親であることの哀しみ


『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』という作品は、親と子を引き離すことを目的とした本ではありません。

親子の間にいつのまにか生じてしまった苦しみや壁を乗り越えて、最も快適な関係性を再構築するための道筋をまとめたものです。

親にも苦しみがある。その苦しみは親の親や、さらにその親にさかのぼって始まっている。

その親との関わりから、子が苦しみを強いられることがある。

親には自分しか見えないから、子の苦しみがわからない。

子はいつしか苦しみを自覚し、親にわかってもらえないことを悟ると、苦しみを越えるための闘いを、独りで始めることになる。

子が決意しなければ、親子の間に生まれた苦しみは永久に続く。


いずれかが気づかなければ、そして越える努力しなければ、苦しみが消えることはない。


苦しみに気づかず、何も問題がないかのように思い込んで、あるいはそのように装って、関係を続けていく親子もいる。

それは幸か不幸か。けっして幸とはいえない。
なぜなら苦しみは存在するのだから。
 
遅かれ早かれ、その苦しみは顕在化する。ごまかしきることは、残念ながらできない可能性のほうが高い。
 

親のほうが立場は強く、思い入れも強いことが多い。子はそもそも圧倒的に大きな親を見上げるところから人生を始めて、その後も親なくしては生きられないという制約の中にあって、さらに親への愛着も強いから、

どうしても親の思いにただ従うという時間が増えていく。


親との関係で宿った苦しみを自覚するには、時間がかかる。

苦しみがあることを認めることにも、勇気が要る。

まして苦しみの理由が親から始まっていて、そういう親に苦しみを感じていて、その苦しみを越えなければと決意できるのは、よほど強い子供である。



問題は、目覚めた子供が、苦しみを越える闘いを遂げることができるか--だ。

とても長く、そして一人きりのつらい時間を過ごすことになる。

その間に、この世を生きる上でつきまとう、さまざまな新たな苦悩も抱えることがある。

親との関係で背負った苦しみ以外に、苦しみを背負うことも少なくない。

とても聡明で、強くて、勇気を備えた子であっても、その試練を越えることは簡単ではない。

 
ある親は、わが子が『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を読んだと知って、自分も取り寄せて読んだそうだ。

子の思いを理解しようと努力できる親は決して多くはないから、この親は、その点だけでもかなり尊く立派だと思う。

そして本を読んでわかったことは、「子供は、私のことが嫌いなんだ」ということだそうだ。

苦笑することさえ可能な感想である。この親はえらい。そして優しい。

親としての自分が嫌われていることがわかったということは、子の思いを一つ理解できたということ。思いがわかった。その時点でほんの少し子に近づいたということ。

どこが、なぜ嫌いだったかを理解できれば、さらに一歩近づけることになる。

自分が嫌われる理由がわかれば、気をつけることも可能になる。自分が変わることができれば、子は許してくれるかもしれない。もう一度好きになってくれるかもしれない。そんな可能性も見えてくる。

子はもともと親を愛し、親を好きなところから人生をスタートする。親はすでに多大なアドバンテージを得ている。多少欠陥があっても、時に間違いを犯しても、子は許してくれるし、好きでいてくれる可能性が高いというアドバンテージだ。

そのアドバンテージを活かす努力ができるかどうか。
 
子にとってどんな親かは、その点にかかっている。


嫌われたり、遠ざけられたり、口をきいてくれなくなったり、縁を切られたり――そのこと自体は、いつでも起こりうる。子は子の人生を生きている。親とどう関わるかは、大人になった子が自由に選んでいいことのはずである。


大事なことは、親が子の思いをわかろうとしているか。
 
わかったことに対して、親がどんな努力を始めるかだ。


子の思いを理解しようと努力を始める親は、立派だと思う。

子に嫌われているとわかって、その事実を受け止められる親は、強いと思う。

嫌われている自分を自覚して、自分が変わろうと努力していく親は、最上級に尊い親だ。

なぜそういえるかといえば、子が望むことは、まさにそういうことだからだ。

自分の思いを理解して、変わろうと努力してくれる。

それだけで涙が出るほど嬉しいものだ。

子にとって、やはり親は世界で二人だけの、しかも人生の始まりにいてくれた人たちだからである。



他方、違う受け止め方をする親もいる。

自分が嫌われていることを知って動揺する。
そんなことがあるものか、あってたまるかと異議を唱える。

自分は親なんだぞ、できることはすべてやってきたんだぞ、これだけやってきた親をなんだと思っているんだ、親である自分に背を向けるというのか、何かがおかしい、原因はなんだ、その原因は自分ではない、他の何かだと訴える。


親としてできることはすべてやってきた--。


本当か? 親は、子の何をわかっていたというのか。本当にわかろうとしていたのか。

子が背を向けたとして、なぜそれが他人のせいになるのだろうか。

もしかしたら、自分自身に理由があったかも--しれないのに。

指摘するのは、あまりに残酷なことにもなりうるけれど。


親としてできることはすべてやってきたというのは、端的に嘘だ。しかも傲慢な言葉だ。

なぜなら、そうと認めるかは、子供が決めることだからだ。

どんなに親がそう信じても、子が求めていたことがそれとはまったく違っていたら、親にできることをすべてやったとは言えない。

親が信じる愛情や、できることはやったという自負は、言葉にするのは哀しいことだが、親の自己満足でしかない。


哀しい自己満足だ。


親が自分の愛情を採点するのは、間違いである。正しかったかは、親と子の関係に如実に表れる。親の自己採点が正しい点数ということではなく、点数を決めるのは、親を間近に見る子供の側である。
 
子を愛する親にできることは、子の思いを最後までわかろうと努力し続けることだ。

それが親に唯一できること、愛情の最初であり最後である。


『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』を子供が読んでいたと知って動揺する親がいる。

だが動揺している時点で、自分が危うい勘違いをしてきたことに気づいてほしい。

この本は、親と子のどちらの味方につくわけでもなく、ただ互いをわかり合うための道筋を論理的にまとめただけの本だからだ。

この本は、ただの道筋。ニュートラル(どちらにも偏らない)真実が書いてある。

この本を読む子の姿に動揺したり、あるいはこの本を読んで、自分のあり方を突きつけられた気がしてショックを覚えるということは、

単純にそれだけ、子の思いが、そして親である自分の姿が、見えていなかったということに過ぎない。

それは、子への愛情というより、自分への愛着だ。

自己への愛着が強ければ強いほど、子の思いを知った時に衝撃を受ける。
 

この本と関係なく、世の中に無数に起きている出来事だ。


親が受ける衝撃は、親が哀しい無知の中にいた証拠といえる。

その衝撃こそが、本当の親と子の関係のスタート地点になる。

 


この本は、この場所は、子の味方だが、親の味方でもある。

幸せな親子になれるように--その願いしか語られてない。


せっかく親と子になれたのだから、
わかり合えるというはるかな地平をめざして、
頑張るしかないではありませんか。