仏教 vs. 執着

読者の方々から質問・感想を日々お寄せいただいています。ありがとうございます。

今回紹介するのは、そうしたお声をふまえての仏教の話――原稿の一節と思ってくださって差し支えありません。

 

仏教 vs. 執着

仏教は、心に関する問題を解決するにあたっては、ほぼ万能とさえいえるほどの柔軟性と応用力を秘めています。

しかし仏教は、では完全にして誰にも使える処方箋たりうるかといえば、まったくそうではありません。むしろ仏教は非力にして無力です。

何に対して無力かと言えば、人間の”執着”です。



執着とは、広く定義すれば、「今の心の状態を変えない方向に働く心の動き」です。

たとえば、怒りが溜まっている人は、つねに怒りを抱え込んでいるばかりか、小さなこと、時に理由のないことにさえ、怒る理由を見つけ出して怒ります。

貪欲(もっと多くを求める心の動き)があると、つねに新しい何かを手にすることで問題を解決しようと考えます。

仮に「あきらめる」「反応しない」といった可能性を耳にしても、貪欲を持った心は「それでは、あきらめることになってしまう」「過去が無駄になってしまう」「そんな人生は面白くないのでは?」と失うものを見て、「やっぱり現状維持」を選ぼうとします。

妄想については、心はそもそも妄想まみれ。ほぼ常時、妄想維持モードのまま回り続けています。心のスキマ(何もしない時間)があると、瞬時に妄想で埋めようとします。

その結果、スマホ、SNS、ネット、ゲームといった手軽な妄想維持装置に手が伸びます。いったん手が伸びると、心は完全執着モードと化すので、外からの働きかけがない限り、止められなくなります。

何もしていなくても、心は妄想できるエサ・ネタを探して、あれこれと検索します。過去のこと、人のこと、将来のこと、「こんな自分なんて」という自己否定など。

そのほとんどは、ネガティブです。というのも、妄想に次いで手っ取り早いのは「怒る」ことだからです。すでに溜まっている怒りをもって何かを攻撃しようとする。「過去のせい」「あの人のせい」「世の中のこんなことが気に入らない」と、次々に怒るための燃料を探す(妄想する)のです。


 

さらに、慢もあります。著作(『反応しない練習』ほか)で触れているとおり、慢は、承認欲(認められたい・認めさせたい欲求)と、それを満たせるような妄想との混合物です。

自分を認めてもらうための妄想だから、どこまでも自分に有利な、都合のいい、自分が正しいと思える妄想を繰り広げます。そのうえに「執着」という心の動きが加わるので、「この妄想は正しい」「絶対に(どう考えても)正しい」と思うようになります。絶対、自分、正しい――の繰り返し。

「つねに自分が考える(妄想する)ことは正しい」というのは、心が思いつくすべてに当てはまります。

自分の見解が正しい。自分の怒りは正しい。自分の過去は正しい。自分の言葉は正しい。間違っているのは、相手だ、他人だ、世の中だ――。

承認欲と妄想はセットなので、自分のほうが優れている。優れているとも考えます。そうした思いに執着するからからこそ、他人を批判する、非難する、ケチをつける、悪口を言う自分が出てきます。

さらに、「正しい自分」が通らない現実や他者については、「正しい自分を否定するもの」としてとらえます。激昂したり、敵とみなして攻撃し始めたり。自分の期待や要求が通らないと烈しく怒って非難します。自分の要求を押し通すまで、あらゆる理屈を繰り出して、批判したり手なづけようとしたりします(モラハラはその典型)。

「こんな目に遭わされた、ひどい、自分は被害者だ」と思い込むこともあります(いわゆるクレーマー)。

「自分は正しい」という前提、つまり慢に立ってしまうと、実は自分が相手を苦しめているのに、自分こそが「苦しめられている、ひどい」(悪いのは相手だ)という言い分・発想になってしまうのです。

世の中にあるパワハラ、セクハラ、モラハラといった「思いの一方的な押しつけ」は、押しつけるための手段・理屈は違うものの、「自分は正しい」という前提は共通しています。



こうした数々の執着は、心につねに湧き上がります。執着こそが自分自身、いや人生そのものと喩えても間違いないくらいに、心を占領していきます。

長く生きれば生きるほど、執着が増え、強化されていきます。執着前提でモノを見るので、人の声や別の可能性は、聞こえません。

たとえば貪欲に駆られた心に、「手放して自由になる」可能性を伝えても、「そんなのはつまらない、意味がない」と感じます。

妄想に支配された心に、「それは妄想ですよ」と伝えても、「妄想じゃない、自分の考えだ、考えることの何が悪い」と訴えます。

慢に囚われた心が、「それは慢ですね」と指摘されると、「何を言うか、そういうあなたこそ慢じゃないか!」とムキになって言い返します。


執着にとらわれた心は、みずからの執着を通して外の世界を見ます。外の世界に自分の執着を見てしまうのです。いわゆる自己投影です。

たとえば怒りを隠し持っている人は、「相手が怒っている」ものと勘違いします。もっと進むと、みんな自分に怒っている、世界は敵ばかりだと思うこともあります。

疑いや不安といった妄想を持っている心は、その妄想を通して世界を見るので、「誰も信用できない」「どうせうまく行かない」といった、自分の中にある通りのものを結論として出してしまいます。

慢に囚われた心は、自分ではなく人が、相手が傲慢なのだと考えます。自分の慢(正しいという思い)を前提に、人を非難します。「あの人のここがダメだ」「あなたはこういうところがなっていない」と人の内面にまで踏み込んで攻撃し(結局、自分を見て言っているだけなのですが)、さらには「許せない」「謝罪しろ」と強要さえすることもあります。



 

真実とは皮肉なものです。人のことを「傲慢だ」と言う場合は、もしかしたら自分自身が傲慢の罠にかかっているかもしれないということです。

執着がある心は、その執着を、自分自身を、外の世界に、他人に投影します。他人を見ているつもりで、実は自分が抱え持った執着そのものを見ているのです。

だから他人について語ることは、自分自身の「開示」ということになるのです。
 

もし自分が慢ではなく、つつしみと慈悲(思いやり)に立っているなら、人さまを悪く語りません。「私にとっては、こういうことです」と自分の思いを伝え、「理解していただければ嬉しく(幸いに)思います」という言葉になります。もし理解されなければ「残念です」という控えめな言葉をもって、静かに身を引きます。

 

執着は、心の性質でもあるので、気をつけないと、誰もが囚われる可能性があります。ブッダがブッダであり続けたゆえんは、そうした心の性質(罠といってもよい)を自覚して、つねに自分の心を見張ることを一時も絶やさなかったからです。

ブッダの心には、自分の心をつねに見張り続けるサティと、つつしみ(慢や妄想を広げない)と、慈悲(幸せを願うこと・相手の悲しみ・苦しみを想うこと)があります。

 


執着を越えれば、

「心が自由になる」
「新しい可能性が開かれる」
「優しくなれる」

ことは真実です。その真実に目覚める方法(執着の手放し方)も、仏教は伝えることができます。ちゃんと実践すれば、心の性質にてらして、ほぼ百パーセント解消できます。つまり変われます。


ところが・・・執着に囚われた心は、その可能性を否定してしまうのです。

「自分は間違っていない」
「自分は自分の思うとおりに生きていく」
「自分の何がいけない?」

という思いのほうを選びます。

いけないことは何もありません。心はその人自身のもの。誰もが自分の人生を好きなように生きていい。生きることは、人それぞれの自由です。

ただし、苦しみを越えるには、自分の執着(変わりたくない・変わらない自分)を自覚して、克服していく努力をしなければいけません(これは法則みたいなもので、例外はありません)。

執着のままに生きるなら、当然ながら、心も変わらないまま続きます。

誰のせいでもありません。自分自身の選択です。


執着を選ぶ心には、仏教は何も伝えられません。無力にして非力です。

これは、2600年近く昔のインドから、現代に至るまで変わっていないのです。



執着と仏教とは、どちらが強いか。

執着です。はるかに強いのが、執着です。さながら別宇宙であるかのように、仏教は、人の心を支配する執着に手が届きません。


せめて「幸せでありますように」と願うほかないのです。



2024年2月6日