だから歩き続けるのです

2022年5月2日(日) ※再公開します
 
神楽坂での講座がようやく再開。


他の教室は空だった。

ご近所の居酒屋は、3度目の宣言で奥さんが怒って実家に帰ってしまったので11日まで休業しますと出ていた(笑)。

座禅会も、定員が減らされている。直前に申し込む人も少なくないのだが、満席を理由にお断りするほかない。

それでも道を求めてこられる人とライブでやりとりできるのは、楽しいものである――仏教的には「善き哉」という。好ましい、価値がある、という肯定の表現。

きちんと受け止められる真摯さがある人たちとの直接のやり取りは、やはり「学んでいる」という実感が伝わってくるので、楽しいのである。

これは、「人好きの業」が選んでいる関係だ(「人ぎらいの業」を持った人なら、「隠居じじい」の暮らしを選んでいる。世には出てこない(笑))。



今日の話題――

◇世の中おかしなことが多いが、それに反応しているというのは、漏れということになる。

思いと言葉と行動とが、ちゃんとつながっていないと、自分が苦しくなる。

外の世界・人のありように、心を漏らさないこと、反応しないことだ。

外の現実に反応しているということは、まだまだ妄想を広げ過ぎているのだ。削り落とさねばならない。

あくまで自分のありようについて語り、

意見や理解も、「自分にとって」に限って語る。

そして、自分がコントロールできる範囲で、語り動く。

それがきちんとできていれば、心は疲れない。疲れるということは、外の世界に振り回されているということかもしれない。

 

自分を大切にするとは、正しく心を使うことだ。

愚かなことに心を使わないように、おのれ自身と闘うこと。


◇母親の子供への執着は、心情としてわかるが、届かなくなる時期というのが、必ずくる。

何かをしてあげなければかわいそうになる、心配になってくる、というのは、母親の心の惰性みたいなものだ。

その惰性が、子供を遠ざけたり、子供に嫌われたり、子供を甘やかしてダメにしたりと、いろんなマイナスを招き始める。

「そろそろ手放さないといけない時期なんだな」と気づいて、

そこから数年から十年くらいかけて、徐々に親の側が心を変えていくしかない。通らねばならない通過儀礼。人生のステージ。


少なくとも、子が親を嫌ってくれたり、遠い場所で暮らし始めたり、「親なんていらねえ!」なんて言い出したら(笑)、

それは、親としてはとてもありがたいことなのだ。
 
よく言ってくれた、よく行動してくれた、というようなもの(笑)


淋しさは残るだろうが、それも執着=惰性が作る感情。

これは、子供にお付き合いさせるものではなく、自分の側で手放していくものだ。



執着を手放すことは、痛みを伴う。そのあたりの親のせつなさ・さみしさというものを受け止めてさしあげる場所でもありたいと思っている。 


苦しみと無縁な人は、めったにいない。

みなさんの気持ちは、よく承知している。

 

だからこそ、道づくりに励むのです。道をゆくこと。


ということで、帰りに千歩数えてみること。数えられるまで家に帰らないこと(笑)。 
 
歩き続けましょう――。
 
 
 
 
 

秋はイラスト

連休だったからか、19、23、24日の里の道場には、久しぶりの参加者がちらほらといました。

出会った頃は暗中模索、五里霧中状態だったのが、しっかり心の技を身に着けて、最初の課題・苦悩を越えていった人たちが、この場所には大勢います。

「今が人生で一番幸せです」というある人の言葉は実感だろうと思います。



新刊の仏教式ノートは、ゲラが上がってきて、草薙龍瞬のイラスト待ちの段階です。

好きでやっていることは正直ないので(それがいいことだとは思いませんが笑)、単純に苦痛がない、役に立つ(必要とされる)ことを淡々とやるのみという生き方をしています。

なので、イラストを描くというのも、特に嬉しい・楽しいという気持ちから入ることはないのですが(あくまで淡々とw)、でもかわいいタッチや、想像以上に面白い絵柄が描けたりすると、「これはいいかも」と楽しくなったりはします(これは文章を書く時も同じ)。

作品については(仕事も同じはずですが)、自分が楽しいことが最初。この時点では結果は度外視(考えない)。自分にとって楽しいこと・自分が面白がれることが、人にも楽しんでもらえるための第一条件になると思っているので、

ここから二週間ほどは、自分で描いて「これはいいかも」と一人楽しみながら作業を進めることになります。一人上手、自己満足、自分の幸せは自分で創る、が本道。

きっとノートを開いた人は、かわいいイラストを見て、かわいい~♡と快を感じてくれることでしょう。塗り絵できるようになっているので、ぜひお気に入りの色をつけてもらえればと思います。


急に秋めいてまいりました。美しい季節の到来です。



ゲラにあわせてラフイメージを描いていく(12月中旬刊行予定)
 
 
 

突き進むのみ

自分にとって本当に価値があること・意味があることというのは、

今の自分にはわからない・見えないことも、実はすごく多いのです。

喩えるなら、新しい分野の勉強を始めるとしましょう。なんでもいいのだけど、自分が完全に未知の世界に足を踏み入れたとする。

この時点で、自分はこう思うとか、こういう説や考え方はどうなんだ、みたいな自分語りを始めた人は、その時点で成長が止まります。もはや新しいものは入ってこない。

自分が何も見えてない段階で、たとえばキレイにノートを取っても、その取り方自体に自分のクセがついているから、役に立たない。ノートを取るという作業さえムダで危険ということは、ものすごく多いのです。身に覚え、ないでしょうか。



学ぶには、ある程度「見えてくる」必要がある。体験すること。考えることではなく体験です。幼い子供なら何もわからないから、言われるままにやるだけです。その体験がやがて意味を持ってくるのは、もっと先の話。


ただ聞く。真摯に、謙虚に、可能性を見すえて学ぶ。やる。やる。やる。


もちろん、ただ「やる」ことは、もしかしたら導き方が間違っている可能性もたまにあります。筋が悪い、方向性を間違っている入り方を強いられることがあります。あまり筋のよくない勉強を教わるとか、おかしな宗教にハマるとか。

だけれど、この場所はそういう場所ではない。ブディズムは、自分を越えることをめざす世界。おのれの心を知り、原因を知り、洗練された方法をひたすら実践し、体験し、これが自分だと思っていたものを越えていくこと。


「自分」というのは、自分が思うほど本当は正しくはないのです。考えてみてください・・業に駆られ、執着にまみれ、ごまかし、まやかし、現実逃避・ウソ・責任転嫁・他人への批判・不満・イチャモンに走って、ちょっとでも苦しくなったり壁にぶつかったりすると、すぐ見切りをつけたり、もっとラクで手っ取り早い方法があるんじゃないかと考えてしまったり。

 

そうして、あっという間に妄想に呑み込まれて、自分を越える可能性を自ら手放す。あっという間に「自分」へと戻ってゆく。

まるで犍陀多(カンダタ)が蜘蛛の糸をみずからチョン切って、くるくると駒が回るように落ちていったように・・しかも落ちる場所は、地獄というより、ぬるま湯・・自分のままでいい、これでいいんだという自己確認。


知るべきことを知らず、やるべきことをやらねば、新しい理解は見えてこない。

知るべきことを知り、なすべきことをなし、新しい体験を、無心に、つつしんで、ゆめゆめおのれの我見・妄想に捕らわれることなく重ねていく。

それこそが「道心」というものです。自分ではなく、道つまり正しい生き方をめざそうという決意。自分を越える決意です。


歩くべき時は歩くしかないということ。

どんな景色が見えて来るかは、歩いた先にしかわからない。




2022・9・16



静かにおのれの道を行く


この場所は、ひっそりと静かに小さく生きていくことを選びます。


自分一人が歩ける道幅があればよく・・。



その言葉や言葉が、道(生き方)を求める人にだけ届けば、それでいい。

なので、ブログでも、あまり語らないようにしています。


ただ中には、遠くから、それぞれの日常の中で、たまにこの場所とのつながりを求める人たちもいると思います。


そういう人たちに向けて、日頃、道場・教室にてお話していることの一部を抜粋してお届けしようと思います。



今後このブログでお伝えする言葉は、一人の出家がどこかで語った言葉だと思って聞いてください。


一人ひとりは、とても小さな日常を、毎日精一杯生きていると思うのです。


そういう人たちの日々を想いつつ、伝える価値のあることとそうでないこととの線引きを大事にしながら、少しずつ言葉を発していきたいと思っています。



草薙龍瞬






変わろうとしない父親たち

日々いろんな人たちの相談に応じてきて、たびたび思うことは、

父親・男親は、変わろうとしない生き物(であることが少なくない)ということ。

子供のことで相談に来るのは、9割がたは女親。たまに男親から相談の連絡が入ることがある。

ところが、相談に来る男親の多くに共通しているのは、「子供のことで悩んでいる、子供がこんなことになっている」と、子について事細かに説明するのだが、自分自身については見事にスルーしていたりする。

自分が存在していないのか、自分には非がないと思っているのか。さながら自分は巧妙に隠れて、子供が悪い、妻が悪いと言い立てているように映ることもある。

「ほとんどの場合、親の側に問題があります。あなた自身はどうなのですか?」というような問いを返すと、「考えてみます」とはぐらかして、それきりになる(笑)。

子供のことは、子供に聞かないとわからない。子供本人が来るなら本人に聞くし、本人に会いに行くこともある。家に上がって、子供や母親の話を聞く。すると出てくるのは、男親の数々の行状、いわば“犯行”である。真犯人は男親だったか、ということがよくあるのだ。


仕事に逃げる。黙っている。子供が傷ついているのに守ろうとしない。言葉数が少ない。要は、家の中で無力。

無力な男親――仕事くらいしかできることがなく、家では何もしない、口数も少ない――は多い。頼りなく、ある意味、ずるい。自分を守っているからだ。

端的に男親に原因がある場合も多い。実際の姿はさまざまだが、たいてい怒り、傲慢、怠惰、支離滅裂、無関心のいずれかだ。

 子供は、そんな父親から負の影響を甚大に受ける。その時、母親は?――守ってくれる・支えてくれる母親なら救いもあるが、母親もまた人間として偏っている場合、子供は家の中に当てになる人・守ってくれる人が誰もいないという事態になる。

これは最悪の環境だ。 期待すれば怒りと絶望。かといって完全にあきらめるのも至難。一緒に暮らさざるを得ないからだ。

男親が家の中で役割を果たし、きちんと理解者でいる家庭では、あまり問題は生じない。理解者であるとは、女親つまり妻の思いを聞けることであり、子供を距離を置いて見守り、経済的・精神的な支えになれること。こういうまともな男親がいる家庭は、それほど崩れない。

子供が前に進めなくなる場合には、男親に原因が隠れていることが少なくないのだ。隠れているというのは、男親が意図的に隠しているから。プライドが高い。都合の悪いことは隠す。オレは悪くない、オレはよくできた人間だ、オレは子供のことで悩まされているんだ、悩んでやっているオレはやっぱりエライのだーー

という結局は、自分はキレイなままでいたいという小さな慢を、内心必死で守り抜こうとしている――そういう男親とたまに遭遇する。この場所でたまにということは、世の中には大勢いるということだ。

妻・子供の問題については考えてやるが、オレは問題ない(なぜオレが変わらねばならぬのだ?)--というのが、その本音なのだろうと思えてくる。



男親として真剣に学び、変わろうとする人たちもいる。強く尊く立派な人たちだと思う。世の中の比率としてはかなり低い希少な人たちだ。

男親の務めは、やはり第一は仕事なのだろうと思えてくる。働いて家を支えるなら、最低限の役割は果たしている。だが働くことが免罪符になるわけではなく、家族における「理解者」であらねばならぬ。これは、家族としての当然の役目だ。

ところが、理解者になれぬ・及ばぬ男親が少なくない。仕事だけで正当化せず、人として最低限理解しようと努力できるかどうか。 まだまだ学べることはあるのに。まだまだ変われるし、変わらねばならぬのに。


もう一度心のターボをふかして、「変わる」と念じてみるとよい。



人として成長し続けること以上に、価値のある生き方があろうか。


残念ながら、変わろうとしない男親にこうした言葉が届くことは、ほぼないのだが。



大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ

活字が読みづらい人は、まずは声で聞いてください


 

2022・9・13





お助け繁盛

2022年度の日本全国行脚、これにて完結!


岸和田で講演会。
南大阪の看護学校で1年・3年生向けの講義。
奈良で数日過ごして、名古屋で講座。
広島にて勉強会。
8月中旬から宮城。秋田。
8月末に愛知・高蔵寺での初講座。
名古屋で講座を終えて鹿児島。佐賀唐津。
広島、大阪難波、そして奈良入りを終えて、全日程終了。


多くの人たちと宝石のような時間を共にできた。特に今年は、数多くの人助けができた実感が強く残った。

仕事なら商売繁盛と呼ぶのだろうが、私の場合は「お助け繁盛」である。人の数だけ人助け。手応えを感じた時間が多かった。

実に満足。最上の旅を実現できた。

協力してくださった皆様に、心から感謝御礼申し上げます。


希望や意欲の灯(ひ)が、一人ひとりの心に灯ってくれれば、それが最高の幸福です。

純粋に素直にそう言いきれる今があります。自分に納得。この命の使い方に納得。


幸せな旅をありがとう。 



大阪から奈良へ 
帰ってきたのではなく、新しく始めるのです



この命が去りしのち


8月30日(火)は、名古屋に戻って栄中日文化センターのレギュラー講座。

ブッダの生涯も終盤に入った。80歳になったブッダが、軍事侵攻の是非について大臣に語ったり、自分がいなくなった後の生き方について再三伝えている描写が興味深い。人は旅立ちを予感した時に、自分が去りし後の未来や、その後も残る人々を想うのかもしれない。

葛藤していた頃は自分のことで無我夢中。だが抜けてしまえば、残るのは、この世界と人々の未来のことくらいになるのかもしれない。私個人の思いを投影して見ているだけかもしれないが、あながち離れてもいないように思う。

『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』新版(筑摩書房)を読み返して、あの老いた母と娘の関係性は、自分もそっくり同じだと今になってようやく気づいたという感想があった。あの壮絶なエピソードは、互いの執着が作り出す終わりなき修羅場を描いたものだ。

あの本のテーマである”業”――と、それに縛られる原因である”執着”。

二つを突き止めねば、苦しみの輪廻を越えられない。



本当は「ある」もの(自分にも当てはまること)を「ない」と片づけてしまう(いわゆる否認)というのは、その程度によって、次の3つのパターンを取る。

①最初から完全に自分は無関係と決め込む。「私は関係ないし」で片づける。だから『大丈夫』も読まない。

②少し読むだけで、心が嫌悪・敬遠の反応を示す。知りたくないことを書いてあることを予感するのか、途中で放り出してしまう。中には、本は買っても読まずに本棚にしまっておく(しかも背表紙を奥にして笑)人もいる。

③いちおう読むが、アタマに入ってこない。「私は違う」「いや、親にも理由があった」「今さら言っても遅いし」「もう私も大人だし」といろいろと言葉を繰り出して、本当はあるものを「ない」と言い張ろうとする。

中にはわざわざ「私はもう親を許しているし」と言い出す人もいる。だが正しくは、許す・許さないの話ではなく、心にまだ苦しみが残っているか、引っかかっているものがあるかという事実だけである。

苦しみがあるという事実に、本当は嘘はつけない。いくら嘘を語っても、事実として「ある」苦しみはごまかせない。ごまかしきることは本当は不可能だ。苦しみがある事実を生きるか、苦しみが消えたという真実にたどり着くか。人生の行方は二択である。

本当は苦しみがまだ残っているのに、「ない」と言い張る。その無自覚レベルの否認が働いているから、言葉が入ってこない。まるで他人事のように読んで、「お気の毒」「世の中にはこんな家族もあるのですね」「私は違います、幸せです、よかったです」と片づける。読んでも「自分」は素通りして終わらせる。
 

否認ではなく中身を読んで理解した人のステップは二つある--

④しっかり読んで、自分の思いを言葉にする。そのことで自分の心を理解できる。自分がなぜこのような人生を歩んできたのか、なぜ今の自分にたどり着いたのか、なぜ自分が苦しんできたのかという真の理由がわかる。

⑤理由が分かったうえで、苦しみを越えてゆく道筋・新たな生き方をも、はっきり理解する。行動に移す。

⑤の行動にまで移した人が、道に立った人、そして勝利(苦しみからの解放・克服)の可能性を得た人である。



①から⑤を見渡すと、はっきり生き方が分かれていることがわかる。①②③は、過去の人生を続けていくだけだ。生き方は人それぞれでよいのだが、苦しみ・過ちもそのまま続くことになる。

いくら「ない」と言い張っても、生きづらさはあるし、外の世界になじめない苦しみもあるし、親になった自分の過ちも続く。自分がいくら問題ないと言い張っても、そんな自分が子供や周囲を苦しめている事実は続く(自分が知らないだけで)。

なぜ自分が苦しむのか、なぜ家族を苦しませてしまうのか、その原因は何なのかを、いさぎよく理解するほかない。

理解しないまま始まるはずがない。繰り返すだけ。止まっているだけ。どこまでも自分、自分、自分だ。

それが業のなせるワザ。そんな自分を、問題ない、私は当てはまらないと思い込むことこそが、執着したがる(同じ自分に留まりたがる)心が繰り出す罠なのだ。


他方、「苦しみの原因」を理解した人が、前に進むきっかけを得た人だ。そして原因を克服するための道を実践するに至った人が、道に立った人である。

道に立った人こそが、人生が変わる可能性を手に入れる人だ。いわば彼岸--苦しみから抜けた境地――への岸辺、つまり可能性に立った人である。岸辺に立ち、新たな道へと踏み出した人たちは、確実に増えている。

この本との出会いがきっかけだったと語る人が、教室を訪れる。



この場所は、妄想を語らず、欲望・虚栄・欺瞞(自分に対する嘘)と高慢を斥ける。

世にあって世に染まらずを地で行っている。

宗教と呼ばれる世界は、えてして我欲と妄想ゆえの虚栄と形骸に取り込まれてしまう。中身のない形を維持・拡大しようとするから、過剰な負担を人々に強いて、ときに家庭・人生を滅茶苦茶にしてしまう。

 
この場所は、正しい理解と慈悲に立って、一人の出家の身命(しんみょう)が届く範囲でのみ真実を語る。

この命が消えても、ダンマつまり方法・生き方が残るように、声と言葉を遺すように努力している。

だから一切無理が生じず、負担を強いず、みずから実践する者が、おのれの実践と体験によって、それぞれに心境の変化を経験していく。そういう関わりが自然に成り立っている。


おそらくこれが、最も純粋なダンマ(生き方)の実践であり体現なのだろう。この形でよい。




2022・8・30