いじめを受けている人へ

※最近あった胸の痛む出来事に触れて:

 

いじめを受けることは、とてもつらい。

おおげさではなく、人生の危機だ。今のままでは自分が滅ぼされていく。


いじめの構図には、共通項がある。

最初は、いじめる人間個人の悪意。

次に周囲の無視。なぜなら悪意を言動に移せるのは、立場が強い人(上司・先輩・先生etc.)だから。周囲も見ないふりをする。

さらに、上の人の保身ーーいじめを訴えた人が直面する異質の原理。


いじめを受ける人は孤立無援だ。その場所に愛着があるほど、絶望は深くなる。

憧れをもって入った場所なら、その場所にい続けたいと思うのは、当然だ。自分が努力すれば、きっと進級できる、夢がかなうと思う。そういう場所だと聞いていたから、そう信じるのは当然の話。「まともな場所」なら、本人の意欲と努力が正しく評価される環境になっているものだ。

だが、現実には、「悪意」と「保身」がその場所の原理であり、伝統、文化、校風だったりする。

もともと悪意を向けても許されてしまうような、上下の構造や力関係があった。

あるいは、「上の人間」の保身が通るくらいの惰性が続いていた。伝統、歴史、閉塞性。


陰湿ないじめがときおり発覚するが、共通するのは、こうした条件がそろっている場所だ。



いじめを抜け出すために、確実に正しい道筋というものがある。

一つ、小さな悪意を容認しないこと。

悪意は悪意だ。加害者が先輩だからとか、上司、先生、校長、社長だからといった理屈は通らない。相手の悪意を察知した時点で、「やめてもらえますか」と伝えること。

いつ伝えるかは考えてよいことだ。でも受け容れることは正しくない。悪意は続くものだから。

穏便に伝えても、悪意は止まらないかもしれない。ならば真顔で伝えることを選ぶ。怒ってもいい。泣いてしまってもいい。

「やめてもらえますか(わかりますか?)」と伝えること。それが正しい選択。


二つ、他の人を探すこと。

伝えても伝わらないことが、現実には起こりうる。何しろ悪意は続く。相手は悪意を通せるくらいに「強い」人間だ。無視される。笑われて終わり。あるいはいっそういじめが悪化したり、報復されたりという事態も起こりうる。

その時は、ちゃんと記録を取ること。そして、この事態を誰に伝えるか、わかってもらえる人はいるかを、その場をよく見渡して考える。

「まともな場所」なら、言えば伝わる。あっさりと。「事実」ほど強いものはない。事実を確認する。こちらの思いも受け止めてもらう。

事実は、人によって違うこともあるから、簡単にはわかってもらえない事態も起こりうる。だが、だからこそ「記録」がモノを言う。

事実と感情ーーこの二つは、受け止めることが基本だ。「まともな場所」なら、感情は受け止めてもらえるもの。そして事実ならば、再発防止の策を直ちに取る。「まとも」とはそういうものだ。

だから、いじめというのは「まともな場所」なら、続かない。

「まともな場所かどうか」ーーこれも、よく周りを観察して、考えてみてほしい。結局は、伝わるかどうか。


三つ、外の人を探すこと。

「どうやらまともな場所じゃない」ということが見えてくることもある。

個人の悪意が通ってしまう。事態を訴えても、無視される、はぐらかされる、隠蔽される、いっそう追い詰められる。

そういう場所は、「悪意」と「保身」がまかり通っている場所だ。では、そこからどうするか?

もし自分の怒りが強いなら、「外の人」に伝えていくことも、選択肢になりうる。行政、弁護士、NPO、さらにはメディアやSNS――なるべく平穏無事に解決したいものだが、そのままでは解決しないとなれば、「外の人」に理解を求めていくほかない。


四つ、こちらから捨てること。

伝えても、理解されるかどうかは、わからない。
その場所に、いられなくなるかもしれない。

だが、悪意を受け続けるくらいなら、その場所は、どんなに愛着があったとしても、やはり留まる価値のない場所なのだろうと思う。

その場所から離れるのは、くやしいし、みじめだし、寂しいし、本当につらいものだけれど、自分が「伝える」という一本の筋を最後まで通して、「伝わらない」ことがわかったならば、もはやしようがないのかもしれない。

その先は、その場所の異常さとは無縁の「まともな世界」を探して、その中でまともに生きていく。

新しい人生を生きる。

それが最後のゴールということになる。

 


今いじめを受けている人には、「外」の誰かを見つけてほしいと思う。

君が死ぬ必要なんて、ない。

外の世界でだれか一人と出会えたら、生きていける。

 

生きてほしい。君は決して一人じゃない。