<おしらせ>
栄中日文化センターの講座(夏学期)は、7月17日(火)から。
詳しくは、公式サイトのカレンダーをご覧ください。
または 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html
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本は万人に開かれたもの。だから語り口はニュートラル。
このブログは、道(生き方)を求めて静かに訪れる人に向けて。
だから当たり障りのない話題よりも、多少難しくても有意義なことを。
かなりマニアックかもしれないけれど、いつか必要になる時が来るかもしれない、そんなごくわずかな人たちに向けて、価値あることを遺しておきます――
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<自分を越えるということ>
自分を越えることの難しさは、瞑想(心の観察)を続けることで初めて見えてくる。
裏を返せば、瞑想しないかぎり、自分を越える難しさはわからない。
心というのは、人間が想像する以上に、狡猾で、邪悪で、醜く、愚かで、怠惰で、強固だ。
よほどの智慧と意志がなければ、イチコロで執着の網の目に絡めとられてしまう。絡めとられたことにさえ気づけない。
はたからみれば、頑迷な巌が、まるで静止画のように存在しているだけ。本人は少しは巌の内から突き破ろう、打ち砕こうと闘ってみたつもりなのだが、なんのことはない、実は何も変わっていない。
瞬時に巌の内側に閉ざされてしまうから、外から見れば、ただ巌が存在し続けるだけ――それくらいの比喩が真相に近い。
それくらいに心の魔は、強いのだ。
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心の苦しみを越えるには、その原因を突き止めるほかない。
原因を見つめることは、つらく、険しい。なぜなら自分の最も愚かな部分を直視せねばならないからだ。
しかも原因が見えると、心は激しく動揺し、反応する。全力で、原因から目を背けようとする。
目を背けるための理由が、まさに本人の心が作り出す都合のいいものだ。
たとえば現実から逃げたくてみずからを美化して生きてきた人は、自分を美化できるような理由を見つけて、そっちに走り出す。たとえば新たな仕事を始めるとか、別の活動に手を出すとか。
またたとえば、過去から目を背け続けてきた人は、「答えは本の中に書いてあることはわかります」と言いつつ、本を読まず、書いてある実践もしない。
わかったふりをして、実際に目を向けることから逃げ続けて、これまでの自分をそのまま温存している姿だ。まさに心の思うツボ。
瞑想にも類似の罠は潜んでいる。
瞑想のプロセスにおいては、過去を見る、他人を見る、世界を見ることになる――見て、その時見えたものを言葉にする。自らを思い知るための下準備としてだ。
どんな言葉も発しているのは、自分の心。
だから心に見るものは、最終的には、自分の心を思い知るための材料になる。
だから相談に来る人たちには、まずは思うことを何でも言葉にしてくださいと伝える。瞑想や内観も同じ目的を持っている。
だが多くの人は、そのプロセスを飛ばしてしまうのだ。自分を見つめるだけの時間を作らない。自分の中に見えたものを言葉にしない。
本当はその言語化したものをふまえて自分自身を見つめていく作業が来るのだが、その困難な作業に進む前に、別の方角に、ラクなほうへと走ってしまうのだ。
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自分を越える、変えるというのは、容易なことではない。
過去を越えることも、執着を断つことも、業を克服することも、
仮に50年生きた人がいるとして、その人がもし自分を越える、変える作業に乗り出そうというのなら、
その人は、50年も生きてしまった自分が、本当に越えることなどできるのだろうかと、事の重大さを自覚する、たじろぐくらいが、真っ当な感覚というものだ。
本当の意味で慚愧し、懺悔し、悔やんで、顔から火が出るほど恥ずかしく思って、
それでもこのまま生きていくことは望まないから、
できるかどうかはわからないが、やるしかないという立場に、最終的に立つ。
道に立つとは、本来それくらいの大事(だいじ)なのだ。
もちろんそこまでの難題・難行にすべての人が挑まねばならないということではない。
ブディズムはそもそも金科玉条という流儀を取らない。
人間は、自分の心が仕掛ける罠に気づかず、いとも簡単にハマって、正しくない選択をしてしまい、しかもその選択が自分では正しいと思ってしまっている(気づかない)ことが多いことだ。
人が理解しておくべきは、
自分の心がよかれと思って選択することは、高い確率で間違っているということ。
簡単に心が仕掛ける罠にかかってしまっている。
そうした自分に気づけないのが、人間というもので、
その危うさは、業が深いほど、執着が強いほど、飛躍的に高くなっていく。
本当に自分を越える、変えることができる人というのは、自分に厳しい人ということになる。
自分に厳しいとは、他人を追いかけず、左右されず、外の世界を当てにせず、ひたすら自分を見つめる強さを持てることだ。
(※自分を見つめるきっかけとして、他人・過去・外の世界を振り返るはよい。だがそれは自分がその時どう向き合ったかを思い知るためだ)。
それを直視して大掃除することをしないなら、当たり前だが、汚物が消えることはない。いつ覚悟を決めるかだ。
厄介なことは、覚悟を決めたつもりが、実はそれは覚悟でもなんでもなくて、執着したがる心の罠にかかっているだけかもしれないことだ。
心が見るものが真実とは限らない。選択を間違い続けるのが、人間というものだ。
「間違えているかも」と思えるくらいの慎重さ、自分への健全な懐疑があってはじめて、いやそれでもなお難しいのだが、
ようやく自分が正しく見えてくる可能性が出てくる。
2024年7月
ある日の法話から