この春、看護学校を卒業したみんなへ

この3月に看護学校を卒業し、無事、看護師国家試験に合格した人たちへ 

(草薙龍瞬は、とある看護学校で医療・看護倫理の講義を担当しています)


ある看護学校の卒業生のみなさんからいただいたビデオメッセージへの返信:

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〇期生のみなさま


おたより(先生たちへの感謝のお手紙)、届きました。
拝見しました。

泣かせます・・・(ぅぅT△T)ええ動画やなぁ・・)

動画見て感じたこと・・

このコロナ禍の3年間を看護学生として走り抜いた人たち。立派だなあと思いました。


過去のどの期よりも制約が多かったはずなのに、それでもくじけずにがんばって、みんな合格したのですから、
本当に、最強の〇期生だったのだなあと思いました。

と当時に、先日の野暮なメールと重なって恐縮なのだけれども、
この3年間の制約(病気を抱えた方々と関わる大事な仕事だから、避けられないことではあったけれど)が申しわけないというか、できるかぎり負担が少ない選択をして、なるべく早めにノーマルに戻す智慧と勇気が、この社会にあってくれたらと思いました。

これは大人たちの責任です。みなさんが元気にあいさつする姿を見て、なんだか申しわけなかったなあという気持ちが湧いてきました。ほんとに、みんな強かった。

歴史を見れば、社会が選ぶあり方が正しいとは限らない。むしろ後で振り返れば間違いだったと気づくことも多い(あの戦争もそう)。この委縮せざるをえない息苦しい社会の中で、結婚数も(昨年は80万組くらい)出生数も激減しています(今は一年で80万人位の赤ちゃんが生まれるそうですが、かつては200万人から250万人の赤ちゃんが一年に生まれていたのです!)。



この社会が抱える問題を、私たち(とあえて言わせてもらいます)は、一つずつ解決していかねばなりません。

逃げること、責任を放棄すること、単に悲観することは、人として誠実じゃない(滅びを促すことでしかないから)。


目の前の苦しみを見て、何が最も正しい選択か、「他に方法はないのか?」(←これすごく大事だと思っています)を考え抜く知性と勇気が必要。それを「倫理」と呼ぶのだろうと思います。

「苦しみを増やさない」という倫理の鉄則は、社会にも、一人一人の人生にも、当てはまります。

社会がノーマルであること、ノーマルを守り抜くことが、どれだけ大事か。

一人一人が、健康で、悩みやストレスなく、元気に仕事できることが、どれほど大事か。

普通に働いて、結ばれて、普通に子供を育てて、未来につなげていくという普通の人生が、普通ー―当たり前にして究極の答えです。

「普通の人生」を生きることを、一人一人が大事にして、自分なりに体験していくことが、正しい生き方なのだと思います。

みなさんが健康で元気に、看護師として多くの人を支えてあげられる未来を願っています(あ、未来じゃなくて週明けですね(笑))。



ほんとにみんな、すごいです。講師としてほんとにわずかな時間しか共有できませんでしたが、みなさんに出会えたことを誇りに思います。

新しい世界で頑張ってください。

3年間お疲れさまでした。おめでとう。

草薙龍瞬





本に託する思い(怒る技法)

 

今回の『怒る技法』(マガジンハウス)については、

「あとがきに代えて 怒りのない世界をめざして」のメッセージについての感想をたくさんいただいています。


本というのは、本当に貴重な生き物。今の時代には、非効率ともいえるし、コストもかかるもの(製作費)。

でも価格はあまりに安い。ランチ代くらいの値段で、物書きは人生かけて書いている。

SNSや動画はインスタントに配信できるけれど、それだけに受け取る側に残るものもインスタントに終わる可能性はある。ふーん、へえ程度で消えていく。

本の場合は、読み手が一定の時間向き合って、言葉を味わったり、マーカー引いたり、ノート取ったりして、本の言葉を自分のものにしようという積極的な努力がある。

本から得たものは、自分だけのもの。時間をかけて味わって、落とし込んでゆくべきもの。

以前、WEBメディアで連載していた時に印象的だったのが、朝6時に新記事が配信されると、我先にと自分の顔と名前をつけたコメントが並んでいくこと。

それも、「自分がどう活かすか」というより、「これはこういうことだ」「自分はこう思う」みたいな解説というか批評というか、結局のところ自分語りに近い内容が多かった印象が残っている。

 

私に伝えられることは、仏教にもとづく生き方。

時間をかけて落とし込んで、実践して、自分の中で「体験」していくべきもの。


自分の意見(これはこうだ)をインスタントに言葉にしてしまうと、自分の意見が「壁」になる。

「私はこう思う」という自我が残って、本の言葉(本来の意味、残ったかもしれない、自分が成長して初めてわかる意味)は消えていく。

 

今の自分に見えない部分は、急いで今の自我で埋めるより、そのままにしておくことが自然なありかたではないのかな。

 

時間と静寂(沈黙)が必要ということ。

人間が最も成長するのは、静寂の中でおのれを見つめる時だ。

 

常に願っていることは、本の中味を汲みとって前向きに活かそうと頑張る人たちの元に、あまねく届けること。

「10万人に届いたとしても、10万1人目が本当は必要としているかもしれない」

と、かつて語っていた自分の言葉を思い出した。


最初の1人も、10万1人目の1人も、受け取った人にとって、本は著者からの「手紙」になる。とてもパーソナルな手紙。


私が世に届ける言葉は、みんな幸せになってほしいという純粋な思いだけでできている。


それは真実。それが伝わってくれたらという夢を見ている。




2023・3・29

正しく怒れる人をめざせ


『怒る技法』マガジンハウス 全国書店に並んだ様子です。

『反応しない練習』から8年‥‥‥あの作品を「越える」(越えなければいけない)本。今の時代に必要な生き方を、渾身の力を振り絞ってまとめあげました。



名古屋で講座がありました。宿を出るとき、ロビーでWBCの準決勝試合の中継が。0-3のビハインドから、吉田選手の同点3ラーン! のところで宿を出ました。

道の途中で、4-5と逆転されていると掲示板。

でスクールに着いたところで、6-5と逆転サヨナラ勝利! すごい(笑)。
 
 
ワールドカップやWBCを通して感じるのは、日本人は、合理性が確保されたシステムさえあれば、世界をリードしうる革新性・勤勉性・一体感を発揮するということ。最良といっていい国民性を秘めている。
 
スポーツの世界で、選手も見る側も、あれだけ輝けるのだから、本当は政治・経済・文化においても、もっと輝いていいはずだし、輝けるはず。
 
政治・社会の仕組みと、人間の価値観だけが、旧態依然の不合理さに振り回されている。 


悪夢も覚めてみれば「夢だった」と思えるように、この国の閉塞と停滞も、長い悪夢だったと思えるくらいに、いつか覚醒してほしい。
 
誇れるし、結果も出せる国だということを、みなが思い出してくれたら。
 
 
そのためには、まず怒れること。
 
 
今回の作品は、怒る勇気と正しい怒り方を伝えるために書き下したもの。
 
この社会への遺書として、それくらいの思いをこめて書き抜いた本。
 
 
届いてほしいし、生き延びてほしいと願っています。



マガジンハウス『怒る技法』2023年



2023年3月25日

出家のひとりごと


出家は、静寂を好む。


世の中に向けて語ろうという発想はなく、真実は、通用する人との間だけで成り立つ相対的なものだと、今はよくわかっている。

かつては、世の中、変わりっこない ⇒ だから絶望 ⇒ 出家 というルートを進んだわけだけど、

今は、世の中、変わることは難しい ⇒ 真実が成り立つ関係でのみ関わる という生き方ができている。


これほどに個人の遺志も社会意識(社会はどうあるべきか&自分は何ができるかという問い)も弱体化してバラバラになってしまった日本社会から、

いっそ再び「中退」してもいいかなとは思ったりするけれど、

 

それだと取り残されてしまう日本の人たちを置き去りに気がするし、フェアじゃないと感じるので、

やっぱりこの社会の中で生きていくしかないだろうなあと思います。


出家としては、おひとよしなのかもしれません。世の苦しみから目を背けることが苦手。放っておくことができません。


とはいえ、できることは限られているし、言葉が通じる人(相手)の数には限りがあるから、この手と言葉が届く範囲でのみ道を貫くという生き方に、おのずとたどり着きます。


真実の道をゆくこと、己にとっての真実が通じる範囲で生きることは、おのずと狭く細いものにならざるをえません。


肝心なことは、歩き続けること。

途中、浮き沈みも、汚れることも、立ち止まることもあるのが、人生です。

だけれど歩く。

 

歩き続けたという事実が、「生きた」という納得になる。人生の価値を作る。


人生の価値は、歩き通した後でなければわからない。とにかく歩く。生きるのみ。それだけが答え。


前に進むことだけは、放棄しない。




2023・3・17

痛ましい世界~ミャンマーの人たちを想う


日曜の昼下がり、東京・飯田橋界隈で在日ミャンマー人のグループが募金活動をやっていた。

引き返して、以前ミャンマー旅行に行った人から預かっていた寄付(USドルとミャンマー・チャット)と気持ちを持って行った。

総額がいくらか数えていないが、分厚い束だったから、それなりの額だろうと思う。半分に分けて、二か所のグループに手渡した。

彼らにはなんの罪もないが、絶望的な状況に置かれているのは事実だ。傲慢な軍人たちが権力を手放す日など、本当に来るのだろうか。


ミャンマーを旅して、いろんな人たちに出会った。みんな善人。普通の人。

当時、唯一物足りなく感じたのは、人々が仏教を信じすぎていたこと。貧しいのに、その原因を見つめることはしていなかった。本当は、仏教も共犯かもしれないのに。

よき来世のために功徳を積む――その実践が、仏塔を建てたり長老・比丘に布施をしたり。

「来世のため」の布施なのだから、結局は、利欲に基づく行いと言えなくもない。信仰心に見えて、その本質は利欲。彼らが託すのは、来世への期待を得るための対価だ。


その対価を受け取るのは、寺の長老たちと、その背後にいる軍人たちだ。

長老も軍人も、巧みに仏教を利用して、人々の心をミスリードしていた。「輪廻信仰」は、彼らにとって最も都合のいい理屈だ。

今のミャンマーの状況は、彼らの魂胆が剥き出しになったというだけ。理不尽な構造は、ずっと続いていたのだ。

私欲を隠し持った人間と宗教にいくら期待をかけても、最後にたどり着くのは、彼らの魂胆が明るみになることしかない。支配、抑圧、搾取。異議を唱えた者たちへの弾圧と暴力。

ミャンマーの現状は、その一例だ。


私が、いや本来の仏教が「動機を見よ」と語るのは、結局、人間の動機を超える未来など存在しないからだ。

動機(思いの原点)に貪欲と傲慢が潜んでいる限り、そうした動機を隠し持った人間・組織・制度・思想にどれほどすがっても、最後に待っているのは、悲劇である。


そうした結末を見抜けないのは、すがる側にも都合のいい妄想があるからだ。

人間は、自分の妄想に囚われることで、他人が隠し持った動機に、簡単に騙されてしまう。


起きている事態は違えども、世界中で同じことが起きている。日本においてもだ。

 

気の毒に過ぎる。



人の幸せを第一に願えること。

人の痛みを思いやれること。

まともであることが、結局は正しい生き方だ。本当の価値を生みだす源泉となる生き方。



その当たり前の姿に、人々が気づく日は、いつか来るのだろうか。

 

 

受け取ったリーフレットの内容
怒ることだ でなければ滅ぼされる



 2023年3月