これは、仏教およびこの場所においては、もはや古典ともいえるテーマですが、
子供のあり方について悩んでいるという場合、
少なくない確率で、親自身が原因になっている(影響を与えている)ことが、ごく普通にあります。
子供の問題とは、すなわち親の問題である――
そういえるケースが多いのです。
なぜかといえば、
1,親は、子供が生まれた時から、基本的に強者である(立場が強い)。
なにしろ子供は自分一人では何もできず、言葉も話せず、親の一挙手一投足から生き方を学び(模倣し)、親の顔色をさながら自分の生死がかかっているかのような必死な思いで見つめ続けているのです。
親が怒れば、怯え、恐がり、傷つき、自分が悪いのではないかと自分を責め立てる。
親の機嫌がよければ、ああよかったと喜ぶ、安堵する。
子供にとって、自分が生きていられる場所は、家しかない。逃げ場はない。必然的に、親の顔色をうかがう他ない。
そのしんどさ、不自由さは、親の側はわからない。なぜなら家のことを決められるのは、親だから。
そういう圧倒的な立ち位置の違いがある。そのことが親にはわからない。
わかっていない時点で、親は強者なのです。
2,親は、その言葉、ふるまい、表情、顔色、すべてにおいて、子供の心に影響を与えている。
そもそも人のあり方が周りに及ぼす影響というのは、甚大なもの。
まして親子のように、朝から夜までそばにいて同じ空気を吸っているならば、なおさら。
それでも子供は最初は小さな生き物でしかなくて、親にとっては気兼ねが要らない。けっこう素の自分をさらしてしまっている。
その素の自分の中に、不安定な機嫌や、しつけや過干渉という名の妄想や、親がその親から受け継いだ心のクセ(いわゆる業)が潜んでいることに、
親自身は気づいていない。
そもそも人間は、自分のあり方に無自覚なものだから。
そして心のクセは、自分の日頃の姿の根底をなすものであって、自分の目に映らない(見えない)ものだから。
もちろん、親とは関係ないところで子供が問題を背負い込むことも、当然少なくない。
だが、子供のありようというのは、何が原因かは簡単にはわからない。場合によっては、かなり根の深い原因が隠れていることも多い。
だからこそ、あらゆる角度から、さまざまな可能性を検討する必要がある。
これは、病院で精密検査するのと同じ。いろんな検査をして病院の原因を突き止める。
場合によっては、本人が予期していない、「まさか」と思うような原因が明らかになることもある。
問題は、何が原因かわからない、もしかしたら親自身が原因かもしれない、その可能性が明らかになっても、親の側が冷静に、真摯に、謙虚に受け止められるかどうか。
場合によっては、本人が予期していない、「まさか」と思うような原因が明らかになることもある。
問題は、何が原因かわからない、もしかしたら親自身が原因かもしれない、その可能性が明らかになっても、親の側が冷静に、真摯に、謙虚に受け止められるかどうか。
親のあり方が変われば、当然、子供への影響も変わる。
親は強者にして、甚大な影響力を持っている。
親が問題である場合は、その負の影響力はすさまじいし、
親が子にプラスの影響を及ぼせる場合も、その力はかなりのものだ。
結局、最も大事なことは、子供の問題というのは、子供だけが問題(子供が変わればいい)というわけではなくて(親はついそう期待しがちだけれど)、
結局、最も大事なことは、子供の問題というのは、子供だけが問題(子供が変わればいい)というわけではなくて(親はついそう期待しがちだけれど)、
むしろ親のあり方も含めた、あらゆる角度からの原因とその改善策を探求しなければ、という親・大人の側の覚悟なのだろうと思う。これは真実。
子供の問題を抱え込んだ親の心痛や苦労は、察するに余りある。その点は本当に同情するのだが、
でも、自分のあり方を見つめるくらいは「どうということはない」(いさぎよく見つめよう)というくらいの覚悟がなければ、
子のあり方について悩んでいるとさえ、本当は言えないのではないかとも思う。
本気で子を思うなら、親が自分自身を越えていかないと。
この場所でずっと伝え続けている、普遍的なテーマです。
2024年10月