あやまちを犯した時は(そして、傷を負った人へ)

 

みずから犯したあやまちについては、

相手に与えた損害、その心の傷を理解しようと努力するか、

責任の取り方がはっきりしている場合(身体的自由の制約か金銭による償い)は、

それを引き受けることでしか、

社会的に許される可能性はありません。

それだけのあやまちをみずからが犯したという現実を受け入れること。

それはたしかに痛みを伴うものかもしれませんが、だからといって、被害を被った相手のせいにしていいということには、絶対にならないのです。

故意はなかったとか、同意があったと思っていたとか、そればかりか事実と異なる嘘までついて、自分のあやまちを否定し、それどころか相手(被害者)のせいだと言いたがる人間が、たまにいます。

そうした自分可愛さゆえの無理筋は、相手の傷にいっそうの塩を擦り込むに等しい「拷問」であり「虐待」であり「愚弄」になります。

相手がどれほどの心の傷を負い、またどれほどの時間と関係性の喪失、経済的損失その他の苦痛を被ったか、また今後も被り続けることになるか。

この社会に生きる人間である以上、想像することが、義務であり責任というものです。


そうした人間としての務めを放棄し、あやまちを謝罪することも、賠償することも、みずからの身をもって贖うことをも放棄して、

なお自分を守ろうとする。

そうしたことができてしまえる、しようと目論むこと自体が、

その人間が、相手を傷つけたこと、損害を与えたことの「証拠」になってしまいます。

というのも、

自らのあやまちを受け入れられない人間だからこそ

――それを世間では、残酷、傲慢、身勝手、幼さ、弱さ、不誠実と呼ぶことになるのでしょうが――

そうした人間だからこそ、みずからの行いの意味や責任を軽く見るし、不都合を隠蔽しようとするし、言うことがその都度変わるし、最後まで否認して、自分は悪くないと言い張れるのです。

そうしたふるまいと言葉のすべてが、その人間(あやまちを犯した者)の輪郭を、はっきりと彫刻していきます。

みずからがどんな人間かを、その行動と言葉によって、浮き彫りにしてしまう。


それは自滅でしかないのですが、本人には、今見える自分の都合、利益、プライド、恐れしか見えないので、止めない(それが通ると錯覚してしまう)のです。


結果的に残るのは、「悪人」としての自分です。

悪人としての刻印が残る。しかも刻み込んだのは、あやまちが明らかになった後の自分自身の行動であり言葉です。

これまでもそうやって自分を押し通し、不利益を隠して、不都合から逃げてきたからこそ、まさに今の自分にたどり着いたのかもしれません。

 

あやまちを認めること、謝罪すること、賠償すること、その罪を自分の残りの人生をもって償うことを、

難しい、やりたくない、と本人は考えてしまうのでしょう。

ですが、長い目で見るならば、それが一番簡単で、自分に確実にできる、正しいことなのです。


罪を認めない人間は、そこから先は「悪人」になってしまいます。

罪を認めて償うことで、はじめて過去のあやまちが、あやまちに留まるのです。それ以上の悪人と化すことを防ぐことができる。その後の生き方は自分次第ということになります。


あやまちをあやまちとして認めること。

被害を被った相手の心情や、その失ったもの、今後の人生を思いやること。


被害を被った、傷つけられた側が望んでいるのは、結局は、人間としての当たり前の、本当は簡単にして、確実にできることのみです。

それすらも受け入れようとしない相手(加害者)の行動と言葉によって、いっそう傷つけられることが多いものですが、

それでも願うのは、まずはあやまちをあやまちとして認めてもらいたいという一点です。

 

簡単なことのはずが、あまりに複雑で、遠いことになってしまう。

そうした事態を招いているのは、あやまちをあやまちとして認めようとしない人間の側にあります。

 

こうしてみると、世の中は、善人と悪人とに、最後は結局分かれていくようにも思います。

善人は、少なくとも、みずからのあやまちを否定しないし、償おうと努力します。

悪人は、最後まで、みずからのあやまちを認めようとせず、嘘、言い逃れ、責任転嫁、その他あらゆる強弁を弄して、自分を守ろうとします。自分が可愛い(そのぶん人が傷ついても)という態度を崩しません。



傷を負った人へ――

もしあなたが善人として生きているなら、ぜひ堂々と生きてほしいと思います。

あなたは悪くない。他人のあやまちに、悪に、巻き込まれてしまっただけで、あなたは何もしていないのだから。

強く、堂々と、生きてゆく――のです。



2024・12・11
・・・・・・・・・・・・・・・