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虚栄心ゲームには乗らないよ

 

中高生が使っている教科書、参考書、学校のプリントを見せてもらうと、

「まだこんな(いい意味ではない)ものを使っているのか」と愕然とする。


そもそも学問・科目の本質が見えてこない。

その分野の全体像や、原理的な発想や嗜好の組み立て方を言語化できていない。

生徒は生徒で、ただ真面目に頑張って、授業についていって、試験に備えて、目先の成績を維持するか上げれば、将来が開けると勘違いしている。

学力は育っていない。むしろ下げてしまっている。

半世紀、まったく変わっていないのではないか。




本当の学び方を教えることはできる。やり方さえわかってしまえば、誰だって満点が取れてしまう。

だがそうなると、結局みんなできるようになってしまって差がつかず、そうした学び方もまた虚栄心を満たすゲームに利用されることが目に見えているから、

伝えることはいつでもできるが、あえて黙っていようと思う(笑)。


誰に対してなら、”極意”を伝授できるのか。

虚栄心を満たすゲームに乗れなかった子、人の痛みがわかる子、社会の役に立つ人間になろうと思える子、純粋に知的好奇心があって、人を見下しておのれの優越を維持しようという邪心がない子たちになるだろうと思う。

あいかわらず、試験で点が取れればいいとか、いい大学に進めることが価値を持つとか、そういう虚栄心ゲームに興じている人間が多い。大人も子供も先生も親もだ。

しかもその手段としての勉強が、的(本質)を外したままであることを、今さらながら知って驚く。


知能だけでなく、心も育てないと。素直な心でいられるうちが勝負だ。

やっぱり小学生。乗りきれなかった中学生。学校や社会の非合理・不条理を感じ取れる十代か。

そうした相手なら、伝えることに価値が生まれる。

 

本気と本質に触れたい子供たちに来てもらえたらと思う。これから始まる場所に。


 

2025年6月下旬




大きくなったら何になる?

 

「若い」というのは、年齢というよりも、どんな時間を過ごしているかで決まる気がしてきます。

若い人たちの特徴は、まったく新しい(未知)の体験に飛び込んでいること。

そのぶん緊張や不安もあるのかもしれないけれど、「やってみる」ことに踏み出せる。前に進むことが当たり前。身も心も、それができるようにできている。

体験することを恐れない。体験そのものが生きること。

それが、若さの特徴のような気がしてきました。



では、そうした若い命(※若いという言葉を連発すると、そのぶん自分が年寄りになった気がしてよろしくないのですが笑)のそばにいる大人の特徴はどうかというと、これは2つに分かれる気がしてきました。

1つは、「やってみる」姿を見て、自分も喜びや楽しさを感じられる大人。

もうひとつは、自分のほうに意識が向いていて、やってみる姿に共感できない大人。

後者は、仕事か、趣味か、過去か、性格か、人によっていろいろだろうけど、若い命のそばにいても、別のことに心を使っている。 いつも気難しい顔をしていたりして。



考えてみたら、心はとらわれることなく、自由にして、流れ続ける状態が、本来の幸福(快)であるはずだから、


そうなることを促してくれる、若い命の「やってみる」の間近にいられることは、すごく貴重にして幸福な時間のはずなのです。

自分にとらわれずに、若い命(幼い子であれ、小学生であれ、高校生であれ)に心を合わせて、自分も喜びを得るという、

それができる、親、学校の先生、保育士さんたちは、実はすごく贅沢な時間を過ごせているということ。

人間というもの、自分一人で幸せを感じるのはそもそも苦手な生き物なのだから、ほんとは、若い命に合わせれば(ときに一緒に遊んでもらえれば)一番いいのかもしれません。

それができるためには、”自分抜き”、つまりは自意識を抜く、すなわち妄想を解除することが必要になってくるのだけれど。



「大人になったら何になる?」という質問は、将来、望みが叶うとしたら何をしたい、何になりたい?ということ。

ちなみに私が今なりたいのは、保育士さんです。

資格を取れるのかどうか(取っても雇ってもらえるかどうか笑)わかりませんが、今ならできる気もします。

保育という仕事の難しさや責任は別の話として、幼い心に自分の心を合わせることは、昔の自分よりも、今のほうがはるかにできるような気がするのです。

”自分抜き”ができると、遠い昔の自分が感じていたこと、考えていたことも、わりと自由に思い出せます。机の引き出しを引くかのように、当時の自分を取り出せる。相手の心に合わせることもできる。

大人の引き出しと、子供時代の引き出しを、自由自在に引き出せたら、相手に合わせることが可能になる。「遊べる」ようになる。

子供の相手がすごく上手な保育士さんや学校の先生がいるけれども、そうした人は、引き出しを引くことが上手なのだろうと思います。心が自由。だから軽やかに引ける。

若い命のそばにいられる人は、自分抜きをして、いろんな引き出しを錆びつかせないようにして、楽しく過ごしてほしいなと思います(お節介ではなく、自分もそうありたいという純粋な願いとして)。

今いるその場所が特等席みたいなものだから。



2025年4月下旬



「そんな人生もあったらいいな」の5年後

 

そもそも興道の里の「興」の字は、実は 同 ではなくて、幸 を両手で支え持つという象形文字です(勝手に造った漢字(笑))。

日本に帰ってきた2011年夏に、この国の幸せを増やせるような活動をしようと考えて、最終的に選んだのが、この呼び名でした。

「お寺のような、学校のような、里のような場所を作りたい」というのは、活動当初からお伝えしていたこと。

でも、その頃は、講座にもほとんど誰も来なかったし、本も出していなかったし、出しても(最初の本が2012年)まったく届かなかったし、

生きていけるかどうかもわからない。「いつかインドに帰れたら」という思いで、教室に竹筒を置いていたような状況でした(2013年12月にインド帰郷が実現)。

「里」と呼べる場所も、できたらいいねというくらいの話で、ほとんど現実味はなく、「せめてめざすとしたら」という、まさに方向性(妄想)として使っていたくらいの話だったのです。


幸いに、これまた奇跡というしかないくらいの幸運だったのだと思いますが、2015年夏にあの作品が世に出て、多くの人があたたかく迎え入れてくださって、

最初の方向性に、少しずついろんなご縁がつながっていって、

あのコロナ騒動に突入して、この世界の行く末と、個人的な身の置き所をいっそう真剣に考えるようになって、

いろんな偶然が重なって、今の場所にたどり着くことになりました。


この先どんな物語が始まるのか、紡くことができるのかは、これは想像がつかない(未来もまた因縁次第なので)ものですが、

それでも、方向性(意志)と因縁と、自分自身にできること――の組み合わせによって、不思議といえば不思議なことが、形になろうとしています。

本当に不思議--。


今思うのは、「めざしてよかったな」ということです。

そしてあきらめることなく(あきらめるというのは、負の妄想を選ぶということでもあるから)、

でも過剰に夢見ることもなく、

謙虚に、素直に、地道に、自分にできることを日々やり続けて、歩き続けただけですが、

その先に、最初に夢見たことが、ほんとに形になった――そんな未来にたどり着こうとしています。


下記に紹介するのは、2020年10月にお伝えしていたこと。場所を見つけるどころか、そんなことができる未来が来るとも想像しなかった頃に書いていたことです。不思議--


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

たとえば、どこかの古民家とか、旧診療所とか、集会所など、広めの家屋を、「使ってください」と提供してくれる人が、ひょんなきっかけに現われたら、

そこで、大人と子供たちを呼んで、〇〇〇〇〇を始める――というのは、現時点でも可能。


ちゃんと生き方を伝えますよ。人は幸せになるために生きている、その方法はちゃんとある。

学校や、世の中のおかしさも、ちゃんと伝えます。

こういう生き方のインプットは、小学生までが、ひとつの勝負どころ。


大部屋使って、「学校」みたいなことを始めます。

国語と英語と社会は、かなりレベルの高い、洗練された、本物の学びを提供できます。

数学だって、使う教材を選び抜いて、センスが身に着く、本物の学びをしてもらいます。

学者や作家や、その他あらゆる世界のプロが書いた言葉や映像に触れられる オリジナル教材を作って、

中味の面白い入試問題を選んで、それを使って、論理的な読み方・書き方・考え方を、体験してもらう。

大人がやっても面白い、知的能力が確実に育つ、本当の学びを提供する。


そこでは、和尚であり、父ちゃんであり、先生です。そこで、生き方をちゃんと吸収してもらう。

道場みたいな、学校みたいな、私塾みたいな場所――それなら、今でも可能です。


で、週末とか、夏・冬の休みには、全国から親子で来てもらって、

大人の悩みにも、子供たちの学びにも、朝から晩まで、つきそって、背中を押して、送り出してあげるという――。

ちっちゃな田舎の駅まで車で送って、バイバイ!みたいな。


そんな妄想をしてみました(>▽<*)。


きれいな夕焼け空が見える場所がよいです。

そんな人生も、あったらいいな。



その5年後に本当に見上げている空

空の色だけお見せします(笑)



春に思うこと


本格的な春到来でしょうか。

〇〇の拠点づくりは順調に進んでいます。

と同時に、「しっかり育てていかないと」という強い思いも新たにしました。


ちなみに、「しっかりやらなければ」という思いをプレッシャー(過重な責任感)に変えないためには、「(できることから)やってみる」という発想に切り替えることがコツです。

やってみるだけ。やるだけ。


まずは、夏以降に現地に移って(猫のサラも移住予定)、地元の人たちになじんで、

地域の子供たち、そして興道の里(大人)経由で足を運んでくる十代のみんなに向けて、簡単な寺子屋(授業)から始めたいと思います。





いくつか大きな隠れテーマ(あまり表立って言わない目的・方針)があって、

その一つは、「評価しない」ということ。

学び・勉強の仕方は伝えるし、結果的に成績が上がるだけのクオリティは維持するのですが、課題・問題に取り組むとしても、それに点数をつけたり、一時的な評価をしたりはしないようにしようと思います。

勉強、イコール評価(数値化)--という物差しが、どうしても学校・受験、つまり十代の人たちの世界にはつきまといがち。

でもそうした評価を、良し悪しを測る基準にしてしまうと、

もっと大きな、もっと広く深い、学ぶこと自体の面白さというものが、見えなくなってしまうと思うのです。


評価という物差しを外しても、面白い、知りたい、考えたいと思える心が最善。そうした心であれば、

大人になっても、歳をとっても、知ること、考えること、学ぶこと、体験すること、成長することが楽しくなる。純粋に楽しめる。

硬く表現するなら、「自立した知性」をアタマの中に育てる。

自分で学び、自分で知り、自分で考えて、自分で人生を創っていく。

評価されなくても、誰かに認めてもらわなくても、他人・周囲が別の方角を見ていても、

「人は人。自分は自分で答えを出す」

そういう生き方こそが本来の「当たり前」だというところに立てる人間をめざしたいのです。




なので、寺子屋で伝えることも、大人になった(なってしまった)私にとって意味あること、面白いと思えるものにする予定。

教科書・参考書も、面白い・役に立つと思えるものがあれば使うけれど、つまらないと感じたら(大人の自分が伝える気になれなければ)遠慮なく捨てて、別のものを使う。

伝える側(いわゆる先生)が、「これは面白い、伝えたい」と思えるかどうか。そこまで心動くものを使わないと、伝える側が楽しめない。当然、受け取る側も楽しくない。当たり前。

自立した知性というのは、年齢・学年を超越している。だから大学生でも、院生でも、社会人でも面白いと思えるであろう内容かどうかを、その時間・教材の中味を決める基準とする。

そうした大きな価値・本質というものを保つことを前提に、子供たち(主に小学5年生以降を想定)に伝わる言葉・内容を工夫していく予定です。




これ、けっこうハードルが高い。自分の心が若くないと(面白さがわかるくらいのみずみずしさがないと)、面白さがわからないし、伝えようというモチベーションも維持できない。

そこで寺子屋の完成と同時に、自分なりに禊(みそぎ)のイニシエーションをしなければ、とも思っています。

つまりは生活と仕事内容の刷新。古いものを持ち越さない。


せっかくのチャンスなのだから、自分自身をリニューアル。


興道の里も、第2章、いや完全な新章に入るということです。そうしましょう^^。




この場所(みなさんとのつながり)は、そのまま生きていきます。器として大事に守っていきますが、中身が入れ替わるということです。


中身は、新たな拠点で始まること、始めること。


こういうのは、行動あるのみ。やってみよう、ということです。


写真ありがとうございます

 

 

2025年4月初旬

本気で叱れる親になれるか

 
子育ては、そんなに難しいことではないはずです・・。「大変」ではあるけれども、「難しい」ことではないはず。というか、難しくしてはいけないし、難しいままにしておいてはいけないものだと思います。

難しいとしたら、どこか勘違いしていると思い直すほうがよいのかもしれません。というのも、

子供の「体験」に同伴して、将来の「自立」まで、そのそばにいる。
 
自立への後押し(必要な支援)をしてあげる。
 
時期(一定の年齢)がきたら、自分で稼いでもらう。そして自分の人生を生きていってもらう。

その時に子供に依存しないように、自分の生活や老後については、自分なりに準備しておく。

老いた親としての自分も自立、子供だった人も自立。それが親子の基本線。

心がけるべきは、「体験」と「自立」です。


体験については、子供のもの。子供が選んでいいもの。

親が期待した反応や結果が返ってこなくても、そこにとらわれてはいけなくて、もし親の側ががっかりしたり、不満に感じることがあったら、「求めすぎているな」と自覚してセーブする。それも基本。

体験したことを、子供が好きと感じるか、嫌いだと思うか、何も残らなかったか、というのは子供の自由。

体験したことが、身に着いたか、その先につながったかというのも、本来は子供の自由。

これは、学校、運動、勉強、遊び・・なんでも同じ。


ただし、体験さえ、めんどくさいとか、何もしたくないと言い出して、そんな状態が長く続いて、「自立」を妨げるおそれがあると思えるような状況にまで至ったら、

そのときは親としては、きちんと話をする必要が出てきます。

「話をする」ということは簡単じゃない。本当は難しくないはずだけど、親の実感としては、やっぱり難しい。

というのも、子供を一人の人間として、自分とは別の人格として、きちんと線を引いたうえで、まずは話を聞く、理解する(裁かず、過剰に反応せず)という心がけが大事になるからです。

今の子供の状況と思い(心の中にあるもの)を、理解しようと努める。

「理解したいと思っている」という立場に立つ。

そのうえで大事なことは、子供の立場(同じ目線)に立って、「自立」について真面目に考えること。

学校に行かないことは選択肢としてアリとしても、自立への準備、つまりは基本的な学びと進学(学びを体験する場所に進む)ことは、考える必要がある。

その準備さえ崩れてしまっている、近い将来の自立さえ決定的に危うくなりつつある・・そんな状況を目の当りにしたら、親としては、「あわてる」ことも「放っておく」ことも正しくなくて、

「よく聞く」(理解しようと努める)という一線は守りながらも、子供の立場に立って、「この先の人生、どうするつもり(今の考えを聞かせて)?」というところは、しっかり伝えていいし、
 
そうした問いから逃げているように見えたら、「待て」と本気で言える覚悟は、必要であるように思います。

子供が、体験することさえイヤがって、生活が不規則になって、学校に行かなくなって、将来への準備もしなくなって、

では何をしているのかと言えば、ゲーム、ネット、動画ばかり・・・というなら、

それは自分を甘やかして、つまりは怠惰を正当化しているだけで、本人はどこにも進んでいない。

そのままでは何も育たなくなる。そのうち動けなくなる。
人と関わることや社会に出ることさえ、めんどくさいことになってしまう――。

そういう可能性が見えた時にどうするか。その時にこそ、親としての役割が問われます。

時代がどんなに変わっても、人間は自分の力で、社会の中で生きていく必要がある。何もしないわけにはいかない。

だから「自立」が遠ざかりつつあるように見え始めたら、どこかで真剣に向き合うことが必要になるのです。

その時には、親として、そして一人の人間として、自分の思いをぶつけてもいい。人間なのだから、関わっているのだから、当たり前。

本人の人生がどんどん危うくなっているのに、何も言わない、怒らない、叱れない親というのは、

結局、自らの関わり(責任)を放棄しているだけで、本当は「ずるい」のかもしれないのです。


「ここまで行ったら、自分の人生が危うくなる」というラインは、本人には見えにくいもの。溺れている人、流されている人、みずからをコントロールする力が弱い人、将来を想像するという発想が乏しい人には、見えにくい。

だが、そうした人の姿を許容してしまったら、その人にとっての判断基準は、「今、自分の気が向くこと」しかなくなってしまって、

体験することよりラクをすること、社会の中で生きることより、自分の世界に引きこもることを、選びがちになってしまう。

そうやって、人生の時間が止まったまま、物理的な時間だけは、十年、二十年と過ぎていく。子供だった人も、気づけば「大人」になっている(少なくない)。


よくある傾向は、そうした人の親というのは、存在感が希薄で、「自分はこう感じている、こう思う」ということをストレートに伝えないこと。

叱れない、怒れない親。そういう親の姿は、怖くもなんともない。子供は、ラクに流されても許されることを「体験」してしまって、「自立」への準備という、体験、学習、成長するための作業が、めんどくさい、しんどいことになってしまう。

社会というのは、自分以外の他者と出会い、関わる場所。

親がその最初の他者であるはずだし、他者にならなければいけないのに、子供からすると親は存在しないに等しい、都合のいい存在になってしまう。つまり他者がいなくなってしまう。

そして家庭は「自分しかいない場所」と化す。

他者とぶつかったり話をしたりして、考える、変わる、自分を律することを少しずつ学んでいく機会が失われて、「自分」と「時間」だけが流れていく。

そして歳月が経って、社会(外の世界)はますます遠くなり、何もできなくなった自分が残って、

中にはそこまで行ってから、「親は何もしてくれなかった」「自分がこうなったのは、親のせいだ」と言い出す”大人”も出てくる。

一面で、その言い分は正しい。そう、親は何もしなかった。向き合おうとしなかった。

子供だった自分は未熟で、弱くて、たしかにだらしなくて、甘えていたのかもしれない。

でも、そういう自分に、親は何も言わなかった。

言わない親より、言ってくれる親のほうが、

だらしなかった自分を叱ってくれる親のほうが、

自分の姿を見て、嫌いなものは嫌いだと言える親のほうが、

そんな親の反応や言葉を聞いて、少しは考える可能性も生まれたかもしれないし、子供にとってはありがたいし、必要だったのに、

親は何もしなかった――。

これが、「体験」と「自立」という、子供にとって欠かせない要素を欠いた場合の結果です。


怒れない親よりは、本気で怒れる親のほうが、

叱れない親より、真剣に叱って見せることができる親のほうが、正しいということです。

もちろん、怒ってばかり、叱ってばかりの親が正しくないことは、言うまでもなく。なぜなら、こうした親は理解していないから。理解しようとしない。こういう親には、子供は苦痛、不満、不信を育てていって、親を信頼しなくなる。今さら親が聞こうとしたって、話しても無駄だと子に思われてしまう。

でも今お伝えしているのは、そういうことではなくて、

「体験」と「自立」という欠かせないテーマがおろそかになっているのに、そのことに気づけない、気づいても真剣に向き合えない、本気で怒れない、叱れない親についてです。


最終的には、

子供が何をしても怒らない(人間として向き合わない)親と、

子供の人生が危ういかもと感じた時には真剣に怒れる親と、

2種類に分かれるような気がします。そう表現しても間違いではないのでは。


自分はいざという時に本気で叱れる親か。本気で向き合う時はいつか。

しっかり考えてゆかねばなりません。




2025年3月


碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4


学校、東大、官僚、政治・・一つ一つの現場を、自分自身が知っている限りで思い出すと、この社会は ”巨大な碾き臼(ひきうす)” のようなものかと思えてきた。

霞が関であれば、御上先生の志や能力さえも摺り潰される。
 
学校であれば、あのドラマの学生たちの明るさや優しさも摺り潰される。
 
創造力に富んだ先生たちの意欲も摺り潰される。

ならば日本を変えようと法律家をめざしても、法律を書き、政策を作れる ”創造的法律家” になれる道は、日本にはなく、司法制度の枠に収まっているうちに摺り潰される。
 
政治家になっても、これまた打算計算と保身にまみれた周囲の人間たちの間(はざま)で、摺り潰されてしまう。
 
日本という社会は、いくつもの碾き臼(ひきうす)が歯車のように重なった場所で、その中を潜り抜けようとしているうちに、摺り潰されてしまう。ゴリゴリと。

そういう場所かもしれないと、ドラマを見ながら思った次第。
 

(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)



日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。

重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。

中高生のみんなに罪はない。

最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。

ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。


変わるには、どうするか。まだひとつ残っている。かなり狭い道だけれど。

今は言いません。


御上先生の問題意識、しっかり受け止めました(今日、最終回)


2025・3・23
 
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3

 
教育をおかしくしているのは、試験制度も一つだが、親、現場の教師、受験産業、そしてメディアまでが加担する、過剰かつ不毛な東大&高学歴信仰にもある。
 
今の時代は、学歴が売り物にされ、たかだが学生でしかない東大生であることが価値がある、すごいことのように扱われている。
 
これこそが最大の陰だ。中身のない、誰も幸せになれない陰。
 
一時的に持ち上げられて自分を勘違いする学生もいるだろう。もてはやされる姿を見て、「自分もああなりたい」と刷り込まれて(社会化)されて、その価値観が近い将来、自分を疎外(否定)する理由になってしまう学生もいるだろう。
 
一部の人間たちが過剰に持ち上げて、煽って、騒いで、商品化する。そのことで、大学の先にある本当の使命というものが見えなくなっていく。
 
これもまた日本を覆う陰の一つだ。だが陰であることに気づかない。日本人がみんな陰に慣れ過ぎているから。

勉強ができる、アタマがいいことが価値を持つ? でも東大に入ったところで、卒業したところで、何をめざすのか、どこにたどり着けるかといえば、どうだろう? 学んだことが、自身の幸福と社会への貢献につながったか、つながるような仕事にたどり着いたか? はて?

東大に行きました、立派な成績で卒業しました、資格取りました、こんなに私は優秀でした・・

そう言いたがる(売りにしたがる)人もいるかもしれないけれど、そのたどり着いた場所(自分)が、はて本当にどれほどの価値を持つのか。
 
そもそも本人は満たされているのか、社会に役立っているのか 
 
といえば、素直にうなずけるケースはあまりない、と言っても過言ではないかもしれない(←ちょっと霞が関文学?)。


学歴が立派、頭脳優秀だと思われている、思わせたがる、思わせている人は、大勢いる。もう飽和状態だ。出尽くした感がある。

とはいえ、「アタマがいい自慢ができる人」の大半は、入った大学(勉強ができたという程度のこと)に価値があるという前提(社会が共有する幻想)がないと成り立たない立場だったりして
 
(ほんとにすみません・・でもやっぱり「その先」をめざさないといけないのだと思います)
 

なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。

まったく変わってない。日本人の意識そのものが。

だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。

実態は別のところにあるのに。実は上級といえるほどのものはなく、どこまで行っても空っぽかもしれないのに。
 
 
ちなみに御上先生、『金八先生』については批判的に語っていたけど、『ドラゴン桜』という東大信仰、つまり社会全体の無思考の上に成り立つドラマには触れなかった。あれこそ教育の閉塞を長引かせる無思考型のドラマなのに。 
 
触れなかったのは、同じ系列だから? 学歴という記号に過剰な価値を見出す親や、受験産業や、そこで熱血指導している教師たちと同じように、自分たちもまた無思考の檻に囚われていることに気づいていない?
 
自己批判こそは思考の原点、最初に潜るべきイニシエーション(通過儀礼)みたいなもの。
 
自分の足元にある欺瞞を見つめないと、本当の思考は積み上げることはできないよ。 
 
東大めざせとか成績上げろみたいなことを、いい歳をした大人が真面目に語って、大学入試を「見上げている」こと自体が、無思考の極みであり、すごくカッコ悪い姿だという視点は、あったのかなかったのか、どうなのかな・・。
 
 
よく聞く「東大行くのは手段でしかない」なんていう言葉も、実は思考停止の言葉だ。
 
もっと大きな使命や目標を実現する手段という意味ではなくて、いつの間にか「自分のプライドを守る手段」に取って代わられてしまう言葉だから。
 
試験で勝ち抜くことを選ぶ人間は、思考停止のために「手段だから」といって、自分を正当化するんだよ。何十年も前の東大生だって語っていた言葉。
 
だから「手段にすぎない」という言葉さえ、思考になっていない。自己欺瞞。
 
 
そこまで突(つつ)いて、「考えて」、東大をめざす・受かるという価値観そのものが、無意味な妄想でしかない、日本社会全体が巨大にして無意味な妄想に呑まれている――。
 
そこまで心の深いところで言語化できて初めて、日本社会を覆うバカバカしい陰に気づく人間もちらほらと出てきて、
 
その知力を社会のために活かす、完全に自立し自由になった人間が現れる可能性が出てくる。
 
今の日本社会から自由になれるくらいの知力を持った人間でないと、社会を変える・創る力は持てない。 
 
冷静に考えれば、当たり前の真実だ。
 
そうした本当の頭の良さを持った人が、何人出てくるか。行政、司法、政治、学問の世界に――
 
あまりに遠い地平だけれど、それを真剣に見据えて働きかけることこそが、教育なのではないのかなと思う。
 

教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。


教育の原点は、志だ。

志は強靭でなければならない。

強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。

 

たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、

今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、

そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、

中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。

あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、

「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。

 

語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。

日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。




余談だけれど、試験制度の不条理や、そんな制度の枠から抜け出せない自分への懐疑を抱えた「考える人」は、僕の周りにはちゃんといた。
 
みんな、それなりに悩んでいたし、考えていた。東大という「檻」に入ってしまった自分を疑う懐の深さ(考える力)を持っていた。「人間」であろうとしていたよ。
 
でも逆らえないから、順応することを選んできていた。その中途半端さが、幼かった僕自身には不満だったのだけれど。
 
 

今の学校、教育、大学、官僚組織、政治や学問の世界――
 
総じて、大したことはできていない。 
 
だから社会全体が停滞、硬直し、地盤沈下を起こしている。
 
闇というより、巨大な陰なんだよ。
 
みんな陰の中で暮らしているから、光(本来のもっとまともな姿)を忘れてしまったから、陰に覆われていることに気づかない。
 
 
(まだ続きます、すみません)
 
 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2

ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。

プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。

官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。

試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。

外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。

トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。

でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。

哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
 
要は、人間が育たない。

人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。



そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。

でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。

そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。


と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。

本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。

だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。

大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。

できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、

その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。

職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。

だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。

どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。



リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1


この冬は何本か(だけ)TVドラマをフォローしました(日本を離れていたので全回見きれず・・TへT)。
 
その一つが、日曜劇場『御上先生』。

いろんなテーマが広く取り上げられていた。日本社会の闇、というより陰。見ようと思えば見えるのだけど、光が当たらず忘れられがちに。結果的に社会全体を覆う思考停止の一要因になってしまっている部分。
 
このドラマは、それぞれのテーマを「知ってもらう」ことを意図して作られたのだと感じた。答えを出すのではなく、問題を知ってもらって、それこそ「考えて」もらおうという。
裏口入学のラストエピソードは、ドラマであるがゆえの(こうしないと1クールにわたるドラマにならない)致し方ない設定でもあったんじゃないかな。本当に伝えたいことは、セリフで語らせていた(特に最終回)。

 
御上先生の言葉を受けて、こんなことを「考えて」みた――。
 
教科書検定問題は、古いテーマでもあり、最新のテーマでもある。家永教科書訴訟は60年代から(もう半世紀以上前だ。びっくり)から、奈良教育大付属小の授業問題まで(2024年3月、ちょうど一年前。もう陰になってしまっている)。

後者では、国語の書写で毛筆を使わなかったという程度のことで(他にも理由らしきものは言われているけれど)、学長・校長・教員らが懲戒処分に。
 
「二度と起こらないように厳しく監督していく」と奈良国立大学機構がコメント。

印象的なのは、このコメントだ。「何様?」と唖然とするほかない口ぶり。病的な上から目線。いうなれば、システム・ハラスメント。組織という体裁を使って、実は内部にいる人間の主観を判断基準として強要している姿だ。

ドラマの中で教科書検定制度を支える法的根拠(法律・省令)に触れていたけれど、実は法令の文言が問題を引き起こしている(法令を変えれば現場が変わる)とも言いきれない。

というのも、法令上の言葉は、解釈・運用次第で異なる意味を持つからだ。もし運用する人間の解釈(人生観・価値観・教育観)が変われば、現場のありようも大きく変わる。教育を阻害しているのは、実は人間だったりする。制度ではなく、人間が原因。意外と多い。

だから、あのテーマに関するもう一つのアプローチは、支配者目線で現場に干渉している「人間」そのものにスポットを当てることだ。どういう人物か、経歴、年齢も含めて。省、局、機構といった隠れ蓑の向こうに潜む、システム・ハラスメントを犯している人間のほうを見る。浮き彫りにする。

たとえば初等中等教育局内で教科書や授業内容をコントロールし、結果的に現場の意欲を削ぎ、疲弊させている人がいる。本人にその自覚はない。
 
たまにNHKなんかが教育問題をめぐって取材して、その肉声を拾っていたりする。びっくりするくらいに、上から目線で現場無視。日本の教育は(といいつつ本人は現場を見ていない)自分がその一存で決めていいといわんばかりの言い方をしていたりする。老害ならぬ官害。結局は、人間特有の慢が根本にある。
 
こういう人間に光を当てて、何を根拠にそのような判断をしているのか、その根拠(法令)は、そのような解釈しかできないのか、しっかり問い詰めていくという手もある。組織や立場の裏側に隠れたままにしないことだ。



個人的に想像したのは、御上先生が、実際の文科省に入ったとして、あれだけの思慮や感性を保ち続けられるかな・・というところ。

霞が関の職場はあんなに明るくきれいではないし、人間関係もあれほど風通しは良くない。ドラマでは癖のある人たちとして描かれている(ゆえにわかりやすい)けれど、実際は比べ物にならないくらいに、考えも表情も明かさない。人間の輪郭が曖昧。それでも自分の評価については内心すさまじく神経を使っている。結果的に、周囲への同調を選んでしまって、最終的には、組織の論理を死守する官僚になっていく。

 
きわめて主観的な印象でしかないけれど、官僚(ごめんなさい、こうした言い方は好きではないのですが)の中には、プライド第一で、その上に仕事が乗っかっているという精神構造の人がいる。日本の教育を良くしよう、みたいな真っ当な動機をもって文科省に入る人は、決して多くはない。

というのも、国1(国家公務員総合職試験)においては、どうしても試験巧者が上位に来る。試験巧者が最も多く集まるのが、東大(国1試験合格者数は今もトップらしい)。

その東大に入るために、少なからぬ学生は、中・高、さらにその前にもさかのぼって、筆記試験用のトレーニング(いわゆる勉強)をしてきている。

試験慣れした猛者・強者は、あのドラマに出てくる学生たちのような人間味はない(こういう言い方も申しわけないのだけれど)。

幼い頃から「東大しかない」みたいな刷り込みをされてきた学生も少なくない。学校の勉強なんか手段でしかなくて、手段として役に立たないと判断すれば、内職したり休んだり。先生が何を感じるかなんて考えない。もし御上先生みたいな人が大事なことを語っても、冷めた目線で内職し続ける、みたいな学生もいる(あのドラマの中にも、実はいたのかもしれない)。

考えるとか悩むとか支え合うとか、そういう人間的な部分は一切捨てたサイボーグみたいなメンタル。勉強以外は「役に立たない」から目を向けない。受験に役に立つかどうかという物差しだけで日常を切り分ける「合理性の塊」みたいな人間。

試験というのは、点さえ取れれば評価されてしまうのだから、点を取れる勉強に特化できる人間が、どうしても強くなる。上に行きやすくなる。

徹底して無駄を排し、学校の授業や人間関係は最小限に抑えて、内心は自分のプライド死守と東大合格という目標だけをターゲットに、冷徹に、緻密に、虎視眈々と、さまざまな計算をめぐらせて、優等生としての自分を維持し続ける。

哀しいかな、そうした人が東大に進み、国1に受かり、いわゆる「官僚」になっていく。


御上先生は、そういうプライドのせめぎあいの世界を生き抜いてきた人。殺伐とした現実を見据えつつも、過去の体験や心情や今なお続く苦悩の種(自死した兄や母親のこと)を脳裏に抱えて、官僚の世界を生き延びてきた人。

そういう人も実際にいるかもしれない・・いるのかな。でもあの世界は(進学校も東大も官僚の世界も)、少しでも人間味を残していると、それが隙(甘さ)となって遅れを取る、取り残される、見下される。そんな世界だから。

試験制度というシステムが変わらない限り、試験に勝てる(いい点を取る)という戦略(いわば頭脳と時間の重点配分)が正解になる。その戦略を守り抜くことで、プライドの奪い合い、自尊心のサバイバルゲームを生き残れる・・その可能性が生まれる。

「死ぬ」のはイヤ。つまり落ちこぼれること、劣後すること、見下されることはイヤ。自分はアタマがいいと言われたい、大学は絶対に東大でなくては許せない、そういう価値観に思考を占領されている。本当の考える頭、良心をみずから握り潰して、勉強マシーンと化す。

そういう人が、東大に行き、官僚をめざす。
 

さらにこの殺伐としたゲーム(心の殺し合いといってもいいのだけど)は、もう少し盤は広くて、アタマがいいという承認を勝ち得るために試験勉強に特化できる特殊技能の持ち主たちは、東大、中でも理Ⅲから医学部、文Ⅰから法学部、そして司法試験や国家公務員総合職(上級)試験の合格をめざす。
 
受けられる試験は全部受けて合格してから、一つのキャリアをやむなく選ぶ。やむなく、というのは、彼らにとっては、仕事の中味は大して興味がなく、本音は自分がどれだけ優秀か(試験巧者か)を証明し続けたいだけだから。

公務員試験をパスした学生は、プライド最優先で省庁を選ぶ。ひと昔前なら、大蔵、通産。今の財務、経産省。プライドを守るうえで最も確実、安全な省を選ぶ。

ドラマの中では、御上先生は試験を勝ち抜いてきたエリートとして描かれているけれど、東大卒の官僚の中で、文科省組は存在感は薄い(こうした表現が成り立ってしまうこと自体が悲しいけれど)。プライドを守り抜ける省と、負けを受け入れて入る省庁とがある。かつてはあった。
 
今はどうかな・・大学受験までの教育環境がさほど変わっていないなら、中高時代に身に着ける価値観も、プライドを守るための戦略も、ほとんど変わっていないはずだから、東大に入った後のキャリア選択の基準も、おそらく大して変わっていない。

今は上級職の人気にも陰りが出ているとは聞くけれど、ただそれも、東大に入って、次はどんな職業なら自分のプライドを守れるか、という打算計算の基準が揺らぎつつあるという程度のこと。

「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
 
ドラマの中では、御上先生はトップエリート。でも、実際の闇、いや陰、というか今の試験制度の硬直はもっとどうしようもなくて、御上先生さえセカンド、サードのポジションかもしれないということ。東大生としても、官僚としても。
 

(長くてすみません、続きます)

 

 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月

 

 

ある先生に向けて

 

拝復 ご連絡ありがとうございます。

残念でしたね・・でも学校という場所については、過去にも似たような展開になったことがあります^^。なので織り込み済みです

「宗教家」「公平」というのも、実にしょうもない(中身を見抜くだけの思考力がないきわめて日本人的な)言葉です。

日本社会というのは、本質を見抜く知力が育っておらず、表面的な言葉と同調と(いざ何かあったら・・という)責任回避が先立ってしまう傾向にあります。

その中に収まっていられる人間にとっては居心地がいいのですが、少しでも「思考を迫る(迫られる)」動きがあると、知力が育っていない大人たちは途端にフリーズしてしまうのです。

(過去、校長先生に何人か出会いましたが、今回と同じような展開をたどりました。先生の方は乗り気なのに、別の思惑に簡単に乗っ取られてしまって、考えない・動かない・何もしないことによる安全を選んでしまうのです。)


子供たち(中高生)は、そうした大人たちのしょうもなさ(無思考:何も見えていない・考えていない姿)と、そうした大人たちが足を引っ張り続ける日本という社会に、いろんなモヤモヤ(違和感、失望、懐疑、憤懣、無力感)を抱えていたりします。

でも今の子は賢くて、言っても伝わらないとわかっているので、大人・先生たちの前では、通用する顔・言葉しか伝えていません。反発も主張もしない。いい子を演じるか、不意に消えるか。もちろんそこまで違和感を覚えることなく、純粋に学校を楽しんでいる子供たちも多いでしょうが。


子供たちの本音を引き出し、本当の思考を刺激できる「抉る」言葉を、大人たちが持っていないのですよ。自分たちが考えていないから。考えてこなかったから。


考える力をある程度お持ちの先生たちは、そうした学校のしょうもなさ(現実)を織り込んだうえで、周りの大人・先生たちとはちょっと違った角度から子供たちと関わっていく可能性を探る必要があるように思います。

「見えてはいるけど、とらわれない。自分にできる範囲で子供たちの本当の思考を引き出す(引き出せるような問いかけ・働きかけをする)」というスタンスです。


この場所(興道の里)には、小・中・高の先生方もおります。

みなさん、日頃の持ち場にはないもの(本質を見抜く知力とそれを伝える言葉)を期待して、ここに来てくださっている様子です。


大人より、未来が見える子供たちの方が、生き物としてははるかに優れているし、大切な存在です。

人を育てる仕事ほど価値ある生き方はないと言っても過言ではありません。

その価値が見える大人であることが、人間として最低限の務めであろうと私は思っています。

見えなくなったら、ある意味終わり。老いたということです。


ひきつづき進んでまいりましょう
草薙龍瞬



2025年2月


親としての自分を卒業した後は


子供を育てる幸せ・喜びを体験できた人は、ラッキーです。

子供は親を求めてくれるし、素直だし。愛おしいものですよね。

そういう体験を過去にできたなら、その思い出を大事に取っておきたいものです。人生で一番幸せだった時期のことを(そうではなかった人もたくさんいます。だから子育てが幸せだったという人は、すごく幸運なのです)。

子供はすぐに大きくなるし、大人になった子供は、もはや別人。そりゃ仕方ありませんよね。幼い子供のまま、いてくれるはずはなく。

あの頃の子供と、今の子供とは、まったくの別人。遠い昔の話。でも確かにあったこと。

遠い昔を愛おしみながら、大人になった子供と向き合うことができれば、親としての愛情を保てることになります。

でも昔のことを今に持ち込むことで、相手(子供)に執着したり、今の関係性に物足りなさやさみしさを感じてしまうとしたら、それはやはり過剰な妄想であって、

そういうさびしんぼな自分に気づいたら、少しガマンして、自分の物事に戻る・・というのが、親としてのマナーなのかもしれません。



「親としての自分」は、もちろん死を迎えます。いつか卒業。親の方で卒業するか、子供の方で求めなくなったら、その時点でいったん終了ということになるのでしょう。

ただ、これは「役割としての自分」の終焉であって、あるのが当然というか、自然です。

仕事をしている自分も、妻・夫としての自分も、すべての役割は、変化するし、終わりもする。

いろんな役割が自分を作っているけれど、その役割は、細胞のように新陳代謝して入れ替わる。

ひとつの役割が終わるとしても、全体としての自分は最後まで続く。新しい役割を引き受けるか、新しい喜びを見つけるか。

自分がどのように変わっていくか、入れ替わっていくか、そういうこともかけがえのない体験として、最後までよく味わって、体験しつくす。

きっとそれが人間としての自分にできること。


役割に執着せず、新しい今を生きる。


それがひとつの答えなのかもしれません。



2025・1・10




子育てが難しくなる理由


教育、勉強、学び、子育て・・いろんな言い方が可能ですが、はたして自分に務まるのかどうか。そうしたためらいは、きっと多くの親や先生もお感じになっている(感じたことがある)かもしれません。

ここはいくつかに分けて考えてみることにします。知識、スキル(知的能力およびその伝え方)、そして大人の側の「自分にとって」。


学びには、一定レベルの知識とスキルが必要になるはず。誰でも教える・伝えることができるというわけではなく。

 

(※ちなみに私の場合は、十代の人たちと関わり、伝えた体験から、もう二十年くらい経っているので、もちろん大幅なブラッシュアップが必要にはなりますが、

それでも今の中高生が使っている本を眺めると、正直、学びの本質はほとんど変わっていなくて、しかもその本質さえ見えていないらしいことも見えてくるので、

スキル(生徒にとっては学ぶ、先生にとっては伝える技術)については、おそらく今も十分に通用するような気もします。

知識については、忘れてしまった部分が多いので、子供たちにスキルを伝えつつ、自分も知識を吸収していくことになりますが、そのことで、子供たちにとってのリアルな「覚える」体験を自分も共有できるので、これまたみんな(子供たち)との接点を増やすという意味で楽しめるように思います。)


知識・スキル以外に大人(親・教師)が伝えるべきは、「自分にとって」。生き方や価値観や感性。何に価値を見るか、どんなことに喜びや美しさを感じるか。

いわば、一人の大人として何についてどう思うかという、人間的な部分です。感じ方、考え方、受け止め方、割り切り方、流し方・・のようなもの。

この部分は、知識やスキルと違って、正解はありません。一人の人間として「わたしはこう考える、こう感じる」というところを、そのまま表現するだけでよいのです。


おそらく子育て・教育が苦手・難しいと感じる大人の中には、伝える・教えることが、何か特殊な能力や一定レベルの研鑽が必要で、

それは自分以外の誰かが知っていて、自分は何もわかっていない、

では正解は何か、他の人は何と言っているか、何を教えているか、隣近所は、学校は、塾の先生は、教育の専門家は・・

と周りの様子をうかがってしまうところがあるのかもしれません。

でも、そうじゃないのです。それは、知識・スキルの話。「自分にとって」については、「自分のままでいる」ことが、そのまま伝える・育てることになるのです。

それは、親ならば誰もが自然にやっていいこと。

親が、人間として、どのように感じて、何を価値とするか、人としての思いをそのまま伝えるだけでいい。

知識やスキルが求められる学校や塾の先生も、この点は同じです。知識・スキルのほかに、5分、10分でいいから、世間の話題について自分はどう考えるとか、何かを一緒に見たときに、この部分がこんな風に好きだとか、好きじゃないとか、素直に語るだけでいいのです。

まずは、自分のままでいること。「自分にとって」を伝えること。それが大人が子供に伝えられる最初のこと。

その言葉や姿を見て、子供は、「そういう感じ方・考え方もあるんだ」と学習できるし、それを吸収することも、自分とは違うものとして流す(ときに反発する)ことも可能になります。

大人が一番やってはいけないことは、自分を伝えないこと。伝えることを控えてしまうこと。そうして、ご近所、他の先生、世間、風潮、専門家、インフルエンサー、文科省といった他人に「正解」を委ねてしまうことです。

広い意味で、これも思考停止。子育て・教育がつまらなくなる元凶の一つ。

 

子と関わる大人というのは、自分のままでいることが大切なのです。

自分を大事にすること。自分をそのまま伝えてみること。それが正解。

間違ったときは素直に訂正して謝ればいいし、価値あると思うことは素直に伝えて、どう受け止めるか、どのように吸収するかは、子に任せる。

「私にとっては、こうなんだよ(こう感じる、こう考える)」を伝えることが、子育て・教育の第一歩です。これ、どれほど大事なことか。
 

冬の到来ひとつも、子供たちにとっては学びの対象になる。灯油ストーブの「ボッ」でさえ至福の瞬間になりうるし、冠雪した富士山を眺めることも、豪雪の中で歩くことも、もちろん度が過ぎれば困難になってしまうけれども、美しさとして感じ取ることはできるかもしれない。

そうした幸せや美しさを、日常会話の中でさりげなく共有することも、子育て・教育の内。どこかに出かけるとか、少し凝るなら、映画とか小説とか、俳句、短歌、詩、絵画など、いろんな表現を通して、冬を、もっと深く鮮烈に感じ取ることも可能になる。

先生であれば、「冬について」というテーマで、国語や社会(地理・経済)や理科(化学も物理学も可)の教材を作ってもいい。


日頃自分が感じたり考えたりすることが、少し工夫すれば、伝える・教える素材になる。大人の自分にとっても学びが増える。

子育て・教育というのは、子供を育てるだけでなく、自分も育ち、しかも育て合うという循環にもなる。

ならばやっぱりためらうことなく始めるべきだなあと思うのでした。最後は「私(龍瞬)にとって」の話。

さあ、始めるよ!

(草薙龍瞬『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)

 

 

2024年12月中旬

 

中学受験をする親と子のみなさんへ


なんだか中学受験が、日本の冬の風物詩っぽくなってきた感があります(けっしてプラスの価値があるとは思っていませんが)。

中学受験に向かう小学生というのは、まだ脳と心の発育段階においては、「思考」未満の「感覚、感情、そして反射神経レベルの段階」だと理解してください。

「思考」レベルの勉強・受験というのは、出題傾向や出題者の意図(問題の傾向や解法のコツ)まで見抜いて、手順を言語化できて、「これだけのことをやれば、これくらいの点数は取れる」という結果まで、ある程度計算できるレベルのことです。

難しいことに聞こえるかもしれませんが、大学を受験するくらいの年齢になれば、こうした思考レベルの勉強(いわゆる対策)はできるようになります(やろうと思うか、場当たり的な受験で終わらせるかは、本人次第ということになりますが)。

でも、小学生は、そこまで進んでいません。そうしたレベルにまで進ませていいかといえば、そうでもありません。

脳と体には、発達のためのプロセスがあるのです。まずは健康を保って、適度に運動して、適度に五官をつかって感覚を刺激して、喜怒哀楽の感情を味わって・・という。心の成長には、このひとつひとつの体験が欠かせないのです。

中学受験に飛びついてしまうと、このプロセスが阻害される可能性が出てきます。すると、中学以降に成長が止まります。あるいは反射神経の延長として勉強し続けて、伸び悩むか、感情が育たず喜びのない(たまにサイコパス的な)大人になる可能性もなくはありません。

そうした状態でも大学受験程度のことなら(←それほどレベルは高くないという意味を含んでいます)、できてしまえる人もいます。狭い日本社会なら、いい大学に入った優等生と思ってもらえるかもしれません。

ただ、それは知的能力をフルに伸ばした成果とはいえないものがあります。


要するに、お伝えしたいことは、中学受験というものを過大視しないこと、入れ込みすぎないほうがいいですよ、ということです。

ほとんどの小学生にとって、中学受験というのは、やりたいことの範疇に入ってきません。いつのまにか放り込まれていた程度のものではないでしょうか(大人が、社会が、そういう制度を押しつけてきたから、なんとなく引き受けた程度のもの)。

そこでやる勉強は、まだ言語能力・思考力が育ちきっていない状態でさせられるものなので、本当はよくわかっていないのです。それでもできちゃえる(できるように見える)子はいるので、中学受験そして進学指導というのが成り立ってしまうわけなのですが。

わかっていないうちに巻き込まれて、みんなが受験、受験と言い始めて、塾の先生も親もなぜかそれしかないというような熱病モードに入ってしまっている。もちろん子供には、他に居場所なんてないから、その場所に留まろうとするし、受験もするかもしれませんが、

多くの子にとって、中学受験は、よくわからないままやってきて、わからないままに終わる(でも合格・不合格の結果は当然出てくる)。そういうものではないでしょうか。


よくわからないものに過剰な価値を見出すのは、明らかに間違いです。大人(親や塾の先生)は、こういう無神経なことを平気でやってしまいます。

よくわからないけれど、合格できなかった――その事実は子の心を傷つけます。「あんなに頑張ってくれたお母さん、お父さんに申しわけない」という後ろめたさも残ります。親ががっかりする姿(なんて身勝手な姿かと思いますが)を見て、子供はいっそう傷つきます。


中学受験のための勉強で身に着く程度の学力なら、正直、その後の六年間をちゃんと生かせば、十分身に着くものです。

一番大事なことは、脳と体の成長を阻害しないこと――きちんと段階を経て育てていくことです。

多少の知識や技能や、思考力の基礎的なものは、教え方が上手であれば、中学受験でも身に着けることは可能です。「その限りでは」意味を持ちますが、

わかっておいてほしいのは、親や先生たち(煩悩にまみれた)大人が思うような「勉強」は、まだ小学生の子供には無理(器としての脳に入らない)ということです。

大人が考えている「勉強」と、小学生の子供に見えるものは、違うということ。塾の授業も教材もです。

大人がやってしまう間違いは、子供の心に入るもの、必要なものをすっかり忘れて(というか自分自身も身につかないまま終わってしまって)、

大人になった自分がかき集めてきた、あるいは外からどんどん放り込まれてくる、受験とは、勉強とは、成績とは、お友達のあの子は何点、塾からこんな連絡が来た、受かったら見栄を張れる、落ちたら恥ずかしい、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら・・・というゴミのような妄想に支配されて、

親である自分がアップアップというか、舞い上がったり落ちこんだりと、自分の物事以上に中学受験を巨大視してしまって、結果的に子供に自分の体重分のプレッシャーを上乗せしてしまっているという状態です。

自分だってわかっていないことを、自分だってしなかったことを、自分だって今になってもできないかもしれないことを、

子供が何も言わない、まだ素直に言うことを聞くことを利用して、つけこんで、やらせようとしていませんか?

子供のことより、まずは自分がどれだけ妄想でヒートアップしてしまっているかに気づいてください。頭を冷やすこと。


まだ思考力が発達途上の子にとっては、中学受験は「おみくじ」に近いと思っておくほうがよいと思います。

受かればラッキーだけど、そうでなくても大したことはない。未来なんて、体験してみないとわからない。今、親である人が思っているような妄想(期待や予想)とは違う未来が待っている。その未来は、中学受験に受かっても受からなくても来る。いい未来にすることも可能なのです。


中学受験をする子は、ここからの時間をどんな方針で過ごすかだけ、言葉にしておいてください。

「先につながる勉強」を今のうちにやっておく――それが基本です。

読み方・書き方・解き方を増やすという方針なら、受験勉強も無駄にはならないかと思います。

新しい言葉や知識を覚えることも、意味を持ちます。ただし「試験に出るかも」とか「落ちられない」といった切羽詰まった思いで覚え込むのではなく、

「大人になっても使えるように(誰かに話せる・モノの見方として役に立つ)」くらいの気持ちで落ち着いて、知って、覚えて、という時間を過ごすほうがよいかと思います。

「反射神経」でできてしまえる器用な子も、周りには当然います。でもそうした反射神経ぶりは、子供によって違うので、較べてもしようがないのです。

 大事なことは、自分にとってプラスが残るような体験をすること。

「プラスになるような学び方」こそが大事なのだという意識を持つことです。

親の側も、子供以上に深刻に考えないで、大人目線を崩さずに、頭の体操として問題を解いてみたり、自分も知らなかった知識を覚えたりする時間にしてしまうほうがよいように思います。

くれぐれも自分はただ心配する側(追い詰める側)に回って、勉強という孤独な時間に子供を追い詰めないことです。


中学受験程度の勉強は、あとでなんとでもなります。成長の阻害や心の傷として残らないように。

仮にうまくいかなかったとしても、そこで体験した読み方・書き方・解き方や知ったことは、後にも残る――そういう時間を過ごしてもらえたらと思います。



2024年12月中旬





親戚の子とどう向き合うか


親戚の子との向き合い方について

まずは一般論。相手を変えたい・影響を及ぼしたいと思う――

そんなとき、人は言葉か態度を使います。そうして及ぼす影響力のことを、広い意味で「権力」(パワー)と表現します。

これは物理的な暴力や、妄想の押しつけ(圧力)とは違うので、要注意。

自分の思いが届くかどうか。伝えることで、相手の考え方や振る舞いが変わるかどうか。

届く、変わるなら、権力(影響力)を持っている、と表現します。

人間関係、特に大人が子供に関わる場合は、はてどの範囲で、どの程度の権力(影響力)を、どうやって及ぼすか。及ぼしていいのか。

多くの場合、それがテーマになります(権力という表現はあまり穏やかではないけれど、社会学ではよく使われるし、思考を整理する記号としては役に立つので、今回はあえて使ってみます)。


たとえば、自分がおじさん・おばさんの場合。親戚の子供(甥・姪)が学校に行かないとか、ゲームばっかりやっているとか。

そばで見ている大人の自分としては、いいことだと思わない。本人の様子を見ても、決していい状態じゃないように思う。

でも、肝心のその子の親たちは、クセがあったり、無関心だったりと、子供たちになにもしようとしない。

なんか割り切れない、やきもきしてしまう。そんな状況にあるとしましょう。

そんなとき、心あるおじさん・おばさんとしての自分は、どうするか? 

結論からいうと、「自分に何ができるだろう?」と考えて、「使える範囲で上手に権力(持っているもの)を使う」ことになります。


子供に最も権力を持っているのは、親です。お金を出さない。真剣に叱る。あるいは、じっくり話を聞いて、考える時間を与えて、一定の時間が経った後に、何を体験したか、何を考えるか、今後どうするかを、よく聞いて、親の側の思いも伝える。

これはプラスになる権力の使い方。大事です。

親ならば、子供との距離は選べます。その選び方があまりに下手というか、考えていない親も多いことが、今の世の中の問題の一端でもあります。

他方、最も権力がないのが、公立校の先生や塾の教師かもしれません。子供への影響力が限られている。学校の先生なら業務に追われてそもそも一人一人の生徒をフォローする余裕がなかったり、制約が多すぎたりする(義務教育というイケスの中でしか動けない)。塾なら、生徒はお客さん。辞められたら困るし。生徒からの評価・評判を落とせないし。

では、親戚の子を憂うおじさん・おばさんはどうか。

子供といい関係を築けているなら、会話の中で自分の思いを伝えることも可能です。だから、まずは子供との関係作りがテーマになります。

他方、それほどの関係が育っていない場合は? その場合は、自分が権力(影響力)を持てる範囲を確認することになります。


一番わかりやすい権力の発動どころは、お年玉・お小遣いをあげるとき。その時に話をするか、交換条件としてこちらの思いを伝えるか。

もちろんそれが届くかどうかは、子供次第。「うざい」と思われて終わるかもしれない。そうした関係性においては、権力はゼロということになる。

自分の直接の子供ではない子供に、自分の思いを伝えるには、それなりの関わりが育っていること、あるいは権力を持っている必要がある。

わかりやすい例を挙げれば、

「話ができない(伝わらない)なら、与えない」

「あれを頑張ったら、これをあげる」という権力。

わかりやすい。ドライすぎて戸惑う人もいるかもしれないけれど。

もし親戚の子供がゲームばっかりやっていて、はたから見てマズイなと思ったら、本人にどう思っているのか直接聞いてみることから始めて、「〇〇ができたら(努力できるなら)、おこづかい・お年玉をあげる」という話に持って行く。

達成できなければ、自分としては何もしない。与えない。それが自分にできる最低限の権力行使ということになる。



えてして親戚の子については、おじさん・おばさんは権力ゼロのことが多い。

特に、親がその子をスポイル(ダメに)している場合。無関心、甘やかし、将来について無計画。中には、子供には自分を越えてほしくない、自分の支配下に置いておきたいという、子供の足を引っ張る毒親(蜘蛛親と呼ぶべきか)も、たまにいる。

親がこういう人だと、子供は、社会も未来も人生も何もわからない段階で、「何をやってもいい」という状況に置かれてしまう。そこにスマホ、ゲームなどがあれば、あっという間に染まってしまう。「依存」レベルに達すれば、勉強どころではなく、学校にも行けなくなり、脳が、未来が、壊れる。

こういう親子・家庭も、今はものすごく増えている。


残念ながら、こうした家については、心あるおじさん・おばさんの権力はゼロ。ほぼ何もできません。

唯一の権力である(という言葉自体があまりにしょぼくて無粋で悲しいけれど)、お金(おこづかい・お年玉)さえ、親がザルなら、子供にあげても無意味。ドブに捨てるようなもの。

そのときは、いったん権力を行使しない――つまり何も与えず、何もしないことが唯一の正解になる。「本当に今のままでいいのかい?」と、ラストチャンスで声をかけるくらいは可能かもしれないけれど。

もし誰かが、中学生くらいの甥っ子・姪っ子におこづかいやら進学祝いやらのお金をあげてしまって、それをゲーム課金に使われてしまうようなことがあったら、

それは、その人が「負けた」ことを意味します。ムダなことをしてしまった。あるいは、唯一権力を行使できる機会をうまく活かせなかった。

本来は、自分の思いをその子に伝えて、せめて交換条件を提示する。そこまでが自分にできること。

伝わらない、聞かない、交換条件を受け入れない――というなら、権力を行使しない。与えない。

自分にできるのは、そこまでです。

親であれ、先生であれ、その他の大人であれ、自分の手が届く(影響力を行使できる)範囲で、適切に権力(いい意味ですよ)を使う訓練を積むことです。

気兼ねしたり、言葉が出なかったり、相手のご機嫌をうかがったりして、権力をうまく使い損ねた時は、自分の負け。まだまだ力不足(智慧と覚悟が足りない)ということです。

子供になくて、大人にあるのは、体力だったり、言葉だったり、お金だったり、智慧だったり、体験だったりします。いろんな権力の源泉がある。うまく使えば、プラスの影響力を行使できる。

それをうまく使える大人を目指すこと。


力が及ばないことには、ヤキモキしない。相手と自分は違う人間なのだから。妄想を広げない。

でも力を及ぼせる限りは、子供の状況を理解し、将来のことも想像して、どうしたいのか、どうするつもりなのか、このままでいいのか、

子供の立場に立って、子供自身にまだ見えていない部分のことも考えながら、


でも押しつけるのではなく、理解者であろうと意識して、なおかつ毅然と向き合う――という自分をめざすことになります。


大人が子供に向ける思いには、執着も、慈しみも、慢も、妄想も、混じるものです。距離が近い関係性なら、なおさらです。大人の側の思いをきれいに区別する必要はないし、できない可能性のほうが高いものです。

むしろ、自分が権力を行使できる範囲--まだ言葉が届く、影響力を及ぼせる範囲を明確にして、

そうした範囲(立場)に自分がまだいる間に、

自分なりのベストを尽くす――子供の将来にとって何が価値あることかについて、自分なりに答えを出す、伝わる範囲で伝えようと努力する。

大人として関わることは、その繰り返しであり、それだけでよいのだろうと思います。

イラスト満載の『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書から

 


2024年11月下旬



志望校が決まったら(勉強編)


考えてみたら、学校の勉強を真面目にやれば志望校に近づける・・というノー天気な発想を持っている中高生は、今の時代も多いのかもしれません。

そういう人たちは、2、3年生になって、そろそろ受験だ~という周囲の雰囲気を感じてようやく「勉強しなきゃ」という気になって、

塾や予備校に通うのだけど、結局ゴールを見ていないから、真面目に通うしお金もかけるのだけど、「見切った」(これをやれば受かるという見きわめ)レベルに到達する前に、受験本番を迎えて、

運が良ければ受かるし、運が悪ければ落ちる――「やったー」(前者)「残念だったね」(後者)という感想をもって、それぞれの進路に進んでいく・・というパターンが多い気がします。

こういうのは、「通過儀礼」としての受験であって、「狙って確実に突破する」受験とは違います。

正直、もったいないと思います。そもそも学校と受験は、まったく別の世界だから。二つは連続していない。受験は独自の世界。学校の勉強とは別物。



今考えてみると(記憶を検索・・・)、超進学校の勉強が得意な生徒は、学校の勉強はほどほどで、受験を見据えた勉強は、別のところでしっかり、ちゃっかり、ひっそりやっていたように思います。

彼らはどこか余裕こいてる(笑)。学校の勉強はそこそこ、ほどほど。遊んでいるように見えなくもない(これは地方の進学校より、都会の超進学校に顕著。彼らは受験とはどういうものかが、肌感覚でわかっている・・情報格差か。うーむ)。

でも押さえるべきはしっかり押さえていて、受験直前になってスパートかける。競馬でいう「まくる」感じ? で、あっさり合格していく。なんか憎たらしい(笑)。

冷静に分析すると、彼らは受験を先取りしていたから、そういうことができるのだと思う。中学生だからといって、中学の教科書や参考書を使ったりしない。先取りして、高校の参考書を使っていたりする。高校になったら、大学受験参考書。浪人生が使うのと同じ本。



数Ⅰ・数Ⅱみたいな不自然な分類が、数学の世界にないことも知っていた。彼らは「ベクトル」とか「代数」とか、そういう体系別の(先取りした)本を使っていた。

「難しそう」と思うのは、学校の勉強というトリック・罠にかかっているから。実は先取りしたほうが、よくわかる。そういうもの。

受験は、下から(学生や学校の先生から)見れば「受験」なのだけど、出題する大学の先生から見れば、ふだんやっている「学問の棚卸」(たなおろし)みたいなもの。日頃やっている研究や関心を「問題」という形に変えて、受験生向けに聞いている。

だから受験の成功を決めるのは、終わりから、ゴールから、上から見ること。

英語も国語も歴史や自然科学や数学も、「学年」「学校」という不自然な枠を取っ払ってみたら、それぞれの科目・分野を貫く手順や知識というものがある。
 

※ちなみに昔、私がやっていた寺子屋では、中2男子が東大の現代文をフツーに解いて正解を出していた。特に優等生というわけでもないフツーの子。ある程度文章を読める力があれば、あとは「論理的な読み方」をマネれば、学年を問わず問題は解けるということ。共通一次も二次も同じ。

どの科目にも、学年を越えた「本質」とでもいえるものがある。その一端が試されるのが、入試。というか前者が本質であって、後者(入試)は人為的・制度的な区切りでしかない。

本質部分は変わらない。入試制度がどんな改正・改悪を重ねようと、学ぶべき本当の対象は「本質」部分だ。

本質は、目先の勉強ではなく、目線を上げて、もっと先のゴールを見据えた方が、よく見える。

入試は、「下から」見上げずに、「上から」見下ろしてしまうこと。先取りしちゃう。中学生・高校生なら、大学受験用の参考書や問題集を使いつつ、「上から目線で」学校の勉強にも「お付き合いしてあげる」w。



「難しそう」と思わないでほしい。先取りするという発想が身に着けば、学校の勉強は簡単に見えてくる。簡単に見えるような勉強の仕方を始めよう。

他にもいくらでもアドバイスはできる。来年夏には寺子屋が完成するから、最初は志望校が決まった中高生相手に、とっておきの受験指南、いわば秘儀を伝授しようかと勝手に思っていますw。



2024年11月下旬



学校に行きたくないという君へ

 ※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

勉強は、いつでもどこでも自分でもできます^ ^。自分が強くなる必要があるけれど。
 

学校は、たしかにしんどい場所かもしれません。休んでみるのも経験のうちかもしれない^ ^。

(休んでいる間に自分が何を感じるか何をするか、よく観察して、しばらくしてから自分で検証する=どんな意味があったか考える といいかもしれない。)

その間、親は学校の先生に相談してみるとか(学校の対応次第で、どんな学校かわかるから)。

学校は通過点に過ぎないから、もしほんとに苦しいと思うなら、休むのはアリかなと思います。

学校という場所は小さいし、そこで会う人たちは、生徒も先生も含めて、もっと小さい。

一人でクラスにいることが可能なら、行ってみる(周りの様子を見る)のもいいかもしれない(友だち付き合いはあってもなくてもいい、それくらいの話^ ^)。

苦痛でたまらないなら、休んでみるのもいいかもしれない。


ただ、勉強と、高校と、未来にどこかに居場所を見つける(将来の仕事も含めて)ことは、大事にするほうがよいと思います。

それができるなら、場所を選ぶ(学校に行き続けるか休んでみるかも含めて)ことは、自分の選択。

ただし、未来も自分で選択することになるから、しっかり自分で考えて、一つひとつ答えを出していくことかなと思います^ ^。


なんとかなるものです。

とりあえず体験してみるということでよいのかもしれません^ ^


2024年10月末




子供と過ごす先生に向けて

 

幼い子の心情は、大人にうかがい知れないところもあるので、過剰な心配から入らない方がいいかもしれません(特に遅い時間帯は、母親に早く会いたいとか、疲れているとか、いろんな理由がありうるので)。

何をして過ごすかは、大人に決められるものでもなくて、子供が何をしたいかによります。正解はナシ。

夕方以降は園児の数も減るでしょうから、その時間は、その子と先生だけの時間。さて、何をしようか。2人きりなら、2人きりだからこそできることもあるかもしれません。


自分自身が、親に先回りされて、干渉されたり、圧力を受けたり、ダメ出しされたりした体験があると(子供がぐずぐずしていると叱るのも、親が都合のいい妄想だけを見ているからですが)、

子供の心がどっちに転がるかを見守る(子供が何を見つけるかを見ること自体を楽しむ)という心の余裕が持てなくなります。そういう背景もあるかもしれません。


どんな子供も、その子だけに向き合える時間は、貴重だし、楽しいものでは? 何が園児との時間を作る「回路」になるかは、わかりません。それを探ることが楽しいことなのかもと思います。

一緒にいられる時間を楽しむことが、人間・子供相手の仕事の最初かも。シンプルでいいのかもしれません。




大人たちにできること

2024年8月11日(日)

これからの生き方・働き方を考える~大人のための勉強会 東京


(あるお父さんへの返信から)

 おたよりありがとうございます。いろんなテーマを含んだ内容で、思考の枝葉が広がりました。

実用性重視の高校がもっと増えたら、たしかに社会の可能性も広がるだろうと思います。特に私学や通信制などになるのでしょうか、教育方針に個性を出せるのは。

意欲と適正を大事にして、できるかぎり早期に体験、学習、自立できるようにして。

実用レベルに到達すれば、その時点で就職・起業できるようにするとか。

それで収入・待遇・立場が約束されるなら、形骸化した大学なんか行かなくていいと思う人が増えるかも。




その一方で、「ステイタスとしての大学」が堅固なエスタブリッシュメントとして存在し続けるだろうとも、思わなくもなく。

というのも、個人的な感想になってしまいますが、最近、〇大の教育環境について、ちらりとのぞく機会があったのです。

その時に感じたのは、やっぱり凄まじい学歴志向。学生たちは、「自分たちは優等生、選び抜かれた秀才」みたいな自意識をむき出しにしていて(若いからそう見えるのかもしれないし、承認欲全盛の世相の影響もあるかもしれないけれど)、

しかも学長・教授陣が、輪をかけて「この場所は特別」みたいな高踏的雰囲気を醸し出していて。

一番変わっていなかったのは、大学であり、教授だったのです。

大学の内部にいる彼らこそが、大学も、教育も、社会も変わらなくていい、と思い込んでいるように見えたのでした。


彼らの意識が変わらないということは、入試制度も変わらないということです。入試科目・選抜方法・・。

大学入試が変わらなければ、それを目標に指導する学校の先生の意識や、中学・高校の科目編成・内容、受験産業も変わらないでしょう。

現時点では、大学、高校、中学、塾に予備校、子供の受験に熱を上げる大人たちは、有名大学を頂点とするヒエラルキーの構成員(サポーター)であり、一蓮托生なのだと思わなくもありません。

そして教育内容の全体に枷(かせ)をはめている文科省も。

時代は変わっているし、もっと変わっていいし、変わるべきなのだけど、変えたくない大人たちが、この分野でも堅固なサークル(共同体)を作っているのだと思います。



エスタブリッシュメントは自己変革ができないから、社会を変えていくのは、先進的な一部の教育の場かもしれないとは思います。

そういう場所に頑張ってもらって、社会に通用する人材として、大学を無意味化するくらいに活躍してもらって、「大学に行くより、こういうルートのほうが豊かになれる」という価値観が社会に広がってくれれば、

そのぶん社会の活気や可能性は増える気もします。あくまで理想論であって、現実はかなり難しいのかもしれないけれど。


変わらぬ場所・人間は、変わらない・・百年経っても、千年が過ぎても。

だからこそ、自分にできる範囲で変えていくことが基本になりそうです。


親(お父さん・お母さん)が意識を変える。

その姿に感化・影響されて、子供が変わる。

そして、子供が自分で選んだ価値観のもとに人生をまっとうする。


その一直線を伸ばしていくことが、志ある親たちの務めのように思います。


ちなみにこの場所が計画しているのは、小学高学年向けの学びです。

この年頃は、人生の原点を作る大事な時期なので。この時期に本当の学びを体験してもらいたい。できあがった教育制度に縛りつけられる前が勝負・・そんな思いで計画中です。


大人・先生の影響力は大きいものです。

子供と距離が近い大人は、「世の中を変える」力を、実は持っているのですよ。

志ある大人、特にお父さん・お母さんは、子供たちと関わる活動を始めてはどうでしょうか。活動の中味はなんでもよいので。

とにかく関わって、聞いて、伝えることです。

教育の原点。社会を変えるための間違いない方法です。

 

 

 2024年8月初旬

 

 

今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

※来年から寺子屋を始めるので、ときおりこのサイトで最新情報をチェックしてください。個別の感想・おたよりも受け付けています。