分校の工事は時間がかかっているし、その他の重たい課題もあるけれど、
とはいえ、早く移って、「子供たちと勉強したい!」という思いが沸々と湧いてきますw。
私がこの歳になって(何歳かは秘密・・にしたかったw)なお、
子供たちと同じ目線でいろんなことを学びたいと本気で思えるのは、
成績を上げるためとか、いい大学に進むためといった見栄や打算のための勉強に心が汚染されなかったことが、大きい。これ、ほんとに大。
学校に通ってしまった人(よい面もあるはずだけれど、ここでは悪い面を前提にしている)、
いい成績を維持して見栄とプライドを守り続けてきた人にとって、
勉強とは、学ぶ意味も面白さもよくわからないが、とりあえず周りがやっているから自分も合わせてやる(やらざるをえない)とか、
点数・成績という中身のない妄想を、プライドを支える実体あるものと勘違いして、意味はさておいてとにかく頑張る
ものだったように見える。
だから、大人になっても、プライドを捨てきれず、しかし学んだことの意味や、身に着けた能力を活かしきれていなかったりする。
そもそも試験でいい点数を取るという「特殊技能」と、社会で価値ある働きをするという(生産・貢献・改善)能力とは、まるで違う。
特殊技能は、試験が終われば(卒業すれば、合格すれば)、その時点で役に立たなくなる。
そういう勉強しか知らない大人が、「勉強なんて意味がない」と言いたがる。
勉強に意味がないのではなくて、もともと意味がないものしか勉強していないから、勉強が終わった後に「意味がない」という感想が残るのだ。
つまりその言葉は、自分が意味のない勉強しかしてこなかったという告白だ。
勉強が終わったのだから、「意味がない自分」が残ったということだ。
学校や試験という制度を根拠とした「勉強の意味」というのは、それ自体が歪(いびつ)で狭くて偏ったものでしかない。その「意味」は、本当の意味ではない。
本当の意味というのは、純粋に知ることが楽しいし、体験することが楽しいし、できたこと、できるようになることが楽しい――
そういう生き物としての知的好奇心(生存本能から来ている。動物にもある)から来る純粋な喜びだ。
この夏、十代向けの本や参考書に触れて感じたのは、「こんなに面白い、考えさせられる、心をくすぐってくれる、感動させてくれる言葉が、世の中にはあるんだ」という純粋な感動だった。
参考書そのものは、「意味のない勉強」に合わせて作られているから、その姿そのものには魅力がない。むしろゲンナリする。
だが、その中に取り上げられた、広い世界の、各分野のプロや「その道を生きている人」の言葉というのは、それ自体が無性に面白い。
こういう言葉に出会えるだけでラッキー、と思える(これ、主に国語の話をしています)。
この純粋に楽しめる感性は、私が十代の頃に育てたものだ。「意味のない勉強」から離れて、独りになって、いったん心を「漂白」して、
真っ白になった心で、純粋に楽しめる言葉を探し始めたところから、私の「意味のある勉強」が始まった。
その勉強は、本当に意味があった。ちゃんと面白さ、つまりは本質が見えていた。
だからこそ、何十年も経った今でも、その頃と同じように「面白い」と思える。
「面白い」うえに、「わかる」し、さらに自分で「足す」ことも可能になっている。「こんな書き方も可能」とか「ここからこんな展開もできる」とか。
さらには、自分がとらえた本質を発展させるような問いを作り、関連する知識や情報やテーマに「広げる」ことも可能になっている。
「やっぱり勉強って面白いなあ」と感じたその瞬間に、脳がグンと若返った気がした(笑)。これ、ほんと。
「あれ、自分、歳取らないぞ?」と感じた。ものすごく心が若い。「こんなに面白いことが、人生にはまだまだあるんだ」と思えたから。
年齢という概念を超えた境地。いわば、仏教で得た境地と、本当の勉強で得た知力が融合して生まれた、”草薙龍瞬3.0”的な心境(なんか陳腐でヤな表現だがw)。
こんなに面白いことを伝えない手はない。面白いから伝えたい。
「はよ子供たちと勉強したい」とは、そういう心境から出てきた言葉。
なお、大人のみんなも、同じ勉強を体験してもらおうと思います。同じ言葉に触れて、同じように考えて、みずからを振り返ってもらう。
他人の言葉を通して、他人の心の中やその人生に触れる。すると、自分の人生を外から見ることも少しできるようになる。
さらには、自分以外の人生に「仏教をどう活かすか」という新たな視点で思考することができる。
これまで学んだことが、「そうか、場面が変わったからわからなかったけど、仏教はこうやって活かすんだ」とわかる。
子供も大人も楽しめる。大人も同じように”通信添削”を受けてもらうことも可能w。
最初はおそらく難しすぎて、脳の血管がプチプチ切れるのを感じるかもしれない(ヤバいか笑)。それは、固まってしまった自我を一度解体する時間でもある。
そういう”プチプチ”を重ねていくと、次第に考えることが楽しくなってくるだろうと思う。
「心は歳を取らない」ということが、ふとした瞬間にわかる時が来る。
そういう面白さも見えるから、「とはいえ、早く子供たちと学びたい」という思いが出てくるのでありました。
2025・9・11
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