この場所を見つけて、相談したいと連絡をくださる方々へ
この場所は、開かれた心と慈悲の思いをもって、なるべく多くの人に新しい可能性を見出してもらおうとしています。
だから、ご相談にはいつでも応じる方針でいますが、いくつか最初に、お役に立てる場合とそうでない場合とを分ける線引き(基準のようなもの)をお伝えしておくことにします:
1)求めるものは、あくまで自分自身の生き方である(でなければいけない)ということ。
本を読んで、「私の親に会ってください」とか、自分以外の誰かを変えよう(変わるように助けてほしい)」と考える人がいます。
でもこれは、見当違い。自分以外の誰かを変えることは、誰にもできません。本人が自ら見つけて、自分のあり方について直接相談してこない限り、変わる可能性はありません。
「自分以外の誰かを変えたい(変えてほしい)」と思っているということは、その誰かにまだ執着しているということ。
この場所が伝えられるのは、そうした自分自身の執着を断って、その相手から自由になる方法なのです。
この場所が伝えられるのは、人に執着して苦しんでいる自分自身を変える方法です。自分が執着している誰かを変えることではありません(その先は妄想の領域です)。
2)少しでもこだわりやプライド、譲りたくないものがある人も、時期尚早です。
わかりやすい例でいえば、「あなたのプライドが邪魔しているのですよ」と言われて、ムッとしたり、そんなことはありませんと言い返してしまうようなら、まだ自分を見つめる覚悟ができていないことになります。
それはそうです――プライドを乗り越えているなら、反応するはずもないし、プライドを越えねばならないことを自覚しているなら、「そうですよね(理解できます)」という言葉が自然に出てくるものだからです。
反応してしまうということは、まさに図星ということ・・でも図星であることを、まだ認めたくない段階だということです。ならば、時期尚早ということになります。
3)誰かをかばおうとしてしまう人も、まだ執着にとらわれています(ゆえにこれも時期尚早)。
最も多いのは、肉親の業(ごう※)を指摘されたときに、とっさに肉親をかばって弁護してしまうこと。代わりに自分が悪いのだと主張する人もいます。指摘されて腹を立てる人さえいます。
※ 業:ごう がわからない人は、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)をお読みください。
こうした人たちの心にも、プライドと同様に、肉親への執着が存在します。執着があるからこそこそ悪く言われたくないと思ってしまう。かばってしまう、指摘されると腹を立ててしまう。
でもそんな自分に決定的に影響を与えているのが、肉親だったりします。それが事実ならば、それはその通りですと受け入れなければ、自分への理解が進まず、結果的に前に進めなくなってしまいます。
端的にいえば、親のことを指摘されて「違う」と言いたくなるということは、自分と親との間の線が引けていない(まだ混同している)可能性が高いということです。まだ執着の只中にあるのです。
ちなみに、苦悩を抜ける道筋の大枠というのは、
①苦しみの原因を、自分か、自分以外の他者か(親も含む)に明瞭に分け、
②自分の中の原因を自覚して反応しなくなること、または
③他者を見ても、思い出しても、一切反応しなくなること
です。反応しなくなれば、苦しみは止まるので、苦悩は解消します。
ところが指摘されると反応してしまうーーなぜなら執着があるから。この段階に留まる限りは、苦悩は続きます。
4)自分で連絡してこない人も時期尚早です。
これは技術的なことだけれど、自分で連絡せず、人を介して(利用して)くる人もいます。
これも成り立ちません。自分のことは自分でやること。自分のことは自分で語ること。
最低限の自立ができていること。それが前提です。
※他人のことなのに、線引きできずに、○○さんの相談に乗ってあげてくださいと「つないで」しまう人も、自立できていない可能性があります。というのも自立していれば、「それは自分でやらないとね」と気づけるし、言えるものだからです。
他にも、いくつかありますが、総じて、相談して変わりうる可能性がある人たちとは、
①事実を指摘された時に、それは事実ですと受け止められる人
自分のことであれ、誰かのことであれ、事実は事実。苦しみがある、その原因はこういう過去、こうした関係性にある・・そうした理解を、そのまま受け取れる人。
事実を指摘されて、まだ反応してしまう段階であれば、「相談→実践→変わる」のステップには入れませんよね。
その意味では。どんなに耳の痛い指摘も、冷静に、謙虚に、受け止める心の準備ができている必要があります。
②あくまで自分のあり方を見つめられる人
他人を語らない・論じないこと。自分以外の誰かを変えようとか、変わってほしいといった執着を、この場所に持ち込むことはできません。
③なすべきこと(実践)をやる覚悟ができている人
自分を変えるには、自分のあり方を自覚して、そうした自分を作り替えていくための実践に踏み出す必要があります。
いつまでも過去に執着したり、誰かを変えようともくろんだり、人に腹を立てたり責めたりしているのなら、本気で変わる覚悟がないということになります。
この場所は、原因をつきとめて、伝わる言葉で言語化して、この先何をしていけばいいか、具体的な実践・行動までお伝えすることを方針としています。
その行動に踏み出す覚悟や意欲があるかどうか。
ないということは、「変わらなくていい」ということ。となると、これもやはりお役には立てません。
他にも見るべきものを見たうえで、はたしてお役に立てる可能性があるのかを見極めています。
おそらくこの場所は、本人には想像できないくらいに、人の心の奥を見て(見えて)います。
利を図るという発想がないので、お役に立てる可能性があれば、どこまでも一緒にいるし、お役に立てない状況であるなら、様子を見ることになります。
ためらい、おそれ、プライド、自己弁護、ごまかし、美化、詭弁、正当化、誰かへの執着・・・そうしたものが少しでも残っていたら、ブッダの智慧という、ほぼ万能して、でもかなり鋭い(人によっては痛い)知力は役に立たないだろうと思います。
執着は、智慧よりも、強いので――こうした真実をきちんと伝えることも、この場所なりの配慮(人それぞれの人生の尊重)から来ています。
自分の苦しみを自覚して、原因を突き止める作業を手伝ってほしいという気持ちが強くあって、何を指摘されても、そうか、それが執着にまみれた自分に見えていなかった真実だったかと思えるに至った人であれば、
お役に立てる可能性もあるかもしれません。
◇
とはいえ、本当に苦しんできた人は、ある程度、自分のあり方について飽きている・懲りていることが多いものです。
また、誰かに苦しめられたり、傷つけられたりしてきた人は、本人が思っている(思い込んでいる)ほど悪くない(他に原因がある)ことが多いので、
そうした人たちは、この場所で、本当の原因を明快な言葉で指摘してもらって、その原因を取り除くステップを理解することで、スッキリして、希望を見出して帰ってゆくので、
この場所・ブディズムは、優しくて、元気が出る存在(味方)に映るはずです。
その一方で、捨てたくない執着の只中にある人にとっては、ここは敷居の高い、峻厳な場所に映るかもしれません。
優しかったり、厳しかったり・・まさにお寺であり、道場です。心によって、見えるものが変わるのです。
人の心は、みずからが作り出した執着の壁にぶつかっている状態だと思ってください。高くなったり、低くなったり・・・
壁が消える方法を(決して難しいことではありません)伝えるのが、この場所であり、ブディズムです。
苦しみも、原因も、自分の中にあります。そうした自分自身を正面から見すえる覚悟ができた時に、
ブディズムは、ほぼ万能の可能性をもって「優しい姿」で現れていたことを知るのだろうと思います。
人生は長いし、世界は広いので――
時間をかけて、真実(正しい理解)に近づいていけばよいのだろうと思います。
最終的に、答えが出ない人生は(答えを出さないことを本人が選ぶのではない限り)存在しないというのが、ブディズムの人生観です。
答えは出していいのです。終わりなき自問自答を生きることも価値を持つけれども、答えを出して、生きるという営みが持つ可能性の最果てまで体験することも、価値を持ちます。
答えを出さない生き方は、世の中に無数にあるから、
ひとつくらいは、答えを出しきる生き方もあるということ、その方法を示せる場所があってもよいと思います。
この場所は、つねに可能性を見ます。
人間が、十二分に生きて、心の隅々まで苦しみがない境地にたどり着く可能性を。
*相談してみたいと感じている人は、とりあえず各地の講座に足を運んでみるのが一番よいかもしれません。基本的に、この場所はオープンに、カジュアルに、フツーにやっています。
2024年7月1日