生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4


本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。

それは、あなたに向けても同じことだ。

 

私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、

ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。


あなたはわからないのか?

あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。

あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、

彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、

仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、

世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。


今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。


日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?

CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?


世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。

新聞社も、メディアも、学者の先生方も、

仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、

その点は同じだ。


あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?


どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。

そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。

世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。

そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。


あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。

仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。

だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。


あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。

あなたは、こうも伝えてきていますね

>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。

そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。

あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。

どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう? 


単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、

その具体的根拠のみです。


現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、

生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。

その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。


あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。

つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、

その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、

真実は、

現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして

彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。


私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。

世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、

今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。


世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。

あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。


あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。

だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。

私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。

あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。

ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。


伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。


あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、


自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。

倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。


この問題は、それほど難しいことではないのですよ。

あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。

与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。

そういう道理を守れるかということだけです。


道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。

あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。



どう思いますか?

 

慈悲にもとづいて 

2026年4月7日

 


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3


この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。


彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。


(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)


ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、

無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。


この事件の本質は、

利用された側がまったく知らされなかったこと、

今回の無断使用に異議を訴えていること、

仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている

ことです。


盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。

この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。

誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。

盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。


自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、

無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。


盗んだだけだ。


盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。


「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。

仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、

自分のやっていることの非道がわからないのか?


その事業内容、

インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして

この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、

今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。


聞こえているか? 

罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。

あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。


間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。

 

このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。

与えられていないものを受け取ってはならない。


もうしばらく時間という名の猶予はある。





2026年3月29日



生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2

はじめに

これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。

この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。

今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。

しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。

こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。

ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。

ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。

ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:

◇◇◇◇◇◇◇

拝復

この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公式の回答となります。

貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『反応しない練習』に基づくAIおよびアプリ開発の提案について、貴社の事業内容および貴殿のこれまでの発信内容を精査いたしました。

結論として、草薙龍瞬は貴社および貴殿が展開する事業への監修および今後の関与一切を固くお断りいたします。

また、仏教に対する貴社・貴殿の認識および扱いについて、深い懸念と憂慮を表明するとともに、今後貴社が展開する事業について、国内外の仏教団体とも連携のうえ、注意深く厳粛に観察していくことをお伝えいたします。

以下に、貴社及び貴殿の仏教AI事業を容認しない決定的な理由を記します


1. 仏教の生命線である人間対人間という大前提への無理解

貴殿は「経典を正しく引用すれば、嘘をつかないブッダの教えになる」と主張されているようですが、それは仏教の本質を著しく誤解するものです。

そもそも仏教という信仰・思想は、苦悩と真摯に向き合う人間に向けてのものであり、また同様の苦悩を知る人間が伝えることを前提としています。仏教を深く理解せず、信仰(敬意)を持ち合わせていない一般の人間が、その主観的判断をもって分類・加工・生成するようなあり方は、元来想定されておりません。

仏教に対する理解が及ばない人間が、苦悩を実感しないAIを利用することで、仏教徒にとってかけがえのない知的遺産である経典を一方的にデータ化し利用する。こうしたあり方は、仏教の思想性並びに伝統と、それを守り続けてきた仏教徒たちを甚だしく蹂躙するものです。た仏教に対する人々の誤解を増大させる極めて危険な行為に当たります。


2. 〇〇〇〇および仏教の伝統に対する敬意の欠落

貴社が流用した〇〇〇〇のデータベースは、長年にわたり僧および在家の仏教徒が献身的な奉仕を重ねて築き上げた神聖な知的財産です。彼らは公式に、AIによる利用を容認しない旨の倫理的要請(Ethical Request)を表明しています。○○○○が提供するデータをかくも大規模に流用しながら、彼らの倫理的要請は知らなかったということは、到底通用するものではありません。

上記の声明が彼らの公式サイトに記されていることを知りながら、気づかれないものと高をくくって今回の事業を立ち上げたということであれば、貴社および貴殿の倫理的罪およびその反社会性は決定的なものとなります。

そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨は、ブッダの教えを商業目的で独占することなく、あくまで救いを求める人間のために広く提供しようとするものです。企業・個人に都合よく利用されるためではありません。

彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、その人道的動機を平然と無視して自らの事業に流用した貴社の姿勢は、仏教徒たちが重んじる「不偸盗(与えられていないものを奪ってはならない)」という戒めに真っ向から抵触するものであり、また地道に仏教を守り続けてきた仏教徒たちの努力を甚だ愚弄するものです。


3. 拙著および私個人の道具化への異議(発想への警告)

拙著『反応しない練習』は、読者である一人ひとりが自らの心を見つめ実践するために、私がいわば命を削って紡ぎ出した大切な作品です。それをAIボット化し効率的に提供しよう(提供していい)という発想は、個人の思索とその成果を嘲弄するに等しい極めて傲慢なものです。これを機に自覚していただくことを求めます。 

貴殿はSNS型メディアにおいて (略) を発信している様子です。こうした発想は、一個人の感想としては自由ではあるものの、そのような認識で仏教を生成AIに利用すること、またなんら資格も正当性もない立場で仏教を編集・加工しアプリ等に利用することは、社会通念をも逸脱するものです。

仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、そしてすべての著者には、尊厳というものがあります。貴社および貴殿がやっていること、およびその発想は、こうした尊厳を甚だ傷つけ、かつ愚弄するものです。

もし私の言葉が未だに届かない場合、そして今後も貴社および貴殿が、仏教という尊い思想を生成AIおよびアプリ開発に利用する動きを止めないというのであれば、その時は、あなた方がやっていることの法的・倫理的当否、特に〇〇〇〇のデータベースを大規模に流用して事業化したという事実を、貴方方に直接訴えるのではなく、社会および世界に向けて発信せざるをえません。


最終警告および要請

この連絡をもって、私と貴社および貴殿との接触は完全に終了したものといたします。今後、以下の行為が確認された場合には、法的措置を含めた厳正な対応を検討いたします。

1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、投資家向け資料等において、某僧侶に監修を依頼している、相談中である、「反応しない」プログラムを開発中といった、私および私の作品との関わりをほのめかすような一切の記述を禁じます。

2.著作権・商標権への配慮:
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」という核心的概念を含む独自のコンセプト・方法論を、貴社のAIサービスの名称、機能、宣伝文句等に流用することを厳に禁じます(もともと貴社および貴殿に仏教を扱う正当性は一切ありません)。

3.誤認情報の流布禁止
私の思想ひいては仏教の精神を、貴社のAI技術によって「再現可能である」かのような誤解を招く一切の表現を禁じます。これはあきらかに信仰・思想としての仏教が許容する範囲を逸脱する、非倫理的かつ反社会的なものです。

4.仏教という知的遺産への敬意と尊重の要請
仏教は、ブッダの教えに基づいて真摯に生きる仏教徒たちのものです。何人たりとも、仏教を一企業の事業としてまた商用目的で利用することは、許されるものではありません。


貴社および貴殿が擁する技術的卓越性は、法的・倫理的見地に抵触しない範囲および態様で社会に還元することが求められています。

この件は、貴方方が対処を間違えば、日本国内だけでなく世界的な議論と批判を招きかねない重大かつ深刻な問題を含んでいます。本件に潜む倫理的危うさが周知の事実となれば、貴殿がどのように弁明しようとも、確実に貴社および貴殿の社会的信用性に致命的かつ半永久的な負の影響を及ぼします。

貴社および貴殿は、さまざまな媒体を通して〇〇事業を宣伝しているようですが、今後はそのすべてが、あなた方への批判・非難の的に転じる危険があることをご自覚ください (略)。


仏教は、仏教を信仰する者たちによってのみ語り継がれ、また守られるべきものです。

貴殿もまた縁あって仏教という思想にたどり着いた身の上です。物事の道理というものを理解しうる知性と良心の持ち主であると信じます。

どうか物事の道理を正しく理解し、本来のご使命に立ち返ることを願ってやみません。


僧侶・草薙 龍瞬

 

2026年3月下旬

 

追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。

 

 

 

 

 

『反応しない練習』海外翻訳版

 

 『反応しない練習』KADOKAWAの海外翻訳版が出ている国々一覧

※アルファベット順


    アメリカ (America / United States)

    中国 (China)

    フランス (France)

    ドイツ (Germany)

    ハンガリー (Hungary)

    イタリア (Italy)

    オランダ (Netherlands)

    ポーランド (Poland)

    ポルトガル (Portugal)

    ルーマニア (Romania)

    韓国 (South Korea)

    スペイン (Spain)

    台湾 (Taiwan)

    ウクライナ (Ukraine)

    イギリス (United Kingdom)
 
 
遠い国で見知らぬ誰かが手にとってくれている
 
すごく不思議な感じがします
 
ありがとう! よき日々を!
 
 

 
 

 

婦人公論2026年4月号に掲載

 婦人公論2026年4月号
表紙:羽田美智子さん

 

に取材記事が掲載されています:

 

あなたの“心のクセ”は何タイプ?
負の感情を手放す仏教的エクササイズ
草薙龍瞬

 


 

そろそろ新しい作品を出さないと・・。

 

 2026年3月12日

 

 

 

 

生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて

こちらはかなり真面目な話として――


最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。

「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。


彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。

自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、

あからさまな文化的窃盗であり、

俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、

仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。


最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。

いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。

原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか? 

自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?

そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?

「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。


これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。


古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。

だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。


そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。

パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。

ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。

しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。

さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。

 

もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。 

 

ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。

一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。

だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。


彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。

なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。


最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。

2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。

仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。

そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。

彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。


思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、

仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。


しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。

そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。

なんの億面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。

 

そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。 

彼らに仏教を”盗む”資格などない。

 

いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、

自分たちに、仏教を利用し、収奪し、さらに自分たちの利益を上乗せする資格があるというのか。 


問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。


彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。

首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。

だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。


つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。

正気を取り戻してもらいたい。

彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。

まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、

その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。


どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。

世の中には、やっていいことと、悪いことがある。


そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。

苦しみを知らぬ者、

自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、

仏教が利用されることはない。あってはならない。


真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。


いずれは声を挙げねばならないか。

声を挙げねば、わからぬか。



※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。


2026年3月

 

 


苦悩ある人・場所にこそ


この場所は、あくまで 苦しみ(課題)を越える という目的をめざすところだから、

苦悩している人、同じ目的を共有している人や場所にこそ、関わる意味(役割)があるのではないかと思っています。

どれくらい自分自身の苦しみ・悩み・課題を自覚しているか、
(自分以外の人・物事、たとえば自分の子供のあり方についてではなくてね)

どれくらい真摯に、素直に、自分自身を見つめることができるか、つつしみを保てるか。

苦しみを越えられる可能性があることが伝わってきたときには、この場所はすぐにでも動きます。


その一方で、苦しんでいない人、悩んでいない人、自身の課題に気づいていない人や、

見ているものが自分の利益(お金や名声や自己顕示欲や承認欲の満足)にある人については、

そうした生き方・あり方はその人の自由(それも価値あること)ではあるけれど、


この場所はお役に立てない可能性が高いので、すみません(お役に立てません)とお答えすることになります。


この場所は、純粋な(というのも気恥ずかしいのだけれど真実)動機に立って、

どれだけ人・場所・世の中の苦しみや課題を越えていけるかを探っていくところだから、

その目的に特化して、それ以上に輪郭(守備範囲・対応できる範囲)を広げることを善し(価値あること)としない場所なのです。


だから、お役に立てないことが少しでも見えた(予感した)ときには、

静かに退くことにしているのです。

というのも、前提(動機)あるいは方向性(目的)にズレがある、そうした関係性について踏み込む(あえて言葉にする・説明する)ことは、

無用のストレス(相手からしたら快く思わないかもしれない)を招きかねないので、

これもあえて言葉にしないことを選ぶことにしているのです。

仏教の世界では「無記」といいます。


単純に、お役に立てません(でも言葉にすることでもありません、言葉にするところまでは行きません、そのほうがいいと理解しています)ということなのです。


これは、仏教に古来から伝わっている、守るべき戒律でもあります。

ブッダ自身が、そうした姿を保っていました。

他の意図はありません。単純に、純粋に、「この命(この場所)はお役に立てません」という意味しかありません。

そうした形で、マイナス(苦しみ)を増やさない(人さまに不快な思いをさせない、傷つけない)関係性を探ってゆくのです。


それでも、仏教の外の世界では、それぞれの期待や思いを広げる傾向にあるので、そうした思いを受けることも起こります。

そんなときにも、仏教においては、無記を保ちます。


「お役に立てません」という思いだけに立つことで、

自分の輪郭を保ち、また外の世界のさまざまな人さまの思いをも尊重する(肯定する)ことをめざしているのです。


あえて語らないことにも、仏教の世界においては、さまざまな配慮があります。思いやりという言葉に近い思いです。尊重、愛情、肯定、応援、配慮ともいえる思い・・。


この場所は限りなく小さく、研ぎ澄まされた善(価値)だけを大事にするところです。理解していただけたらと思います。



みんなそれぞれの場所で生きています。

それぞれの目的を、それぞれの価値を成就できますように。


みんなが幸せ(誰も苦しめない価値を実現すること)であることを祈念しています。




2026年3月

 

 

絶対に失敗しないコツ


『ブッダを探して』の連載終了後に、新聞社宛そして興道の里に感想のおたよりが届くようになりました。

「壮絶な覚悟を感じた」というお声や、「疲れませんか」みたいなご心配を向けてくださる人もおられました。ありがとうございます。

そうかぁ、そう受け止めてくださっているんだなぁと少し新鮮に感じました。

 

考えてみたら、生きること・動くことをしんどいことだと感じていません。覚悟も疲労もなく・・自然に元気でいられています。

出家前までが苦しすぎたからかな・・とも思いましたが(『ブッダを探して』に書いた過去の体験が鍛えてくれたことは事実だろうと思います)、
 
なんでだろうと改めて考えてみると、今は、


「動く」ということが当たり前のこととして心に組み込まれているからかな、と感じました。

自分に動ける範囲で動く。思いついたことは「やってみる」。

結果的にかなり遠大な目標があるとしても、そこに飛びつくでもなく、また途中経過を人に見せたり認めてもらおうとすることなく(妄想ゾーンを広げず)、

とりあえずできることに手を着ける、ということを「やってみる」ように心ができているように感じます。

たとえば今回の連載のイラストは、「絵の勉強しよう」と思ってタブレットを買って、ちょこちょこいじってみるところからスタートして(十年ほど昔?)。

「やってみる」が重なって、結果的にできることが増えていて、

いざ連載のお話をいただいた頃に「できる」レベルに届いていた、という状況でした。




これから始める活動も、たぶんそういう展開になると思います。

まずは着想から。そして今できることをやってみる。

もともと仏教講座もそうでしたが、私の場合は、生活のためとか事業の成功とかそういう動機でやっていることは一つもなくて、

「一人でも求めてくる人がいるならば」という思いでやってきたことです。

一人でも足を運んでくるなら、それだけで自分にとって価値あることになります。

社会的には無に等しくても、自分の活動が誰に見つからなくても、自分の中で価値を感じられる。

だから、「やってみる」だけで、即自分にとっては「成功」というか「達成」になってしまうのです。

よく何かを成し遂げた人が、「とにかく続けること」を秘訣として語りますが、それに近いのかもしれません。

最初に自分にとっての価値が存在する――それはすごく小さい。なにしろ自分にとって「やってみようかな」と思える程度の思いでしかないから。

それを世間では「好き」(意欲)と表現するのでしょうが、私にとってはものすごく小さな「好き」。でもすぐ動くから、「好き」のエネルギー効率がものすごくいい。

で、やってみるときには「どうすればできるようになるのだろう?」という方法探求モードにすぐ切り替わるので、「できる」ことが増えていく。


失敗しないコツを整理してみると、

結果を求めずに、できることをやる。確実にやる。
動く。形にしてみる。
つねに方法を考える。

そのミニマムな動いたという事実が、いわゆる達成や成功を含む、望ましい未来につながっていくということなのかもしれません。




草薙龍瞬『消えない悩みのお片づけ』カバー.jpg
やりたい(小さな好き)→やろう(動く)→やってみた(体験)→できる(上達)というルートの解説が載っています




2026年3月


『ブッダを探して』連載完結


中日新聞・東京新聞で連載されてきた『ブッダを探して』は、

2026年3月1日(日)日曜朝刊 全105話で完結しました。


2024年2月から週1のペースで文章とイラストを書き上げてきました。初めての体験。

大変でしたが、面白かった。

15年にわたってブログやメール通信の記事、本の草稿などを書きためていたおかげで、ネタ切れせずにすみました。


言葉のほうは、思いとほぼ合致したものを紡ぎ出せます。言葉については思いのまま。

絵のほうは、難しい・・うまく描けたと感じることもあれば、下手すぎて恥ずかしい(申しわけない)と思うことも。


全編読み通してみると、これは自伝ではあるのですが、旅物語(精神遍歴)でもあり、仏教の解説でもあり、世の中に居場所がない場合の第3の生き方でもあり、

舞台もインド、ミャンマー、日本(過去と現代)にわたる壮大なもの。


最終章は、「ブッダを探して」というタイトルの意味が明らかになる、いくつかのエピソードで構成されています。

文字数に制約があるので、掘り下げて書き切ることができず、わかりにくいという感想を持った人もいるかもしれません※。

(※連載途中では伏線的な文章を入れて、最終章の<現代日本編>で真相を明かすという構成を取っています。もう一度最初から読むと、すべてのエピソードがつながるようになっています。)

言葉が足りない部分は、書籍化の時に解説的文章を加筆して対応すべきなのだろうと思います。


できれば誰かのSNSや本のレビューなどをきっかけに、この作品の存在を、まだ知らない人たちに知ってもらえたら、書籍化の可能性も増えていくのかな・・と思ったりします。
 
 
見知らぬ人から感想をお寄せいただくことがあります。
 
いろんな場所で読んでくださっているのだなと胸が熱くなるのを感じます。
 
 
2年にわたる連載におつきあいしてくださった皆様、本当にありがとう。
 


2026年3月1日



人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。

それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。



この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。

その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、

地味に講座を開き続けて、

本を出すという縁にめぐまれて、

『反応しない練習』という作品が生まれました。


中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。

Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。

ひとつの締めくくり。



『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。

できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。

ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。

これも、ひとつの締めくくり。



人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。

やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。

少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。

先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。


どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、

生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。



私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。

これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。

締めくくって、前に進んでまいります。


2026年3月

 

 

 

人は思い込みの中を生きている


*十代、そしてこれから寺子屋に参加する中高生に向けて、この先、いろんな話題について書き起こしていこうと思います。

将来的には書籍にまとめたいと思っていますが、まずは日々の草稿の一部を紹介していきます。大人にとっても大事なことかもしれません:


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

外の現実と、自分のあり方を分けて考えてみよう。自分と外の現実は別物。だって、自分の心と体は、自分だけのものだから。君の友だちや周りの大人たちは、別の心と体を持っている。そもそも違うんだよ。



自分と違う外の人たちに対して、どう向き合うか。そう、まずは「そういうものだと理解する」だったね。さらに掘り下げて理解してみようか。周りの人たちは――友達であれ、先生であれ、親であれ、そうした人たちが作っている世の中であれ、こんなふうに理解できる。たとえば、

①人は思い込みの中を生きている

 たとえば、「勉強ができる→いい大学に行ける→いい仕事につける・周りに称賛される→社会で成功できる・有利になる」。そう思っている人がそばにいるとしよう。でも実際には、いい大学に行っても、中退したり、就職しなかったり、途中で転職したり、引きこもったり、まったく別の分野で生きている人もいる(具体例は挙げないけれど、興味があれば探してみればいい。いっぱいいるよ)。

 つまりは、ひとつの図式に当てはまる人もいるかもしれないけれど、当てはまらない人も大勢いるということ。むしろ当てはまらない人のほうが多いかもしれない(たぶんこっちが正解)。
 当てはまらない人のほうが多いのに、一つの図式が正しいと思っている――ということは、そう思っている人にとってはそう見えるというだけということ。それが「思い込んでいる」ということなんだ。



 大事なことは、そうした思い込みを通して外の世界を見るか、それとも「ひとつの思い込みに過ぎない」と理解して、「自分にとって最も自然に生きられるルートは何か」を考えることじゃないかな。
 あくまで自分を軸に考えるということ。今の自分を出発点にするということ。



 ひとつ言えることは、思い込みは、選択肢の幅を狭くしてしまうということ。「そうに決まっている、これしかない」と思い込めば、当然、他の可能性は見えなくなる。たとえば君が「勉強ができることがいいことだ→勉強できなければいけない」と思い込めば、「勉強ができなければ意味がない→死ぬしかない!」なんて思い詰めてしまうかもしれない(実際にそう思い詰めた人もいる)。

 でも、真実は違うよね。真実は、別の生き方もあるということ。勉強ができるというのは、本当にごく限られた思い込みにすぎなくて、その思い込みの外に、もっと違う生き方も、価値観もあるということ。
「(今の自分は)思い込みにとらわれていないかな?」と、自分を見つめるようにしたいと思うんだ。それができれば、もっとラクに生きられる。もっと自由になれるから。



 人はみんな思い込みの中で生きている。だからといって、君が他人の思い込みに合わせる必要はない。だって、彼らの思い込みは、彼らの頭の中に宿っている妄想にすぎないから。君は、彼らとはまったく別の体と心を持っているから。

 君は、自分の人生を生きていくしかないんだよ。他人の思い込みにいくら合わせようとしても、君は彼らにはなれないし、なる必要はないし、ならないほうがいい。だって、人に合わせようとすればするほど、自分らしさからは遠ざかってしまうから。自分を見失ってしまうから。



「自分と他人は違う」というのは、さみしく思うかもしれない。自分も人と同じようになりたいと願うかもしれないね。
 だけれど、それはどうしたって無理なこと。だって、生まれた場所も、持っている体も違うから。僕らは「人と自分は違う」という真実から始めるしかないんだ。

 人と自分は違うということは、さみしくも見えるかもしれないけれど、逆にいいことかもしれないんだ。だって、人に合わせず、自分を生きていけばいいのだから。
 自分を軸にして、今の自分を出発点にして、自分にとっていちばん自然で楽しいと思える生き方(時間の過ごし方)を考えていくだけでいいのだから。



 大事なことは、「その先がある」ということ。褒められたいから頑張る――でも、それも思い込みの一つに過ぎない。
 その先にある未来は、思い込みどおりにはならないかもしれないし、ならないほうがいいかもしれない。もしかしたら、褒められたい今の君とはまったく別の自分が将来にいて、その自分はまったく別の人生を生きて、まったく別の幸せを感じているかもしれないんだ。
 だからこそ覚えておきたいのが、変わらない真実(普遍的に正しいこと)だ。

 つまり、人それぞれに思い込みの中にいて、欲で動いているけれど、自分と彼らは別者であって、自分は自分の人生を生きていくしかないし、生きていけばいいということ。

 そして、人と自分は違うのだから、結局最後は、自分がイイと思えたら――今の自分に満足できたら、納得できたら、自分を受け入れることができたなら――それでいい(それだけでいい)ということ。
 誰がなんと言おうと。誰がどんな目を向けてこようと。だって彼らが見ているものは、彼らの思い込み(妄想)でしかないから。天地がひっくり返ったって、彼らは君とは違うのだから。


※大人目線と思われては困るのだけど、文体については今後検討を重ねていきます

 

2026年2月


思いについて


※このスレッドで紹介する文章は、幼い子供から中高生までに向けた言葉に当たります。


書籍化を予定した未公開原稿の一部ですが、たとえば、親や学校や塾の先生などが印字して、草薙龍瞬という名前をつけて、


子供に手渡したり教室に掲示してもらうことは、フリーです(個人として大切にしてもらえるのであれば、もちろん大人でも)。



よい言葉だと感じてもらえたときの話ですけれど。たとえば――



◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




思いについて



そのときの気持ちにフタをする必要はないし、本当は何を話してもいいんだよ。


そのときの思いは、今の自分にとっての真実だからね。


だって、心の中にちゃんと”ある”んだから。その思いが。



もしその思いが明日も続くなら、それもやっぱり今ある思いなのだから、


君にとっては真実なんだよ。やっぱり大切な思い。



でも今日の思いが明日は変わるかもしれないし。


もし変わったとしたら、

過去の思いはもうなくなったっていうことだから、


もうこだわらなくていいし、思い出さなくていいのかもしれない。



大事なことは、今、自分の中にどんな思いがあるか、ということ。


もしその思いが、誰かと関わっていること(誰かに向けての思い)であれば、


その相手に伝えることも大事なこと。



もう少し自分の中に取っておこう、とか、


もう流してしまおう(流してあげよう)と思えるなら、流してもいいし。



もし自分 一人でその思いを抱えることが、自分にとってつらいと感じるようなら、


その思いはどこかで「選ぶ」必要があるかもしれないね。



もう少し待ってみよう、と思えることも、選ぶということ。



相手に伝えよう、と思えることも、選ぶということ。



もういいや、忘れてしまおう、と思うことも、選ぶということ。



君が今思っていることは、大事な真実。


こんな思いがあるんだ、と気づいて、


あとは、自分で選べばいいんだな、と思えることが、


もしかしたら大切なのかもしれないね。

 

 

 

 2026年2月

 

 

 

Season2はいっそうの創造の年に


草薙龍瞬から


今年はクリエイション(創造)の年。活動をSeason1(2011年~2025年の15年間)以上に積極的に、ターゲットを広く、いわばブーストをかけなくてはいけないと思っています。

仏教の本質を伝えるというコア部分は、そのまま末永く継続していくとして(貫くことも大事)、

今年は関わる範囲を十代にも広げていこうという年なので、それにあわせて時間の使い方も、伝えるための方法も、工夫をしていこうと思っています。

特に、伝えるための手段については、過去は真面目に文章一徹だったのですが、もともとある創造者魂みたいなものが、今回の北海道体験ともあいまってかなり刺激されたので、

ここは心の戒律(俗世にいうメンタル・ブロックの一種)を大幅にゆるめて、

伝えられるなら、手段を問わず、やってみよう(内容も手段も)

という思いのモードになっています。


これまでは、出版社のほう(編集者の方)からお話(企画)を持ってきていただく形が主流だったのですが、待つことに特化する必然的理由はないので、

この先は、出会う人・関わる相手にあわせて、最も適した内容と方法をもって、新しいコンテンツをいわばフリーハンドで創り出していこうとも思っています。


この先お送りしていくのは、子どもたちに向けて――

生き方・学び方についての本にするのか、絵本にするのか、イラストをつけるのか、そのあたりは考えていきますが、

たとえば、『反応しない練習』や『怒る技法』の中身は、こんなふうにも表現できるという例として紹介していきます※

 

※書籍化を予定した未公開原稿の一部に当たります。でもたとえば、親や塾の先生などが、草薙龍瞬という名前をつけて、印字して、子供に渡したり教室に掲示してもらうことはフリーです。よい言葉だと感じてもらえればの話ですけれど。



つづく
2026年2月


そろそろ始動します


興道の里(草薙龍瞬)から:


2026年の活動をそろそろ始動します。

 

3月の名古屋での講座は2コマとも満席だそうですので、オンライン受講のほうをご利用ください(公式カレンダー内にスクールの情報が載っています)。

 

今年の目標は、

◇仏教講座のオンライン講座用の仕組みを整える(オンライン中継と録画:講座はアーカイブ化していく予定)

◇3月28・29日(土・日)にさっそく無料の国語キャンプを〇〇村で開催(公民館を予定)

◇5月連休までに、夏の国語キャンプ用の教材を用意(目標は小5から中3または高3までを想定して教材総計50本を準備)

◇4月以降は、月に一度のペースで名古屋で講座。態勢が整い次第、オンライン仏教講座も開始。

◇7月から日本全国行脚および十代のみんなに向けての出張授業(国語キャンプ)をスタート。

◇原始仏教を解説した単行本、および十代向けの生き方&学び方をまとめた本を準備

◇できれば ◯◯◯◯◯◯◯◯にチャレンジ(※今勉強中なのでまだお伝えできずw)



課題としては、さまざまな情報をどんな形で発信していくか・・。

ずっと同じことをお伝えしていますが、SNS型プラットフォームを今後活用するかどうか。

草薙龍瞬としての活動とは切り離した形での公式サイトも本当は作るほうがよいし。

やるならいさぎよく、積極的に発信することが筋かもしれないとは思うし。

このあたりは、もう少し悩もうと思います(ずっと悩んでいますが笑)。


今年は、日本での活動を始めて15年目。どう抵抗したって変わらなければいけない時期ではあります。

だから、いろんなものからの「卒業」(変化)もよいとは思うのだけれど、
 
それでもこれまでの流儀(世にあって世に見つからず)を貫くことにも、それなりの大義があるように思うので・・(いっそひっそりと消えていくのもオツなもの)。
 

 できることを無理なくやりつつ、自然に広がる範囲で広げていければと思います。

今年はよい春を迎えたいと思います。


草薙龍瞬




仕事を見つけたいという人へ

 

前提(条件設定: うまくいかない原因と正しい心の持ち方)がそろわないと、頑張ってもなかなか前に進めないものかと思います。

前提というのは、たとえば自身の性格(繰り返している反応のパターン)や動機の部分です。
 

性格については、親の影響(業)を正確に把握する作業が最初に来ます。そのためには、親がどういう性格か、どのような関係のパターンを繰り返してきたのかを、客観的に理解する必要があります。

(『大丈夫』の本を、まだ読んでいないようなら必ず読んでみてください)


性格は、親との影響から作られるものなので、もし今の性格が社会との接点・関係を作るうえでマイナスに働いているのなら、やはり精神的に自立する(親から適度な距離を取る)ことも検討する必要があります。

この点、親と一緒に生活しながら精神的に自立というのは、なかなか難しいものではあります。どうしても過去の延長を生きることになってしまうので。


動機についていえば、仕事というのは、こちらから条件をつけるとうまくいかないものです。

仕事はただの役割でしかないので、相手の求めに応えるだけです。体を使う作業を求められているなら、自分の体を使って役割を果たすだけです。

おそらくご自身の「努力」の中身が、仕事を見つけることに結びついていないことも少なくありません。たとえばその努力の中身が、過去の親からの期待や要求を反映したものである場合です。

たとえば資格・技能というのは、直接役割には結びつきません。本人は努力する価値があるものと思えるにもかかわらず(親の影響は、こうした場面で親の期待に応えることもできる、といった妄想を作りだすことに作用します)。

 

役割に結びつくものは、ほかには、なんでもやりますという意欲 あるいは 経験 というものがあります。

経験というのは、なんでもやりますという意欲によって得られるものなので、最終的に最も大事になってくるのは、なんでもやりますという意欲 ということになります。

ご自身が、意欲だけで動けているかどうか、意欲というものの上に他の雑念(条件)を載せてしまっていないか、確認してみてください。

 

動機が、社会においてきちんと意味を持つ時というのがあります。

本当に人生が動き出すのは、その時から ということになります。

 

 

2026年1月

 

 

 

 

 

インタビュー記事


朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)


子育てと受験
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
 
いよいよ中学受験本番。多くの保護者が子ども以上にプレッシャーに悩み、合否の結果に一喜一憂するといいます。どんな心構えで向き合うべきか。ご自身も中学受験、大学進学の経験を持ち、多くの親子の相談に乗ってきたという僧侶・著述家の草薙龍瞬さんに聞きました。結果に振り回されることより、「転んでも損しない」ポジティブな考え方に切り替えることを、草薙さんは勧めます。受験を控えた親がラクになれる意外な方法とは?




学びは独立が大事~まず親が「考える」こと

※学校の宿題をタブレットでやるようになって、やる気を失ったという子供のお父さん・お母さんに向けたおたよりから抜粋:

 

「時代の流れ」なんて、ないも同然なのですよ。でたらめ。教育の現場でやっていることが正しい保証なんてありません。むしろ無思考・無体験の大人たちが考えることなんて、ろくでもないかもしれない。


ご自身のあり方に気づいてほしいことがあります。

お父さん・お母さんは、子供がやる気を失っているのに、子供に合わせてやり方を変えようという発想を持てないわけでしょう? そこが一番の問題じゃないのかな。

タブレットが嫌いというなら、紙でやらせればいいではないですか。なぜやらせないのでしょう?

学校が何と言おうと、学ぶのは子供であり、子供に適切な学習体験をさせる直接の義務を担っているのは、親自身なのだから。

親がちゃんと考える必要があります。何が子供にとって最善最適な選択なのか。
 
すでに子供の感情が置き去りにされている。「頭を使わない親」、つまりは子供の思いを理解しない親の姿になってしまっている。そう思いませんか?

ちゃんと「親であるという特権」を生かすことを勧めます。こういうことが、「考える」ということなのです。
 
 
 
 

学校に居場所がないという君へ

(あるお母さんへの返信から) 

 

学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。

合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。

特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、

誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。

このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。




となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。

なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。

将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした

自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。

価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。


結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。

いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。

残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。

その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。


幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。

学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。

他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。

妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。

それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。


もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、

他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。


磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。

大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。

仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。




だから、最終的に考えるべきは、

自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使う
ことだろうと思うのです。

その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。


それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。

 

本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、

行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。

難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。


同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、

学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは

将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、

それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。


どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。

自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。

3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。


これからです。




2026年1月


心のモード・チェンジはなぜ起こる?


心はそもそも無常なもの、コロコロと変わるものです。

穏やかな時もあれば、イライラする時もある。それが心のノーマル。

大事なことは、その時々の心の状態を自覚することと、もし慢性的に続く(クセ・傾向がある)ようなら、その原因を考えることです。

たとえば、人と接することが本当は好きなはずなのに、時が変われば忌避モード(会いたくない・接したくないという気分)に変わることがあるとします。

その場合の原因は何なのか。単純に疲れている、最近嫌なことがあって引きずっている・・という比較的浅め(つまり放っておけば元に戻る)の場合もあれば、

もっと根が深くて、誰かのことが嫌い、会いたくないとずっと思っていて、でもその関係性が完全に過去になっていなくて、今なお刺激を受け続けている・・という場合もありえます。

嫌、会いたくないというのは、不快感(怒りの感情)が作動している時です。その原因は? 

ただの妄想であることもあれば(つまり客観的状況には問題がない)、誰かとの関係で怒りが結生している(強く反応してその状態が続いている)こともありえます。

※「結生」というのは、私が本の中でよく使っている言葉なので、初めて聞く人は読んでみてくださいw)

最初の反応が結生すると、その反応が前提となって、次の類似の反応を引き起こします。

怒りが結生するとイライラが続いて、怒りっぽくなる。不運な出来事が記憶として結生すると、また悪いことが起こるのではないかと不安になる。「どうせ自分は」という判断が結生すると、自己否定をずっと引きずるようになる・・。

たとえば、本当は人と接することが好きなはずなのに、そいう感じない時期が長い、さらには他人の嫌な部分が目につく、みんな嫌い、世の中もイヤ、何もかもなってない!みたいな思いが強くなっていくこともあります。


そうした場合は、最初の結生――最初に嫌だと感じたきっかけ・相手は誰かを思い出してみるとよいのです。もし引きずっていなければ、嫌だと思うはずもありません。嫌だという感情を引きずっているということは、まだ続いているのです。忘れていないということ。

いつのこと、誰のことを、忘れていないのか。冷静に振り返ることです。

もし現在進行形でその出来事・関係性が続いていない、つまりは完全に過去だというなら、その結生は妄想にあたるから、妄想を消す練習をすることになります(『反応しない練習』をどうぞ笑)。

まだ過去になっていない、その出来事・関係性が現在も続いている・・というなら、そこから抜け出すこと、距離を取ることが、必要になります。

たいていは、親との関係性が原因だったりします。しっかり続いている、続けてしまっているから、親と連絡を取ったり会ったりすることで、不快を感じ、「嫌」が結生し、その「嫌」を自分の生活・仕事に持ち込んで、周りを嫌に感じるのです。

「おかしいな、もともと仲がいいはずなのに、好きだったのに」という過去の検索はあまり意味がありません。というのは、その仲がいい・好きが、自分の思い込み(無理やりの解釈)であることもあるからです。

本当は、原因を自覚して、原因を解消して、ニュートラルな心の状態に立って初めて、相性がいいとか、好きとか、楽しいといった本当の感情が見えてくるものなのです。

原因を解消できていないと、そのうえにいろんな妄想(好き・離れてはいけない・嫌われたくない・仕事だから・家族だから・もともと私はこんな性格じゃなかった・こんな自分が嫌になるetc.)が重なっていって、自分の本心がわからなくなります。

小さなことでも嫌になる、その嫌が長く続く・・というのは、よほど「溜まっている」のです。人生のどこかで結生した「嫌」という感情が。

その原因は何なのか、しっかり見極めることです。正しく理解することが、最良の処方箋です。

ひきつづき


精神科に行くより、はるかに効きます 必読




2025年1月13日
・・・・・・・・・・・・

出家したいという人へ


ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。

「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、



過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、

過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。


あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、

自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。


仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、

そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。

(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)



もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。

形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。

けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。



心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。

長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。

自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。

それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。



職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。

その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。

本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。

しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。

それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。



<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
 

本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。

他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、

サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。


心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。

お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。

実際に「やる」「なる」ことです。

本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。

そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、

人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。



まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。

そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。


どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。


理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。


2026年1月

自分の足で立って生きる場所

この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。

生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、

いつでも扉を開いています。


この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、

一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。


この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、

自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。


この場所が大事にしているのは、

自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。

出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、

そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、

誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、

つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、

せめて、今の自分に何ができるかと考えて、

この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、

という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。


この先の世界、本当にどうなるかわかりません。

だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。



2026年1月

 

 

 

謹賀新年2026

興道の里から


2026年があけました

本年もよろしくお願いいたします


仏教では、一年の区切りは観念でしかなく、心そのものはつねに新しいという前提に立ち続けるので、こうした恒例のご挨拶も厳密には成り立たない というのが正しい理解である一方、

言葉というのは、すごく強い力を持っていて、毎日繰り返されていたはずの日の出も、「初の日の出だ」と思えば、神々しく輝いて見えるという効果があるのも、真実なので、

そうか、これが一年の最初の日の出なんだ、今日が一年の最初の日なんだ、

と思えば、あら不思議、なんだか心がピカピカに洗われた気がしてきます(どうでしょう?)。

初めての空、初めての食事、初めてのお風呂、初めて見る人(家族も含めて)、初めての自分・・

「初めて見る」という心がけで、今日一日、そして正月三が日を過ごしてみるのはいかがでしょうか^^。


というひねくれた野暮な挨拶はさておいて(初野暮?)、

この場所は、この世の中にひとつでも幸福という価値が増えるようにと願いながら、ささやかに活動して参りますので、

なにとぞ皆さま、この場所なりの新しい創造にご一緒いただければ幸いと存じます。


善き一年にいたしましょう
新年もよろしくお願い申し上げます


興道の里
草薙龍瞬&沙羅(猫)


2026年元旦