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閉ざされた檻

<興道の里から>

8月30日(土)午後 個人相談会 臨時増設しました。

8月31日(日)夏納め国語キャンプ~言葉を力にかえる in 千葉・野田 まもなく開催

参加希望の方は、このブログまたは公式カレンダーをご覧のうえ、お申し込みください。

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 

※長いです(教師あるある笑)。


都内の大きな書店に行ってみた。印象的な点がいくつか。

ひとつは、「〇大本」が溢れていたこと。〇大という大学名をなんの臆面もなく売りにして、体験記やらノウハウ本を出している。


〇大というのは、ただの大学名。〇大生というのは、ただの学生であって、近い将来、社会で役割を果たすための準備期間にあるというにすぎない。本来価値はないはずなのだが。

大学生というのは、本当は肩書ではない。何者かになるまでのプロセスの呼び名(文字通りの学生)であって、何かを達成した人ではない。

こうした勘違いを育ててしまったのは、「〇大」というだけで価値を持つかのように、煽って、崇めて、そして今なおその価値観から抜け出せない、視野の狭い大人たちなのだろうと思う。

結局は、社会が、こういう幼い文化を育ててしまったのだ。



こういう臆面も分別もない「〇大本」が大量に並んでいることにも、ゲンナリしてしまったし、

小・中・高・大学受験というステージと、科目・分野別の参考書が、あいかわらずできあがった学校制度を前提として不自然に分類されていること(学年で分けたり、数Ⅰ、数Ⅱと不自然な概念で区分したり。数学の体系にそんな概念は存在しない)も、不自然に感じたし、

カラフルなわりに、雑多な知識が視点もなく並んでいるだけで、こんな本で地理や世界史や日本史を学んでも、「物語」も「体系」も「視点」も身につかず、

バラバラな知識の断片を一部覚えて一部忘れて、結局、この地球の上に何があって、どこで何が起きていて、過去どの場所でどんなことがあったから、今の国や地域や風土や国際関係になっているのかを説明できるようになる、という「まともな学び」が限りなく難しくなってしまっている(変わっていない)ことも、甚だ嘆かわしく感じた。


こういう分類や教材の作り方をして平気でいられるというのは、教える側も「学びとは何なのか」を、あまり突き詰めて考えていないからだろうとも思ってしまう。

学校では教科書を教えるもの、何年生の何学期にはこれを教えるもの、受験用にはこれを教えておけばいいという、型にはまったイメージが固まっていて、

教えた後に自分に何が残ったか、学んだ側に何か意味あるものが残ったかを検証しようという発想が、教師の側にないのかもしれない。まさに「仕事だから」教えているという姿なのだろうか。

ちなみに楽しい授業というのは、教師の側に楽しい感情が残ったかどうかでわかる。不満や迷いが残ったとするなら、その授業はやはりどこか間違っている(工夫の余地がある)ということなのだろうと思う(違いますか・・?)。



学生の側も、不幸な時間を過ごしている。中学ではコレ、高校ではコレ、何学期はコレ、というお決まりの内容しかない、と思い込んでいる。学校の成績のため、受験のため、いい高校、いい大学に行くため、という形でしか、勉強というものをとらえられない。

「そういうものだ」という思い込みだけで授業に「お付き合い」して、なんとなく学年が進んで、卒業して、進学して。

だが後で振り返って、数学とは、文学とは、古典とは、自然科学とは、歴史とは、といったそれぞれの体系や面白さというものを、まったく思い出せない。「教養」が残らない。

まったく栄養にならないものを、教師は教えているのかもしれず、学生は学んだ気になっているのかもしれない。なんだか不幸な関係性だ。



もうひとつ印象的だったのは、大型書店に足を運ぶ親子連れの「意識の高さ」である。親のほうが、熱心に参考書をチェックしていたりする。

子供(小学生)は、そんな親に付き合って、素直に勉強する意欲を見せていることもあれば、あきらかにヤル気のなさそうなこともある。

親の目から見た勉強や受験というのは、親が見る妄想であって、そんなものを押し付けられても、子供は楽しくとも何ともないだろう。小学生くらいの子供が、意識高い系の親につきあっているのは、まだ素直で、親のことが好きだから(勉強が好きな子については、ひとまず問題ナシとしよう)。

親が敷いたレールの上を進むことに、もう少し大人になった子供が、何を感じるかだ。自分のこととして頑張るか、反発して拒絶するか、あるいはどちらも選べずに、ただ気力を削がれてスポイル(無気力化)されてしまうか。



さらに印象的だったのは、幼稚園・小学校受験の参考書コーナーが充実していたことだ。「行きつくところまで行ってしまっている」と思わざるを得ない、充実・発展ぶりなのだ。

「○○的思考」とか「○○学習法」とか・・これ、大人向けの本ではなく、4,5歳児対象の参考書なのだ(実際は親が読むのだろうが)。

子供向けの自己啓発本も、恐ろしいまでの充実ぶりだ。プログラミング、ジャーナリング、生成AIの活かし方、傾聴力、マネジメント、SNSの使い方、心を知る、時間活用法、整理整頓、文章がうまくなる・・あらゆる分野の、いやこれ大人が学ぶことじゃんと思うようなタイトルの本が並んでいる。

しかも、中身がなかなかなのだ。「文章がうまくなる」という本を開けば、「日記は事実と気持ちを分けて書こう」なんて、プロのノウハウまで書いてある(私の『怒る技法』には、怒りは事実・感情・願望に分けて書きましょうと書いたが、似たようなことw)。

大人が読んでも「なるほど」と思ってしまう。どこまでレベル高いねん、今の子供(笑)。



だがしかし・・だ。なんだろう、この閉塞感は。まず価値観が限定されている。外の輪郭は、せいぜい学歴を身に着けるため、名の知れた大学に行くため、アタマがいいというステイタスを得るため・・・「その程度」の価値観しか伝わってこない。

学びの先にあるもの――つまりは、人生は何のためにあるのか、幸せとは何なのか、知力はなんのために使うのかといった、最も大きな、突き抜けた問題意識が、伝わってこない。つまり、本当の<知>とつながっていない。

<知>の本質とは、それほど難しいものではない。命が抱える苦しみを減らすこと、快(喜び・楽しさ・希望・信頼などの感情・思考)を育てること、

そして、絶え間なく変わりゆく世界の現実を見て、生き延びていくための方法を探っていく。地球規模でいえば、なるべく長く人類という種が生き延びる、その可能性をめざすこと。

苦しみを避けられない定めを持つのが生き物であるなら、<知>を持つ人間の最大の特質は、こうした生き物を越えた価値をめざすことにある。

こうした究極の価値をめざし、共有し、実現するための方法を探り、実用に持ち込んで、現実を変えていく。

それを可能にする<知>こそが、アタマの良さというものであって、学校の勉強ができるとか、たかだが大学に行くとか出たとか、そんなことは、本当は「どうでもいいこと」(妄想による自己満足か、制度化されたただの概念か)なのである。

人間には、世界には、もっともっともっと広くて大きくて切実なテーマがあるというのに、子供たちを取り巻く教育、勉強、進学、学校、教科書、参考書の、この“貧しさ”はなんだろう。

噛むのに苦労する干物のようなものか。必死に噛んで呑み込んでも、あまり栄養にならない。

価値観の貧困、方法の貧困、目標の貧困――だが、勉強とはこういうもの、学校とは、進学とは、社会とは、こういうものだという巨大な決めつけによって、学びが持つ可能性を極限まで狭くしているような気がしてくる。

教育のシステムが、ほぼ出来上がってしまっている。成熟というより、硬直化、もっといえば化石化だ。もっと他にシステムがあるはずなのに、前提となる価値観が貧しいものだから、作り込まれた教育の外に、一歩も出られない。

「よくできた参考書」は、たくさん出ている。だが、他の可能性を探る余地を許さないという大人のエゴのように見えなくもない。

分厚く頑丈な「勉強とはこういうもの」という、大人側が築きあげた監獄というか檻の中に閉じ込められて、その中で適応して結果を出すしか、選択肢がないのだ。

うまく順応して「お利口さん」として生きていける人間は、この閉ざされた檻の中でプライドを満たし、築き上げられたシステムの中でうまく立ち回って、他の人より「相対的に豊か」と思える程度の人生を生きていけるのかもしれない。

だが、その豊かさが、肩書や収入や世間からの賞賛といった程度のものであれば、結局は、妄想の自己満足に過ぎないし、

社会的に価値ある働き――つまりは苦しみを減らし、快を増やすための働き――を果たせるわけでもない。

何より悲劇的なのは、「その程度のことで満足してしまえる人間」を育てる程度にしか機能していない、今の教育システムにさえ順応しきれなかった子供は、何も得られなくなることだ。

周囲は、しょうもないことをめざし、必死になり、得意になる、しょうもない大人であり、学校であり、価値観のみ。

それに順応できなかった自分には、何も残らない。

部屋にこもって、スマホやゲームで気を紛らわせても、そんな自分を自分で肯定できないし、かといって外に出れば、相変わらずしょうもないことしかやっていない大人や学校や社会を見ることになる。

「どうせこうなる」ということが見える気がするから、何もヤル気が起こらない。


大きな書店の参考書コーナーに足を運んだだけで、そんな感想が出てきた。「そりゃ、病むやろ・・」という納得の言葉。

小学、中学、高校、大学受験で「病む」子供は、かなりの数に及ぶはずだ。そりゃ病むのも道理である。目標も、方法も、自分の胸の内にも、何ひとつ意味が見えないのだから。



こんな閉ざされた檻のような環境で、子供たちは生きているのか。キレてしまう子が出てきたって、おかしくない。

その一方で、元気で、素直で、前向きな子も多い。環境に恵まれているのか、持ち前の生命力か、幸運にも病むことを回避できている子も少なくはない。それは「救い」ではある。

とはいえ、学ぶ以外に費やす時間が、動画、音楽、ゲームというエンドレスなデジタル微反応でしかない(そういう子供が劇的に増えていることも事実)というのなら、健全とはいいがたい。体も脳も生き方も育たないであろうから。


時代・社会が変われども、どのような環境の変化にも適用して生き延びていくための、最低限の知力を育てる必要はある。

怠ることを容認してはいけない。スマホやゲームに浸りきった毎日を絶対に肯定してはいけない(社会の風潮がどのようであろうとも)。怠惰とほぼ変わらない「微反応モード」だけで、貴重な十代を終わらせてしまうのは、もったいないし、危険だし、取り返しがつかない。

どのような正当化を試みようと、こうした時間だけでは育たない能力がある。理解力、思考力、集中力、持続力、人間関係を作る力、役割を見つける力、働く力、稼ぐ力――。

自分が幸せになるために最低限守るべき生き方と、社会の中で生き抜くための知力と気力というのは、それなりの「体験」をふまえて学んで(勝ち得て)いくものだ。

だが、体験を潰してしまうのが、スマホやゲームやSNSといったデジタル・ツールなのである。単に崩れているだけ、流されているだけ。抜け出せない最大の理由は「ラクだから」。

その本音があるかぎりは、結局は、大事な能力は育っていないということだ。生き物として弱化・劣化しているという事実は否定できない。



知力を育てるための学びは、時代を超えて必要だ。

だが今の世の中が不幸なのは、学びと異なる、意味の見えない教育・勉強・試験・学校制度が、あまりに強固に確立されてしまって、

そうしたものに積極的に飛び込む理由もモチベーションも湧かなくなってしまって、

かといって代わりにできることは、デジタル機器への依存(ダラダラ時間)だけという状況だ。

その姿を外から見れば、狭い檻の中に閉じ込められていることに変わりはない。

つまらない勉強しか知らない子供は、「なんで勉強しなければいけないの?」と自然に思うだろうし、

そうした勉強しか自分も知らない大人・親・教師たちは、その問いに説得力をもって答えるだけの言葉を持っていないだろうし、

運よく適応して勉強ができるようになった子供も、結局は、見栄やプライドという妄想を満たして終わる、つまりはしょうもない世間の価値観に身の丈を合わせて満足してしまう大人になる可能性が高いし、

ならば勉強しないとどうなるかといえば、今の時代なら、スマホ、ゲーム、動画、SNS、音楽にエンドレスに時間を使って、脳内の微反応だけで生きていく――いや、生きているようで生きていないかもしれない人生に、いつのまにか落ち着いて(堕ちて)しまっている。そんな圧倒的多数の「微反応に支配された人間」の一人になってしまうくらいしか、選択肢がなくなりつつある。




いうなれば、ゆりかごから墓場まで、見栄のための形だけの勉強か、微反応にしか時間を使えなくなりつつある今の時代にあって、

「いや、他にも生き方がある。本当の学びというものがある」と声を挙げて、実際に形にして見せて、わかってもらうというのは、

かなり至難の業であり、無謀な試みではないかと思えてきたりもした。

学ぶための教材は、今の時代、出尽くした感がある。さらに付け足せるものなど、あるのか?

自分に見えている学びのイメージを形にするには、どれほどの実践が必要か。その時間・体力は残されているのか?

そういう場所を開いたとしても、学校・受験のためのお勉強とデジタル機器への微反応に慣れきった子供たちが、本当に集まってくるのか?


なんだか、壮大な失敗をするような気がしてきた(笑)。


さながら、大和朝廷の大軍勢に立ち向かい、あえなく滅びていった地方の名もなき豪族のようなものか。

滅びを覚悟して闘いを挑む。挑んで散っていった勢力も無数にあろう。挑んで、滅んで、勝った者もまた滅んで。

諸行無常が人の世の常だとしたら、時代を超えて価値があることは、挑むことそのものであろう。

――なんていう膨大な妄想を繰り広げつつ、疑問と危機感と使命感と一緒に、十代向けの本を買って帰路についたのでありました。

『人生をスッキリ整えるノート』から



2025年8月中旬





子は親をかばうもの


この場所には、いろんな親が来ます(子のほうが来ることは、ごくまれ)。

親にはもちろんいろんなタイプがあります。ただ、子供のことで悩んでいると語る親については、大きく2パターンに分かれるように思います。

ひとつは、子供の側に事情がある場合。学校生活につまずいたとか、勉強がうまくいかないとか。この場合の親は、子供の味方であり、理解者であろうとしている親ということができます(完全にそうだと言い切れない、怪しい部分もあることが多いものですが)。

もうひとつは、親自身が問題である場合です。案外、こっちのほうが圧倒的に多いものです。

親の側が、しようもない見栄やプライドや自己防衛を隠し持っていて、子供のことで「悩んでいるフリ」をしている狡猾な(小ずるい)親もいます。

親の側が、ネガティブな解釈に凝り固まっていて、端(はな)から子供を否定し、子供に問題がある、子供にはこれができないと勝手なダメ出しを、子が幼い頃から浴びせ続けている場合もあるし(仏教的には「疑(ぎ)の妄想」と表現します)、

さながら閻魔大王のような厳格な裁きの王様的な地位に君臨して、コレをしろ、コレはダメ、と異常なまでに細かく指図、命令、支配して、子供の自由を一切認めない場合もあります。

あるいは、親自身がしょうもないプライド(せいぜい学歴だとか職業だとかその程度の妄想なのですが)にしがみついて、プライドに振り回されて、尊大になったり卑屈になったり、感情的に上がったり下がったりして、子供がいい迷惑、というか激しく翻弄されて消耗して、怯えて、傷ついて、心の安定を体験できない場合もあるし、

これまたプライドの亜種だけれど、自分が人間として空っぽ(価値観の点で空っぽ――つまり何が本当に価値あることか、確かな人生観を持たずに、周りの目を気にして、世間体に合わせるだけで親になってしまったこと)をごまかし隠す、その反動で、

子供の話を一切聞かない、あるいは聞く前に結論を出して、わかったフリをして、本当の対話を遮断してしまう(逃げてしまう)場合もあります。

こうした段階にある親(段階とあえて言うのは、今後、親の側が変わる可能性もあるからです)は、総じて、無理解という暴力を振るう絶大な権力を握った暴君、あるいは操縦不能なブルドーザーみたいなもので、

自分の感情や思惑や見栄やプライドや世間体や自己防衛を、分厚い鎧としてまとって、子供を圧倒し、その心を踏みつぶしていくので、

子供の心は育たないままになってしまいます(「育たない」とあえて大まかな表現をしていますが、その内容は実に様々です。そして根深い)。


親が、そのまま、無理解という暴力をぶん回し続けるのか、多少なりとも、自分自身の危うさ・やばさを自覚して、気をつけて、過去を謝罪して、子供の側が「少しはわかってくれるようになってきたか」と思えるようになっていくか。

道は大きく、この二つに分かれます。おそらく前者が圧倒的多数(つまり子供が心理的暴力を振るわれ、傷つき、病んでいく場合)。

後者は決して多くありません。ただ、この場所にたどり着いて、ある程度この場所での「対話」を重ねた人の中には、後者の可能性が育っていくことはあります。


ときおり親の側から「その後の報告」を受けることがありますが、「よくここまで来ましたね(正しい理解ができるようになりましたね)」と素直に肯定できることもあるけれど、

逆に、親のほうが、本当はまだ真相(正しい理解)に到達していないのに、「わかった(変わった)気になっている」ことが見えることもあります。

この場合は、過去の無理解という暴力を、親が気づいていなかったりします。自分のプライド、自己美化、自己正当化、いわば自分に都合のいい解釈はそのまま守り続けて、「きっとこういうことなのだろう」という理解(実は勘違い)に留まってしまうことも、なくはありません。

このケース、実は子供の側も加担してしまうこともよくあります。親をついかばってしまう。「あなた(お父さん・お母さん)は悪くないよ、他に原因があるんだよ」と言ってしまう。

子供としては、自分が親を苦しめてきたのかと感じてしまうのかもしれない。そんな親がかわいそう、自分にも悪いところがあった、だから自分(親)を責めないで、とつい言いたくなってしまうのかもしれない。

子は、親をかばうもの。「そのとおり。やっとわかった?」と言い放てない。

子供は優しい生き物。やはり親は親のままでいてほしい。謝ってほしくない。そんなことをされたら、苦しんできた過去が無意味だったことを認めてしまうことになりそう、親が親でなくなってしまいそう・・・

過去の関係性があまりに長く続いたがゆえに、一つの関係性が固定されていて、その関係性を変えていくことへの怖さやためらいも、心の中には作動する。

なにより子にとって親は親。やっぱり嫌いたくはない。いい関係でいたい。褒めてもらいたいし、愛されたい。そういう子供の心が残っている限り、親を悪者にすることは、どうしても、できない。

そうした子供の優しさに触れて、親は、「そうだよね、そっちが本当の原因だよね」と内心感じて、安堵を覚えることもある。かりそめの、あやうい安堵。

心と心の関わりは、本当に微妙、繊細で、複雑。


別に、すべてを理解しつくさねばならないというわけではありません。だいたい、およそ、なんとなく、で続いていけるのなら、それで十分。特に親と子であるならば、どうしたって離れるための斥力よりも、近づく引力のほうが強いものだから、分かり合えないまま、でもなんとなく続く、という状態で進んでいくことは可能です。そのことは、悪いことでもありません。

だけれど、中途半端に子が親をかばい、親が自分自身を見つめる厳しさという“切っ先”を鈍らせてしまうと、

子供の側の傷や、怯えや、不安グセや、その他なんとなくモヤがかかったような精神状態が、長く続く可能性はあります。

親をかばってすませたとしても、子供の側の人生は、長い期間にわたって負の影響を受け続ける。どこか軌道に乗り切れない、勢いが出ない、終始モヤがかかったかのような心であり、日々の繰り返し――。


子は親をかばうもの。親は親をかばうもの。子供をかばうのではなく、自身をかばう。

そういうずるさ、あやうさが伝わってくることは、よくあります。ただ親の側は、それが正しい理解だと思っている様子。

そういう時は、この場所は何も伝えません。自分でわかったことにしてしまう――その「自分可愛さ」(自己愛)の姿を見れば、

伝えられる言葉は今のところない、とわかるからです。


ひとつだけそうした親に伝える言葉があるとしたら、「わかった気になってはいけないよ」ということ。「親というのは(つまりあなたという人間は)、本当にずるい生き物だから」。


本当にわかったかどうかは、親の側ではわからない。わかったかどうかは、生涯わからないかもしれない。

それくらいに、親が子を理解して、子が親を越えて自由になるということは、ときに難しいテーマなのです。




2025年8月中旬


もし学校の先生だったら

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 

もし学校の先生だったら、この夏の”狂暑”をテーマに授業を組み立てます。

まず、関連する素材をピックアップ:

・夏の情景を素材にした小説系の入試問題(中学入試から大学入試まで)

・環境問題・気候変動をテーマにした論説問題

・上記テーマに関連する時事ネタ(記事・ニュース)

・石油産業・オイルマネー・気候変動の実態を描いた映画・ドキュメンタリー(いっぱいある)

・科学・産業の歴史(科学史・世界史・経済史)

・何もしなければどうなるか~近未来の地球環境を描いた映像や文章(SF含む)

・かつての夏はどんなものだったか(古典・俳句・短歌から「夏っぽいもの」)

・地球温暖化を防ぐ政策・企業活動・国際協調の枠組み、および現状

などなど。


文学、科学、政治、経済、歴史、未来予測など、関連する分野についての文字情報と映像を、ひととおり集めてワン・パッケージの授業(ワーク)にする。

科目でいうなら、国語(現代文)、古典、社会(政治・経済・現代社会)、理科(気象・物理学・海洋学・地質学)、数学も入ってくる。


小学生なら、体験・感覚レベルで理解できるものから――つまりは小説系の国語の問題と映像と。夏っぽいエモ系の文学・ライトノベル・映画・アニメ。大人も楽しめる。

中高生と年齢が上がるにつれて、評論・哲学・学術論文にも取り組む。英語も入ってくる。


ひととおり素材を集めて(毎年アップデート)、「何に、どのように取り組むか」を提示して(課題化して)、それぞれ興味を持ったところから取り組んでもらう。

・毎日の課題を決める~メイン課題とサブ課題 自分で選ぶ・組み立てる
 
・ひと夏のテーマを決める ~ 地球温暖化でも「あの戦争」でも

1日の終わりに報告、週のまとめ(シェア):

夏をテーマに、何を知ったか、何を考えたか、何を知りたいか、をシェアしてもらう(記述して提出してもらう)。


「このままならヤバいぞ」という問題意識を持ってもらう(持たないほうがおかしいのだから)。

「何ができるか」「なぜしないのか」も考える。

人類という種が続く保証はない、ということも自覚する。


「そんなこと子供に伝えていいの?」と思う大人もいるかもしれないが、そういう人は、現実から目を背けさせるズルい大人かもしれない。

生きるとは、現実と向き合うということだから、現実を知ることが欠かせない。正の部分も、負の側面も。

現実が危うさを増しているのなら、そのことをも知らなければいけない。親も子も。

 

もし私に子供がいたら、「ほんとに人類は滅びてしまうかもしれないよ」という話をちゃんとするだろうと思う。

「今すぐじゃないよ。君が生きている間に来るかもしれないし、来ないかもしれない」

「どんな現実も、ちゃんと見届けないとね。それが生きている人間の務め」

と伝えるかもしれない(考える力があることが前提だけれど)。



現実を見すえて、自分に何ができるかを考える。

それが、知力を育てるための土台になる。生き物の基本でもある。


小学校でも、中学校でも、高校でも、こういう授業はすぐできるはず。特に自我が肥大し始める中学に入りたて(12,3歳)の頃がいいかもしれない)。

というのも、この頃を過ぎると、大人の言うことは聞かなくなりがちだから(笑)。代わりに、心そのものの危うさ(甘え・怠惰・思い上がりなど)も増えていくことが少なくないから。

「このままでいいのだろうか」という問いは、人生のどこかで持つ必要がある。そうした思いが宿れば、大人(親)の言うことを聞かなくなっても、自分で道を見つけていけるかもしれないから。

現実からかけ離れた「しようもない」授業をやっている場合ではない。生きた、現実に直結した学びを提供しないと。でないと、先生だって面白くないのでは、と思う。


週に一度、一回4、5時間くらいの授業ができれば、これくらいの立体的・広角的な学びを創れる。やっぱり土曜の午後か。終わったらご飯を食べる?

平日は、実利も大事なので、学校の勉強や受験用の時間を作る(車での送迎が必要)。

金・土は泊まってもらっていいのだが、男子と女子を分けねばならない。どちらかを誰か(保護者)の家に泊めてもらうか。

実利(学校・受験にも役立つこと)がはっきりしていれば、こうした構成でもついてくる十代はいるのではないか。

ただ、それだけの意欲・モチベーションを持った小中高生がどれだけいるか。スマホ・ゲームに流されずに、「生き抜くうえで大事なことを学ぶんだ」とわかる十代がどれだけいるか。いや、このあたりは、伝える側の人間力、つまりは働きかける力にもかかってくるだろう。

一番いいのは、デジタル機器にも学校のつまらない勉強にもスポイルされていない、まだ白紙かつ柔軟な心を持った小学生あたりから、ゆっくりと本当の学びを体験してもらうことなのだが。


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とりあえずこの映画から見てもらおうかな




2025年8月上旬



溶けていくアタマ(学力低下問題)

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 


文科省が公表した「経年変化分析調査」。

小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。

夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。

参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。


こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。

かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。

今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。

彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。

というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。

勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。

それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?


これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。

「ヤバい」と思う思考力さえないということ???

最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。

ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。

野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。

なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。

こんな状態で何が育つというのか???
 

人生、何も始まらなくなるぞ。




子育て中の親のための学習会

草薙龍瞬の日本全国行脚2025~旅する寺子屋

大人向けの学習会のおしらせ 

  

8月16日(土)に千葉県野田市を訪問。

子を持つ親のための生き方&育て方をテーマに学習会を開催します。

対象は、十代(小・中・高生または不登校中)の子供を持つ親全般です。

親と子両方の側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。

参加者の質問・悩みをテーマとする座談会もあります。

個人的に相談したい方は、学習会終了後に無料の面会時間を設けます。


子育てに後悔したくない親の方々は、この機会をお見逃しなく。

参加希望の方は<申し込みフォーム>にご記入ください。

 


 

 

 

事態が改善しない理由

今抱えている課題を解決するには、まずは自分自身のこだわりを捨てる必要があります。

自分のプライド、自分の考え、自分のキャリアや立場・・中には「そんなに私が悪いのか」的な自己防衛をどうしても解除できない人もいます。

心情的にはわからなくもないのだけれど、そうしたこだわりは、事態の解決には役に立ちません。

なぜなら、そうしたこだわりがあるからこそ、今の悩みにたどり着いたのだからです。

自分自身のこだわりなんて、どうでもいい。取るに足りない、ガラクタのような妄想でしかありません。

もし相手(特に子供)との関係に悩んでいるなら、その相手の言葉をそのまま受け止めて、相手の思いをちゃんと受け止めることが、「当たり前の務め」です。聞くことに、こだわりは要りませんよね。

相手が訴えてくること・伝えてくることは、すべて相手にとっては真実なのです。「そうなんだね」「そうだったんだね」と受け止めてあげるだけ。なにも難しくありません。

自分のあり方が、相手を苦しめていたなら、その事実を素直に受け止めるだけです。素直に受け止めた時には、まずは「ごめんなさい」「悪かった」という言葉が自然に出てくるものです。

別に相手は、その正しさを押しつけようとか、こちらを屈服させようなんて思っていません。単純に「わかってほしい」だけなのです。

だから、わかってあげればいい。聞いてあげればいいだけです。

そうしたシンプルなあり方を頑なに拒んで、「こっちが悪いというのか?」「そういうあなたはどうなんだ?」みたいな、プライド発のこだわりを発散しているというのは、「だから問題がこじれるのですよ」と言うしかない不毛な姿です。

そんなに自分が可愛いのかな? そんなにプライドが大事? ただの妄想でしかないのに?

そうした妄想にこだわる背景には、自分自身も誰かを許せないという不満が隠れていることもあるし、「自分は正しい、エライ」というしょうもない思い込みがあることもあります。

そうした自分、自分、自分という強烈な自意識、自分へのこだわりがあると、

相手(特に子供)の訴え・異議申し立てに、激しく動揺してしまいます。

相手は「わかってほしい」だけなのに、

こちらは「なに? 私が間違っているというのか?」と、自意識で反応し返してしまう。

だからこそ動揺するし、怒ったり落ち込んだりと感情の起伏が極端になるし、激しく消耗するのです。

そうした状況に陥ってなお、「だから相手(子供)が問題(≒私は悪くない)」という自意識を抜け出そうとしない人もいます。

そうなると、相手(子供)には、もう絶望しかなくなります。

単純にね、関わるというのは、互いが幸せを感じるために関わるのですよ。苦しめ合うのではなくて。

苦しめ合う理由というのは、力関係でいえば、「上」の人間が作り出しているものです。ほとんどの場合。

だって、素直に受け止めて、謝るべきは謝って、互いに快適に過ごす関わりを作る努力ができるなら、苦しみは生まれないからです。そうした努力をしないでいられるのは、自分へのこだわりを押し通せる「上の人間」だからです。

自分が上だと思っているから、努力しない。聞かない。わかろうとしない。想像しない。

上だと思っている、その思い込み、自分へのこだわりから、潔く降りる必要があるのです。自覚すること。地べたに立つこと。素直になること。

これは何歳になっても同じ。親であっても、まったく変わらない真実です。



夏の国語キャンプ2025開催のおしらせ

興道の里から

夏の国語キャンプ2025の開催が決まりました:

*千葉県野田市 2か所で開催
 
千葉での国語キャンプの概要は以下の通りです。

予約受け付けを開始しますので、下記の予約フォームでお申し込みください。
 
SNSなどによる告知・紹介は自由です。小中学生をお持ちのご家庭にお知らせください。 

お問い合わせは興道の里事務局まで koudounosato@gmail.com


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夏の国語キャンプ2025 千葉野田市

2学期が始まる前に国語を得意にしちゃいませんか? 小5から中3を対象に“国語キャンプ”を開催します。面白くて良質な文章を選んで、国語の読み方・解き方をわかりやすく授業します。

勉強だけど、勉強っぽくない“ゆる系”の国語です。でもちゃんとチカラがつきます。筆記具だけ持参してください。お友だちや親と一緒もOKです!
 
主催  子供の明日を育てる会(千葉県野田市)
事務局 興道の里事務局 


8月16日(土)午後1時から
千葉県野田市フリースペース コキアの丘
 
下記QRコード または リンク先から ご予約ください


 
 
 
 
8月31日(日)午後1時から4時まで
欅のホール 千葉県野田市中野台168-1   

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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今回がいわば、旅する寺子屋の ”こけら落とし” です。

このプロジェクトは、春・夏・秋・冬と、一年を通して開催していきます。

集会所・公共施設・子ども食堂など場所を見つけて、ご連絡ください。


興道の里・草薙龍瞬は、未来を育てる活動を始めます――
 
 



興道の里・明日を育てるプロジェクト
2025年7月





虚栄心ゲームには乗らないよ

 

中高生が使っている教科書、参考書、学校のプリントを見せてもらうと、

「まだこんな(いい意味ではない)ものを使っているのか」と愕然とする。


そもそも学問・科目の本質が見えてこない。

その分野の全体像や、原理的な発想や嗜好の組み立て方を言語化できていない。

生徒は生徒で、ただ真面目に頑張って、授業についていって、試験に備えて、目先の成績を維持するか上げれば、将来が開けると勘違いしている。

学力は育っていない。むしろ下げてしまっている。

半世紀、まったく変わっていないのではないか。




本当の学び方を教えることはできる。やり方さえわかってしまえば、誰だって満点が取れてしまう。

だがそうなると、結局みんなできるようになってしまって差がつかず、そうした学び方もまた虚栄心を満たすゲームに利用されることが目に見えているから、

伝えることはいつでもできるが、あえて黙っていようと思う(笑)。


誰に対してなら、”極意”を伝授できるのか。

虚栄心を満たすゲームに乗れなかった子、人の痛みがわかる子、社会の役に立つ人間になろうと思える子、純粋に知的好奇心があって、人を見下しておのれの優越を維持しようという邪心がない子たちになるだろうと思う。

あいかわらず、試験で点が取れればいいとか、いい大学に進めることが価値を持つとか、そういう虚栄心ゲームに興じている人間が多い。大人も子供も先生も親もだ。

しかもその手段としての勉強が、的(本質)を外したままであることを、今さらながら知って驚く。


知能だけでなく、心も育てないと。素直な心でいられるうちが勝負だ。

やっぱり小学生。乗りきれなかった中学生。学校や社会の非合理・不条理を感じ取れる十代か。

そうした相手なら、伝えることに価値が生まれる。

 

本気と本質に触れたい子供たちに来てもらえたらと思う。これから始まる場所に。


 

2025年6月下旬




大きくなったら何になる?

 

「若い」というのは、年齢というよりも、どんな時間を過ごしているかで決まる気がしてきます。

若い人たちの特徴は、まったく新しい(未知)の体験に飛び込んでいること。

そのぶん緊張や不安もあるのかもしれないけれど、「やってみる」ことに踏み出せる。前に進むことが当たり前。身も心も、それができるようにできている。

体験することを恐れない。体験そのものが生きること。

それが、若さの特徴のような気がしてきました。



では、そうした若い命(※若いという言葉を連発すると、そのぶん自分が年寄りになった気がしてよろしくないのですが笑)のそばにいる大人の特徴はどうかというと、これは2つに分かれる気がしてきました。

1つは、「やってみる」姿を見て、自分も喜びや楽しさを感じられる大人。

もうひとつは、自分のほうに意識が向いていて、やってみる姿に共感できない大人。

後者は、仕事か、趣味か、過去か、性格か、人によっていろいろだろうけど、若い命のそばにいても、別のことに心を使っている。 いつも気難しい顔をしていたりして。



考えてみたら、心はとらわれることなく、自由にして、流れ続ける状態が、本来の幸福(快)であるはずだから、


そうなることを促してくれる、若い命の「やってみる」の間近にいられることは、すごく貴重にして幸福な時間のはずなのです。

自分にとらわれずに、若い命(幼い子であれ、小学生であれ、高校生であれ)に心を合わせて、自分も喜びを得るという、

それができる、親、学校の先生、保育士さんたちは、実はすごく贅沢な時間を過ごせているということ。

人間というもの、自分一人で幸せを感じるのはそもそも苦手な生き物なのだから、ほんとは、若い命に合わせれば(ときに一緒に遊んでもらえれば)一番いいのかもしれません。

それができるためには、”自分抜き”、つまりは自意識を抜く、すなわち妄想を解除することが必要になってくるのだけれど。



「大人になったら何になる?」という質問は、将来、望みが叶うとしたら何をしたい、何になりたい?ということ。

ちなみに私が今なりたいのは、保育士さんです。

資格を取れるのかどうか(取っても雇ってもらえるかどうか笑)わかりませんが、今ならできる気もします。

保育という仕事の難しさや責任は別の話として、幼い心に自分の心を合わせることは、昔の自分よりも、今のほうがはるかにできるような気がするのです。

”自分抜き”ができると、遠い昔の自分が感じていたこと、考えていたことも、わりと自由に思い出せます。机の引き出しを引くかのように、当時の自分を取り出せる。相手の心に合わせることもできる。

大人の引き出しと、子供時代の引き出しを、自由自在に引き出せたら、相手に合わせることが可能になる。「遊べる」ようになる。

子供の相手がすごく上手な保育士さんや学校の先生がいるけれども、そうした人は、引き出しを引くことが上手なのだろうと思います。心が自由。だから軽やかに引ける。

若い命のそばにいられる人は、自分抜きをして、いろんな引き出しを錆びつかせないようにして、楽しく過ごしてほしいなと思います(お節介ではなく、自分もそうありたいという純粋な願いとして)。

今いるその場所が特等席みたいなものだから。



2025年4月下旬



「そんな人生もあったらいいな」の5年後

 

そもそも興道の里の「興」の字は、実は 同 ではなくて、幸 を両手で支え持つという象形文字です(勝手に造った漢字(笑))。

日本に帰ってきた2011年夏に、この国の幸せを増やせるような活動をしようと考えて、最終的に選んだのが、この呼び名でした。

「お寺のような、学校のような、里のような場所を作りたい」というのは、活動当初からお伝えしていたこと。

でも、その頃は、講座にもほとんど誰も来なかったし、本も出していなかったし、出しても(最初の本が2012年)まったく届かなかったし、

生きていけるかどうかもわからない。「いつかインドに帰れたら」という思いで、教室に竹筒を置いていたような状況でした(2013年12月にインド帰郷が実現)。

「里」と呼べる場所も、できたらいいねというくらいの話で、ほとんど現実味はなく、「せめてめざすとしたら」という、まさに方向性(妄想)として使っていたくらいの話だったのです。


幸いに、これまた奇跡というしかないくらいの幸運だったのだと思いますが、2015年夏にあの作品が世に出て、多くの人があたたかく迎え入れてくださって、

最初の方向性に、少しずついろんなご縁がつながっていって、

あのコロナ騒動に突入して、この世界の行く末と、個人的な身の置き所をいっそう真剣に考えるようになって、

いろんな偶然が重なって、今の場所にたどり着くことになりました。


この先どんな物語が始まるのか、紡くことができるのかは、これは想像がつかない(未来もまた因縁次第なので)ものですが、

それでも、方向性(意志)と因縁と、自分自身にできること――の組み合わせによって、不思議といえば不思議なことが、形になろうとしています。

本当に不思議--。


今思うのは、「めざしてよかったな」ということです。

そしてあきらめることなく(あきらめるというのは、負の妄想を選ぶということでもあるから)、

でも過剰に夢見ることもなく、

謙虚に、素直に、地道に、自分にできることを日々やり続けて、歩き続けただけですが、

その先に、最初に夢見たことが、ほんとに形になった――そんな未来にたどり着こうとしています。


下記に紹介するのは、2020年10月にお伝えしていたこと。場所を見つけるどころか、そんなことができる未来が来るとも想像しなかった頃に書いていたことです。不思議--


◇◇◇◇◇◇◇◇◇

たとえば、どこかの古民家とか、旧診療所とか、集会所など、広めの家屋を、「使ってください」と提供してくれる人が、ひょんなきっかけに現われたら、

そこで、大人と子供たちを呼んで、〇〇〇〇〇を始める――というのは、現時点でも可能。


ちゃんと生き方を伝えますよ。人は幸せになるために生きている、その方法はちゃんとある。

学校や、世の中のおかしさも、ちゃんと伝えます。

こういう生き方のインプットは、小学生までが、ひとつの勝負どころ。


大部屋使って、「学校」みたいなことを始めます。

国語と英語と社会は、かなりレベルの高い、洗練された、本物の学びを提供できます。

数学だって、使う教材を選び抜いて、センスが身に着く、本物の学びをしてもらいます。

学者や作家や、その他あらゆる世界のプロが書いた言葉や映像に触れられる オリジナル教材を作って、

中味の面白い入試問題を選んで、それを使って、論理的な読み方・書き方・考え方を、体験してもらう。

大人がやっても面白い、知的能力が確実に育つ、本当の学びを提供する。


そこでは、和尚であり、父ちゃんであり、先生です。そこで、生き方をちゃんと吸収してもらう。

道場みたいな、学校みたいな、私塾みたいな場所――それなら、今でも可能です。


で、週末とか、夏・冬の休みには、全国から親子で来てもらって、

大人の悩みにも、子供たちの学びにも、朝から晩まで、つきそって、背中を押して、送り出してあげるという――。

ちっちゃな田舎の駅まで車で送って、バイバイ!みたいな。


そんな妄想をしてみました(>▽<*)。


きれいな夕焼け空が見える場所がよいです。

そんな人生も、あったらいいな。



その5年後に本当に見上げている空

空の色だけお見せします(笑)



春に思うこと


本格的な春到来でしょうか。

〇〇の拠点づくりは順調に進んでいます。

と同時に、「しっかり育てていかないと」という強い思いも新たにしました。


ちなみに、「しっかりやらなければ」という思いをプレッシャー(過重な責任感)に変えないためには、「(できることから)やってみる」という発想に切り替えることがコツです。

やってみるだけ。やるだけ。


まずは、夏以降に現地に移って(猫のサラも移住予定)、地元の人たちになじんで、

地域の子供たち、そして興道の里(大人)経由で足を運んでくる十代のみんなに向けて、簡単な寺子屋(授業)から始めたいと思います。





いくつか大きな隠れテーマ(あまり表立って言わない目的・方針)があって、

その一つは、「評価しない」ということ。

学び・勉強の仕方は伝えるし、結果的に成績が上がるだけのクオリティは維持するのですが、課題・問題に取り組むとしても、それに点数をつけたり、一時的な評価をしたりはしないようにしようと思います。

勉強、イコール評価(数値化)--という物差しが、どうしても学校・受験、つまり十代の人たちの世界にはつきまといがち。

でもそうした評価を、良し悪しを測る基準にしてしまうと、

もっと大きな、もっと広く深い、学ぶこと自体の面白さというものが、見えなくなってしまうと思うのです。


評価という物差しを外しても、面白い、知りたい、考えたいと思える心が最善。そうした心であれば、

大人になっても、歳をとっても、知ること、考えること、学ぶこと、体験すること、成長することが楽しくなる。純粋に楽しめる。

硬く表現するなら、「自立した知性」をアタマの中に育てる。

自分で学び、自分で知り、自分で考えて、自分で人生を創っていく。

評価されなくても、誰かに認めてもらわなくても、他人・周囲が別の方角を見ていても、

「人は人。自分は自分で答えを出す」

そういう生き方こそが本来の「当たり前」だというところに立てる人間をめざしたいのです。




なので、寺子屋で伝えることも、大人になった(なってしまった)私にとって意味あること、面白いと思えるものにする予定。

教科書・参考書も、面白い・役に立つと思えるものがあれば使うけれど、つまらないと感じたら(大人の自分が伝える気になれなければ)遠慮なく捨てて、別のものを使う。

伝える側(いわゆる先生)が、「これは面白い、伝えたい」と思えるかどうか。そこまで心動くものを使わないと、伝える側が楽しめない。当然、受け取る側も楽しくない。当たり前。

自立した知性というのは、年齢・学年を超越している。だから大学生でも、院生でも、社会人でも面白いと思えるであろう内容かどうかを、その時間・教材の中味を決める基準とする。

そうした大きな価値・本質というものを保つことを前提に、子供たち(主に小学5年生以降を想定)に伝わる言葉・内容を工夫していく予定です。




これ、けっこうハードルが高い。自分の心が若くないと(面白さがわかるくらいのみずみずしさがないと)、面白さがわからないし、伝えようというモチベーションも維持できない。

そこで寺子屋の完成と同時に、自分なりに禊(みそぎ)のイニシエーションをしなければ、とも思っています。

つまりは生活と仕事内容の刷新。古いものを持ち越さない。


せっかくのチャンスなのだから、自分自身をリニューアル。


興道の里も、第2章、いや完全な新章に入るということです。そうしましょう^^。




この場所(みなさんとのつながり)は、そのまま生きていきます。器として大事に守っていきますが、中身が入れ替わるということです。


中身は、新たな拠点で始まること、始めること。


こういうのは、行動あるのみ。やってみよう、ということです。


写真ありがとうございます

 

 

2025年4月初旬

本気で叱れる親になれるか

 
子育ては、そんなに難しいことではないはずです・・。「大変」ではあるけれども、「難しい」ことではないはず。というか、難しくしてはいけないし、難しいままにしておいてはいけないものだと思います。

難しいとしたら、どこか勘違いしていると思い直すほうがよいのかもしれません。というのも、

子供の「体験」に同伴して、将来の「自立」まで、そのそばにいる。
 
自立への後押し(必要な支援)をしてあげる。
 
時期(一定の年齢)がきたら、自分で稼いでもらう。そして自分の人生を生きていってもらう。

その時に子供に依存しないように、自分の生活や老後については、自分なりに準備しておく。

老いた親としての自分も自立、子供だった人も自立。それが親子の基本線。

心がけるべきは、「体験」と「自立」です。


体験については、子供のもの。子供が選んでいいもの。

親が期待した反応や結果が返ってこなくても、そこにとらわれてはいけなくて、もし親の側ががっかりしたり、不満に感じることがあったら、「求めすぎているな」と自覚してセーブする。それも基本。

体験したことを、子供が好きと感じるか、嫌いだと思うか、何も残らなかったか、というのは子供の自由。

体験したことが、身に着いたか、その先につながったかというのも、本来は子供の自由。

これは、学校、運動、勉強、遊び・・なんでも同じ。


ただし、体験さえ、めんどくさいとか、何もしたくないと言い出して、そんな状態が長く続いて、「自立」を妨げるおそれがあると思えるような状況にまで至ったら、

そのときは親としては、きちんと話をする必要が出てきます。

「話をする」ということは簡単じゃない。本当は難しくないはずだけど、親の実感としては、やっぱり難しい。

というのも、子供を一人の人間として、自分とは別の人格として、きちんと線を引いたうえで、まずは話を聞く、理解する(裁かず、過剰に反応せず)という心がけが大事になるからです。

今の子供の状況と思い(心の中にあるもの)を、理解しようと努める。

「理解したいと思っている」という立場に立つ。

そのうえで大事なことは、子供の立場(同じ目線)に立って、「自立」について真面目に考えること。

学校に行かないことは選択肢としてアリとしても、自立への準備、つまりは基本的な学びと進学(学びを体験する場所に進む)ことは、考える必要がある。

その準備さえ崩れてしまっている、近い将来の自立さえ決定的に危うくなりつつある・・そんな状況を目の当りにしたら、親としては、「あわてる」ことも「放っておく」ことも正しくなくて、

「よく聞く」(理解しようと努める)という一線は守りながらも、子供の立場に立って、「この先の人生、どうするつもり(今の考えを聞かせて)?」というところは、しっかり伝えていいし、
 
そうした問いから逃げているように見えたら、「待て」と本気で言える覚悟は、必要であるように思います。

子供が、体験することさえイヤがって、生活が不規則になって、学校に行かなくなって、将来への準備もしなくなって、

では何をしているのかと言えば、ゲーム、ネット、動画ばかり・・・というなら、

それは自分を甘やかして、つまりは怠惰を正当化しているだけで、本人はどこにも進んでいない。

そのままでは何も育たなくなる。そのうち動けなくなる。
人と関わることや社会に出ることさえ、めんどくさいことになってしまう――。

そういう可能性が見えた時にどうするか。その時にこそ、親としての役割が問われます。

時代がどんなに変わっても、人間は自分の力で、社会の中で生きていく必要がある。何もしないわけにはいかない。

だから「自立」が遠ざかりつつあるように見え始めたら、どこかで真剣に向き合うことが必要になるのです。

その時には、親として、そして一人の人間として、自分の思いをぶつけてもいい。人間なのだから、関わっているのだから、当たり前。

本人の人生がどんどん危うくなっているのに、何も言わない、怒らない、叱れない親というのは、

結局、自らの関わり(責任)を放棄しているだけで、本当は「ずるい」のかもしれないのです。


「ここまで行ったら、自分の人生が危うくなる」というラインは、本人には見えにくいもの。溺れている人、流されている人、みずからをコントロールする力が弱い人、将来を想像するという発想が乏しい人には、見えにくい。

だが、そうした人の姿を許容してしまったら、その人にとっての判断基準は、「今、自分の気が向くこと」しかなくなってしまって、

体験することよりラクをすること、社会の中で生きることより、自分の世界に引きこもることを、選びがちになってしまう。

そうやって、人生の時間が止まったまま、物理的な時間だけは、十年、二十年と過ぎていく。子供だった人も、気づけば「大人」になっている(少なくない)。


よくある傾向は、そうした人の親というのは、存在感が希薄で、「自分はこう感じている、こう思う」ということをストレートに伝えないこと。

叱れない、怒れない親。そういう親の姿は、怖くもなんともない。子供は、ラクに流されても許されることを「体験」してしまって、「自立」への準備という、体験、学習、成長するための作業が、めんどくさい、しんどいことになってしまう。

社会というのは、自分以外の他者と出会い、関わる場所。

親がその最初の他者であるはずだし、他者にならなければいけないのに、子供からすると親は存在しないに等しい、都合のいい存在になってしまう。つまり他者がいなくなってしまう。

そして家庭は「自分しかいない場所」と化す。

他者とぶつかったり話をしたりして、考える、変わる、自分を律することを少しずつ学んでいく機会が失われて、「自分」と「時間」だけが流れていく。

そして歳月が経って、社会(外の世界)はますます遠くなり、何もできなくなった自分が残って、

中にはそこまで行ってから、「親は何もしてくれなかった」「自分がこうなったのは、親のせいだ」と言い出す”大人”も出てくる。

一面で、その言い分は正しい。そう、親は何もしなかった。向き合おうとしなかった。

子供だった自分は未熟で、弱くて、たしかにだらしなくて、甘えていたのかもしれない。

でも、そういう自分に、親は何も言わなかった。

言わない親より、言ってくれる親のほうが、

だらしなかった自分を叱ってくれる親のほうが、

自分の姿を見て、嫌いなものは嫌いだと言える親のほうが、

そんな親の反応や言葉を聞いて、少しは考える可能性も生まれたかもしれないし、子供にとってはありがたいし、必要だったのに、

親は何もしなかった――。

これが、「体験」と「自立」という、子供にとって欠かせない要素を欠いた場合の結果です。


怒れない親よりは、本気で怒れる親のほうが、

叱れない親より、真剣に叱って見せることができる親のほうが、正しいということです。

もちろん、怒ってばかり、叱ってばかりの親が正しくないことは、言うまでもなく。なぜなら、こうした親は理解していないから。理解しようとしない。こういう親には、子供は苦痛、不満、不信を育てていって、親を信頼しなくなる。今さら親が聞こうとしたって、話しても無駄だと子に思われてしまう。

でも今お伝えしているのは、そういうことではなくて、

「体験」と「自立」という欠かせないテーマがおろそかになっているのに、そのことに気づけない、気づいても真剣に向き合えない、本気で怒れない、叱れない親についてです。


最終的には、

子供が何をしても怒らない(人間として向き合わない)親と、

子供の人生が危ういかもと感じた時には真剣に怒れる親と、

2種類に分かれるような気がします。そう表現しても間違いではないのでは。


自分はいざという時に本気で叱れる親か。本気で向き合う時はいつか。

しっかり考えてゆかねばなりません。




2025年3月


碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで4


学校、東大、官僚、政治・・一つ一つの現場を、自分自身が知っている限りで思い出すと、この社会は ”巨大な碾き臼(ひきうす)” のようなものかと思えてきた。

霞が関であれば、御上先生の志や能力さえも摺り潰される。
 
学校であれば、あのドラマの学生たちの明るさや優しさも摺り潰される。
 
創造力に富んだ先生たちの意欲も摺り潰される。

ならば日本を変えようと法律家をめざしても、法律を書き、政策を作れる ”創造的法律家” になれる道は、日本にはなく、司法制度の枠に収まっているうちに摺り潰される。
 
政治家になっても、これまた打算計算と保身にまみれた周囲の人間たちの間(はざま)で、摺り潰されてしまう。
 
日本という社会は、いくつもの碾き臼(ひきうす)が歯車のように重なった場所で、その中を潜り抜けようとしているうちに、摺り潰されてしまう。ゴリゴリと。

そういう場所かもしれないと、ドラマを見ながら思った次第。
 

(しかしプロの俳優さんはほんとに演技うまい笑。松坂桃李さんもイイ感じ。御上先生の闇を抱えた目とか、母の前で過去の葛藤を思い起こす表情とか)



日本を変えるのは、たしかに教育。だが教育の現場さえ、碾き臼と化している。

重症なのは、大人たちがみんな、碾き臼を回すことに加担していることだ。

中高生のみんなに罪はない。

最も罪深いのは、今の学校、試験制度、教育政策を支える側に回ってしまっている思考停止の大人たちだ。

ゴリゴリと回して、未来を摺り潰している。


変わるには、どうするか。まだひとつ残っている。かなり狭い道だけれど。

今は言いません。


御上先生の問題意識、しっかり受け止めました(今日、最終回)


2025・3・23
 
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで3

 
教育をおかしくしているのは、試験制度も一つだが、親、現場の教師、受験産業、そしてメディアまでが加担する、過剰かつ不毛な東大&高学歴信仰にもある。
 
今の時代は、学歴が売り物にされ、たかだが学生でしかない東大生であることが価値がある、すごいことのように扱われている。
 
これこそが最大の陰だ。中身のない、誰も幸せになれない陰。
 
一時的に持ち上げられて自分を勘違いする学生もいるだろう。もてはやされる姿を見て、「自分もああなりたい」と刷り込まれて(社会化)されて、その価値観が近い将来、自分を疎外(否定)する理由になってしまう学生もいるだろう。
 
一部の人間たちが過剰に持ち上げて、煽って、騒いで、商品化する。そのことで、大学の先にある本当の使命というものが見えなくなっていく。
 
これもまた日本を覆う陰の一つだ。だが陰であることに気づかない。日本人がみんな陰に慣れ過ぎているから。

勉強ができる、アタマがいいことが価値を持つ? でも東大に入ったところで、卒業したところで、何をめざすのか、どこにたどり着けるかといえば、どうだろう? 学んだことが、自身の幸福と社会への貢献につながったか、つながるような仕事にたどり着いたか? はて?

東大に行きました、立派な成績で卒業しました、資格取りました、こんなに私は優秀でした・・

そう言いたがる(売りにしたがる)人もいるかもしれないけれど、そのたどり着いた場所(自分)が、はて本当にどれほどの価値を持つのか。
 
そもそも本人は満たされているのか、社会に役立っているのか 
 
といえば、素直にうなずけるケースはあまりない、と言っても過言ではないかもしれない(←ちょっと霞が関文学?)。


学歴が立派、頭脳優秀だと思われている、思わせたがる、思わせている人は、大勢いる。もう飽和状態だ。出尽くした感がある。

とはいえ、「アタマがいい自慢ができる人」の大半は、入った大学(勉強ができたという程度のこと)に価値があるという前提(社会が共有する幻想)がないと成り立たない立場だったりして
 
(ほんとにすみません・・でもやっぱり「その先」をめざさないといけないのだと思います)
 

なんでこういう「アタマがいい自慢」が通用してしまうかといえば、それだけ日本の教育が、試験制度が、価値観が変わっていないからだ。

まったく変わってない。日本人の意識そのものが。

だからこそ、東大や官僚という、本来ただの大学や職業にすぎない記号が過剰な意味を持ってしまうし、「上級国民」といった言葉が通用してしまう。

実態は別のところにあるのに。実は上級といえるほどのものはなく、どこまで行っても空っぽかもしれないのに。
 
 
ちなみに御上先生、『金八先生』については批判的に語っていたけど、『ドラゴン桜』という東大信仰、つまり社会全体の無思考の上に成り立つドラマには触れなかった。あれこそ教育の閉塞を長引かせる無思考型のドラマなのに。 
 
触れなかったのは、同じ系列だから? 学歴という記号に過剰な価値を見出す親や、受験産業や、そこで熱血指導している教師たちと同じように、自分たちもまた無思考の檻に囚われていることに気づいていない?
 
自己批判こそは思考の原点、最初に潜るべきイニシエーション(通過儀礼)みたいなもの。
 
自分の足元にある欺瞞を見つめないと、本当の思考は積み上げることはできないよ。 
 
東大めざせとか成績上げろみたいなことを、いい歳をした大人が真面目に語って、大学入試を「見上げている」こと自体が、無思考の極みであり、すごくカッコ悪い姿だという視点は、あったのかなかったのか、どうなのかな・・。
 
 
よく聞く「東大行くのは手段でしかない」なんていう言葉も、実は思考停止の言葉だ。
 
もっと大きな使命や目標を実現する手段という意味ではなくて、いつの間にか「自分のプライドを守る手段」に取って代わられてしまう言葉だから。
 
試験で勝ち抜くことを選ぶ人間は、思考停止のために「手段だから」といって、自分を正当化するんだよ。何十年も前の東大生だって語っていた言葉。
 
だから「手段にすぎない」という言葉さえ、思考になっていない。自己欺瞞。
 
 
そこまで突(つつ)いて、「考えて」、東大をめざす・受かるという価値観そのものが、無意味な妄想でしかない、日本社会全体が巨大にして無意味な妄想に呑まれている――。
 
そこまで心の深いところで言語化できて初めて、日本社会を覆うバカバカしい陰に気づく人間もちらほらと出てきて、
 
その知力を社会のために活かす、完全に自立し自由になった人間が現れる可能性が出てくる。
 
今の日本社会から自由になれるくらいの知力を持った人間でないと、社会を変える・創る力は持てない。 
 
冷静に考えれば、当たり前の真実だ。
 
そうした本当の頭の良さを持った人が、何人出てくるか。行政、司法、政治、学問の世界に――
 
あまりに遠い地平だけれど、それを真剣に見据えて働きかけることこそが、教育なのではないのかなと思う。
 

教育だけなんだよ、未来を育てることができるのは。


教育の原点は、志だ。

志は強靭でなければならない。

強靭であるためには、心の深いところで言語化できていないと。

 

たとえば、御上先生が教室で、自分の十代の頃、東大時代、官僚としての日々を振り返って、

今の日本がどれほど不毛な幻想の檻にとらわれているかを伝えることができたら、

そして、点を取るための勉強にとらわれがちな学生の意識をひっくり返すような ”志” を伝えることができたら、

中にはその志を深いところで守って、大人になって、立場や力を得た時に、少しはその使い方を考えるかもしれない――。

あるいは、ドラマを見ている視聴者が、あの教室の高校生の一人として御上先生の話を聞いて、「そうか、そんな人生を生きよう(生きればよかったんだ)」と深く思えたら、

「教育を変える」一つの働きを果たしたことになる。視聴率とは関係なく(笑)。

 

語ってみてほしかったな、と思う。もっとストレートに。

日本社会、日本の教育を覆う巨大な陰、言い換えれば”欺瞞”について。




余談だけれど、試験制度の不条理や、そんな制度の枠から抜け出せない自分への懐疑を抱えた「考える人」は、僕の周りにはちゃんといた。
 
みんな、それなりに悩んでいたし、考えていた。東大という「檻」に入ってしまった自分を疑う懐の深さ(考える力)を持っていた。「人間」であろうとしていたよ。
 
でも逆らえないから、順応することを選んできていた。その中途半端さが、幼かった僕自身には不満だったのだけれど。
 
 

今の学校、教育、大学、官僚組織、政治や学問の世界――
 
総じて、大したことはできていない。 
 
だから社会全体が停滞、硬直し、地盤沈下を起こしている。
 
闇というより、巨大な陰なんだよ。
 
みんな陰の中で暮らしているから、光(本来のもっとまともな姿)を忘れてしまったから、陰に覆われていることに気づかない。
 
 
(まだ続きます、すみません)
 
 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22
 

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで2

ならば、本当のトップはどこにいるかといえば・・いない。たぶんいない。

プライドを守る熾烈な競争を勝ち抜いたところで、この小さな社会にプライドを守り切れるポジションなんて、たぶんない。

官僚としてトップに上り詰めたところで、それで何を得るのか、その実態を見れば、どうだろう・・・そこに魅力的に見える価値があるか、さほどの旨味があるのかといえば、たぶんない。

試験制度を生き抜いてきた人たちは、プライドの張り合いの中で生きている。多少偉くなったところで、局長、内閣官房付、事務次官あたりか。天下りといっても、本人がやりたくて「下る」わけではないし、楽しい、面白い仕事というわけでもない。

外から見れば「上級国民」みたいなレッテルを貼りたくなるかもしれないけれど、その実態は上級なんて呼べるようなものではない。

トータルで見れば、それほどでもないよ、と思う。官僚と言われている人たちも、案外地味に真面目に働いているだけだったりする。国を支えているという個人的矜持を支えに、激務を引き受けている人もいる(立派だと思う)。プライドだけの人もいる半面、御上先生のように自分の志をひそかに守っている人もいる。

でも、外から見えるほどの賞賛や権力や贅沢を享受しているわけでは、到底ない。おそらく。

哀しいことに、勉強に励んで東大という場所に入っても、そこはただの大学でしかない。しかも日本社会全体が、その先に知力や能力を伸ばし、活かせるような環境ではないかもしれない。
 
要は、人間が育たない。

人間が育ちきれないシステム。それが日本社会。のような気がする。



そんな社会の中に、あのドラマの高校生たちも生きている。みんな人間的。自分の意見を言える(セリフだけど笑)。御上先生と対話ができる。自分を見つめる感性もある。

でも実在する試験巧者・試験強者は、もっと「サイボーグ」(笑)。なにしろ勉強さえできればいいという究極の合理性を研ぎ澄ませているから。

そういうリアルなサイボーグに、あの隣徳学院の学生たちは勝てない。多少勉強法を工夫しても、最後までサイボーグとして突っ走る、突っ走ってきた試験強者には勝てない。さながら疲れを知らないAIと人間が張り合うようなもの。少しでもスキを見せたら抜かれてしまう。そういう現実もあったりする。


と同時に、勉強だけしていればいい、成績さえ良ければいいという環境で、追い詰められて潰されていく人もいる。

本当は、勉強にとらわれずに、自分にできて、苦痛がない、いわば向いている仕事にたどり着ければ、それでいい。社会にとっては、それが最良の姿。幸せな人生を生きられる可能性が増えるから。

だが、そうした幅のある生き方を許容する懐の深さは、この社会にはない。知力・能力・感性を伸ばせる教育は、学校という現場に育っていない。

大人たちの意識も、使う教科書や教材も、そもそも試験制度自体が、実はきわめて偏っていて、その中でいくら優等生をめざして頑張っても、本当の知力は育たない。そんな場所になり果てていたりする。

できあがった学校、勉強、東大を頂点とする学歴社会と、官僚、政治、日本人全体の意識--本当はどれも偏っていて、古くて、中身が薄くて、

その中でいくら頑張っても、本当の知力は育たず、能力を発揮できず、その先の人生はアタマ打ち。たとえば、東大を出て官僚になっても、医学部を出て医者になっても・・思いきり大胆にいうなら、「その程度」でしかない。

職業としての尊さ・かけがえのなさは、言うまでもない。どんな仕事も価値を持つ。「その仕事がなくなれば、何かが回らなくなる、止まってしまう」ならば、その仕事には大事な意味がある。職業に貴賤はないというのは真実だ。そうした仕事観・人生観を持てることが、成熟というものだ。

だけれど、プライドを守る、人より高い点数を取るという目標を覆い被せた途端に、先にあるのは「その程度」の職業であり人生、ということになってしまう。

どんなに頑張っても、頭打ち。そういう志の低い社会ができあがる。教育が、その最大の原因だ。



リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

碾き臼 ~『 御上先生』にちなんで 1


この冬は何本か(だけ)TVドラマをフォローしました(日本を離れていたので全回見きれず・・TへT)。
 
その一つが、日曜劇場『御上先生』。

いろんなテーマが広く取り上げられていた。日本社会の闇、というより陰。見ようと思えば見えるのだけど、光が当たらず忘れられがちに。結果的に社会全体を覆う思考停止の一要因になってしまっている部分。
 
このドラマは、それぞれのテーマを「知ってもらう」ことを意図して作られたのだと感じた。答えを出すのではなく、問題を知ってもらって、それこそ「考えて」もらおうという。
裏口入学のラストエピソードは、ドラマであるがゆえの(こうしないと1クールにわたるドラマにならない)致し方ない設定でもあったんじゃないかな。本当に伝えたいことは、セリフで語らせていた(特に最終回)。

 
御上先生の言葉を受けて、こんなことを「考えて」みた――。
 
教科書検定問題は、古いテーマでもあり、最新のテーマでもある。家永教科書訴訟は60年代から(もう半世紀以上前だ。びっくり)から、奈良教育大付属小の授業問題まで(2024年3月、ちょうど一年前。もう陰になってしまっている)。

後者では、国語の書写で毛筆を使わなかったという程度のことで(他にも理由らしきものは言われているけれど)、学長・校長・教員らが懲戒処分に。
 
「二度と起こらないように厳しく監督していく」と奈良国立大学機構がコメント。

印象的なのは、このコメントだ。「何様?」と唖然とするほかない口ぶり。病的な上から目線。いうなれば、システム・ハラスメント。組織という体裁を使って、実は内部にいる人間の主観を判断基準として強要している姿だ。

ドラマの中で教科書検定制度を支える法的根拠(法律・省令)に触れていたけれど、実は法令の文言が問題を引き起こしている(法令を変えれば現場が変わる)とも言いきれない。

というのも、法令上の言葉は、解釈・運用次第で異なる意味を持つからだ。もし運用する人間の解釈(人生観・価値観・教育観)が変われば、現場のありようも大きく変わる。教育を阻害しているのは、実は人間だったりする。制度ではなく、人間が原因。意外と多い。

だから、あのテーマに関するもう一つのアプローチは、支配者目線で現場に干渉している「人間」そのものにスポットを当てることだ。どういう人物か、経歴、年齢も含めて。省、局、機構といった隠れ蓑の向こうに潜む、システム・ハラスメントを犯している人間のほうを見る。浮き彫りにする。

たとえば初等中等教育局内で教科書や授業内容をコントロールし、結果的に現場の意欲を削ぎ、疲弊させている人がいる。本人にその自覚はない。
 
たまにNHKなんかが教育問題をめぐって取材して、その肉声を拾っていたりする。びっくりするくらいに、上から目線で現場無視。日本の教育は(といいつつ本人は現場を見ていない)自分がその一存で決めていいといわんばかりの言い方をしていたりする。老害ならぬ官害。結局は、人間特有の慢が根本にある。
 
こういう人間に光を当てて、何を根拠にそのような判断をしているのか、その根拠(法令)は、そのような解釈しかできないのか、しっかり問い詰めていくという手もある。組織や立場の裏側に隠れたままにしないことだ。



個人的に想像したのは、御上先生が、実際の文科省に入ったとして、あれだけの思慮や感性を保ち続けられるかな・・というところ。

霞が関の職場はあんなに明るくきれいではないし、人間関係もあれほど風通しは良くない。ドラマでは癖のある人たちとして描かれている(ゆえにわかりやすい)けれど、実際は比べ物にならないくらいに、考えも表情も明かさない。人間の輪郭が曖昧。それでも自分の評価については内心すさまじく神経を使っている。結果的に、周囲への同調を選んでしまって、最終的には、組織の論理を死守する官僚になっていく。

 
きわめて主観的な印象でしかないけれど、官僚(ごめんなさい、こうした言い方は好きではないのですが)の中には、プライド第一で、その上に仕事が乗っかっているという精神構造の人がいる。日本の教育を良くしよう、みたいな真っ当な動機をもって文科省に入る人は、決して多くはない。

というのも、国1(国家公務員総合職試験)においては、どうしても試験巧者が上位に来る。試験巧者が最も多く集まるのが、東大(国1試験合格者数は今もトップらしい)。

その東大に入るために、少なからぬ学生は、中・高、さらにその前にもさかのぼって、筆記試験用のトレーニング(いわゆる勉強)をしてきている。

試験慣れした猛者・強者は、あのドラマに出てくる学生たちのような人間味はない(こういう言い方も申しわけないのだけれど)。

幼い頃から「東大しかない」みたいな刷り込みをされてきた学生も少なくない。学校の勉強なんか手段でしかなくて、手段として役に立たないと判断すれば、内職したり休んだり。先生が何を感じるかなんて考えない。もし御上先生みたいな人が大事なことを語っても、冷めた目線で内職し続ける、みたいな学生もいる(あのドラマの中にも、実はいたのかもしれない)。

考えるとか悩むとか支え合うとか、そういう人間的な部分は一切捨てたサイボーグみたいなメンタル。勉強以外は「役に立たない」から目を向けない。受験に役に立つかどうかという物差しだけで日常を切り分ける「合理性の塊」みたいな人間。

試験というのは、点さえ取れれば評価されてしまうのだから、点を取れる勉強に特化できる人間が、どうしても強くなる。上に行きやすくなる。

徹底して無駄を排し、学校の授業や人間関係は最小限に抑えて、内心は自分のプライド死守と東大合格という目標だけをターゲットに、冷徹に、緻密に、虎視眈々と、さまざまな計算をめぐらせて、優等生としての自分を維持し続ける。

哀しいかな、そうした人が東大に進み、国1に受かり、いわゆる「官僚」になっていく。


御上先生は、そういうプライドのせめぎあいの世界を生き抜いてきた人。殺伐とした現実を見据えつつも、過去の体験や心情や今なお続く苦悩の種(自死した兄や母親のこと)を脳裏に抱えて、官僚の世界を生き延びてきた人。

そういう人も実際にいるかもしれない・・いるのかな。でもあの世界は(進学校も東大も官僚の世界も)、少しでも人間味を残していると、それが隙(甘さ)となって遅れを取る、取り残される、見下される。そんな世界だから。

試験制度というシステムが変わらない限り、試験に勝てる(いい点を取る)という戦略(いわば頭脳と時間の重点配分)が正解になる。その戦略を守り抜くことで、プライドの奪い合い、自尊心のサバイバルゲームを生き残れる・・その可能性が生まれる。

「死ぬ」のはイヤ。つまり落ちこぼれること、劣後すること、見下されることはイヤ。自分はアタマがいいと言われたい、大学は絶対に東大でなくては許せない、そういう価値観に思考を占領されている。本当の考える頭、良心をみずから握り潰して、勉強マシーンと化す。

そういう人が、東大に行き、官僚をめざす。
 

さらにこの殺伐としたゲーム(心の殺し合いといってもいいのだけど)は、もう少し盤は広くて、アタマがいいという承認を勝ち得るために試験勉強に特化できる特殊技能の持ち主たちは、東大、中でも理Ⅲから医学部、文Ⅰから法学部、そして司法試験や国家公務員総合職(上級)試験の合格をめざす。
 
受けられる試験は全部受けて合格してから、一つのキャリアをやむなく選ぶ。やむなく、というのは、彼らにとっては、仕事の中味は大して興味がなく、本音は自分がどれだけ優秀か(試験巧者か)を証明し続けたいだけだから。

公務員試験をパスした学生は、プライド最優先で省庁を選ぶ。ひと昔前なら、大蔵、通産。今の財務、経産省。プライドを守るうえで最も確実、安全な省を選ぶ。

ドラマの中では、御上先生は試験を勝ち抜いてきたエリートとして描かれているけれど、東大卒の官僚の中で、文科省組は存在感は薄い(こうした表現が成り立ってしまうこと自体が悲しいけれど)。プライドを守り抜ける省と、負けを受け入れて入る省庁とがある。かつてはあった。
 
今はどうかな・・大学受験までの教育環境がさほど変わっていないなら、中高時代に身に着ける価値観も、プライドを守るための戦略も、ほとんど変わっていないはずだから、東大に入った後のキャリア選択の基準も、おそらく大して変わっていない。

今は上級職の人気にも陰りが出ているとは聞くけれど、ただそれも、東大に入って、次はどんな職業なら自分のプライドを守れるか、という打算計算の基準が揺らぎつつあるという程度のこと。

「プライドを守る」ことが至上命題、人生の最高目標であり最低ラインでもあるというメンタルの人が、「ならばどこに行けばプライドを守れるのか」という感度一つで、自意識のアンテナを張りめぐらせている様子は、変わっていないような気がする。
 
ドラマの中では、御上先生はトップエリート。でも、実際の闇、いや陰、というか今の試験制度の硬直はもっとどうしようもなくて、御上先生さえセカンド、サードのポジションかもしれないということ。東大生としても、官僚としても。
 

(長くてすみません、続きます)

 

 

リンク貼っておきました(明日、最終回)


2025・3・22

未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月

 

 

ある先生に向けて

 

拝復 ご連絡ありがとうございます。

残念でしたね・・でも学校という場所については、過去にも似たような展開になったことがあります^^。なので織り込み済みです

「宗教家」「公平」というのも、実にしょうもない(中身を見抜くだけの思考力がないきわめて日本人的な)言葉です。

日本社会というのは、本質を見抜く知力が育っておらず、表面的な言葉と同調と(いざ何かあったら・・という)責任回避が先立ってしまう傾向にあります。

その中に収まっていられる人間にとっては居心地がいいのですが、少しでも「思考を迫る(迫られる)」動きがあると、知力が育っていない大人たちは途端にフリーズしてしまうのです。

(過去、校長先生に何人か出会いましたが、今回と同じような展開をたどりました。先生の方は乗り気なのに、別の思惑に簡単に乗っ取られてしまって、考えない・動かない・何もしないことによる安全を選んでしまうのです。)


子供たち(中高生)は、そうした大人たちのしょうもなさ(無思考:何も見えていない・考えていない姿)と、そうした大人たちが足を引っ張り続ける日本という社会に、いろんなモヤモヤ(違和感、失望、懐疑、憤懣、無力感)を抱えていたりします。

でも今の子は賢くて、言っても伝わらないとわかっているので、大人・先生たちの前では、通用する顔・言葉しか伝えていません。反発も主張もしない。いい子を演じるか、不意に消えるか。もちろんそこまで違和感を覚えることなく、純粋に学校を楽しんでいる子供たちも多いでしょうが。


子供たちの本音を引き出し、本当の思考を刺激できる「抉る」言葉を、大人たちが持っていないのですよ。自分たちが考えていないから。考えてこなかったから。


考える力をある程度お持ちの先生たちは、そうした学校のしょうもなさ(現実)を織り込んだうえで、周りの大人・先生たちとはちょっと違った角度から子供たちと関わっていく可能性を探る必要があるように思います。

「見えてはいるけど、とらわれない。自分にできる範囲で子供たちの本当の思考を引き出す(引き出せるような問いかけ・働きかけをする)」というスタンスです。


この場所(興道の里)には、小・中・高の先生方もおります。

みなさん、日頃の持ち場にはないもの(本質を見抜く知力とそれを伝える言葉)を期待して、ここに来てくださっている様子です。


大人より、未来が見える子供たちの方が、生き物としてははるかに優れているし、大切な存在です。

人を育てる仕事ほど価値ある生き方はないと言っても過言ではありません。

その価値が見える大人であることが、人間として最低限の務めであろうと私は思っています。

見えなくなったら、ある意味終わり。老いたということです。


ひきつづき進んでまいりましょう
草薙龍瞬



2025年2月


親としての自分を卒業した後は


子供を育てる幸せ・喜びを体験できた人は、ラッキーです。

子供は親を求めてくれるし、素直だし。愛おしいものですよね。

そういう体験を過去にできたなら、その思い出を大事に取っておきたいものです。人生で一番幸せだった時期のことを(そうではなかった人もたくさんいます。だから子育てが幸せだったという人は、すごく幸運なのです)。

子供はすぐに大きくなるし、大人になった子供は、もはや別人。そりゃ仕方ありませんよね。幼い子供のまま、いてくれるはずはなく。

あの頃の子供と、今の子供とは、まったくの別人。遠い昔の話。でも確かにあったこと。

遠い昔を愛おしみながら、大人になった子供と向き合うことができれば、親としての愛情を保てることになります。

でも昔のことを今に持ち込むことで、相手(子供)に執着したり、今の関係性に物足りなさやさみしさを感じてしまうとしたら、それはやはり過剰な妄想であって、

そういうさびしんぼな自分に気づいたら、少しガマンして、自分の物事に戻る・・というのが、親としてのマナーなのかもしれません。



「親としての自分」は、もちろん死を迎えます。いつか卒業。親の方で卒業するか、子供の方で求めなくなったら、その時点でいったん終了ということになるのでしょう。

ただ、これは「役割としての自分」の終焉であって、あるのが当然というか、自然です。

仕事をしている自分も、妻・夫としての自分も、すべての役割は、変化するし、終わりもする。

いろんな役割が自分を作っているけれど、その役割は、細胞のように新陳代謝して入れ替わる。

ひとつの役割が終わるとしても、全体としての自分は最後まで続く。新しい役割を引き受けるか、新しい喜びを見つけるか。

自分がどのように変わっていくか、入れ替わっていくか、そういうこともかけがえのない体験として、最後までよく味わって、体験しつくす。

きっとそれが人間としての自分にできること。


役割に執着せず、新しい今を生きる。


それがひとつの答えなのかもしれません。



2025・1・10




子育てが難しくなる理由


教育、勉強、学び、子育て・・いろんな言い方が可能ですが、はたして自分に務まるのかどうか。そうしたためらいは、きっと多くの親や先生もお感じになっている(感じたことがある)かもしれません。

ここはいくつかに分けて考えてみることにします。知識、スキル(知的能力およびその伝え方)、そして大人の側の「自分にとって」。


学びには、一定レベルの知識とスキルが必要になるはず。誰でも教える・伝えることができるというわけではなく。

 

(※ちなみに私の場合は、十代の人たちと関わり、伝えた体験から、もう二十年くらい経っているので、もちろん大幅なブラッシュアップが必要にはなりますが、

それでも今の中高生が使っている本を眺めると、正直、学びの本質はほとんど変わっていなくて、しかもその本質さえ見えていないらしいことも見えてくるので、

スキル(生徒にとっては学ぶ、先生にとっては伝える技術)については、おそらく今も十分に通用するような気もします。

知識については、忘れてしまった部分が多いので、子供たちにスキルを伝えつつ、自分も知識を吸収していくことになりますが、そのことで、子供たちにとってのリアルな「覚える」体験を自分も共有できるので、これまたみんな(子供たち)との接点を増やすという意味で楽しめるように思います。)


知識・スキル以外に大人(親・教師)が伝えるべきは、「自分にとって」。生き方や価値観や感性。何に価値を見るか、どんなことに喜びや美しさを感じるか。

いわば、一人の大人として何についてどう思うかという、人間的な部分です。感じ方、考え方、受け止め方、割り切り方、流し方・・のようなもの。

この部分は、知識やスキルと違って、正解はありません。一人の人間として「わたしはこう考える、こう感じる」というところを、そのまま表現するだけでよいのです。


おそらく子育て・教育が苦手・難しいと感じる大人の中には、伝える・教えることが、何か特殊な能力や一定レベルの研鑽が必要で、

それは自分以外の誰かが知っていて、自分は何もわかっていない、

では正解は何か、他の人は何と言っているか、何を教えているか、隣近所は、学校は、塾の先生は、教育の専門家は・・

と周りの様子をうかがってしまうところがあるのかもしれません。

でも、そうじゃないのです。それは、知識・スキルの話。「自分にとって」については、「自分のままでいる」ことが、そのまま伝える・育てることになるのです。

それは、親ならば誰もが自然にやっていいこと。

親が、人間として、どのように感じて、何を価値とするか、人としての思いをそのまま伝えるだけでいい。

知識やスキルが求められる学校や塾の先生も、この点は同じです。知識・スキルのほかに、5分、10分でいいから、世間の話題について自分はどう考えるとか、何かを一緒に見たときに、この部分がこんな風に好きだとか、好きじゃないとか、素直に語るだけでいいのです。

まずは、自分のままでいること。「自分にとって」を伝えること。それが大人が子供に伝えられる最初のこと。

その言葉や姿を見て、子供は、「そういう感じ方・考え方もあるんだ」と学習できるし、それを吸収することも、自分とは違うものとして流す(ときに反発する)ことも可能になります。

大人が一番やってはいけないことは、自分を伝えないこと。伝えることを控えてしまうこと。そうして、ご近所、他の先生、世間、風潮、専門家、インフルエンサー、文科省といった他人に「正解」を委ねてしまうことです。

広い意味で、これも思考停止。子育て・教育がつまらなくなる元凶の一つ。

 

子と関わる大人というのは、自分のままでいることが大切なのです。

自分を大事にすること。自分をそのまま伝えてみること。それが正解。

間違ったときは素直に訂正して謝ればいいし、価値あると思うことは素直に伝えて、どう受け止めるか、どのように吸収するかは、子に任せる。

「私にとっては、こうなんだよ(こう感じる、こう考える)」を伝えることが、子育て・教育の第一歩です。これ、どれほど大事なことか。
 

冬の到来ひとつも、子供たちにとっては学びの対象になる。灯油ストーブの「ボッ」でさえ至福の瞬間になりうるし、冠雪した富士山を眺めることも、豪雪の中で歩くことも、もちろん度が過ぎれば困難になってしまうけれども、美しさとして感じ取ることはできるかもしれない。

そうした幸せや美しさを、日常会話の中でさりげなく共有することも、子育て・教育の内。どこかに出かけるとか、少し凝るなら、映画とか小説とか、俳句、短歌、詩、絵画など、いろんな表現を通して、冬を、もっと深く鮮烈に感じ取ることも可能になる。

先生であれば、「冬について」というテーマで、国語や社会(地理・経済)や理科(化学も物理学も可)の教材を作ってもいい。


日頃自分が感じたり考えたりすることが、少し工夫すれば、伝える・教える素材になる。大人の自分にとっても学びが増える。

子育て・教育というのは、子供を育てるだけでなく、自分も育ち、しかも育て合うという循環にもなる。

ならばやっぱりためらうことなく始めるべきだなあと思うのでした。最後は「私(龍瞬)にとって」の話。

さあ、始めるよ!

(草薙龍瞬『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)

 

 

2024年12月中旬