じた対価・報酬を受け取ること。

人のために役に立つ――ことが仕事の生命線です。

社会という場所は、お互いに役に立つことで、それぞれが必要としているものを手に入れることで成り立っています。

それが経済と呼ばれるもの。社会が社会であるための生命線です。



ところが、この生命線を掘り崩してしまう事態がたまに起こります(たまにであって、頻繁にではありません。頻繁に起きてしまえば、社会は崩壊していまいます)。

たとえば、自分の仕事・業務・役割を途中放棄すること。

この時点で、放棄した人や企業は、信頼を失います。なにしろ相手とかわした約束(契約)を自分から破棄してしまうのだから。

最初に約束したことを平気で覆すこと。できますと言ったことができなかったり、やりますといったことをやらなかったり。

悪質になると、客からお金を受け取ったまま逃げ出すとか、姿をくらますとか。

さらに輪をかけてひどいのは、自分の不手際を棚に上げて、逆に相手(依頼者・客)のせいにし始めるとか。

自分の仕事を省みずに、相手に責任転嫁する――ここまでくると、もはや「終わって」しまいます。人間として。仕事として。




この社会は、誠実に、自分の役割を果たす人や企業によって回っています。

誠実さとは、自分の仕事の質に向き合うこと、責任を負うことです。

どんな理由があろうと、自分がなすべき仕事がおろそかだったり、一定のレベルを下回っていたりしたら、その時点で仕事とはいえなくなります。

仕事には、越えなければいけない一線(クオリティと呼ばれるもの)があります。

その一線を越えなければ(上回らなければ)仕事とはいえないし、責任を果たせているともいえません。

その一線を死守しようと全力を尽くすことーーそれが 誠意 と呼ばれるものだろうと思います。

誠意をもって仕事をする。手を抜かない。いつ見られても大丈夫なように、ていねいにやる。

もしできると約束したことができなかった、ミスがあったと判明すれば、できるかぎりのことをする。

まずは謝罪。とりうる対策(いわゆるアフターフォロー)。ときに賠償など。

それをしないなら、一線を下回ったままの自分になってしまう。仕事失格。人からお金をいただく資格ナシ。

それが自分にとってイヤだから、そのままでは社会の信頼を失い、今後の仕事を失ってゆきかねないから、できる限りのことをする。

それが誠意というもの。真っ当な人間・企業は、こうした誠意を持っています。


もし誠意を見せることができれば、過去の過ちは「一時的なものだった」と受け止めてもらえるかもしれません。逆に信頼を勝ち得ることもあるでしょう。犯してしまった不手際やミスも、今後の成長と信頼の肥(こや)しになりうるのです。


どんな仕事も誠実に

人間として、企業として、組織として、業者として――

それが、仕事をする人たちの絶対の生命線なのです。



ところがごくまれに、この生命線を断ち切ってしまえる人間・企業がいます。

だます、嘘をつく、お金を持ち逃げする、言い逃れする、責任転嫁する。

自分(たち)に責任はない と言い張ろうとするのです。

そのくせ自分たちの面子、立場、利益だけは死守しようとします。

これは絶対にしてはいけないことであり、最も愚かなことです。

というのも、「一線を下回った仕事」をした事実は否定できないから。

事実を否定して、そんなことは言っていない、していない、自分たちに責任はない、と言い張った時点で、

言い逃れをする幼すぎる子供か、社会に反する存在へと堕ちてしまうのです。

よく聞こえてくる企業の不祥事、ミスの隠蔽、リコール問題、リフォーム詐欺、悪徳商法、医療過誤、突然の閉校といった事件は、そうした不誠実が明るみに出たものです。

中には、単純なミスやごまかしから始まったこともあるはずです。ところが対応を間違えて、事実を否定したり、言い逃れをしたり、責任転嫁をし始めた時点で、

自分の不誠実が露わになり始めます。取り返しのつかない「罪」とさえ化してゆく危険も出てきます。


どんなに言い逃れをしても、人のせいにしても、

自分がなすべきことをしなかった、

できる、やれると約束したことができなかったという事実は、覆せません。

その事実を否定し、責任を取ることを拒んだ瞬間に、その人間・業者は足元を掘り崩していくのです。



その喪失は、実は最初の出来事だけでは終わりません。

言い逃れをした、嘘をついた、できると約束したことが実はできなかった、こともあろうに客のせいにし始めた――そうした事実が残ります。

嘘や不誠実は必ずバレるものです。そこから着実に信頼を失い、社会における居場所を失ってゆくのです。


あったことをなかったと言う。なかったことをあったと言い張る。

プライドや思惑にしがみついて、事実と異なることを主張して、

お金や立場や看板だけは守ろうとして、

次第に不誠実が積み重なっていく・・。

その不誠実が明るみに出た時点で、もっと大きなものを失うのです。

詐欺まがい、それどころか明確な犯罪になってしまうような事態も、最初は小さな否定から始まるものです。

それでも通用するだろうと思う。社会という場所を甘く、軽く見る。

その小さな、しかし邪悪な、傲慢そして現実を直視しない未成熟さが、ますます黒い墓穴を大きくしていくのです。


実は、自分の心は、そのことに気づいていたりします。

自分が言っていることと、実際にやっていることが違っている。

できると言っていることが、本当はできない。できていない。


そうした欺瞞(ごまかし)に心は薄々気づいています。

だから罪の意識が、時間をかけて積み重なっていきます。

表向きの善良さと違う、裏に隠した不誠実を、本当は自覚している。

結果的に、半ば、隠れた悪人として生きていくことになります。

ごまかしが陰り(嘘)となって、胸を張って仕事ができなくなってゆくのです。


そんな人生や仕事はあまりにみじめだから、

本当の誇りと倫理感を持った人や企業は、最初から最後まで責任をもって仕事を進め、過ちについては謝罪し、なしうる限りのことをして、

人が自分に託してくれた信頼と未来の仕事を、守ろうとするのです。

ミスしない、あるいは苦情を受けない人間・企業など、ありえません。誠実に仕事をしても、過ちを犯すし、人さまに叱られることもあります。そんなことは当然です。

十年、二十年、三十年と仕事を続けてきた人間なら、そんなことはわかりきっているはずです。

しかしそうした人たちは、自分の仕事に誇りと責任感を持っているからこそ、事実をごまかさないし、責任転嫁もしないものです。自らのミスは潔く認めて、信頼回復のためになすべきことを全力で果たします。 

そうした心がけがあるからこそ、ミスやトラブルの数より、仕事の成功・達成のほうが着実に増えていきます。

でもそれが仕事の「当たり前」のレベルです。ほとんどの人間・企業にとっては、そうした働き方が当たり前。

それが社会というもの。真っ当な人間が作り出す真っ当な仕事というものです。

仕事は、それほど難しいことではありません。

できます、やりますと言ったことは、責任をもってやる。

力が及ばなかった点は、いさぎよく認める。

詫びるべきは詫びて、せめて自分にできることを全力で形にしてみせる。

そうして鍛えられていく。信頼を勝ち得る。

培った信頼が、さらなる仕事を運んできてくれる。

信頼して仕事を依頼した相手(客)も満足。

依頼を受けた自分たちも幸福。

結果として、社会にプラスの価値や幸福が増える――。

そうした関係性、それが仕事というものです。本物の仕事は創造的で楽しいものです。


仕事を頼む人たち--客、患者、施主その他さまざまな人たちは、信頼するからこそ、大切なお金、時間、未来を託します。

そうした信頼に全力で応えることが仕事です。手を抜いたり、慢心したり、言い逃れや責任転嫁という「泥」を投げつけるような罪だけは絶対に犯してはいけないものだろうと思います。


誠実な仕事を重ねてゆきたいものです。

限りある人生の終わりに、罪の意識ではなく、純粋な誇りと納得が残るように。

 

 


健康な心と病みがちな心

5月のとある講座の中から:



ひねくれ者・・・でもそれが「考える」ということかもしれず。

無思考のまま、ありがたがると、この世界は大きく方向を間違えてしまう恐れがあって、実際にその恐れは顕在化している・・・

無数の無思考が積み重なって、本当の幸福や可能性というものがフタをされてしまっているーー

結果としての「世の中ってこんなもの?」「この状態で続いていくの?(続けていくつもりなの?)」と、そう疑問を覚える人たちだっているであろう、この世界の現状のような気もします。

個人的に考えたいのは、

特定の人物が驕慢にして狂慢に囚われてしまっていたことが真実であって、

その真実は姿を変えて、時代を問わず、どれほどミクロな日常の中にあっても、当然のように起こりうることであることも事実であるとして(それは前提としたうえで)、

そうした個人の傲慢がなぜ他の人にも伝播(うつ)るのか、なぜ人は容易に感化されてしまうのか、

そうした社会への影響(慢の感染拡大)を止めるには、どのような方法がありうるのか(言葉、思想、教育、制度、文化それぞれの面において)

を探究していくことです。そこを考えないと、慢の肥大化に歯止めはかからない。

もちろんブディズムの中に、その足掛かりというか、思索のための原型があることは確実ですが、しかしそれだけでは(ブッダの言葉のコピーと継承)だけでは足りないーー

今の時代に確実に影響を及ぼしうるような、別の方法を掘り起こしていく必要があるように感じています。

これは、方向性です。形にできるかどうかはわからないけれども、問題意識・目的意識として持ち続けるべきであろうと思える可能性。

慢という思いがもたらすものが、どれほどの可能性を殺すかーーもうしばらく歴史を追っていきたいと思っています(講座内で全部取り上げられるわけでもありませんが)。



日常を楽しむことができるのは、ひとつの才です。

才ある人は実は世の中にたくさんいる・・けれども、それは健康な心の状態にある人たちであって、その一方で、心の病気(慢はその一種)にかかる人たちもいるし、すぐ感染してしまう人たちもいる。

一人の人間においても、健康だったり、病気だったり、心の状態は時によって変わる。

できることなら、長く健康でいられるほうがいい。

そうした健康を保つ秘訣とはどういうものか。

まだまだ言葉にできる領域は残っています。言葉にしていきたいと思います。


追記: 思想とは、まだ言葉になっていない未知の領域を言葉にしていく知力のことです。微力ながらもそうした方向性を見すえて、世界の現実を見て考え抜く――そうした努力をこの場所は続けてゆかねばとも思っています。



2024年5月某日


この春卒業した看護学生の皆さんへ


こんにちは (医療倫理)講師の草薙龍瞬です。
卒業おめでとうございます。


今思い浮かぶこと・・・個人的には、この四年間は、医療・看護倫理がかなり崩れた期間だったと思ってはいます――。

これは看護の世界に生きる人たちには伝えにくいことではあるのだけれど、

医療・看護が、助けを求めている人たちへの救いの手段であるはずが、いつのまにか患者や現場の看護師に過剰な負担を強いるようになっている現状もなくはなく。

たとえば感染予防策としてのワクチンの扱いについては、厚労省が認定する、mRNAワクチン接種後の後遺症・死亡事例が日を追うごとに増えているのは、事実。当然知っていますよね?

実習先の病院が、看護学生へのワクチン接種を「事実上」強制していたことも、過去にはありましたね。

ちなみにワクチン接種後に死亡した最初期の報道は、2021年4月15日。医療従事者への先行接種が完了した直後の、福岡在住の26歳の女性看護師でした。

接種4日後の朝、室内で倒れている姿が発見されました。当時、接種が進んでいたイギリスでは100万回接種あたり26.2件の死亡報告が出ていました。見えて(知って)いましたか?
 
今なお続く、新型コロナウィルスに関する執拗な報道も、倫理的には問題です。いつまで続けるのか。社会への負の影響をどう評価するのか。このまま社会の活力を削ぎ続けるのか。報道するかしないかを決める基準は、この社会にあるか? 
 

新型コロナについて、今回のワクチンについて、何が正しい理解かは、これから議論していかねばならないことです。決めつけは倫理違反。これは、人の命を守るという普遍的な使命を担う医学の問題であって、「反〇〇」といった党派対立の問題ではないのです。

起きた事実を冷静に見つめて、
いろんな可能性を考えること。「見解」(これが正しいに決まっている)という名の妄想に飛びつかずに、 「苦しみを増やさない」という医療の、いや社会全体の大原則、いわば約束を守り抜くこと。

それが倫理です。社会を社会として維持していくための良心。
 
みなさんが貫くべき職業倫理(看護師としての鉄則)でもあります。


しかし「苦しみを増やさない」という大原則に反する報道、政策、医療・看護のあり方が続いている印象が、個人的には強くあります。

多くの人が、自分が正しいと思う見解・意見の中に閉じこもるようになってしまった。異なる可能性、もっと他にあるかもしれない選択肢を考えなくなった――。


さまざまな見解に分かれるのは仕方ない。けれども、そうした多様な見解を、一定の視点をもって整理して、誰もが納得のいく「考え方の道筋」を示そうという態度が不可欠です。

特に医療・看護の専門家・プロフェッショナルには、そうした態度が期待されています。


自分たちの見解・利益に偏ることなく、なるべく多くの人が苦しみを回避し、幸福を実現できる社会を、制度を、選択肢を考え抜くーー
 
そうした本来の倫理が、どの分野においても、崩れつつあるように感じています。
 
日本社会の劣化は、危機的レベルにあるのかもしれません。



案外、ベテランの看護師であっても、こうした現実や、看護の世界固有の問題が見えていないことは、少なくありません。

使命感が強くて頑張りすぎたり、忙しすぎて看護の世界を冷静に眺めることができなかったり・・・確かに偉いし尊敬できるのだけど、お人好しすぎるのでは?と思うこともなくはありません。患者目線の脱線ですが(^^;)。



講義の中で皆さんにお伝えしていたのは、「患者目線で」レポートを評価しますよということ。晴れて卒業した皆さんに、私が患者目線で期待するのは、

まずは、現場で確実に人を救える技術と知識と経験を身に着けること。
(初歩を固めるのに3年、習熟に7年、主戦力になるのに10年? 一般論としてですが)。

そのうえで、看護が抱えるさまざまな問題を、正しく理解して、改善の方法を提言できる「新しい看護」を創れる人材になってくれること(時間はかかるし、難しい使命だけれど)。

苦しむ人を助けると同時に、自分自身も苦しみを越えて、

「納得のいく職業人生」――私は生涯をかけてこの仕事(看護)をやってきた、その人生に納得している、誇りに思う、生きてきた価値があったと思えること――

そこまでたどり着いてほしいな、と個人的には願っています。


そのためには、現実を正しく理解する技法が必要です。「ただ従う」ことが正しいとは限りません。

とはいえ「倫理的に間違っています」と言えるには、自分が相当なレベルのプロになる必要があるのだけど。

最終的には、

看護の世界が抱える問題を見抜いて、


「本来の(=苦しみを増やさない)看護のあり方」を言語化して、

「倫理に反する」現場の慣行や人間関係に苦しめられない「強い看護師」になってもらえたら、と願っています。


強く、優しい看護師 をめざしてくださいね――というのが、患者目線からの希望です。


 

改めて 

卒業、おめでとうございます



2024年3月下旬


現実と闘える本物のプロフェッショナルが各分野に必要では?



「心は歳を取らない」という生き方


「老害」という最近よく聞く言葉は、マクロの「制度論」と、ミクロの「人間関係論」に分けて、その意味を考える必要があります。

いずれの視点においても意味がない――というのが、仏教に基づく結論にはなります。もっと建設的なテーマ・表現に置き換えることが可能だからです。追って言葉にしていきたいと思っています。


ただ、こうした考察は、自戒しないと、まさに「私はこう思う」という我見(妄想)の延長にすぎなくなる危険があって、

その危険に気づかないままでいると、自分もまた「自分の意見以外は見えていない」独り善がりに陥ってしまいかねないので、

なるべく目線を低く、心を開いて、素朴な疑問を、素直な言葉で紡ぐ必要があります。(※本に書く時は、そのうえで知識や情報をつけ足します。この場所では、そこまではできませんがw)

「心が歳を取らない」ことが大事ということです--その練習はといえば、私の場合は、


外の景色を子供のように、というかまさに子供と同じ目線で見ること をしています^^。たとえば、

 

まだ寒い日が続いていますが、日差しはもう立派に春。透明で、あたたかくて。

外を歩いて、その光を、一切の自意識なく見つめます。

自意識をゼロにできれば、それは幼子が見る景色と同じになります。


「自分」を作っている日常の妄想(自意識のかけら)を完全に消すのです。


この命には、それが可能です。で、心をツルツルのピカピカにする――。

これが、自分にとっての一番の健康法です。


すると歳を取りにくくなります――あくまで”心の年齢”についてですがw。



ストレスを溜めないことは可能です