子供の心というのは、まずは親との関係から影響を受けます。それがすべての前提になります。
親の姿や価値観や心の癖を模倣すること。親への反発や不満に心を取られてしまうこと。
親の期待や要求に応えようとすると、自分の意志で選択するという基本が崩れるので、モチベーションが続かなくなるし、
逆に親に反発すると、そのストレスに心が囚われてしまうので、自分の将来を考えられなくなる、「自分のために勉強する」という素直な前提を保てなくなる、気を紛らわせるために娯楽に走ってしまうという事態に陥ってしまいます。
総じて「自分の人生を生きられなくなる」のです。
親の影響は、プラスに働くならいいけれど、マイナスなら有害です。「親の影響さえなければ、自分はもっと努力できるのに、勉強もするのに、将来のことを考えられるのに」という状況の子供は、たくさんいるはずです。
つまりは、親のマイナスの影響がなければ――という視点が必要になります。端的に言えば「親がいなければ」という引き算ができるかどうかが大事ということです。
「親がいなければ」という引き算ができるか。
「親への反発・反抗」は、引き算の第一歩。でも延々と反発ばかりしていては、自分の人生が始まらない。
反発するなら、「これは自分の問題なのだ。自分の人生がかかっているのだ」と思えるところまで反発する必要があります。中途半端な反発は、結局は現実逃避の理由になってしまいかねない。一番まずい展開は、親に反発しつつ、その不満を理由に部屋に閉じこもってスマホやネットでアヤシイ時間を過ごすだけ・・という状態になることです。
親の引き算というのは、子供が、自分の人生を考えること、将来を考えること、そして親とは別のところにある社会・世界・世間のほうを見るということでもあります。
「こんなところで、こんなことばかりしていられない」と思えるかどうか。それこそが精神の自立であり、成熟。
いわゆる反抗期とは、こうした成熟にたどり着くための通過儀礼です。というか、成熟にたどり着く必要があるのです。
となると、親には、ひとつの受け止め方があるのかもしれません。
「反発する(言う)のは、親として受け止めるよ、でもあなたの人生はどうするの? それは親を引いて考えてね」という受け止め方です。
「親はあなたより先に死ぬよ。この家だってなくなるよ」という現実を、どのタイミング化で伝えること。
いつまでも親を足し算に使ってはいられない。いつの間にか足し算に使ってない?――親が永遠に元気でお金もあって言いたいことを言える人間として生きているわけじゃないからね、という立場に立つことです。
◇
付け足しておくと、興道の里の寺子屋には、親を最初から引き算して、一人で来させることがベストです。「交通費は出すから、自分のために一度行っておいで」と働きかけてみるとか。
ここでも、本人の意識の中で「親の引き算」ができているかどうかが、選択の分かれ目になります。
ただ見ていると、親や兄弟姉妹が「足し算」になっている子がものすごく多い。強烈な影響を受けて、振り回されて、自分を育てる時間が不足している。「心が育っていない」ことが多いのです。心の栄養失調。虚弱体質。
だから私はよく「今度は一人でおいで」と伝えています。
親の側でも「一人で」行かせるように働きかける必要があるのだろうと思います(もちろん時期・状況によりますが)。
特に兄弟姉妹の数が多いとか、親の存在が反発や阻害(心の成長における)の要因担っている場合は、なおさらそうです。
「引き算」という前提に立てるようにしてください。子供の心を育てるために欠かせない発想です。
2026年5月
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
親を引き算できるか
独学でも勉強はできる
独学には意志と工夫がいる。きちんと自己管理して、正しい勉強法を工夫して。
僕自身の強みは何かと考えてみると、独学で大学に進んだことかと思う。もちろん最初からできたわけではないし、最後まで自分に負けっぱなしだった部分もなくはないけれども、トータルで見て「自分に勝つ」ことはできた(だからこうして君と出会えている)。
なぜ勝てたかといえば、意志と方法の2つがあったから。この2つを君には伝えていきたいんだ。
最初に“方法”について少し聞いてもらえたらと思う。方法とは、学び方、勉強法のことだ。どう読むか、どんな手順で進めるか、1日の時間割をどのように組み立てるか、といったこと。
今の時代こそ勉強法を語る本はたくさん出ているけれど、僕が十代の頃は少なかった。
「あとで後悔したくない」という思いが強かったから、つねに将来を考えて、今をどう生きるかを思い詰めていた(苦労性だったんだw)。
時間はあったから、大量の本を読んでいた。独りの時間が多かったから、深く考える時間があった。
そんな時間の中で、本の読み方・考え方・書き方などを自分で工夫して確立していった。
僕が手に入れた”方法”の核のようなもの(最も大切な要素)は、次の2つだ(具体的な中身は追って伝えていくから、まずはさわりだけ)。
“本質”をつかむこと――本質とは、その分野・科目に必要とされるアタマの使い方だ。これさえわかっていれば、問題を解ける。しかも試験が終わっても、それこそ一生使えるアタマの使い方。
たとえば数学における“手順”。語学における音や単語の“組み立て方”。現代文(論理国語)における抽象的文章を“読み解く技術”(論理的読解術)。歴史を物語として記憶するための“視点”といったものだ。
こうした本質がわかると、どんな分野・科目であれ抜群に“見える”ようになる。覚えられるし、思い出せるし、問題を解ける。しかも生涯使える。
逆に目先の試験に囚われた小手先のテクニックだと、試験が終わった途端に忘れてしまう。「覚え込む」(暗記する)ことに走って、別の場面で使えない。こうなると、せっかくの知識が上滑りして定着しない。
君の周りに「勉強しなさい」としか言えず、肝心の「勉強のしかた」を教えられない大人がいるとしたら、こういうマズイ勉強をした(本質を学び損ねた)人だと思っていいかもしれない。
僕が君にこれから伝えようとしているのは“本質”だ。
本質がわかれば、勉強ができるようになる。人生が変わる。
勉強ができること自体を目的にしてほしくはないけれど(見栄や虚栄心の満足につながっていきかねないからね)、学校の勉強や受験にも余裕で通用する本物の知力が身につく。
その本質のいくつかを伝えていこう。
※注記: 本の草稿に当たるので、話の続きを書いていくとは限りません(すみません)。
一緒に考えていきたいことは、「勉強観」とでも呼ぶべきもの。人生観、価値観、それと並ぶ勉強観――学びとは、勉強とは、どういうものかをめぐる認識の枠組みについてです。
認識の枠組み(パラダイムと呼ばれるもの)が変われば、「勉強」という言葉の意味も根底から変わります。
変わったその「勉強観」に立てば、学ぶことは楽しくなるし、その後をラクに楽しく生きられるし、実利として成績も上がるし、入試も無事合格できるよ、という一つの道筋をお伝えしたいのです。
もはや古典~自分を見つめない親について
もはや古典といってもいいメッセージになるけれど、
親は子供のことを相談するよりも前に、自分自身のあり方を見つめないと始まりません。
人間というのは、自分のあり方を見つめて理解しているかどうかで、成熟度が決まります。
成熟していない人は自分自身を見つめていない。なんというか、すごく自己理解が浅い。というか、無い。
自分を見つめる代わりに、子供のことや周りの人間のことばかり考えて、そんな自分がいっぱしのことを考えているように思い込んでいる。
子供が問題だとか、子供が変わらなければとか、〇〇についてわかってもらいたいとか・・。
いや、わかっていないのは、親のほう。それがわかっていないことが、悲劇的。
子のあり方は、親のあり方次第でいくらでも変わる。というか、親の姿を見て素直に反応しているだけ。
そういう部分もわかってない・・。
親であるという特権的立場にあぐらをかいて、子のほうにばかり目を向けるというぬるま湯にどっぷり浸かっている。
まずは自分自身のあり方を深く反省できないと始まらないんじゃないのかな。
自分に甘い。子にとっては、ずるい。
そういう親が無自覚のうちに立ちはだかっているから、こちらとしてはその子のために何もできない。
「どいてくれる?」
そう伝えたくもなる。自分の姿をちゃんと見なさいよ、と言いたくなる。
*夏の日本全国行脚スタートです。生き方・学び方について一緒に考えたい十代と親の方々はお声がけください。
新生活、始動
第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。
栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。
寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。
栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、
「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。
政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。
こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?
いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。
教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。
そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。
最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。
枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。
2026年4月下旬
人は思い込みの中を生きている
*十代、そしてこれから寺子屋に参加する中高生に向けて、この先、いろんな話題について書き起こしていこうと思います。
将来的には書籍にまとめたいと思っていますが、まずは日々の草稿の一部を紹介していきます。大人にとっても大事なことかもしれません:
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
外の現実と、自分のあり方を分けて考えてみよう。自分と外の現実は別物。だって、自分の心と体は、自分だけのものだから。君の友だちや周りの大人たちは、別の心と体を持っている。そもそも違うんだよ。
◇
自分と違う外の人たちに対して、どう向き合うか。そう、まずは「そういうものだと理解する」だったね。さらに掘り下げて理解してみようか。周りの人たちは――友達であれ、先生であれ、親であれ、そうした人たちが作っている世の中であれ、こんなふうに理解できる。たとえば、
①人は思い込みの中を生きている
たとえば、「勉強ができる→いい大学に行ける→いい仕事につける・周りに称賛される→社会で成功できる・有利になる」。そう思っている人がそばにいるとしよう。でも実際には、いい大学に行っても、中退したり、就職しなかったり、途中で転職したり、引きこもったり、まったく別の分野で生きている人もいる(具体例は挙げないけれど、興味があれば探してみればいい。いっぱいいるよ)。
つまりは、ひとつの図式に当てはまる人もいるかもしれないけれど、当てはまらない人も大勢いるということ。むしろ当てはまらない人のほうが多いかもしれない(たぶんこっちが正解)。
当てはまらない人のほうが多いのに、一つの図式が正しいと思っている――ということは、そう思っている人にとってはそう見えるというだけということ。それが「思い込んでいる」ということなんだ。
◇
大事なことは、そうした思い込みを通して外の世界を見るか、それとも「ひとつの思い込みに過ぎない」と理解して、「自分にとって最も自然に生きられるルートは何か」を考えることじゃないかな。
あくまで自分を軸に考えるということ。今の自分を出発点にするということ。
◇
ひとつ言えることは、思い込みは、選択肢の幅を狭くしてしまうということ。「そうに決まっている、これしかない」と思い込めば、当然、他の可能性は見えなくなる。たとえば君が「勉強ができることがいいことだ→勉強できなければいけない」と思い込めば、「勉強ができなければ意味がない→死ぬしかない!」なんて思い詰めてしまうかもしれない(実際にそう思い詰めた人もいる)。
でも、真実は違うよね。真実は、別の生き方もあるということ。勉強ができるというのは、本当にごく限られた思い込みにすぎなくて、その思い込みの外に、もっと違う生き方も、価値観もあるということ。
「(今の自分は)思い込みにとらわれていないかな?」と、自分を見つめるようにしたいと思うんだ。それができれば、もっとラクに生きられる。もっと自由になれるから。
◇
人はみんな思い込みの中で生きている。だからといって、君が他人の思い込みに合わせる必要はない。だって、彼らの思い込みは、彼らの頭の中に宿っている妄想にすぎないから。君は、彼らとはまったく別の体と心を持っているから。
君は、自分の人生を生きていくしかないんだよ。他人の思い込みにいくら合わせようとしても、君は彼らにはなれないし、なる必要はないし、ならないほうがいい。だって、人に合わせようとすればするほど、自分らしさからは遠ざかってしまうから。自分を見失ってしまうから。
◇
「自分と他人は違う」というのは、さみしく思うかもしれない。自分も人と同じようになりたいと願うかもしれないね。
だけれど、それはどうしたって無理なこと。だって、生まれた場所も、持っている体も違うから。僕らは「人と自分は違う」という真実から始めるしかないんだ。
人と自分は違うということは、さみしくも見えるかもしれないけれど、逆にいいことかもしれないんだ。だって、人に合わせず、自分を生きていけばいいのだから。
自分を軸にして、今の自分を出発点にして、自分にとっていちばん自然で楽しいと思える生き方(時間の過ごし方)を考えていくだけでいいのだから。
◇
大事なことは、「その先がある」ということ。褒められたいから頑張る――でも、それも思い込みの一つに過ぎない。
その先にある未来は、思い込みどおりにはならないかもしれないし、ならないほうがいいかもしれない。もしかしたら、褒められたい今の君とはまったく別の自分が将来にいて、その自分はまったく別の人生を生きて、まったく別の幸せを感じているかもしれないんだ。
だからこそ覚えておきたいのが、変わらない真実(普遍的に正しいこと)だ。
つまり、人それぞれに思い込みの中にいて、欲で動いているけれど、自分と彼らは別者であって、自分は自分の人生を生きていくしかないし、生きていけばいいということ。
そして、人と自分は違うのだから、結局最後は、自分がイイと思えたら――今の自分に満足できたら、納得できたら、自分を受け入れることができたなら――それでいい(それだけでいい)ということ。
誰がなんと言おうと。誰がどんな目を向けてこようと。だって彼らが見ているものは、彼らの思い込み(妄想)でしかないから。天地がひっくり返ったって、彼らは君とは違うのだから。
※大人目線と思われては困るのだけど、文体については今後検討を重ねていきます
2026年2月
思いについて
※このスレッドで紹介する文章は、幼い子供から中高生までに向けた言葉に当たります。
書籍化を予定した未公開原稿の一部ですが、たとえば、親や学校や塾の先生などが印字して、草薙龍瞬という名前をつけて、
子供に手渡したり教室に掲示してもらうことは、フリーです(個人として大切にしてもらえるのであれば、もちろん大人でも)。
よい言葉だと感じてもらえたときの話ですけれど。たとえば――
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
思いについて
そのときの気持ちにフタをする必要はないし、本当は何を話してもいいんだよ。
そのときの思いは、今の自分にとっての真実だからね。
だって、心の中にちゃんと”ある”んだから。その思いが。
もしその思いが明日も続くなら、それもやっぱり今ある思いなのだから、
君にとっては真実なんだよ。やっぱり大切な思い。
でも今日の思いが明日は変わるかもしれないし。
もし変わったとしたら、
過去の思いはもうなくなったっていうことだから、
もうこだわらなくていいし、思い出さなくていいのかもしれない。
大事なことは、今、自分の中にどんな思いがあるか、ということ。
もしその思いが、誰かと関わっていること(誰かに向けての思い)であれば、
その相手に伝えることも大事なこと。
もう少し自分の中に取っておこう、とか、
もう流してしまおう(流してあげよう)と思えるなら、流してもいいし。
もし自分 一人でその思いを抱えることが、自分にとってつらいと感じるようなら、
その思いはどこかで「選ぶ」必要があるかもしれないね。
もう少し待ってみよう、と思えることも、選ぶということ。
相手に伝えよう、と思えることも、選ぶということ。
もういいや、忘れてしまおう、と思うことも、選ぶということ。
君が今思っていることは、大事な真実。
こんな思いがあるんだ、と気づいて、
あとは、自分で選べばいいんだな、と思えることが、
もしかしたら大切なのかもしれないね。
2026年2月
Season2はいっそうの創造の年に
草薙龍瞬から
今年はクリエイション(創造)の年。活動をSeason1(2011年~2025年の15年間)以上に積極的に、ターゲットを広く、いわばブーストをかけなくてはいけないと思っています。
仏教の本質を伝えるというコア部分は、そのまま末永く継続していくとして(貫くことも大事)、
今年は関わる範囲を十代にも広げていこうという年なので、それにあわせて時間の使い方も、伝えるための方法も、工夫をしていこうと思っています。
特に、伝えるための手段については、過去は真面目に文章一徹だったのですが、もともとある創造者魂みたいなものが、今回の北海道体験ともあいまってかなり刺激されたので、
ここは心の戒律(俗世にいうメンタル・ブロックの一種)を大幅にゆるめて、
伝えられるなら、手段を問わず、やってみよう(内容も手段も)
という思いのモードになっています。
これまでは、出版社のほう(編集者の方)からお話(企画)を持ってきていただく形が主流だったのですが、待つことに特化する必然的理由はないので、
この先は、出会う人・関わる相手にあわせて、最も適した内容と方法をもって、新しいコンテンツをいわばフリーハンドで創り出していこうとも思っています。
この先お送りしていくのは、子どもたちに向けて――
生き方・学び方についての本にするのか、絵本にするのか、イラストをつけるのか、そのあたりは考えていきますが、
たとえば、『反応しない練習』や『怒る技法』の中身は、こんなふうにも表現できるという例として紹介していきます※
※書籍化を予定した未公開原稿の一部に当たります。でもたとえば、親や塾の先生などが、草薙龍瞬という名前をつけて、印字して、子供に渡したり教室に掲示してもらうことはフリーです。よい言葉だと感じてもらえればの話ですけれど。
つづく
2026年2月
インタビュー記事
朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
https://www.asahi.com/edua/article/16296115?revision=HEAD&layout=LIVE&token=92f619475228d32033e8519882bc430123273dca18e9b771b641c49ceb80feb1
学びは独立が大事~まず親が「考える」こと
※学校の宿題をタブレットでやるようになって、やる気を失ったという子供のお父さん・お母さんに向けたおたよりから抜粋:
学校に居場所がないという君へ
(あるお母さんへの返信から)
学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。
合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。
特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、
誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。
このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。
◇
となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。
なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。
将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした
自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。
価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。
結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。
いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。
残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。
その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。
幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。
学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。
他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。
妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。
それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。
もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、
他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。
磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。
大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。
仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。
◇
だから、最終的に考えるべきは、
自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使うことだろうと思うのです。
その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。
それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。
本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、
行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。
難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。
同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、
学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは
将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、
それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。
どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。
自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。
3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。
これからです。
2026年1月
「与えない」という親の特権
とにかく小中学生(15歳まで)は、勉強は手作業で。しっかり書くこと。
スマホ、タブレット、ゲームなどの「眺めて微反応」だけの機器はなるべく遠ざけること。
ゲームというのは、小学生くらいまでは友達との交流や反射神経を刺激する「遊び」たりうるけれども、
一定レベル以上の思考力が育った後、つまりは中学生くらいになった後からは、「依存」の要素が強くなります。
脳を育てるには、一定レベル以上の刺激、それも五官を使って、しかも一つの器官(視覚や聴覚)のみではなくて、複数の感覚器官を同時に刺激するほうが、はるかに効果的なのです。
ひとことでいうと、ラクをさせてはいけないよ、ということです。これは親に向けてのメッセージ。
便利だからとか、連絡を取りやすいからとか、周りがみんな持っているから程度の理由で、ホイホイと安易に与えたが最後、
五官を通して、脳を育てて、将来、どんな働きを果たして身を立てていくかを考える、そのための準備を、何年もかけてやらねばならない貴重な期間です。
1)中学生まではスマホを与えないこと(失うもののほうが多いし、必要性が乏しいため)。
2)もしどうしても欲しいというなら、何に使うのか、必要性をきちんと聞いて、「ならば一度バイトして、スマホの機種代と通信費を稼いでおいで」と伝えること。
3)自分で稼いだお金でスマホを買うというなら、まずは1か月のお試し。それをクリアできたら、3か月に延長して、様子を見る。
「与えない」という選択ができるのは、親が親でいられる間のみです。親の特権。堂々と行使することです。
真剣に、考えてみてください。
「椅子取りゲーム」いつまでやるの?
(子供を受験塾に通わせているお母さんのおたよりをふまえて)
某大学をめざせ系のカルチャーを支えているのは、
たかだか大学でしかないものに過剰な価値を見出し、まるでその価値を手に入れれば人生が挽回するとか、成功という社会的記号が手に入るとか、そういう単純な、もっとはっきりいえば貧しい価値観です。
どこぞの大学に進んだからといっても、それ自体に社会的な価値があるわけじゃない。
社会的な価値というのは、経済学的には付加価値を創り出すこと。
仏教的には、人の苦しみを減らし、社会における快適さを増やすこと。
そのための手段として、さまざまな仕事・役割があるわけで、どこぞの大学に行った・出た程度のことは、こうした価値に直接の関係がない。
社会的な価値に至らない、つまり価値未満の記号でしかない。
にもかかわらず、そうした分別、成熟、すなわち「社会にとっての価値とはどのようなものか?」という視野がまったく欠落している大人たちが、
どこぞの大学に行けば人生が変わるとか、社会的に有利だとかという思い込み(視野狭窄)に捕らわれていて、
その捕らわれている自分自身のダサさ・痛さをまったく自覚していない(いい歳をして)というところが、「絶句」なのです(間違っているというしかない)。
こうした価値観にとらわれた、視野の狭い、無思考な(疑ったうえで本当の価値を考えるということをしない)大人たちが、
特定の大学礼賛とか、偏差値とか、成績とか、ランクづけとか、そういう姑息な下位記号を次々に作り出して、売り物にして、
その記号を物差しにして、勝手に学校や子供たちの価値を判断して(これも一つのハラスメントですよ?)、
その判断を刷り込んで、自分自身の価値を判断させるように、また周りの人や仕事や学歴や社会のありようというものも判断させるように感化してしまう。
煽りであり、刷り込みであり、中身のない物差し(成績・学歴・大学名)で自分の承認欲を満たしたり、人をバカにしたりという「イヤな性格」を育ててしまう。
「イヤな性格」とはっきり言っていいのは、人というのは判断されたくないし、見下されたくもないから。
いちいち値踏みしてほしくない。なのに値踏みしてきやがる(笑)。それは、イヤな性格であり、イヤな人生観であり、イヤな価値観。
そういう価値観が蔓延してしまえば、見下されたくない子供たちは、その価値観という椅子取りゲームに興じざるを得なくなってしまう。
だって、親が必死だから、期待してくるから、塾がそうだから、入った学校が、友人がそうだから、予備校がそうだから、大人たちの視線がそうだから、耳に入ってくる話題がそうだから――。
学習して、いつの間にか、自分自身が同じ価値観に染まっている。承認という椅子取りゲームに血眼になってぐるぐると回っている自分がいる。周りの友だちも、大人たちも、社会も回っている。ぐるぐるぐるぐるぐる・・。
こういう無意味な椅子取りゲームを、疑いもしない、考えるアタマを持たない大人たちが世の中には蔓延していて、
そうした大人たちがしたり顔して、どこぞの大学をめざせとか、こういう勉強法があるぞとか、そういう自分にとってはもう終わったこと(こういう大人たちって何歳?)を得々と語って、カッコがついているように思い込んでいる。
そういう姿がカッコ悪い。
この椅子取りゲームのぐるぐる、いつ終わるのか。
終わらない可能性もある。それくらい、考えない大人が増えているかもしれないから。
◇
不登校については、学校という箱を相対化する(学校だけが学びの場所ではない)という意味はあるかもしれない。学校に執着しない大人も子供も増えている。
学校の価値が相対化されつつあるのは、社会の、つまりは大人たちの認識が少しは変わってきている証拠。少しは子供たちも自由になりつつあるのかもしれない。
同じように、どこぞの大学名が価値を持つという価値観もまた、そうした価値観を相対化できる、「そんなことに価値があるのではない」と思える大人たちが増えてくれば、
某大学をめざせ的なカルチャーは、ダサい、痛い、「いまだにそんなことを言っているの?」と白々と思うほかないオワコンになっていくかもしれない。
オワコンにすべきだと思う。終わらせないと、社会全体の可能性が尻すぼみになる。
自分らしく、つまり心に苦しみなく生きること。
世の中の殺伐・ストレスが増えないように、人の痛みや苦しみを思いやり、社会の問題に関心を持ち、
どうすれば、人・自分・社会の苦しみを減らせるか、快適を増やせるかという大きな価値をめざして、生きて、働く。
そうした生き方、社会のあり方のほうが、確実に、圧倒的に、価値がある。違うといえるかな?
◇
椅子取りゲームのぐるぐるを繰り返しても、せいぜい特定の椅子(大学・学歴)にしがみつくだけ。そんな自分に価値があると思う?
座れない人だって出てくる。座れる人と座れない人と――その区別そのものに、意味があると思うかい?
たかが小さな椅子でしかない。何も生み出さない貧相な椅子。
本当に価値あることは、その周りに、向こうに広がっているのだから。
◇
自分のプライドを守ることだけで精一杯、そんな余裕のない子供と、そのまま大人になった人たちと、そんな価値観しかない社会が、延々と繰り返される――
そうしたあり方に、心の底から「くだらない」と思える人間が、どれだけ出てくるか。
一人一人の生き方と、社会のあり方と--広がるか、ますます狭まるか。
狭まるなら、人の”心の首”はますます締めつけられて、窒息していくことになる。人生も、社会も。「生きづらさ」が増すばかり。
本当にくだらない。そう思えないとね。
2025年11月
閉ざされた檻
<興道の里から>
8月30日(土)午後 個人相談会 臨時増設しました。
8月31日(日)夏納め国語キャンプ~言葉を力にかえる in 千葉・野田 まもなく開催
参加希望の方は、このブログまたは公式カレンダーをご覧のうえ、お申し込みください。
◇◇◇◇◇◇◇◇
※長いです(教師あるある笑)。
都内の大きな書店に行ってみた。印象的な点がいくつか。
ひとつは、「〇大本」が溢れていたこと。〇大という大学名をなんの臆面もなく売りにして、体験記やらノウハウ本を出している。
〇大というのは、ただの大学名。〇大生というのは、ただの学生であって、近い将来、社会で役割を果たすための準備期間にあるというにすぎない。本来価値はないはずなのだが。
大学生というのは、本当は肩書ではない。何者かになるまでのプロセスの呼び名(文字通りの学生)であって、何かを達成した人ではない。
こうした勘違いを育ててしまったのは、「〇大」というだけで価値を持つかのように、煽って、崇めて、そして今なおその価値観から抜け出せない、視野の狭い大人たちなのだろうと思う。
結局は、社会が、こういう幼い文化を育ててしまったのだ。
◇
こういう臆面も分別もない「〇大本」が大量に並んでいることにも、ゲンナリしてしまったし、
小・中・高・大学受験というステージと、科目・分野別の参考書が、あいかわらずできあがった学校制度を前提として不自然に分類されていること(学年で分けたり、数Ⅰ、数Ⅱと不自然な概念で区分したり。数学の体系にそんな概念は存在しない)も、不自然に感じたし、
カラフルなわりに、雑多な知識が視点もなく並んでいるだけで、こんな本で地理や世界史や日本史を学んでも、「物語」も「体系」も「視点」も身につかず、
バラバラな知識の断片を一部覚えて一部忘れて、結局、この地球の上に何があって、どこで何が起きていて、過去どの場所でどんなことがあったから、今の国や地域や風土や国際関係になっているのかを説明できるようになる、という「まともな学び」が限りなく難しくなってしまっている(変わっていない)ことも、甚だ嘆かわしく感じた。
こういう分類や教材の作り方をして平気でいられるというのは、教える側も「学びとは何なのか」を、あまり突き詰めて考えていないからだろうとも思ってしまう。
学校では教科書を教えるもの、何年生の何学期にはこれを教えるもの、受験用にはこれを教えておけばいいという、型にはまったイメージが固まっていて、
教えた後に自分に何が残ったか、学んだ側に何か意味あるものが残ったかを検証しようという発想が、教師の側にないのかもしれない。まさに「仕事だから」教えているという姿なのだろうか。
ちなみに楽しい授業というのは、教師の側に楽しい感情が残ったかどうかでわかる。不満や迷いが残ったとするなら、その授業はやはりどこか間違っている(工夫の余地がある)ということなのだろうと思う(違いますか・・?)。
◇
学生の側も、不幸な時間を過ごしている。中学ではコレ、高校ではコレ、何学期はコレ、というお決まりの内容しかない、と思い込んでいる。学校の成績のため、受験のため、いい高校、いい大学に行くため、という形でしか、勉強というものをとらえられない。
「そういうものだ」という思い込みだけで授業に「お付き合い」して、なんとなく学年が進んで、卒業して、進学して。
だが後で振り返って、数学とは、文学とは、古典とは、自然科学とは、歴史とは、といったそれぞれの体系や面白さというものを、まったく思い出せない。「教養」が残らない。
まったく栄養にならないものを、教師は教えているのかもしれず、学生は学んだ気になっているのかもしれない。なんだか不幸な関係性だ。
◇
もうひとつ印象的だったのは、大型書店に足を運ぶ親子連れの「意識の高さ」である。親のほうが、熱心に参考書をチェックしていたりする。
子供(小学生)は、そんな親に付き合って、素直に勉強する意欲を見せていることもあれば、あきらかにヤル気のなさそうなこともある。
親の目から見た勉強や受験というのは、親が見る妄想であって、そんなものを押し付けられても、子供は楽しくとも何ともないだろう。小学生くらいの子供が、意識高い系の親につきあっているのは、まだ素直で、親のことが好きだから(勉強が好きな子については、ひとまず問題ナシとしよう)。
親が敷いたレールの上を進むことに、もう少し大人になった子供が、何を感じるかだ。自分のこととして頑張るか、反発して拒絶するか、あるいはどちらも選べずに、ただ気力を削がれてスポイル(無気力化)されてしまうか。
◇
さらに印象的だったのは、幼稚園・小学校受験の参考書コーナーが充実していたことだ。「行きつくところまで行ってしまっている」と思わざるを得ない、充実・発展ぶりなのだ。
「○○的思考」とか「○○学習法」とか・・これ、大人向けの本ではなく、4,5歳児対象の参考書なのだ(実際は親が読むのだろうが)。
子供向けの自己啓発本も、恐ろしいまでの充実ぶりだ。プログラミング、ジャーナリング、生成AIの活かし方、傾聴力、マネジメント、SNSの使い方、心を知る、時間活用法、整理整頓、文章がうまくなる・・あらゆる分野の、いやこれ大人が学ぶことじゃんと思うようなタイトルの本が並んでいる。
しかも、中身がなかなかなのだ。「文章がうまくなる」という本を開けば、「日記は事実と気持ちを分けて書こう」なんて、プロのノウハウまで書いてある(私の『怒る技法』には、怒りは事実・感情・願望に分けて書きましょうと書いたが、似たようなことw)。
大人が読んでも「なるほど」と思ってしまう。どこまでレベル高いねん、今の子供(笑)。
◇
だがしかし・・だ。なんだろう、この閉塞感は。まず価値観が限定されている。外の輪郭は、せいぜい学歴を身に着けるため、名の知れた大学に行くため、アタマがいいというステイタスを得るため・・・「その程度」の価値観しか伝わってこない。
学びの先にあるもの――つまりは、人生は何のためにあるのか、幸せとは何なのか、知力はなんのために使うのかといった、最も大きな、突き抜けた問題意識が、伝わってこない。つまり、本当の<知>とつながっていない。
<知>の本質とは、それほど難しいものではない。命が抱える苦しみを減らすこと、快(喜び・楽しさ・希望・信頼などの感情・思考)を育てること、
そして、絶え間なく変わりゆく世界の現実を見て、生き延びていくための方法を探っていく。地球規模でいえば、なるべく長く人類という種が生き延びる、その可能性をめざすこと。
苦しみを避けられない定めを持つのが生き物であるなら、<知>を持つ人間の最大の特質は、こうした生き物を越えた価値をめざすことにある。
こうした究極の価値をめざし、共有し、実現するための方法を探り、実用に持ち込んで、現実を変えていく。
それを可能にする<知>こそが、アタマの良さというものであって、学校の勉強ができるとか、たかだが大学に行くとか出たとか、そんなことは、本当は「どうでもいいこと」(妄想による自己満足か、制度化されたただの概念か)なのである。
人間には、世界には、もっともっともっと広くて大きくて切実なテーマがあるというのに、子供たちを取り巻く教育、勉強、進学、学校、教科書、参考書の、この“貧しさ”はなんだろう。
噛むのに苦労する干物のようなものか。必死に噛んで呑み込んでも、あまり栄養にならない。
価値観の貧困、方法の貧困、目標の貧困――だが、勉強とはこういうもの、学校とは、進学とは、社会とは、こういうものだという巨大な決めつけによって、学びが持つ可能性を極限まで狭くしているような気がしてくる。
教育のシステムが、ほぼ出来上がってしまっている。成熟というより、硬直化、もっといえば化石化だ。もっと他にシステムがあるはずなのに、前提となる価値観が貧しいものだから、作り込まれた教育の外に、一歩も出られない。
「よくできた参考書」は、たくさん出ている。だが、他の可能性を探る余地を許さないという大人のエゴのように見えなくもない。
分厚く頑丈な「勉強とはこういうもの」という、大人側が築きあげた監獄というか檻の中に閉じ込められて、その中で適応して結果を出すしか、選択肢がないのだ。
うまく順応して「お利口さん」として生きていける人間は、この閉ざされた檻の中でプライドを満たし、築き上げられたシステムの中でうまく立ち回って、他の人より「相対的に豊か」と思える程度の人生を生きていけるのかもしれない。
だが、その豊かさが、肩書や収入や世間からの賞賛といった程度のものであれば、結局は、妄想の自己満足に過ぎないし、
社会的に価値ある働き――つまりは苦しみを減らし、快を増やすための働き――を果たせるわけでもない。
何より悲劇的なのは、「その程度のことで満足してしまえる人間」を育てる程度にしか機能していない、今の教育システムにさえ順応しきれなかった子供は、何も得られなくなることだ。
周囲は、しょうもないことをめざし、必死になり、得意になる、しょうもない大人であり、学校であり、価値観のみ。
それに順応できなかった自分には、何も残らない。
部屋にこもって、スマホやゲームで気を紛らわせても、そんな自分を自分で肯定できないし、かといって外に出れば、相変わらずしょうもないことしかやっていない大人や学校や社会を見ることになる。
「どうせこうなる」ということが見える気がするから、何もヤル気が起こらない。
大きな書店の参考書コーナーに足を運んだだけで、そんな感想が出てきた。「そりゃ、病むやろ・・」という納得の言葉。
小学、中学、高校、大学受験で「病む」子供は、かなりの数に及ぶはずだ。そりゃ病むのも道理である。目標も、方法も、自分の胸の内にも、何ひとつ意味が見えないのだから。
◇
こんな閉ざされた檻のような環境で、子供たちは生きているのか。キレてしまう子が出てきたって、おかしくない。
その一方で、元気で、素直で、前向きな子も多い。環境に恵まれているのか、持ち前の生命力か、幸運にも病むことを回避できている子も少なくはない。それは「救い」ではある。
とはいえ、学ぶ以外に費やす時間が、動画、音楽、ゲームというエンドレスなデジタル微反応でしかない(そういう子供が劇的に増えていることも事実)というのなら、健全とはいいがたい。体も脳も生き方も育たないであろうから。
時代・社会が変われども、どのような環境の変化にも適用して生き延びていくための、最低限の知力を育てる必要はある。
怠ることを容認してはいけない。スマホやゲームに浸りきった毎日を絶対に肯定してはいけない(社会の風潮がどのようであろうとも)。怠惰とほぼ変わらない「微反応モード」だけで、貴重な十代を終わらせてしまうのは、もったいないし、危険だし、取り返しがつかない。
どのような正当化を試みようと、こうした時間だけでは育たない能力がある。理解力、思考力、集中力、持続力、人間関係を作る力、役割を見つける力、働く力、稼ぐ力――。
自分が幸せになるために最低限守るべき生き方と、社会の中で生き抜くための知力と気力というのは、それなりの「体験」をふまえて学んで(勝ち得て)いくものだ。
だが、体験を潰してしまうのが、スマホやゲームやSNSといったデジタル・ツールなのである。単に崩れているだけ、流されているだけ。抜け出せない最大の理由は「ラクだから」。
その本音があるかぎりは、結局は、大事な能力は育っていないということだ。生き物として弱化・劣化しているという事実は否定できない。
◇
知力を育てるための学びは、時代を超えて必要だ。
だが今の世の中が不幸なのは、学びと異なる、意味の見えない教育・勉強・試験・学校制度が、あまりに強固に確立されてしまって、
そうしたものに積極的に飛び込む理由もモチベーションも湧かなくなってしまって、
かといって代わりにできることは、デジタル機器への依存(ダラダラ時間)だけという状況だ。
その姿を外から見れば、狭い檻の中に閉じ込められていることに変わりはない。
つまらない勉強しか知らない子供は、「なんで勉強しなければいけないの?」と自然に思うだろうし、
そうした勉強しか自分も知らない大人・親・教師たちは、その問いに説得力をもって答えるだけの言葉を持っていないだろうし、
運よく適応して勉強ができるようになった子供も、結局は、見栄やプライドという妄想を満たして終わる、つまりはしょうもない世間の価値観に身の丈を合わせて満足してしまう大人になる可能性が高いし、
ならば勉強しないとどうなるかといえば、今の時代なら、スマホ、ゲーム、動画、SNS、音楽にエンドレスに時間を使って、脳内の微反応だけで生きていく――いや、生きているようで生きていないかもしれない人生に、いつのまにか落ち着いて(堕ちて)しまっている。そんな圧倒的多数の「微反応に支配された人間」の一人になってしまうくらいしか、選択肢がなくなりつつある。
◇
いうなれば、ゆりかごから墓場まで、見栄のための形だけの勉強か、微反応にしか時間を使えなくなりつつある今の時代にあって、
「いや、他にも生き方がある。本当の学びというものがある」と声を挙げて、実際に形にして見せて、わかってもらうというのは、
かなり至難の業であり、無謀な試みではないかと思えてきたりもした。
学ぶための教材は、今の時代、出尽くした感がある。さらに付け足せるものなど、あるのか?
自分に見えている学びのイメージを形にするには、どれほどの実践が必要か。その時間・体力は残されているのか?
そういう場所を開いたとしても、学校・受験のためのお勉強とデジタル機器への微反応に慣れきった子供たちが、本当に集まってくるのか?
なんだか、壮大な失敗をするような気がしてきた(笑)。
さながら、大和朝廷の大軍勢に立ち向かい、あえなく滅びていった地方の名もなき豪族のようなものか。
滅びを覚悟して闘いを挑む。挑んで散っていった勢力も無数にあろう。挑んで、滅んで、勝った者もまた滅んで。
諸行無常が人の世の常だとしたら、時代を超えて価値があることは、挑むことそのものであろう。
――なんていう膨大な妄想を繰り広げつつ、疑問と危機感と使命感と一緒に、十代向けの本を買って帰路についたのでありました。
2025年8月中旬
子は親をかばうもの
この場所には、いろんな親が来ます(子のほうが来ることは、ごくまれ)。
親にはもちろんいろんなタイプがあります。ただ、子供のことで悩んでいると語る親については、大きく2パターンに分かれるように思います。
ひとつは、子供の側に事情がある場合。学校生活につまずいたとか、勉強がうまくいかないとか。この場合の親は、子供の味方であり、理解者であろうとしている親ということができます(完全にそうだと言い切れない、怪しい部分もあることが多いものですが)。
もうひとつは、親自身が問題である場合です。案外、こっちのほうが圧倒的に多いものです。
親の側が、しようもない見栄やプライドや自己防衛を隠し持っていて、子供のことで「悩んでいるフリ」をしている狡猾な(小ずるい)親もいます。
親の側が、ネガティブな解釈に凝り固まっていて、端(はな)から子供を否定し、子供に問題がある、子供にはこれができないと勝手なダメ出しを、子が幼い頃から浴びせ続けている場合もあるし(仏教的には「疑(ぎ)の妄想」と表現します)、
さながら閻魔大王のような厳格な裁きの王様的な地位に君臨して、コレをしろ、コレはダメ、と異常なまでに細かく指図、命令、支配して、子供の自由を一切認めない場合もあります。
あるいは、親自身がしょうもないプライド(せいぜい学歴だとか職業だとかその程度の妄想なのですが)にしがみついて、プライドに振り回されて、尊大になったり卑屈になったり、感情的に上がったり下がったりして、子供がいい迷惑、というか激しく翻弄されて消耗して、怯えて、傷ついて、心の安定を体験できない場合もあるし、
これまたプライドの亜種だけれど、自分が人間として空っぽ(価値観の点で空っぽ――つまり何が本当に価値あることか、確かな人生観を持たずに、周りの目を気にして、世間体に合わせるだけで親になってしまったこと)をごまかし隠す、その反動で、
子供の話を一切聞かない、あるいは聞く前に結論を出して、わかったフリをして、本当の対話を遮断してしまう(逃げてしまう)場合もあります。
こうした段階にある親(段階とあえて言うのは、今後、親の側が変わる可能性もあるからです)は、総じて、無理解という暴力を振るう絶大な権力を握った暴君、あるいは操縦不能なブルドーザーみたいなもので、
自分の感情や思惑や見栄やプライドや世間体や自己防衛を、分厚い鎧としてまとって、子供を圧倒し、その心を踏みつぶしていくので、
子供の心は育たないままになってしまいます(「育たない」とあえて大まかな表現をしていますが、その内容は実に様々です。そして根深い)。
親が、そのまま、無理解という暴力をぶん回し続けるのか、多少なりとも、自分自身の危うさ・やばさを自覚して、気をつけて、過去を謝罪して、子供の側が「少しはわかってくれるようになってきたか」と思えるようになっていくか。
道は大きく、この二つに分かれます。おそらく前者が圧倒的多数(つまり子供が心理的暴力を振るわれ、傷つき、病んでいく場合)。
後者は決して多くありません。ただ、この場所にたどり着いて、ある程度この場所での「対話」を重ねた人の中には、後者の可能性が育っていくことはあります。
ときおり親の側から「その後の報告」を受けることがありますが、「よくここまで来ましたね(正しい理解ができるようになりましたね)」と素直に肯定できることもあるけれど、
逆に、親のほうが、本当はまだ真相(正しい理解)に到達していないのに、「わかった(変わった)気になっている」ことが見えることもあります。
この場合は、過去の無理解という暴力を、親が気づいていなかったりします。自分のプライド、自己美化、自己正当化、いわば自分に都合のいい解釈はそのまま守り続けて、「きっとこういうことなのだろう」という理解(実は勘違い)に留まってしまうことも、なくはありません。
このケース、実は子供の側も加担してしまうこともよくあります。親をついかばってしまう。「あなた(お父さん・お母さん)は悪くないよ、他に原因があるんだよ」と言ってしまう。
子供としては、自分が親を苦しめてきたのかと感じてしまうのかもしれない。そんな親がかわいそう、自分にも悪いところがあった、だから自分(親)を責めないで、とつい言いたくなってしまうのかもしれない。
子は、親をかばうもの。「そのとおり。やっとわかった?」と言い放てない。
子供は優しい生き物。やはり親は親のままでいてほしい。謝ってほしくない。そんなことをされたら、苦しんできた過去が無意味だったことを認めてしまうことになりそう、親が親でなくなってしまいそう・・・
過去の関係性があまりに長く続いたがゆえに、一つの関係性が固定されていて、その関係性を変えていくことへの怖さやためらいも、心の中には作動する。
なにより子にとって親は親。やっぱり嫌いたくはない。いい関係でいたい。褒めてもらいたいし、愛されたい。そういう子供の心が残っている限り、親を悪者にすることは、どうしても、できない。
そうした子供の優しさに触れて、親は、「そうだよね、そっちが本当の原因だよね」と内心感じて、安堵を覚えることもある。かりそめの、あやうい安堵。
心と心の関わりは、本当に微妙、繊細で、複雑。
別に、すべてを理解しつくさねばならないというわけではありません。だいたい、およそ、なんとなく、で続いていけるのなら、それで十分。特に親と子であるならば、どうしたって離れるための斥力よりも、近づく引力のほうが強いものだから、分かり合えないまま、でもなんとなく続く、という状態で進んでいくことは可能です。そのことは、悪いことでもありません。
だけれど、中途半端に子が親をかばい、親が自分自身を見つめる厳しさという“切っ先”を鈍らせてしまうと、
子供の側の傷や、怯えや、不安グセや、その他なんとなくモヤがかかったような精神状態が、長く続く可能性はあります。
親をかばってすませたとしても、子供の側の人生は、長い期間にわたって負の影響を受け続ける。どこか軌道に乗り切れない、勢いが出ない、終始モヤがかかったかのような心であり、日々の繰り返し――。
子は親をかばうもの。親は親をかばうもの。子供をかばうのではなく、自身をかばう。
そういうずるさ、あやうさが伝わってくることは、よくあります。ただ親の側は、それが正しい理解だと思っている様子。
そういう時は、この場所は何も伝えません。自分でわかったことにしてしまう――その「自分可愛さ」(自己愛)の姿を見れば、
伝えられる言葉は今のところない、とわかるからです。
ひとつだけそうした親に伝える言葉があるとしたら、「わかった気になってはいけないよ」ということ。「親というのは(つまりあなたという人間は)、本当にずるい生き物だから」。
本当にわかったかどうかは、親の側ではわからない。わかったかどうかは、生涯わからないかもしれない。
それくらいに、親が子を理解して、子が親を越えて自由になるということは、ときに難しいテーマなのです。
2025年8月中旬
もし学校の先生だったら
<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市
子育て&子供との関わり方について考えます。
8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。
もし学校の先生だったら、この夏の”狂暑”をテーマに授業を組み立てます。
まず、関連する素材をピックアップ:
・夏の情景を素材にした小説系の入試問題(中学入試から大学入試まで)
・環境問題・気候変動をテーマにした論説問題
文学、科学、政治、経済、歴史、未来予測など、関連する分野についての文字情報と映像を、ひととおり集めてワン・パッケージの授業(ワーク)にする。
中高生と年齢が上がるにつれて、評論・哲学・学術論文にも取り組む。英語も入ってくる。
「このままならヤバいぞ」という問題意識を持ってもらう(持たないほうがおかしいのだから)。
「何ができるか」「なぜしないのか」も考える。
人類という種が続く保証はない、ということも自覚する。
「そんなこと子供に伝えていいの?」と思う大人もいるかもしれないが、そういう人は、現実から目を背けさせるズルい大人かもしれない。
生きるとは、現実と向き合うということだから、現実を知ることが欠かせない。正の部分も、負の側面も。
現実が危うさを増しているのなら、そのことをも知らなければいけない。親も子も。
現実を見すえて、自分に何ができるかを考える。
それが、知力を育てるための土台になる。生き物の基本でもある。
小学校でも、中学校でも、高校でも、こういう授業はすぐできるはず。特に自我が肥大し始める中学に入りたて(12,3歳)の頃がいいかもしれない)。
というのも、この頃を過ぎると、大人の言うことは聞かなくなりがちだから(笑)。代わりに、心そのものの危うさ(甘え・怠惰・思い上がりなど)も増えていくことが少なくないから。
「このままでいいのだろうか」という問いは、人生のどこかで持つ必要がある。そうした思いが宿れば、大人(親)の言うことを聞かなくなっても、自分で道を見つけていけるかもしれないから。
溶けていくアタマ(学力低下問題)
<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市
子育て&子供との関わり方について考えます。
8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。
文科省が公表した「経年変化分析調査」。
小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。
夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。
参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。
こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。
かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。
今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。
彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。
というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。
勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。
それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?
これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。
「ヤバい」と思う思考力さえないということ???
最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。
ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。
野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。
なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。
こんな状態で何が育つというのか???
人生、何も始まらなくなるぞ。
子育て中の親のための学習会
草薙龍瞬の日本全国行脚2025~旅する寺子屋
大人向けの学習会のおしらせ
8月16日(土)に千葉県野田市を訪問。
子を持つ親のための生き方&育て方をテーマに学習会を開催します。
対象は、十代(小・中・高生または不登校中)の子供を持つ親全般です。
親と子両方の側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。
参加者の質問・悩みをテーマとする座談会もあります。
個人的に相談したい方は、学習会終了後に無料の面会時間を設けます。
子育てに後悔したくない親の方々は、この機会をお見逃しなく。
参加希望の方は<申し込みフォーム>にご記入ください。
事態が改善しない理由
今抱えている課題を解決するには、まずは自分自身のこだわりを捨てる必要があります。
自分のプライド、自分の考え、自分のキャリアや立場・・中には「そんなに私が悪いのか」的な自己防衛をどうしても解除できない人もいます。
心情的にはわからなくもないのだけれど、そうしたこだわりは、事態の解決には役に立ちません。
なぜなら、そうしたこだわりがあるからこそ、今の悩みにたどり着いたのだからです。
自分自身のこだわりなんて、どうでもいい。取るに足りない、ガラクタのような妄想でしかありません。
もし相手(特に子供)との関係に悩んでいるなら、その相手の言葉をそのまま受け止めて、相手の思いをちゃんと受け止めることが、「当たり前の務め」です。聞くことに、こだわりは要りませんよね。
相手が訴えてくること・伝えてくることは、すべて相手にとっては真実なのです。「そうなんだね」「そうだったんだね」と受け止めてあげるだけ。なにも難しくありません。
自分のあり方が、相手を苦しめていたなら、その事実を素直に受け止めるだけです。素直に受け止めた時には、まずは「ごめんなさい」「悪かった」という言葉が自然に出てくるものです。
別に相手は、その正しさを押しつけようとか、こちらを屈服させようなんて思っていません。単純に「わかってほしい」だけなのです。
だから、わかってあげればいい。聞いてあげればいいだけです。
そうしたシンプルなあり方を頑なに拒んで、「こっちが悪いというのか?」「そういうあなたはどうなんだ?」みたいな、プライド発のこだわりを発散しているというのは、「だから問題がこじれるのですよ」と言うしかない不毛な姿です。
そんなに自分が可愛いのかな? そんなにプライドが大事? ただの妄想でしかないのに?
そうした妄想にこだわる背景には、自分自身も誰かを許せないという不満が隠れていることもあるし、「自分は正しい、エライ」というしょうもない思い込みがあることもあります。
そうした自分、自分、自分という強烈な自意識、自分へのこだわりがあると、
相手(特に子供)の訴え・異議申し立てに、激しく動揺してしまいます。
相手は「わかってほしい」だけなのに、
こちらは「なに? 私が間違っているというのか?」と、自意識で反応し返してしまう。
だからこそ動揺するし、怒ったり落ち込んだりと感情の起伏が極端になるし、激しく消耗するのです。
そうした状況に陥ってなお、「だから相手(子供)が問題(≒私は悪くない)」という自意識を抜け出そうとしない人もいます。
そうなると、相手(子供)には、もう絶望しかなくなります。
単純にね、関わるというのは、互いが幸せを感じるために関わるのですよ。苦しめ合うのではなくて。
苦しめ合う理由というのは、力関係でいえば、「上」の人間が作り出しているものです。ほとんどの場合。
だって、素直に受け止めて、謝るべきは謝って、互いに快適に過ごす関わりを作る努力ができるなら、苦しみは生まれないからです。そうした努力をしないでいられるのは、自分へのこだわりを押し通せる「上の人間」だからです。
自分が上だと思っているから、努力しない。聞かない。わかろうとしない。想像しない。
上だと思っている、その思い込み、自分へのこだわりから、潔く降りる必要があるのです。自覚すること。地べたに立つこと。素直になること。
これは何歳になっても同じ。親であっても、まったく変わらない真実です。
夏の国語キャンプ2025開催のおしらせ
勉強だけど、勉強っぽくない“ゆる系”の国語です。でもちゃんとチカラがつきます。筆記具だけ持参してください。お友だちや親と一緒もOKです!
虚栄心ゲームには乗らないよ
中高生が使っている教科書、参考書、学校のプリントを見せてもらうと、
「まだこんな(いい意味ではない)ものを使っているのか」と愕然とする。
そもそも学問・科目の本質が見えてこない。
その分野の全体像や、原理的な発想や嗜好の組み立て方を言語化できていない。
生徒は生徒で、ただ真面目に頑張って、授業についていって、試験に備えて、目先の成績を維持するか上げれば、将来が開けると勘違いしている。
学力は育っていない。むしろ下げてしまっている。
半世紀、まったく変わっていないのではないか。
◇
本当の学び方を教えることはできる。やり方さえわかってしまえば、誰だって満点が取れてしまう。
だがそうなると、結局みんなできるようになってしまって差がつかず、そうした学び方もまた虚栄心を満たすゲームに利用されることが目に見えているから、
伝えることはいつでもできるが、あえて黙っていようと思う(笑)。
誰に対してなら、”極意”を伝授できるのか。
虚栄心を満たすゲームに乗れなかった子、人の痛みがわかる子、社会の役に立つ人間になろうと思える子、純粋に知的好奇心があって、人を見下しておのれの優越を維持しようという邪心がない子たちになるだろうと思う。
あいかわらず、試験で点が取れればいいとか、いい大学に進めることが価値を持つとか、そういう虚栄心ゲームに興じている人間が多い。大人も子供も先生も親もだ。
しかもその手段としての勉強が、的(本質)を外したままであることを、今さらながら知って驚く。
知能だけでなく、心も育てないと。素直な心でいられるうちが勝負だ。
やっぱり小学生。乗りきれなかった中学生。学校や社会の非合理・不条理を感じ取れる十代か。
そうした相手なら、伝えることに価値が生まれる。
本気と本質に触れたい子供たちに来てもらえたらと思う。これから始まる場所に。
2025年6月下旬






