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もうすぐ春ですね


今回は簡単な近況報告です:

*『反応しない練習』のドイツ語版、英語版は快調に進行中。カバーが送られてきましたが、ずいぶんシンプル(お見せできないのが残念)。

英語タイトルは、The Practice of Not Reacting (そのまんまやん)。

The Secret to Stress-free Life とあります。

英米では出版より半年から1年前くらいからプロモーションかけ始めるのだそうです。今回は翻訳出版権も(初の)入札をしてくださったそうで・・広く届くことを願います。

欧米の人たちにこそ「業」の話(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)を伝えたいのですが、こちらは台湾で翻訳出版が進んでいます。


*神楽坂の講座は、まだめどが立っていません。奈良の拠点づくりがひと段落つかないと予定が立てられない状況です。

でも春も近いし、一度みなさんのお顔を見られる機会を作りたいと思っています。


*早稲田エクステンション・センターのオンライン講座は、引き続き受講受付中です(専門的・学術的な話が入ってくる予定です)。


*帰国してから怒涛の日々(睡眠時間さえ削らねばならず)でしたが、大仕事がいくつか終わって、今週末は少しゆっくりできそうです。個別のやりとりもできるし、週末にはオンライン座談会もあります。
 

桜も開花し始めるそうなので、そろそろ春を迎える準備を始めたいと思います。


中日新聞・東京新聞連載 最新イラスト
(毎回、イメージに画力がまったくおいつかず自己嫌悪)


2025年3月27日



心に論理を持つと何が変わるか

(おたよりの抜粋)

実は、おそらく2年ほど前になると思うのですが、ご著書「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」を取り寄せ勉強し続けてきました。

特に数学は、論理をみっちり練り上げるというやり方を繰り返してきたおかげで、重度の数学アレルギーだった私が、数学は友達だ!とまで思えるようになったのです。

この本は将来娘が勉強に行き詰まったときに贈りたい本です。
今もすぐ手の伸ばせる位置に置いて、勉強に行き詰まると読んでいます。

自分のいる立ち位置によって、読んで心に響く文章が変わるので、草薙先生の本は息をしている生き物のようです。

この勉強法が院試にも大いに力になってくれました。

「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」は、当時もう新書では手に入らなかったので、中古で取り寄せたのですが、なんでこんなに素晴らしい本がもう絶版?されているのか理解できず、中古でも手に入った幸運に感謝しておりました。

まさか先生ご自身が文庫本のお話をお断りして、完全書下ろしで書くと決断されていたのですね。

「客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し。」とおっしゃっていましたので、先生の本は買えるときに買っておかないとと改めて肝に銘じました。いつも手に入るとは限らないということをお話されていたこともあって、そのとき手元にない先生のご本をア〇〇〇でポチっとしました。

その中の一つ「消えない悩みのお片付け」で知ったタイムバーや純金タイムなどの考え方は「なるほど!」と共感し、実践しています。人生は作業の連続。作業に集中していたら妄想は減る。本当だなと実感しています。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

本というのは、本当に難しいのです。『勉強法』の本は、実は昨年(2024年)末に文庫本を出す話がありました。

でも、読み返してみると、筆者としてはウーンと思うことが書いてある・・「今ならこれは書かないな」「今ならこう書くよなあ」というダメ出しが増えてきて、

「やっぱり出しません(完全書下ろしの新刊を書きます!)」とお答えしてしまったのです(で、まだ新刊原稿書いていない・・)。

筆者としては「今ならもっとこう書けるのに」という思いが出てくる。でも作品そのものは、こうして探して手に取って(※筆者としては市場に出回っているものを回収したいのですが、できないために起こること笑)、

読んで役に立ててくれる人がいる(そういう人が少なくないのは事実です。ありがとう)。


つまりは、客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し(業?)。



数学は、世の中にデキる人たちは数えきれないほどいて・・それこそ歴史マニアと同じく、数学マニアの人たちも数多くいるらしく。

私自身は、小学生の頃は算数が苦手で、独学時代にようやく数学の本質が少し見え始めて、大学受験で数学的思考(とにかく論理でつなぐ、つなぐ・・これ文系的表現ですが笑)の真似事を始めて、

「面白いな、もっとやりたいな」と感じ始めた頃にはもう入試が迫ってきていたので、数学の本質は極めずじまいで終わってしまっています。

ごくたまに「もう一度大学受験しなければ」という夢を見るのですが(18歳に戻っている笑・・ありませんか?)、

「数学やりたい!」と思っている自分が夢の中にいます。数学は楽しいと感じている――何が楽しいか? 論理だけで答えを出す。途中に不純物が混じらない(矛盾や破綻がない、妄想がない笑)。

その美しさゆえのカタルシスは・・そうか、瞑想にすごく似ています(笑)。

瞑想も、自分の心に残っている不純物を取り除くために、①気づいて反応しない、②別の思考を組み立てる――ということをやります。

スッキリするための思考を考える、のです。なるほど、これは数学に近いのかも(今気づいた笑)。

数学的思考と瞑想と本の執筆は、私の中では、ほぼ一つです。本の場合は、書き出し(前提)を考えて、そこから論理でつないでいく。途中に破綻や矛盾が生じないようにする。

読む人の心を煽らない、凹ませない、傷つけないようにと気をつけながら(いわば前提条件)書く。最後は必ず励ましの思いを込める。

数学をやっていなかったら、瞑想も進まなかっただろうし、本も書けなかったと思います。

「わかりやすい」と言ってくれる読者は、論理的思考がもたらすスッキリ感の一端を感じてくださっているのかもしれません。

論理をフンフンとうなずきながら追っているうちに、いつの間にか答えが出ている。「そうか!」という浄化の快を感じている。だとしたら、数学的思考の賜物です。



誰かに向けて書く言葉というのは、本にせよ、研究論文にせよ、この人も言っているとおり、何のために、誰のために、どんな意味・価値を持つのかという、客観的な(他者を意識した)視点が必要になります。

「これは届ける価値のある言葉か?」を自問する。これもひとつのロジックです。

ちなみに世の中に飛び交う言葉が不毛にして殺伐としているのは、価値ある言葉かを吟味するという発想がないからです。思いついたことは、他人にとっても意味があると思い込んでいる。何でも言っていいと思っている。

そうやって守備範囲を外れて発する言葉によって、誰かの物騒なリアクションが返ってきたり、炎上したり、不毛な議論にもならない議論が勃発したりするのです。

しかも、発した自分自身が本当は一番害を被っている。いつも人の目(リアクション)を気にして、余計なことを言って、心無い言葉を浴びて、言わなければ嫌われないのに、言うことを選んでしまうことで自分を嫌う人の数が増えていく――。


「真実かつ有益な言葉のみを語る」という戒律(マイ・ルール)は、その点ですごく大事。

この言葉は人に届くだろうか、どんな価値を持つだろうか?と考えながら、テーマを選び、情報を集めて、整理して分析して、「これを届けたい」と思える内容・結論へと洗練・凝縮させていく。

すると、おのずと響く言葉が生まれてきます。言葉が熱を、力を持ち始める。

他者に届く言葉を繰り出せるようになると、関係性も変わります。関係性を自分で作っていけるようになる。

過去は関係性に支配されてきたかもしれないけれど、これからは関係性を選び、創造し、育てていけるのです。

その人生は、過去とはまったく違います。




新聞連載も佳境入り


『ブッダを探して』(中日新聞・東京新聞連載中)は、ミャンマー編もいよいよ佳境。

「草木も生えない失望」に直面する局面に入ります。

私は敵を作ることが嫌で俗世から離れたのですが、この世はそもそも人の数だけ真実があり、誰もが自分にとっての真実に執着したがるものなので、

その中で自分にとっての真実を語れば、どうしたって対立が生まれてしまいます。そのことがすごく悲しいのです。

それが嫌なら、何も語らないほうがいい。目立たないほうがいい。メディアへの露出やSNSの利用を敬遠してきたことと、理由は共通しています。

単純に望んでいない。幸せが増えることだけを願っていたい。

ならば自分にできることだけを、極力小さく、伝わる人にだけ伝えていく。それが理想だと今も思っているのですが、

その一方で、真実が掘り起こされないままだからこそ、見えない人、気づけない人、道に迷う人、苦しみ続ける人も、たくさんいるわけで・・(とはいえ、こうした思いもまた正しさへの執着になってしまう危険があって、その危険を恐れることが出家の流儀=戒律なのですが)。


痛みが生じかねないことに配慮し、ためらいながらも、自分にとっての真実を語るしかない。そんな場面も今後増えてくる気がします。

新聞連載一つにもこれだけ細心の注意を払う・・・もともと出家は世俗にはなじまないのです。

そんな個人的なためらいを抱えつつ、

心の眼に映るすべてのものを昇華・洗練させて、

世に伝わる普遍的な価値を創り出していく――。


そんなテーマを抱えて、2025年の春に入ります。


  
3月2日(?)掲載予定の『ブッダを探して』イラスト
どんな話題かは紙面でご確認ください
 
 


このブログの目的(世にあって世に染まらず)

 

この公式ブログは、更新を楽しみにしている人も多いらしく、週に一度くらいの頻度で更新するようにしています。

わざわざ公式ブログを見にくる人というのは、それだけのモチベーション・関心があるということ(と受け止めています。暇つぶしに覗きにくる人もいるかもしれないけれど笑)。


ここに掲載しているのは、日頃のやりとり(主に講座参加者や読者さん)で出てきた言葉の一節です。


この場所は、自分が話したいことを話す場所ではありません。

抑制的に、真実かつ有益であること、人の幸せにつながる価値ある言葉であることを心がけています。(本も、公式ブログも)

(ただ、堅苦しくならないように、カジュアルな(?)話題も交えるように心がけてはいますが・・それが一番出てくるのが教室です。なるべく多くものを持って帰ってもらおう、喜んでもらおうと、つい余談・脱線してしまいます)

 

ここは、なるべく見つからないように、小さく、地味に、ごく限られた人たちとの関係だけで細々とやっていこうという、世にあって世に染まらずを地で行っている場所です。

 

 


『人生をスッキリ整えるノート』の裏表紙
(地道がいちばんです)


 

 


興道の里・今年の抱負


新春のご挨拶第2弾は、興道の里の今年の抱負:

まずはインド出張。その後は、新刊の原稿書き。十代向けの学び方・生き方をまとめた本。

講座は3月16日&18日の名古屋での特別講座からスタート。

『ブッダを探して』の新聞連載は8月一杯か、2025年度内か。

レギュラーでやってきた仏教講座をどうするか。月に1回のペースでオンラインでやるか、夏までいったん休止とするか。

というのも、年の前半は本2冊を書き上げねばならず(ただでさえ遅れ気味で迷惑をかけているのでケリをつけなければ)、

新たな拠点の完成が7月頃。場所を変えて心機一転スタートするという形もありかと思っています(月に一度オンラインでいいからやってほしいという声があれば考えます^^)。

これまでは手広くやってきたけれども、そろそろ時間という有限のリソースを重点的に使うことも考えないといけない時期なのかもしれません。

子供たち向けの未来を育てるプロジェクト(やってみないと何ができるかわからない)。

本の執筆(未来に遺せる財産として)

そして、仏教講座。

この3点が活動のマックスかと。


悩ましいのは、どこまでの範囲に向けて発信するか。動画、SNS・・だけれど正直、そうした媒体を通して触れてもらったところで、遊びや暇つぶし、いわば消費コンテンツとしての位置づけを超えられるとは思えず。

学びを得るには、やはり相応の環境設定が大事。

自室でテレビの旅番組をながめたって、旅の醍醐味は味わえない。足を運んで、五官で感じることで、本物の旅になる。

学びも同じ。日常に浸かったままでは得られない学びというものがあるはず。

広く知ってもらうとか、ラクに学んでもらうといった便宜におもねる(媚びる)のではなく、少し敷居を高くして、

学びたい人はしっかり足を運んでもらって、リアルな体験として学んでもらう。この場所はやはり道場。エンタメじゃない。

そのうえ今のSNSや動画などの環境は、コンテンツがあまりに雑然としすぎていて、見るだけで精神的な負荷(無秩序ゆえのストレス)が溜まる構造になっている。

この構造は変わらないのかもしれないけれど、だとしたらあえて乗じることなく、まったく別の場所・別の形で、別の可能性を作っていくというのも、

ひとつの見識であり、良心的な選択といっていい気がする。

見つからなくていい、目立たなくていい。

志ある人が、偶然でも必然でもどんな形でもいいから、この場所を見つけてもらって、まずは連絡してもらって、足を運んでもらって、きちんとリアルな関係性を育てていく。

そうした関係性で生まれてくるものを選りすぐって、未来につながるものを残すようにすればいいんじゃないかな。

ということは、この先は、この場所で学んでゆく人たちと一緒に、「未来に何を遺すか」というテーマにチャレンジするということ。

その挑戦を始めるのが、新しい拠点ということになりそうです。


日本に帰ってきて十余年。作品が広く世に届いた、受け取ってもらえたということが、出家人生における第一の奇跡。

そして興道の里というイメージが、いよいよ具体的な形に結実して、新たなステージに入る今年は、第二の奇跡。

人の幸せ、社会の前進を真面目に願うという性格が、仏教という智慧を得ることで、社会的な価値を持つに至ったことが、第三の奇跡。

かつては「いいかげん大人になりなさい」とかさんざん言われた時代もあったけれど(笑)、その頃とまったく同じ思いが、今は、誰にも文句を言わせない(言ってもらってもいいけれど笑)形で、くっきりはっきりと姿を現しつつある。

捨てなくて(あきらめなくて)よかった・・というのが、今の実感。

予想もつかなかった未来に突入している。まさかこんな生き方があったとは。


まだまだ奇跡の途中。


みんなが幸せに生きられる可能性を願って、まじめに歩んでいくので、

この場所を偶然見つけてくださった人たちは、引き続き、静かに見守っていてくださいね。


 

2025・1・3

 

 

 

 

ブッダを探して~東京新聞継続決定


『反応しない練習』は、ルーマニア、ハンガリーで翻訳出版が決定。なんともニッチな・・ドイツ、スペインに続いてヨーロッパ・ブーム(?)が続いています。

『ブッダを探して』は、東京新聞では2025年2月で連載終了(紙面大幅改訂に伴い/以後は中日新聞のみ)という予定でしたが、

社内会議で、好評につき継続が決まったそうです。

これは異例のこと。よほどのプレゼンス(存在感)を読者の方々が認めてくださったということなのでしょう。ありがたいです。

イラストも引き続きお楽しみください。


ミャンマー編13(来年2月掲載予定)のイラスト 

本文は紙面でどうぞ




2024・12・27

ただいま執筆中!


明日15日の東京新聞・中日新聞のイラスト
本文は明日のお楽しみに


新聞連載には年末進行というのがあって、原稿を前倒しで仕上げないといけません。

ということでここ一週間は、本文とイラストのほうに集中していました。

来年2月2日分まで、合計6本を完成! これで私もしばらく他の仕事に専念できます。

『ブッダを探して』は、読者の皆さんからお問い合わせいただいていますが、単行本としてまとめられるかは未定です。

文芸的・自伝的作品なので、文芸に強い出版社にお声をかけてもらえたら・・と思っているのですが。

この作品、週に一本800字ほど、さりげなく、あっさり書いていますが、内容はかなり濃厚かつディープです。仏教や瞑想についても、実はかなり掘り下げた内容を薄口・淡泊にまとめています。

なんとか与えられた連載期間の中で、現代編さらには未来の展望にまで漕ぎつけたいと思っています。



2024・12・14

こころを洗う技術


『心を洗う技術』SBクリエイティブ 重版決まりました^^*

ブディズムの教科書(図解入り)です。仏教を学びたい人は、まずコレ一冊。

やっぱり紙の本がお勧めです。「読んだ」「モノにした」という実感が残るのは、やはり紙の本。体を持った人間には(※ここ大事)、目と指先で直接知覚するほうが、脳に刻まれる深さと量が違うはずです。

 





心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


◇◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します



あたらしい青春


ただいま青春爆走中だ。病的に長引く猛暑もなんの暑(そ)のだ。

定期券が、これほど破格の力を持つとは想像していなかった。

自宅から1分の最寄り駅から電車に乗れば、冷房が効いた快適な空間にたどり着ける。

移動中は文庫本をチェックする。歩くときはズボンの後ろポケットに入れる。

スマホで眺める情報は、すぐに流れ去る程度のものだ。だが本は、自分のテーマがあって選んで読むものだ。まったく違う。

スキマ時間にスマホを眺めるのと、文庫本を読むのとでは、実は後者のほうがストレスが少なく、かつ価値が高いように思う。滋養として心に残ってくれるからだ。

今は電車の乗客のほぼ9割方がスマホをにらんでいる。あきらかに空席を探しているシニアの人が乗ってきても、若い人も子供でさえもスマホをらんで、気づこうともしない。

電車の中では、なるべく立つことにした。立っていられる体力があるなら、立ってバランスを取って下半身の筋肉を鍛えよう。

思い出したが、私は二十代前半の学生の頃も、電車の中では立つことを選んでいた。自分が座れば、座れなくなる人が一人出てしまうからだ。上京してきた両親が、そこまで頑張らなくてもいいんとちゃうかと言って、その時だけは空席があったので座った記憶を思いだした。

余談ついでだが、座ったままというのは、筋力を激しく衰えさせる。長時間座ったままでいると命を縮めるという説をよく聞くが、私のように座る時間が長い人間には、それが真実だとよくわかる。

座ると、足のつけ根から、ほとんど筋肉を使わないのだ。筋肉が死んだ状態。これがものすごく体に悪いことが実感できる。急速に筋力が衰えていく。足が死に近づいていく(笑)。

だからこの夏から、「座らない」実践を始めた。電車の中ではなるべく立つ。揺れる車内で立っているだけでも、足腰の筋肉を使っていることが伝わってくる。

移動中の階段は「一段飛ばし」をルールとした。これもかなり効く。足腰の筋肉だけでなく、心にもだ。昇るスピードやリズムが、一段ずつ上るのと違う。心が若返る。かつてはこれくらいのテンポで動いていた。その頃の心に戻れるのだ。50過ぎて一段飛ばしの男(笑)である。エスカレーターで昇る人たちにとっては、変わった人に見えるかもしれないが。

電車旅とはすごいもので、30分も過ぎれば、非日常の場所に着いている。新しい商店街、新しいスーパー、新しい道。そして、お目当ての場所に着く。最近見つけた図書館だ。



出家前に日本を離れてから、本を読むことを意図的にも遠ざけてきたところがある。必要がないと。自分が身に着けた仏教ベースの知力で仕事はできると。実際、ここまでの作品は、基礎とする仏典・資料に材料を絞り込んで書いてきた。それでも足りた、のである。

だが今から書こうとしているのは、十代向けの生き方の本であり、また自身が新しく始めようとしていることは、十代までの子供たちに、未来につながる知力の本質を伝える活動だ。

だから、彼らにとってのリアル(その心に届きうる知識や表現)を学び直す必要がある。

今進んでいる大きめの企画は2本。いずれも子供・十代が対象だ。ひとつはストーリーで、もうひとつは十代向けの生き方・学び方の本(自己啓発的な内容と勉強法的な内容を混ぜた本)だ。

そこで今重点的に読んでいるのは、児童文学と、十代向けのいろんなジャンルの本。

児童文学はすごい。絵本もすごい。子供向けの解説本もすごい。理科・社会・国語という分類を越えた精緻なテーマで巧みに解説している。「子供だまし」とは真逆で、「本質」を描いている。

その本質が複雑化・深化していった先に、大人たちにとって科目や専門分野がある――はずであり、あるべきである。高度な学びにシームレスにつながっている内容こそが、本質だ。

本質を学べる子供向けの本が、けっこう出ていることを最近知った。

大人もまた、学びの道を見失ったときは、子供が手に取る本からスタートすればよいのだ。「わかる」本がたくさんある。

ところが、子供から大人まで学びの階梯をつなぐ本の間に障害物として入ってくるものがある。それが中高生向けの教科書であり、大学入試に縛られたいわゆる「勉強」だ。途端に内容が歪(いびつ)になる。

図書館には中高生も来ているが、その教科書や参考書を眺めると、なんともわかりにくい。本質から遠く離れてしまった「概念」のオンパレード。実感も持てず、記憶にも残らない、知識の死骸みたいなものに見える。

中高生も、教師も、大人たちも、勉強とはそんなものだと思い込んでいるかもしれない。だからこそ「干物にもならない干物」を噛んでも、それなりにやっていられるのだろうと思う。本当の干物ならまだ味があるが、彼らが勉強と思っているものは、さしたる味もない概念の羅列でしかなかったりする。たとえば世界史--トルコ・マンチャーイ条約? セポイの乱? おいおい。そんな単語を年号と一緒にきれいにノートに取って、はて頭に何が残るのか。

本当の学び・教養というのは、たとえば日本を離れた時に、いろんな文化背景を持った人たちとコミュニケーションを取るための話題・材料になりうるものだ。世界を見通す手助けになるもの。

今の学校で学ばせているものが、はてどれくらい使えるか?

中高生が机にかじりついてやっている勉強の中味は、世界・国際には役に立たない「オワコン」であり、概念の死骸かもしれないと思う。

これは海外の教科書や勉強事情を調べてみなければならないが、東大を初めとする難関大学卒の優秀とされる官僚が(←世俗の価値観に沿って語ってみる)海外の大学に留学すると、低くない確率で留年・退学になったりすることの一因かもしれない(※恥ずかしくて公表していないだけで、実態はけっこう深刻だとも聞く)。

数学もできず、歴史も語れない、文学・芸術をどう論じるかもわからない。完全に大学入試で止まっている頭では、海の向こうには渡れない(通用しない)し、国内においても前例踏襲のほか何もできない。

日本の教育は、形は多少変われども、中身はまったく変わっていない気配が濃厚だ。気づいていないのは自分たちだけ。これもガラパゴス。大学の先生方でさえ、それでいいと思っている可能性も案外高い。




本題に戻すと、十代向けの本を書くために、いろんな本を読んで調査・研究・思索せねばということだ。その最適の環境が、最近見つけた図書館だ。

定期券を買えば、元を取るべく休まず通おうという気にもなる(貧乏性ゆえ)。入れば快適な冷気に包まれる。そして静かで清潔な環境の中で、豊饒な本の世界に遊ぶことができる。

いや、本がこれほどたくさんあるとは、しかも良書がこれほど多いとは。いくらでも学ぶことがある。それを自分の目的(マイ・テーマ)に沿って作り直して、本と活動に活かしていく。その作業を進めている。脳を、未来を、耕している。


近くのアパートの下見に行った。今すぐ動けはしないが、引っ越せば新しい生活が始まることを実感できた。まるで学生時代に戻ったかのような気分が味わえた。

つくづく楽しい毎日だ。充実感が半端ではない。心はバック・トゥ・20代。手つかずの未来が見える気がしてしまうのだ。まさに青春である。



帰りはバスに乗った。東京の街を眺めていた。

もし上京したばかりだとしたら? 

手つかずの未来につながる空が目に映ることだろう。

もうごくわずかしか時間が残されていない末期だとしたら?

今見ている夕暮れどきの空は、人生で最後に見る空になるかもしれないと思いながら見つめるだろう。

そう、現実の私は、きっと近い将来に、東京を離れてしまうのだ。

今見ている明日の夢は、夢のまま終わる。きっと。

「あの頃の桜は、もうどこにもない」と、ある映画の中で登場人物が語っていたけれど、

たしかにあの頃の夢は、もうどこにもないし、

今見ている夢も、たぶんどこにもなくて、

ただ、これが最後かもしれないと思うこの心にだけ見えている、

せつない幻影かもしれないとも思う。


人生はいつか終わるけれど、青春はそれより早く終わる。

でも奇跡的に、まだ青春の中を生きている。

もうしばらく、この新しく始まった青春を楽しませてもらおうと思っている。



2024年9月中旬

 

 


カピバラは悩まない?


いくつかの作品は翻訳されて海外へ

日本語版は著者がすみずみまで言葉を選んでいますが、外国語版となると、どんな表現になっているのか(ネイティブの人がどう受け止めているのか)、想像つかず。

でも、自分の言葉が見知らぬ人に届いているというのは、不思議な感じがします。

(把握しているのは、韓国、中国、台湾、スペイン、シンガポール、ベトナム、インドネシア・・・『怒る技法』はアメリカで翻訳出版される予定です)


こころを洗う技術 SBクリエイティブ
 
 
反応しない練習 KADOKAWA
 
では、次の本は?
 
カピバラは悩まない

原題は、
 
 
反応しない練習 だそうな(攻めてますw)
 
中国では、カピバラは煩悩ナシの生き物とみなされているそうな
 
 
 
 
 



今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

※来年から寺子屋を始めるので、ときおりこのサイトで最新情報をチェックしてください。個別の感想・おたよりも受け付けています。



『怒る技法』オーディオブック始動

東京は快晴。今年の夏も暑くなりそうです。


今、『怒る技法』(マガジンハウス2023)のオーディオブックの収録中です。

今回も著者本人が朗読しています。

声優さんの朗読と違う点は、伝え方の強弱や工夫をつけられるところでしょうか。声優さんは、他人(著者)の文章だから正確に読み上げることしかできないのだけれど、著者本人が読む場合は、内容がわかっているから、内容に即した朗読の仕方を選べます。

テンポよく進めるところもあれば、じっくり真面目に語るところもあり。文中のセリフは感情をこめて朗読することができます。

ディレクターさんいわく、他のオーディオブックとは違う新しいジャンル。

著者が直接読み上げる作品は、かなりレアものだとか。


著者朗読版は、『反応しない練習』の最初のオーディオブック作成時に、特典として著者メッセージを収録したことがきっかけ。それまで前例がなく、関係スタッフも配信元も慎重だったのだけど、やってみると、意外といいかも?という話になって、『反応しない練習』の著者朗読版が実現。

その後『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』と進み、

ポッドキャストも第3弾まで実現することができました(いずれもAmazonオーディブル)。

奇跡みたいなもの。本当にありがたく感じています。




朗読は、やってみると、すごく奥が深い世界です。


文章の区切りとつなぎ、抑揚、強弱、間の取り方・・。音(声)の出し方も、文章を書くのと同じように、さまざまなバリエーションがあります。末尾の「た」「す」をどう発音するか・・「うまく声を出せた」と思うところもあり、「ちょっと弱かったか」と思うところもあり(そういうときはリテイク)。

聴く人はおそらくまったく気づかないかもしれないレベルでの音(声)選びが続きます。全神経を使うので、かなり疲れます。

今回は、競馬中継や、文末に小声で「シャキーン!」と語っていたりと、まだ本を読んでいない人にとっては、なんのことやらまるでわからない部分も入っているのですが、このあたりも何度かリテイクして確定。


読み返して感じるのは、この作品は、今の時代に必要な本だということ。今の世の中を生き抜くうえで必要な技術が詰まっています。一年ぶりに読み返して、一層そう感じます。

『反応しない練習』は、自分の内側を変えるもの。でも、外の現実は、つねに他者との関わりだから、「関わる技」が絶対に必要になります。その部分を掘り起こしたのが、『怒る技法』。

怒ってはいけないなんて、とんでもない。ときには怒って見せなければ、本気で怒らなければいけないこともあります。

ただそれは、感情だけで怒るのではなく、技を使って怒るということ。正しく怒ってみせることが大事。

この技を知っているかどうか、使えるか使えないかで、人生はまったく変わってきます。正しい怒り方を知らないと、怒りの出し方に失敗し、ストレスを溜め込み、疲弊して動けなくなってしまいかねません。

他方、正しい怒り方を知る人は、現実に直面した時に、どう動けばいいかをすぐ言語化できるし、その方針に沿って動けるので、ストレスが増えません。

それでも生じるストレスは、『反応しない練習』でリセットできます。結果的に快適な自分を維持できる。

怒る技法で現実に立ち向かい、反応しない練習でストレスを即解消--まさに最強の心が手に入ります。

著者の脱線トークつき。公開までもうしばらくお待ちください。






出す価値のある本だけを出す


 今、十代向けの生き方&学び方の本を書き進めています。

 2014年に出した『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』の改訂版。とはいえ、全面的に書き直すことになりそうです。

 そもそも勉強法や学歴(といってもたかが学士卒に過ぎない)を売りにする風潮自体が、時代錯誤にして無思考の典型だろうと思っています。もはや飽和状態だし、こうした企画で本を出すこと&自分を語ること自体が、とっくの昔に社会全体が卒業しなければいけないはずの不毛で残酷な価値観を助長することになってしまいます。

 不毛というのは、試験という固定された制度の中で「いい点数を取る」ことと、社会における改善(問題の解決と苦しみの低減)との間に、相関性がないからです(直接の関係がない)。

 残酷というのは、学歴に価値を見出すことで、学歴を手にした者が称賛を、そうでない人が価値を認めてもらえないという偏りを作り出すからです。

 入試および学歴というのは、限られた椅子しかありません。椅子に座れる人(合格できた人)がいる一方で、どうしたって座れない人が出てきてしまう。

 しかし椅子に座れたからといって、社会の改善に貢献できるとは限らない。椅子に座れなかったといっても、学歴自体は(仏教的には)妄想に過ぎない。自分にできることをして社会の中で生きていければよく、本当は椅子そのもの(成績や学歴)に価値があるわけでもない。

 学歴があってもなくても、勉強ができてもできなくても、人は、自分のやり方で社会の中にひとつ居場所(仕事)を見つけて生きていければいいはずで、

 社会にとっては、その中に生きる一人一人が少しでも不安やストレスなく、逆に安心や満足をもって暮らしていければ、それが(それだけが)共通の価値といえるのだから、

 勉強、試験、学歴という、人間が作り上げたシステムそのものに価値があるわけではないのです。「たかが」の世界。しょせんは妄想。

 しかしそうはいっても、価値観もシステムもすぐには変わらない。むしろますます固定化しつつあるように見えなくもない。そうした社会に生きていかねばならない十代の人たちにとっては、学びも生き方も、現在進行形のテーマであることに違いはありません。

 自分自身が体験したことだからこそ、伝えて励ますことも可能になることは事実。自分がとうの昔に捨てた世界のことだからと捨ててしまうのも、歳を重ねた人間の傲慢と耄碌ということになりかねません。

 出す価値がある本しか出さないというのが、私の信念です。出す価値はあるーーいや、価値があるように中味を選び直してもう一度書き起こす。そこが挑戦のしどころかもしれません。

 どう書いても、世俗の価値観に迎合助長する側面を持つことは否めません。そうした価値観を嫌って生きてきた身にとっては、勉強や学歴を論じることは、どうしたって自己矛盾のジレンマを抱え込まざるを得ません。

 そういうジレンマさえも率直に言語化して、既存の風潮を突き放し、相対化して、時代・社会を越えて大切な学び方と生き方を伝える――そういう作品になればいいという結論に達しました。

 特定の大学や学歴をやたら話題にしたがる今の風潮は、明らかに間違っています。妄想をもてはやしたところで、社会における実利(本当に価値あること、つまりは人の幸福を増やすこと)は増えません。

「まとも」な生き方を伝えたい。少なくとも、まともな生き方は社会の風潮とはまったく別の場所にあるということを共有・共感できる人とつながることができればという思いで書き進めています。


ポッドキャスト第3弾は4月26日配信スタート

Amazonポッドキャスト第3弾

反応しない練習エクストラ【希望篇】
大人になったぼくらは今どう生きるか

 

2024年4月26日(金)に配信スタートしました。

配信元 https://www.audible.co.jp

 

EPISODE1<喪失>
居場所を失ったとき何をめざせばいい?――2歳で放浪し始めた出家の場合

EPISODE2<決別>
生きづらい社会の犯人は誰だ?――学歴信仰という見えない監獄

EPISODE3<克服>
人間関係に悩むあなたへ――傲慢な強敵にブッダはどう立ち向かったか

EPISODE4<決断>
ほんとは人生難しくない?――矛盾だらけの世界で見つけた答え

EPISODE5<希望>
それでもぼくらに必要なもの――時が過ぎても変わらない「生き方」がある

 

 

 

幸せな日が1日でも増えるように

この世界が1日でも長く続くように

未来に向けて贈ります

 

 

伝えきれない思い~『反応しない練習エクストラ』ポッドキャスト第3弾

2024年1月某日、
Amazonポッドキャスト『反応しない練習エクストラ』第3弾<希望編>の収録がありました。

*2024年4月26日(金)に配信スタートしました:

配信元 https://www.audible.co.jp


このシリーズは3部作。もう9年近く寄り添ってくださっているKADOKAWAメディア担当者のご尽力の賜物です。


サブタイトルは当初、「告白編 本当は話したくないことを無理やり話す第3弾」的なものになる予定でした。あくまでエンタメ。ふだんほとんど語る機会がない過去の体験について”告白”しようというもの。第1・2弾は、実際にそうした内容でした。


しかし今年に入って能登半島を中心に地震そして津波が起こりました。


現地の人々の姿を見ると、やはり胸が痛みます。

こうした現実を脇に置いて語ることが、果たして正解か――自分の中で葛藤が生まれました。


仮に今回の痛ましい出来事が一回限りのもので、今後は次第に平穏無事に戻ってゆけるというなら、聞いて楽しんでもらえる話題だけ話しておこうということになるかもしれません。

でも、現実は現在進行形にして未来形。これから復旧・復興まで長い歳月が必要になるでしょう。

もしかしたら今後、さらに大きな災難が広い地域に起こるかもしれない、この国に長く困難な時代が来るかもしれない・・・。

もしそうなった時に、個人的エピソードをメインに語るという切り口でよいのかどうか。


むしろ現実を見据えて、自分たちはこれからどう生きればいいのか を正面から語るほうがよいのではないか。そう思えてきました。


でもそうすると、第1・2弾ほどの笑い(楽しさ)はなくなるかもしれない・・。

とはいえ、現実をかわして話を組み立てると、痛みを抱えて生きる人にとって、さらにもし近い将来、もっと多くの痛みが生まれた時に、必要性を失ってしまうのではないか。そう思えてきました。

生き方。そして希望。

現実が困難になればなるほど、必要とされるもの。

それを語ることこそが、この命の本分(本来の役目)であろうと強く思えてきたのです。


もともとこの命は、自分のことではなく、相手のこと、人さまのこと、社会のことを考えて、本当に伝える価値があることを伝えることを、役割としています。出家とはそういう立場。

主眼(本題)はあくまで、苦難の中にいる誰かに必要なこと・有益なことを語ること。自分のことは「ちなみに」であり「おまけ」です(私の本を読んだ人は、わかってくれるものと思います)。

そこで急遽、構成を変更。

エンターテイメント性を大事にすること、商品価値を維持することは、制作チームの人たちにとってマスト(必須条件)。だから私が申し出た直前の変更に、若干のためらいを覚えた様子はありました。

でも現実を見据えて、今伝えなければいけない(と感じる)ことを、まず言葉にする。そのうえで頑張って、聴く人に楽しんでもらえる要素を増やすことに全力を尽くそう。そうお願いしました。


実際に、そうと決めたとおりに話を収録したのですが、この国にはこれまでも何度も大きな地震が起きていて、そうした地震についても本当は取り上げるほうがよくて、でもそうすると本当にヘビーな内容になってしまって、今回のポッドキャストの趣旨を大幅に逸脱してしまう・・・というさらなる葛藤も出てきたことを、告白しておきます。


この世界は、いつも、どこにおいても、悲しいこと、苦しいことが無数に起きているから、

全体を見れば見るほど、考えれば考えるほど、語り切れないこと、取りこぼさざるをえないことが出てきてしまって、

最後は、生きていることさえ罪を犯しているかのような思いにがんじがらめに縛られてきて・・・

という出家する前の心境を、収録しながら思い出してしまいました。戻ってしまった・・。


生きるだけで、つらくなる。

 

出家する前は、そこまで追い詰められていました。

出家したからなんとか、生きることの矛盾や、生きること自体の罪深さや、自分というあまりに小さな存在の非力無力を乗り越えて、

”よき働きを果たす” という今にたどり着くことができたのですが――。


個人的にはいろんなことを考えながら、痛みを感じながら、それでも聴いた人に笑ってもらえるように、”希望”を見出してもらえるようにと、頑張って、本当に今回頑張って、収録しました。いや、しんどかった。というか、率直につらかった・・。


少しは伝わってくれるかな。

伝わってくれると、嬉しいな。


インドに旅立つ前に

2024年1月某日

 

ポッドキャスト3部作 これにて完結

 

 

ブッダを探して~中日・東京新聞で連載開始

2024年2月18日(日)中日新聞・東京新聞で連載開始 
文・挿絵・タイトルバック(上のカット↑) 草薙龍瞬

 

プロローグ
旅の始まり


人生が八方塞がりになることは、たまに起こる。誰の人生にも起こりうる。

僕の場合は、三十代半ばで起きた。仕事をめぐる迷い。末期ガンの宣告(のちに誤診と判明して命拾い)。独身で、貯金もなく、東京で先の見えない暮らしを続けていた。

人生にゆきづまったとき、人は過去を振り返る。僕が出てきたのは、奈良の田舎。関西の進学校に入ったが、成績を比べ合って一喜一憂する学校に違和感を覚え、中三の二学期で自主退学した。卒業証書さえもらっていない。中学中退だ。

父との関係は最悪で、家に居場所なし。十六歳の夏に思いきって家出した。自分を知る人は誰もいない大都会・東京。文字通りの闇をさまよい、「このまま終わってたまるか」という意地と、「学問をやって世の中を変えたい」という理想にしがみついて、一年勉強して東大へ。だが直面したのは、深い失望だった。

いろんな仕事をした。「ほかに生き方はないのか?」と探し続けた。だが、どこまで行っても答えは見えず、何をやってもうまく行かない。悲壮な思いを抱えて東北寒村の禅寺を訊ねたのが、三十五歳。だがそこでさえ、最後に見たのは、居場所のない自分だった。


もう後がない。さながら漆黒の闇へと崖から飛び降りるつもりで、出家した。


場所はインド。開けたのは、星々が燦々ときらめくかのような、はてしなく広い仏教の世界。死んだつもりが生き返った。ようやく人生の謎が解けた。

人生、完全に詰んだと思う時もある。だがまだ終わっていないのだ。きっと道はある。その希望さえ捨てなければ。遅くないぞ。

ブッダに出会うまでの道のりを、人生に役立つ仏教の智慧をちりばめながら、お伝えしていきます。



文・絵 草薙龍瞬

僧侶・作家 一九六九年生。奈良県出身。大検(高認)を経て東大法学部卒業。三十代半ばで出家し、ミャンマー国立仏教大学等で学ぶ。仏教を現実に役立つ生き方として紹介。ベストセラー『反応しない練習』『怒る技法』など著書多数。栄中日文化センターで仏教講座を担当。



中日新聞・東京新聞
2024年2月18日(日)から連載開始(毎週日曜掲載)

 


 


原始仏典の読み方


『反応しない練習』などの作品を読んで、「仏教がようやくわかった気がする」「原始仏教に興味を持った」というお声を日々いただいています

「本の中にあるブッダの言葉を原始仏典で確かめたい」「さらに詳細な典拠を記してほしい」という声も、かねてから受け取ってきました。

著者としても悩んできたところです。かなりマニアックな内容になりますが、あえてシンプルに記載してある理由・背景について言葉にしておきたいと思います。

※以下は、仏教を勉強したい人向けの内容です:



原始仏典は、中部、長部、相応部など、一般にいう本のタイトルのもと、篇・部・分・章・大節・小節などに細分化されています。全体に通し番号がついていることもあります。<蛇><聖なる者>といった比喩・テーマごとに編纂したものもあります。

たとえば、相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)についていえば、

Samyutta Nikaya 
PartⅢ The Book of the Aggregates(Khandavagga)
ChapterⅠ 22. Khandasamyutta
DivisionⅠ
Ⅰ Nakulapita
1(1)

といった感じで編纂されています。もし出典を明記しようと思えば、Samyutta Nikaya Ⅲ‐Ⅰ-Ⅰ ‐Ⅰ-1(1) のような感じになります。

でも読者にとっては、文字数が増えるだけですよね・・。執筆当初はなるべく正確にと心がけていましたが、読者にとっての価値を考えた時に、あまり意味がないと感じて妥協したのです(学術書にはもちろん必須ですが)。

せめて文献リストを巻末に載せようも思いましたが、膨大になり、一般書籍のページ数に収めきれずにこれも妥協したという経緯があります。

結果的に、学術的な信用性より、一般読者に必要な情報を優先させたのです。



著者である私の原稿には、出典元の情報があるので、必要な時は原典に戻れます。もし著作の中の「この言葉は、どこから引いたものだっけ?」と原典を確認する必要が生じた場合でも、原典のタイトルさえあれば、原典の構造・章立てなどはわかるので、「あの辺だろう」と当たりをつけることが可能です。

そうして可能性のある章や節をたどって、「そうそうこの言葉だった」と確認するのです。


ここで思うのは、どのような大著であれ、「このあたりじゃないかな?」と絞れるくらいに、まずその本を読む、いや正確に言えば「構造を掴む」ことが意外と大事かもしれないということです。



『反応しない練習』をはじめとする私の著作は、

➀Buddhismの原理・原則(基本的な理解と思考の方法・発想等)と、

②原典に記された言葉の引用に基づいています。

それに加えて、

③著者個人の経験と思索をふまえた内容を加えています。

だから本の内容と語り口は著者独自のものですが、そこから伝わる生き方・考え方・理解の仕方は Buddhism そのもの――そうなるように心がけています。

私の作品を読んで、「仏教がわかる気がした」と感じてくれる人が多いのは、そういう理由によるのだろうと思います。全体の構成、言葉の選び方、表現方法は、オリジナルの原始仏典とはもちろん違いますが、それは衣装が違うだけで、中味(本質)は共通しているということかもしれません。



もっとも、本を読んだ人がオリジナルの仏典をたどれば、同じような言葉がすぐ見つかるかといえば、いくつかの制約があります。

あまりに情報が膨大であるという物理的制約が、最初に来ます。次に来るのは、言葉(表現)の違いです。

仏典には、言葉自体が過度に複雑・冗長、装飾・重複過多だったり、現代となってはもはや意味が通じない比喩などが混じったりしています。

さらに、著者のほうで、「この表現で果たして現代の人たちが理解できるだろうか、役立つだろうか」という視点で原典を吟味して、「伝わる、使える」表現へと置き換えているところもあります。

 

もともと原始仏典には、現存するパーリ語仏典をもとに、英語訳が何種類か、また日本の学者先生方が訳したものがあります。

ただ、英語訳も、訳者によって言葉の選び方や、細部の取捨選択が分かれます。また学術的に正確に翻訳しようとすると、情報が膨大となり一般書籍に収まりきらないばかりか、一般の人には厳密・難解・膨大過ぎて、理解できない可能性が多分に出てきます。

私の場合は、パーリ語、英語訳、漢訳(中国語訳)、日本の学術研究書・一般図書などを、できる範囲で渉猟して「訳し方(言葉の選択)の幅」を確認します。日本語訳より、漢訳のほうが、うまい訳し方になっていることもあるし、英語訳から新たに日本語訳を作ったほうが、自然な訳語を導き出せることもあります。

さらに、ブッダが重視した流儀にならって、「聞いてわかる」言葉(口語)に置き換えもします。

そこまで進むと、最初の仏典の言葉からは、一見けっこう離れた言葉遣いになることが出てきます。直訳とは違うのですが、本質を踏まえれば「なるほど、そういう表現も可能だ」と思えてくる言葉の選び方です。映画の字幕に近いところがあるかもしれません。

だから一般の読者の方が、私の作品に引用した仏典の言葉を見つけ出そうとしても、膨大ゆえに途中で見失うか、目の前にあるのに素通りしてしまう・・ということも出てくるはずです。その確率はけっこう高いかも。もちろん逆にすぐ見つかることもあるはずです。




ロス(時間的損失)の少ない方法は、まずは自分で原始仏典(日本語訳)を読み進めて、「これだ」と思う言葉を集めていくことかもしれません(その意味では「何のために読むのか」という目的意識が大事になります。的を見失うと、さまよいます)。


もし著作内の引用がイイと思ってくださった場合は、その言葉を書き留めておいて、いつか見つかるだろうという楽観をもって、読んでいくとか。

「これ近いかも」と感じる言葉が見つかったら、その言葉(学術的翻訳)と、私の訳語とを照らし合わせて、どれくらい違うのか、なぜ違うのかを考えてみるとか。

さらには、英語ができる人は英語訳に当たって(※パーリ語まで手を伸ばすのは、全生涯をかけた超マニアック・超専門的な仕事になるだろうから、正直あまりお勧めはできません・・)、自分でも訳を考えて、もう一度『反応しない練習』などの本に戻ってもらうとか。

すると、「なるほどこういう言葉の選び方(翻訳の仕方)があるのか、たしかに!」と納得してもらえるかもしれません。

もう一つ大事なことは、繰り返しになりますが、やはり原始仏典を読むに際しては、最初に仏典の「構造」を理解することかと思います。「この言葉なら、このあたりに書いてあるかも」と当たりをつけられるくらいに、構造を理解しつつ読んでいくのです。



こうした原始仏典の読み方・翻訳の仕方は、言語化できればと思うこともあります。しかしこの領域に手を出すと、それこそ一生書斎にこもらなくてはならなくなるので、あきらめています。

そのぶん学術的価値は下がりますが、私の役目は、仏教を学問としてではなく、生き方として、また生活に役立つ智慧として、役立てようと思う一般の人たちに向けて、「わかる、役立つ」言葉で伝えることだと思っています。その役目だけで、ほぼ確実に目一杯です。



上記をまとめると、

①一般向けの仏教書に正確な出典を明記するのは困難(本の役割が違うため)。

②原典を読む人は「このあたりに書いてあるかな?」と目星をつけられるところまで、「構造」を意識して読んでいく。

(※ある程度読み込むことができれば、あたりをつけられるようになります。かなり地道な読み込みが必要ですが、本格的に学ぼうというなら、そこまで進めることが必須です。これはどの分野も同じはず)。

③表面的な訳にとらわれず、「生き方・考え方」を学ぶつもりで読んでいく(※するとロスを減らせます)。

ということかと思います。



一番肝心なことは、ブッダが伝えたのは「心の苦しみを抜け出す方法」だということです。

苦しみの原因を知り、それを取り除く方法を実践する。

その方角を見失わなければ、仏教を自分なりに正しく学び、活かすことが可能になります。


私欲のためでなく、この世界の苦しみを減らすために仏教を活かせる人たちが増えてくれたらと願っています。


 

インドの書斎にある原始仏典 ミャンマーからインドに送ったもの





2024年2月10日