看護教育というもの

ある看護専門学校にて:

○○先生へ

今回1年生クラスの「劣化」がすごく気になりました。入学当時よりは成長していなければいけないのに、最初の3か月で退化・劣化した。

気分で動く・サボる → それでも叱られない・大丈夫だと考えてしまう → そういう生徒の姿を見て、他の生徒も力を抜くようになる → 真面目な学生が負担を背負う・損したように感じる → 自覚ある生徒とそうでない生徒の間に温度差・分断が生まれる

そうした事態が生じていた可能性があります。

もともと願書に書いてきた内容が、彼らの最低レベルであるはず。職業専門学校に入ったら、その時の自分以上にレベルアップするのが当然。退化・劣化するほうがおかしいのです。

スマホ&タブレットの負の影響も、年々増えていく危険はあります。(今回のレポートで)生活の乱れに言及している学生も多かったけれど、おそらく無駄な時間を過ごし過ぎている。だから学校に来ても集中できない・眠くなってしまう。中学生の不登校問題と同じです。

こうしたことは、しかし第一に、学校の方針・雰囲気次第で、ある程度コントロールできる問題でもあります。まずは伝えること。言えば伝わる可能性が生まれる。伝えないのは大人の怠慢・弱気ゆえ。

「絶対ダメ」という最低ライン=基準を学校側が毅然と示せなければ、手を抜く学生たちの態度がクラス全体に負の影響を与えます。

そろそろある程度の規範(この一線を下回ったら絶対にダメという基準)を示さないと。先生たる者、真剣に怒れないと。

基準をクリアして初めて楽しむことが許されるのです。看護師というプロを育てる場所は、そういうところだと思います。



と同時に、入学当初にあったはずのヤル気・本気・緊張感が、少なくない学生の中で「低下」したことは、学校・教員の側も深刻に反省する必要があるかと思います。

この3か月、私も含めて先生たちは、1年生の当初のヤル気や期待に十分に応える関わり方をしてきたのか? 

それとも「この程度か、だったら気を抜いていいや」と思わせてしまう部分があったのか?

外部講師にすぎない私がなぜこれほどに真剣に受け止めているのだろう?と考えてみた(考えている)のですが、

私の根底には、看護とは尊い仕事であり、本人次第でさまざまな可能性が開ける価値ある職業であるという信頼があります。

そもそも仕事というのは、生涯を賭けて挑む価値があるもの。特に人の命・健康・人生の一部を預かり、支える使命を持つ看護とは、そういうものだと考えています。

だからこそ、つまらぬところで止まってほしくはないし、途中で投げ出してほしくない。せっかく看護師めざして入学してきたのだから、最後まで歩き続けて、看護師として羽ばたいてもらいたい。

看護師になることができれば、見える景色が変わる。その後の可能性も増える。自分のやりがい(もっと言えば生きる意味)になるだけでなく、誰かにとっての救いや希望にもなりうる。

それだけ価値のある仕事だという前提があります。

だからこそ入学を志願した時の動機であり、かつ学校との約束でもある、最低限の意欲は保ち続けてもらいたいし、保つことが彼らにとっての当たり前(なぜなら自分で選んだことなのだから)だと考えます。

ところが、現実には、わずか3か月でヤル気を失う、途中退学する生徒が出てきている。それはなぜか? 何が原因か?ということを考えざるをえないのです。

学生たちを責める・叱るだけなら、フェアじゃない。先生・学校の側にもなんらかの原因・責任があるかもしれないのです。もちろん講師を務める私にも。

原因は? 生徒たちの中にモチベーションが続かなかった、ヤル気が薄れた学生たちが出てきた理由は何なのか?

ひとつ思いついたことは、看護学校の先生たちは、自分の仕事への誇りや面白さを伝えようとしているか?という点です。「こんなに面白い、やりがいがある、だからあなたも頑張って看護師になってほしい」という湧き上がるような願い・情熱を根底に持っているかどうか。

いつの間にか、先生たち自身が、看護や医学というものを、形や惰性だけのつまらないものだと思っていないか。「教えなくてはいけないから教える」程度の冷めた思いを持ってしまっていないか。

教師という仕事は、伝えたいとおのずと思う中身が見えていなければいけないと思います(理想論かもしれませんが、教育に携わる人すべてが備えているべき職業倫理でもあります)。

やりがい、面白さ、深さ、可能性のようなもの。看護はこんなに尊くてすごい仕事なんだ、という自負・誇りのようなもの。


業界に長くいる人ほど、逆に見えない・忘れてしまう可能性はあります。しかし伝えたい・伝えなければと思うことが内側から湧いてくるというのが、先生たちになくてはならないし、あることが当たり前であろうと思います。

看護教育を担う大人たちが、看護という仕事の価値を日々実感していないなら、漠然とした日々の中にいる、まさにこれから花が開くかどうかを待つしかない学生たちに響くはずもない。

しかし、響くものがなければならぬのですよ。理想論だとしても。

「まだ未来はわからないけれど、看護師をめざすことに間違いはない、きっと価値のある仕事ができるんだ(だから頑張らなきゃ)」と思わせるものがないと。


看護に大人たちが誇りと夢を見ないと

たかが看護と思わせては絶対にいけないのです



2024年8月下旬

夏の日の独り言 8月15日


8月15日は、あの戦争が終わった日。


だがあの戦争を覚えている人は、徐々に確実に少なくなっている。

心なしか、戦争を振り返る声(報道や行事)も減りつつある印象もある。

あの戦争を振り返る時はたいてい、戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦争が起こらないようにという願いを確認するものではあるけれど、


もっと正確に言えば、戦争を繰り返さないためには、「思考する」ことを育てなければいけないのだろうと思えてくる。


現実に何が起きているのか。

それがどんな結果をもたらしうるのか。何が原因か。

どんな方法がありうるか。


こうしたことを考え抜いて言語化しなければ、問題が起きても気づかず、気づいても方法を思いつかず、

よくて現状維持、悪ければ現状悪化、さらには心が持つ弱さ・醜さ・狡猾さに負けて、個人の人生に、そして世界に、いっそう苦しみを増やしてしまう事態につながりかねない。


共通するのは「無思考」だ。問題を見ず、原因を考えず、方法を考えず、望ましい未来を思い描かず、苦しみに満ちた未来を想像しない。


あの戦争においては、本当に戦争を始める必要があったのか、いつ終わらせるのかを、冷静に考えた人間は少なかった。当時の人々の多くは(すべてとは言わないが)、正しい戦争をしていたと信じていたし、終わらせようとも考えていなかった。

(※日清・日露戦争当時から、日本人は戦争することを願っていたのだ。メディアも市井の人々も。日本人は戦争を好んだ。そのことは否定できない事実であったように見える)。

 

無思考こそが、あの戦争の原因だった。


今の時代はどうかといえば、やはり同じだ。おそらく本質は変わっていない。

気候変動どころか、沸騰化しつつある大気の原因を考えない。打開する方法を真剣に模索しない。なんとなくこのままでも経済活動は続けられると信じている。無思考。


政治システムが変わらない。腐敗と停滞は長すぎるほど続いているのに、変わらなければという声が実を結ばない。変わるためにはどんな制度(アイデアと法律案)がありうるかを議論せねばならないが、真剣に考える人間は、政治家にも(与党にも野党にも)、かつては立案の多くを担っていた行政官僚にも、学問・思想の世界にも、いない。無思考。

(※ここで想定しているのは、法案の前段階になりうる草案レベルのアイデアだ。すぐにでも国会で議論できるくらいに洗練された制度案。それを考え、実際に書ける職業人。)


教育が変わらない。学校の現場は限界を超えているし、知的創造力を育てる教育プログラムはいくらでも議論し変えていいのに、いまだに国が管理し、教育のすべてを統制しようとし続けている。無思考。


個人が生き方を考えようとしない。心の魔(悪意)に流されて、他人を傷つける言葉を平然と語り、自己顕示と自己主張にエネルギーを費やす一方で、どうやら幸せは増えていない。無思考。

命と健康を守るはずの医療が、営利か別の思惑があるのか、人々に過剰な負担と未知の危険を強いる、そんな事態に無神経になった。無思考。


マスメディアは公平さと分析力を失った。報道本来の意味を考えず、表面的な話題と恣意的に選択(忖度)した情報だけを流すようになった。主観的印象に過ぎないが、そうだとすれば、これも無思考だ。


最大の憂慮すべき問題は、そもそも思考するとはどういうことかが、わからなくなったことかもしれない。学者・知識人・評論家・専門家・文化人と称される<知>を担う者たちが、個人的な意見や感想しか語らなくなった。


現実に何が起きているか? 事実か否か? 客観的なデータは? どう分析すればいいか? どんな解釈がありうるか? そもそもの目的は? どんな方法がありうるか? どんな結果・効果が考えられるか? どんな基準で選択すべきか? 人は何を大切にすればいいか? いかに生きることが正解なのか?


すべては言語化できるもので、言語化することが<知>の役割であるはずだが、<知>を明瞭な言葉で示してくれる人間の数が減った。

政治・経済の機能不全、メディアの偏向、SNSを通じた自己顕示と自己主張の増殖、価値観の閉塞、<知>の衰退・・・

同時進行中であろう原因は複雑多岐にわたるが、共通するのは「無思考」である。そんな気がする。


無思考が続く限り、人間は過ちを繰り返す。

なぜなら心は、過ちの原因である貪欲と傲慢と妄想と怒りに満ちているものだから。


あの戦争を思い起こす日とは、無思考の罠に気づくべき日であるような気がする。

そもそも思考とはどういうものか。思考とは何だったか。それを思い起こす日にせねばと思える。


せめてこの場所は、思考とはどういうものかを思い出し、思考するとはどういうことかを改めて学ぶ場所であろうと考える。


8月15日は、思考の日。


それがこの場所における受け止め方。独り言。


※著作・講座・講演・看護専門学校での講義ほか、すべての場所において「思考」し続けます。その中身は、それぞれの場所においてのみ(思考を求める人との間でのみ)伝えていきます。慈悲にもとづく思考--それがこの場所の役割です。


2024年8月15日




全国行脚2024 in 博多 大人のための学習会

草薙龍瞬の日本全国行脚2024 in 博多  

これからの生き方を考える

仕事・人生・子育てetc. 大人のための学習会 


草薙龍瞬が博多を訪問します:

<日時> 2024年8月25日(日)午後1時から4時30分

<内容> これからの生き方を考える ~ 仕事・人生・子育て(大人のための学習会)

仕事、子育て、これからの生き方など、さまざまなテーマについて、僧侶・草薙龍瞬と考える学習会。参加者の質問・課題をもとに、仏教をフル活用して答えを見つけ出します。

学習会終了後に個別面談の時間あり(無料:希望者は当日お声がけください)。
 

<参加費> 2500円 

※ご事情ある方は無料招待枠がございますのでご遠慮なくご連絡ください。
 

<参加無料>

①家族同伴(夫婦・親子に当たる2人め) 

②学生(大学生・中高生) 

③児童(親が同伴する幼児・小学生(※無料の幼児室あり:事前に興道の里までご予約ください)

<会場> 博多駅近くの公共施設 

※ご連絡いただいた方にメールでご案内します。
 

<ご予約>

参加希望者は ➀お名前(実名) ②臨時連絡先(携帯番号)  ③当日聞きたいこと(任意) 
→ 上記を koudounosato@gmail.com までご連絡ください。折り返し当日の案内をお送りします。 


※夫婦・親子・友人など、複数での参加を希望の場合は、簡単にご関係をお知らせください。

※内容に不備がある場合は返信差し上げておりませんので、ご了承ください。私事性を保護する観点から、その場合のご連絡内容は消去しています。


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草薙龍瞬 僧侶・作家

著書に日常にやすらぎを取り戻す『怒る技法』マガジンハウス 家の中の悩みには『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』筑摩書房 人生を変える実践50『これも修行のうち。』KADOKAWA ブッダの考え方が学べるベストセラー『反応しない練習』KADOKAWA。アマゾン著者朗読版『これも修行のうち。』  『こころを洗う技術』SBクリエイティブ『自分を許せば、ラクになる。』宝島社ほか

 



 

 

大人たちにできること

2024年8月11日(日)

これからの生き方・働き方を考える~大人のための勉強会 東京


(あるお父さんへの返信から)

 おたよりありがとうございます。いろんなテーマを含んだ内容で、思考の枝葉が広がりました。

実用性重視の高校がもっと増えたら、たしかに社会の可能性も広がるだろうと思います。特に私学や通信制などになるのでしょうか、教育方針に個性を出せるのは。

意欲と適正を大事にして、できるかぎり早期に体験、学習、自立できるようにして。

実用レベルに到達すれば、その時点で就職・起業できるようにするとか。

それで収入・待遇・立場が約束されるなら、形骸化した大学なんか行かなくていいと思う人が増えるかも。




その一方で、「ステイタスとしての大学」が堅固なエスタブリッシュメントとして存在し続けるだろうとも、思わなくもなく。

というのも、個人的な感想になってしまいますが、最近、〇大の教育環境について、ちらりとのぞく機会があったのです。

その時に感じたのは、やっぱり凄まじい学歴志向。学生たちは、「自分たちは優等生、選び抜かれた秀才」みたいな自意識をむき出しにしていて(若いからそう見えるのかもしれないし、承認欲全盛の世相の影響もあるかもしれないけれど)、

しかも学長・教授陣が、輪をかけて「この場所は特別」みたいな高踏的雰囲気を醸し出していて。

一番変わっていなかったのは、大学であり、教授だったのです。

大学の内部にいる彼らこそが、大学も、教育も、社会も変わらなくていい、と思い込んでいるように見えたのでした。


彼らの意識が変わらないということは、入試制度も変わらないということです。入試科目・選抜方法・・。

大学入試が変わらなければ、それを目標に指導する学校の先生の意識や、中学・高校の科目編成・内容、受験産業も変わらないでしょう。

現時点では、大学、高校、中学、塾に予備校、子供の受験に熱を上げる大人たちは、有名大学を頂点とするヒエラルキーの構成員(サポーター)であり、一蓮托生なのだと思わなくもありません。

そして教育内容の全体に枷(かせ)をはめている文科省も。

時代は変わっているし、もっと変わっていいし、変わるべきなのだけど、変えたくない大人たちが、この分野でも堅固なサークル(共同体)を作っているのだと思います。



エスタブリッシュメントは自己変革ができないから、社会を変えていくのは、先進的な一部の教育の場かもしれないとは思います。

そういう場所に頑張ってもらって、社会に通用する人材として、大学を無意味化するくらいに活躍してもらって、「大学に行くより、こういうルートのほうが豊かになれる」という価値観が社会に広がってくれれば、

そのぶん社会の活気や可能性は増える気もします。あくまで理想論であって、現実はかなり難しいのかもしれないけれど。


変わらぬ場所・人間は、変わらない・・百年経っても、千年が過ぎても。

だからこそ、自分にできる範囲で変えていくことが基本になりそうです。


親(お父さん・お母さん)が意識を変える。

その姿に感化・影響されて、子供が変わる。

そして、子供が自分で選んだ価値観のもとに人生をまっとうする。


その一直線を伸ばしていくことが、志ある親たちの務めのように思います。


ちなみにこの場所が計画しているのは、小学高学年向けの学びです。

この年頃は、人生の原点を作る大事な時期なので。この時期に本当の学びを体験してもらいたい。できあがった教育制度に縛りつけられる前が勝負・・そんな思いで計画中です。


大人・先生の影響力は大きいものです。

子供と距離が近い大人は、「世の中を変える」力を、実は持っているのですよ。

志ある大人、特にお父さん・お母さんは、子供たちと関わる活動を始めてはどうでしょうか。活動の中味はなんでもよいので。

とにかく関わって、聞いて、伝えることです。

教育の原点。社会を変えるための間違いない方法です。

 

 

 2024年8月初旬