夏の日の独り言 8月15日


8月15日は、あの戦争が終わった日。


だがあの戦争を覚えている人は、徐々に確実に少なくなっている。

心なしか、戦争を振り返る声(報道や行事)も減りつつある印象もある。

あの戦争を振り返る時はたいてい、戦争の悲惨さを思い起こし、二度と戦争が起こらないようにという願いを確認するものではあるけれど、


もっと正確に言えば、戦争を繰り返さないためには、「思考する」ことを育てなければいけないのだろうと思えてくる。


現実に何が起きているのか。

それがどんな結果をもたらしうるのか。何が原因か。

どんな方法がありうるか。


こうしたことを考え抜いて言語化しなければ、問題が起きても気づかず、気づいても方法を思いつかず、

よくて現状維持、悪ければ現状悪化、さらには心が持つ弱さ・醜さ・狡猾さに負けて、個人の人生に、そして世界に、いっそう苦しみを増やしてしまう事態につながりかねない。


共通するのは「無思考」だ。問題を見ず、原因を考えず、方法を考えず、望ましい未来を思い描かず、苦しみに満ちた未来を想像しない。


あの戦争においては、本当に戦争を始める必要があったのか、いつ終わらせるのかを、冷静に考えた人間は少なかった。当時の人々の多くは(すべてとは言わないが)、正しい戦争をしていたと信じていたし、終わらせようとも考えていなかった。

(※日清・日露戦争当時から、日本人は戦争することを願っていたのだ。メディアも市井の人々も。日本人は戦争を好んだ。そのことは否定できない事実であったように見える)。

 

無思考こそが、あの戦争の原因だった。


今の時代はどうかといえば、やはり同じだ。おそらく本質は変わっていない。

気候変動どころか、沸騰化しつつある大気の原因を考えない。打開する方法を真剣に模索しない。なんとなくこのままでも経済活動は続けられると信じている。無思考。


政治システムが変わらない。腐敗と停滞は長すぎるほど続いているのに、変わらなければという声が実を結ばない。変わるためにはどんな制度(アイデアと法律案)がありうるかを議論せねばならないが、真剣に考える人間は、政治家にも(与党にも野党にも)、かつては立案の多くを担っていた行政官僚にも、学問・思想の世界にも、いない。無思考。

(※ここで想定しているのは、法案の前段階になりうる草案レベルのアイデアだ。すぐにでも国会で議論できるくらいに洗練された制度案。それを考え、実際に書ける職業人。)


教育が変わらない。学校の現場は限界を超えているし、知的創造力を育てる教育プログラムはいくらでも議論し変えていいのに、いまだに国が管理し、教育のすべてを統制しようとし続けている。無思考。


個人が生き方を考えようとしない。心の魔(悪意)に流されて、他人を傷つける言葉を平然と語り、自己顕示と自己主張にエネルギーを費やす一方で、どうやら幸せは増えていない。無思考。

命と健康を守るはずの医療が、営利か別の思惑があるのか、人々に過剰な負担と未知の危険を強いる、そんな事態に無神経になった。無思考。


マスメディアは公平さと分析力を失った。報道本来の意味を考えず、表面的な話題と恣意的に選択(忖度)した情報だけを流すようになった。主観的印象に過ぎないが、そうだとすれば、これも無思考だ。


最大の憂慮すべき問題は、そもそも思考するとはどういうことかが、わからなくなったことかもしれない。学者・知識人・評論家・専門家・文化人と称される<知>を担う者たちが、個人的な意見や感想しか語らなくなった。


現実に何が起きているか? 事実か否か? 客観的なデータは? どう分析すればいいか? どんな解釈がありうるか? そもそもの目的は? どんな方法がありうるか? どんな結果・効果が考えられるか? どんな基準で選択すべきか? 人は何を大切にすればいいか? いかに生きることが正解なのか?


すべては言語化できるもので、言語化することが<知>の役割であるはずだが、<知>を明瞭な言葉で示してくれる人間の数が減った。

政治・経済の機能不全、メディアの偏向、SNSを通じた自己顕示と自己主張の増殖、価値観の閉塞、<知>の衰退・・・

同時進行中であろう原因は複雑多岐にわたるが、共通するのは「無思考」である。そんな気がする。


無思考が続く限り、人間は過ちを繰り返す。

なぜなら心は、過ちの原因である貪欲と傲慢と妄想と怒りに満ちているものだから。


あの戦争を思い起こす日とは、無思考の罠に気づくべき日であるような気がする。

そもそも思考とはどういうものか。思考とは何だったか。それを思い起こす日にせねばと思える。


せめてこの場所は、思考とはどういうものかを思い出し、思考するとはどういうことかを改めて学ぶ場所であろうと考える。


8月15日は、思考の日。


それがこの場所における受け止め方。独り言。


※著作・講座・講演・看護専門学校での講義ほか、すべての場所において「思考」し続けます。その中身は、それぞれの場所においてのみ(思考を求める人との間でのみ)伝えていきます。慈悲にもとづく思考--それがこの場所の役割です。


2024年8月15日