*前回の話のつづき:
困っている人に、本人が求めるものを差し出す活動をしているなら、「その範囲では」宗教は役に立っています。食糧や薬の配布、避難場所の提供など。
ところが、役に立たない宗教もあります。むしろそっちのほうが多い印象があるのが、現実かもしれません。
役に立たない宗教には、共通項があります:
〇妄想を利用している
(だが集う人たちは、それが妄想だと気づけない)
〇誰かが過剰に得している
(巨額のお金を集めたり、贅沢な暮らしをしていたり、自分が選ばれた者であるかのように派手に演出していたり。やっていることは俗そのもの)
〇信じることにお金がかかる。お勤め(義務・負担)がやたら多い。客観的に見ると決して幸せになっていない。
〇信じさせる側と信じる側の双方とも満足している(らしい)。だが、内輪の満足でしかない。信じない「外の人たち」と共有できない。たとえば豪勢な施設を作ったところで、信じる人しか入れない。
こうした宗教は、誰かが作り出した都合のいい物語、つまり妄想のてんこもり。その宗教の中では「神の言葉」とか「教義」と呼ばれています。
世の中には苦悩している人がたくさんいます。そうした人たちが、一見それっぽい理屈(神の言葉・教義)を聞くと、「そうかも?」と思ってしまいます。
「そうかも?」の先に何があるかと言えば、たいがいおカネ・・・あれを買え、寄付せよ、奉仕せよと、ありとあらゆるグッズや活動の類を繰り出してきます。
仏教と呼ばれる世界にも、そのパターンを見かけます。代表例が、意外に思われるかもしれませんが、「前世の業」かもしれません。そもそも語られている「お釈迦様」なるものが、誰かが勝手に作り出した妄想かもしれません。
それでも人間は妄想が大好き。だから、「あなたの苦しみの原因はコレです、これを信じれば、お金を使えば、解決できます」という言葉を信じてしまいます。
「一見それっぽい理屈」は、客観的に見ると変ではあるのです。でも、もともと心が混乱している人、逃げたくてたまらない現実の渦中にある人は、筋が通っているように見えてしまいます。
結果的に出来上がるのが、宗教という名の集金マシン。一部の者が過剰に得をする、富と権力の維持装置です。
こうして宗教は続いてきました。
人類が妄想を抜け出さない限り、宗教が消えることはないことでしょう。
欲と妄想でできた宗教は、実は役に立ちません。本当は必要もありません。
まず、やたらお金がかかること自体が嘘です。みんな生きていくことに必死です。過剰な負担が増えるのは、おかしいのです。絶対に。
信じる人たちの自己愛(特別意識)、出世欲、栄誉欲みたいなものが通用してしまう(奨励されたり組織内で出世したり)という組織も、非合理です。
一部の人間に過剰な利益が集中する仕組みも論外です。「過剰」は、生きるうえで必要ありません。これは宗教であれ商売であれ、本来同じです。
「真ん中にいる人」や「側近」「幹部」と呼ばれる人たちが、やたら崇拝・称賛される姿も、危険です。そもそも宗教の目的は、人間の幸せであって、個人の欲の満足ではないはずだからです。
結局、カネか、欲か。
たどり着くところが、その程度の人間の煩悩だとするなら、それは宗教とさえ呼ぶべきではないのかもしれません。
宗教は要らないのです。なくても生きていけるし、世界は回っていけるという意味で。
人も自分も苦しむことなく生きていく。そのためには関わりのルールがあればよく、宗教は要りません。
働ける人は働いて、誰かの役に立って、結果的に社会・経済が回っていく。
それが実現できるなら、宗教は要りません。
人間に必要なものは、そんなに難しいはずがないのです。
心と体を使って、ひとつ働き(役割)を果たして生きていく。
そうして生きる人たちが作る場所が社会であり、人と人をつなぐものが経済です。宗教は本当は必要ないかもしれないのです。
いったん宗教を「引いて」、生き方を考えてみてほしいのです。
宗教という名の妄想が、人生を複雑にし、いっそう苦しみを増やしている人が、あまりに多いからです。
2023・10・25