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PHP2025年12月号「捨てる」


PHP 2025年12月号
特集「捨てる」と人生が好転する

に寄稿させていただきました。


PHP2025122.jpg


月刊PHPは、まだ自分の本が広く届く前に原稿の依頼をいただいて(2013年?)、

その記事がきっかけになって、『反応しない練習』につながっていったという恩人的な雑誌です。

この号も、他の記事が充実しています。これで300円(なんて良心的w)。

月に一度、こうした読み物が届く暮らしは、なかなかのものだと感じます。


目に触れる文章や写真・絵は、ノートに抜き書きしたり切り貼りしたりして、自分のモノにする作業が大事なのだろうと思います。

雑誌の場合、元の本をもう一度すべてたどることは、ほぼないでしょう。

「この時はこれに反応した(目が留まった)んだな」という履歴を刻む作業こそが、価値として残るのだろうと思います。


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2025・11・9





『反応しない練習』イギリス&アメリカ上陸

 
『反応しない練習』の英訳本がそろそろ出版されるようです。

イギリスからアメリカへ。アメリカのほうが早いみたいです(2026年1月予定)。

ThePractice of Not Reacting.jpeg



なんだかむっちゃ地味・・というか、このモチーフから何が伝わるというのかな^^?

禅の本だと思ったのかな?

売れてくれることを神様に祈りましょう(笑)。


書誌情報の翻訳(Google機械翻訳):

著者紹介:草薙龍瞬氏は、仏教僧であり、学者でもあります。
128ページ
自己啓発、個人の成長

草薙龍瞬氏が、30万部以上を売り上げたベストセラー『より良い人生のための、極めてシンプルなフレームワーク』を提唱。

最悪な初デート。愛する人との口論。うまくいかない就職面接。私たちの心は、失敗や挫折に対して怒りや不安で反応し、自信を失わせ、まるで自分がコントロールできていないかのような気分にさせてしまいます。

しかし、私たちの幸せを失わせるのは外的な出来事ではなく、それらに対する私たちの内なる反応です。

「反応しない実践」は、永続的な心の平安への鍵を提供します。それは、不必要に反応するのをやめることです。

草薙氏のアプローチは、悩みを消したり抑圧したりするのではなく、理解し、論理的に対処しようとするという原始仏教の考えに基づいています。

簡単なステップを踏むことで、以下のことを学ぶことができます。

状況を「良い」とか「悪い」と無意味に判断するのをやめる

ストレスや心配といったネガティブな感情の痛みから解放される

他人の評価に左右されることなく、ありのままの自分らしく生きる

他人の成功や失敗と自分を比べる癖を捨てる

私たちのネガティブな反応の根源は、常に自分自身の欲望や不安に遡ることができます。この自己認識を得ると、人生をありのままに見ることができるようになります。

その受容の中に究極の心の平安があります。「反応しない実践」は、その道を示してくれます。

著者について
草薙龍瞬は仏教僧であり、学者です。仏教に関するベストセラー著書を数冊執筆し、東京で仏教センターを運営しています。

※なんか著者像だけ盛ってるような・・(実際の地味~~な姿はみなさんご存じの通り笑)。



2025・10・23





『ブッダを探して』未公開原稿


明日(10月21日)は名古屋で講座です。

中日新聞・東京新聞連載中の『ブッダを探して』は、

インド帰郷編が終わり、いよいよ現代日本編に入ります。

毎回800字くらいにまとめないといけないので、掘り下げたり広げたりはできません。

書き手には膨大な記憶と感情があるので、そうした部分を振り返りながら、最終的に800字にエイヤと詰め込む作業をしています。

これは無執着じゃないとできないかも。無執着というのは、客観性でもあり、冷徹さでもあり。思いっきり突き放さないと、客観性のある文章は書けません。

とはいえ記憶は膨大――。書いていて、「長い話だなあ」と思います(笑)。

「どこまでこの人、苦労するねん?(まだ苦労続くの?)」と現代日本編を書きながら感じてしまいます。

最終編は「たどりついた未来」になる予定。ようやく皆さんにご一緒いただいている、今そして未来の話に入ります。

2026年2月末に連載終了予定。いや、長かった。よく頑張りました(まだ終わっていませんが笑)。

進行ペース(読者にとって冗長感が出ないように)を考えて掲載しなかった原稿がいくつかあります。その一本を特別に共有します:


◇◇◇◇◇◇◇
ブッダを探して
インド帰郷編〇 微笑み


 ウダサ村で一人の女性が亡くなった。まだ四五歳だが、心臓発作で急死した。
 この地では、人が亡くなると夜通し音楽を鳴らす。通夜用の歌手がやってきて、ひと晩中歌い続ける。
 
 通夜の翌日、その家を訪れた。床に横たわる女性の亡骸があった。老いた母親が覆いかぶさるようにして泣いている。その周りを縁者の婦人たちが囲み、その外側に村の女性たちが座る。部屋は、弔いに来た村人で一杯だった。

 娘に先立たれた母親は、むせび泣きながら歌っていた。

「あなたが微笑んでいるだけで、わたしは幸せだった」。

 娘が生きていた頃の姿を思い浮かべているのか。ともにいた時間が、母としてどんなに幸せだったかを、娘に伝えようとしているのか。

 歌いながら、母親はみずからの頬を流れる涙を何度もぬぐい、硬くなった娘の手を握り締め、その頬や額を掌で撫でていた。

 母親の腕はか細く、飴色の肌は無数の皺を刻んでいた。村の女性の多くは、十代で嫁いで、子を産み育てている。早朝に起きて水を汲みに出かけ、家族の朝食を準備し、清掃し、農作業や村の共同行事に身を捧げる。

 子供には優しい母親であり続け、婦人同士は快活に笑いあう。働きづめの生涯だ。これ以上に偉大な生き方があるだろうか。

 私は、女性の亡骸のそばに座り、その体の上に置かれた二つの手をそっと握った。目を閉じて、穏やかな顔をしている。額に掌を当てると、優しい冷たさがあった。

 むせび泣く母親のほうにも手を伸ばし、その額に掌を当てた。小さな額は驚くほどに温かかった。どうか、その心に浮かぶ娘さんの姿がいつも笑顔でありますようにと願った。

 掌を当てられた母親は、不思議なことを体験したかのように神妙そうな、驚いたようなまなざしで私を見つめて、泣くのを止めた。

 静かになった部屋から私は離れた。

 村の子供たちがほどけた笑みを浮かべて駆け寄ってきた。亡くなった人と、これからの子供たち。失う悲しみと未来に臨む喜び。

 死すること、生まれることを、そばに見る。世界はこうして続いていく。せつなく美しい村人の中にいる。



2025・10・20

『怒る技法』台湾語版


『怒る技法』台湾語版が出版されたようです。

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く4作目。

堂々と怒るべし、慈悲を忘れずに――

ひとことでいえば、そういう作品ですが、上手に怒る技が盛りだくさん。

台湾の人々に必要な作品。隣りの国では永久に出版されないことでしょう。


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なんか煽ってます(笑) 娑婆の世界はしゃーない・・

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剣のモチーフも活かしてます

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智慧の剣をもったブッダもそのまま オリジナル版を忠実に再現




2025・9・29

草薙龍瞬の作品紹介記事

 

 ・・・・・・・ ・・・・・・
興道の里2025 
【おしらせ】
草薙龍瞬の作品紹介記事
・・・・・・・・・・・・・


興道の里から

草薙龍瞬の4作品が、<読む・聞く読書ラボ>というサイトで紹介されています。

上手なライターが書いているらしく、内容の要約やPRポイントが的確です。

ただ、他の本も同じように絶賛しているので、要は宣伝のためのサイトなのだろうと思います(笑)。

本のまとめとしてよく書けている(書いてくださっている)ので、お気が向いたら読んでみてください:





怒る技法.png



2025.9・17
・・・・・・・・・・・・・・


『怒る技法』オーディオブック配信開始!

 

いよいよ『怒る技法』オーディオブックの配信が始まりました(2025年8月1日)。
 

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く、

著者・草薙龍瞬による朗読シリーズ、第4弾です。
 

いつものように、ついついサービス精神(←慈悲の心の世俗バージョン)で、笑える(←本人は後悔する)演出や、ボーナストークの特典もついています。楽しくて役に立つ、充実のトラック。

本とは違う臨場感が味わえるはず。活字だけでは読み取れない深いニュアンス(意味合い)も、声を通してなら伝わります(聴く側からすれば、「そうか、そういうところを伝えたかったのか」という)。


足かけ1年半以上・・ずいぶん時間がかかりました。手がけてくださった皆さま、ありがとう!

ここからアクセスできます(←クリックしてください: 試し聴きもできる様子です^^)

いざ発進(配信)!


怒っていい。でも正しく

今の時代に伝えなければいけないことを、
著者一杯の思い(応援)をこめて



2025・8・1
 


『怒る技法』著者朗読版、いざ公開


夏らしく?連続ニュースです:

『怒る技法』マガジンハウス

いよいよ、Amazonオーディオブックで配信されることになりました。

大ヒットの『鬼滅の刃 無限城編』の1000万分の1くらいの方には聴いてもらえたら・・と思っております。

『怒る技法』は、さまざまな格闘技をモチーフにして、理不尽な現実に立ち向かう「心の技法」を解き明かした本です。

マーシャル・アーツならぬ、メンタル・アーツ。宮本武蔵も出てくるし、アントニオ猪木も、日本武尊も、五条悟(五条センセイはポッドキャストに)も出てきます。

章扉は、鬼滅の刃(特に煉獄さん)をイメージして著者(私)が描き下ろしたもの。闇をかっさばく炎の剣を描いています(本をお持ちの方は、ご確認ください)。

Amazonオーディオブックのカバーアートも、草薙龍瞬が手がけました。


闘うべし、ただし、正しく――。


「現実と闘う心の剣士」をめざす皆さんに向けて書き下ろし&語り下ろした、ワザとエールに満ちた熱く優しい作品です。

8月1日配信予定です。ご予約あれ。








2025年7月25日





『看護教育』

医学書院が発行する『看護教育』No.66(2025年第4号)巻頭インタビュー記事 で取り上げていただきました。

十年間なんとか続いた看護専門学校での講義について。

『看護教育』は、分厚く、隅々まで良質な情報満載の専門誌です(その内容充実ぶりにびっくり)。


看護というのは、私の眼から見ると、尊いけれど、じれったい、もどかしい業界だったりします。

看護なくしては、生きていけない人がいる。看護は世界が回っていくためにか欠かせない大事な仕事。

とはいえ、現場の看護師さんは、もう限界。患者の数も業務の量も増えているのに、看護師の数は増えないし、地位や待遇は上がらない。

無理なものは無理と言っていいし、改善すべき点は改善せよと上に突き上げていい(はず)。

どれほどの理不尽・非合理が、看護の現場に蓄積されているか、見える部分は明らかに見えているのに、

みんな忙しすぎて、優しすぎて、いい意味でも悪い意味でもタフ過ぎて、なかなか気づかない。気づいても声を挙げられない。闘うために動くことができない。

大変であることはみんな実感しているのだけれど、現場の声が集約されない。

「そこまで背負わなくていいですよ」と言いたくなるし、でも、看護師さんがいなければ途端に頓挫してしまう現場の実態もあるし、その点では尊いし。

だからこそ、うーん、うーん(いいのかな、なんとかしてほしいな、なんとかできないものかな、でもみんな頑張っちゃうんだな、偉いな、でも気の毒だな・・)という思いが回り続けて、

でもそんな自分は、ただの坊さんでしかないしな、というところにずっとい続けているという状況です。

坊さんというのは、いろんな分野に通じる ”心の使い方”(智慧)を伝えることはできるけれど、すべての分野について外様(とざま:部外者)であるという疎外感・淋しさを脱することができない仕事。

問題が見える割には、何もできない・・私の場合は、全方位に向けてずっとそんな感じなのだけれど、

中でもひときわ、背負わなくていいものまで背負っている、でも背負わなければ回っていかない、そういう現実を垣間見て、もどかしく思い続けているのが、看護の世界です。
 

心優しき全国の看護師さんたちみんなと、つながることができたらと願っているのだけれど。

 


2025年7月25日


まだ彼岸にて

台湾メディアの人たちと東京・九段下で例の打ち合わせ。

オンライン配信は、コンテンツをどう切り抜かれるかわからない怖さがある。正直、手の届く範囲で価値を創り出せれば、個人的には満足なので、彼らが期待するほど、メディア露出(特に海外に)しようという思いになっていない。

だが、たしかに時代は、本ではなく、動画・映像に向かいつつある印象。本は、目を使い、頭を使って、活字(視覚)情報を、脳内の思考情報(知識やノウハウ)に移し替える必要がある。

それは、本来の脳の使い方(そこまでやらないと、知識は定着しないし、行動にも移せない)ではある。だがたしかに、ある程度の労力(意識というエネルギー、いわば心のカロリーの消費)が必要だ。

動画がなぜ人気かというと、思考情報に変換する手間が省けるのだ。音声で聞ける。活字ではなくビジュアルで把握できる。「見ているだけで、ある程度情報が手に入る(気がする)」のだ。

もっとも本来は、そうしてインプットした情報を、言葉または身体の動きに変換できないと、得た・学んだことにはならない。そのままでは見っぱなし、聞きっぱなし、で何も残らないことになりがちだ。

「いざ語るとしたら、行動するとしたら、その情報をどう活かす?」というところまで考えて、実際にやってみる(アウトプットする)必要がある。動画情報も同じこと。

その点では、動画であっても労力は必要なのだ。でもそこまでの労力が求められる(試される)機会はないから、たいていは見っぱなし、聞きっぱなしですんでしまう。結果的に、ずっとラクしていられる。だから「本よりも動画」になってしまうのだ。



情報を言葉や行動レベルに落とし込めるだけの「読み込み力」(学習力)を持っている人は、多くないかもしれない。だから、本であれ、動画であれ、”人それぞれの現実を変え、現実を創りゆく力”(効果)は、さほど変わらないのかもしれない。

力(効果)が同じなら、アクセス数(届く人々の数)を増やせば、全体の効果は上がることにはなる。ならば、動画も本以上の価値はあるのかもしれない。

ただそこまで論が及んだ時に、動画・ネットメディアの無秩序さ・低俗さ、それゆえの怖さ、そこに露出することのリスクを考える必要が出てきてしまうのだけれど。

そういう世界に身の半分を置いてよいのかどうか。置く価値があるのかどうか。

置けば、確実にプラスの価値も創造できる。それは確かだろうとは思うのだけれど。



台湾では、『反応しない練習』がロングセラーで、『これも修行のうち。』が続く。今は『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』が翻訳進行中。

『怒る技法』は、韓国版、アメリカ版が進行中。

『反応しない練習』は、韓国、台湾、中国、シンガポール、インドネシア、オランダ、ドイツ、ルーマニア、ポーランド、ハンガリー、スペイン、イギリス・・・(正直把握しきれていません笑)。


”合理的な心の使い方”というアプローチ(それが妄想を抜けたブッダ本来の伝えたかったことだろうと理解しているが)は、斬新ではあるだろうし、

宗教という踏み絵を敬遠する人々が求めることは、わかる気がする(それでも正直、どこをどのように受け入れてくださっているのか、著者としてはいまだによくわかっていないところがあるのだけれど^^;)。

理想は、自分自身は出て行かなくても、本が頑張って未来に遺ってくれること。リアルタイムの人生は、小さな創造の満足だけで終わらせることができれば、それが一番無難で安全。誰にも見つからず、人さまの不満や干渉を受けずに、静かに生きて終わること。

まだまだ自分の中でやらねばならないこと、できることはあるから。


まだ”彼岸”を選んでいる自分がいる。



『怒る技法』韓国語版
真ん中の4文字はメンタル・アーツ(心の技術)なのだそうです



2025年4月25日


もうすぐ春ですね


今回は簡単な近況報告です:

*『反応しない練習』のドイツ語版、英語版は快調に進行中。カバーが送られてきましたが、ずいぶんシンプル(お見せできないのが残念)。

英語タイトルは、The Practice of Not Reacting (そのまんまやん)。

The Secret to Stress-free Life とあります。

英米では出版より半年から1年前くらいからプロモーションかけ始めるのだそうです。今回は翻訳出版権も(初の)入札をしてくださったそうで・・広く届くことを願います。

欧米の人たちにこそ「業」の話(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)を伝えたいのですが、こちらは台湾で翻訳出版が進んでいます。


*神楽坂の講座は、まだめどが立っていません。奈良の拠点づくりがひと段落つかないと予定が立てられない状況です。

でも春も近いし、一度みなさんのお顔を見られる機会を作りたいと思っています。


*早稲田エクステンション・センターのオンライン講座は、引き続き受講受付中です(専門的・学術的な話が入ってくる予定です)。


*帰国してから怒涛の日々(睡眠時間さえ削らねばならず)でしたが、大仕事がいくつか終わって、今週末は少しゆっくりできそうです。個別のやりとりもできるし、週末にはオンライン座談会もあります。
 

桜も開花し始めるそうなので、そろそろ春を迎える準備を始めたいと思います。


中日新聞・東京新聞連載 最新イラスト
(毎回、イメージに画力がまったくおいつかず自己嫌悪)


2025年3月27日



心に論理を持つと何が変わるか

(おたよりの抜粋)

実は、おそらく2年ほど前になると思うのですが、ご著書「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」を取り寄せ勉強し続けてきました。

特に数学は、論理をみっちり練り上げるというやり方を繰り返してきたおかげで、重度の数学アレルギーだった私が、数学は友達だ!とまで思えるようになったのです。

この本は将来娘が勉強に行き詰まったときに贈りたい本です。
今もすぐ手の伸ばせる位置に置いて、勉強に行き詰まると読んでいます。

自分のいる立ち位置によって、読んで心に響く文章が変わるので、草薙先生の本は息をしている生き物のようです。

この勉強法が院試にも大いに力になってくれました。

「独学でも東大に行けた超合理的勉強法」は、当時もう新書では手に入らなかったので、中古で取り寄せたのですが、なんでこんなに素晴らしい本がもう絶版?されているのか理解できず、中古でも手に入った幸運に感謝しておりました。

まさか先生ご自身が文庫本のお話をお断りして、完全書下ろしで書くと決断されていたのですね。

「客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し。」とおっしゃっていましたので、先生の本は買えるときに買っておかないとと改めて肝に銘じました。いつも手に入るとは限らないということをお話されていたこともあって、そのとき手元にない先生のご本をア〇〇〇でポチっとしました。

その中の一つ「消えない悩みのお片付け」で知ったタイムバーや純金タイムなどの考え方は「なるほど!」と共感し、実践しています。人生は作業の連続。作業に集中していたら妄想は減る。本当だなと実感しています。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

本というのは、本当に難しいのです。『勉強法』の本は、実は昨年(2024年)末に文庫本を出す話がありました。

でも、読み返してみると、筆者としてはウーンと思うことが書いてある・・「今ならこれは書かないな」「今ならこう書くよなあ」というダメ出しが増えてきて、

「やっぱり出しません(完全書下ろしの新刊を書きます!)」とお答えしてしまったのです(で、まだ新刊原稿書いていない・・)。

筆者としては「今ならもっとこう書けるのに」という思いが出てくる。でも作品そのものは、こうして探して手に取って(※筆者としては市場に出回っているものを回収したいのですが、できないために起こること笑)、

読んで役に立ててくれる人がいる(そういう人が少なくないのは事実です。ありがとう)。


つまりは、客観的には確実に価値を持つのに、主観的には価値がないと判断してしまって、世に出さない――ということになってしまう。いつもこの繰り返し(業?)。



数学は、世の中にデキる人たちは数えきれないほどいて・・それこそ歴史マニアと同じく、数学マニアの人たちも数多くいるらしく。

私自身は、小学生の頃は算数が苦手で、独学時代にようやく数学の本質が少し見え始めて、大学受験で数学的思考(とにかく論理でつなぐ、つなぐ・・これ文系的表現ですが笑)の真似事を始めて、

「面白いな、もっとやりたいな」と感じ始めた頃にはもう入試が迫ってきていたので、数学の本質は極めずじまいで終わってしまっています。

ごくたまに「もう一度大学受験しなければ」という夢を見るのですが(18歳に戻っている笑・・ありませんか?)、

「数学やりたい!」と思っている自分が夢の中にいます。数学は楽しいと感じている――何が楽しいか? 論理だけで答えを出す。途中に不純物が混じらない(矛盾や破綻がない、妄想がない笑)。

その美しさゆえのカタルシスは・・そうか、瞑想にすごく似ています(笑)。

瞑想も、自分の心に残っている不純物を取り除くために、①気づいて反応しない、②別の思考を組み立てる――ということをやります。

スッキリするための思考を考える、のです。なるほど、これは数学に近いのかも(今気づいた笑)。

数学的思考と瞑想と本の執筆は、私の中では、ほぼ一つです。本の場合は、書き出し(前提)を考えて、そこから論理でつないでいく。途中に破綻や矛盾が生じないようにする。

読む人の心を煽らない、凹ませない、傷つけないようにと気をつけながら(いわば前提条件)書く。最後は必ず励ましの思いを込める。

数学をやっていなかったら、瞑想も進まなかっただろうし、本も書けなかったと思います。

「わかりやすい」と言ってくれる読者は、論理的思考がもたらすスッキリ感の一端を感じてくださっているのかもしれません。

論理をフンフンとうなずきながら追っているうちに、いつの間にか答えが出ている。「そうか!」という浄化の快を感じている。だとしたら、数学的思考の賜物です。



誰かに向けて書く言葉というのは、本にせよ、研究論文にせよ、この人も言っているとおり、何のために、誰のために、どんな意味・価値を持つのかという、客観的な(他者を意識した)視点が必要になります。

「これは届ける価値のある言葉か?」を自問する。これもひとつのロジックです。

ちなみに世の中に飛び交う言葉が不毛にして殺伐としているのは、価値ある言葉かを吟味するという発想がないからです。思いついたことは、他人にとっても意味があると思い込んでいる。何でも言っていいと思っている。

そうやって守備範囲を外れて発する言葉によって、誰かの物騒なリアクションが返ってきたり、炎上したり、不毛な議論にもならない議論が勃発したりするのです。

しかも、発した自分自身が本当は一番害を被っている。いつも人の目(リアクション)を気にして、余計なことを言って、心無い言葉を浴びて、言わなければ嫌われないのに、言うことを選んでしまうことで自分を嫌う人の数が増えていく――。


「真実かつ有益な言葉のみを語る」という戒律(マイ・ルール)は、その点ですごく大事。

この言葉は人に届くだろうか、どんな価値を持つだろうか?と考えながら、テーマを選び、情報を集めて、整理して分析して、「これを届けたい」と思える内容・結論へと洗練・凝縮させていく。

すると、おのずと響く言葉が生まれてきます。言葉が熱を、力を持ち始める。

他者に届く言葉を繰り出せるようになると、関係性も変わります。関係性を自分で作っていけるようになる。

過去は関係性に支配されてきたかもしれないけれど、これからは関係性を選び、創造し、育てていけるのです。

その人生は、過去とはまったく違います。




新聞連載も佳境入り


『ブッダを探して』(中日新聞・東京新聞連載中)は、ミャンマー編もいよいよ佳境。

「草木も生えない失望」に直面する局面に入ります。

私は敵を作ることが嫌で俗世から離れたのですが、この世はそもそも人の数だけ真実があり、誰もが自分にとっての真実に執着したがるものなので、

その中で自分にとっての真実を語れば、どうしたって対立が生まれてしまいます。そのことがすごく悲しいのです。

それが嫌なら、何も語らないほうがいい。目立たないほうがいい。メディアへの露出やSNSの利用を敬遠してきたことと、理由は共通しています。

単純に望んでいない。幸せが増えることだけを願っていたい。

ならば自分にできることだけを、極力小さく、伝わる人にだけ伝えていく。それが理想だと今も思っているのですが、

その一方で、真実が掘り起こされないままだからこそ、見えない人、気づけない人、道に迷う人、苦しみ続ける人も、たくさんいるわけで・・(とはいえ、こうした思いもまた正しさへの執着になってしまう危険があって、その危険を恐れることが出家の流儀=戒律なのですが)。


痛みが生じかねないことに配慮し、ためらいながらも、自分にとっての真実を語るしかない。そんな場面も今後増えてくる気がします。

新聞連載一つにもこれだけ細心の注意を払う・・・もともと出家は世俗にはなじまないのです。

そんな個人的なためらいを抱えつつ、

心の眼に映るすべてのものを昇華・洗練させて、

世に伝わる普遍的な価値を創り出していく――。


そんなテーマを抱えて、2025年の春に入ります。


  
3月2日(?)掲載予定の『ブッダを探して』イラスト
どんな話題かは紙面でご確認ください
 
 


このブログの目的(世にあって世に染まらず)

 

この公式ブログは、更新を楽しみにしている人も多いらしく、週に一度くらいの頻度で更新するようにしています。

わざわざ公式ブログを見にくる人というのは、それだけのモチベーション・関心があるということ(と受け止めています。暇つぶしに覗きにくる人もいるかもしれないけれど笑)。


ここに掲載しているのは、日頃のやりとり(主に講座参加者や読者さん)で出てきた言葉の一節です。


この場所は、自分が話したいことを話す場所ではありません。

抑制的に、真実かつ有益であること、人の幸せにつながる価値ある言葉であることを心がけています。(本も、公式ブログも)

(ただ、堅苦しくならないように、カジュアルな(?)話題も交えるように心がけてはいますが・・それが一番出てくるのが教室です。なるべく多くものを持って帰ってもらおう、喜んでもらおうと、つい余談・脱線してしまいます)

 

ここは、なるべく見つからないように、小さく、地味に、ごく限られた人たちとの関係だけで細々とやっていこうという、世にあって世に染まらずを地で行っている場所です。

 

 


『人生をスッキリ整えるノート』の裏表紙
(地道がいちばんです)


 

 


興道の里・今年の抱負


新春のご挨拶第2弾は、興道の里の今年の抱負:

まずはインド出張。その後は、新刊の原稿書き。十代向けの学び方・生き方をまとめた本。

講座は3月16日&18日の名古屋での特別講座からスタート。

『ブッダを探して』の新聞連載は8月一杯か、2025年度内か。

レギュラーでやってきた仏教講座をどうするか。月に1回のペースでオンラインでやるか、夏までいったん休止とするか。

というのも、年の前半は本2冊を書き上げねばならず(ただでさえ遅れ気味で迷惑をかけているのでケリをつけなければ)、

新たな拠点の完成が7月頃。場所を変えて心機一転スタートするという形もありかと思っています(月に一度オンラインでいいからやってほしいという声があれば考えます^^)。

これまでは手広くやってきたけれども、そろそろ時間という有限のリソースを重点的に使うことも考えないといけない時期なのかもしれません。

子供たち向けの未来を育てるプロジェクト(やってみないと何ができるかわからない)。

本の執筆(未来に遺せる財産として)

そして、仏教講座。

この3点が活動のマックスかと。


悩ましいのは、どこまでの範囲に向けて発信するか。動画、SNS・・だけれど正直、そうした媒体を通して触れてもらったところで、遊びや暇つぶし、いわば消費コンテンツとしての位置づけを超えられるとは思えず。

学びを得るには、やはり相応の環境設定が大事。

自室でテレビの旅番組をながめたって、旅の醍醐味は味わえない。足を運んで、五官で感じることで、本物の旅になる。

学びも同じ。日常に浸かったままでは得られない学びというものがあるはず。

広く知ってもらうとか、ラクに学んでもらうといった便宜におもねる(媚びる)のではなく、少し敷居を高くして、

学びたい人はしっかり足を運んでもらって、リアルな体験として学んでもらう。この場所はやはり道場。エンタメじゃない。

そのうえ今のSNSや動画などの環境は、コンテンツがあまりに雑然としすぎていて、見るだけで精神的な負荷(無秩序ゆえのストレス)が溜まる構造になっている。

この構造は変わらないのかもしれないけれど、だとしたらあえて乗じることなく、まったく別の場所・別の形で、別の可能性を作っていくというのも、

ひとつの見識であり、良心的な選択といっていい気がする。

見つからなくていい、目立たなくていい。

志ある人が、偶然でも必然でもどんな形でもいいから、この場所を見つけてもらって、まずは連絡してもらって、足を運んでもらって、きちんとリアルな関係性を育てていく。

そうした関係性で生まれてくるものを選りすぐって、未来につながるものを残すようにすればいいんじゃないかな。

ということは、この先は、この場所で学んでゆく人たちと一緒に、「未来に何を遺すか」というテーマにチャレンジするということ。

その挑戦を始めるのが、新しい拠点ということになりそうです。


日本に帰ってきて十余年。作品が広く世に届いた、受け取ってもらえたということが、出家人生における第一の奇跡。

そして興道の里というイメージが、いよいよ具体的な形に結実して、新たなステージに入る今年は、第二の奇跡。

人の幸せ、社会の前進を真面目に願うという性格が、仏教という智慧を得ることで、社会的な価値を持つに至ったことが、第三の奇跡。

かつては「いいかげん大人になりなさい」とかさんざん言われた時代もあったけれど(笑)、その頃とまったく同じ思いが、今は、誰にも文句を言わせない(言ってもらってもいいけれど笑)形で、くっきりはっきりと姿を現しつつある。

捨てなくて(あきらめなくて)よかった・・というのが、今の実感。

予想もつかなかった未来に突入している。まさかこんな生き方があったとは。


まだまだ奇跡の途中。


みんなが幸せに生きられる可能性を願って、まじめに歩んでいくので、

この場所を偶然見つけてくださった人たちは、引き続き、静かに見守っていてくださいね。


 

2025・1・3

 

 

 

 

ブッダを探して~東京新聞継続決定


『反応しない練習』は、ルーマニア、ハンガリーで翻訳出版が決定。なんともニッチな・・ドイツ、スペインに続いてヨーロッパ・ブーム(?)が続いています。

『ブッダを探して』は、東京新聞では2025年2月で連載終了(紙面大幅改訂に伴い/以後は中日新聞のみ)という予定でしたが、

社内会議で、好評につき継続が決まったそうです。

これは異例のこと。よほどのプレゼンス(存在感)を読者の方々が認めてくださったということなのでしょう。ありがたいです。

イラストも引き続きお楽しみください。


ミャンマー編13(来年2月掲載予定)のイラスト 

本文は紙面でどうぞ




2024・12・27

ただいま執筆中!


明日15日の東京新聞・中日新聞のイラスト
本文は明日のお楽しみに


新聞連載には年末進行というのがあって、原稿を前倒しで仕上げないといけません。

ということでここ一週間は、本文とイラストのほうに集中していました。

来年2月2日分まで、合計6本を完成! これで私もしばらく他の仕事に専念できます。

『ブッダを探して』は、読者の皆さんからお問い合わせいただいていますが、単行本としてまとめられるかは未定です。

文芸的・自伝的作品なので、文芸に強い出版社にお声をかけてもらえたら・・と思っているのですが。

この作品、週に一本800字ほど、さりげなく、あっさり書いていますが、内容はかなり濃厚かつディープです。仏教や瞑想についても、実はかなり掘り下げた内容を薄口・淡泊にまとめています。

なんとか与えられた連載期間の中で、現代編さらには未来の展望にまで漕ぎつけたいと思っています。



2024・12・14

こころを洗う技術


『心を洗う技術』SBクリエイティブ 重版決まりました^^*

ブディズムの教科書(図解入り)です。仏教を学びたい人は、まずコレ一冊。

やっぱり紙の本がお勧めです。「読んだ」「モノにした」という実感が残るのは、やはり紙の本。体を持った人間には(※ここ大事)、目と指先で直接知覚するほうが、脳に刻まれる深さと量が違うはずです。

 





心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


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<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


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<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します