自分にとって本当に価値があること・意味があることというのは、
今の自分にはわからない・見えないことも、実はすごく多いのです。
喩えるなら、新しい分野の勉強を始めるとしましょう。なんでもいいのだけど、自分が完全に未知の世界に足を踏み入れたとする。
この時点で、自分はこう思うとか、こういう説や考え方はどうなんだ、みたいな自分語りを始めた人は、その時点で成長が止まります。もはや新しいものは入ってこない。
自分が何も見えてない段階で、たとえばキレイにノートを取っても、その取り方自体に自分のクセがついているから、役に立たない。ノートを取るという作業さえムダで危険ということは、ものすごく多いのです。身に覚え、ないでしょうか。
学ぶには、ある程度「見えてくる」必要がある。体験すること。考えることではなく体験です。幼い子供なら何もわからないから、言われるままにやるだけです。その体験がやがて意味を持ってくるのは、もっと先の話。
ただ聞く。真摯に、謙虚に、可能性を見すえて学ぶ。やる。やる。やる。
もちろん、ただ「やる」ことは、もしかしたら導き方が間違っている可能性もたまにあります。筋が悪い、方向性を間違っている入り方を強いられることがあります。あまり筋のよくない勉強を教わるとか、おかしな宗教にハマるとか。
「自分」というのは、自分が思うほど本当は正しくはないのです。考えてみてください・・業に駆られ、執着にまみれ、ごまかし、まやかし、現実逃避・ウソ・責任転嫁・他人への批判・不満・イチャモンに走って、ちょっとでも苦しくなったり壁にぶつかったりすると、すぐ見切りをつけたり、もっとラクで手っ取り早い方法があるんじゃないかと考えてしまったり。
そうして、あっという間に妄想に呑み込まれて、自分を越える可能性を自ら手放す。あっという間に「自分」へと戻ってゆく。
まるで犍陀多(カンダタ)が蜘蛛の糸をみずからチョン切って、くるくると駒が回るように落ちていったように・・しかも落ちる場所は、地獄というより、ぬるま湯・・自分のままでいい、これでいいんだという自己確認。
知るべきことを知らず、やるべきことをやらねば、新しい理解は見えてこない。
知るべきことを知り、なすべきことをなし、新しい体験を、無心に、つつしんで、ゆめゆめおのれの我見・妄想に捕らわれることなく重ねていく。
歩くべき時は歩くしかないということ。
どんな景色が見えて来るかは、歩いた先にしかわからない。
2022・9・16