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子育てが難しくなる理由


教育、勉強、学び、子育て・・いろんな言い方が可能ですが、はたして自分に務まるのかどうか。そうしたためらいは、きっと多くの親や先生もお感じになっている(感じたことがある)かもしれません。

ここはいくつかに分けて考えてみることにします。知識、スキル(知的能力およびその伝え方)、そして大人の側の「自分にとって」。


学びには、一定レベルの知識とスキルが必要になるはず。誰でも教える・伝えることができるというわけではなく。

 

(※ちなみに私の場合は、十代の人たちと関わり、伝えた体験から、もう二十年くらい経っているので、もちろん大幅なブラッシュアップが必要にはなりますが、

それでも今の中高生が使っている本を眺めると、正直、学びの本質はほとんど変わっていなくて、しかもその本質さえ見えていないらしいことも見えてくるので、

スキル(生徒にとっては学ぶ、先生にとっては伝える技術)については、おそらく今も十分に通用するような気もします。

知識については、忘れてしまった部分が多いので、子供たちにスキルを伝えつつ、自分も知識を吸収していくことになりますが、そのことで、子供たちにとってのリアルな「覚える」体験を自分も共有できるので、これまたみんな(子供たち)との接点を増やすという意味で楽しめるように思います。)


知識・スキル以外に大人(親・教師)が伝えるべきは、「自分にとって」。生き方や価値観や感性。何に価値を見るか、どんなことに喜びや美しさを感じるか。

いわば、一人の大人として何についてどう思うかという、人間的な部分です。感じ方、考え方、受け止め方、割り切り方、流し方・・のようなもの。

この部分は、知識やスキルと違って、正解はありません。一人の人間として「わたしはこう考える、こう感じる」というところを、そのまま表現するだけでよいのです。


おそらく子育て・教育が苦手・難しいと感じる大人の中には、伝える・教えることが、何か特殊な能力や一定レベルの研鑽が必要で、

それは自分以外の誰かが知っていて、自分は何もわかっていない、

では正解は何か、他の人は何と言っているか、何を教えているか、隣近所は、学校は、塾の先生は、教育の専門家は・・

と周りの様子をうかがってしまうところがあるのかもしれません。

でも、そうじゃないのです。それは、知識・スキルの話。「自分にとって」については、「自分のままでいる」ことが、そのまま伝える・育てることになるのです。

それは、親ならば誰もが自然にやっていいこと。

親が、人間として、どのように感じて、何を価値とするか、人としての思いをそのまま伝えるだけでいい。

知識やスキルが求められる学校や塾の先生も、この点は同じです。知識・スキルのほかに、5分、10分でいいから、世間の話題について自分はどう考えるとか、何かを一緒に見たときに、この部分がこんな風に好きだとか、好きじゃないとか、素直に語るだけでいいのです。

まずは、自分のままでいること。「自分にとって」を伝えること。それが大人が子供に伝えられる最初のこと。

その言葉や姿を見て、子供は、「そういう感じ方・考え方もあるんだ」と学習できるし、それを吸収することも、自分とは違うものとして流す(ときに反発する)ことも可能になります。

大人が一番やってはいけないことは、自分を伝えないこと。伝えることを控えてしまうこと。そうして、ご近所、他の先生、世間、風潮、専門家、インフルエンサー、文科省といった他人に「正解」を委ねてしまうことです。

広い意味で、これも思考停止。子育て・教育がつまらなくなる元凶の一つ。

 

子と関わる大人というのは、自分のままでいることが大切なのです。

自分を大事にすること。自分をそのまま伝えてみること。それが正解。

間違ったときは素直に訂正して謝ればいいし、価値あると思うことは素直に伝えて、どう受け止めるか、どのように吸収するかは、子に任せる。

「私にとっては、こうなんだよ(こう感じる、こう考える)」を伝えることが、子育て・教育の第一歩です。これ、どれほど大事なことか。
 

冬の到来ひとつも、子供たちにとっては学びの対象になる。灯油ストーブの「ボッ」でさえ至福の瞬間になりうるし、冠雪した富士山を眺めることも、豪雪の中で歩くことも、もちろん度が過ぎれば困難になってしまうけれども、美しさとして感じ取ることはできるかもしれない。

そうした幸せや美しさを、日常会話の中でさりげなく共有することも、子育て・教育の内。どこかに出かけるとか、少し凝るなら、映画とか小説とか、俳句、短歌、詩、絵画など、いろんな表現を通して、冬を、もっと深く鮮烈に感じ取ることも可能になる。

先生であれば、「冬について」というテーマで、国語や社会(地理・経済)や理科(化学も物理学も可)の教材を作ってもいい。


日頃自分が感じたり考えたりすることが、少し工夫すれば、伝える・教える素材になる。大人の自分にとっても学びが増える。

子育て・教育というのは、子供を育てるだけでなく、自分も育ち、しかも育て合うという循環にもなる。

ならばやっぱりためらうことなく始めるべきだなあと思うのでした。最後は「私(龍瞬)にとって」の話。

さあ、始めるよ!

(草薙龍瞬『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)

 

 

2024年12月中旬

 

中学受験をする親と子のみなさんへ


なんだか中学受験が、日本の冬の風物詩っぽくなってきた感があります(けっしてプラスの価値があるとは思っていませんが)。

中学受験に向かう小学生というのは、まだ脳と心の発育段階においては、「思考」未満の「感覚、感情、そして反射神経レベルの段階」だと理解してください。

「思考」レベルの勉強・受験というのは、出題傾向や出題者の意図(問題の傾向や解法のコツ)まで見抜いて、手順を言語化できて、「これだけのことをやれば、これくらいの点数は取れる」という結果まで、ある程度計算できるレベルのことです。

難しいことに聞こえるかもしれませんが、大学を受験するくらいの年齢になれば、こうした思考レベルの勉強(いわゆる対策)はできるようになります(やろうと思うか、場当たり的な受験で終わらせるかは、本人次第ということになりますが)。

でも、小学生は、そこまで進んでいません。そうしたレベルにまで進ませていいかといえば、そうでもありません。

脳と体には、発達のためのプロセスがあるのです。まずは健康を保って、適度に運動して、適度に五官をつかって感覚を刺激して、喜怒哀楽の感情を味わって・・という。心の成長には、このひとつひとつの体験が欠かせないのです。

中学受験に飛びついてしまうと、このプロセスが阻害される可能性が出てきます。すると、中学以降に成長が止まります。あるいは反射神経の延長として勉強し続けて、伸び悩むか、感情が育たず喜びのない(たまにサイコパス的な)大人になる可能性もなくはありません。

そうした状態でも大学受験程度のことなら(←それほどレベルは高くないという意味を含んでいます)、できてしまえる人もいます。狭い日本社会なら、いい大学に入った優等生と思ってもらえるかもしれません。

ただ、それは知的能力をフルに伸ばした成果とはいえないものがあります。


要するに、お伝えしたいことは、中学受験というものを過大視しないこと、入れ込みすぎないほうがいいですよ、ということです。

ほとんどの小学生にとって、中学受験というのは、やりたいことの範疇に入ってきません。いつのまにか放り込まれていた程度のものではないでしょうか(大人が、社会が、そういう制度を押しつけてきたから、なんとなく引き受けた程度のもの)。

そこでやる勉強は、まだ言語能力・思考力が育ちきっていない状態でさせられるものなので、本当はよくわかっていないのです。それでもできちゃえる(できるように見える)子はいるので、中学受験そして進学指導というのが成り立ってしまうわけなのですが。

わかっていないうちに巻き込まれて、みんなが受験、受験と言い始めて、塾の先生も親もなぜかそれしかないというような熱病モードに入ってしまっている。もちろん子供には、他に居場所なんてないから、その場所に留まろうとするし、受験もするかもしれませんが、

多くの子にとって、中学受験は、よくわからないままやってきて、わからないままに終わる(でも合格・不合格の結果は当然出てくる)。そういうものではないでしょうか。


よくわからないものに過剰な価値を見出すのは、明らかに間違いです。大人(親や塾の先生)は、こういう無神経なことを平気でやってしまいます。

よくわからないけれど、合格できなかった――その事実は子の心を傷つけます。「あんなに頑張ってくれたお母さん、お父さんに申しわけない」という後ろめたさも残ります。親ががっかりする姿(なんて身勝手な姿かと思いますが)を見て、子供はいっそう傷つきます。


中学受験のための勉強で身に着く程度の学力なら、正直、その後の六年間をちゃんと生かせば、十分身に着くものです。

一番大事なことは、脳と体の成長を阻害しないこと――きちんと段階を経て育てていくことです。

多少の知識や技能や、思考力の基礎的なものは、教え方が上手であれば、中学受験でも身に着けることは可能です。「その限りでは」意味を持ちますが、

わかっておいてほしいのは、親や先生たち(煩悩にまみれた)大人が思うような「勉強」は、まだ小学生の子供には無理(器としての脳に入らない)ということです。

大人が考えている「勉強」と、小学生の子供に見えるものは、違うということ。塾の授業も教材もです。

大人がやってしまう間違いは、子供の心に入るもの、必要なものをすっかり忘れて(というか自分自身も身につかないまま終わってしまって)、

大人になった自分がかき集めてきた、あるいは外からどんどん放り込まれてくる、受験とは、勉強とは、成績とは、お友達のあの子は何点、塾からこんな連絡が来た、受かったら見栄を張れる、落ちたら恥ずかしい、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら・・・というゴミのような妄想に支配されて、

親である自分がアップアップというか、舞い上がったり落ちこんだりと、自分の物事以上に中学受験を巨大視してしまって、結果的に子供に自分の体重分のプレッシャーを上乗せしてしまっているという状態です。

自分だってわかっていないことを、自分だってしなかったことを、自分だって今になってもできないかもしれないことを、

子供が何も言わない、まだ素直に言うことを聞くことを利用して、つけこんで、やらせようとしていませんか?

子供のことより、まずは自分がどれだけ妄想でヒートアップしてしまっているかに気づいてください。頭を冷やすこと。


まだ思考力が発達途上の子にとっては、中学受験は「おみくじ」に近いと思っておくほうがよいと思います。

受かればラッキーだけど、そうでなくても大したことはない。未来なんて、体験してみないとわからない。今、親である人が思っているような妄想(期待や予想)とは違う未来が待っている。その未来は、中学受験に受かっても受からなくても来る。いい未来にすることも可能なのです。


中学受験をする子は、ここからの時間をどんな方針で過ごすかだけ、言葉にしておいてください。

「先につながる勉強」を今のうちにやっておく――それが基本です。

読み方・書き方・解き方を増やすという方針なら、受験勉強も無駄にはならないかと思います。

新しい言葉や知識を覚えることも、意味を持ちます。ただし「試験に出るかも」とか「落ちられない」といった切羽詰まった思いで覚え込むのではなく、

「大人になっても使えるように(誰かに話せる・モノの見方として役に立つ)」くらいの気持ちで落ち着いて、知って、覚えて、という時間を過ごすほうがよいかと思います。

「反射神経」でできてしまえる器用な子も、周りには当然います。でもそうした反射神経ぶりは、子供によって違うので、較べてもしようがないのです。

 大事なことは、自分にとってプラスが残るような体験をすること。

「プラスになるような学び方」こそが大事なのだという意識を持つことです。

親の側も、子供以上に深刻に考えないで、大人目線を崩さずに、頭の体操として問題を解いてみたり、自分も知らなかった知識を覚えたりする時間にしてしまうほうがよいように思います。

くれぐれも自分はただ心配する側(追い詰める側)に回って、勉強という孤独な時間に子供を追い詰めないことです。


中学受験程度の勉強は、あとでなんとでもなります。成長の阻害や心の傷として残らないように。

仮にうまくいかなかったとしても、そこで体験した読み方・書き方・解き方や知ったことは、後にも残る――そういう時間を過ごしてもらえたらと思います。



2024年12月中旬





親戚の子とどう向き合うか


親戚の子との向き合い方について

まずは一般論。相手を変えたい・影響を及ぼしたいと思う――

そんなとき、人は言葉か態度を使います。そうして及ぼす影響力のことを、広い意味で「権力」(パワー)と表現します。

これは物理的な暴力や、妄想の押しつけ(圧力)とは違うので、要注意。

自分の思いが届くかどうか。伝えることで、相手の考え方や振る舞いが変わるかどうか。

届く、変わるなら、権力(影響力)を持っている、と表現します。

人間関係、特に大人が子供に関わる場合は、はてどの範囲で、どの程度の権力(影響力)を、どうやって及ぼすか。及ぼしていいのか。

多くの場合、それがテーマになります(権力という表現はあまり穏やかではないけれど、社会学ではよく使われるし、思考を整理する記号としては役に立つので、今回はあえて使ってみます)。


たとえば、自分がおじさん・おばさんの場合。親戚の子供(甥・姪)が学校に行かないとか、ゲームばっかりやっているとか。

そばで見ている大人の自分としては、いいことだと思わない。本人の様子を見ても、決していい状態じゃないように思う。

でも、肝心のその子の親たちは、クセがあったり、無関心だったりと、子供たちになにもしようとしない。

なんか割り切れない、やきもきしてしまう。そんな状況にあるとしましょう。

そんなとき、心あるおじさん・おばさんとしての自分は、どうするか? 

結論からいうと、「自分に何ができるだろう?」と考えて、「使える範囲で上手に権力(持っているもの)を使う」ことになります。


子供に最も権力を持っているのは、親です。お金を出さない。真剣に叱る。あるいは、じっくり話を聞いて、考える時間を与えて、一定の時間が経った後に、何を体験したか、何を考えるか、今後どうするかを、よく聞いて、親の側の思いも伝える。

これはプラスになる権力の使い方。大事です。

親ならば、子供との距離は選べます。その選び方があまりに下手というか、考えていない親も多いことが、今の世の中の問題の一端でもあります。

他方、最も権力がないのが、公立校の先生や塾の教師かもしれません。子供への影響力が限られている。学校の先生なら業務に追われてそもそも一人一人の生徒をフォローする余裕がなかったり、制約が多すぎたりする(義務教育というイケスの中でしか動けない)。塾なら、生徒はお客さん。辞められたら困るし。生徒からの評価・評判を落とせないし。

では、親戚の子を憂うおじさん・おばさんはどうか。

子供といい関係を築けているなら、会話の中で自分の思いを伝えることも可能です。だから、まずは子供との関係作りがテーマになります。

他方、それほどの関係が育っていない場合は? その場合は、自分が権力(影響力)を持てる範囲を確認することになります。


一番わかりやすい権力の発動どころは、お年玉・お小遣いをあげるとき。その時に話をするか、交換条件としてこちらの思いを伝えるか。

もちろんそれが届くかどうかは、子供次第。「うざい」と思われて終わるかもしれない。そうした関係性においては、権力はゼロということになる。

自分の直接の子供ではない子供に、自分の思いを伝えるには、それなりの関わりが育っていること、あるいは権力を持っている必要がある。

わかりやすい例を挙げれば、

「話ができない(伝わらない)なら、与えない」

「あれを頑張ったら、これをあげる」という権力。

わかりやすい。ドライすぎて戸惑う人もいるかもしれないけれど。

もし親戚の子供がゲームばっかりやっていて、はたから見てマズイなと思ったら、本人にどう思っているのか直接聞いてみることから始めて、「〇〇ができたら(努力できるなら)、おこづかい・お年玉をあげる」という話に持って行く。

達成できなければ、自分としては何もしない。与えない。それが自分にできる最低限の権力行使ということになる。



えてして親戚の子については、おじさん・おばさんは権力ゼロのことが多い。

特に、親がその子をスポイル(ダメに)している場合。無関心、甘やかし、将来について無計画。中には、子供には自分を越えてほしくない、自分の支配下に置いておきたいという、子供の足を引っ張る毒親(蜘蛛親と呼ぶべきか)も、たまにいる。

親がこういう人だと、子供は、社会も未来も人生も何もわからない段階で、「何をやってもいい」という状況に置かれてしまう。そこにスマホ、ゲームなどがあれば、あっという間に染まってしまう。「依存」レベルに達すれば、勉強どころではなく、学校にも行けなくなり、脳が、未来が、壊れる。

こういう親子・家庭も、今はものすごく増えている。


残念ながら、こうした家については、心あるおじさん・おばさんの権力はゼロ。ほぼ何もできません。

唯一の権力である(という言葉自体があまりにしょぼくて無粋で悲しいけれど)、お金(おこづかい・お年玉)さえ、親がザルなら、子供にあげても無意味。ドブに捨てるようなもの。

そのときは、いったん権力を行使しない――つまり何も与えず、何もしないことが唯一の正解になる。「本当に今のままでいいのかい?」と、ラストチャンスで声をかけるくらいは可能かもしれないけれど。

もし誰かが、中学生くらいの甥っ子・姪っ子におこづかいやら進学祝いやらのお金をあげてしまって、それをゲーム課金に使われてしまうようなことがあったら、

それは、その人が「負けた」ことを意味します。ムダなことをしてしまった。あるいは、唯一権力を行使できる機会をうまく活かせなかった。

本来は、自分の思いをその子に伝えて、せめて交換条件を提示する。そこまでが自分にできること。

伝わらない、聞かない、交換条件を受け入れない――というなら、権力を行使しない。与えない。

自分にできるのは、そこまでです。

親であれ、先生であれ、その他の大人であれ、自分の手が届く(影響力を行使できる)範囲で、適切に権力(いい意味ですよ)を使う訓練を積むことです。

気兼ねしたり、言葉が出なかったり、相手のご機嫌をうかがったりして、権力をうまく使い損ねた時は、自分の負け。まだまだ力不足(智慧と覚悟が足りない)ということです。

子供になくて、大人にあるのは、体力だったり、言葉だったり、お金だったり、智慧だったり、体験だったりします。いろんな権力の源泉がある。うまく使えば、プラスの影響力を行使できる。

それをうまく使える大人を目指すこと。


力が及ばないことには、ヤキモキしない。相手と自分は違う人間なのだから。妄想を広げない。

でも力を及ぼせる限りは、子供の状況を理解し、将来のことも想像して、どうしたいのか、どうするつもりなのか、このままでいいのか、

子供の立場に立って、子供自身にまだ見えていない部分のことも考えながら、


でも押しつけるのではなく、理解者であろうと意識して、なおかつ毅然と向き合う――という自分をめざすことになります。


大人が子供に向ける思いには、執着も、慈しみも、慢も、妄想も、混じるものです。距離が近い関係性なら、なおさらです。大人の側の思いをきれいに区別する必要はないし、できない可能性のほうが高いものです。

むしろ、自分が権力を行使できる範囲--まだ言葉が届く、影響力を及ぼせる範囲を明確にして、

そうした範囲(立場)に自分がまだいる間に、

自分なりのベストを尽くす――子供の将来にとって何が価値あることかについて、自分なりに答えを出す、伝わる範囲で伝えようと努力する。

大人として関わることは、その繰り返しであり、それだけでよいのだろうと思います。

イラスト満載の『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書から

 


2024年11月下旬



志望校が決まったら(勉強編)


考えてみたら、学校の勉強を真面目にやれば志望校に近づける・・というノー天気な発想を持っている中高生は、今の時代も多いのかもしれません。

そういう人たちは、2、3年生になって、そろそろ受験だ~という周囲の雰囲気を感じてようやく「勉強しなきゃ」という気になって、

塾や予備校に通うのだけど、結局ゴールを見ていないから、真面目に通うしお金もかけるのだけど、「見切った」(これをやれば受かるという見きわめ)レベルに到達する前に、受験本番を迎えて、

運が良ければ受かるし、運が悪ければ落ちる――「やったー」(前者)「残念だったね」(後者)という感想をもって、それぞれの進路に進んでいく・・というパターンが多い気がします。

こういうのは、「通過儀礼」としての受験であって、「狙って確実に突破する」受験とは違います。

正直、もったいないと思います。そもそも学校と受験は、まったく別の世界だから。二つは連続していない。受験は独自の世界。学校の勉強とは別物。



今考えてみると(記憶を検索・・・)、超進学校の勉強が得意な生徒は、学校の勉強はほどほどで、受験を見据えた勉強は、別のところでしっかり、ちゃっかり、ひっそりやっていたように思います。

彼らはどこか余裕こいてる(笑)。学校の勉強はそこそこ、ほどほど。遊んでいるように見えなくもない(これは地方の進学校より、都会の超進学校に顕著。彼らは受験とはどういうものかが、肌感覚でわかっている・・情報格差か。うーむ)。

でも押さえるべきはしっかり押さえていて、受験直前になってスパートかける。競馬でいう「まくる」感じ? で、あっさり合格していく。なんか憎たらしい(笑)。

冷静に分析すると、彼らは受験を先取りしていたから、そういうことができるのだと思う。中学生だからといって、中学の教科書や参考書を使ったりしない。先取りして、高校の参考書を使っていたりする。高校になったら、大学受験参考書。浪人生が使うのと同じ本。



数Ⅰ・数Ⅱみたいな不自然な分類が、数学の世界にないことも知っていた。彼らは「ベクトル」とか「代数」とか、そういう体系別の(先取りした)本を使っていた。

「難しそう」と思うのは、学校の勉強というトリック・罠にかかっているから。実は先取りしたほうが、よくわかる。そういうもの。

受験は、下から(学生や学校の先生から)見れば「受験」なのだけど、出題する大学の先生から見れば、ふだんやっている「学問の棚卸」(たなおろし)みたいなもの。日頃やっている研究や関心を「問題」という形に変えて、受験生向けに聞いている。

だから受験の成功を決めるのは、終わりから、ゴールから、上から見ること。

英語も国語も歴史や自然科学や数学も、「学年」「学校」という不自然な枠を取っ払ってみたら、それぞれの科目・分野を貫く手順や知識というものがある。
 

※ちなみに昔、私がやっていた寺子屋では、中2男子が東大の現代文をフツーに解いて正解を出していた。特に優等生というわけでもないフツーの子。ある程度文章を読める力があれば、あとは「論理的な読み方」をマネれば、学年を問わず問題は解けるということ。共通一次も二次も同じ。

どの科目にも、学年を越えた「本質」とでもいえるものがある。その一端が試されるのが、入試。というか前者が本質であって、後者(入試)は人為的・制度的な区切りでしかない。

本質部分は変わらない。入試制度がどんな改正・改悪を重ねようと、学ぶべき本当の対象は「本質」部分だ。

本質は、目先の勉強ではなく、目線を上げて、もっと先のゴールを見据えた方が、よく見える。

入試は、「下から」見上げずに、「上から」見下ろしてしまうこと。先取りしちゃう。中学生・高校生なら、大学受験用の参考書や問題集を使いつつ、「上から目線で」学校の勉強にも「お付き合いしてあげる」w。



「難しそう」と思わないでほしい。先取りするという発想が身に着けば、学校の勉強は簡単に見えてくる。簡単に見えるような勉強の仕方を始めよう。

他にもいくらでもアドバイスはできる。来年夏には寺子屋が完成するから、最初は志望校が決まった中高生相手に、とっておきの受験指南、いわば秘儀を伝授しようかと勝手に思っていますw。



2024年11月下旬



学校に行きたくないという君へ

 ※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

勉強は、いつでもどこでも自分でもできます^ ^。自分が強くなる必要があるけれど。
 

学校は、たしかにしんどい場所かもしれません。休んでみるのも経験のうちかもしれない^ ^。

(休んでいる間に自分が何を感じるか何をするか、よく観察して、しばらくしてから自分で検証する=どんな意味があったか考える といいかもしれない。)

その間、親は学校の先生に相談してみるとか(学校の対応次第で、どんな学校かわかるから)。

学校は通過点に過ぎないから、もしほんとに苦しいと思うなら、休むのはアリかなと思います。

学校という場所は小さいし、そこで会う人たちは、生徒も先生も含めて、もっと小さい。

一人でクラスにいることが可能なら、行ってみる(周りの様子を見る)のもいいかもしれない(友だち付き合いはあってもなくてもいい、それくらいの話^ ^)。

苦痛でたまらないなら、休んでみるのもいいかもしれない。


ただ、勉強と、高校と、未来にどこかに居場所を見つける(将来の仕事も含めて)ことは、大事にするほうがよいと思います。

それができるなら、場所を選ぶ(学校に行き続けるか休んでみるかも含めて)ことは、自分の選択。

ただし、未来も自分で選択することになるから、しっかり自分で考えて、一つひとつ答えを出していくことかなと思います^ ^。


なんとかなるものです。

とりあえず体験してみるということでよいのかもしれません^ ^


2024年10月末




子供と過ごす先生に向けて

 

幼い子の心情は、大人にうかがい知れないところもあるので、過剰な心配から入らない方がいいかもしれません(特に遅い時間帯は、母親に早く会いたいとか、疲れているとか、いろんな理由がありうるので)。

何をして過ごすかは、大人に決められるものでもなくて、子供が何をしたいかによります。正解はナシ。

夕方以降は園児の数も減るでしょうから、その時間は、その子と先生だけの時間。さて、何をしようか。2人きりなら、2人きりだからこそできることもあるかもしれません。


自分自身が、親に先回りされて、干渉されたり、圧力を受けたり、ダメ出しされたりした体験があると(子供がぐずぐずしていると叱るのも、親が都合のいい妄想だけを見ているからですが)、

子供の心がどっちに転がるかを見守る(子供が何を見つけるかを見ること自体を楽しむ)という心の余裕が持てなくなります。そういう背景もあるかもしれません。


どんな子供も、その子だけに向き合える時間は、貴重だし、楽しいものでは? 何が園児との時間を作る「回路」になるかは、わかりません。それを探ることが楽しいことなのかもと思います。

一緒にいられる時間を楽しむことが、人間・子供相手の仕事の最初かも。シンプルでいいのかもしれません。




大人たちにできること

2024年8月11日(日)

これからの生き方・働き方を考える~大人のための勉強会 東京


(あるお父さんへの返信から)

 おたよりありがとうございます。いろんなテーマを含んだ内容で、思考の枝葉が広がりました。

実用性重視の高校がもっと増えたら、たしかに社会の可能性も広がるだろうと思います。特に私学や通信制などになるのでしょうか、教育方針に個性を出せるのは。

意欲と適正を大事にして、できるかぎり早期に体験、学習、自立できるようにして。

実用レベルに到達すれば、その時点で就職・起業できるようにするとか。

それで収入・待遇・立場が約束されるなら、形骸化した大学なんか行かなくていいと思う人が増えるかも。




その一方で、「ステイタスとしての大学」が堅固なエスタブリッシュメントとして存在し続けるだろうとも、思わなくもなく。

というのも、個人的な感想になってしまいますが、最近、〇大の教育環境について、ちらりとのぞく機会があったのです。

その時に感じたのは、やっぱり凄まじい学歴志向。学生たちは、「自分たちは優等生、選び抜かれた秀才」みたいな自意識をむき出しにしていて(若いからそう見えるのかもしれないし、承認欲全盛の世相の影響もあるかもしれないけれど)、

しかも学長・教授陣が、輪をかけて「この場所は特別」みたいな高踏的雰囲気を醸し出していて。

一番変わっていなかったのは、大学であり、教授だったのです。

大学の内部にいる彼らこそが、大学も、教育も、社会も変わらなくていい、と思い込んでいるように見えたのでした。


彼らの意識が変わらないということは、入試制度も変わらないということです。入試科目・選抜方法・・。

大学入試が変わらなければ、それを目標に指導する学校の先生の意識や、中学・高校の科目編成・内容、受験産業も変わらないでしょう。

現時点では、大学、高校、中学、塾に予備校、子供の受験に熱を上げる大人たちは、有名大学を頂点とするヒエラルキーの構成員(サポーター)であり、一蓮托生なのだと思わなくもありません。

そして教育内容の全体に枷(かせ)をはめている文科省も。

時代は変わっているし、もっと変わっていいし、変わるべきなのだけど、変えたくない大人たちが、この分野でも堅固なサークル(共同体)を作っているのだと思います。



エスタブリッシュメントは自己変革ができないから、社会を変えていくのは、先進的な一部の教育の場かもしれないとは思います。

そういう場所に頑張ってもらって、社会に通用する人材として、大学を無意味化するくらいに活躍してもらって、「大学に行くより、こういうルートのほうが豊かになれる」という価値観が社会に広がってくれれば、

そのぶん社会の活気や可能性は増える気もします。あくまで理想論であって、現実はかなり難しいのかもしれないけれど。


変わらぬ場所・人間は、変わらない・・百年経っても、千年が過ぎても。

だからこそ、自分にできる範囲で変えていくことが基本になりそうです。


親(お父さん・お母さん)が意識を変える。

その姿に感化・影響されて、子供が変わる。

そして、子供が自分で選んだ価値観のもとに人生をまっとうする。


その一直線を伸ばしていくことが、志ある親たちの務めのように思います。


ちなみにこの場所が計画しているのは、小学高学年向けの学びです。

この年頃は、人生の原点を作る大事な時期なので。この時期に本当の学びを体験してもらいたい。できあがった教育制度に縛りつけられる前が勝負・・そんな思いで計画中です。


大人・先生の影響力は大きいものです。

子供と距離が近い大人は、「世の中を変える」力を、実は持っているのですよ。

志ある大人、特にお父さん・お母さんは、子供たちと関わる活動を始めてはどうでしょうか。活動の中味はなんでもよいので。

とにかく関わって、聞いて、伝えることです。

教育の原点。社会を変えるための間違いない方法です。

 

 

 2024年8月初旬

 

 

今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

※来年から寺子屋を始めるので、ときおりこのサイトで最新情報をチェックしてください。個別の感想・おたよりも受け付けています。



十代を生きている君へ

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  


ときおり十代を生きている人の母親・父親が訪ねてくることがあります。

学校に行かなくなった、

進学はしたい、

でも勉強は進んでいない、

という相談が多い印象があります。


進学はしたいという思いに至っていなければ、不登校の段階。

この段階で、本人に伝えられることは、ほとんどない。

今の自分を善しとするか。一度しかない人生を、この先どう作っていくのか。未来をどう生きるのか――

本人が考え始めて初めて、次の選択肢を、親や周りの人たちが一緒に考えることが可能になる。


この場所が相談に応じることができるのは、進学したいけれど勉強は進んでいないという状況にある十代に向けて。


もし君に、

進学したいという気持ちが少しでもあるなら、

心機一転して生活を立て直す

ことを勧めます。


心は弱いものだから、学校に行かない人は、崩れてしまっていることが多いもの。

ゲーム、スマホ、ネット、テレビ・・今は、流されるための道具はいくらでもあるから。


しかも、心は強くない。長々と寝て、起きて、ご飯食って、遊んでいるうちに、活動時間は終了。

僕自身も体験がなくはない。なんとなくダラダラと過ごしてしまう。

そのくせ、ネガティブな思いは弱くならない。過去を引きずるとか、親を責めるとか、要は、自分以外のことに理由を見つけて、腹を立てたり、サボる理由にしてしまったり。


結局、自分に甘い  ということなのだけど。


もし進学したいという願いがあるなら、どこかで弱い自分に区切りをつける必要がある。怠惰な自分に最大限の厳しさを向けることだ。


まずは、将来への計画を立てる。

進学したい大学や進路があるなら、はっきり見定めて、何が必要なのか、試験科目や手続きを調べる。

そこから逆算して、自分が使う参考書などをリストアップする。

一日の時間割を組み立てる。

家にいるとダラけるから、図書館、学習室、公園、喫茶店、電車の中など、勉強する場所を複数リストアップする。

そして実行に移す。

記録を取る。何時から何時まで、何をやったか。

何を学んだか。前に進んだか。自分は成長しているか。


こうしたことは、ぜんぶ自分の力でできる。工夫次第。意志の力次第。


本腰入れれば、怠惰な自分から、毎日を有意義に使うことに充実を感じる創造的な自分になれる。

ダラダラ過ごしていたら、こうした充実は味わえない。

どこかで怠惰な自分にケリをつけて、新しい自分を生き直す必要がある。


こういうのは、タイミング、気合次第。エイヤと起き上がれるかどうか。


なにしろ人生は一度きり。過ぎた時間は戻ってこない。

あとで後悔しても取り返しはつかない。

しかし逆に、気合を入れて、作戦を立てて、進学や勉強を目標にすえれば、学校に行かなくても、充実した毎日を過ごすことはできる。

過去は関係がない。親も関係がない。

純粋に、自分のためにやる。後悔しないために。後で不貞腐れないために。

本気で生きる人生のほうが、はるかに面白い。

しかももし進学できたら、やっぱり未来は変わる。視界が開けることは確か。


だから、進学したいという気持ちがあるなら、どれだけできるか、頑張ってみたら?と思う。

親の相談に乗ってもしようがない。本人の問題だから。

塾や学校の先生のように、勉強することが大事だとは言わない。大人にとっては、すでに乗り越えたことだから。


あくまで本人の人生の問題。


勉強したほうがいいなんて阿呆なことは言わないけれど、

でも本人に少しでも勉強してみたいと思う気持ちがあるなら、

どこまでできるか、体験してみればいいとは思う。

応援することはできる。

僕も似たような経験をしているし、勉強の仕方はしっかり考え抜いて、それなりの方法を知っているように思うから。


何より、前を向いて頑張ることを、応援したい。

勉強を応援するというより、人生を切り開くための努力そのものを応援したいと思っている。

だからもし、進学したい・勉強したいと思う十代の人がいたら、できれば親ではなく、自分で連絡してきてほしい。言葉を尽くして今の自分を語ってくれたなら、応援できるかもしれないから。

全国行脚中なら、近くまで足を運ぶことも可能だ。


頑張ることは楽しいこと。

どこまで頑張れるか、挑戦してみてほしい。


2024年日本全国行脚 開催中

本気になりたい十代の人のもとを訪問します

 

2024年7月


出す価値のある本だけを出す


 今、十代向けの生き方&学び方の本を書き進めています。

 2014年に出した『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』の改訂版。とはいえ、全面的に書き直すことになりそうです。

 そもそも勉強法や学歴(といってもたかが学士卒に過ぎない)を売りにする風潮自体が、時代錯誤にして無思考の典型だろうと思っています。もはや飽和状態だし、こうした企画で本を出すこと&自分を語ること自体が、とっくの昔に社会全体が卒業しなければいけないはずの不毛で残酷な価値観を助長することになってしまいます。

 不毛というのは、試験という固定された制度の中で「いい点数を取る」ことと、社会における改善(問題の解決と苦しみの低減)との間に、相関性がないからです(直接の関係がない)。

 残酷というのは、学歴に価値を見出すことで、学歴を手にした者が称賛を、そうでない人が価値を認めてもらえないという偏りを作り出すからです。

 入試および学歴というのは、限られた椅子しかありません。椅子に座れる人(合格できた人)がいる一方で、どうしたって座れない人が出てきてしまう。

 しかし椅子に座れたからといって、社会の改善に貢献できるとは限らない。椅子に座れなかったといっても、学歴自体は(仏教的には)妄想に過ぎない。自分にできることをして社会の中で生きていければよく、本当は椅子そのもの(成績や学歴)に価値があるわけでもない。

 学歴があってもなくても、勉強ができてもできなくても、人は、自分のやり方で社会の中にひとつ居場所(仕事)を見つけて生きていければいいはずで、

 社会にとっては、その中に生きる一人一人が少しでも不安やストレスなく、逆に安心や満足をもって暮らしていければ、それが(それだけが)共通の価値といえるのだから、

 勉強、試験、学歴という、人間が作り上げたシステムそのものに価値があるわけではないのです。「たかが」の世界。しょせんは妄想。

 しかしそうはいっても、価値観もシステムもすぐには変わらない。むしろますます固定化しつつあるように見えなくもない。そうした社会に生きていかねばならない十代の人たちにとっては、学びも生き方も、現在進行形のテーマであることに違いはありません。

 自分自身が体験したことだからこそ、伝えて励ますことも可能になることは事実。自分がとうの昔に捨てた世界のことだからと捨ててしまうのも、歳を重ねた人間の傲慢と耄碌ということになりかねません。

 出す価値がある本しか出さないというのが、私の信念です。出す価値はあるーーいや、価値があるように中味を選び直してもう一度書き起こす。そこが挑戦のしどころかもしれません。

 どう書いても、世俗の価値観に迎合助長する側面を持つことは否めません。そうした価値観を嫌って生きてきた身にとっては、勉強や学歴を論じることは、どうしたって自己矛盾のジレンマを抱え込まざるを得ません。

 そういうジレンマさえも率直に言語化して、既存の風潮を突き放し、相対化して、時代・社会を越えて大切な学び方と生き方を伝える――そういう作品になればいいという結論に達しました。

 特定の大学や学歴をやたら話題にしたがる今の風潮は、明らかに間違っています。妄想をもてはやしたところで、社会における実利(本当に価値あること、つまりは人の幸福を増やすこと)は増えません。

「まとも」な生き方を伝えたい。少なくとも、まともな生き方は社会の風潮とはまったく別の場所にあるということを共有・共感できる人とつながることができればという思いで書き進めています。


子を失った親である人へ


ときおり、わが子が先に自らの意志で旅立ったという親である人が来ることがあります。

親であるその人は、その人なりに真摯な動機をもってやって来る――ものと本人は思っている様子です。

また、この場所や仏教ならば、自分が求める答えに近づけるのではないかという期待もある様子です。

しかし・・・

ひとめその姿を見た瞬間に、この命は、親であるその人と、自ら生きることを降りた子供との、あまりに遠い距離に愕然とすることがあります。

親であるその人が、この場所に訪ねてくる意図ーー本人が語る問いや動機というものが、

旅立っていった子供が求めていたものと、あまりにかけ離れている・・・


そうはっきりわかることが多いのです。


親であるその人が来た時、この命は、瞬時に「子供の側」に立ちます。

子供の目から見て、親であるその人がどう見えていたか、どう見えるかを、見据えるのです。


子供の目から見る親の姿ーー


それが見えた時に、子供の思いが伝わってくる気がしてきます。

「お父さん、また自分のことばかり話しているね」

「お母さん、またそうやって自分をかばって逃げ出すんだね」

「いったい、いつになったらぼくの話を聞いてくれるの?」

「いつになったら、わたしの気持ちをわかってくれるの?」


かつてこの世界に生きていたその子は、数えきれないくらいそう感じて、

泣いたり、怒ったり、ふさぎ込んだり、小さな絶望を繰り返したりして、

自分を守って、逃げ回って、都合のいい時だけ子供を利用して、都合が悪いことは子のせいにしてきた親に対して、

子供なりに精一杯言葉を発し、

伝わらないとわかったときはなんとか一人でやり過ごしながらも、

それでも心の底では、


お父さん、もっとわたしのことをわかってよ、

お母さん、もういいかげん自分を許してよ、わたしにも優しくなってよ、


と訴え続けてきた長い長い歳月が、透けて見える気がすることがあるのです。


この命が見るのは、子供の目から見た親の姿です。

親の側に都合のいい味方にはなりません。

正直にお伝えして、親であるその人は、子供のことをわかっていない。わかろうとしていない。


子をわかることよりも、自分のこと・・・自分自身の執着のほうを守っている、
 

子供からすれば、ずるくて、卑怯、自分勝手ーー


そう思えてくることが(それもひとめその姿を見ただけで)少なくないのです。


この命に見えるくらいだから、子供はもっと見えていたでしょう。見尽くしていたでしょう。

いらだちも、絶望も・・数えきれないほど重ねていたことでしょう。息が詰まるほどの至近距離で。


もし親であるその人が、自分勝手な執着を卒業して、

オレが、わたしが、という自分に求める思いを手放して、

本当の意味で大人になって、本当の意味での親になって、

大人であること、親であることに満足できる人であったなら、

子供をこれほどに傷つけたり、突き放したり、憤りを感じさせたり、追い詰めたりしなくてすんだのに、

つまりは子供はきっと今もすこやかに、笑って生きていられただろうのに――

と感じることが、とても多いのです。


親であるその人の姿、その人が語る何気ないひとこと、

そうしたものの中に、子供の目からすれば、

ぞっとするほど残酷だったり、

あきれるほど自己中心的だったり、

自分がかわいいがゆえに自分を守って、都合の悪いことからは逃げるというずるさだったりと、

いろんな真実が見えてきます。


私はそうした真実が見えた時(見えるまでの時間は本当に一瞬であることもあります)、

心の中で、今はこの世にいないその子に語りかけます――

「そうか・・・つらかったね」
「腹が立つよね」
「悲しいよね」
「絶望するよね」
「くやしいよね」

それが本当にその子に伝わる言葉かは、本人はもうこの世にいないからわからないけれども、そうした気持ちに染まることがよくあります。


子供の目からすれば、目の前の親は、自分がいなくなった後も、

やっぱり自分のことばかりで、自分勝手で、自分を守って、逃げてばかりいる。


「そうやって、また逃げるんだね、わたしから」

「そうやって、また私を傷つけるんだね」

と、この命は、今は亡き子供に代わって、親の背中に言葉を向けます。

お父さん、お母さんは、本当にずるい。


子供が生きていた間に、そう思うことができたなら、

「ほんとにずるいよね」と、その子の話を聞ける大人や友人が、そばにいることができたなら、

その子は絶望せずにすんだかもしれない。

ほんの少しでも、この世界にもいいところはあるんだな、生きてみてもいいのかな、と思えたかもしれない。

そんな思いが残ります。



子をなくした親は、仏教にすがろうとするかもしれないけれど、

親がそのままの自分を守るだけなら、その仏教は、自分に都合のいい言い訳、弁解、現実逃避にしかならない。もし慰めを感じる言葉があるとしたら、それはまやかしです。


もし親自身がほかの誰よりも、子供を追い詰めていたなら、傷つけていたなら、

その子が生きることを降りてしまうくらいの痛みや絶望を抱えるに至った「原因」の一つであったなら、

そうした親に伝えられる仏教など、ありません。

 

親のあり方・生き方が原因の一つとなって、子が生きることを降りた場合、

親は 罪人 なのですよーー。


伝えることに胸は痛みますが、真実です。

もし真実から目を背けるなら、親の罪は生涯続き、子は浮かばれず、

さらには親の生き方を支配する「業」は、子へ、孫へと、未来に受け継がれていきます。

 

かつて出会った親は、子に先立たれた動揺を紛らわせたくて、一生懸命お経を唱えていたけれど、

そんなお経は、申し訳ないけれども、親が自分自身をかばうための自己慰めにすぎません。

そんなことをされても、子供は嬉しくもなんともない。

「自分が旅立った後でさえ、まだ独りよがりの答えを出して、子供の思いをわかろうとしない、僕の、わたしの思いに耳を澄ませてくれない」


聞いてくれない親であるその人の姿を見て、ふたたび絶望するしかない。


世界でいちばんわかってほしかった相手に、わかってもらえないまま旅立った命は、

とても胸痛む真実だけれど、浮かばれないまま。


それはそうーー自分がなぜ生きることを降りたのか、

自分は生きていたころ何を思っていたか、何を本当は伝えたかったのか、

親であるその人に、かつてわかってほしかったし、

生きることを降りた後でも、やっぱりわかってほしいと思う。

そういう思いだけが、この世界に残ります。


誰にも聞いてもらえないまま。受け止めてくれないまま。


もし霊魂(たましい)と呼ばれるようなものが本当にあるとしたら、

わかってもらえなかった子供として短い人生を終えた霊魂は、

この世界を、いつまでもさまよい続けることになるでしょう。

なにしろこの広い世界の中で、自分の思いを受け止めてくれた人は、一人もいないのだから。

あまりにさみしく、あまりに孤独です。

そうして虚空をさまよい続ける霊魂と呼ばれるようなもの、かつて親であるその人の子供だった魂は、

受け止めてもらえなかったさみしさを抱えて、さすらい続けるほかないのです。


この命は、親の味方にはならない。そのような親に都合のいい話はない。

もし子に先立たれたという親である人が、私の前に来たならば、

私は、その子に代わって、その親の姿を見る。

そして子供の代わりに、湧き上がる思いを、親であるその人に伝えることになるだろう。


そんなに自分がかわいいですか?

子供が幸せに生きることよりも?


それは、親である人にとっては、自分の「罪」を突き付けられる時間になります。

優しくなどあろうはずがない。怖くてたまらない時間になるかもしれません。

なにしろ、自分がいかに自分本位だったか、自分しか見ていなかったか、子供としてそばにいてくれたその命に自分がいかに優しくなかったかを、突き付けられることになるからです。


それこそが本当は、子が生きている間に子が望んでいたことではあるけれど、

子の思いがまるで見えていなかった親であるその人にとっては、自分のあり方を正面から見せつけられることになるので、

よほどの覚悟と、本当の子供への愛情がないかぎりは、そうした場所には立てないだろうと思います。

これまでも、子に先立たれた親が訪ねてきたことはありました。

そうした親の姿を前にして、子供が生前に感じていたであろう思いが伝わってきたように感じる瞬間もありました。

ですが、子供の思いを伝える前に、親であるその人は逃げ出してしまうのです。

そのほうが楽だから。都合がいいから。


正面から受け止めて自分の罪を認めて、途方に暮れる(子からすれば、やっと泣いてくれる)親も、いなくはありませんが、

ほとんどの場合は、親であった自分を見つめようとはしません。できないのです。

 

すると何が残るか――。



わかってほしかった子供であった魂と、

わかることより自分を守ることを選んだ親であるその人との間に、

遠い、遠い距離が残ります。

永久に埋まらない距離。見えない平行線。


この世界は、そうした見えない絶望を無数に抱えて動いています。とても哀しい世界です。


いつか、いつか、いつか・・・子供だったその人の思いが届いて、浮かばれますように。

そう願いながら、仏者であるこの命は生きていくことになります。

それは深い哀しみでもあり、絶望でもあり。


でもこの命は、みずから生きることを降りたその子の思いだけは、いつでも受け止めよう、耳を澄ませようと努め続けています。

たとえ生きることを降りた後でも、その子の苦しみを置き去りにはしたくないからです。

たとえ親である人が、みずからの罪に恐れおののこうとも、

子が抱えていた苦しみには、絶対に及ばない。


だからこそ、親ではなく、亡き子供の味方でありたいのです。


自分自身を正面から見据える覚悟と勇気を、親であるその人がいつか持つことを、

この命は、子供であった命とともに、

ずっと待ち続けることになります。

 

子を失った親である人へ――


待ち続けている命があります。

親であるあなたが自分自身を見つめ直すことを。


本当は難しくありません。

そして、そのことが、旅立った命が最も望んでいたこと、心から喜べることです。


あなたの痛みを痛いほど感じながらも、あえてお伝え申し上げます。




試験直前に効く心がまえ


試験直前に効く心がまえ:

自分で決めた日から「願掛け」してください。その日からは無駄なことに時間を使わないようにするのです:


●いつからでもよいですが(今日からでも)、一つの「誓い」を立てます。 
「私は今日○月○日を最後に、余計なものに手を出しません」

「どんなに苦しくなっても、○年○月○日の本番まで必要なことだけに専念し続けます」

そう決意した日から、無駄なものには手を伸ばさないようにします。たとえばスマホをダラダラ見てしまったりすること。連絡事項の確認など必要なことに使うぶんには仕方ないかもしれませんが、それ以外のムダは遮断します。それ以外の遊びも、なるべく入れないようにします。

※この「ムダなものに手を出さない」のは、妄想を増やさないためです。妄想は、「つい息抜き」「ダラダラスマホ」といった心のスキマに生まれます。

一度生まれると、妄想は強力なので、なかなか勝てません。その日をムダに過ごしたり、不安になったり、「試験に落ちる理由」まで考えだす人もいます。「妄想するスキを作らない」ことが、この<願掛け>の目的です。


●ついでに「儀式」も行うことをオススメします。

つまり、心のなかで「○月○日から試験勉強に専念するぞ」というXデーを決めて、その前日にマンガなどの娯楽品を遠ざけます。どこかお気に入りの場所に出かけて、自分の大好物を食べて(次回食べられるのは目標達成後)、

「私は今日から『全力一〇〇パーセントの毎日』を過ごします!」と誓いを立てて帰ってくるのです。

※「もう試験直前」という人は、なるべく短い時間でケリがつく儀式をしてください。食後のデザートを「試験前の最後の晩餐」として噛みしめながら食べるとか(笑)。

そこから先は、生活そのものを「願掛け」として過ごします。たとえば、朝は決めた時間に必ず起きる、食べ過ぎない、スマホ・動画を見ない、テレビやインターネットは絶対に封印する……といったことです。

この願掛け期間だけは「失敗の可能性を1%も増やさない」ように全力を尽くすのです。


●試験当日にベスト・パフォーマンスを発揮したければ、「この日から本番まで、「負けにつながる1%を作らない」ことに全力を尽くしてください。

「負けにつながる1%」を作らない期間(〇日間)を過ごせたら、その期間内は「勝ちにつながる100%」だけになります。不安という妄想も、その期間だけはシャットアウト。これが「絶対の自信」になります。

「勝負は下駄を履くまでわからない」と、よく言いますよね。試験はその典型です。だからこそ過去は関係ありません。過去の迷いもグズグズも無駄に過ごした時間も模試の成績も、願掛け期間に入ったら、ぜんぶ忘れます。ここからが勝負。

「この日から」と決めた日からは「勝ち100%」の一日を過ごす。それを、二日、三日・・・そして本番まで続けるのです。


●メンタルをコントロールするのは難しいものですが、期間限定なら勝てる確率は上がります。「この最後の期間だけは100%勝つ!」ことに挑むのです。

もしまた崩れたら、その日から<願掛け>をやり直す。開き直る。最後は強気で行く。「あと〇日」と決めた日から、コレを始めます。

特にラスト3日は、最後の願掛け期間です。何も考えないこと。それが自信です。

3,2,1日、そして当日。


●もうひとつは全体をよく見ることです。全員受かってもおかしくないし、実際に全員受かってきた試験です。準備したことをそのまま無心に(妄想なく)発揮すれば、ほぼ確実に結果が出るのですから、後はフツーに試験を受けてくればいいだけです。


健闘を祈ります。では<願掛け>始めましょう!


2024年1月下旬


ノブの話(インド編)

出家・草薙龍瞬、インドをゆく から

(※インドの話は一定期間経過後に上記サイトに移します)


ノブは、ラケシュの息子で今年5歳。戸籍名はリュウシュン。

子供は、見方によっては2歳が“人生の絶頂”なのかもしれない。ノブも2歳の頃までは、天真爛漫で人なつこくて、まさにわが世の春を謳歌していた。

今ももちろん周囲に愛されているが、他の子と違うのは、どこか憂愁がただよっていること。もとからその気配があったが、遊ぶことがあまり好きではない。スマホにもすぐ飽きたし、今もゲームやおもちゃをあげても、熱狂することがほとんどない。最初はパッと表情が明るくなるのだが、すぐ消えてしまう。学校でも一人隅っこにいて、周囲の様子をながめていることがよくある。

さらに家の中では、今はアスカ時代――妹アスカの独壇場だ。ノブが手にしたものを、アスカが略奪する。遊んでいるノブに馬乗りになって妨害してくる。

「野生児」(ジャングル・ムルギ)と化したアスカは、気分高じて、ノブをぶったり蹴ったりすることもある。ノブは殊勝にも耐えているが、やはり甘えたい気持ちが強いのか、ささいなことで大泣きして訴える。

これは、どの家の兄弟姉妹にも明らかな傾向だが、やはり長男・長女は、親の影響をダイレクトに受けるだけでなく、忍耐も強いられるらしい。

対照的に下の子は、多くの家で「野生児」だ。天真爛漫、自由奔放、やんちゃ、わんぱく、わがまま。お兄ちゃんお姉ちゃんの忍耐犠牲を想像することもなく、実にのびのび気楽に育っている(もちろん下の子固有のストレスもありうるが)。

なにしろラケシュの長男だ。ノブは1歳半でソーシャル・ワークを始めたのである。父親と仲間たちの姿を真似して、みずから手伝いを始めた。今もラケシュにくっついて、ほうぼうの地域行事(プログラム)に出かけていく。

こういう子供は、考え抜いてもらうほうが良い気がする。子供であって子供でない子供はいる。いろんな本を読んで、社会の問題も学んでもらって、自分はどう生きればいいかを考えてもらうのだ。

1歳半(当時)で手伝い始めたノブ(ラマバイ生誕祭にて)
エラすぎでしょ・・



ノブは、おじさん的存在のバンテジにも、すこぶるなついている。プージャ(法事)には必ずついてくる。私の読経が好きらしく、一生懸命真似して覚えようとしている。関係ない場面でも遊びのつもりで、ナモナモと礼拝したりする。

ノブの宿題の面倒を見たり、ホッケーゲームに興じたりと、私もいいオジサンとして関わっているが、父親ラケシュにはない厳しさもある。

ある晩、プージャがあって、ノブもついて行きたいというので連れて行ったが、今度は家に帰って、おいおいと泣き出した。「宿題やってない」という理由だそうだ(翌日は日曜だから差し支えなかったのだがw)。

その翌日の法事にまた来たいと言ってきた。私はグーグル翻訳を使って、昨日の話をした。

「法事に来たいと言ったのは君だろう? 自分で選んでおいて、あとで泣くのはフェアじゃない。自分の選択には、自分で責任を取りなさい。わかるかい?」

「泣くなら、来ることは許さない。どう?」と訊ねると、「泣きません」と答えたので、同行を認めた。

また別の日の法事では、一番前に座ったはいいが、隣の子供とじゃれてふざけていたので、「出て行きなさい」と一喝。このあたりは厳しいお坊さん。

後で「なぜ追い出されたかわかるかい?」と訊ねると、ちゃんと理由を説明できたので善しとした。

ノブはバンテジの言うことは素直に聞く。今だからこそ伝えられる(伝えねばならぬ)こともあると、私も知っている。

将来出家するのではと思うくらいに、バンテジを通して仏教を吸収しているが、聡明な子だから、やがて坊さんであることより、父親のように人々の中で人々のために生きることを選ぶことになるだろう。

さながらゴータマの幼少期のように憂愁を抱えて見えるノブに、グーグル翻訳である日メッセージ――「君は強く生きて行かないとね」。

するとノブも僕も伝えたいと、スマホにつぶやく。「こんどはメトロ(電車)買ってきて」。はは、わかったよ(笑)。


1歳のノブと

ノブの誕生日に村人がくれたマグカップ(隣は日本からのおみやげ)

ずっと見守っているからね



2024年2月



中学受験に大切なこと2

 

中学受験の成功が、将来の成功につながるとも限りません。その後伸びるとは限らないし、いわゆる頭がいい子・高学歴な大人が幸せな人生を送れるかといえば、現時点でもはやそうとは言えないし、今後ますます言えなくなる可能性もあります。


理想は、受験の結果に左右されない、「転んでも損しない」知識や知的能力を手に入れること。「いっそう高度な知識を後で広げていける基礎的な知識(基礎概念)」や「できないよりできるほうが面白い・役に立つと思える知的能力」を、一つでも二つでも身につけるきっかけとして、中学受験を利用することのような気がします。あえて「上から見る」のです。見上げないこと。


そして、受験はただの特殊な体験として割り切ってしまうこと。これもあえて「上から見る」のです。他の子たちと同じ条件・同じ環境で、未知の問題にどれだけ答えられるか。単なる経験でありチャレンジとして「受けてみる」くらいで良いのではと思います。「どれくらいできるだろう?」という気楽な発想で。


いくら受験を過大視して思いつめても、この年頃の子供は、格別に集中できるわけでもありません。「何が起きているかもわからない」うちに通り過ぎてしまうもの。受かる・落ちることにそれほど意味を感じられない子供も多いものです(大人ほど将来は見えていないし、大人ほどの見栄もない。落ち込む親の姿を見てはじめて落ち込んだりするのです笑)。それが中学受験というものではないかと思います。

 

合格できたとしても、行く中学が決まったというだけ。その先に何を学び、どう成長するかは、まったく別の話です。受かれば未来が開けるかと言えば、逆に狭まる・萎れることもある。不本意だった中学が意外と子供に合っていることもある。”未来はその後の頑張り次第&めぐりあわせ次第”という仏教の理解は、ここでも当てはまります。

もし受からなかったとしても、中学受験を機に身につけた勉強の仕方や知的能力を、次に活かせばいいのです(※逆をいえば、「次につながる・活かせる」勉強の仕方や知的能力が身につかなかったとしたら、中学受験は大して意味がなかったということにもなります)。


中学受験について大事なことは、

➀結果(合否)を過大視せず、

②大学および社会で求められる知的能力のほうを見据えて、

③中学受験を、その一部・プロセスとして “見下ろす” ことではないかと思います。

 

親にしても子供本人にしても、もし直前期に落ち着かなくなったら、受験を「小さく」見ることを勧めます。受験はただの通過儀礼。むしろ「受験が終わった後に何が残るか?(先に持っていける基礎概念や知的能力をどれくらい身につけたか)」を振り返るのです。

「振り返る」という視点を持つだけでも、自分を客観視できます。望ましいのは、「忘れてしまっても差し支えないもの」と「高校、大学、さらに社会にまで持っていける(役に立つ)知的能力」との振るい分けを、大人がしてあげることです。それくらいに「見えている大人」になることが理想です。大人たちもちゃんと学ぶのです。

 

※「基礎概念」や「知的能力」の「振るい分け」については、いずれ子供たちに伝えていく予定です。



2024年1月28日








中学受験に大切なこと1


この時期になると、受験の話題が増えますね。特に中学受験。

中学受験をめぐって印象的なのは、

子供以上に親・塾の先生がのめり込んでいるらしいこと。

身につけるべき知識・知的能力とはどういうものか(「勉強」の背後に潜む「本質」)をつかんでいる大人は多くないかもしれないこと。

無我夢中で突入して、合格・不合格をめぐる悲喜交々で終わってしまうこと。


結局、どこの中学に受かった、落ちたといった物差ししか、大人たちの中になさそうな様子です。もちろん一部に当てはまる印象にすぎませんが。


中学受験を“一大行事化”しても、あまり得るものはない気もします。一大行事化とは、「人生がかかっている」と思い詰めてしまうほどのプレッシャーを感じること。


中学受験に受かること以上に大事かもしれないことは、

〇学びには、高校、さらに大学へとまだ先のステップがあって、仮に中学受験に失敗したとしても、その後に「挽回」することは、かなりの確率で可能であること。

〇中学受験にプレッシャーを覚えるより、もっと大きな目で“知的能力”を見て、その一端を身につけるきっかけとして、中学受験を利用する――くらいの鷹揚さ(長期的視点)があってもいいこと。


〇どんなにハイレベルな入試に見えても、人間が手にしうる知的能力は、それほど変わらない。その先の中学・高校で学ぶ内容も、それほど変わるわけじゃないこと。


中学受験という通過儀礼に囚われるより、将来世の中を渡っていける、あるいは高校・大学入試につながる知的能力を身につける”きっかけ”として利用するくらいのほうが、得るものは大きく、仮に失敗しても失うものは少ないのではないかと思います。
 

一番危険なことは、親や先生たちが中学受験を過大視して、子供を煽って、追い詰めて、受かった、落ちたという結果だけで一喜一憂してしまうこと。これは子供にとっては、残酷かつ意味がないことです。

子供はまだ小学生。勉強する意味や面白さを理解していない子のほうが(おそらく)大多数。まして、試験に求められる知的能力がどういうものかを把握できるわけもありません。

そもそも中学に受かること・落ちることが、それほど重大なことなのか、ピンと来ていない子供だって少なくない。正直、それでよいのです。この年頃の子供は、勉強そのものより、友達と遊んだり、いろんな体験をしたりすることで、心を育てていく過程にあるからです。


つづく



心を壊しているもの2

 

 「頭がいい」も「学歴」も、それだけなら妄想にすぎません。


本当の頭のよさとは、社会の苦しみを減らし、幸せを増やす知性のこと。

本当に頭がいい人を大事にするのが、成熟した社会。

頭の良さを社会のために使うことに必死にならない人間をもてはやすのは、未成熟な社会。
 
人々がまだ気づいていない問題を見つける。方法を探す。新たな価値を創造する。課題を解決する。社会に還元する。

それこそが学びの、教育の目的です。そこにたどり着いていない知性は、知性とは言えない。途上にすぎない。
 

そんな成熟した、いい意味で厳しい価値観(評価の基準)が、社会に定着したら?――百年経ったら、世界はどれだけ変わるだろう?

心が持つ力は凄まじく強いのです。世界を変える力を持つ。その心を育てるのが、教育です。


まずは、一人一人が妄想から目を醒ますことだろうと思います。

「勉強ができる」「有名大学を出ている」程度の妄想を「わあ、すごい」なんてヨイショしないこと。
 
消費しないことです。見ない、聞かない、買わないこと。文字通りの「オワコン」にしていい。
 

人生は、もっと自由でよいものです。
自分にあったやり方で、好きな場所、好きな道具、好きな順序で、自由に学べばいい。

十代になったら、将来への準備も考える。
準備して、社会に出て、自分らしい人生を生きる。
自分なりのやり方で、この世界に貢献する。

そのために学ぶのです。


ちなみに、形骸化した学校の勉強に縛られず、「本質」を最初から学ぶようにすれば、学校でやる6年分の勉強は、半分以下の期間でできるようにも思います(ここは異論もあるかもしれませんが笑)。


学ぶべき<本質>がある。
本質を外さない<学び方>がある。


この二つをそろえれば、必要なことを学び、自分の頭でしっかり考え、自己ベストの生き方をまっとうし、しかもちゃんと社会の役に立ってくれる人間が育っていくのではなかろうか。そんな気がしています。


そういう教育=学ぶ仕組みを、これから個人的に作ってみようと思っています。




2024年2月公開予定
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反応しない練習エクストラ【希望編】
大人になった僕らは今どう生きるか から
※音声ではもっとカジュアルに語っていますが、伝えたかったことは上記の通りです。



心を壊しているもの


心を壊しているものは、「教育」かもしれません。戦後から70年以上、いやもしかしたら明治期から百年以上変わっていない、社会停滞の隠れた犯人かもしれません。

教育を通しての価値観の摺り込み・・・

「勉強とは、教科書・参考書・ドリルを使ってやるもの」

「学力の評価はすべて、学校のテスト・入試で測るもの」
 
「成績が優秀であることが、それだけで価値を持つ」など。
 
でも、教科書をはじめ「これが勉強だ」「試験に出るぞ」とされている中味は、一部の大人たちが仕切っていて、面白いか、興味が持てるか、そこで得た知識や知的能力が、社会とどうつながっているのか、といった問いとは関係がない様子。

そうした「勉強」という思い込みに縛られている教育産業やメディアが発信する情報もまた偏っている可能性は少なくありません。


教科書に載っているのは、意味が抜け落ちた概念の羅列・・・坊さんになった今の私でも、教科書を開くと、正直ウンザリします。数ページも読みたいと思えないのです(すみません笑)。

中味はつまらないのに、「テストに出るぞ」「卒業できないぞ」「もっといい高校へ、大学へ」と、窮屈な学校システムへと子供たちを追いやり、

テスト、点数、成績、内申書、偏差値、順位付け、学校のランク付け、一部の有名校、難関大学を賞賛する社会の風潮を通して、

子供たちを煽って、追い詰めて、無理やり勉強させ続けて、もう一世紀近く・・・でしょうか。

面白くもないし、知的能力も育たない。試験で点を取るための勉強は、知的能力を鍛えるというより、特殊技能を身につけるものにすぎない。
 

その特殊技能が、どれほど社会に役立っているか。それは、今の日本を見れば、ある程度測れるような気もします。

何十年にもわたる停滞と委縮。「頭がいい」ことが、単純な学歴勝者を意味するようになり、メディアの消費コンテンツになり下がってしまった現状。


閉塞したこの社会をどう変えるのか。

人間が抱え込んだ苦悩と課題をどう解決するのか。

社会への信頼と未来への希望を、どうやってこの世に増やすのか。


そうした最も価値ある問いに、頭がいいとされる大人たちが悩まない。
 
今の教育・学校・受験のシステムが作り出しているのは、社会全体の思考停止と、学歴勝者の自己満足。


こうした現状を繰り返しても、未来永劫、社会は変わりません。発想が止まっているからです。
 

結果的に、本来もっと自由でいいはずの生き方が制約される。歪みが生まれる。未来の可能性が潰される。
 
社会にとって大きな損失だと思うのですが、はてどれくらいの人たちが賛同してくれるのでしょう。
 

今の社会が哀しいのは、成績・学歴で測られる「頭のよさ」を礼賛する風潮に、異議を唱える声が少ないように見えること。

学校とは、勉強とは、教育とは、「こういうものだ」(これしかない)という思い込みが、ますます拡大・定着しつつあるように見えること。
 

学びも教育も、本当はデザイン(設計)してよいものです。もっと自由で、創造的なもの。
 
一人一人が自分らしく生きられること。
新しい社会を創造していく力を身につけること。
 
そのための学び・教育であるはずなのに、「この程度のもの」とされつつある現状に、もっと疑問を持っていいと個人的には思うのだけど。
 
 
つづく
 

2024年2月公開予定
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大人になった僕らは今どう生きるか から
※音声ではもっとカジュアルに語っていますが、伝えたかったことは上記の通りです。



子育てはほんとはシンプル?2


子供は、生き物としては、すごくシンプルです。妄想を残さないから。


シンプルな子供に、親ができること・すべきことは、やはり、子供の姿をよく見て、子供が求めていることを理解して、その都度与えてあげること。それに尽きるような気がするのですが、いかがでしょうか。

生き物としての子供が求めるものは、それほど複雑ではないはず・・・たとえば「大泣きしている」姿を見た時に、

なぜ泣いているんだろう?と理由を探って、どこかに不快があるのか、体の苦痛があるのか、求めているものがあるのか、本人もよくわからず泣いているのか・・・大きくいくつか分けてみて、

不快があるなら、ケアするし、

苦痛があるなら、必要そうならお医者さんに診てもらうし、

何か求めているものがあるなら、応えるかどうかを決めることになるし、

本人もよくわからず泣いているなら、これはもうどうしようもないので(笑)、泣きやむまで「やれやれ」とお付き合いしあげることかもしれません。


生き物が求めるものは、本来そんなに難しいものではないのかも。子供もあれこれと全力で反応して訴えてきているだけで、「親の手に負えない」ことはないのかもしれません。

「手に負えない」のは、子供のせいというより、親の側に理由があるから?・・・だとしたら、その理由を自覚して、取り除けば、親としての基本だけに帰れる。するともっとラクになれるのかもしれません。




子育ては、シンプルなほうがいいですよね。子供の将来については、世の中に合わせる必要もあって、その部分は、親個人の経験だけでは追いつかない部分もあるかもしれない。その部分は人に助けを求める必要はあるけれど、それでも親たちが思うほど難しいことではないかもしれない。

いや、難しくないはず。難しいはずがない。難しくならないように、生き方も、育て方も、工夫する。というか、コレだけは間違いないという親としての基本だけ、しっかり心がけていれば十二分。




難しくない子育て――そうした本来の姿を取り戻せれば、親と子は、わかりあえる友だち同士として、生きていけるかもしれません。

なにしろ親の自分だけでは得られない、もう一つの人生を、さらなる未来を、間近で見せてもらえるのだから。

 

人生が倍になる。たいへんだけれど、楽しさもたくさんある――。


本当の子育ては、そういうものじゃないのかなと妄想(?)しています。


子育て中のご家庭に、たくさんの幸せが訪れますように――。

 


2024年1月14日

子育てはほんとはシンプル?


世の中で最も意義(価値)があること・・・それは、人が生きるため、世が続いていくために、必要なものを創り出す営みにあるような気がします。

たとえば、食べるものがなければ生きていけない。だから、食べ物を作る仕事こそが、最も(というと語弊がありますが、あえてそう言ってみましょう)価値がある。

なくても生きていけるものは「豊かさ」ではあるけれど、それでも、なくては生きていけないものを作り出す営みを、人と社会は、最も尊重しなければいけない。リスペクト(社会的価値)の順序とでもいえるもの。


子供を育てることは、その点で、最も尊重されるべき価値あることのように思います。

新しい命は、本人がこの先、この世界で、たくさんの可能性を体験できることを意味します。親になった人がこの世に生きた証にもなります。この世界を未来に支えてくれるであろうことでもあります。


そうした価値ある営みが「難しい」はずはありません。難しくしてはいけないのです。なぜなら世界の「基本」だから。

基本が、過剰に難しくなっていること自体、何かがおかしいのです。


たしかに子育ては、神経も使うし、責任もあるし、苦労が多い仕事です。子供の健康や身の安全は、それこそ親にとって、自分の物事を越えた関心事・・・その点で子育てはラクではありませんよね。


でも親にできること・すべきことは、よく観て(観察して)、その都度必要なものを与えること。それ以上はないはずだと思うのです。自分で与えられないものは、外の人たちの助けを借りる・・・身内、友人、お医者さんと、保育士さんなど? でもやっぱり、観て、あげるという基本は変わらない。


よく観て、必要なものを与えてあげることを「ケア」と呼ぶとすれば、子育ては、ケアをちゃんとすればいい(十分)ということかもしれません。

しかも、ケアというのは、そんなに難しくないかもしれない。なにしろ子供には、持ち前の生命力があるから。

それは他の生き物の姿を見ていれば、なんとなくわかる気がしてこないでしょうか。親はできる範囲でのみケアする。するといつの間にか成長して、やがて親を必要としなくなる時期がやってくる。

もし子育てが難しいことなら、この世界に生きる多くの生き物は、すでに滅んでしまっているのでは。人間だって、もっと過酷な状況においても育ててきた。育ってきた。

子育ては、ほんとは難しくない・・・よく観て、その都度必要なものを与えてあげる。それが育てること、親であることの本質なのです。



ではなぜ、子育てが難しいものに思えてくるのか。「子供がその都度必要としているもの」を越えて、大人の側が難しくしているのかもしれません。

そう、親の側の妄想・・・一見子供のために見える過剰な心配・不安・杞憂や、期待過剰・過干渉・過判断・過反応。

親の側の妄想と、別の原因あって抱え込んだストレスと、引きずってきた執着と、さらには心の内で繰り返される業と・・・。

これは、いわば親の側で自家発電しているもので・・・幼い子供には想像もつきません。まさかお父さん・お母さんが、そんな心のビョーキを持っているとは・・・(笑ってもらっていい部分ですw)。

つづく

 

入試に向かうみなさんへ

 

新年が始まりました。
看護師国家試験まであとひと月ですね。

この世界にはさまざまなことが今も起きています。
地震のあとで人生が変わってしまった人もいます。

でも確実に正しいのは、今できることがある人は、今できることをしっかりやるということです。

働ける人は働く。勉強できる人は勉強する。

みなさんのように国家試験に挑もうという人は、最後までやり遂げる。

世の中(社会・経済)というのは、すごいシステムです。そうやって、「できることをやる」ことで、人・物・お金・情報が回り、遠くの人たちを助けることが可能になるのです。

「無力だな」と思う人も、実は自分の日常をしっかり生きることで、違う誰かを支える力になっていたりします。それが社会というものです。

皆さんにできることは、もうこの時期に来たのだから、試験当日に向けて、しっかり一日を生きることです。

なすべきことは、見えていますよね。それを妄想なくやるだけです。



試験は「言葉」でできているので、毎日しっかり言葉で考えることです。妄想のスキを作らず。

参考書や過去問を読み、問いを言葉で理解し、言葉で答えて、「なぜこれが正解になるのか」を言葉化して、「上手な覚え方」を工夫して(※いくつかの知識をセットにしたり、略語化したり、いくつかの問いをまとめる原理・体系・発想を言葉化したり・・・)

声に出したり、書いたりして、試験に必要な知識をとにかく「言葉にする」ことなのかなと思います。

言葉にするとは、勉強を「作業」にしてしまうことでもあります。声に出して説明するとか、記憶を定着させるとか、書いて覚えるとか、一度やった問題をもう一度ざっと解いて、解けるかどうかを確認するとか。

ぜんぶ「作業」です。もし不安や雑念など、メンタルが崩れかけたら、作業に帰ってください。妄想に勝つには、作業です。


ほかにもいくつか、試験直前に役立つ心がまえがあるので、お届けする予定です。

第一弾は、とにかく作業をしっかりと です^^。

 

*草薙龍瞬は看護専門学校で医療倫理を担当しています。看護学生のみんなに向けてのメールから:


2024年1月12日