中学受験をする親と子のみなさんへ


なんだか中学受験が、日本の冬の風物詩っぽくなってきた感があります(けっしてプラスの価値があるとは思っていませんが)。

中学受験に向かう小学生というのは、まだ脳と心の発育段階においては、「思考」未満の「感覚、感情、そして反射神経レベルの段階」だと理解してください。

「思考」レベルの勉強・受験というのは、出題傾向や出題者の意図(問題の傾向や解法のコツ)まで見抜いて、手順を言語化できて、「これだけのことをやれば、これくらいの点数は取れる」という結果まで、ある程度計算できるレベルのことです。

難しいことに聞こえるかもしれませんが、大学を受験するくらいの年齢になれば、こうした思考レベルの勉強(いわゆる対策)はできるようになります(やろうと思うか、場当たり的な受験で終わらせるかは、本人次第ということになりますが)。

でも、小学生は、そこまで進んでいません。そうしたレベルにまで進ませていいかといえば、そうでもありません。

脳と体には、発達のためのプロセスがあるのです。まずは健康を保って、適度に運動して、適度に五官をつかって感覚を刺激して、喜怒哀楽の感情を味わって・・という。心の成長には、このひとつひとつの体験が欠かせないのです。

中学受験に飛びついてしまうと、このプロセスが阻害される可能性が出てきます。すると、中学以降に成長が止まります。あるいは反射神経の延長として勉強し続けて、伸び悩むか、感情が育たず喜びのない(たまにサイコパス的な)大人になる可能性もなくはありません。

そうした状態でも大学受験程度のことなら(←それほどレベルは高くないという意味を含んでいます)、できてしまえる人もいます。狭い日本社会なら、いい大学に入った優等生と思ってもらえるかもしれません。

ただ、それは知的能力をフルに伸ばした成果とはいえないものがあります。


要するに、お伝えしたいことは、中学受験というものを過大視しないこと、入れ込みすぎないほうがいいですよ、ということです。

ほとんどの小学生にとって、中学受験というのは、やりたいことの範疇に入ってきません。いつのまにか放り込まれていた程度のものではないでしょうか(大人が、社会が、そういう制度を押しつけてきたから、なんとなく引き受けた程度のもの)。

そこでやる勉強は、まだ言語能力・思考力が育ちきっていない状態でさせられるものなので、本当はよくわかっていないのです。それでもできちゃえる(できるように見える)子はいるので、中学受験そして進学指導というのが成り立ってしまうわけなのですが。

わかっていないうちに巻き込まれて、みんなが受験、受験と言い始めて、塾の先生も親もなぜかそれしかないというような熱病モードに入ってしまっている。もちろん子供には、他に居場所なんてないから、その場所に留まろうとするし、受験もするかもしれませんが、

多くの子にとって、中学受験は、よくわからないままやってきて、わからないままに終わる(でも合格・不合格の結果は当然出てくる)。そういうものではないでしょうか。


よくわからないものに過剰な価値を見出すのは、明らかに間違いです。大人(親や塾の先生)は、こういう無神経なことを平気でやってしまいます。

よくわからないけれど、合格できなかった――その事実は子の心を傷つけます。「あんなに頑張ってくれたお母さん、お父さんに申しわけない」という後ろめたさも残ります。親ががっかりする姿(なんて身勝手な姿かと思いますが)を見て、子供はいっそう傷つきます。


中学受験のための勉強で身に着く程度の学力なら、正直、その後の六年間をちゃんと生かせば、十分身に着くものです。

一番大事なことは、脳と体の成長を阻害しないこと――きちんと段階を経て育てていくことです。

多少の知識や技能や、思考力の基礎的なものは、教え方が上手であれば、中学受験でも身に着けることは可能です。「その限りでは」意味を持ちますが、

わかっておいてほしいのは、親や先生たち(煩悩にまみれた)大人が思うような「勉強」は、まだ小学生の子供には無理(器としての脳に入らない)ということです。

大人が考えている「勉強」と、小学生の子供に見えるものは、違うということ。塾の授業も教材もです。

大人がやってしまう間違いは、子供の心に入るもの、必要なものをすっかり忘れて(というか自分自身も身につかないまま終わってしまって)、

大人になった自分がかき集めてきた、あるいは外からどんどん放り込まれてくる、受験とは、勉強とは、成績とは、お友達のあの子は何点、塾からこんな連絡が来た、受かったら見栄を張れる、落ちたら恥ずかしい、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら・・・というゴミのような妄想に支配されて、

親である自分がアップアップというか、舞い上がったり落ちこんだりと、自分の物事以上に中学受験を巨大視してしまって、結果的に子供に自分の体重分のプレッシャーを上乗せしてしまっているという状態です。

自分だってわかっていないことを、自分だってしなかったことを、自分だって今になってもできないかもしれないことを、

子供が何も言わない、まだ素直に言うことを聞くことを利用して、つけこんで、やらせようとしていませんか?

子供のことより、まずは自分がどれだけ妄想でヒートアップしてしまっているかに気づいてください。頭を冷やすこと。


まだ思考力が発達途上の子にとっては、中学受験は「おみくじ」に近いと思っておくほうがよいと思います。

受かればラッキーだけど、そうでなくても大したことはない。未来なんて、体験してみないとわからない。今、親である人が思っているような妄想(期待や予想)とは違う未来が待っている。その未来は、中学受験に受かっても受からなくても来る。いい未来にすることも可能なのです。


中学受験をする子は、ここからの時間をどんな方針で過ごすかだけ、言葉にしておいてください。

「先につながる勉強」を今のうちにやっておく――それが基本です。

読み方・書き方・解き方を増やすという方針なら、受験勉強も無駄にはならないかと思います。

新しい言葉や知識を覚えることも、意味を持ちます。ただし「試験に出るかも」とか「落ちられない」といった切羽詰まった思いで覚え込むのではなく、

「大人になっても使えるように(誰かに話せる・モノの見方として役に立つ)」くらいの気持ちで落ち着いて、知って、覚えて、という時間を過ごすほうがよいかと思います。

「反射神経」でできてしまえる器用な子も、周りには当然います。でもそうした反射神経ぶりは、子供によって違うので、較べてもしようがないのです。

 大事なことは、自分にとってプラスが残るような体験をすること。

「プラスになるような学び方」こそが大事なのだという意識を持つことです。

親の側も、子供以上に深刻に考えないで、大人目線を崩さずに、頭の体操として問題を解いてみたり、自分も知らなかった知識を覚えたりする時間にしてしまうほうがよいように思います。

くれぐれも自分はただ心配する側(追い詰める側)に回って、勉強という孤独な時間に子供を追い詰めないことです。


中学受験程度の勉強は、あとでなんとでもなります。成長の阻害や心の傷として残らないように。

仮にうまくいかなかったとしても、そこで体験した読み方・書き方・解き方や知ったことは、後にも残る――そういう時間を過ごしてもらえたらと思います。



2024年12月中旬