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ただいま執筆中!


明日15日の東京新聞・中日新聞のイラスト
本文は明日のお楽しみに


新聞連載には年末進行というのがあって、原稿を前倒しで仕上げないといけません。

ということでここ一週間は、本文とイラストのほうに集中していました。

来年2月2日分まで、合計6本を完成! これで私もしばらく他の仕事に専念できます。

『ブッダを探して』は、読者の皆さんからお問い合わせいただいていますが、単行本としてまとめられるかは未定です。

文芸的・自伝的作品なので、文芸に強い出版社にお声をかけてもらえたら・・と思っているのですが。

この作品、週に一本800字ほど、さりげなく、あっさり書いていますが、内容はかなり濃厚かつディープです。仏教や瞑想についても、実はかなり掘り下げた内容を薄口・淡泊にまとめています。

なんとか与えられた連載期間の中で、現代編さらには未来の展望にまで漕ぎつけたいと思っています。



2024・12・14

こころを洗う技術


『心を洗う技術』SBクリエイティブ 重版決まりました^^*

ブディズムの教科書(図解入り)です。仏教を学びたい人は、まずコレ一冊。

やっぱり紙の本がお勧めです。「読んだ」「モノにした」という実感が残るのは、やはり紙の本。体を持った人間には(※ここ大事)、目と指先で直接知覚するほうが、脳に刻まれる深さと量が違うはずです。

 





心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


◇◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します



あたらしい青春


ただいま青春爆走中だ。病的に長引く猛暑もなんの暑(そ)のだ。

定期券が、これほど破格の力を持つとは想像していなかった。

自宅から1分の最寄り駅から電車に乗れば、冷房が効いた快適な空間にたどり着ける。

移動中は文庫本をチェックする。歩くときはズボンの後ろポケットに入れる。

スマホで眺める情報は、すぐに流れ去る程度のものだ。だが本は、自分のテーマがあって選んで読むものだ。まったく違う。

スキマ時間にスマホを眺めるのと、文庫本を読むのとでは、実は後者のほうがストレスが少なく、かつ価値が高いように思う。滋養として心に残ってくれるからだ。

今は電車の乗客のほぼ9割方がスマホをにらんでいる。あきらかに空席を探しているシニアの人が乗ってきても、若い人も子供でさえもスマホをらんで、気づこうともしない。

電車の中では、なるべく立つことにした。立っていられる体力があるなら、立ってバランスを取って下半身の筋肉を鍛えよう。

思い出したが、私は二十代前半の学生の頃も、電車の中では立つことを選んでいた。自分が座れば、座れなくなる人が一人出てしまうからだ。上京してきた両親が、そこまで頑張らなくてもいいんとちゃうかと言って、その時だけは空席があったので座った記憶を思いだした。

余談ついでだが、座ったままというのは、筋力を激しく衰えさせる。長時間座ったままでいると命を縮めるという説をよく聞くが、私のように座る時間が長い人間には、それが真実だとよくわかる。

座ると、足のつけ根から、ほとんど筋肉を使わないのだ。筋肉が死んだ状態。これがものすごく体に悪いことが実感できる。急速に筋力が衰えていく。足が死に近づいていく(笑)。

だからこの夏から、「座らない」実践を始めた。電車の中ではなるべく立つ。揺れる車内で立っているだけでも、足腰の筋肉を使っていることが伝わってくる。

移動中の階段は「一段飛ばし」をルールとした。これもかなり効く。足腰の筋肉だけでなく、心にもだ。昇るスピードやリズムが、一段ずつ上るのと違う。心が若返る。かつてはこれくらいのテンポで動いていた。その頃の心に戻れるのだ。50過ぎて一段飛ばしの男(笑)である。エスカレーターで昇る人たちにとっては、変わった人に見えるかもしれないが。

電車旅とはすごいもので、30分も過ぎれば、非日常の場所に着いている。新しい商店街、新しいスーパー、新しい道。そして、お目当ての場所に着く。最近見つけた図書館だ。



出家前に日本を離れてから、本を読むことを意図的にも遠ざけてきたところがある。必要がないと。自分が身に着けた仏教ベースの知力で仕事はできると。実際、ここまでの作品は、基礎とする仏典・資料に材料を絞り込んで書いてきた。それでも足りた、のである。

だが今から書こうとしているのは、十代向けの生き方の本であり、また自身が新しく始めようとしていることは、十代までの子供たちに、未来につながる知力の本質を伝える活動だ。

だから、彼らにとってのリアル(その心に届きうる知識や表現)を学び直す必要がある。

今進んでいる大きめの企画は2本。いずれも子供・十代が対象だ。ひとつはストーリーで、もうひとつは十代向けの生き方・学び方の本(自己啓発的な内容と勉強法的な内容を混ぜた本)だ。

そこで今重点的に読んでいるのは、児童文学と、十代向けのいろんなジャンルの本。

児童文学はすごい。絵本もすごい。子供向けの解説本もすごい。理科・社会・国語という分類を越えた精緻なテーマで巧みに解説している。「子供だまし」とは真逆で、「本質」を描いている。

その本質が複雑化・深化していった先に、大人たちにとって科目や専門分野がある――はずであり、あるべきである。高度な学びにシームレスにつながっている内容こそが、本質だ。

本質を学べる子供向けの本が、けっこう出ていることを最近知った。

大人もまた、学びの道を見失ったときは、子供が手に取る本からスタートすればよいのだ。「わかる」本がたくさんある。

ところが、子供から大人まで学びの階梯をつなぐ本の間に障害物として入ってくるものがある。それが中高生向けの教科書であり、大学入試に縛られたいわゆる「勉強」だ。途端に内容が歪(いびつ)になる。

図書館には中高生も来ているが、その教科書や参考書を眺めると、なんともわかりにくい。本質から遠く離れてしまった「概念」のオンパレード。実感も持てず、記憶にも残らない、知識の死骸みたいなものに見える。

中高生も、教師も、大人たちも、勉強とはそんなものだと思い込んでいるかもしれない。だからこそ「干物にもならない干物」を噛んでも、それなりにやっていられるのだろうと思う。本当の干物ならまだ味があるが、彼らが勉強と思っているものは、さしたる味もない概念の羅列でしかなかったりする。たとえば世界史--トルコ・マンチャーイ条約? セポイの乱? おいおい。そんな単語を年号と一緒にきれいにノートに取って、はて頭に何が残るのか。

本当の学び・教養というのは、たとえば日本を離れた時に、いろんな文化背景を持った人たちとコミュニケーションを取るための話題・材料になりうるものだ。世界を見通す手助けになるもの。

今の学校で学ばせているものが、はてどれくらい使えるか?

中高生が机にかじりついてやっている勉強の中味は、世界・国際には役に立たない「オワコン」であり、概念の死骸かもしれないと思う。

これは海外の教科書や勉強事情を調べてみなければならないが、東大を初めとする難関大学卒の優秀とされる官僚が(←世俗の価値観に沿って語ってみる)海外の大学に留学すると、低くない確率で留年・退学になったりすることの一因かもしれない(※恥ずかしくて公表していないだけで、実態はけっこう深刻だとも聞く)。

数学もできず、歴史も語れない、文学・芸術をどう論じるかもわからない。完全に大学入試で止まっている頭では、海の向こうには渡れない(通用しない)し、国内においても前例踏襲のほか何もできない。

日本の教育は、形は多少変われども、中身はまったく変わっていない気配が濃厚だ。気づいていないのは自分たちだけ。これもガラパゴス。大学の先生方でさえ、それでいいと思っている可能性も案外高い。




本題に戻すと、十代向けの本を書くために、いろんな本を読んで調査・研究・思索せねばということだ。その最適の環境が、最近見つけた図書館だ。

定期券を買えば、元を取るべく休まず通おうという気にもなる(貧乏性ゆえ)。入れば快適な冷気に包まれる。そして静かで清潔な環境の中で、豊饒な本の世界に遊ぶことができる。

いや、本がこれほどたくさんあるとは、しかも良書がこれほど多いとは。いくらでも学ぶことがある。それを自分の目的(マイ・テーマ)に沿って作り直して、本と活動に活かしていく。その作業を進めている。脳を、未来を、耕している。


近くのアパートの下見に行った。今すぐ動けはしないが、引っ越せば新しい生活が始まることを実感できた。まるで学生時代に戻ったかのような気分が味わえた。

つくづく楽しい毎日だ。充実感が半端ではない。心はバック・トゥ・20代。手つかずの未来が見える気がしてしまうのだ。まさに青春である。



帰りはバスに乗った。東京の街を眺めていた。

もし上京したばかりだとしたら? 

手つかずの未来につながる空が目に映ることだろう。

もうごくわずかしか時間が残されていない末期だとしたら?

今見ている夕暮れどきの空は、人生で最後に見る空になるかもしれないと思いながら見つめるだろう。

そう、現実の私は、きっと近い将来に、東京を離れてしまうのだ。

今見ている明日の夢は、夢のまま終わる。きっと。

「あの頃の桜は、もうどこにもない」と、ある映画の中で登場人物が語っていたけれど、

たしかにあの頃の夢は、もうどこにもないし、

今見ている夢も、たぶんどこにもなくて、

ただ、これが最後かもしれないと思うこの心にだけ見えている、

せつない幻影かもしれないとも思う。


人生はいつか終わるけれど、青春はそれより早く終わる。

でも奇跡的に、まだ青春の中を生きている。

もうしばらく、この新しく始まった青春を楽しませてもらおうと思っている。



2024年9月中旬

 

 


カピバラは悩まない?


いくつかの作品は翻訳されて海外へ

日本語版は著者がすみずみまで言葉を選んでいますが、外国語版となると、どんな表現になっているのか(ネイティブの人がどう受け止めているのか)、想像つかず。

でも、自分の言葉が見知らぬ人に届いているというのは、不思議な感じがします。

(把握しているのは、韓国、中国、台湾、スペイン、シンガポール、ベトナム、インドネシア・・・『怒る技法』はアメリカで翻訳出版される予定です)


こころを洗う技術 SBクリエイティブ
 
 
反応しない練習 KADOKAWA
 
では、次の本は?
 
カピバラは悩まない

原題は、
 
 
反応しない練習 だそうな(攻めてますw)
 
中国では、カピバラは煩悩ナシの生き物とみなされているそうな
 
 
 
 
 



今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

※来年から寺子屋を始めるので、ときおりこのサイトで最新情報をチェックしてください。個別の感想・おたよりも受け付けています。



『怒る技法』オーディオブック始動

東京は快晴。今年の夏も暑くなりそうです。


今、『怒る技法』(マガジンハウス2023)のオーディオブックの収録中です。

今回も著者本人が朗読しています。

声優さんの朗読と違う点は、伝え方の強弱や工夫をつけられるところでしょうか。声優さんは、他人(著者)の文章だから正確に読み上げることしかできないのだけれど、著者本人が読む場合は、内容がわかっているから、内容に即した朗読の仕方を選べます。

テンポよく進めるところもあれば、じっくり真面目に語るところもあり。文中のセリフは感情をこめて朗読することができます。

ディレクターさんいわく、他のオーディオブックとは違う新しいジャンル。

著者が直接読み上げる作品は、かなりレアものだとか。


著者朗読版は、『反応しない練習』の最初のオーディオブック作成時に、特典として著者メッセージを収録したことがきっかけ。それまで前例がなく、関係スタッフも配信元も慎重だったのだけど、やってみると、意外といいかも?という話になって、『反応しない練習』の著者朗読版が実現。

その後『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』と進み、

ポッドキャストも第3弾まで実現することができました(いずれもAmazonオーディブル)。

奇跡みたいなもの。本当にありがたく感じています。




朗読は、やってみると、すごく奥が深い世界です。


文章の区切りとつなぎ、抑揚、強弱、間の取り方・・。音(声)の出し方も、文章を書くのと同じように、さまざまなバリエーションがあります。末尾の「た」「す」をどう発音するか・・「うまく声を出せた」と思うところもあり、「ちょっと弱かったか」と思うところもあり(そういうときはリテイク)。

聴く人はおそらくまったく気づかないかもしれないレベルでの音(声)選びが続きます。全神経を使うので、かなり疲れます。

今回は、競馬中継や、文末に小声で「シャキーン!」と語っていたりと、まだ本を読んでいない人にとっては、なんのことやらまるでわからない部分も入っているのですが、このあたりも何度かリテイクして確定。


読み返して感じるのは、この作品は、今の時代に必要な本だということ。今の世の中を生き抜くうえで必要な技術が詰まっています。一年ぶりに読み返して、一層そう感じます。

『反応しない練習』は、自分の内側を変えるもの。でも、外の現実は、つねに他者との関わりだから、「関わる技」が絶対に必要になります。その部分を掘り起こしたのが、『怒る技法』。

怒ってはいけないなんて、とんでもない。ときには怒って見せなければ、本気で怒らなければいけないこともあります。

ただそれは、感情だけで怒るのではなく、技を使って怒るということ。正しく怒ってみせることが大事。

この技を知っているかどうか、使えるか使えないかで、人生はまったく変わってきます。正しい怒り方を知らないと、怒りの出し方に失敗し、ストレスを溜め込み、疲弊して動けなくなってしまいかねません。

他方、正しい怒り方を知る人は、現実に直面した時に、どう動けばいいかをすぐ言語化できるし、その方針に沿って動けるので、ストレスが増えません。

それでも生じるストレスは、『反応しない練習』でリセットできます。結果的に快適な自分を維持できる。

怒る技法で現実に立ち向かい、反応しない練習でストレスを即解消--まさに最強の心が手に入ります。

著者の脱線トークつき。公開までもうしばらくお待ちください。






出す価値のある本だけを出す


 今、十代向けの生き方&学び方の本を書き進めています。

 2014年に出した『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』の改訂版。とはいえ、全面的に書き直すことになりそうです。

 そもそも勉強法や学歴(といってもたかが学士卒に過ぎない)を売りにする風潮自体が、時代錯誤にして無思考の典型だろうと思っています。もはや飽和状態だし、こうした企画で本を出すこと&自分を語ること自体が、とっくの昔に社会全体が卒業しなければいけないはずの不毛で残酷な価値観を助長することになってしまいます。

 不毛というのは、試験という固定された制度の中で「いい点数を取る」ことと、社会における改善(問題の解決と苦しみの低減)との間に、相関性がないからです(直接の関係がない)。

 残酷というのは、学歴に価値を見出すことで、学歴を手にした者が称賛を、そうでない人が価値を認めてもらえないという偏りを作り出すからです。

 入試および学歴というのは、限られた椅子しかありません。椅子に座れる人(合格できた人)がいる一方で、どうしたって座れない人が出てきてしまう。

 しかし椅子に座れたからといって、社会の改善に貢献できるとは限らない。椅子に座れなかったといっても、学歴自体は(仏教的には)妄想に過ぎない。自分にできることをして社会の中で生きていければよく、本当は椅子そのもの(成績や学歴)に価値があるわけでもない。

 学歴があってもなくても、勉強ができてもできなくても、人は、自分のやり方で社会の中にひとつ居場所(仕事)を見つけて生きていければいいはずで、

 社会にとっては、その中に生きる一人一人が少しでも不安やストレスなく、逆に安心や満足をもって暮らしていければ、それが(それだけが)共通の価値といえるのだから、

 勉強、試験、学歴という、人間が作り上げたシステムそのものに価値があるわけではないのです。「たかが」の世界。しょせんは妄想。

 しかしそうはいっても、価値観もシステムもすぐには変わらない。むしろますます固定化しつつあるように見えなくもない。そうした社会に生きていかねばならない十代の人たちにとっては、学びも生き方も、現在進行形のテーマであることに違いはありません。

 自分自身が体験したことだからこそ、伝えて励ますことも可能になることは事実。自分がとうの昔に捨てた世界のことだからと捨ててしまうのも、歳を重ねた人間の傲慢と耄碌ということになりかねません。

 出す価値がある本しか出さないというのが、私の信念です。出す価値はあるーーいや、価値があるように中味を選び直してもう一度書き起こす。そこが挑戦のしどころかもしれません。

 どう書いても、世俗の価値観に迎合助長する側面を持つことは否めません。そうした価値観を嫌って生きてきた身にとっては、勉強や学歴を論じることは、どうしたって自己矛盾のジレンマを抱え込まざるを得ません。

 そういうジレンマさえも率直に言語化して、既存の風潮を突き放し、相対化して、時代・社会を越えて大切な学び方と生き方を伝える――そういう作品になればいいという結論に達しました。

 特定の大学や学歴をやたら話題にしたがる今の風潮は、明らかに間違っています。妄想をもてはやしたところで、社会における実利(本当に価値あること、つまりは人の幸福を増やすこと)は増えません。

「まとも」な生き方を伝えたい。少なくとも、まともな生き方は社会の風潮とはまったく別の場所にあるということを共有・共感できる人とつながることができればという思いで書き進めています。


ポッドキャスト第3弾は4月26日配信スタート

Amazonポッドキャスト第3弾

反応しない練習エクストラ【希望篇】
大人になったぼくらは今どう生きるか

 

2024年4月26日(金)に配信スタートしました。

配信元 https://www.audible.co.jp

 

EPISODE1<喪失>
居場所を失ったとき何をめざせばいい?――2歳で放浪し始めた出家の場合

EPISODE2<決別>
生きづらい社会の犯人は誰だ?――学歴信仰という見えない監獄

EPISODE3<克服>
人間関係に悩むあなたへ――傲慢な強敵にブッダはどう立ち向かったか

EPISODE4<決断>
ほんとは人生難しくない?――矛盾だらけの世界で見つけた答え

EPISODE5<希望>
それでもぼくらに必要なもの――時が過ぎても変わらない「生き方」がある

 

 

 

幸せな日が1日でも増えるように

この世界が1日でも長く続くように

未来に向けて贈ります

 

 

伝えきれない思い~『反応しない練習エクストラ』ポッドキャスト第3弾

2024年1月某日、
Amazonポッドキャスト『反応しない練習エクストラ』第3弾<希望編>の収録がありました。

*2024年4月26日(金)に配信スタートしました:

配信元 https://www.audible.co.jp


このシリーズは3部作。もう9年近く寄り添ってくださっているKADOKAWAメディア担当者のご尽力の賜物です。


サブタイトルは当初、「告白編 本当は話したくないことを無理やり話す第3弾」的なものになる予定でした。あくまでエンタメ。ふだんほとんど語る機会がない過去の体験について”告白”しようというもの。第1・2弾は、実際にそうした内容でした。


しかし今年に入って能登半島を中心に地震そして津波が起こりました。


現地の人々の姿を見ると、やはり胸が痛みます。

こうした現実を脇に置いて語ることが、果たして正解か――自分の中で葛藤が生まれました。


仮に今回の痛ましい出来事が一回限りのもので、今後は次第に平穏無事に戻ってゆけるというなら、聞いて楽しんでもらえる話題だけ話しておこうということになるかもしれません。

でも、現実は現在進行形にして未来形。これから復旧・復興まで長い歳月が必要になるでしょう。

もしかしたら今後、さらに大きな災難が広い地域に起こるかもしれない、この国に長く困難な時代が来るかもしれない・・・。

もしそうなった時に、個人的エピソードをメインに語るという切り口でよいのかどうか。


むしろ現実を見据えて、自分たちはこれからどう生きればいいのか を正面から語るほうがよいのではないか。そう思えてきました。


でもそうすると、第1・2弾ほどの笑い(楽しさ)はなくなるかもしれない・・。

とはいえ、現実をかわして話を組み立てると、痛みを抱えて生きる人にとって、さらにもし近い将来、もっと多くの痛みが生まれた時に、必要性を失ってしまうのではないか。そう思えてきました。

生き方。そして希望。

現実が困難になればなるほど、必要とされるもの。

それを語ることこそが、この命の本分(本来の役目)であろうと強く思えてきたのです。


もともとこの命は、自分のことではなく、相手のこと、人さまのこと、社会のことを考えて、本当に伝える価値があることを伝えることを、役割としています。出家とはそういう立場。

主眼(本題)はあくまで、苦難の中にいる誰かに必要なこと・有益なことを語ること。自分のことは「ちなみに」であり「おまけ」です(私の本を読んだ人は、わかってくれるものと思います)。

そこで急遽、構成を変更。

エンターテイメント性を大事にすること、商品価値を維持することは、制作チームの人たちにとってマスト(必須条件)。だから私が申し出た直前の変更に、若干のためらいを覚えた様子はありました。

でも現実を見据えて、今伝えなければいけない(と感じる)ことを、まず言葉にする。そのうえで頑張って、聴く人に楽しんでもらえる要素を増やすことに全力を尽くそう。そうお願いしました。


実際に、そうと決めたとおりに話を収録したのですが、この国にはこれまでも何度も大きな地震が起きていて、そうした地震についても本当は取り上げるほうがよくて、でもそうすると本当にヘビーな内容になってしまって、今回のポッドキャストの趣旨を大幅に逸脱してしまう・・・というさらなる葛藤も出てきたことを、告白しておきます。


この世界は、いつも、どこにおいても、悲しいこと、苦しいことが無数に起きているから、

全体を見れば見るほど、考えれば考えるほど、語り切れないこと、取りこぼさざるをえないことが出てきてしまって、

最後は、生きていることさえ罪を犯しているかのような思いにがんじがらめに縛られてきて・・・

という出家する前の心境を、収録しながら思い出してしまいました。戻ってしまった・・。


生きるだけで、つらくなる。

 

出家する前は、そこまで追い詰められていました。

出家したからなんとか、生きることの矛盾や、生きること自体の罪深さや、自分というあまりに小さな存在の非力無力を乗り越えて、

”よき働きを果たす” という今にたどり着くことができたのですが――。


個人的にはいろんなことを考えながら、痛みを感じながら、それでも聴いた人に笑ってもらえるように、”希望”を見出してもらえるようにと、頑張って、本当に今回頑張って、収録しました。いや、しんどかった。というか、率直につらかった・・。


少しは伝わってくれるかな。

伝わってくれると、嬉しいな。


インドに旅立つ前に

2024年1月某日

 

ポッドキャスト3部作 これにて完結

 

 

ブッダを探して~中日・東京新聞で連載開始

2024年2月18日(日)中日新聞・東京新聞で連載開始 
文・挿絵・タイトルバック(上のカット↑) 草薙龍瞬

 

プロローグ
旅の始まり


人生が八方塞がりになることは、たまに起こる。誰の人生にも起こりうる。

僕の場合は、三十代半ばで起きた。仕事をめぐる迷い。末期ガンの宣告(のちに誤診と判明して命拾い)。独身で、貯金もなく、東京で先の見えない暮らしを続けていた。

人生にゆきづまったとき、人は過去を振り返る。僕が出てきたのは、奈良の田舎。関西の進学校に入ったが、成績を比べ合って一喜一憂する学校に違和感を覚え、中三の二学期で自主退学した。卒業証書さえもらっていない。中学中退だ。

父との関係は最悪で、家に居場所なし。十六歳の夏に思いきって家出した。自分を知る人は誰もいない大都会・東京。文字通りの闇をさまよい、「このまま終わってたまるか」という意地と、「学問をやって世の中を変えたい」という理想にしがみついて、一年勉強して東大へ。だが直面したのは、深い失望だった。

いろんな仕事をした。「ほかに生き方はないのか?」と探し続けた。だが、どこまで行っても答えは見えず、何をやってもうまく行かない。悲壮な思いを抱えて東北寒村の禅寺を訊ねたのが、三十五歳。だがそこでさえ、最後に見たのは、居場所のない自分だった。


もう後がない。さながら漆黒の闇へと崖から飛び降りるつもりで、出家した。


場所はインド。開けたのは、星々が燦々ときらめくかのような、はてしなく広い仏教の世界。死んだつもりが生き返った。ようやく人生の謎が解けた。

人生、完全に詰んだと思う時もある。だがまだ終わっていないのだ。きっと道はある。その希望さえ捨てなければ。遅くないぞ。

ブッダに出会うまでの道のりを、人生に役立つ仏教の智慧をちりばめながら、お伝えしていきます。



文・絵 草薙龍瞬

僧侶・作家 一九六九年生。奈良県出身。大検(高認)を経て東大法学部卒業。三十代半ばで出家し、ミャンマー国立仏教大学等で学ぶ。仏教を現実に役立つ生き方として紹介。ベストセラー『反応しない練習』『怒る技法』など著書多数。栄中日文化センターで仏教講座を担当。



中日新聞・東京新聞
2024年2月18日(日)から連載開始(毎週日曜掲載)

 


 


原始仏典の読み方


『反応しない練習』などの作品を読んで、「仏教がようやくわかった気がする」「原始仏教に興味を持った」というお声を日々いただいています

「本の中にあるブッダの言葉を原始仏典で確かめたい」「さらに詳細な典拠を記してほしい」という声も、かねてから受け取ってきました。

著者としても悩んできたところです。かなりマニアックな内容になりますが、あえてシンプルに記載してある理由・背景について言葉にしておきたいと思います。

※以下は、仏教を勉強したい人向けの内容です:



原始仏典は、中部、長部、相応部など、一般にいう本のタイトルのもと、篇・部・分・章・大節・小節などに細分化されています。全体に通し番号がついていることもあります。<蛇><聖なる者>といった比喩・テーマごとに編纂したものもあります。

たとえば、相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)についていえば、

Samyutta Nikaya 
PartⅢ The Book of the Aggregates(Khandavagga)
ChapterⅠ 22. Khandasamyutta
DivisionⅠ
Ⅰ Nakulapita
1(1)

といった感じで編纂されています。もし出典を明記しようと思えば、Samyutta Nikaya Ⅲ‐Ⅰ-Ⅰ ‐Ⅰ-1(1) のような感じになります。

でも読者にとっては、文字数が増えるだけですよね・・。執筆当初はなるべく正確にと心がけていましたが、読者にとっての価値を考えた時に、あまり意味がないと感じて妥協したのです(学術書にはもちろん必須ですが)。

せめて文献リストを巻末に載せようも思いましたが、膨大になり、一般書籍のページ数に収めきれずにこれも妥協したという経緯があります。

結果的に、学術的な信用性より、一般読者に必要な情報を優先させたのです。



著者である私の原稿には、出典元の情報があるので、必要な時は原典に戻れます。もし著作の中の「この言葉は、どこから引いたものだっけ?」と原典を確認する必要が生じた場合でも、原典のタイトルさえあれば、原典の構造・章立てなどはわかるので、「あの辺だろう」と当たりをつけることが可能です。

そうして可能性のある章や節をたどって、「そうそうこの言葉だった」と確認するのです。


ここで思うのは、どのような大著であれ、「このあたりじゃないかな?」と絞れるくらいに、まずその本を読む、いや正確に言えば「構造を掴む」ことが意外と大事かもしれないということです。



『反応しない練習』をはじめとする私の著作は、

➀Buddhismの原理・原則(基本的な理解と思考の方法・発想等)と、

②原典に記された言葉の引用に基づいています。

それに加えて、

③著者個人の経験と思索をふまえた内容を加えています。

だから本の内容と語り口は著者独自のものですが、そこから伝わる生き方・考え方・理解の仕方は Buddhism そのもの――そうなるように心がけています。

私の作品を読んで、「仏教がわかる気がした」と感じてくれる人が多いのは、そういう理由によるのだろうと思います。全体の構成、言葉の選び方、表現方法は、オリジナルの原始仏典とはもちろん違いますが、それは衣装が違うだけで、中味(本質)は共通しているということかもしれません。



もっとも、本を読んだ人がオリジナルの仏典をたどれば、同じような言葉がすぐ見つかるかといえば、いくつかの制約があります。

あまりに情報が膨大であるという物理的制約が、最初に来ます。次に来るのは、言葉(表現)の違いです。

仏典には、言葉自体が過度に複雑・冗長、装飾・重複過多だったり、現代となってはもはや意味が通じない比喩などが混じったりしています。

さらに、著者のほうで、「この表現で果たして現代の人たちが理解できるだろうか、役立つだろうか」という視点で原典を吟味して、「伝わる、使える」表現へと置き換えているところもあります。

 

もともと原始仏典には、現存するパーリ語仏典をもとに、英語訳が何種類か、また日本の学者先生方が訳したものがあります。

ただ、英語訳も、訳者によって言葉の選び方や、細部の取捨選択が分かれます。また学術的に正確に翻訳しようとすると、情報が膨大となり一般書籍に収まりきらないばかりか、一般の人には厳密・難解・膨大過ぎて、理解できない可能性が多分に出てきます。

私の場合は、パーリ語、英語訳、漢訳(中国語訳)、日本の学術研究書・一般図書などを、できる範囲で渉猟して「訳し方(言葉の選択)の幅」を確認します。日本語訳より、漢訳のほうが、うまい訳し方になっていることもあるし、英語訳から新たに日本語訳を作ったほうが、自然な訳語を導き出せることもあります。

さらに、ブッダが重視した流儀にならって、「聞いてわかる」言葉(口語)に置き換えもします。

そこまで進むと、最初の仏典の言葉からは、一見けっこう離れた言葉遣いになることが出てきます。直訳とは違うのですが、本質を踏まえれば「なるほど、そういう表現も可能だ」と思えてくる言葉の選び方です。映画の字幕に近いところがあるかもしれません。

だから一般の読者の方が、私の作品に引用した仏典の言葉を見つけ出そうとしても、膨大ゆえに途中で見失うか、目の前にあるのに素通りしてしまう・・ということも出てくるはずです。その確率はけっこう高いかも。もちろん逆にすぐ見つかることもあるはずです。




ロス(時間的損失)の少ない方法は、まずは自分で原始仏典(日本語訳)を読み進めて、「これだ」と思う言葉を集めていくことかもしれません(その意味では「何のために読むのか」という目的意識が大事になります。的を見失うと、さまよいます)。


もし著作内の引用がイイと思ってくださった場合は、その言葉を書き留めておいて、いつか見つかるだろうという楽観をもって、読んでいくとか。

「これ近いかも」と感じる言葉が見つかったら、その言葉(学術的翻訳)と、私の訳語とを照らし合わせて、どれくらい違うのか、なぜ違うのかを考えてみるとか。

さらには、英語ができる人は英語訳に当たって(※パーリ語まで手を伸ばすのは、全生涯をかけた超マニアック・超専門的な仕事になるだろうから、正直あまりお勧めはできません・・)、自分でも訳を考えて、もう一度『反応しない練習』などの本に戻ってもらうとか。

すると、「なるほどこういう言葉の選び方(翻訳の仕方)があるのか、たしかに!」と納得してもらえるかもしれません。

もう一つ大事なことは、繰り返しになりますが、やはり原始仏典を読むに際しては、最初に仏典の「構造」を理解することかと思います。「この言葉なら、このあたりに書いてあるかも」と当たりをつけられるくらいに、構造を理解しつつ読んでいくのです。



こうした原始仏典の読み方・翻訳の仕方は、言語化できればと思うこともあります。しかしこの領域に手を出すと、それこそ一生書斎にこもらなくてはならなくなるので、あきらめています。

そのぶん学術的価値は下がりますが、私の役目は、仏教を学問としてではなく、生き方として、また生活に役立つ智慧として、役立てようと思う一般の人たちに向けて、「わかる、役立つ」言葉で伝えることだと思っています。その役目だけで、ほぼ確実に目一杯です。



上記をまとめると、

①一般向けの仏教書に正確な出典を明記するのは困難(本の役割が違うため)。

②原典を読む人は「このあたりに書いてあるかな?」と目星をつけられるところまで、「構造」を意識して読んでいく。

(※ある程度読み込むことができれば、あたりをつけられるようになります。かなり地道な読み込みが必要ですが、本格的に学ぼうというなら、そこまで進めることが必須です。これはどの分野も同じはず)。

③表面的な訳にとらわれず、「生き方・考え方」を学ぶつもりで読んでいく(※するとロスを減らせます)。

ということかと思います。



一番肝心なことは、ブッダが伝えたのは「心の苦しみを抜け出す方法」だということです。

苦しみの原因を知り、それを取り除く方法を実践する。

その方角を見失わなければ、仏教を自分なりに正しく学び、活かすことが可能になります。


私欲のためでなく、この世界の苦しみを減らすために仏教を活かせる人たちが増えてくれたらと願っています。


 

インドの書斎にある原始仏典 ミャンマーからインドに送ったもの





2024年2月10日

 

 

『反応しない練習』は誰のためか

興道の里から

今回の著作物タイトル無断使用広告の件については、2023年11月30日付で該当広告が削除されました。

今回の広告に関係があった当事者の方々には、ご対応くださったことに感謝申し上げます。

今後同様の事態が生じることを防止するため、下記の文面は残すことと致します。

なお、今回の顛末につき、草薙龍瞬からの言葉を末尾に追記致します。

興道の里事務局

>>>>>>


世の中、節操がない場所であることは、重々承知しているが――

『反応しない練習』を、自分の事業の広告・宣伝に無断で使っている団体があるという。



『反応しない練習』は、私(草薙龍瞬)が、心を尽くして書き上げた作品だ。

一冊の本の背後には、膨大な体験と思索と研究がある。

『反応しない練習』というシンプルなタイトルにさえ、著者がミャンマーで学んだ原始仏教と、過去の体験から知見が、背景にある。


私の作品は、この世界を生きる、苦悩する人、それでも希望を失わずに生きている人へのエールであり、手紙として、一冊一冊、魂をこめて書いている。

大事な作品だ。そして多くの人が受け取ってくれた。長く格闘し続けてきたこの人生にも、多少なりとも意味はあったと思える。そういう証(あかし)になってくれた作品だ。


「善き人」たちは、活かしてもらっていい。

正しい思いに立って。人としての最低限の分別・常識をわきまえて。

この世界に、ひとつでも幸せが増えるように。


だが中には「利用していい」と思う人間たちもいるらしい。

分別・良心がある団体であれば、他人の著作タイトルを営利広告に利用してはいけないことは、容易に判断がつくだろう。

だが、そうした一線を簡単に超えて、バレない、これくらいかまわないと思うのかもしれないが、こっそりと人の作品を、自分たちの宣伝に利用してしまう。

そのことで、なんらかの利があると思うのかもしれない。

だが現実は逆だ。他人の作品を無断で使ってしまうあり方を見れば、世の多くの人は、こういうグレーの、やってはいけないことを平気でやってしまう団体・人物だと受け止めるだろう。

「借り物」で作った姿という印象を持たれる。エセ、偽者という印象を持たれてしまう。

その時点で社会的信頼を、ひとつ失う。


こうした無断使用の広告を載せてしまう企業の側の問題もある。もし信頼ある新聞やテレビ・出版社であれば、最初の時点で「倫理的に問題あり」として校閲するだろう。

だが、そうした倫理的問題を無視しているのか、調査不足なのか、グレーの広告を作って配信してしまう。

この時点で、広告企業もまた社会的信頼をひとつ失ってしまう。「こういうグレーな広告を出してしまう会社なのだ」と、世の人々は受け止める。


本当は、誰も得はしない。だが、得にならないということが、利欲に駆られた心には、わからないのだろう。

今の世の中、こうしたことが、平然とまかり通ってしまう風潮にある。

 

「利己」は、この世界を支える信頼を、破壊してゆく。

控えるべきは、控えること。互いの立場に敬意を保つこと。

それが倫理であり、まともな人の姿であり、企業の倫理、矜持(本当のプライド)というものだ。


グレーを重ねれば、限りなく黒になる。

黒になって損をするのは、本人たちだろうと思うのだが。

 
あらためて、『反応しない練習』は、著者が命を賭けてつむいだ大事な作品です。

殺伐としたこの世界の中で、生き方を求める誠実な人たちに贈った大切な手紙です。




2023・11・20


・・・・・・・・・・・・・・・・・

<追記>

この社会の中で活動するすべての個人と団体・企業は、人の幸福に貢献する役割を期待されています。

その期待を守る精神を、倫理と呼びます。コンプライアンス(法令遵守)は、明文化された倫理を守ることです。


今回の件は、倫理という見地から、配信広告の見直しが求められる事態となりました。

この件に対応してくださった当事者の方々は、個人・企業・団体としての倫理および矜持(本当のプライド)を持ち合わせていたものと受け止めています。

その事実に敬意と感謝の意を送ります。


今は、ますます多くの人たちが、苦しみを背負いつつある時代です。

だからこそ、苦しみを一つでも減らすことを共通の目標にして、それぞれが正しい動機に立って、みずからにできることを果たすこと。

そのことで、ようやく人々が社会への希望と信頼を取り戻すことが可能になります。


一人一人の役割は異なりますが、それぞれの場所で頑張ってゆければと思います。

正しい動機に立ち、誠実に働き続けるならば、必ず自らにも、そして人さまにとっても、価値あるものが生まれゆくはずです。


頑張って生きているすべての人に敬意と声援を込めて

 

2023年11月20日
草薙龍瞬敬白合掌



【ご注意】『反応しない練習』の無断使用広告について

興道の里事務局より

 

現在、『反応しない練習』を利用した下記の広告が配信されています: 

https://✕✕✕✕.jp/main/html/rd/p/000000050.000071987.html

(※2023年11月30日付で該当広告は削除されました。以下は今後のために残しておきます)


『反応しない練習』は、草薙龍瞬を著者とする書籍名に当たります(KADOKAWA/2015)。

 

上記広告内容および配信元と、草薙龍瞬およびその作品は一切関係ありません

 

上記広告は、著者および出版社への連絡・許諾なく作成・配信されたものです。

 

なお今後とも、作品名および著作内容を、こうした広告および営利事業で使用されることを許諾することはございません。

 

世間の皆様におかれましては、ご注意くださいますようお願い申し上げます。

 

2023年11月15日

興道の里事務局

 

 

 


怒る技法~ほぼ満願成就


『怒る技法』は、最後の「闘い」がほぼ終了――。

カバーも確定、帯も確定。後はカバーのソデ周りなどの細部のみ。

現時点での著者になしうることは、すべてやった感があります。出し切った・・・。

今回は、カバーイラストも、帯コピーも、本当に細部の細部まで、著者リクエストを、出版社&編集者&デザイナー様が汲んでくださいました。

『人生をスッキリ整えるノート』と並んで、今回もカバーイラストを著者自身が手掛けました。唯一無二。


今回、過去のどの作品よりも、著者自身の人間としての思いを託した感があります。

どれだけ世に届くか(売れるか)は別として、出す価値があったと思える作品。この作品だけは、今の時期に絶対に出さねばならない。それくらい、時代的・社会的必要性が高い本。

しかも現時点での著者の筆力マックス(最大限)を発揮。年末からスパートをかけて、同じクオリティのものをもう一度書けと言われても絶対に無理と思えるレベルに到達した感があります。

それこそ本の1ページ分書いていた内容を、わずか1行・1フレーズに凝縮して、サラリとまとめた(本当はもっと広げて書くこともできるが、ページ数の制約もあるし、読みやすさも考慮して、凝集・洗練させた)部分も、かなり多い。

いくらでも長く書ける内容でも、1行で伝わるなら、そっちを選びました。そういう箇所が今回多かった。読む人が、わかってくれれば成功。わかるように書いたつもりだけれど、はて結果はいかに?

『反応しない練習』から8年・・・いよいよ満を持して『怒る技法』の登場。

時代を画する作品になってくれたらと思います。

「正しく怒れる人になろう」が、帯コピー。



心優しい人にこそ贈ります



2023年11月2日



日々是好日


今回はゆるやかモード^^。

インドの〇〇〇とオンラインで話をした。
息子の〇〇は7歳、娘の〇〇〇は9月〇日が誕生日なので、あと〇日で満1歳。

子供は大きくなっているけど、〇〇〇と妻の〇〇は変わってない。元気な様子。

来年インドに入ることに。現地の社会活動家たちが待っているとのこと。

日本に伝わることと、現地で起きていることは、かなり違う。よくある話。

インドの仏教は分裂状態。セクト同士で対立しあっている。坊さんたちは儀式か縄張り争いがメインで、社会へのメッセージを語らない。

衣だけもらって地元に帰り、出家のフリをして語ったり活動したりしている者もいる。

だが一般の人には区別がつかない。かなり問題になっている。

なんだかブッダが批判的に見ていたバラモンたちの姿と変わらなくなっている。


現地のことは、現地の人たちに聞かねばわからないものだ。

 

いくつかの場所から招待を受けているので、来年は必ず来てほしいとのこと。もちろん。

出家というものは、痛みからすべてを始めなければならない。

安逸と退廃というぬるま湯は、厳に慎まねば始まらない。




モンゴルの人からも連絡がきた。モンゴルからは今回が2度目。

『反応しない練習』に感銘を受けた。今、現地語に自主的に翻訳しているという。内容を考えながら翻訳するので、理解が深まるそうだ。自分のためにやっているという。

ただ、モンゴルはチベット密教の影響が強く、「反応」の元の言葉がわからない。中国語にたどり着けない。サンスクリット語は何か教えてほしいという(いろんな連絡がある^^)

中国語 有漏
パーリ語 āsava
サンスクリット語  āśrava/aasrava/
英語訳 leaking of mind

反応 reaction of mind は草薙龍瞬が選んだ比較的新しい訳語だ。ミャンマーで勉強していた時に使いだした。

『反応しない練習』のモンゴル語版の作成が今進んでいる。できあがったら進呈するとお伝えした。

台湾、韓国、中国、シンガポール、フランス、アメリカ、その他いろんな国の人たちが、便りをくださる。

 

 

この命は、場所を変え、人を変えて、いろんな役割を授かっている。

ただ、面白いのは、自分がいなくなった後のことをいつも想っているということだ。

自分はいずれ消える。自分はいなくてかまわない。自分を伝えようという意図はなく、自分の思いを形にしようという発想もない。

自分も、形も、あってもなくてもかまわない。

ただ、無色透明にして中立な「生き方」が、残るならば残ればいいと思っている。

空があり、川があるのと同じように、生き方もまた、普遍的なものだ。

ブッダがダンマと呼んだもの。ブッダ自身は虚空へと消えゆくことを善しとした。

この命もそれでよい。

人が幸せに生きられるなら、それ以外に必要なものは、この世界には存在しない。



2023・9・5

親であることの哀しみ


『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』という作品は、親と子を引き離すことを目的とした本ではありません。

親子の間にいつのまにか生じてしまった苦しみや壁を乗り越えて、最も快適な関係性を再構築するための道筋をまとめたものです。

親にも苦しみがある。その苦しみは親の親や、さらにその親にさかのぼって始まっている。

その親との関わりから、子が苦しみを強いられることがある。

親には自分しか見えないから、子の苦しみがわからない。

子はいつしか苦しみを自覚し、親にわかってもらえないことを悟ると、苦しみを越えるための闘いを、独りで始めることになる。

子が決意しなければ、親子の間に生まれた苦しみは永久に続く。


いずれかが気づかなければ、そして越える努力しなければ、苦しみが消えることはない。


苦しみに気づかず、何も問題がないかのように思い込んで、あるいはそのように装って、関係を続けていく親子もいる。

それは幸か不幸か。けっして幸とはいえない。
なぜなら苦しみは存在するのだから。
 
遅かれ早かれ、その苦しみは顕在化する。ごまかしきることは、残念ながらできない可能性のほうが高い。
 

親のほうが立場は強く、思い入れも強いことが多い。子はそもそも圧倒的に大きな親を見上げるところから人生を始めて、その後も親なくしては生きられないという制約の中にあって、さらに親への愛着も強いから、

どうしても親の思いにただ従うという時間が増えていく。


親との関係で宿った苦しみを自覚するには、時間がかかる。

苦しみがあることを認めることにも、勇気が要る。

まして苦しみの理由が親から始まっていて、そういう親に苦しみを感じていて、その苦しみを越えなければと決意できるのは、よほど強い子供である。



問題は、目覚めた子供が、苦しみを越える闘いを遂げることができるか--だ。

とても長く、そして一人きりのつらい時間を過ごすことになる。

その間に、この世を生きる上でつきまとう、さまざまな新たな苦悩も抱えることがある。

親との関係で背負った苦しみ以外に、苦しみを背負うことも少なくない。

とても聡明で、強くて、勇気を備えた子であっても、その試練を越えることは簡単ではない。

 
ある親は、わが子が『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を読んだと知って、自分も取り寄せて読んだそうだ。

子の思いを理解しようと努力できる親は決して多くはないから、この親は、その点だけでもかなり尊く立派だと思う。

そして本を読んでわかったことは、「子供は、私のことが嫌いなんだ」ということだそうだ。

苦笑することさえ可能な感想である。この親はえらい。そして優しい。

親としての自分が嫌われていることがわかったということは、子の思いを一つ理解できたということ。思いがわかった。その時点でほんの少し子に近づいたということ。

どこが、なぜ嫌いだったかを理解できれば、さらに一歩近づけることになる。

自分が嫌われる理由がわかれば、気をつけることも可能になる。自分が変わることができれば、子は許してくれるかもしれない。もう一度好きになってくれるかもしれない。そんな可能性も見えてくる。

子はもともと親を愛し、親を好きなところから人生をスタートする。親はすでに多大なアドバンテージを得ている。多少欠陥があっても、時に間違いを犯しても、子は許してくれるし、好きでいてくれる可能性が高いというアドバンテージだ。

そのアドバンテージを活かす努力ができるかどうか。
 
子にとってどんな親かは、その点にかかっている。


嫌われたり、遠ざけられたり、口をきいてくれなくなったり、縁を切られたり――そのこと自体は、いつでも起こりうる。子は子の人生を生きている。親とどう関わるかは、大人になった子が自由に選んでいいことのはずである。


大事なことは、親が子の思いをわかろうとしているか。
 
わかったことに対して、親がどんな努力を始めるかだ。


子の思いを理解しようと努力を始める親は、立派だと思う。

子に嫌われているとわかって、その事実を受け止められる親は、強いと思う。

嫌われている自分を自覚して、自分が変わろうと努力していく親は、最上級に尊い親だ。

なぜそういえるかといえば、子が望むことは、まさにそういうことだからだ。

自分の思いを理解して、変わろうと努力してくれる。

それだけで涙が出るほど嬉しいものだ。

子にとって、やはり親は世界で二人だけの、しかも人生の始まりにいてくれた人たちだからである。



他方、違う受け止め方をする親もいる。

自分が嫌われていることを知って動揺する。
そんなことがあるものか、あってたまるかと異議を唱える。

自分は親なんだぞ、できることはすべてやってきたんだぞ、これだけやってきた親をなんだと思っているんだ、親である自分に背を向けるというのか、何かがおかしい、原因はなんだ、その原因は自分ではない、他の何かだと訴える。


親としてできることはすべてやってきた--。


本当か? 親は、子の何をわかっていたというのか。本当にわかろうとしていたのか。

子が背を向けたとして、なぜそれが他人のせいになるのだろうか。

もしかしたら、自分自身に理由があったかも--しれないのに。

指摘するのは、あまりに残酷なことにもなりうるけれど。


親としてできることはすべてやってきたというのは、端的に嘘だ。しかも傲慢な言葉だ。

なぜなら、そうと認めるかは、子供が決めることだからだ。

どんなに親がそう信じても、子が求めていたことがそれとはまったく違っていたら、親にできることをすべてやったとは言えない。

親が信じる愛情や、できることはやったという自負は、言葉にするのは哀しいことだが、親の自己満足でしかない。


哀しい自己満足だ。


親が自分の愛情を採点するのは、間違いである。正しかったかは、親と子の関係に如実に表れる。親の自己採点が正しい点数ということではなく、点数を決めるのは、親を間近に見る子供の側である。
 
子を愛する親にできることは、子の思いを最後までわかろうと努力し続けることだ。

それが親に唯一できること、愛情の最初であり最後である。


『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を子供が読んでいたと知って動揺する親がいる。

だが動揺している時点で、自分が危うい勘違いをしてきたことに気づいてほしい。

この本は、親と子のどちらの味方につくわけでもなく、ただ互いをわかり合うための道筋を論理的にまとめただけの本だからだ。

この本は、ただの道筋。ニュートラル(どちらにも偏らない)真実が書いてある。

この本を読む子の姿に動揺したり、あるいはこの本を読んで、自分のあり方を突きつけられた気がしてショックを覚えるということは、

単純にそれだけ、子の思いが、そして親である自分の姿が、見えていなかったということに過ぎない。

それは、子への愛情というより、自分への愛着だ。

自己への愛着が強ければ強いほど、子の思いを知った時に衝撃を受ける。
 

この本と関係なく、世の中に無数に起きている出来事だ。


親が受ける衝撃は、親が哀しい無知の中にいた証拠といえる。

その衝撃こそが、本当の親と子の関係のスタート地点になる。

 


この本は、この場所は、子の味方だが、親の味方でもある。

幸せな親子になれるように--その願いしか語られてない。


せっかく親と子になれたのだから、
わかり合えるというはるかな地平をめざして、
頑張るしかないではありませんか。




 






本に託する思い(怒る技法)

 

今回の『怒る技法』(マガジンハウス)については、

「あとがきに代えて 怒りのない世界をめざして」のメッセージについての感想をたくさんいただいています。


本というのは、本当に貴重な生き物。今の時代には、非効率ともいえるし、コストもかかるもの(製作費)。

でも価格はあまりに安い。ランチ代くらいの値段で、物書きは人生かけて書いている。

SNSや動画はインスタントに配信できるけれど、それだけに受け取る側に残るものもインスタントに終わる可能性はある。ふーん、へえ程度で消えていく。

本の場合は、読み手が一定の時間向き合って、言葉を味わったり、マーカー引いたり、ノート取ったりして、本の言葉を自分のものにしようという積極的な努力がある。

本から得たものは、自分だけのもの。時間をかけて味わって、落とし込んでゆくべきもの。

以前、WEBメディアで連載していた時に印象的だったのが、朝6時に新記事が配信されると、我先にと自分の顔と名前をつけたコメントが並んでいくこと。

それも、「自分がどう活かすか」というより、「これはこういうことだ」「自分はこう思う」みたいな解説というか批評というか、結局のところ自分語りに近い内容が多かった印象が残っている。

 

私に伝えられることは、仏教にもとづく生き方。

時間をかけて落とし込んで、実践して、自分の中で「体験」していくべきもの。


自分の意見(これはこうだ)をインスタントに言葉にしてしまうと、自分の意見が「壁」になる。

「私はこう思う」という自我が残って、本の言葉(本来の意味、残ったかもしれない、自分が成長して初めてわかる意味)は消えていく。

 

今の自分に見えない部分は、急いで今の自我で埋めるより、そのままにしておくことが自然なありかたではないのかな。

 

時間と静寂(沈黙)が必要ということ。

人間が最も成長するのは、静寂の中でおのれを見つめる時だ。

 

常に願っていることは、本の中味を汲みとって前向きに活かそうと頑張る人たちの元に、あまねく届けること。

「10万人に届いたとしても、10万1人目が本当は必要としているかもしれない」

と、かつて語っていた自分の言葉を思い出した。


最初の1人も、10万1人目の1人も、受け取った人にとって、本は著者からの「手紙」になる。とてもパーソナルな手紙。


私が世に届ける言葉は、みんな幸せになってほしいという純粋な思いだけでできている。


それは真実。それが伝わってくれたらという夢を見ている。




2023・3・29