仕事というもの


仕事とはどういうものでしょう。真っ当な仕事--人として守るべきこと、外してはいけないこととは、どういうものでしょうか。

仕事は第一に、人(相手)のためにするものです。

人が求めるものに応えて、人の役に立つこと。

そのことで自分の働きに応じた対価・報酬を受け取ること。

人のために役に立つ――ことが仕事の生命線です。

社会という場所は、お互いに役に立つことで、それぞれが必要としているものを手に入れることで成り立っています。

それが経済と呼ばれるもの。社会が社会であるための生命線です。



ところが、この生命線を掘り崩してしまう事態がたまに起こります(たまにであって、頻繁にではありません。頻繁に起きてしまえば、社会は崩壊していまいます)。

たとえば、自分の仕事・業務・役割を途中放棄すること。

この時点で、放棄した人や企業は、信頼を失います。なにしろ相手とかわした約束(契約)を自分から破棄してしまうのだから。

最初に約束したことを平気で覆すこと。できますと言ったことができなかったり、やりますといったことをやらなかったり。

悪質になると、客からお金を受け取ったまま逃げ出すとか、姿をくらますとか。

さらに輪をかけてひどいのは、自分の不手際を棚に上げて、逆に相手(依頼者・客)のせいにし始めるとか。

自分の仕事を省みずに、相手に責任転嫁する――ここまでくると、もはや「終わって」しまいます。人間として。仕事として。




この社会は、誠実に、自分の役割を果たす人や企業によって回っています。

誠実さとは、自分の仕事の質に向き合うこと、責任を負うことです。

どんな理由があろうと、自分がなすべき仕事がおろそかだったり、一定のレベルを下回っていたりしたら、その時点で仕事とはいえなくなります。

仕事には、越えなければいけない一線(クオリティと呼ばれるもの)があります。

その一線を越えなければ(上回らなければ)仕事とはいえないし、責任を果たせているともいえません。

その一線を死守しようと全力を尽くすことーーそれが 誠意 と呼ばれるものだろうと思います。

誠意をもって仕事をする。手を抜かない。いつ見られても大丈夫なように、ていねいにやる。

もしできると約束したことができなかった、ミスがあったと判明すれば、できるかぎりのことをする。

まずは謝罪。とりうる対策(いわゆるアフターフォロー)。ときに賠償など。

それをしないなら、一線を下回ったままの自分になってしまう。仕事失格。人からお金をいただく資格ナシ。

それが自分にとってイヤだから、そのままでは社会の信頼を失い、今後の仕事を失ってゆきかねないから、できる限りのことをする。

それが誠意というもの。真っ当な人間・企業は、こうした誠意を持っています。


もし誠意を見せることができれば、過去の過ちは「一時的なものだった」と受け止めてもらえるかもしれません。逆に信頼を勝ち得ることもあるでしょう。犯してしまった不手際やミスも、今後の成長と信頼の肥(こや)しになりうるのです。


どんな仕事も誠実に

人間として、企業として、組織として、業者として――

それが、仕事をする人たちの絶対の生命線なのです。



ところがごくまれに、この生命線を断ち切ってしまえる人間・企業がいます。

だます、嘘をつく、お金を持ち逃げする、言い逃れする、責任転嫁する。

自分(たち)に責任はない と言い張ろうとするのです。

そのくせ自分たちの面子、立場、利益だけは死守しようとします。

これは絶対にしてはいけないことであり、最も愚かなことです。

というのも、「一線を下回った仕事」をした事実は否定できないから。

事実を否定して、そんなことは言っていない、していない、自分たちに責任はない、と言い張った時点で、

言い逃れをする幼すぎる子供か、社会に反する存在へと堕ちてしまうのです。

よく聞こえてくる企業の不祥事、ミスの隠蔽、リコール問題、リフォーム詐欺、悪徳商法、医療過誤、突然の閉校といった事件は、そうした不誠実が明るみに出たものです。

中には、単純なミスやごまかしから始まったこともあるはずです。ところが対応を間違えて、事実を否定したり、言い逃れをしたり、責任転嫁をし始めた時点で、

自分の不誠実が露わになり始めます。取り返しのつかない「罪」とさえ化してゆく危険も出てきます。


どんなに言い逃れをしても、人のせいにしても、

自分がなすべきことをしなかった、

できる、やれると約束したことができなかったという事実は、覆せません。

その事実を否定し、責任を取ることを拒んだ瞬間に、その人間・業者は足元を掘り崩していくのです。



その喪失は、実は最初の出来事だけでは終わりません。

言い逃れをした、嘘をついた、できると約束したことが実はできなかった、こともあろうに客のせいにし始めた――そうした事実が残ります。

嘘や不誠実は必ずバレるものです。そこから着実に信頼を失い、社会における居場所を失ってゆくのです。


あったことをなかったと言う。なかったことをあったと言い張る。

プライドや思惑にしがみついて、事実と異なることを主張して、

お金や立場や看板だけは守ろうとして、

次第に不誠実が積み重なっていく・・。

その不誠実が明るみに出た時点で、もっと大きなものを失うのです。

詐欺まがい、それどころか明確な犯罪になってしまうような事態も、最初は小さな否定から始まるものです。

それでも通用するだろうと思う。社会という場所を甘く、軽く見る。

その小さな、しかし邪悪な、傲慢そして現実を直視しない未成熟さが、ますます黒い墓穴を大きくしていくのです。


実は、自分の心は、そのことに気づいていたりします。

自分が言っていることと、実際にやっていることが違っている。

できると言っていることが、本当はできない。できていない。


そうした欺瞞(ごまかし)に心は薄々気づいています。

だから罪の意識が、時間をかけて積み重なっていきます。

表向きの善良さと違う、裏に隠した不誠実を、本当は自覚している。

結果的に、半ば、隠れた悪人として生きていくことになります。

ごまかしが陰り(嘘)となって、胸を張って仕事ができなくなってゆくのです。


そんな人生や仕事はあまりにみじめだから、

本当の誇りと倫理感を持った人や企業は、最初から最後まで責任をもって仕事を進め、過ちについては謝罪し、なしうる限りのことをして、

人が自分に託してくれた信頼と未来の仕事を、守ろうとするのです。

ミスしない、あるいは苦情を受けない人間・企業など、ありえません。誠実に仕事をしても、過ちを犯すし、人さまに叱られることもあります。そんなことは当然です。

十年、二十年、三十年と仕事を続けてきた人間なら、そんなことはわかりきっているはずです。

しかしそうした人たちは、自分の仕事に誇りと責任感を持っているからこそ、事実をごまかさないし、責任転嫁もしないものです。自らのミスは潔く認めて、信頼回復のためになすべきことを全力で果たします。 

そうした心がけがあるからこそ、ミスやトラブルの数より、仕事の成功・達成のほうが着実に増えていきます。

でもそれが仕事の「当たり前」のレベルです。ほとんどの人間・企業にとっては、そうした働き方が当たり前。

それが社会というもの。真っ当な人間が作り出す真っ当な仕事というものです。

仕事は、それほど難しいことではありません。

できます、やりますと言ったことは、責任をもってやる。

力が及ばなかった点は、いさぎよく認める。

詫びるべきは詫びて、せめて自分にできることを全力で形にしてみせる。

そうして鍛えられていく。信頼を勝ち得る。

培った信頼が、さらなる仕事を運んできてくれる。

信頼して仕事を依頼した相手(客)も満足。

依頼を受けた自分たちも幸福。

結果として、社会にプラスの価値や幸福が増える――。

そうした関係性、それが仕事というものです。本物の仕事は創造的で楽しいものです。


仕事を頼む人たち--客、患者、施主その他さまざまな人たちは、信頼するからこそ、大切なお金、時間、未来を託します。

そうした信頼に全力で応えることが仕事です。手を抜いたり、慢心したり、言い逃れや責任転嫁という「泥」を投げつけるような罪だけは絶対に犯してはいけないものだろうと思います。


誠実な仕事を重ねてゆきたいものです。

限りある人生の終わりに、罪の意識ではなく、純粋な誇りと納得が残るように。