人生は損するくらいでちょうどいい


本当の考え方(人生観)というのは、いわばバランス感覚みたいなものかもしれません。
 
さまざまな不利益や不都合もふまえたうえで、「この生き方で間違いない」と最終的に思えるような生き方です。
 
たとえば仕事。自分が納得できる働き方ができている。


もちろん多少の不利益や損失や苦い思いも味わう。

でもそうしたマイナスは、納得いく働き方・生き方、つまりはいわば不動の軸をつらぬいていられるがゆえの対価みたいなもので、

あって当然のもの、必要なもの、なければ実は困るかもしれないもの、かもしれないということです。

日々に味わう苦さや不満もまた、自分が納得のいく正しい生き方・仕事をしている証拠。自分がもしかしたら「恵まれている」証拠かもしれない。

それは仕事に限らない。子育てもそう。人と関わること、家族を持つことも同じかもしれない。
 
細部を見れば、不満が残る。だけれど全体を見れば、不満以上に大きな満足・納得がある。
 
もし細部の不満を排除してしまえば、全体にわたる満足・納得も得られなくなる。
 
もし今の満足・納得を続けようとするならば、細部の不満はどうしてもついてくる。むしろ不可欠――。


それくらいに思っておくほうが、よいのかもしれません。あまり細部にこだわると、さずかっていること・恵まれていることが、見えなくなる可能性があります。


「損して当たり前」

「失うことは、与えられている証拠」

「時に不満もあるからこそ、幸せもついてくる」

そんな発想もあっていいのかも。苦労することが「当たり前」かもしれないという話。

多少のつらさ・しんどさがあるほうが、本当・本物の人生を生きている証拠かもしれないという話です――。




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