親という名のノーコン投手


親であることは本当に難しい。

と、親の姿を目の当たりにするたびに、痛感する。

私が出会う親というのは、たいてい子供の姿に悩んでいるか、子供の育て方について試行錯誤している人たち。悩んでいる時点で、親としては上等。悩まない親は、まず私と遭遇しないから(しかし問題がないわけではなく、むしろ悩む親よりはるかに問題を抱えていることが多いのだけど)。

悩む親には、「まず悩んでいることを話してみてください」と伝える。たとえるなら、野球のピッチャーをやっているが、キャッチャー(子供)がまともにボールを受けてくれないから悩んでいる、そう語るピッチャーに「ではボールを投げてみてください」というようなもの。

そして投げてもらう。日頃どんな姿で子供にボール(言葉・表情・ふるまい)を投げているのかを、確認してみる。

悩める親のみなさんには本当に申し訳ないのだけど、とんでもないボールを投げる。こちらがかまえているミットに入ってこない。とんでもない暴投。腕を伸ばしても、はるかに届かない。とんでもないところにボールを投げて、バックネットにぶつけたり、観客席に投げ込んだりする。

つまりは・・・子供の心がわからない。子供の目に、親である自分がどう見えているのか、想像がついていない。


子供の側に立った時に湧いてくる思いを言葉にしてみると、

「そこじゃないんだけどな(それはどうでもいいんだけど)」
「また自分の話?」
「どうせ私が悪いんでしょ」

みたいな感想が出てくる。親の無理解に対する感想。最初は「ん?」という小さな違和感。次に湧いてくるのは、イラだち。やがて烈しい怒り。だが親はまったく無自覚に暴投(無理解)を続けるものだから、そのうちあきれて、最終的には絶望になる。

「この人には何を言ってもダメだ(何も聞いていないもの)」


それが、(本当に申し訳ないのだけど)ノーコン・ピッチャーたる無理解な親に対して子が思うこと。

実はかなり早い時期に、子供はそういう思いにたどり着いている。怒りから不信。不信から絶望へ。その時点で本音を言わなくなる。

その時点で親子関係はいったん「断絶」している。だが、親子関係という形は続く。子供としては、親がいないと生活できないから。しようがない、と子は思う。だからケンカにはならない。

親にわかってもらおうと期待を向けている子供も多い。そういう子供は、親に合わせて、いい子供としてふるまう。たとえば勉強第一と思っている親の前では、勉強している振りをする。自分が勝利者であろうと世間の中で闘っている親に対しては、親のことをすごいと持ち上げる。

こういう関係性は<役割演技>だ――親がなりたいと思っている役割を親自身が演じられるように、子供がサポートしてしまう。と同時に、親が期待する、親に都合のいい役割を子供も演じようとする。

勉強を求める親の前では勉強しているが、勉強が好きかと言えば別の話。親のことを尊敬していると言ってはいるが、実は不信や怒りを隠し持っていたりもする。


いうなれば、ミットに全く入ってこないノーコン投手にあわせて、キャッチャーである子供がそれこそ立ち上がったり、ジャンプしたり、わざわざバックネットによじのぼって、ヒイヒイ言いながらボールをキャッチして見せてきたのに、

ピッチャーである親は、なぜか目に「補正」がかかっていて、自分は親としてストライクを投げ込んできた、子供はしっかりキャッチしてきた、だから自分はコントロールのいいピッチャーだと思い込んでいるようなもの。




親がノーコン・ピッチャー(暴投投手)であることの弊害は、子供がいつまで経っても親のためのキャッチャーでい続けなければいけないことだ。子供としてはいいかげん立ち上がって、別のポジションも守ってみたいし、バッターボックスにも入ってみたい。野球というゲームを楽しみたい。つまりは社会に出て、自分に何ができるかを自由に試してみたい。

親がある程度コントロールが良くて、かまえたミットにボールが入ってきて、ラクに「受ける」ことができれば、子供は親専属のキャッチャーを卒業できる。

だが、親がノーコンだと、子供はいつまでもキャッチャーでいざるをえなくなる。先に進めない。他のポジションやボールを打つという経験もできない。親がどんなボールを放って来るか、どう受けなくてはいけないか、必死で考えなくてはいけない。そのことでノーコン投手に振り回される。

また、子供の側にも期待がある。いつか、かまえたミットにまっすぐ投げてくれる――きっと私の思いをわかってくれる--と。

悲劇の理由は、ここにある。実はノーコン投手は、いつまでもノーコンだ。投げ方(生き方)を知らないから。

暴投しまくりのノーコン・ペアレントに、子供がお付き合いしてしまう。結果的に子供の人生が振り回されてしまう。




この不幸なバッテリー(親子関係)を解消する方法はあるのか? 二つある。

ひとつは、キャッチャーである子供の側が、「このピッチャー(親)はダメだ」と(いい意味で)見切りをつけること。「この人のボールを受けていたら、自分の野球人生が始まらない。別の人とキャッチボールしてみよう」と思えるかどうか。

そして別のクラブに入るとか、別の選手(大人)とプレーしてみる。すると、世の中にはもっと上手な選手がいることもわかる。そういう選手に野球を教わる。すると上達する。

上達した選手(子)は、いつか元々バッテリーを組んでいたノーコン投手(親)を見て、思うだろう。「よくあんなメチャクチャな球を受けていたなあ」と。

親に向けて「あなたは、ノーコンだからね、私はもう受けないよw」「まともなピッチャーだと思っていたけど、とんでもなくノーコンだったんだね」と笑って言えるようにもなる。

この時、親の側が「そうなんだよ、ごめんね。よくボールを受けてくれたよね、ありがとう、でももういいからね」と笑って言えれば、別の形で関係を続けていける。最後は「私はノーコンです」と親がいえるかどうか。


もう一つの方法は、親のほうからノーコン(無理解)だと自覚すること。とんでもないフォームで、とんでもないところにボール(言葉・態度)を投げてしまっていると自分から気づいて、愕然とすること。

自分のノーコンぶりがどれほどのものかを知るために一番効果がある方法は・・・

親がキャッチャーに回ってみることだ。つまりは子供の側に立って、自分の姿を見てみること。
 

自分が子供になったつもりで、親としてふるまっている自分の姿を想像してみるといい。

いろんなことに気づけたなら、自己理解が進んだということ。たとえば、

「この人(自分のことだけど)、ものすごくエラそうだな」
「話すことが自分のことばっかりだな」
「うわ、すごく子供に残酷」

そんな気づきが出てきたら、親だった自分の姿を子供目線で見ることが、少しはできたということ。


「仮にわかったとして、それが本当に意味があるのですか?(それがなぜ解決策になるというのでしょう?」と思う親もいるかもしれないが、実は計り知れない効果がある。

わかれば、ボールの投げ方(関わり方)を考えるようになるから。それまでの関係を改善できる可能性が出てくるのである。それ(わかる)とこれ(問題の解決)は、別ではある。だが、つながっているのだ。

もちろん難しいからこそ、手助けが必要になる。たとえば私にボールを全力で投げ込んでもらえたら、「とんでもない暴投ですよ」と言える(※子供との関係に困っている人は、いちどぜひ会いに来てください^^)。

親の側が、自分がノーコン投手だとわかって愕然としたところから、正しいボールの投げ方(親としての、いや人間としての関わり方)を学んでいくことになる。

めちゃくちゃを続けてきたピッチャーがフォームを矯正してストライクを投げられるようになるには、相当の時間と練習が必要になる。

ただ、自分が暴投ピッチャーだと自覚して、一球ずつフォームを矯正していけば、やがて球筋がまとまってきて、たまにキャッチャーが腕を伸ばせば、ボールをミットで捕らえられることも出てくる。

子供の言うことがわかってきた。

子供の気持ちをそのまま受け止めるということがわかってきた。


そうか、こういう投げ方をすればいいんだ--。


そういう「わかる」経験が親というピッチャーの側に増えてくれば、それは同時に、キャッチャーである子供にとっては、こう感じる機会が増えてくるということでもある。


「そう。それが私が伝えたかったことなんだよ、お母さん、お父さん」

 

それがキャッチボールが成り立った瞬間。

ほんとは、すごくシンプルなこと。どうということはないこと。

投げて、受けて、また投げて――そのどうということのないやりとりが楽しい。幸せだと思う。そういうもの。特別なことではない。特別なボールは要らない。

それがわかる日まで、ノーコン・ペアレント(ごめんなさい・・)は、自分の暴投(無理解)ぶりにショックを受け、あきれ、恥ずかしく思いながら、正しく投げる練習を続けるのです。





次に挑むものがあるとすれば

(旅の道中で考えたこと)


大人になると、十代までの体験を忘れてしまう人も少なくない。だがそれは、生活に追われて思い出す余裕がないだけで、心の底には刻み込まれているはずだ。人生の最初期に刻み込んだ原体験を、作品や思想・事業へと昇華させた人たちが、芸術家や思想家というのだ。

彼らは、子供の頃の体験と、大人になってからの活動とを、運良くつなげることができた人たちといっていい。不幸なことに、二つの時期を分断されてしまった人たちは、日々の仕事や義務に追われて、子供の頃に得た宝を忘れてしまう。いわゆる大人である。

理想の教育とは、十代のうちに美しいもの・良質なものを体験したうえで、その体験を表現・事業・活動を通して、社会的に価値あるものへとつなげる(昇華させる)ことを可能にするものだ。理想の成長であり、自己実現を可能にするもの。

子供時代と大人時代とがつながることが理想であって、分断されるのは不幸だ。だが現実は、せっかく子供の頃に良い体験をしても、その後の学校教育や受験・就職、社会が強いる義務によって、分断(スポイル)されてしまうことが少なくない。子供時代に得たものを忘れることが大人になることだ。そう半ば本気で思い込んでいる大人もいる。

人生という軌道から、なるべく分断(スポイル)をなくすことだ。継ぎ目のほころびをつなぐこと。欠落を埋めること。子供の頃の体験が、そのまま大人になった後の活動につながっていくくらいの一貫性を作り出せないものか。

私の場合は、二歳から始まって小学校卒業までが、原体験。だが中学でスポイルされかけた。あのまま潰されていたら、つまらぬ大人になり果てていただろう。東京で一人学んだ時期が、第二の原点。その頃に培った教養と思想が、今に生きている(見事に生きている。あの時期がなければ、今の活動も著作も成り立たない)。

だが大学に入って再び壊されかけた。十代までの良質な体験をみずから全否定して、再びつまらぬ大人になりかけた。せっかく生きた道のりを守りたい衝動と、過去のすべてを捨てて何も考えない大人の一人になりたいという自暴自棄。

その両者の葛藤を長いこと経験して、やむなくぜんぶ、つまりは自分を丸ごと捨てて出家してみて、価値ある経験と技術と思想だけをつなぐことができた(正直、捨てた・忘れたまま戻ってきていないものもある。その量も膨大だ。あの頃に得た知識・技術・思想・意欲をすべて取り戻せたらとも思うが、致し方ない)。

幼い頃の体験を腐らせず損なわせることなく、その延長に社会的に価値を持つものを形にする。それができる状況になりつつある。面白いことに、やはり気が向くのは教育である。

自己を表現すること、個人における創造は良し(形になった)。次は・・・・・といえば、やはり教育だと思えてくる。子供時代と大人時代を、良質にして純粋な体験を、社会的に価値ある仕事・事業・活動へとつなげることを可能にする教育だ。

年齢や学年という概念にとらわれず、最初から良質なものを、生涯使える普遍的な知識と知的技法を授ける教育。

本気で考えてみようかと思わなくもない。

2023年8月


断るか従うか 親子の葛藤を越える計算式

 
<おたよりから> 
※本人の許諾を得て、一部編集してお届けしています

私の母は、今までも何かあると一番に私に電話してきます。必ずそれにこたえる形で動いてきました。

私自身は、子供の頃はバカ扱いされ、兄弟と比較され、そのうえ一番上という事もあり、大学費用は出せないという事で、奨学金をもらいながら働いて、親にお金を出してもらうことなく〇〇〇になりました。

それに対して、兄弟は皆大学まで親がお金を出し、生活を援助してもらい、ぬくぬくと学生生活を送り社会人になるという、あまりの違いに憤りさえ感じています、

なぜか何かあると一番に私に連絡が来て、私がお金を出したり動いたりしています。なぜそのようにしなくてはならないのか、なぜ兄弟が弟たちがやらないのか、不服を感じながら黙ってやっていました。

先日になって母から電話が何回かあり、何回話しても理解してもらえず最終的に仕事もあって断りました。
自分でも気がついているのですが、イラつきの強い口調で話しています。母も、変わったね、きつくなった。と言っていました。

私の中で何か変化が起きているのはわかっていますが、この変化が良い方向性に向いているのか、悪い方向性に向いているのか? 自分でも理解できていません。

後々両親がなくなった時後悔するのでは?と思ったりもします。特に今までの経緯で色々言われてきた母とは一線を引きたいと思っていますが、それが正しい事なのか。

過去に引きずられている私がいることも問題だと思うし、後悔しそうだし。私の身の振り方は誤っているのでしょうか。


◇◇◇◇◇

<おこたえ>

ここまでに起きた出来事は、本人の感想はともあれ、間違ってはいません。

過去には拒めなかったことを拒めるようになったのだから、成長しています。

その心を見れば、親・兄弟たちは、自分たちに都合の悪いことはこの相談者がやってくれるもの、それが当然、と思っているのでしょう。もともとそういう扱いだということ。生まれ持った環境における、家族の中での位置づけ・役割というのは、簡単に変わるものではありません。

この人は、いいように利用されてきたのです。他の兄弟に比べても、ろくな扱いを受けていない。兄弟が受け取ってきたものを、自分は受け取っていない。

この人は、自分の力で生きて、自分の力でここまで来たのです。恩に着る必要はありません。


「都合のいい時だけ頼るのは、やめてください」
「私は応えるつもりはないから、別の手段を考えてくれますか」
「他の兄弟がやってくれることになった? そうですか。別に私に報告しなくていいです」

くらいでよいのです。


ただしこの人は、ずっと昔から、「応えるのが自分の使命であり務め」と思い込まされてきた様子もあります。さらには親に愛されたいという子供の頃からの願望も、まだ覚めることなく残っている可能性があります。

そういう捨てきれない願い(妄想)があるから、応えないことに罪悪感を覚えるのでしょう。声(連絡)がかかると途端に落ち着かなくなるのです。応えなくてはいけないのでは?と思ってしまう。

罪の意識、良心の呵責・・・こうしたものは、相手の一方的要求に「応えてあげなければ」とつい持ち前の執着を向けてしまうことから生じます。かりに親が亡くなっても、執着は続くから、「もっと応えてあげればよかった」という思いが残ります。

さらには、応えないのは人でなし、冷たい人間、自分は人としてどうなのか、みたいな、自分を疑う妄想も噴出してきます。


こうした心情は、わかる人も多いのではないでしょうか。しかしこれを整理する計算式は、つねにシンプルです(『怒る技法』から)。

➀相手の思い(もっといえば魂胆)を見抜く。
 
②自分は自分の人生を生きる。できることはできるし、できないことはできない。
 
③相手の思いに利用されない。人は人、自分は自分だから。

➀については、「問いただす」ことが可能です。

過去覚えている相手の仕打ち(自分がされたこと)を振り返って、「どういうつもりだったのですか?」と直接聞く。

「兄弟に与えたものを、私にはくれなかった。そのことに理由はあったのですか? どんな理由?」と聞く。

「私が今思うのは、あなたたちは、都合よく私を利用してきたということ。その自覚はありますか? さすがにひどいと思いませんか?」

「単純に人として腹が立つ。私をなんだと思っているのでしょうか」

そうやって、自分の思いを偽ることなく伝えてみればよいのです。それに相手がどう答えるか。その答えによって、相手の思惑・魂胆・正体がわかります。

相手の思いが見えれば、その次にすべきは、その思いに利用されることを拒否することです。

他人に自分を利用する資格はない。人をいいように利用していい人間など、この世界に本当はいない。いてはならないのです。

だから、もし向こうが自分たちの思惑・都合だけを見ていて、こちらの思いを理解しようとしないなら、その先関わっても、相手に利用されることになってしまうから、関わること自体を辞退する。

「もうこれ以上、私にできることはありません(したくありません)から、連絡しないでもらえますか?」と伝えることも、選択肢の一つです。


その後に残るのは、「かわいそうかも」という罪悪感かもしれません・・。

しかし罪悪感を背負わせること自体が、実はおかしいのです。その関係性が対等ではないということ。

かりにもし相手が精神的に自立していて、子供たちを平等に思いやる、まともな親であるなら、

「そうだよね、あなたの気持ちもわかるよ(わかるように努力するよ)」
「甘え過ぎていたね、これからは自分も頑張るよ」

みたいな言葉が最初に出てくるものです。ちゃんと相手を思いやれる人から出てくるのは、第一にありがとう、すまないね、という言葉です。

それが出てこないのは、「利用して当たり前」と思っているからかもしれないのです。連絡してくるのも、まだ都合のいい期待を捨てていないから。語る言葉は、不満げ、ものほしげ、そしてイヤミ。
 
「やってくれないの・・・ああそう(あなたは冷たい子だね)」という言外のメッセージをわざわざ伝えようとするのです。
 
もしそれが相手(親)の本音だとしたら、こう切り返すことになります。

「自分の都合が通らない相手を、冷たいとか勝手だとかわがままだとか、そういう言葉しか出てこないあなたが、いかに身勝手か。今の私はそう感じます」
 
「自分勝手? その言葉、そっくりお返しします」


言いなりになるよりも、相手のご機嫌をうかがうよりも、ついキツくなってしまっても、仕方ないではありませんか。言い返せるほうがはるかにマシです。

どんどん言い返せばいいし、怒りが湧いてくるなら、怒りを伝えてよいのです。怒らないより、怒れるほうが、はるかにマシ。

慈悲(優しさ・思いやり)というのは、向ける場面が違うのです。一方的に利用してくる身勝手で無理解な、どうしようもない相手に対しても、慈悲を向けることはできますよ。でもリアルな関係においては、特に自分が苦しめられている場合は、まずは怒れること、伝えること、斬って返せることのほうがはるかに大事。混同させないことです。場面が違います。

総じて、この相談者は、執着まみれでぐちゃぐちゃになっていた一時期よりも、はるかによく見えるようになっています。正しい道の途上にいるし、これまでの選択は、何も間違っていません。

伝えるために努力するは、ヨシ。そして、伝わらないとわかった時点で、それが可能ならばですが、関わりをリセットすることです。関わらねばならぬ人間は、本当はいないものです。親であれ兄弟姉妹であれ、です。
 
「そんなことはない」という声も聞こえてきそうですが、なぜそう言えるのでしょう? もし自分が苦しめている側なら、「そんなことはない」と思うのは、まさに都合を押しつけているから。
 
もし苦しめられている側はそう感じるなら、「執着」があるのかもしれません。そんな(自分を苦しめるような)相手でも、まだ愛されたい、わかってほしい、あきらめきれないという執着が。


ともあれ、この人は間違っていません。すごくよく見えてきています。

自分の感情を大事にすること。

そのうえで技法をもって関わり方に答えを出すことです。


『怒る技法』マガジンハウス

 
2023年8月9日