「椅子取りゲーム」いつまでやるの?

(子供を受験塾に通わせているお母さんのおたよりをふまえて)

 

某大学をめざせ系のカルチャーを覆っているのは、

たかだか大学でしかないものに過剰な価値を見出し、まるでその価値を手に入れれば人生が挽回するとか、成功という社会的記号が手に入るとか、そういう単純な、もっとはっきりいえば貧しい価値観です。

どこぞの大学に進んだからといっても、それ自体に社会的な価値があるわけじゃない。

社会的な価値というのは、経済学的には付加価値を創り出すこと。仏教的には、人の苦しみを減らし、社会における快適さを増やすこと。

そのための手段として、さまざまな仕事・役割があるわけで、どこぞの大学に行った・出た程度のことは、こうした価値に直接の関係がない。

社会的な価値に至らない、つまり価値未満の記号でしかない。

にもかかわらず、そうした分別、成熟、すなわち「社会にとっての価値とはどのようなものか?」という視野がまったく欠落している大人たちが、

どこぞの大学に行けば人生が変わるとか、社会的に有利だとかという思い込み(視野狭窄)に捕らわれていて、

その捕らわれている自分自身のダサさ・痛さをまったく自覚していない(いい歳をして)というところが、「絶句」なのです(間違っているというしかない)。


こうした価値観にとらわれた、視野の狭い、無思考な(疑ったうえで本当の価値を考えるということをしない)大人たちが、

特定の大学礼賛とか、偏差値とか、成績とか、ランクづけとか、そういう姑息な下位記号を次々に作り出して、売り物にして、

その記号を物差しにして、勝手に学校や子供たちの価値を判断して(これも一つのハラスメントですよ?)、

その判断を刷り込んで、自分自身の価値を判断させるように、また周りの人や仕事や学歴や社会のありようというものも判断させるように感化してしまう。

煽りであり、洗脳であり、中身のないこと(成績・学歴・大学名)で自分の承認欲を満たしたり、人をバカにしたりという「イヤな性格」を育ててしまう。

「イヤな性格」とはっきり言っていいのは、人というのは判断されたくないし、見下されたくもないから。

いちいち値踏みしてほしくない。なのに値踏みしてきやがる(笑)。それは、イヤな性格であり、すごくイヤな人生観であり、イヤな価値観。

そういう価値観が蔓延してしまえば、見下されたくない子供たちは、その価値観という椅子取りゲームに興じざるを得なくなってしまう。

だって、親が必死だから、期待してくるから、塾がそうだから、入った学校がそうだから、予備校がそうだから、大人たちの視線がそうだから、見聞きする話題がそうだから――。

いつの間にか、自分自身が同じ価値観に染まっている。承認という椅子取りゲームに血眼になってぐるぐると回っている自分がいる。周りの友だちも、大人たちも、社会も回っている。ぐるぐるぐるぐるぐる・・。


こういう無意味な椅子取りゲームを、疑いもしない、考えるアタマを持たない大人たちが世の中には蔓延していて、

そうした大人たちがしたり顔して、どこぞの大学に行けとか、こういう勉強法があるぞとか、そういう自分にとってはもう終わったこと(こういう大人たちって何歳?)を得々と語って、カッコがついているように思い込んでいる。

そういう姿がカッコ悪い。

この椅子取りゲームのぐるぐる、いつ終わるのか。

終わらない可能性もある。それくらい、考えない大人が増えているかもしれないから。



不登校については、その原因は自分にも外にもありうるけれど、学校という箱を相対化する(学校だけが学びの場所ではない)という意味はある。学校に執着しない大人も子供も増えている。

学校の価値が相対化されつつあるのは、社会の、つまりは大人たちの認識が少しは変わってきている証拠。

同じように、どこぞの大学名が価値を持つという価値観もまた、そうした価値観を相対化できる、「そんなことに価値があるのではない」と思える大人たちが増えてくれば、

某大学をめざせ的なカルチャーは、ダサい、痛い、「いまだにそんなことを言っているの?」と白々と思うほかないオワコンになっていくかもしれない。

オワコンにすべきだと思う。終わらせないと、社会全体の可能性が尻すぼみになる。

自分らしく、つまり心に苦しみなく生きること。

世の中の殺伐・ストレスが増えないように、人の痛みや苦しみを思いやり、社会の問題に関心を持ち、

どうすれば、人・自分・社会の苦しみを減らせるか、快適を増やせるかという大きな価値をめざして、生きて、働く。

そうした生き方、社会のあり方のほうが、確実に、圧倒的に、価値がある。違うと言えるかな?



椅子取りゲームのぐるぐるを繰り返しても、せいぜい特定の椅子(大学・学歴)にしがみつくだけ。そんな自分に価値があると思う?

座れない人だって出てくる。座れる人と座れない人と――その区別そのものに本当に意味があると思うかい?
 

たかが小さな椅子でしかない。何も生み出さない貧相な椅子。


本当に価値あることは、その周りに、向こうに広がっているのだから。



自分のプライドを守ることだけで精一杯、そんな余裕のない子供と、そのまま大人になった人たちと、そんな価値観しかない社会が、延々と繰り返される――

そうしたあり方に、心の底から「くだらない」と思える人間が、どれだけ出てくるか。

一人一人の生き方と、社会のあり方と--広がるか、ますます狭まるか。

狭まるなら、人の”心の首”はますます締めつけられて、窒息していくことになる。人生も、社会も。「生きづらさ」が増すばかり。

本当にくだらない。そう思えないとね。




2025年11月