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すべては君の人生、君の選択


全国行脚の後半に入るため、寺子屋は一週間ほどの空白に入る。

この夏、寺子屋の子供たちに彼らに伝えたことは、

〇正しい学び方(勉強法)を実践すれば、確実にできるようになる。

〇中学までは、地元の友たちばかりで世界が狭いが、高校になるといろんな生徒が集まってくる。精神的にも落ち着いて大人になってくる。だから中学より高校のほうが楽しかったという大人が多い。行く高校で人生が変わる。

〇成績を上げなければということではない。それは本人の志望・選択次第だが、できることはやることが当然。どこまでできるかやってみて、体験して初めて、向き・不向きも見えてくる。体験しなければ、自分は何が好きか、何ができるかもわからない。つまり体験しないと、努力してみないと、人生が始まらない。

〇つまらない時間の過ごし方をすれば、つまらない大人になる。

この場所で頑張って見せても、家でダラダラ過ごしていたら、本格的に勉強し始める子たちには絶対に追いつけない。だらしなく過ごして損するのは、将来の自分。

〇だから、家でも自分から勉強する時間を作ること。自分が後悔しないために。やらねばならないことは真剣にやる。当たり前。


最後の日に伝えたことは、

「親もあと十数年で定年になる、いずれ働けなくなる、やがて君たちより確実に早く死ぬ。それが人生の順番というものだ。

いつまでも子供のままのつもりで、お小遣いもらって暮らし続けるわけにはいかない。君たちが30過ぎて、今と同じことをやっていたら・・どう思う?」

 

言葉が話せるなら、どれだけ年が離れていても、十分に伝わるものだ。大人が想う以上に、小・中学生は、考える頭は持っている。

現実を伝える。何をどのように学ぶか、考えるかを、緻密に言語化して聞かせる。大人の妄想を押しつけない限り、このあたりの年齢になった子には、ちゃんと届くものだ。

教え下手というのは、自分に都合のいい妄想しか見えなくなった時に生じる。こちらが心を開いて、伝えるべきことを一人の人間の思いとして伝えて、

「すべては君の人生だから、君が何を選んでも、何をしても正解だけれど」という前提に立って(線を引いて)向き合えば、自分で理解し、自分の頭で考えるようになる。

あとは信頼することだーー教えることにおける信頼とは、伝えられる時間の中で人として伝えなければと心から思うことを伝えて、あとは本人の選択だとして、それ以上に追いかけないことである。尊重でもあるし、いい意味での突き放し(放任)だ。このあたりの線引きをすることが、「信頼する」ということである。

大人の目に見えないところで何をしていても、それは本人の選択であり、本人の人生だから、問題はない。そもそも「見えていない」範囲を大人がコントロールしようとすること自体が、妄想の押しつけである。

今のところ、教える人間としての役回りは果たせているように思える。成長を目の当たりにできる面白さもある。よき時間である。




2026年8月中旬



十代の過ごし方~ほとんどの峠は越えている

*9月中旬に東京において個人相談会および座禅会を開催します。

参加希望の方は、公式サイト内のカレンダーおよび活用ガイドをお読みの上、ご連絡ください。

 


十代(中高生)の過ごし方について、最近の私信(和尚先生から)の抜粋:

◇◇◇◇◇

十代、とくに中学時代は「体験」することが大事で、誰とどこで何をするか(習い事)は、、楽しいからやる、行きたいから行く、で十分です。場所にこだわる必要はまったくありません。

楽しくやれない、大切に扱ってもらえないなら、別の場所でまったくかまわないのです。

「続けることが大事(今さら変えられない・変えるべきではない)」という理由づけ(ためらい)は、気持ちはわかりますが、思い込みでしかありません。

〇〇(習い事)も勉強も、そのこと自体は続けているのだから、すでに「続けることが大事」という条件は満たしているのです。

体験できるなら、どこに行ってもよし。不満が残るようなら、そこは正しい場所ではない。私ならそう考えます。

停滞よりも、動いて得られる体験を選ぶ。そのほうが、十代のうちは大事です。


◇◇◇◇◇

十代のうちに越えておくべきステップはいくつかありますが、本人(子供)はそのステップをちゃんと越えているように映ります。

中学時代の体験は、この先の過ごし方次第で、本人にとっては財産になりえます。

大学への進学・勉強だけなら、なんとでもなる(つまり越えておくべきステップには入らない、あるいは入れるにしても小さい)ものです。

本人が体験して、何かを感じて考えること自体が大切かと思います。

高校に通えば、見える景色も友だちの姿も日々変わります。そうした外の世界に触れることで、心は自然に育っていきます。

とにかく子供の先を走ってしまわないように自制しながら、後方支援かせめて隣で伴走するくらいの気持ちでいるのが、ちょうどよいのだろうと思います。

十代のうちはなんとでもなるし、ほとんどの子はちゃんと生きていける力を持っている生き物です。大丈夫。信じて(楽観して)よいのです。



2026年8月下旬


夏の寺子屋

 

予期しない出会いから始まった、中学生向けの夏の寺子屋。

第1クールは7月22日から3日間。8月に第2~第4クールを開催。

午前9時から12時までの3時間。本人たちの希望で、英数国の3科目。

英語と国語は一緒に授業。数学は一冊の教材から、自分のやりたいところを進めていくことに。



数学は、やみくもに問題を解くのではなく、問題に示された条件を数式・記号で表現して、それを使って計算して、答えを出していく。

条件を数的に表現するためには、読解力が必要。だからやっぱり国語力が大事になる。

問題を見た時に、「問題文にこうあるから、この3つの条件を数式化する」「段取りとしては、これをやって、次にこれをやって、さらにこれをやると、答えが出る」という段取りを考えたら、あとは計算すれば答えが出せる。

「段取り」を見失うから、自分が何をやっているのかが途中でわからなくなる。迷路に入ってしまう。

問題を解いた後は、答え合わせで終わるのではなく、「この問題から何を得たか」「どんな解き方・考え方を手に入れたか」を、きちんと確かめる。



私自身、小・中の間は、数学はちんぷんかんぷんだった。「木を見て森を見ず」――つまり段取り・構成を最初に掴むという発想を知らなかった。

さらには、方程式とは、関数とは、といった「定義」がものすごく大事ということも知らなかった。

数学は、定義づけの積み重ねて構築していく体系だ。だが定義はつねに抽象的。一見、読んでもピンと来ない。だから飛ばして、いきなり我流で問題を解こうとしてしまう。

本当は、定義といった抽象的な記号・命題と、問題を解いて使い方を理解すること計算すること、つまり具体的な思考とは、セットでないと、数学は分からない。

小学生の算数の延長で、具体的な計算だけで解こうとすると、必ず壁にぶち当たる。国語の問題が、小説などの具体的描写から、次第に観念・概念の構築物へと抽象度が上がっていくように、数学も具体から抽象へと、思考の質が変わっていくのだ。

その、具体から抽象へという境目をつなぐのが、「定義」なのだけど、これを飛ばしがち(先生も説明しない)。だから途端に苦手になる。あとはチンプンカンプン笑。

抽象的な定義や解き方は、本の隅っこに小さく書いてあったりする。生徒は見落としてしまう。そのあたりを拾って、もっとわかりやすい「要するに」に置き換えて、そのわかりやすくなった考え方・解き方を、赤字で本に書き込んでもらう。

そうやって、問題を解くたびに、「解き方・考え方」という抽象的な思考を仕入れていく。

数学もまたやり方を間違えなければ、つまり手順を飛ばさなければ、必ずできるようになる(必ずと言っていいかは若干ためらいもあるけれど笑)。



3時間、スキのない授業ができた印象。スキがないというのは、「何をすればいいかまったくわからない時間がなかった」ということ。どんな手作業をするかを、すべて言語化する。実際にやってもらう。一人ずつ見て回って、自分が何をしているのかを聞いて確認する。「今何をしているか、わかってる?」「うん」「じゃ、説明してみて」。

分かっていない時は、言葉が止まってしまうので、こちらで翻訳し直したわかりやすい言葉を、本に書き込んでもらう。で再び解き直す。

英・数・国と、スキのない時間を重ねて、お昼に。こういう濃密な時間を積み重ねていけば、確実に伸びる。



子供たちが来ると、急に夏らしくなることを発見した。

歳を重ねると、夏はただの暑い季節になってしまう。外に出ると「暑い、暑い」とこぼし、「熱中症にご用心」とか「夏と冬は高齢者が亡くなりやすい季節だ」 「こんなに温暖化が進めば人類は滅びてしまう」とといった野暮な妄想ばかりをしがちだが、

小中学生にとっては、夏は夏だ。熱中症はたしかに要注意ではあるけれど、ある程度の気力・体力が自然に備わっている。だから暑いといいながらも、日差しの中を自転車で通えてしまう。


中学生の目に見える夏の空は、大人が見るものとは、まったく違うのだろう。

夏の空があり、手つかずの未来があり、広い未来がまだ茫漠たる状態のまま残っているからこそ、安心して今を過ごせる。今を生きることができる。

そうだ、夏ってこんな季節だった。

暑いとはいえ、何かが始まるぞ、何をしようか、夏休みだ、時間はたっぷりある――そういう季節だ。

子供たちが来るようになって、私の夏も始まった。懐かしい、あの夏だ。

差し入れてもらったスイカ
冷たく甘くみずみずしい極上の味でした



学歴には意味はない、けれど

まずは立ってしまっていい前提(前提というのは、自分で選ぶものだ)―― 

学歴という言葉が、偏差値や入試の難易度で測られる学校歴という意味だとしたら、意味がない。それは観念でしかないから。


人は結局、自分の力で生きていける大人になることが、目標であって、

その次に価値があるのは、世の幸福を増やこと(喜び・快適さを増やすか、苦しみを減らすこと)。

こうした目標が「実質」(中味がある目標)であって、これを基準とすれば、偏差値が高い・低い、入ることが易しい・難しいという意味での、学校名や学歴というのは、実質とは関係がないという点で、意味がない。

中味のない観念をもって、優等生を気取ったり、コンプレックスを感じたりというのは、妄想にとらわれているだけ。意味ない。

 

ただし、観念でしかない学歴であっても、何を体験したかという点では、意味を持つこともある。

一般論として、何かをめざす場合には、

「いったい何をすれば、手に入れることができるか」を考えることになる。方法を探る。

方法というのは、いつ、どこで、だれから、何を使って、どんなやり方で進めるのかということ。

特定の大学・高校をめざすなら、いったい何を(どの科目およびどんな素材)を、どのように進めていけばいいのかを考える。

考えるというのは、我流で考えることではない。第一に調べること、聞くことだ。


世の中には、自分以上に体験している人、知的能力(理解力・思考力)がある人、行動力がある人、体力がある人、意志が強い人が大勢いる。

そうした人たちが日々どんな努力をしているのか、アタマの中で何を考えているのか、日々体験することから何を得ているのかは、他の人にとってはブラックボックス(未知の領域)。

だからこそ、そうした人から学べる機会があれば、最大限の注意をもって聞いて、理解して、自分も行動に移すことになる。

それが、目標をめざして考えるということ。


これは、別の言い方をすれば、

自分の思い込みにとらわれず、謙虚に耳を澄ませること。虚心坦懐にともいう。想像力を働かせてともいう。

この時に、自分の思い(思い込み)、こだわり、好き嫌いでいちいち反応していたら、学べなくなる。


えてして、

プライドが高かったり、

世界の広さを知らなかったり、

逃げの言いわけに慣れてしまっていたりすると、

自分の小ささ(限界)を自覚しないまま、我流で取捨選択するようになる。小さなことに反発したり落ち込んだりと負の感情に呑まれるようにもなる。

結果的に、小さな自分が残って、前に進めない。そういうことが、よく起こる。


学ぶというのは、とても難しいことなのだ。自分の器の大きさに左右されるから。

器の大きさとは、自我のなさ(少なさ)と置き換えることもできる。

自意識・こだわりが希薄であること。

過剰な反応をしないこと。 

無意味なプライドにこだわらないこと。

「これはこうではないか」「これは違う」といちいち判断しないこと。

うまくいったと思えることがあっても、調子に乗らないこと。

 

結果的に、なんでも素直に、はい、わかりました、やってみます、というだけの反応になっていく。「理解するだけ」になる。

あとは、自分がどれだけ頑張れるかだ。つまり自分が学んだ方法をどれだけ実践できるかという領域に入っていく。

洗練された正しい方法は、たしかにある。結果を出す人、目標を確実に達成する人というのは、そうした方法を知っている。学ぶことに長けている。

 

だがその一方で、学べない人もいる。たいていは、自意識が邪魔するときだ。

自意識とは、厄介な心のクセだ。承認欲をこじらせて、今の小さな自分を基準として、物事を判断するようになった心の状態。

勝利を積み重ねて、プライドという名の妄想を肥大させた姿も、そのひとつだし、

失敗を重ねて、「どうせ自分なんて」という自己否定を固めていった状態も、そのひとつ。


プライドもコンプレックスも、根っこは同じ。承認欲。
 

だが、承認欲が作り出した妄想の中身は違う。前者(プライド)は自分に都合がいい妄想。後者(自己否定)は自分をかばうための妄想だ。

自分をかばう妄想というのは、けっこう複雑で厄介だ。都合が悪いことが起こると、今の自分を守るために、誰かのせいにする。運が悪かった、病気がちだった、人に叱られた・・と外に原因を求めようとする。

あるいは、「きっとこうすればいいのだ」と、自分の思いつきに飛びついて、正しい方法を学べなくなる。

すぐ逃げたり、都合のいい妄想に流れたり。人に向けてはやっかみや鬱屈(相手に向けられない怒り)を抱えて、「どうせ自分なんて」と自分を正当化する理由を探して、自己防衛を図る。

こうした親のそばで育った子供は、親の自己否定を刷り込まれると同時に、「そんなことないよ」とかばう役割を背負わされ、親のご機嫌をうかがう臆病な性格になっていくこともある。

学歴そのものに意味があるわけではないが、

①ひとつの目標をめざして、②正しい方法を素直に学び、③どれだけ行動に移せるか 

をもって、自分がその分野においてどれだけ努力できるか を測る機会にはなる。

もし、ひとつの目標に向かって真っ直ぐに進めなかった、

方法を学べなかった、

行動に移せなかった(継続できなかった、集中できなかった、体力が続かなかったetc.)、

というなら、

どの分野ににおいて自分は努力できたか、できなかったかを確認できる。

努力できなかったと確認できたなら、その点については納得することだ。「自分には無理だった」と。

別に負い目を引きずる必要はない。結局は、自分の力で生きていければいいのだから。


こうしたことを考えてみると、学歴そのものは、最終的に意味がない――入ってもただの観念であり、落ちても自分の人生に関係ない――のだけれど、

それでも自分が、ひとつの目標に向かって何ができるかを体験する機会にはなる。

そして、自分にはできないことが、こんなにできる人がいる。彼らは知っている、努力できる、行動に移せる。理解力もあるし、記憶力もあるし、意志の力も強く、体力もある。

 

ならば、やはり世界は広い――ということになる。

そうした世界の広さと、等身大(現実)の自分を知って、

小さなプライドにとらわれず、人に敬意を払い、自分にできるかぎりの努力をし、

自分にできなかったことができ、自分にないものを持っている人に対して素直に称賛できる大人になれるのなら、

ひとつの目標をめざした結果がどのようなものであれ、「めざした価値はあった」ということになる。


建前に聞こえるかもしれないけれど、こうした筋の通った思考を、建前ではなく、貫くことが、本当の教育ではないかと思う。

つまり、成績を上げるとか、どの高校・大学をめざすとか、そんなことは、子供の選択に任せればよく、

ただ、本人がひとつの目標をめざすというなら、正しい方法を提示し、実際にどう行動に移すかも示して、

あとはその道の途中で、何を、どのように、どれだけできたかを客観的に観察して、

本人にとってプラスの価値をちゃんと言語化してみせることだ。



正しい方法と努力には、意志と、素直さ(理解力)と、行動力と、体力とが必要だ。

結果そのものは、運(めぐりあわせ)によって左右される不確実なところもあるが、

意志と素直さと行動力と体力とは、自分の中に備わるもの、育まれるものだ。そして本人を作り、人生を作っていく。

こうした要素(資質といってもいい)を育てるきっかけになるのになら、勉強・受験も意味がある。


教える側としては、学力や成績という観念ではなく、

正しい方法(学び方)と、心のあり方とを伝えて、

本人の努力を観察して、褒めるべきは褒め、「足りない」ところは「足りない」と伝える。


そうしたやり取りの中で、「将来、自分の力で生きていく」ための能力・資質を育てていけるなら、

特定の大学・高校をめざして勉強することにも、意味がある。


教えることも、学ぶことも、本来はシンプルなものだという思いが湧いてくる。



旅する寺子屋 千葉県野田市を訪問

興道の里から

2026年度夏の旅する寺子屋・国語キャンプ

ひきつづき訪問地を募集しています

関東は千葉県野田市・柏市 きたる7月26日および30日

チラシができましたので、参加ご希望の方は興道の里までご連絡ください:
 
※お名前とお子様の学年および当日の参加希望人数をお知らせください。
※大人の参加は小5から中3までの子供をお持ちの保護者に限ります。
 
※お願い インターネットで見つけて初めてご連絡いただく方は、自己紹介(ご家庭の状況・お仕事・お子様の学年・学習状況など)をお知らせください。
 
welcome@koudounosato.com  まで


・・・・・・・・・・・・・・・

言葉に出会うと毎日がもっと楽しくなる!
夏休み国語キャンプ

国語の1日寺子屋(教室)
をひらきます!

勉強っぽくない“ゆる系”の授業

面白くてチカラがつく文章を
使って、読み方・解き方を
わかりやすく授業します

参加無料!

小5から中3まで
友だち・家族と一緒もOK

話題なんでもありの座談会つき
筆記具だけ持ってきてください


7月26日(日)
午後1時から4時半

7月30日(木)
午後1時から4時半

会場はご連絡いただいた方に個別にお知らせします(千葉県野田市・柏市)
 

*いずれかの日にご参加ください 構成は同じ:
ゆる系のおしゃべり ⇨ 国語キャンプ ⇨ 話題なんでもありの座談会
*スマホ・ゲームは電源オフ(なるべく保護者がお預かりください)
*高校生の勉強・進路相談も可(キャンプ終了後に対応します)

                    
プロフィール
僧侶・著述家 本名 草薙 龍瞬 くさなぎりゅうしゅん

東京大学法学部卒業後、30代半ばでお坊さんに。著書『反応しない練習』KADOKAWAは50万部超のベストセラー。毎年夏に“旅する寺子屋”を主催。教え上手の明るい性格。厳選したイイ言葉(国語教材)を手に日本全国を旅している。





親にできること、しなければならないこと


親の務めとは何だろう?

間違いのない根本を整理していこう。

まずは、子どもの人生を後ろから見守ること。

子供が幼い頃であれば、なるべく同じ視線、同じ位置に立って、子供と同じものを見よう、体験しようと心がけること。

もちろん外に対しては親が守る側であり、また子供が幼いほど子供が先に回って受け止めてあげることも必要なのだけれど、

それは子供が成長するにつれて必要がなくなっていく。

子供が大人になっても親として通用するあり方というのは、やはり後ろに立って見守ることであり、同じ位置に立って楽しむことであり、ときに背中を押してあげることだ。

いずれにしても、後ろに立つことが根本になる。

子どもの未来(可能性)を信じるという選択も、後ろに回れば可能になる。「大丈夫、なんとかなる、できる」と。

その時は親も未来を見ているから、自分の物事して一緒に頑張ろうとも思える。親の側にも、子どもの未来を信じようという熱量が出てくる。


難しくなるのは、子供が「歩かなくなった」時だ。

勉強につまずいたとか、学校に行かなくなったとか、ゲームやネットに依存して時間を溶かし始めたとか。

この時期が難しいのは、親の言葉(叱咤・説教)が通用しなくなるからだ。体も大きくなって、体力的にも通用しなくなってくる。

そのうえ理屈も言えるようになる。子供の側の打算計算、ずるさ、甘さ、逃げ、弱さというものを、子供は正当化できるようになる。正当化しようとする。

たとえば「こうなったのは親のせいだ」とか「どうせ学校に行っても勉強ができない」とか、先生が嫌い、友だちが嫌いなどと、あらゆる自己正当化の理屈を繰り出してくることがある。

こうした時、親としては単純に「言っている言葉の意味はわかる」(といったん聞いている姿勢を示す)が、

「そんなことを言っても始まらない」と返すだけでいいのだ。

そうやって返すことで、これは子供自身の選択の問題なのだという状況に戻す。

親はあくまで後ろに回って、一時的に子供であるその人の自立を後押しするだけの役目だから、

「これはおまえ(自分自身)の問題なんだよ」という立場は、どんな状況であれ崩してはいけない。

子供によっては「死ぬしかない」なんて言葉を言うこともある(流行っているらしい。どこで聞いてきたのか知らないが)。

見きわめなければならないことは、その言葉が、学校でのいじめやなにか外の世界で苦しめられて出てきているのか、

単純に親をコントロールするために、脅しとして、あるいは別の利益を引き出すエサとして言っているかだ。

冷静に考えてみると、ある程度自立した子供であれば、外の世界で起きていることをあまり親に語ろうとしないものだ。親に心配かけたくないとか、言ってもわかってもらえないだろうと考えて、口をつぐむことが少なくない。

「死ぬしかない」という言葉を簡単に言ってしまえる時点で、もしかしたら甘えや逃げが潜んでいるかもしれないということだ。怠惰と遊びに流されて、そうした自分を正当化するため、親からお金や食べものを引き出すために、さながら銀行の暗証番号のように「死ぬしかない」と言っているかもしれないのだ。

「死ぬしかない」などという言葉は、そもそも言うことがおかしい、言っては絶対にいけない言葉の一つなのだ。だから親は、こう伝えることになるだろう。真顔でだ。

「本当に死ぬしかないようなことが外で起きているなら、伝えてほしい。親として全力で守るから」

(あるのかないのかを確かめる)

「もし口先だけで言ったのなら、二度と言うな。おまえがいなくなることで周りの人間がどれほど傷つくか。どれほど卑怯な言葉か、わからないのか?」

安易に死ぬと言うこと自体が、親をバカにすることになる。こうした言葉をたやすく語っている様子が見えたら、真剣に怒って見せないといけない。本当は許してはいけない言葉だ。「人を殺す」も「自分を殺す」も同じことだ。


子供が親から学べる最大のことは、自分がこう言えば、これをやれば、親はこう反応してくるということを体験することだ。

親の反応を見て、これを言えば、やれば怒ってくる、悲しむ、傷つくということを体験する。そうした体験が子供の人格を作る。

心はラクをしたがるものだ。ずる賢いし弱いし醜い。抜け出す努力よりも、そんな状態を正当化することを心は選びたがる。ラクだから。

ラクしている自分を正当化するために、いろんなことを言うし、やってくるだろう。

その時に親がどう反応するかで、その先が決まる。

親がただアタフタとあわてたり、はぐらかしたり、子供の機嫌をうかがったり、子供の要求を受け入れて言われるがままに行動したりすれば、

子供は、自分の甘えたっぷりの理屈がそのまま通用することを体験してしまう。「なんだ、こう言えば、これをやってみせれば、この人は簡単に言うことを聞くのだ」と学習してしまうのだ。

こうなると、子供にとって「家の中に自分しかいない」状態になる。親・他者がいなくなる。自分の甘え、わがまま、弱さ、逃げ、打算計算だけが残る。そうして閉じこもり始める。親がいても自閉するのだ。自分の都合しか見えなくなる。

みずからの心に振り回され始めた子供に、親はどう向き合うか。反応して見せないといけない。きちんと子供の後ろに立つという根本を守ったうえでの反応だ。


こうした親と子の葛藤(心理的衝突とでも呼べる関係性)が最も出てくるのが、子供が13歳頃から15歳くらいの間。この期間は、いわば子供にとっても、親にとっても「嵐」の中にいるようなものだ。

子供は自分のことがわからない。急速に肥大し始めた自意識と肉体の成長に翻弄され始める。

親としても、制御しきれなくなった子供を持て余す、というか、ただ困惑するしかなくなってくる。

だが生き物としてみれば、この時期の混乱はやがて収まってくる。結局、「後ろから見守る」という立場を崩す必要はない。「いずれ落ち着く」という前提で「耐える(待つ)」ことになる。

ただし、この期間中にどんな衝突が起ころうとも、子供の甘えや逃げや駆け引き(計算)に翻弄されることはあってはいけない。

子供がみずからの成長過程で巻き込まれる「嵐」の外に出て、その先にまもなく来る子供の自立に準備する必要がある。

衝突については、嵐の外に出ること。

休みについては、十分に休ませつつも、近い将来の自立を見すえて待機しておくこと。

休みについて――学校のいじめ、初めて体験する人間関係ゆえの苦痛、受験・勉強のつまずきその他で、子供に休息が必要な時期はある。

それは必要な回復期間だから、休ませてあげることだ。休むべき時はしっかり休む。まずは1か月、3か月、半年、1年・・・2年くらいは、休む必要がある子供もいなくはない。このあたりは「経過観察」していくことになる。ちゃんと休めているかを見守ることになる。

この期間中に親が焦ると回復が遅れることがある。親が期待や思惑をもって邪魔してしまうことで、子供に新たなストレスが生まれてしまうからだ。これでは休めない。


とはいえ、いつまでも回復期間というのもおかしい。回復のプロセスにあるかどうかを見極める必要がある。

たとえば、
◯寝る時間はちゃんと寝る(寝るだけにする)。スマホやゲームを使わせない。
◯ご飯は決まった時間に食べる。部屋ではなく、家族がいるダイニングで(場所を変えることで生活にメリハリをつける)。
◯買いたいものあるなら自分で買いに行かせる(とにかく家だけに居続けることをヨシとしない)。
◯自分のことは自分でやらせる。親と子供の間に最低限の境界線を引く。
◯無制限にお金を渡さない。休むべき期間に過剰な遊びを持ち込みすぎない(動画やゲームなど。これらは依存につながりやすい)

といったことを守る。

新しい体験は外に行かないとなかなか手に入らない。体験こそが興味や意欲を刺激するから、体験すること自体は応援していい。

だから、外に出かけるならお小遣いを渡すという立場を選ぶ。目的を聞いて、渡す時は信頼して渡す。「楽しんでおいで」というくらいの気持ちで送り出す。

家にいるなら、寝る時間と食べ物は用意するが、それ以外のものは慎重に与えるという方針を立てる。ゲームや動画ならリビングで見るとか、決まった時刻が過ぎたらWiFiを遮断するとか(文句を言ってきたら、「だったらバイトして自分で買って」と突き放す)。


タイムリミットを親の側で決めておくことも大切なことだ。休む時は休んでいいのだが、いつまでも休んでばかりはいられないという冷静な目も親の側で持っておくこと。

というのも休んだ心と体を回復させるには、相応の時間が必要になる。休んだ時間が長ければ長いほど、回復期間は必要になる。これは入院時のリハビリと同じ。

ある程度逆算して、いつからリハビリを始めるのかという作戦が必要になる。

中学・高校に当たる期間は、ある程度の自由(休み、遊び、逸脱)はアリだ。だが高校を出るくらいの年齢になれば、社会に出るための最初の入り口に立っておくほうがいい(さらに遅れることも事情次第ではありかと思うけれども、それでも「この時期にはこれくらいのところまで進んでおくべき」という目安はある)。

大学でも専門学校でもバイトでも就職でもいいのだけれど、高校を卒業するくらいの年齢には、家以外に居場所を見つける必要がある。自立への最終段階。親として後押しができる、いわば親の最後の務めだ。

仮にそれが大学進学であるとするなら、大学に進むための準備が必要になる。リハビリをして、準備を始めるというのは、心身アタマとも相当弱くなっているから、最初は大変だ。勉強といっても手がつかない。頭が回らない。だけれどそこでまた休みに入ったら、いつまでも回復できない。

「今が一番しんどい時期」ということを、親も子供もわかっておく必要がある。できれば家以外のどこかに通う、親以外の大人とか関わることが最善だ。

リハビリして、社会に出るための入口に立つには、やはり3年くらいの準備期間が必要かもしれない。まずは心と体の回復。頭を使うことに慣れる練習。基礎的な読む・書く・覚えるという作業を継続してやる訓練。これを1年くらい。

大学をめざすというなら、大学に行くための準備、いわゆる試験対策に2年くらいは残っているほうがいい。

2年のうちの1年は、受験に必要な範囲(科目)を一通り回す時期。できれば模試も受けてみて、失敗・試行錯誤を体験しておくほうがいい。

そして最後の1年は本気で頑張る。それまでの準備期間が1年、2年とあれば、最後の1年でかなり成長できる。

私が個人的に、中学生くらいの子供に「まだ焦らなくて大丈夫」と伝えるのは、こうした見通しがあるからだ。社会に出るための訓練(頭を鍛える練習)は、まだ後でなんとでもある。

つまり余裕を見て3年。前に進む(進学)という目標を達成するための準備期間として2年。

そこから逆算して、「今はどんな状況か」を見る。言い方を変えれば、「今この状況から2年または3年後に、社会への入り口に立っていることが必要になる」という発想を、親の側が持っている必要がある。


「そろそろ準備を始めない?」という働きかけをすべき時期は来る。タイミング。

ここは、真面目に話をすることだ。「大事なことだから聞いてくれる?」と伝えること。

この先をどう生きていくか。

人間は必ず年を取る。子供も近いうちに一人で生きていくことになる。

今が親として何かができる最後の期間。

「この期間を過ぎたら、もう親は何もできないよ」と「宣告」することが必要になる。

いずれは子供を置いて、自分は離れていかねばならない。老いていく。ほぼ確実に親より先に死ぬ。そう伝えること。

そして子供が何を言ってこようが、どんな理屈で責めてこようが、

「言っている言葉の意味はわかるし、気持ちは受け止めるけれど、これはあなたの人生のことだから。あなたが自分の力でなんとかしないといけないことだから」

と言って突き放す。


いずれ、本当の勝負処はやってきます。

親としては、子供の自立への大きな地図を心の中に持っておいて、今どのあたりを歩いているのか、冷静に見守ることかと思います。
 
 
 
 
 

親を引き算できるか


子供の心というのは、まずは親との関係から影響を受けます。それがすべての前提になります。

親の姿や価値観や心の癖を模倣すること。親への反発や不満に心を取られてしまうこと。

親の期待や要求に応えようとすると、自分の意志で選択するという基本が崩れるので、モチベーションが続かなくなるし、

逆に親に反発すると、そのストレスに心が囚われてしまうので、自分の将来を考えられなくなる、「自分のために勉強する」という素直な前提を保てなくなる、気を紛らわせるために娯楽に走ってしまうという事態に陥ってしまいます。

総じて「自分の人生を生きられなくなる」のです。

親の影響は、プラスに働くならいいけれど、マイナスなら有害です。「親の影響さえなければ、自分はもっと努力できるのに、勉強もするのに、将来のことを考えられるのに」という状況の子供は、たくさんいるはずです。

つまりは、親のマイナスの影響がなければ――という視点が必要になります。端的に言えば「親がいなければ」という引き算ができるかどうかが大事ということです。

「親がいなければ」という引き算ができるか。

「親への反発・反抗」は、引き算の第一歩。でも延々と反発ばかりしていては、自分の人生が始まらない。

反発するなら、「これは自分の問題なのだ。自分の人生がかかっているのだ」と思えるところまで反発する必要があります。中途半端な反発は、結局は現実逃避の理由になってしまいかねない。一番まずい展開は、親に反発しつつ、その不満を理由に部屋に閉じこもってスマホやネットでアヤシイ時間を過ごすだけ・・という状態になることです。

親の引き算というのは、子供が、自分の人生を考えること、将来を考えること、そして親とは別のところにある社会・世界・世間のほうを見るということでもあります。

「こんなところで、こんなことばかりしていられない」と思えるかどうか。それこそが精神の自立であり、成熟。

いわゆる反抗期とは、こうした成熟にたどり着くための通過儀礼です。というか、成熟にたどり着く必要があるのです。

となると、親には、ひとつの受け止め方があるのかもしれません。

「反発する(言う)のは、親として受け止めるよ、でもあなたの人生はどうするの? それは親を引いて考えてね」という受け止め方です。

「親はあなたより先に死ぬよ。この家だってなくなるよ」という現実を、どのタイミング化で伝えること。

いつまでも親を足し算に使ってはいられない。いつの間にか足し算に使ってない?――親が永遠に元気でお金もあって言いたいことを言える人間として生きているわけじゃないからね、という立場に立つことです。



付け足しておくと、興道の里の寺子屋には、親を最初から引き算して、一人で来させることがベストです。「交通費は出すから、自分のために一度行っておいで」と働きかけてみるとか。

ここでも、本人の意識の中で「親の引き算」ができているかどうかが、選択の分かれ目になります。

ただ見ていると、親や兄弟姉妹が「足し算」になっている子がものすごく多い。強烈な影響を受けて、振り回されて、自分を育てる時間が不足している。「心が育っていない」ことが多いのです。心の栄養失調。虚弱体質。

だから私はよく「今度は一人でおいで」と伝えています。

親の側でも「一人で」行かせるように働きかける必要があるのだろうと思います(もちろん時期・状況によりますが)。

特に兄弟姉妹の数が多いとか、親の存在が反発や阻害(心の成長における)の要因担っている場合は、なおさらそうです。

「引き算」という前提に立てるようにしてください。子供の心を育てるために欠かせない発想です。


2026年5月



独学でも勉強はできる


 独学には意志工夫がいる。きちんと自己管理して、正しい勉強法を工夫して。

 僕自身の強みは何かと考えてみると、独学で大学に進んだことかと思う。もちろん最初からできたわけではないし、最後まで自分に負けっぱなしだった部分もなくはないけれども、トータルで見て「自分に勝つ」ことはできた(だからこうして君と出会えている)。

 なぜ勝てたかといえば、意志と方法の2つがあったから。この2つを君には伝えていきたいんだ。

 最初に“方法”について少し聞いてもらえたらと思う。方法とは、学び方、勉強法のことだ。どう読むか、どんな手順で進めるか、1日の時間割をどのように組み立てるか、といったこと。

 今の時代こそ勉強法を語る本はたくさん出ているけれど、僕が十代の頃は少なかった。
 「あとで後悔したくない」という思いが強かったから、つねに将来を考えて、今をどう生きるかを思い詰めていた(苦労性だったんだw)。
 時間はあったから、大量の本を読んでいた。独りの時間が多かったから、深く考える時間があった。
 そんな時間の中で、本の読み方・考え方・書き方などを自分で工夫して確立していった。

 僕が手に入れた”方法”の核のようなもの(最も大切な要素)は、次の2つだ(具体的な中身は追って伝えていくから、まずはさわりだけ)。

  “本質”をつかむこと――本質とは、その分野・科目に必要とされるアタマの使い方だ。これさえわかっていれば、問題を解ける。しかも試験が終わっても、それこそ一生使えるアタマの使い方。

 たとえば数学における“手順”。語学における音や単語の“組み立て方”。現代文(論理国語)における抽象的文章を“読み解く技術”(論理的読解術)。歴史を物語として記憶するための“視点”といったものだ。
 
 こうした本質がわかると、どんな分野・科目であれ抜群に“見える”ようになる。覚えられるし、思い出せるし、問題を解ける。しかも生涯使える。
 逆に目先の試験に囚われた小手先のテクニックだと、試験が終わった途端に忘れてしまう。「覚え込む」(暗記する)ことに走って、別の場面で使えない。こうなると、せっかくの知識が上滑りして定着しない。
 君の周りに「勉強しなさい」としか言えず、肝心の「勉強のしかた」を教えられない大人がいるとしたら、こういうマズイ勉強をした(本質を学び損ねた)人だと思っていいかもしれない。

 僕が君にこれから伝えようとしているのは“本質”だ。
 本質がわかれば、勉強ができるようになる。人生が変わる。

 勉強ができること自体を目的にしてほしくはないけれど(見栄や虚栄心の満足につながっていきかねないからね)、学校の勉強や受験にも余裕で通用する本物の知力が身につく。

 その本質のいくつかを伝えていこう。


※注記: 本の草稿に当たるので、話の続きを書いていくとは限りません(すみません)。

 一緒に考えていきたいことは、「勉強観」とでも呼ぶべきもの。人生観、価値観、それと並ぶ勉強観――学びとは、勉強とは、どういうものかをめぐる認識の枠組みについてです。

 認識の枠組み(パラダイムと呼ばれるもの)が変われば、「勉強」という言葉の意味も根底から変わります。

  変わったその「勉強観」に立てば、学ぶことは楽しくなるし、その後をラクに楽しく生きられるし、実利として成績も上がるし、入試も無事合格できるよ、という一つの道筋をお伝えしたいのです。



もはや古典~自分を見つめない親について


もはや古典といってもいいメッセージになるけれど、

親は子供のことを相談するよりも前に、自分自身のあり方を見つめないと始まりません。


人間というのは、自分のあり方を見つめて理解しているかどうかで、成熟度が決まります。

成熟していない人は自分自身を見つめていない。なんというか、すごく自己理解が浅い。というか、無い。

自分を見つめる代わりに、子供のことや周りの人間のことばかり考えて、そんな自分がいっぱしのことを考えているように思い込んでいる。

子供が問題だとか、子供が変わらなければとか、〇〇についてわかってもらいたいとか・・。

いや、わかっていないのは、親のほう。それがわかっていないことが、悲劇的。


子のあり方は、親のあり方次第でいくらでも変わる。というか、親の姿を見て素直に反応しているだけ。

そういう部分もわかってない・・。

親であるという特権的立場にあぐらをかいて、子のほうにばかり目を向けるというぬるま湯にどっぷり浸かっている。

まずは自分自身のあり方を深く反省できないと始まらないんじゃないのかな。


自分に甘い。子にとっては、ずるい。

そういう親が無自覚のうちに立ちはだかっているから、こちらとしてはその子のために何もできない。


「どいてくれる?」


そう伝えたくもなる。自分の姿をちゃんと見なさいよ、と言いたくなる。

 

*夏の日本全国行脚スタートです。生き方・学び方について一緒に考えたい十代と親の方々はお声がけください。



新生活、始動


第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。

栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。


寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。

栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、

「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。

政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。

こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?

いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。



この先は、仏教が不動の軸ではあるが、仏教という枠にとらわれない働きを果たしていくことになる。

教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。

そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。

最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。

枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。




2026年4月下旬

 

人は思い込みの中を生きている


*十代、そしてこれから寺子屋に参加する中高生に向けて、この先、いろんな話題について書き起こしていこうと思います。

将来的には書籍にまとめたいと思っていますが、まずは日々の草稿の一部を紹介していきます。大人にとっても大事なことかもしれません:


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

外の現実と、自分のあり方を分けて考えてみよう。自分と外の現実は別物。だって、自分の心と体は、自分だけのものだから。君の友だちや周りの大人たちは、別の心と体を持っている。そもそも違うんだよ。



自分と違う外の人たちに対して、どう向き合うか。そう、まずは「そういうものだと理解する」だったね。さらに掘り下げて理解してみようか。周りの人たちは――友達であれ、先生であれ、親であれ、そうした人たちが作っている世の中であれ、こんなふうに理解できる。たとえば、

①人は思い込みの中を生きている

 たとえば、「勉強ができる→いい大学に行ける→いい仕事につける・周りに称賛される→社会で成功できる・有利になる」。そう思っている人がそばにいるとしよう。でも実際には、いい大学に行っても、中退したり、就職しなかったり、途中で転職したり、引きこもったり、まったく別の分野で生きている人もいる(具体例は挙げないけれど、興味があれば探してみればいい。いっぱいいるよ)。

 つまりは、ひとつの図式に当てはまる人もいるかもしれないけれど、当てはまらない人も大勢いるということ。むしろ当てはまらない人のほうが多いかもしれない(たぶんこっちが正解)。
 当てはまらない人のほうが多いのに、一つの図式が正しいと思っている――ということは、そう思っている人にとってはそう見えるというだけということ。それが「思い込んでいる」ということなんだ。



 大事なことは、そうした思い込みを通して外の世界を見るか、それとも「ひとつの思い込みに過ぎない」と理解して、「自分にとって最も自然に生きられるルートは何か」を考えることじゃないかな。
 あくまで自分を軸に考えるということ。今の自分を出発点にするということ。



 ひとつ言えることは、思い込みは、選択肢の幅を狭くしてしまうということ。「そうに決まっている、これしかない」と思い込めば、当然、他の可能性は見えなくなる。たとえば君が「勉強ができることがいいことだ→勉強できなければいけない」と思い込めば、「勉強ができなければ意味がない→死ぬしかない!」なんて思い詰めてしまうかもしれない(実際にそう思い詰めた人もいる)。

 でも、真実は違うよね。真実は、別の生き方もあるということ。勉強ができるというのは、本当にごく限られた思い込みにすぎなくて、その思い込みの外に、もっと違う生き方も、価値観もあるということ。
「(今の自分は)思い込みにとらわれていないかな?」と、自分を見つめるようにしたいと思うんだ。それができれば、もっとラクに生きられる。もっと自由になれるから。



 人はみんな思い込みの中で生きている。だからといって、君が他人の思い込みに合わせる必要はない。だって、彼らの思い込みは、彼らの頭の中に宿っている妄想にすぎないから。君は、彼らとはまったく別の体と心を持っているから。

 君は、自分の人生を生きていくしかないんだよ。他人の思い込みにいくら合わせようとしても、君は彼らにはなれないし、なる必要はないし、ならないほうがいい。だって、人に合わせようとすればするほど、自分らしさからは遠ざかってしまうから。自分を見失ってしまうから。



「自分と他人は違う」というのは、さみしく思うかもしれない。自分も人と同じようになりたいと願うかもしれないね。
 だけれど、それはどうしたって無理なこと。だって、生まれた場所も、持っている体も違うから。僕らは「人と自分は違う」という真実から始めるしかないんだ。

 人と自分は違うということは、さみしくも見えるかもしれないけれど、逆にいいことかもしれないんだ。だって、人に合わせず、自分を生きていけばいいのだから。
 自分を軸にして、今の自分を出発点にして、自分にとっていちばん自然で楽しいと思える生き方(時間の過ごし方)を考えていくだけでいいのだから。



 大事なことは、「その先がある」ということ。褒められたいから頑張る――でも、それも思い込みの一つに過ぎない。
 その先にある未来は、思い込みどおりにはならないかもしれないし、ならないほうがいいかもしれない。もしかしたら、褒められたい今の君とはまったく別の自分が将来にいて、その自分はまったく別の人生を生きて、まったく別の幸せを感じているかもしれないんだ。
 だからこそ覚えておきたいのが、変わらない真実(普遍的に正しいこと)だ。

 つまり、人それぞれに思い込みの中にいて、欲で動いているけれど、自分と彼らは別者であって、自分は自分の人生を生きていくしかないし、生きていけばいいということ。

 そして、人と自分は違うのだから、結局最後は、自分がイイと思えたら――今の自分に満足できたら、納得できたら、自分を受け入れることができたなら――それでいい(それだけでいい)ということ。
 誰がなんと言おうと。誰がどんな目を向けてこようと。だって彼らが見ているものは、彼らの思い込み(妄想)でしかないから。天地がひっくり返ったって、彼らは君とは違うのだから。


※大人目線と思われては困るのだけど、文体については今後検討を重ねていきます

 

2026年2月


思いについて


※このスレッドで紹介する文章は、幼い子供から中高生までに向けた言葉に当たります。


書籍化を予定した未公開原稿の一部ですが、たとえば、親や学校や塾の先生などが印字して、草薙龍瞬という名前をつけて、


子供に手渡したり教室に掲示してもらうことは、フリーです(個人として大切にしてもらえるのであれば、もちろん大人でも)。



よい言葉だと感じてもらえたときの話ですけれど。たとえば――



◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




思いについて



そのときの気持ちにフタをする必要はないし、本当は何を話してもいいんだよ。


そのときの思いは、今の自分にとっての真実だからね。


だって、心の中にちゃんと”ある”んだから。その思いが。



もしその思いが明日も続くなら、それもやっぱり今ある思いなのだから、


君にとっては真実なんだよ。やっぱり大切な思い。



でも今日の思いが明日は変わるかもしれないし。


もし変わったとしたら、

過去の思いはもうなくなったっていうことだから、


もうこだわらなくていいし、思い出さなくていいのかもしれない。



大事なことは、今、自分の中にどんな思いがあるか、ということ。


もしその思いが、誰かと関わっていること(誰かに向けての思い)であれば、


その相手に伝えることも大事なこと。



もう少し自分の中に取っておこう、とか、


もう流してしまおう(流してあげよう)と思えるなら、流してもいいし。



もし自分 一人でその思いを抱えることが、自分にとってつらいと感じるようなら、


その思いはどこかで「選ぶ」必要があるかもしれないね。



もう少し待ってみよう、と思えることも、選ぶということ。



相手に伝えよう、と思えることも、選ぶということ。



もういいや、忘れてしまおう、と思うことも、選ぶということ。



君が今思っていることは、大事な真実。


こんな思いがあるんだ、と気づいて、


あとは、自分で選べばいいんだな、と思えることが、


もしかしたら大切なのかもしれないね。

 

 

 

 2026年2月

 

 

 

Season2はいっそうの創造の年に


草薙龍瞬から


今年はクリエイション(創造)の年。活動をSeason1(2011年~2025年の15年間)以上に積極的に、ターゲットを広く、いわばブーストをかけなくてはいけないと思っています。

仏教の本質を伝えるというコア部分は、そのまま末永く継続していくとして(貫くことも大事)、

今年は関わる範囲を十代にも広げていこうという年なので、それにあわせて時間の使い方も、伝えるための方法も、工夫をしていこうと思っています。

特に、伝えるための手段については、過去は真面目に文章一徹だったのですが、もともとある創造者魂みたいなものが、今回の北海道体験ともあいまってかなり刺激されたので、

ここは心の戒律(俗世にいうメンタル・ブロックの一種)を大幅にゆるめて、

伝えられるなら、手段を問わず、やってみよう(内容も手段も)

という思いのモードになっています。


これまでは、出版社のほう(編集者の方)からお話(企画)を持ってきていただく形が主流だったのですが、待つことに特化する必然的理由はないので、

この先は、出会う人・関わる相手にあわせて、最も適した内容と方法をもって、新しいコンテンツをいわばフリーハンドで創り出していこうとも思っています。


この先お送りしていくのは、子どもたちに向けて――

生き方・学び方についての本にするのか、絵本にするのか、イラストをつけるのか、そのあたりは考えていきますが、

たとえば、『反応しない練習』や『怒る技法』の中身は、こんなふうにも表現できるという例として紹介していきます※

 

※書籍化を予定した未公開原稿の一部に当たります。でもたとえば、親や塾の先生などが、草薙龍瞬という名前をつけて、印字して、子供に渡したり教室に掲示してもらうことはフリーです。よい言葉だと感じてもらえればの話ですけれど。



つづく
2026年2月


インタビュー記事


朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)


子育てと受験
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
 
いよいよ中学受験本番。多くの保護者が子ども以上にプレッシャーに悩み、合否の結果に一喜一憂するといいます。どんな心構えで向き合うべきか。ご自身も中学受験、大学進学の経験を持ち、多くの親子の相談に乗ってきたという僧侶・著述家の草薙龍瞬さんに聞きました。結果に振り回されることより、「転んでも損しない」ポジティブな考え方に切り替えることを、草薙さんは勧めます。受験を控えた親がラクになれる意外な方法とは?




学びは独立が大事~まず親が「考える」こと

※学校の宿題をタブレットでやるようになって、やる気を失ったという子供のお父さん・お母さんに向けたおたよりから抜粋:

 

「時代の流れ」なんて、ないも同然なのですよ。でたらめ。教育の現場でやっていることが正しい保証なんてありません。むしろ無思考・無体験の大人たちが考えることなんて、ろくでもないかもしれない。


ご自身のあり方に気づいてほしいことがあります。

お父さん・お母さんは、子供がやる気を失っているのに、子供に合わせてやり方を変えようという発想を持てないわけでしょう? そこが一番の問題じゃないのかな。

タブレットが嫌いというなら、紙でやらせればいいではないですか。なぜやらせないのでしょう?

学校が何と言おうと、学ぶのは子供であり、子供に適切な学習体験をさせる直接の義務を担っているのは、親自身なのだから。

親がちゃんと考える必要があります。何が子供にとって最善最適な選択なのか。
 
すでに子供の感情が置き去りにされている。「頭を使わない親」、つまりは子供の思いを理解しない親の姿になってしまっている。そう思いませんか?

ちゃんと「親であるという特権」を生かすことを勧めます。こういうことが、「考える」ということなのです。
 
 
 
 

学校に居場所がないという君へ

(あるお母さんへの返信から) 

 

学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。

合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。

特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、

誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。

このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。




となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。

なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。

将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした

自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。

価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。


結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。

いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。

残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。

その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。


幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。

学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。

他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。

妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。

それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。


もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、

他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。


磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。

大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。

仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。




だから、最終的に考えるべきは、

自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使う
ことだろうと思うのです。

その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。


それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。

 

本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、

行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。

難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。


同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、

学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは

将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、

それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。


どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。

自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。

3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。


これからです。




2026年1月


「与えない」という親の特権

いよいよ一年も大詰め。軽めの話題で流したいところですが、大事なことを、特に子育て中の親である人に向けて――

とにかく小中学生(15歳まで)は、勉強は手作業で。しっかり書くこと。

スマホ、タブレット、ゲームなどの「眺めて微反応」だけの機器はなるべく遠ざけること。


ゲームというのは、小学生くらいまでは友達との交流や反射神経を刺激する「遊び」たりうるけれども、

一定レベル以上の思考力が育った後、つまりは中学生くらいになった後からは、「依存」の要素が強くなります。

「遊び」として許容できる時期と、「依存」を警戒しなければならない時期とは、くっきり分かれる(違う)ということです。

しっかり区別すること。でないと、子供のその先(将来)が台無しになりかねません。

タブレットでは、脳を育てるほどの刺激は得られません。眺めて指で触れる程度。デジタルペンを使っても、ツルツルの画面内の情報を眺めるだけという状態は変わらず、

指先でペンを握って、感触のある紙に書き込んで、しかも筆圧とか力の強弱でダイレクトに筆感が変わるという脳刺激のバリエーションには、到底及びません。

脳を育てるには、一定レベル以上の刺激、それも五官を使って、しかも一つの器官(視覚や聴覚)のみではなくて、複数の感覚器官を同時に刺激するほうが、はるかに効果的なのです。

ひとことでいうと、ラクをさせてはいけないよ、ということです。これは親に向けてのメッセージ。


スマホは、「遊び」の道具と化してしまうリスクが高いから、取り扱い要注意の部類に入ります。アルコールと同じとまでは言わないけれど、安全無害な器具ではありません。

便利だからとか、連絡を取りやすいからとか、周りがみんな持っているから程度の理由で、ホイホイと安易に与えたが最後、

「遊び」に引きずり込まれて抜け出せなくなる危険が高いのです。


十代という歳月は、「将来への準備」に使うべき、重要な、一度失ったら取り返しのつかない期間です。

五官を通して、脳を育てて、将来、どんな働きを果たして身を立てていくかを考える、そのための準備を、何年もかけてやらねばならない貴重な期間です。

大人以上に時間(何をして過ごすか)が決定的な意味を持つのが、十代の子供たち。安易にスマホを与えるべきではないし、ゲームなどへの耽溺・依存(長時間のを許容すべきでもないと個人的には思います。

必ずルールを作ること。時間に上限を決めること。有限の時間を何に使うか、きちんと決めて管理すること。

親が力を発揮しないで、子供だけで自分を管理できるはずはないのです。自分のあり方を客観視する力も育っていないし、将来もまだ見えていない。「やりたいようにやらせる」ことは、正解には(ほぼ確実に)なりません。

今という時間をどのように過ごすのかは、身近にいる親が働きかけるしかないのです。


スマホについては、いろんな意見・考え方があるとは思いますが、ひとつの提案としては、

1)中学生まではスマホを与えないこと(失うもののほうが多いし、必要性が乏しいため)。

2)もしどうしても欲しいというなら、何に使うのか、必要性をきちんと聞いて、「ならば一度バイトして、スマホの機種代と通信費を稼いでおいで」と伝えること。

バイトできるのは高校生からだから、原則として「スマホは高校生から」。つまり中学生までは与えない。高校生になって、本人が「どうしても」というなら、スマホを持つことも検討する。

ただし、子供の日頃のあり方を見て決める。将来への準備につながることをやっていない様子なら、スマホは許可しない。

「今でさえ自分をコントロールできず、将来への準備もできていないのに、スマホなんか持ったら、もっとダメになる決まっているでしょう(そうでないとどうやって言えるの)?」と伝えていいのでは?

バイトまたは家事をする。きちんと時給計算して、働いて稼ぐとはどういうことかを体験してもらう。

「自分で稼いだお金を失う」ことを体験して初めて、お金・時間の使い方を考えるようになるのです。

3)自分で稼いだお金でスマホを買うというなら、まずは1か月のお試し。それをクリアできたら、3か月に延長して、様子を見る。

4)自分を管理できることが確認できたなら、「将来への応援」として親が負担するは可(ただし親がお金を出す以上は、親の観察下に置くことは了承してもらう)。


これくらい、きちんと段階を経て、ただの遊びや依存ではなく、日常で使う道具として使いこなせるように促していくのです。

こういうのは、厳しいのではなく、当たり前のこと。「手を伸ばせば、いじれてしまう」至近距離に、これほど洗練された「おもちゃ」があることが、子供の脳と未来にとって、どれほどのリスクか、親はしっかり自覚しないと。

何も考えずに与えている親が多すぎる印象があります。「子供の脳・時間(生活の質)・将来への影響をきちんと考えていますか?」ということです。


時間の使い方を学習することも、子供時代になすべきこと。自分の将来をも考えて、バランスの取れた生活ができるようになることも、子供にとって大事なこと。

そうした部分が守れないうちは、絶対に「与えない」こと。

「与えない」という選択ができるのは、親が親でいられる間のみです。親の特権。堂々と行使することです。


子供が何を訴えても、買い与えるのはまだ親なのだから、親が「与えない」ことを選んだならば、子供は何も言えないのですよ。「まだ言えない」現実を体験することもまた、どれほど大事か。

「親の選択に不満を持つなら、大人になって自分で稼ぎなさい(そのための準備には最大限応援するよ)」という当たり前のことを伝えるだけです。


安易に与える親が多すぎます。

結果的に子供を弱くし、将来の可能性さえ掘り崩している。


そう感じませんか?

「与えない」ことこそが当たり前だという認識に立つことも必要なように思います。

真剣に、考えてみてください。








「椅子取りゲーム」いつまでやるの?

(子供を受験塾に通わせているお母さんのおたよりをふまえて)

 

某大学をめざせ系のカルチャーを支えているのは、

たかだか大学でしかないものに過剰な価値を見出し、まるでその価値を手に入れれば人生が挽回するとか、成功という社会的記号が手に入るとか、そういう単純な、もっとはっきりいえば貧しい価値観です。

どこぞの大学に進んだからといっても、それ自体に社会的な価値があるわけじゃない。

社会的な価値というのは、経済学的には付加価値を創り出すこと。

仏教的には、人の苦しみを減らし、社会における快適さを増やすこと。

そのための手段として、さまざまな仕事・役割があるわけで、どこぞの大学に行った・出た程度のことは、こうした価値に直接の関係がない。

社会的な価値に至らない、つまり価値未満の記号でしかない。

にもかかわらず、そうした分別、成熟、すなわち「社会にとっての価値とはどのようなものか?」という視野がまったく欠落している大人たちが、

どこぞの大学に行けば人生が変わるとか、社会的に有利だとかという思い込み(視野狭窄)に捕らわれていて、

その捕らわれている自分自身のダサさ・痛さをまったく自覚していない(いい歳をして)というところが、「絶句」なのです(間違っているというしかない)。


こうした価値観にとらわれた、視野の狭い、無思考な(疑ったうえで本当の価値を考えるということをしない)大人たちが、

特定の大学礼賛とか、偏差値とか、成績とか、ランクづけとか、そういう姑息な下位記号を次々に作り出して、売り物にして、

その記号を物差しにして、勝手に学校や子供たちの価値を判断して(これも一つのハラスメントですよ?)、

その判断を刷り込んで、自分自身の価値を判断させるように、また周りの人や仕事や学歴や社会のありようというものも判断させるように感化してしまう。

煽りであり、刷り込みであり、中身のない物差し(成績・学歴・大学名)で自分の承認欲を満たしたり、人をバカにしたりという「イヤな性格」を育ててしまう。

「イヤな性格」とはっきり言っていいのは、人というのは判断されたくないし、見下されたくもないから。

いちいち値踏みしてほしくない。なのに値踏みしてきやがる(笑)。それは、イヤな性格であり、イヤな人生観であり、イヤな価値観。

そういう価値観が蔓延してしまえば、見下されたくない子供たちは、その価値観という椅子取りゲームに興じざるを得なくなってしまう。

だって、親が必死だから、期待してくるから、塾がそうだから、入った学校が、友人がそうだから、予備校がそうだから、大人たちの視線がそうだから、耳に入ってくる話題がそうだから――。

学習して、いつの間にか、自分自身が同じ価値観に染まっている。承認という椅子取りゲームに血眼になってぐるぐると回っている自分がいる。周りの友だちも、大人たちも、社会も回っている。ぐるぐるぐるぐるぐる・・。


こういう無意味な椅子取りゲームを、疑いもしない、考えるアタマを持たない大人たちが世の中には蔓延していて、

そうした大人たちがしたり顔して、どこぞの大学をめざせとか、こういう勉強法があるぞとか、そういう自分にとってはもう終わったこと(こういう大人たちって何歳?)を得々と語って、カッコがついているように思い込んでいる。

そういう姿がカッコ悪い。

この椅子取りゲームのぐるぐる、いつ終わるのか。

終わらない可能性もある。それくらい、考えない大人が増えているかもしれないから。



不登校については、学校という箱を相対化する(学校だけが学びの場所ではない)という意味はあるかもしれない。学校に執着しない大人も子供も増えている。

学校の価値が相対化されつつあるのは、社会の、つまりは大人たちの認識が少しは変わってきている証拠。少しは子供たちも自由になりつつあるのかもしれない。

同じように、どこぞの大学名が価値を持つという価値観もまた、そうした価値観を相対化できる、「そんなことに価値があるのではない」と思える大人たちが増えてくれば、

某大学をめざせ的なカルチャーは、ダサい、痛い、「いまだにそんなことを言っているの?」と白々と思うほかないオワコンになっていくかもしれない。

オワコンにすべきだと思う。終わらせないと、社会全体の可能性が尻すぼみになる。

自分らしく、つまり心に苦しみなく生きること。

世の中の殺伐・ストレスが増えないように、人の痛みや苦しみを思いやり、社会の問題に関心を持ち、

どうすれば、人・自分・社会の苦しみを減らせるか、快適を増やせるかという大きな価値をめざして、生きて、働く。

そうした生き方、社会のあり方のほうが、確実に、圧倒的に、価値がある。違うといえるかな?



椅子取りゲームのぐるぐるを繰り返しても、せいぜい特定の椅子(大学・学歴)にしがみつくだけ。そんな自分に価値があると思う?

座れない人だって出てくる。座れる人と座れない人と――その区別そのものに、意味があると思うかい?
 

たかが小さな椅子でしかない。何も生み出さない貧相な椅子。


本当に価値あることは、その周りに、向こうに広がっているのだから。



自分のプライドを守ることだけで精一杯、そんな余裕のない子供と、そのまま大人になった人たちと、そんな価値観しかない社会が、延々と繰り返される――

そうしたあり方に、心の底から「くだらない」と思える人間が、どれだけ出てくるか。

一人一人の生き方と、社会のあり方と--広がるか、ますます狭まるか。

狭まるなら、人の”心の首”はますます締めつけられて、窒息していくことになる。人生も、社会も。「生きづらさ」が増すばかり。

本当にくだらない。そう思えないとね。




2025年11月


閉ざされた檻

<興道の里から>

8月30日(土)午後 個人相談会 臨時増設しました。

8月31日(日)夏納め国語キャンプ~言葉を力にかえる in 千葉・野田 まもなく開催

参加希望の方は、このブログまたは公式カレンダーをご覧のうえ、お申し込みください。

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 

※長いです(教師あるある笑)。


都内の大きな書店に行ってみた。印象的な点がいくつか。

ひとつは、「〇大本」が溢れていたこと。〇大という大学名をなんの臆面もなく売りにして、体験記やらノウハウ本を出している。


〇大というのは、ただの大学名。〇大生というのは、ただの学生であって、近い将来、社会で役割を果たすための準備期間にあるというにすぎない。本来価値はないはずなのだが。

大学生というのは、本当は肩書ではない。何者かになるまでのプロセスの呼び名(文字通りの学生)であって、何かを達成した人ではない。

こうした勘違いを育ててしまったのは、「〇大」というだけで価値を持つかのように、煽って、崇めて、そして今なおその価値観から抜け出せない、視野の狭い大人たちなのだろうと思う。

結局は、社会が、こういう幼い文化を育ててしまったのだ。



こういう臆面も分別もない「〇大本」が大量に並んでいることにも、ゲンナリしてしまったし、

小・中・高・大学受験というステージと、科目・分野別の参考書が、あいかわらずできあがった学校制度を前提として不自然に分類されていること(学年で分けたり、数Ⅰ、数Ⅱと不自然な概念で区分したり。数学の体系にそんな概念は存在しない)も、不自然に感じたし、

カラフルなわりに、雑多な知識が視点もなく並んでいるだけで、こんな本で地理や世界史や日本史を学んでも、「物語」も「体系」も「視点」も身につかず、

バラバラな知識の断片を一部覚えて一部忘れて、結局、この地球の上に何があって、どこで何が起きていて、過去どの場所でどんなことがあったから、今の国や地域や風土や国際関係になっているのかを説明できるようになる、という「まともな学び」が限りなく難しくなってしまっている(変わっていない)ことも、甚だ嘆かわしく感じた。


こういう分類や教材の作り方をして平気でいられるというのは、教える側も「学びとは何なのか」を、あまり突き詰めて考えていないからだろうとも思ってしまう。

学校では教科書を教えるもの、何年生の何学期にはこれを教えるもの、受験用にはこれを教えておけばいいという、型にはまったイメージが固まっていて、

教えた後に自分に何が残ったか、学んだ側に何か意味あるものが残ったかを検証しようという発想が、教師の側にないのかもしれない。まさに「仕事だから」教えているという姿なのだろうか。

ちなみに楽しい授業というのは、教師の側に楽しい感情が残ったかどうかでわかる。不満や迷いが残ったとするなら、その授業はやはりどこか間違っている(工夫の余地がある)ということなのだろうと思う(違いますか・・?)。



学生の側も、不幸な時間を過ごしている。中学ではコレ、高校ではコレ、何学期はコレ、というお決まりの内容しかない、と思い込んでいる。学校の成績のため、受験のため、いい高校、いい大学に行くため、という形でしか、勉強というものをとらえられない。

「そういうものだ」という思い込みだけで授業に「お付き合い」して、なんとなく学年が進んで、卒業して、進学して。

だが後で振り返って、数学とは、文学とは、古典とは、自然科学とは、歴史とは、といったそれぞれの体系や面白さというものを、まったく思い出せない。「教養」が残らない。

まったく栄養にならないものを、教師は教えているのかもしれず、学生は学んだ気になっているのかもしれない。なんだか不幸な関係性だ。



もうひとつ印象的だったのは、大型書店に足を運ぶ親子連れの「意識の高さ」である。親のほうが、熱心に参考書をチェックしていたりする。

子供(小学生)は、そんな親に付き合って、素直に勉強する意欲を見せていることもあれば、あきらかにヤル気のなさそうなこともある。

親の目から見た勉強や受験というのは、親が見る妄想であって、そんなものを押し付けられても、子供は楽しくとも何ともないだろう。小学生くらいの子供が、意識高い系の親につきあっているのは、まだ素直で、親のことが好きだから(勉強が好きな子については、ひとまず問題ナシとしよう)。

親が敷いたレールの上を進むことに、もう少し大人になった子供が、何を感じるかだ。自分のこととして頑張るか、反発して拒絶するか、あるいはどちらも選べずに、ただ気力を削がれてスポイル(無気力化)されてしまうか。



さらに印象的だったのは、幼稚園・小学校受験の参考書コーナーが充実していたことだ。「行きつくところまで行ってしまっている」と思わざるを得ない、充実・発展ぶりなのだ。

「○○的思考」とか「○○学習法」とか・・これ、大人向けの本ではなく、4,5歳児対象の参考書なのだ(実際は親が読むのだろうが)。

子供向けの自己啓発本も、恐ろしいまでの充実ぶりだ。プログラミング、ジャーナリング、生成AIの活かし方、傾聴力、マネジメント、SNSの使い方、心を知る、時間活用法、整理整頓、文章がうまくなる・・あらゆる分野の、いやこれ大人が学ぶことじゃんと思うようなタイトルの本が並んでいる。

しかも、中身がなかなかなのだ。「文章がうまくなる」という本を開けば、「日記は事実と気持ちを分けて書こう」なんて、プロのノウハウまで書いてある(私の『怒る技法』には、怒りは事実・感情・願望に分けて書きましょうと書いたが、似たようなことw)。

大人が読んでも「なるほど」と思ってしまう。どこまでレベル高いねん、今の子供(笑)。



だがしかし・・だ。なんだろう、この閉塞感は。まず価値観が限定されている。外の輪郭は、せいぜい学歴を身に着けるため、名の知れた大学に行くため、アタマがいいというステイタスを得るため・・・「その程度」の価値観しか伝わってこない。

学びの先にあるもの――つまりは、人生は何のためにあるのか、幸せとは何なのか、知力はなんのために使うのかといった、最も大きな、突き抜けた問題意識が、伝わってこない。つまり、本当の<知>とつながっていない。

<知>の本質とは、それほど難しいものではない。命が抱える苦しみを減らすこと、快(喜び・楽しさ・希望・信頼などの感情・思考)を育てること、

そして、絶え間なく変わりゆく世界の現実を見て、生き延びていくための方法を探っていく。地球規模でいえば、なるべく長く人類という種が生き延びる、その可能性をめざすこと。

苦しみを避けられない定めを持つのが生き物であるなら、<知>を持つ人間の最大の特質は、こうした生き物を越えた価値をめざすことにある。

こうした究極の価値をめざし、共有し、実現するための方法を探り、実用に持ち込んで、現実を変えていく。

それを可能にする<知>こそが、アタマの良さというものであって、学校の勉強ができるとか、たかだが大学に行くとか出たとか、そんなことは、本当は「どうでもいいこと」(妄想による自己満足か、制度化されたただの概念か)なのである。

人間には、世界には、もっともっともっと広くて大きくて切実なテーマがあるというのに、子供たちを取り巻く教育、勉強、進学、学校、教科書、参考書の、この“貧しさ”はなんだろう。

噛むのに苦労する干物のようなものか。必死に噛んで呑み込んでも、あまり栄養にならない。

価値観の貧困、方法の貧困、目標の貧困――だが、勉強とはこういうもの、学校とは、進学とは、社会とは、こういうものだという巨大な決めつけによって、学びが持つ可能性を極限まで狭くしているような気がしてくる。

教育のシステムが、ほぼ出来上がってしまっている。成熟というより、硬直化、もっといえば化石化だ。もっと他にシステムがあるはずなのに、前提となる価値観が貧しいものだから、作り込まれた教育の外に、一歩も出られない。

「よくできた参考書」は、たくさん出ている。だが、他の可能性を探る余地を許さないという大人のエゴのように見えなくもない。

分厚く頑丈な「勉強とはこういうもの」という、大人側が築きあげた監獄というか檻の中に閉じ込められて、その中で適応して結果を出すしか、選択肢がないのだ。

うまく順応して「お利口さん」として生きていける人間は、この閉ざされた檻の中でプライドを満たし、築き上げられたシステムの中でうまく立ち回って、他の人より「相対的に豊か」と思える程度の人生を生きていけるのかもしれない。

だが、その豊かさが、肩書や収入や世間からの賞賛といった程度のものであれば、結局は、妄想の自己満足に過ぎないし、

社会的に価値ある働き――つまりは苦しみを減らし、快を増やすための働き――を果たせるわけでもない。

何より悲劇的なのは、「その程度のことで満足してしまえる人間」を育てる程度にしか機能していない、今の教育システムにさえ順応しきれなかった子供は、何も得られなくなることだ。

周囲は、しょうもないことをめざし、必死になり、得意になる、しょうもない大人であり、学校であり、価値観のみ。

それに順応できなかった自分には、何も残らない。

部屋にこもって、スマホやゲームで気を紛らわせても、そんな自分を自分で肯定できないし、かといって外に出れば、相変わらずしょうもないことしかやっていない大人や学校や社会を見ることになる。

「どうせこうなる」ということが見える気がするから、何もヤル気が起こらない。


大きな書店の参考書コーナーに足を運んだだけで、そんな感想が出てきた。「そりゃ、病むやろ・・」という納得の言葉。

小学、中学、高校、大学受験で「病む」子供は、かなりの数に及ぶはずだ。そりゃ病むのも道理である。目標も、方法も、自分の胸の内にも、何ひとつ意味が見えないのだから。



こんな閉ざされた檻のような環境で、子供たちは生きているのか。キレてしまう子が出てきたって、おかしくない。

その一方で、元気で、素直で、前向きな子も多い。環境に恵まれているのか、持ち前の生命力か、幸運にも病むことを回避できている子も少なくはない。それは「救い」ではある。

とはいえ、学ぶ以外に費やす時間が、動画、音楽、ゲームというエンドレスなデジタル微反応でしかない(そういう子供が劇的に増えていることも事実)というのなら、健全とはいいがたい。体も脳も生き方も育たないであろうから。


時代・社会が変われども、どのような環境の変化にも適用して生き延びていくための、最低限の知力を育てる必要はある。

怠ることを容認してはいけない。スマホやゲームに浸りきった毎日を絶対に肯定してはいけない(社会の風潮がどのようであろうとも)。怠惰とほぼ変わらない「微反応モード」だけで、貴重な十代を終わらせてしまうのは、もったいないし、危険だし、取り返しがつかない。

どのような正当化を試みようと、こうした時間だけでは育たない能力がある。理解力、思考力、集中力、持続力、人間関係を作る力、役割を見つける力、働く力、稼ぐ力――。

自分が幸せになるために最低限守るべき生き方と、社会の中で生き抜くための知力と気力というのは、それなりの「体験」をふまえて学んで(勝ち得て)いくものだ。

だが、体験を潰してしまうのが、スマホやゲームやSNSといったデジタル・ツールなのである。単に崩れているだけ、流されているだけ。抜け出せない最大の理由は「ラクだから」。

その本音があるかぎりは、結局は、大事な能力は育っていないということだ。生き物として弱化・劣化しているという事実は否定できない。



知力を育てるための学びは、時代を超えて必要だ。

だが今の世の中が不幸なのは、学びと異なる、意味の見えない教育・勉強・試験・学校制度が、あまりに強固に確立されてしまって、

そうしたものに積極的に飛び込む理由もモチベーションも湧かなくなってしまって、

かといって代わりにできることは、デジタル機器への依存(ダラダラ時間)だけという状況だ。

その姿を外から見れば、狭い檻の中に閉じ込められていることに変わりはない。

つまらない勉強しか知らない子供は、「なんで勉強しなければいけないの?」と自然に思うだろうし、

そうした勉強しか自分も知らない大人・親・教師たちは、その問いに説得力をもって答えるだけの言葉を持っていないだろうし、

運よく適応して勉強ができるようになった子供も、結局は、見栄やプライドという妄想を満たして終わる、つまりはしょうもない世間の価値観に身の丈を合わせて満足してしまう大人になる可能性が高いし、

ならば勉強しないとどうなるかといえば、今の時代なら、スマホ、ゲーム、動画、SNS、音楽にエンドレスに時間を使って、脳内の微反応だけで生きていく――いや、生きているようで生きていないかもしれない人生に、いつのまにか落ち着いて(堕ちて)しまっている。そんな圧倒的多数の「微反応に支配された人間」の一人になってしまうくらいしか、選択肢がなくなりつつある。




いうなれば、ゆりかごから墓場まで、見栄のための形だけの勉強か、微反応にしか時間を使えなくなりつつある今の時代にあって、

「いや、他にも生き方がある。本当の学びというものがある」と声を挙げて、実際に形にして見せて、わかってもらうというのは、

かなり至難の業であり、無謀な試みではないかと思えてきたりもした。

学ぶための教材は、今の時代、出尽くした感がある。さらに付け足せるものなど、あるのか?

自分に見えている学びのイメージを形にするには、どれほどの実践が必要か。その時間・体力は残されているのか?

そういう場所を開いたとしても、学校・受験のためのお勉強とデジタル機器への微反応に慣れきった子供たちが、本当に集まってくるのか?


なんだか、壮大な失敗をするような気がしてきた(笑)。


さながら、大和朝廷の大軍勢に立ち向かい、あえなく滅びていった地方の名もなき豪族のようなものか。

滅びを覚悟して闘いを挑む。挑んで散っていった勢力も無数にあろう。挑んで、滅んで、勝った者もまた滅んで。

諸行無常が人の世の常だとしたら、時代を超えて価値があることは、挑むことそのものであろう。

――なんていう膨大な妄想を繰り広げつつ、疑問と危機感と使命感と一緒に、十代向けの本を買って帰路についたのでありました。

『人生をスッキリ整えるノート』から



2025年8月中旬





子は親をかばうもの


この場所には、いろんな親が来ます(子のほうが来ることは、ごくまれ)。

親にはもちろんいろんなタイプがあります。ただ、子供のことで悩んでいると語る親については、大きく2パターンに分かれるように思います。

ひとつは、子供の側に事情がある場合。学校生活につまずいたとか、勉強がうまくいかないとか。この場合の親は、子供の味方であり、理解者であろうとしている親ということができます(完全にそうだと言い切れない、怪しい部分もあることが多いものですが)。

もうひとつは、親自身が問題である場合です。案外、こっちのほうが圧倒的に多いものです。

親の側が、しようもない見栄やプライドや自己防衛を隠し持っていて、子供のことで「悩んでいるフリ」をしている狡猾な(小ずるい)親もいます。

親の側が、ネガティブな解釈に凝り固まっていて、端(はな)から子供を否定し、子供に問題がある、子供にはこれができないと勝手なダメ出しを、子が幼い頃から浴びせ続けている場合もあるし(仏教的には「疑(ぎ)の妄想」と表現します)、

さながら閻魔大王のような厳格な裁きの王様的な地位に君臨して、コレをしろ、コレはダメ、と異常なまでに細かく指図、命令、支配して、子供の自由を一切認めない場合もあります。

あるいは、親自身がしょうもないプライド(せいぜい学歴だとか職業だとかその程度の妄想なのですが)にしがみついて、プライドに振り回されて、尊大になったり卑屈になったり、感情的に上がったり下がったりして、子供がいい迷惑、というか激しく翻弄されて消耗して、怯えて、傷ついて、心の安定を体験できない場合もあるし、

これまたプライドの亜種だけれど、自分が人間として空っぽ(価値観の点で空っぽ――つまり何が本当に価値あることか、確かな人生観を持たずに、周りの目を気にして、世間体に合わせるだけで親になってしまったこと)をごまかし隠す、その反動で、

子供の話を一切聞かない、あるいは聞く前に結論を出して、わかったフリをして、本当の対話を遮断してしまう(逃げてしまう)場合もあります。

こうした段階にある親(段階とあえて言うのは、今後、親の側が変わる可能性もあるからです)は、総じて、無理解という暴力を振るう絶大な権力を握った暴君、あるいは操縦不能なブルドーザーみたいなもので、

自分の感情や思惑や見栄やプライドや世間体や自己防衛を、分厚い鎧としてまとって、子供を圧倒し、その心を踏みつぶしていくので、

子供の心は育たないままになってしまいます(「育たない」とあえて大まかな表現をしていますが、その内容は実に様々です。そして根深い)。


親が、そのまま、無理解という暴力をぶん回し続けるのか、多少なりとも、自分自身の危うさ・やばさを自覚して、気をつけて、過去を謝罪して、子供の側が「少しはわかってくれるようになってきたか」と思えるようになっていくか。

道は大きく、この二つに分かれます。おそらく前者が圧倒的多数(つまり子供が心理的暴力を振るわれ、傷つき、病んでいく場合)。

後者は決して多くありません。ただ、この場所にたどり着いて、ある程度この場所での「対話」を重ねた人の中には、後者の可能性が育っていくことはあります。


ときおり親の側から「その後の報告」を受けることがありますが、「よくここまで来ましたね(正しい理解ができるようになりましたね)」と素直に肯定できることもあるけれど、

逆に、親のほうが、本当はまだ真相(正しい理解)に到達していないのに、「わかった(変わった)気になっている」ことが見えることもあります。

この場合は、過去の無理解という暴力を、親が気づいていなかったりします。自分のプライド、自己美化、自己正当化、いわば自分に都合のいい解釈はそのまま守り続けて、「きっとこういうことなのだろう」という理解(実は勘違い)に留まってしまうことも、なくはありません。

このケース、実は子供の側も加担してしまうこともよくあります。親をついかばってしまう。「あなた(お父さん・お母さん)は悪くないよ、他に原因があるんだよ」と言ってしまう。

子供としては、自分が親を苦しめてきたのかと感じてしまうのかもしれない。そんな親がかわいそう、自分にも悪いところがあった、だから自分(親)を責めないで、とつい言いたくなってしまうのかもしれない。

子は、親をかばうもの。「そのとおり。やっとわかった?」と言い放てない。

子供は優しい生き物。やはり親は親のままでいてほしい。謝ってほしくない。そんなことをされたら、苦しんできた過去が無意味だったことを認めてしまうことになりそう、親が親でなくなってしまいそう・・・

過去の関係性があまりに長く続いたがゆえに、一つの関係性が固定されていて、その関係性を変えていくことへの怖さやためらいも、心の中には作動する。

なにより子にとって親は親。やっぱり嫌いたくはない。いい関係でいたい。褒めてもらいたいし、愛されたい。そういう子供の心が残っている限り、親を悪者にすることは、どうしても、できない。

そうした子供の優しさに触れて、親は、「そうだよね、そっちが本当の原因だよね」と内心感じて、安堵を覚えることもある。かりそめの、あやうい安堵。

心と心の関わりは、本当に微妙、繊細で、複雑。


別に、すべてを理解しつくさねばならないというわけではありません。だいたい、およそ、なんとなく、で続いていけるのなら、それで十分。特に親と子であるならば、どうしたって離れるための斥力よりも、近づく引力のほうが強いものだから、分かり合えないまま、でもなんとなく続く、という状態で進んでいくことは可能です。そのことは、悪いことでもありません。

だけれど、中途半端に子が親をかばい、親が自分自身を見つめる厳しさという“切っ先”を鈍らせてしまうと、

子供の側の傷や、怯えや、不安グセや、その他なんとなくモヤがかかったような精神状態が、長く続く可能性はあります。

親をかばってすませたとしても、子供の側の人生は、長い期間にわたって負の影響を受け続ける。どこか軌道に乗り切れない、勢いが出ない、終始モヤがかかったかのような心であり、日々の繰り返し――。


子は親をかばうもの。親は親をかばうもの。子供をかばうのではなく、自身をかばう。

そういうずるさ、あやうさが伝わってくることは、よくあります。ただ親の側は、それが正しい理解だと思っている様子。

そういう時は、この場所は何も伝えません。自分でわかったことにしてしまう――その「自分可愛さ」(自己愛)の姿を見れば、

伝えられる言葉は今のところない、とわかるからです。


ひとつだけそうした親に伝える言葉があるとしたら、「わかった気になってはいけないよ」ということ。「親というのは(つまりあなたという人間は)、本当にずるい生き物だから」。


本当にわかったかどうかは、親の側ではわからない。わかったかどうかは、生涯わからないかもしれない。

それくらいに、親が子を理解して、子が親を越えて自由になるということは、ときに難しいテーマなのです。




2025年8月中旬