〒987-2215 宮城県栗原市築館高田2丁目1−10
・中高校生の保護者・教職員に伝えたいこと。
・現代の高校生を取り巻く状況に対して、どのように対処すればいいか。
・不登校・引きこもり・自死・薬物・ネット依存・ブラックバイトなどの諸問題への対処について ほか。
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
翌朝は歩いて駅まで。夜とは表情が一変するさわやかな朝の風情も楽しい。
清張は40を過ぎてデビューして、82歳になるまで人間を抉りぬく営みを続けた。鬼神とも喩えうる熱量。
原動力は本人いわく「疑い」であり「底辺から見上げること」だそうだ。出家のひねくれ根性とも似たところはあるかもしれない。
杉並・高井戸に一軒家を構えて、膨大な資料を所蔵していた。その書斎の一部が復元されていたが、途方もない蔵書量。
自分と同等の熱量を編集者にも求めたとか。編集者としては戦々恐々だったろうが、稀代の知の巨人とまみえることができる僥倖も感じていたことに間違いない。
清張の人生の前半40年にわたる貧困と下積み時代は、本人にとっては「濁った暗い半生」だったという。その暗い蓄積があったからこそ、後半生の鬼のような執筆活動が可能になった。自身が体験した混沌を言葉によって濾過していったのだ。
見知らぬ夜道を妖しい恍惚を感じながら歩き続ける。踏切を渡り、国道沿いをひたすら歩いて、はて道を間違えたかと思ったあたりで、ようやく到着。
宿は駅近がよいかと思っていたが、そうではなかった。むしろかなり歩く距離のほうが、途中の景色を楽しめると今回学んだ。
「誰もいないところに自分一人」というシチュエーションに胸が躍るのは、やはりこの身は夜行性ということなのだろう。
いよいよ2025年も師走に突入。
来年の展望は、改めてお知らせしますが、大まかな方針を言葉にしてみると、
子供たち向けの寺子屋活動を軸にして教育系の本を書いていくとか、
講座をペースメーカーにして仏教研究(原始仏典のアップデート)を進めるとか、
子供向けに漫画で仏教や生き方を解説するとか、
絵本を描くとか?
いずれにせよ、生産性をもっと上げないと。しかも新しい方向性に向けて。
◇
そもそもこの場所は、自我や欲望の真逆を突き進もうという変わった場所。
ときおり、オンライン・サロンを開きませんか的な提案や、露出を促すWEBメディアからお声をいただくのですが(とてもありがたいことだと思ってはおりますが=人=)、
そうした場所をのぞいてみると、顔、顔、顔、顔、顔・・・みんな晴れやかでにこやかで、ワタシ頑張ってます(キラキラ☆)感全開で・・
ああ、それだけで気疲れしてしまいます(笑)。
今の時代は、SNSも含めて、どこも「見て見て」意識で作られていて、そうした自意識がお金になっていて。
自意識からの自由をめざすこの場所とは、根底にある価値観にズレがあるような気がします。
この場所は日陰が好き。裏道が好き。石の下にうじゃうじゃと身を寄せるダンゴ虫的な世界を好むのです(笑)。
この場所は、時代からも、世間からも遊離した場所。
「入った途端に違う世界を感じる」ような、それくらいの場所をめざしてもよいのかもしれません。
この世にあって、この世を越えた場所、
この世にあって、この世に見つからない場所。
寺子屋の跡地を尋ねて昔を想うように、
「昔はこんな場所もあったのかもしれないね~~」的に遠い目をして想像してもらえるような、
今の時代にあって稀有な、ある意味実在感のない不思議な、人里から遊離したような場所であってくれたらとも思います。
2025年12月
社会から長く離れて過ごしていた人から、
社会復帰したいという希望や、実家を離れたいという思いをお寄せいただくことがあります。
状況は人それぞれに違うので、簡単なことは言えないのですが、大まかな方向だけ言葉にしてみると、
社会に出ていくというのは、長く入院していた人が日常に帰っていくことに似ている気がします。
入院していた間に筋力はものすごく衰えているから、リハビリが必要です。
「自分の力でリハビリしよう」とはあまり考えないのではないかな。たいていはその道のプロの人に助けてもらうところから始めると思います。
社会復帰というのも、おそらく似たところがあります。自分の力だけで復帰しようにも、これまでは自分自身が重かったから、社会から離れて過ごしていたことになります。
だから、重たい自分の力で自分を動かそうとしても無理。すべてがしんどく面倒なことに感じて(打たれ弱くて)、結局元に戻ってしまう可能性が高いように思います(入院中のベッドに戻ってしまうようなもの)。
だから最初は、すぐに社会復帰しようと考えないで、自分以外の人たちがいる場所に「なじむ」ことから始めることではないかな。
地元の就労支援センターとか? 独り立ちするための支援をしてくれる行政プログラムをとりあえず体験してみるとか。
多少人に慣れてきたら、軽めの仕事でもいいし、職業訓練を受けてみるのもありかとも思うし。
最初は慣れること、体験してみること・・・何も考えずに。欲張らずに。小さいところから。
どんな体験もプラスにしかならない、とりあえずやってみる、そういう思いから始めるのです。
気をつけたいことは、最初が一番おっくうで、面倒で、つらいかもしれません。ただ、だからといって、戻っても、その時に見える景色はもう十分見てきているから、意味がない・・そう思えるかどうか。
もうひとつ気をつけたいことは、持ち前の欲張りが出てきてしまって、「すぐ復帰」「すぐ稼ぐ」「すぐ一人前」「できればもっと上の、ひそかに願っていた理想の自分」になろうとしてしまうこと。
そういう欲(求めすぎる心)に飛びついてしまうと、その欲をもって、目の前の人、場所、そして自分自身に反応してしまって、
不満を感じたり、失望したり、焦ったり、「うまくいかない」と思い込んで、結局元に戻ることを選んで(正当化)してしまいがちになります(理想の壁を自分で大きくしてしまうほど、障害が増えてしまう)。
リハビリは、脚を動かすところから。それができれば立ってみるところから。「ずっと入院して寝たきりだったのだから」と思えるなら、そういうチャレンジにも入っていけます。
社会復帰も同じことじゃないかな。少しずつ。まずは外へ。そして、人へ。外で人と過ごすこと。何かをやってみること。
まずは1日、そして3日、5日。半年くらいかけて、少しずつ。
やってみてほしいなと思います。
どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。
“見える”ものは、伝えることもあるし、
業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、
だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、
つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・
苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、
どうした場合に善の業が育っていくかといえば、
「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」
業とは心のクセ・反応パターン
いわゆる性格や慢性的気分です
つい繰り返してしまう、
自覚があまりない、
そして
親から子に受け継がれる
ことが特徴です
詳しくはこの本をぜひ読んでください(筑摩書房から)