ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。
「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、
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過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、
過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。
日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、
自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。つまりは、今のまま、今の延長を生きていくことになります。
本を読んで生き方が変わった・変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、
そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。
(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)
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もし、こうした工夫だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。
日常はそのままで「自分は出家だ」と自称することも可能かもしれませんが、社会的に認められることはないでしょうし(認められることを求めず、あくまで心のあり方だけを見つめるのが出家なので、ここは一見矛盾するのですが笑)、
形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)だろうと思います。
けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。そのためにとにかく環境を変える。それだけの変化が必要なこともあります。
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もし「本格的に瞑想したい」ということであれば、瞑想できる環境に身を置くことになります。
長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、あくまで職業僧侶の住居でしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。
ミャンマー、タイ、スリランカと、上座仏教が盛んな国はありますが、そうした仏教を説く方々は職業僧侶であって、出家とは違うし、瞑想を極めた人とも違います。
自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。
それぞれに条件があり、また踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶とはいえない。もっとも「公認」を得ることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。
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出家でも職業僧侶でもなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合でも、過去のつながりを引きずった「甘ちゃん」状態だと、自分を追い詰める最後の修行はできないものです。
連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばならない・・
でも順調に突き進めるわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(これは本気の本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。
それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります(そのリスクに足が震えないというのは、真剣でもないということです。ちなみに職業僧侶というのは、自分の生活が保障されるから瞑想を中途半端にやり続けていられる人たちだという言い方も、あながち間違いではありません)、
つまりは、職業僧侶として生きたいなら既存の組織・伝統仏教に沿った生き方に踏み出すことになり、
本気で瞑想を極めたいなら、世俗との関わりを断って、本気で取り組める場所に移って、いつ終わるが来るとはわからないトレーニングに特化することになります。
瞑想を本気で極めようとするなら一生を賭ける=一生を棒に振る覚悟が必要になるかもしれない。他方、半年とか一年とか、それくらいの期間を「体験したい」ということであれば、瞑想道場を見つければ可能です。
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出家という言葉は、仏教や瞑想という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。
他方、「なんちゃって出家」、つまりお金もある、妻もいる、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、
サンガの公認資格を得ていないので職業僧侶とはいえないし、仏教や瞑想を知っているとは絶対に言えません(言えば嘘になってしまう)。
でも言いたい、言っちゃえる、「なんちゃって出家」もいなくはありません。でもそうしたあり方は、本来の仏教・出家・職業僧侶のいずれとも実はまったく関係がなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい立場になってしまいかねません。
私がお勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。実際に「やる」「なる」ことです。
本気・本物の道をゆくことです。そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、その後はつつしみを保って、謙虚に、
人さまの苦しみや世の中の痛みを感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間になることです(この時点では自分の中に苦悩はないことが前提です。それだけの境地に立ち、技を身に着けているからこそ、出家した、仏教・瞑想を学んだと言えるのです)。
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まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べること。
そして、具体的な行動が見えてくるほどに、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、
最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。
どのような生き方も、本人が選ぶ限りは正解になるので、どれがただ一つの正解ということにはなりません。
理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。
2026年1月