一人じゃないよ


中日新聞の連載記事を見て、名古屋まで足を運んでくださる人が増えました。

本の前書き(大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ)で伝えたとおり、
 


ほんとうに、よくここまで生きてきたね


という言葉をそのままお伝えしたくなるような日常を生きている方々がたくさんおられます。



そうした人たちとの出会いを、今回の連載はあらためて授けてくれることになりました。

いつも感じることは、この場所・この命にできることは、あまりに限られていて、無力・非力を痛感せざるをえない(痛感することくらいしかできない)こと。

一人一人は、自分の人生を生きるしかなくて、

その事実は、これからもずっと変わらないのだけれど、

それでも、だからこそ、そうした現実の中に、わずかでも新しい希望というか、可能性というか、

少なくとも なにか方法があるかもしれない

という予感だけはあるほうがよくて、また実際に予感して会いに来てくださる人たちが、こうして新しく出てきたことは、

あまりに無力な現実を思い知って、つつしむことくらいしかできないのですが、

それでも、よき変化であり兆候だと思えてきます。


この命は、できることはあまりに限られているけれども、

少なくとも気持ちにおいては、誰も置き去りにはしないように、そう願い続けています。

だから調子に乗ることもないし、欲を張ることもありません。


この命は、自分だけのものではないぞ


というのは、出家した時に約束したことでもあるから。


ちゃんと声を届けていきます。



この世に生きる多くの人たちのことを想いながら、

この命の使い方についても慎重に考えていきたいと思っています。



これまでも。
これからも。





2024年6月


出家の日々(記録)

6月17日(月) 
『怒る技法』オーディオブック収録完了。

朗読の時は、ポッドキャスト(おしゃべり)のほうが簡単だと思い、ポッドキャストの時は、朗読のほうがやりやすいと感じる。

結局は何をやっても、難しいということか。だが難しいと思えるくらいのほうが、頭も使うし、努力もするし、めざすべきレベルが上にあるということだから、創造にとっては好ましいということなのだろう。

自分にとっては、達成感や満足が毎回残らないので、苦行としての色合いは消えないのだが。これが自分の業というものか。

お経も収録したいと申し出たが、あっさり却下されてしまった(^△^;)。


6月18日(火)
月に一度、名古屋へ。新しくオープンしたビルは、ホテル並みに豪勢で、お客さんも一杯。だが講師控室(コーヒーを飲めたし着替えもできた)がなくなってしまった。

こんなに立派な施設の大教室(上限80名)を使って、一人3000円弱の講座を開くのだから、スクールも経営が大変だ。なんとか貢献し続けねばと思う。

中日新聞の連載を読んで受講したという人たちも。自分で文章も絵も手がけることができるというのは、奇跡みたいなものだ。かつて中日新聞論説委員の人が書き下ろした『無 本当の強さとは何か』という本に蒙を啓かれたことがあったが、その中日新聞にささやかながら恩返しさせていただいている気分にもなる。


6月19日(水)
看護学校の講義。4月から始めて3か月目。医療倫理の事例にグループで取り組んでもらう。今回は腰痛、アデノイド肥大、気管挿管事例。かなり専門的な内容だが、人間としてどう向き合うかを、まだ知識がない一年生の段階で考えてもらう。たぶん日本でここだけのオリジナル。

グループの結論が出たら手が挙がるので見に行く。このスタイルは、頭を使うこと、互いの距離が近くなるだろうこと、講師と学生たちの距離を縮めることができる点で利点が多い。

1年生(平均20歳未満)は愛おしいが、一人一人を知る前に講義が終わってしまう。そこが毎年残念なところ。


6月21日(金)
1日空いたので、入江泰吉写真美術館へ。かつて父だった人が、奈良の古い景色を写した写真集を集めていた記憶がある。昭和初期のセピアの写真。奈良の街並みと人々の姿を覚えている。自分にとっても原風景みたいなものになっている。

景色も人もうつろいゆく。未来になれば世界の色がいっそうあざやかになるとは限らない。古色をそのまま残したほうが幸せを減らさずにすむ部分がある。奈良はまだたくさんの古色を残している土地だ。その古色の中に生きて、古色の中の鮮やかな色をよみがえらせて後世に遺す。

そうした営みをした先人たち――写真家、画家、作家たちのことを、ひとまず勉強しようと思う。そのうえで自分なりの古色の遺し方を探りたい。

この美術館には、古今東西にわたる膨大な写真集がある。どの本も圧倒的だ。圧倒的な写実と、圧倒的な量の時間が詰まっている。

写真とは本当に不思議なもので、動かない平面でしかないのだが、いろんな色や表情や動きや時間が閉じ込められている。見つめて、ほんの少し想像力を働かせると、表情が動き出し、乗り物が走り出し、世界が色づいて、たちまち三次元が立ち現れる。

実際にかつては、本当に動き、色づいていた世界がある。その世界に写真を通してどこまで入り込めるか、いわば時空を超えて旅できるかは、見る者の想像力や感性にかかっている。

臨時展示場で写真家のNさんと立ち話。今はレタッチで色を出せるとか。たしかにそうだろう。しかも合成すれば、どんな景色も作り出せる。写真を決定づけるものは何か。ひとつは素材。そして構図。色は、効果を持つ限りで意味を持つ。精緻もアバウトも、伝わるかどうかという一点においては、どちらが正解とは言いきれない。

結局は、何を伝えたいかという写す側の感性で決まる気はする。うまいか下手かではなく、何を伝えたいか、どのように伝えるか。結局は伝わるか。絵も文も同じだ。最後に決めるのは、創る者がその心に見ているもの。心そのものだ。


6月22日(土)
大阪で保健師さん向けの講演会。みんな看護師資格も持っておられるという。前半は業の話。後半は反応しない練習。動じないためには「足の裏が大事」(笑)。

業(ごう)は、今後必ず注目されるであろう最前線のテーマ。みなさん熱心に聞いてくださった印象。

話は難しくしても、あまり意味はない。むしろ応援の思いを最大限伝えることをめざしたほうがいい。今回言いそびれたが、保健師さんたちは、コロナ騒動中相当な負担を強いられたはずなのだ。だが、人を救いたくて日々奔走されている。相手は子供から高齢者まで。社会派のお坊さんに近いといっても遠くはあるまい。


100分はあっという間で、参加者の皆さんも同じ感想だったようだが、今後あらためて再会できればと伝える。「以上、足の裏とともにお届けいたしました!」(笑)。

どの場所においても同じだが、とにかく最後は明るくエールを送って締めようと思う。今回もそれができたので、自分としては満足・納得。また会えたらと願う。


新しくなった名古屋・栄中日文化センター

来年は夜間にお勤め帰りの人向けの生き方講座を開こうと計画中

 

 

 




夫の立ち位置~結婚後のファースト・ルール


今回は、家庭問題のあるある(切実にしてとても多い悩み)を取り上げます。耳が痛い人もいるかもしれませんが、大事なことなので伝えることにします:


ときおり来る相談の中に、「妻が自分の母(妻にとっての義母・姑)との関係で悩んでいる、避けようとしている、そんな二人の間で板挟みになっている自分(夫であり息子)がつらい、どうしたらよいのでしょう?」という男性からの悩みがあります。

こうした場合に最も多いのが、夫であり息子にあたる自分の姿が見えていないこと。

最も多く、また罪深いケースは、自分の立場を固めていない、責任を取っていない、あくまで妻の悩みであって、妻がおかしい、自分は母(妻にとっての義母)とうまくやっている・・・と思っているらしい場合です。


こうした男性は、母親との距離が近い。近いどころか同じ敷地内・二世帯住宅に暮らしていることもある。男性自身にとっては、それが心地いい。妻にもいい顔、母にもいい顔ができる、そういう状況に潜む根の深い問題にまるで気づかない・・ということが、よくあります。


厳密にルールを決めてください。

母と息子の距離が近くてよいのは、結婚するまでです。

結婚したなら、自分と妻との関係が最重要であり、その関係だけでいったん完結していなければなりません。

自分の母親、妻にとっての義母・姑というのは、自分にとって以上に、妻にとって苦痛にならない距離に、つまりは自分たちの関係の外に置かねばなりません。

それが結婚後のファーストルールです。子供が生まれてからも同じです。


息子と母親との距離が近いと、妻には苦しみが生じやすいのです。そもそも他人だから。

仲の良い嫁・姑関係もあるけれども、そうではない関係もよくあります。

まして、同じ敷地や二世帯住居で暮らすことになれば、妻=嫁としては、常時アウェイの環境に置かれることになります。

それが、妻によっては(すべての妻にとってそうとはいえないけれども、少なくない確率でそうなりがち)苦痛の始まりになるということです。


妻と母との関係に悩む男性というのは、自分は安全地帯にいるから、こうした状況を理解できないことが多いのです。

自分は母親が与える蜜を吸ってきて、甘えることができて、結婚して、夫になった今も、なおその快適さは手放そうとしない。もしそういう選択を無自覚の内にしているとしたら、ルール違反です。

結婚したら、妻が第一。自分の母親はあくまで外様(とざま)です。それくらいの覚悟を決めないと。いつまでも母を第一に考える子供であってはいけないのです。


こうした男性は、自分で気づかないうちに、母親に優しく、妻に厳しく、上から目線になってしまっているものです。

妻が自分の母親とうまくいっていない。それが悲しい、嘆かわしい、腹立たしい、情けない・・などと語ります。

第三者から見れば、なんとも○○○します。あなたは何者?と思えるくらいに、妻に厳しく、冷たい。

「そんなつもりはありません」と、こうした状況に置かれた男性(夫であり息子)は語ります。

そのあたりが、甘ちゃんなのです。そもそもルールを犯して、妻と自分と子供たちだけで完結すべき環境に、自分の親を引き込んで(受け入れて)しまっているのだから。

こうしたルール違反を犯している時点で、そもそも間違っているのです。

たとえるなら、防犯の大事さはわかっているのに、家に鍵をかけないようなもの。たまたま盗まれない、誰も侵入しない状況が続いても、いつ入り込まれるかわからない危うさは続いている。

その危険を察知しているのは、妻かもしれないということです。

夫にあたる男性がこうした問題を自覚するかしないかは別として、危うい状況を作ってしまっていることは同じです。


母親とも妻とも仲良くやっていこう・・・なんて、虫の良すぎる言い分は控えることです。

妻が、姑が嫌いというなら、姑をかばってはいけません。妻の気持ちをそのまま受け止めること。

妻が、義母と関わりたくないというなら、関わらせてはいけません。「外様」に会いに行くのは、自分だけにしてください。

妻が、義父母との同居が嫌だというなら(もはや耐えられないとはっきり言うなら)、妻の気持ちを第一に考えて、現実に動いて見せてください。


どっちにもいい顔を見せようなどという(それも妻にとっては虫唾が走る、あるいは自分の味方でいてくれない夫への不信や嫌悪につながっていきかねません)幼い魂胆は封印することです。

結婚したら、夫は妻の味方であること。それが最初のルールです。


妻と義母、嫁と姑の間に起こる問題というのは、実は解決は簡単なものです。結婚後のルールを守るだけ。

事態をこじらせているのは、夫であり息子である自分。

妻と母の両方にいい顔をしようという立場の固まらない、ずるいといえばずるい自分のあり方が問題であることが多いのです。


立場を固めて、妻第一というファーストルールを守ること。

それが夫になった男が取るべき責任というものです。

まずはあなたが大人になってください、というべきなのかもしれません。


※上記は、あくまで一般論として。しかし妻第一というルールは絶対と思ったほうがよいです。結婚というのは、そもそもそういうもの。

他人だった相手と新たな人生を作り、親という存在を外に置くことを意味します。



2024年6月


『怒る技法』オーディオブック始動

東京は快晴。今年の夏も暑くなりそうです。


今、『怒る技法』(マガジンハウス2023)のオーディオブックの収録中です。

今回も著者本人が朗読しています。

声優さんの朗読と違う点は、伝え方の強弱や工夫をつけられるところでしょうか。声優さんは、他人(著者)の文章だから正確に読み上げることしかできないのだけれど、著者本人が読む場合は、内容がわかっているから、内容に即した朗読の仕方を選べます。

テンポよく進めるところもあれば、じっくり真面目に語るところもあり。文中のセリフは感情をこめて朗読することができます。

ディレクターさんいわく、他のオーディオブックとは違う新しいジャンル。

著者が直接読み上げる作品は、かなりレアものだとか。


著者朗読版は、『反応しない練習』の最初のオーディオブック作成時に、特典として著者メッセージを収録したことがきっかけ。それまで前例がなく、関係スタッフも配信元も慎重だったのだけど、やってみると、意外といいかも?という話になって、『反応しない練習』の著者朗読版が実現。

その後『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』と進み、

ポッドキャストも第3弾まで実現することができました(いずれもAmazonオーディブル)。

奇跡みたいなもの。本当にありがたく感じています。




朗読は、やってみると、すごく奥が深い世界です。


文章の区切りとつなぎ、抑揚、強弱、間の取り方・・。音(声)の出し方も、文章を書くのと同じように、さまざまなバリエーションがあります。末尾の「た」「す」をどう発音するか・・「うまく声を出せた」と思うところもあり、「ちょっと弱かったか」と思うところもあり(そういうときはリテイク)。

聴く人はおそらくまったく気づかないかもしれないレベルでの音(声)選びが続きます。全神経を使うので、かなり疲れます。

今回は、競馬中継や、文末に小声で「シャキーン!」と語っていたりと、まだ本を読んでいない人にとっては、なんのことやらまるでわからない部分も入っているのですが、このあたりも何度かリテイクして確定。


読み返して感じるのは、この作品は、今の時代に必要な本だということ。今の世の中を生き抜くうえで必要な技術が詰まっています。一年ぶりに読み返して、一層そう感じます。

『反応しない練習』は、自分の内側を変えるもの。でも、外の現実は、つねに他者との関わりだから、「関わる技」が絶対に必要になります。その部分を掘り起こしたのが、『怒る技法』。

怒ってはいけないなんて、とんでもない。ときには怒って見せなければ、本気で怒らなければいけないこともあります。

ただそれは、感情だけで怒るのではなく、技を使って怒るということ。正しく怒ってみせることが大事。

この技を知っているかどうか、使えるか使えないかで、人生はまったく変わってきます。正しい怒り方を知らないと、怒りの出し方に失敗し、ストレスを溜め込み、疲弊して動けなくなってしまいかねません。

他方、正しい怒り方を知る人は、現実に直面した時に、どう動けばいいかをすぐ言語化できるし、その方針に沿って動けるので、ストレスが増えません。

それでも生じるストレスは、『反応しない練習』でリセットできます。結果的に快適な自分を維持できる。

怒る技法で現実に立ち向かい、反応しない練習でストレスを即解消--まさに最強の心が手に入ります。

著者の脱線トークつき。公開までもうしばらくお待ちください。