12月宮城で教育講演会(参加受付中)

おしらせ
 
きたる18日(木)に宮城県で教育をめぐる講演会を開催します。

一般の方も参加できますので、ご希望の方は、
①興道の里 koudounosato@gmail.com  
または 
②添付資料内のQRコード 
でご連絡ください。


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テーマ
もし今の時代に高校生だったら? 
未来のために頑張りたいこれだけのこと


会場 栗原文化会館・大研修室
〒987-2215 宮城県栗原市築館高田2丁目1−10

内容
SNS・ゲーム依存や深刻な学力低下など十代の子供をめぐる問題がクローズアップされています。親として教師として大人として、どう向き合えばいいかを考える講演会です。

・中高校生の保護者・教職員に伝えたいこと。
・現代の高校生を取り巻く状況に対して、どのように対処すればいいか。
・不登校・引きこもり・自死・薬物・ネット依存・ブラックバイトなどの諸問題への対処について ほか。

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北九州小倉 松本清張と作家たち


翌朝は歩いて駅まで。夜とは表情が一変するさわやかな朝の風情も楽しい。

西小倉駅で下車。今日のお目当ては、松本清張記念館。館の入り口には、清張先生の全作品の展示が。長短編あわせて千点を越えるとか。
 

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いや、すごい数。ちなみに私の本を並べたとしたら、すみっこの小さな一角に収まってしまう(※ここだけ撮影可能スポットでしたw)。


清張の作品は、小説、ノンフィクション、事件簿、評伝、古代史、現代史と幅広い。この人の場合は、人間の醜悪や矛盾を、ニュートラルな目で観察し、洞察して、それを一つの物語として再構築できる。

私なら、人間の性(さが)を直視する前に虚しさを覚えて目をそらしてしまう。人の闇を暴いたところで、人間は変わらないし救われない、と結論を急いでしまうのだ。

清張は人間という種を知り尽くしたかったのだろうか。なぜそこまで人間に興味を向けたかは、展示物を追っても今一つ見えてこなかった。幼い頃におそらくごく小さなきっかけがあったのだろうと思うが、はて清張の自伝などには、そのあたりのヒントが語られているのだろうか。

いささか哀しかったのは、これだけの知と表現の巨人がいるにもかかわらず、今の時代に清張の作品を愛する人たちは、年々減り続けているだろうことだ。清張が抉り出そうとした戦後日本や人間の闇というものを、清張の作品を通して丹念にたどろうとしている読者は決して多くないように思うが、どうなのだろう。

清張と同年代でもない人々にとって、戦後の昭和史は、もはや遠い歴史に過ぎなかったりする。今の時代は娯楽はいくらでもあるし、世間は刻々と変わっていくから、清張の作品が顧みられる機会は、今後も着実に減っていくだろう。化石と化して、やがて風化していく。

そのことが哀しく、虚しい――そうか、こうした思いが、過去の私の足を止めたものだったのだ。どうせ何をしても無駄ではないか、という思いだ。


清張は40を過ぎてデビューして、82歳になるまで人間を抉りぬく営みを続けた。鬼神とも喩えうる熱量。

原動力は本人いわく「疑い」であり「底辺から見上げること」だそうだ。出家のひねくれ根性とも似たところはあるかもしれない。

杉並・高井戸に一軒家を構えて、膨大な資料を所蔵していた。その書斎の一部が復元されていたが、途方もない蔵書量。

自分と同等の熱量を編集者にも求めたとか。編集者としては戦々恐々だったろうが、稀代の知の巨人とまみえることができる僥倖も感じていたことに間違いない。


清張の人生の前半40年にわたる貧困と下積み時代は、本人にとっては「濁った暗い半生」だったという。その暗い蓄積があったからこそ、後半生の鬼のような執筆活動が可能になった。自身が体験した混沌を言葉によって濾過していったのだ。

なんとなくわかる気もしなくはない。みずからが体験した混沌や葛藤や矛盾や苦悩というのは、言葉を通して外に出すことで、浄化されていくのである。過去が心の外に排出され、過去の自分が客観的な他者になっていく。心がとらわれなくなる。書くことで、人生全体にわたるカタルシスを得るのである(『ブッダを探して』を通して、微小な規模で自分も体験している)。

いや、凄まじい人生。持て余すほどの熱量を調査と思索と執筆に全力で注ぎこんだからこその巨人ぶり。このあたりは司馬遼太郎や大宅壮一にも通じる。

彼らのような創作の巨人は、もう出てこないかもしれない。



北九州市立文学館にも寄ってみた。この土地出身の作家を紹介展示しているのだが、その数がすごい。

個人的に興味を引かれたのは、自作の紙芝居を子供たちに見せる活動をしていた阿南哲朗という作家。

子供への読み聞かせもいいかもしれない。高校生であれば、硬派の評論文を感情込めて力づよく朗読するのもいいかも。音抜きの外国語が絶対に身につかないように、抽象的な文章も意志がこもった朗読を経ないと、心に入っていかないだろうと思う。語学・国語が苦手なまま終わる人というのは、音を通すという体験を欠いている可能性がある。



北九州という小さな土地に、こんなに多くの作家がいたとは。交易盛んな国際都市であり、多くの異なる他者が入り混じっていた。そこに言葉があれば、これほどの思索と表現が生まれてくる。

この土地で生まれた創作すべてを包摂する文化とでもいうべき現象の全体が、まるごと人間の営みが作り出す芸術作品だ。圧巻の土地。

夜に新門司駅からバスで港へ。フェリーに乗って大阪まで。翌日は奈良入り。


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明石海峡の朝焼け



2025年11月15日





大分築城 暗がりをこよなく愛す


映画の後は大分の街をてくてく歩く。西側に広い森があるらしいが、歩ける距離でもなさそうなので、駅前の芝生広場の陽光を堪能することにした。

世界は平和が一番。それだけで、あとは宝石以上の美しい自然が彩りを与えてくれる。おかしなことをして調和を崩しているのは人間だけ。つくづく病気の生き物だ。

土曜ということで宿が見つからず。唯一残っていた鈍行しか止まらない築城という小さな駅近くの宿を予約。

駅からずいぶん歩かねばならぬため、運よく残っていたらしい。だが降り立ってみると、駅から遠いことがかえって出家ごころに合っていることが判明した。


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大分県・築城(ついき)駅
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駅を出て、誰もいない夜道を歩く ああ幸せ(笑)

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誰もいない踏切 ああ楽しい(笑)


見知らぬ夜道を妖しい恍惚を感じながら歩き続ける。踏切を渡り、国道沿いをひたすら歩いて、はて道を間違えたかと思ったあたりで、ようやく到着。

宿は駅近がよいかと思っていたが、そうではなかった。むしろかなり歩く距離のほうが、途中の景色を楽しめると今回学んだ。

「誰もいないところに自分一人」というシチュエーションに胸が躍るのは、やはりこの身は夜行性ということなのだろう。


夜道を歩きながら感じたが、出家にとって娑婆の世界は、あまりに混沌としている。自我猛々しくておっかなすぎる場所である。だからできることなら、誰にも見つからない場所で、ひっそりこっそりと息を潜めて暮らしたいものである。

出家という種族は、昆虫にたとえればダンゴ虫であり、架空のキャラクターにたとえれば、ヴァンパイアみたいなものかもしれない。いや、決して生き血を吸わねば生きていけないということではなく(笑)、昼間より夜の暗闇を好み、人目がつかないところで半永久的に生きていくところが、なんとなく似ているように思えなくもない。

出家の場合は、肉体的にはもちろん老いるわけだが、精神的にはあまり歳を取らない。そもそも世俗から遊離したところがあるし、妄想しないから老いた気がしない。

ヴァンパイアといえば、真っ先に思い浮かんだのは、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のトム様とブラピ様なのだが、喩えとしてさえ並べるのはあまりに恐れ多いので、

自分のキャラに近い夜行性動物は?と宿で調べてみたら、

フクロウ、タヌキ、キーウィ、ツチブタあたりが出てきた。ツチブタ・・。

そういえば、見た目がレッサーパンダに似ているとかつて言っていた人がいたのを思い出したので調べてみると、

レッサーパンダも夜行性で、明け方・夕方に活発になるらしいが、環境に合わせて昼間に活動することもあるらしい。なるほど近いかもしれない。
 
(自分寄せの話題、すみません) 


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2025年11月15日

この場所はダンゴ虫

 いよいよ2025年も師走に突入。

来年の展望は、改めてお知らせしますが、大まかな方針を言葉にしてみると、

子供たち向けの寺子屋活動を軸にして教育系の本を書いていくとか、

講座をペースメーカーにして仏教研究(原始仏典のアップデート)を進めるとか、

子供向けに漫画で仏教や生き方を解説するとか、

絵本を描くとか?

 

いずれにせよ、生産性をもっと上げないと。しかも新しい方向性に向けて。




そもそもこの場所は、自我や欲望の真逆を突き進もうという変わった場所。

ときおり、オンライン・サロンを開きませんか的な提案や、露出を促すWEBメディアからお声をいただくのですが(とてもありがたいことだと思ってはおりますが=人=)、

そうした場所をのぞいてみると、顔、顔、顔、顔、顔・・・みんな晴れやかでにこやかで、ワタシ頑張ってます(キラキラ☆)感全開で・・

ああ、それだけで気疲れしてしまいます(笑)。


今の時代は、SNSも含めて、どこも「見て見て」意識で作られていて、そうした自意識がお金になっていて。

 

自意識からの自由をめざすこの場所とは、根底にある価値観にズレがあるような気がします。


この場所は日陰が好き。裏道が好き。石の下にうじゃうじゃと身を寄せるダンゴ虫的な世界を好むのです(笑)。


この場所は、時代からも、世間からも遊離した場所。

「入った途端に違う世界を感じる」ような、それくらいの場所をめざしてもよいのかもしれません。


この世にあって、この世を越えた場所、

この世にあって、この世に見つからない場所。

寺子屋の跡地を尋ねて昔を想うように、

「昔はこんな場所もあったのかもしれないね~~」的に遠い目をして想像してもらえるような、

今の時代にあって稀有な、ある意味実在感のない不思議な、人里から遊離したような場所であってくれたらとも思います。

 

 

 2025年12月

 

 

自分で生活を始めたいという人に向けて

社会から長く離れて過ごしていた人から、

社会復帰したいという希望や、実家を離れたいという思いをお寄せいただくことがあります。

状況は人それぞれに違うので、簡単なことは言えないのですが、大まかな方向だけ言葉にしてみると、

社会に出ていくというのは、長く入院していた人が日常に帰っていくことに似ている気がします。

入院していた間に筋力はものすごく衰えているから、リハビリが必要です。

「自分の力でリハビリしよう」とはあまり考えないのではないかな。たいていはその道のプロの人に助けてもらうところから始めると思います。

社会復帰というのも、おそらく似たところがあります。自分の力だけで復帰しようにも、これまでは自分自身が重かったから、社会から離れて過ごしていたことになります。

だから、重たい自分の力で自分を動かそうとしても無理。すべてがしんどく面倒なことに感じて(打たれ弱くて)、結局元に戻ってしまう可能性が高いように思います(入院中のベッドに戻ってしまうようなもの)。

だから最初は、すぐに社会復帰しようと考えないで、自分以外の人たちがいる場所に「なじむ」ことから始めることではないかな。

地元の就労支援センターとか? 独り立ちするための支援をしてくれる行政プログラムをとりあえず体験してみるとか。

多少人に慣れてきたら、軽めの仕事でもいいし、職業訓練を受けてみるのもありかとも思うし。

最初は慣れること、体験してみること・・・何も考えずに。欲張らずに。小さいところから。

どんな体験もプラスにしかならない、とりあえずやってみる、そういう思いから始めるのです。


気をつけたいことは、最初が一番おっくうで、面倒で、つらいかもしれません。ただ、だからといって、戻っても、その時に見える景色はもう十分見てきているから、意味がない・・そう思えるかどうか。

もうひとつ気をつけたいことは、持ち前の欲張りが出てきてしまって、「すぐ復帰」「すぐ稼ぐ」「すぐ一人前」「できればもっと上の、ひそかに願っていた理想の自分」になろうとしてしまうこと。

そういう欲(求めすぎる心)に飛びついてしまうと、その欲をもって、目の前の人、場所、そして自分自身に反応してしまって、

不満を感じたり、失望したり、焦ったり、「うまくいかない」と思い込んで、結局元に戻ることを選んで(正当化)してしまいがちになります(理想の壁を自分で大きくしてしまうほど、障害が増えてしまう)。

リハビリは、脚を動かすところから。それができれば立ってみるところから。「ずっと入院して寝たきりだったのだから」と思えるなら、そういうチャレンジにも入っていけます。

社会復帰も同じことじゃないかな。少しずつ。まずは外へ。そして、人へ。外で人と過ごすこと。何かをやってみること。

まずは1日、そして3日、5日。半年くらいかけて、少しずつ。


やってみてほしいなと思います。




2025・12・7


2025年度最終スケジュール(年内の講座予定)

興道の里より

2025年度講座の予定をお知らせします(年内最終)。
 
参加費等の詳細は公式カレンダーでご確認ください。


12月24日にXmas個人相談会を臨時増設しました
 
 
12月16日(火)
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 原始仏教編」年内最終
栄中日文化センター 0120 - 53 - 8164

12月18日
14:00~16:00
宮城講演「今の時代に高校生だったら?~未来のために頑張りたいこれだけのこと」 
宮城・栗原文化会館 入場無料(要予約)
講演終了後に個人相談可
 
参加希望の方は下記QRコードでお申し込みください

 
 
 
 
 
 
※個人相談をご希望の方は、興道の里 koudounosato@gmail.com までご連絡ください。


12月20日(土)
18:00~21:30
年納め坐禅会 夜間の部(年内最終)
東京・神楽坂
※経験者(2回目以降の方)はなるべくこちら20日にご参加ください

12月24日(水)
18:00~22:00
個人相談会(2025年最終)
東京・新宿 
※12月28日が満席となりましたので臨時増設しました

12月25日(木)
岡山訪問(講演および個人相談)
※個人相談をご希望の方は、興道の里までご連絡ください。

12月27日(土)
13:00~16:30
年納め坐禅会 午後の部(年内最終)
東京・神楽坂
※こちら(27日)は初めての方を優先的に受け付けます

12月27日(土)
18:00~21:30
年納め 自己ベストの生き方&働き方を考える(大人のための学習会)
東京・新宿区/オンライン受講可

<内容> 
仕事・家族・生き方を考える大人のための勉強会。事前に寄せられたテーマ(課題・質問・悩み)を仏教の智慧を使って解決します。宗教的な話は一切なく、今後どのように生きていくか、具体的な考え方・心の持ち方を明らかにします。「目からウロコ、でも深く納得」という感想が毎回寄せられる名物講座です。オリジナル資料つき。



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『人生をスッキリ整えるノート』から



2025年12月







【日本全国行脚・秋】大分臼杵・摩崖仏と里山


レンタル自転車で次に向かったのは、臼杵摩崖仏群。

バス利用も考えたが、平坦な道だというので、チャリで行ってみることにした。こういうところで運動しないと筋力が衰えていく。というかバス利用を考えてしまった時点で、心が若干衰えているのかもしれない。

結果的に正解だった。広い国道沿いを走っただけだが、それでも地元のお店に民家に、秋色づいた野山を眺めることができた。ちょうど快晴で秋の空気が澄明で心地よい。

石仏も見ごたえがあった。平安から鎌倉末期にかけて、京都・奈良の一級の仏師たちがやってきて、寺の造立にあわせて掘ったそうだ。

想像するのは、仏師の一人として旅して、石仏彫像に入れ込むもうひとつの人生。九条家や天台宗僧侶としての人生ではないのだ。快作をめざしてノミを振るう自分が目に浮かぶ(笑)。


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たしかに造りが精巧だ。ミャンマーにも石仏はたくさんあるが、造形の妙はやはり大陸由来の日本の石仏のほうがあるような気はする。

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私が仏師なら「あの裾のカーブがうまくいかなかったんだよな~」なんてこぼしたりしたかもしれないが、誰も目に留めない。そんなものだよね、うん。

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美仏内閣なるお遊びも。大日如来が首相というのは、やはり天台宗のお寺だからということか(マニアックな感想?)。


最も眼福潤ったのは、敷地内の公園だ。赤いコスモスが可憐に咲いていた。地元の方々の心づくしが身に沁みて伝わってきた。

見惚れてしまうほどの絵画的な美しさだ。ほどよく田んぼと民家がちらばっていて、里山の一部を作っている。この風景を見るだけでも、来た甲斐がありすぎるほどあった。


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いやせつなく美しい。こんな世界に生きている至福には感謝するしかない。


臼杵城址をまわって本日の締め。もう一度訪れたい。次は春か。

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臼杵城跡から。あの窓の一つ一つに人生がある。 
みんなどんな日常を生きているのかな、生きてきたのかな。


*商店街の中にフリースクールがあった。いつかお声をかけてください。


2025年11月14日



あえて親を親と思わないこと


どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。

“見える”ものは、伝えることもあるし、今後の因縁に委ねようということで秘して語らないこともある。

業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、さらに子々孫々へと続いていくこともある。

だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、その未来に向かう力は、負の業の力にも打ち勝ちうるほどに強力であることも多いことだ。

つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・どの場所・どの一族においても、せめぎ合っているものだが、後者のほうが勝っていくことも、さほど珍しくない確率で起こるということだ。

苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、幸福をもたらすものが、善の業である。

どうした場合に善の業が育っていくかといえば、代表的なものを挙げれば、子の幸せを願う親の純粋な愛情であり、悪を繰り返さないための忍耐や自己犠牲だろうかと思う。

「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」


といった強い思いを持てる誰かが出てきたときに、悪の業を善の業が上回る可能性が出てくる。



悪の業を長引かせる原因の一つとなりうるのは、その業を持った人間に執着することによって、負の業を繰り返す可能性を宿してしまうことだ。

その可能性は、自分の人生に出てくるとは限らない。別の部分に、想像もしなかった意外な場面で、不意に現れることがある。悪の業が未来への可能性を枯らし始めるのだ。

最も正しい選択は、悪は悪として冷徹に理解して、斬って捨てることだ。親として子としての情は要らない。

肉親だからこそ執着して、さまざまな“夢”を見てしまうものだが、その夢こそが、悪を悪として見抜く心の眼を濁らせて、代わりに悪の業が生き延びる土壌を育ててしまうこともある。

最も望ましいのは、「親を親として見ない」態度だ。ただの人として見る。そもそも血のつながりなど、生物学的も存在しないのだから(母親の血が胎児に流れ込むわけではないのだから)、親だった人間をあえて他人と見て、一切夢を見ず、執着せず、自分がその人の子であるという思い(妄想)をも切って捨てて、ただの人間として見ることが、正解なのである。

いわば、善も悪も、いったん自分の外に置いてしまうこと。そのことで自分が自由になれる。業さえも選べるようになるのである(かなり難易度の高い話ではあるが)。

悪は悪。だが遠い悪であって、今の自分には関係がない――それくらいに思える境地に立てるならば、あとは前を向いて生きていくだけで、悪の業が希薄化していく可能性も出てくる。

くれぐれも執着しないことだ。


業とは心のクセ・反応パターン

いわゆる性格や慢性的気分です

つい繰り返してしまう、

自覚があまりない、

そして

親から子に受け継がれる

ことが特徴です

詳しくはこの本をぜひ読んでください(筑摩書房から)