ある土地の話


不思議といえば不思議と言えなくもないご縁によって、

ある土地にたたずむ小さな家にたどり着くことになりました。

家というのは、持ち主のものであるように見えて、それだけではないところも実はあって、

持ち主(家主)はせいぜい数十年しか生きられないけれども、家はその後もその土地にあり続ける。家のほうが家主よりも長生きする。

とすれば、土地にとっては、家の持ち主よりは、家のほうが大事ということになります。

家主はあくまで一時的な預かり人であって、間借りさせてもらう程度の存在でしかなくて、

家主はその家を通して、その土地に貢献するというか、未来に遺しうるものを捧げる役回りを担うというのが、

家主の短い人生を越えて、もっと長い時間、長い土地の歴史を思えば、それが真実であることが見えてきます。


だからその土地に住まう人間とすれば、

その土地が迎え入れてくれるような調和と風合いがある家を、

家主がこの世界からいなくなっても、その土地の風光明媚に小さな貢献ができる外観を、

整えていくことが務めのようなものであり、

土地の風景がひとつのパズル絵のようなものだとすれば、その絵の美しさ・彩(いろどり)に小さく貢献するパズルの一片が、一軒の家ということになります。

だから家の持ち主の期待とは関係なく、むしろそれを越えて、その土地に喜んでもらえる、未来にその土地に生きる人たちにとっても親しみを感じられる、

そうした姿を造っていくことに、家主はつつしんで貢献するという心構えのほうが本来のあり方だろうと感じます。


その土地は、自分が幼い頃に訪れた美しい場所であり、十代の頃にもひとり自転車で尋ねたところです。

その土地には、1500年以上にわたり田畑を耕し、野山をいたわり、美しい風景を維持してきた先代の人たちと、

今も誠実に暮らしている人たちがいます。

そうした人たちが、これからも美しい風景の中で暮らし続けていけるように、未来を見すえて、小さなご縁をさずかった身の上として、できるかぎりのことをしてゆきたいと思っています。


この命なりに、その土地を愛すること。人を慈しむこと。

一人の人生は短く、儚い。

だけれど家は、土地は、一人の人生が土に還っても、続いていく。

やがてすべては消えゆく定めにあるのだとしても、

せめてその土地の未来を想いながら、その土地に住む人たちの幸せを願いながら生きていく。

そんな自分でありたいと思っています。


縁(めぐりあわせ)とは不思議なもので、ふさわしくない縁は自ずと潰え、ふさわしい縁だけがつながって、未来へとつながってゆく。

これもその土地が、土地にたたずむ家が、人を選んでいるのかもしれないとさえ感じることがあります。不思議なものです。
 
 
土地の皆さんには、ご迷惑をおかけしています。
もう少しだけ時間をください。
 
次のステージまで、あと少し――。
 
 
 
 
 

出す価値のある本だけを出す


 今、十代向けの生き方&学び方の本を書き進めています。

 2014年に出した『独学でも東大に行けた超合理的勉強法』の改訂版。とはいえ、全面的に書き直すことになりそうです。

 そもそも勉強法や学歴(といってもたかが学士卒に過ぎない)を売りにする風潮自体が、時代錯誤にして無思考の典型だろうと思っています。もはや飽和状態だし、こうした企画で本を出すこと&自分を語ること自体が、とっくの昔に社会全体が卒業しなければいけないはずの不毛で残酷な価値観を助長することになってしまいます。

 不毛というのは、試験という固定された制度の中で「いい点数を取る」ことと、社会における改善(問題の解決と苦しみの低減)との間に、相関性がないからです(直接の関係がない)。

 残酷というのは、学歴に価値を見出すことで、学歴を手にした者が称賛を、そうでない人が価値を認めてもらえないという偏りを作り出すからです。

 入試および学歴というのは、限られた椅子しかありません。椅子に座れる人(合格できた人)がいる一方で、どうしたって座れない人が出てきてしまう。

 しかし椅子に座れたからといって、社会の改善に貢献できるとは限らない。椅子に座れなかったといっても、学歴自体は(仏教的には)妄想に過ぎない。自分にできることをして社会の中で生きていければよく、本当は椅子そのもの(成績や学歴)に価値があるわけでもない。

 学歴があってもなくても、勉強ができてもできなくても、人は、自分のやり方で社会の中にひとつ居場所(仕事)を見つけて生きていければいいはずで、

 社会にとっては、その中に生きる一人一人が少しでも不安やストレスなく、逆に安心や満足をもって暮らしていければ、それが(それだけが)共通の価値といえるのだから、

 勉強、試験、学歴という、人間が作り上げたシステムそのものに価値があるわけではないのです。「たかが」の世界。しょせんは妄想。

 しかしそうはいっても、価値観もシステムもすぐには変わらない。むしろますます固定化しつつあるように見えなくもない。そうした社会に生きていかねばならない十代の人たちにとっては、学びも生き方も、現在進行形のテーマであることに違いはありません。

 自分自身が体験したことだからこそ、伝えて励ますことも可能になることは事実。自分がとうの昔に捨てた世界のことだからと捨ててしまうのも、歳を重ねた人間の傲慢と耄碌ということになりかねません。

 出す価値がある本しか出さないというのが、私の信念です。出す価値はあるーーいや、価値があるように中味を選び直してもう一度書き起こす。そこが挑戦のしどころかもしれません。

 どう書いても、世俗の価値観に迎合助長する側面を持つことは否めません。そうした価値観を嫌って生きてきた身にとっては、勉強や学歴を論じることは、どうしたって自己矛盾のジレンマを抱え込まざるを得ません。

 そういうジレンマさえも率直に言語化して、既存の風潮を突き放し、相対化して、時代・社会を越えて大切な学び方と生き方を伝える――そういう作品になればいいという結論に達しました。

 特定の大学や学歴をやたら話題にしたがる今の風潮は、明らかに間違っています。妄想をもてはやしたところで、社会における実利(本当に価値あること、つまりは人の幸福を増やすこと)は増えません。

「まとも」な生き方を伝えたい。少なくとも、まともな生き方は社会の風潮とはまったく別の場所にあるということを共有・共感できる人とつながることができればという思いで書き進めています。


仕事というもの


仕事とはどういうものでしょう。真っ当な仕事--人として守るべきこと、外してはいけないこととは、どういうものでしょうか。

仕事は第一に、人(相手)のためにするものです。

人が求めるものに応えて、人の役に立つこと。

そのことで自分の働きに応じた対価・報酬を受け取ること。

人のために役に立つ――ことが仕事の生命線です。

社会という場所は、お互いに役に立つことで、それぞれが必要としているものを手に入れることで成り立っています。

それが経済と呼ばれるもの。社会が社会であるための生命線です。



ところが、この生命線を掘り崩してしまう事態がたまに起こります(たまにであって、頻繁にではありません。頻繁に起きてしまえば、社会は崩壊していまいます)。

たとえば、自分の仕事・業務・役割を途中放棄すること。

この時点で、放棄した人や企業は、信頼を失います。なにしろ相手とかわした約束(契約)を自分から破棄してしまうのだから。

最初に約束したことを平気で覆すこと。できますと言ったことができなかったり、やりますといったことをやらなかったり。

悪質になると、客からお金を受け取ったまま逃げ出すとか、姿をくらますとか。

さらに輪をかけてひどいのは、自分の不手際を棚に上げて、逆に相手(依頼者・客)のせいにし始めるとか。

自分の仕事を省みずに、相手に責任転嫁する――ここまでくると、もはや「終わって」しまいます。人間として。仕事として。




この社会は、誠実に、自分の役割を果たす人や企業によって回っています。

誠実さとは、自分の仕事の質に向き合うこと、責任を負うことです。

どんな理由があろうと、自分がなすべき仕事がおろそかだったり、一定のレベルを下回っていたりしたら、その時点で仕事とはいえなくなります。

仕事には、越えなければいけない一線(クオリティと呼ばれるもの)があります。

その一線を越えなければ(上回らなければ)仕事とはいえないし、責任を果たせているともいえません。

その一線を死守しようと全力を尽くすことーーそれが 誠意 と呼ばれるものだろうと思います。

誠意をもって仕事をする。手を抜かない。いつ見られても大丈夫なように、ていねいにやる。

もしできると約束したことができなかった、ミスがあったと判明すれば、できるかぎりのことをする。

まずは謝罪。とりうる対策(いわゆるアフターフォロー)。ときに賠償など。

それをしないなら、一線を下回ったままの自分になってしまう。仕事失格。人からお金をいただく資格ナシ。

それが自分にとってイヤだから、そのままでは社会の信頼を失い、今後の仕事を失ってゆきかねないから、できる限りのことをする。

それが誠意というもの。真っ当な人間・企業は、こうした誠意を持っています。


もし誠意を見せることができれば、過去の過ちは「一時的なものだった」と受け止めてもらえるかもしれません。逆に信頼を勝ち得ることもあるでしょう。犯してしまった不手際やミスも、今後の成長と信頼の肥(こや)しになりうるのです。


どんな仕事も誠実に

人間として、企業として、組織として、業者として――

それが、仕事をする人たちの絶対の生命線なのです。



ところがごくまれに、この生命線を断ち切ってしまえる人間・企業がいます。

だます、嘘をつく、お金を持ち逃げする、言い逃れする、責任転嫁する。

自分(たち)に責任はない と言い張ろうとするのです。

そのくせ自分たちの面子、立場、利益だけは死守しようとします。

これは絶対にしてはいけないことであり、最も愚かなことです。

というのも、「一線を下回った仕事」をした事実は否定できないから。

事実を否定して、そんなことは言っていない、していない、自分たちに責任はない、と言い張った時点で、

言い逃れをする幼すぎる子供か、社会に反する存在へと堕ちてしまうのです。

よく聞こえてくる企業の不祥事、ミスの隠蔽、リコール問題、リフォーム詐欺、悪徳商法、医療過誤、突然の閉校といった事件は、そうした不誠実が明るみに出たものです。

中には、単純なミスやごまかしから始まったこともあるはずです。ところが対応を間違えて、事実を否定したり、言い逃れをしたり、責任転嫁をし始めた時点で、

自分の不誠実が露わになり始めます。取り返しのつかない「罪」とさえ化してゆく危険も出てきます。


どんなに言い逃れをしても、人のせいにしても、

自分がなすべきことをしなかった、

できる、やれると約束したことができなかったという事実は、覆せません。

その事実を否定し、責任を取ることを拒んだ瞬間に、その人間・業者は足元を掘り崩していくのです。



その喪失は、実は最初の出来事だけでは終わりません。

言い逃れをした、嘘をついた、できると約束したことが実はできなかった、こともあろうに客のせいにし始めた――そうした事実が残ります。

嘘や不誠実は必ずバレるものです。そこから着実に信頼を失い、社会における居場所を失ってゆくのです。


あったことをなかったと言う。なかったことをあったと言い張る。

プライドや思惑にしがみついて、事実と異なることを主張して、

お金や立場や看板だけは守ろうとして、

次第に不誠実が積み重なっていく・・。

その不誠実が明るみに出た時点で、もっと大きなものを失うのです。

詐欺まがい、それどころか明確な犯罪になってしまうような事態も、最初は小さな否定から始まるものです。

それでも通用するだろうと思う。社会という場所を甘く、軽く見る。

その小さな、しかし邪悪な、傲慢そして現実を直視しない未成熟さが、ますます黒い墓穴を大きくしていくのです。


実は、自分の心は、そのことに気づいていたりします。

自分が言っていることと、実際にやっていることが違っている。

できると言っていることが、本当はできない。できていない。


そうした欺瞞(ごまかし)に心は薄々気づいています。

だから罪の意識が、時間をかけて積み重なっていきます。

表向きの善良さと違う、裏に隠した不誠実を、本当は自覚している。

結果的に、半ば、隠れた悪人として生きていくことになります。

ごまかしが陰り(嘘)となって、胸を張って仕事ができなくなってゆくのです。


そんな人生や仕事はあまりにみじめだから、

本当の誇りと倫理感を持った人や企業は、最初から最後まで責任をもって仕事を進め、過ちについては謝罪し、なしうる限りのことをして、

人が自分に託してくれた信頼と未来の仕事を、守ろうとするのです。

ミスしない、あるいは苦情を受けない人間・企業など、ありえません。誠実に仕事をしても、過ちを犯すし、人さまに叱られることもあります。そんなことは当然です。

十年、二十年、三十年と仕事を続けてきた人間なら、そんなことはわかりきっているはずです。

しかしそうした人たちは、自分の仕事に誇りと責任感を持っているからこそ、事実をごまかさないし、責任転嫁もしないものです。自らのミスは潔く認めて、信頼回復のためになすべきことを全力で果たします。 

そうした心がけがあるからこそ、ミスやトラブルの数より、仕事の成功・達成のほうが着実に増えていきます。

でもそれが仕事の「当たり前」のレベルです。ほとんどの人間・企業にとっては、そうした働き方が当たり前。

それが社会というもの。真っ当な人間が作り出す真っ当な仕事というものです。

仕事は、それほど難しいことではありません。

できます、やりますと言ったことは、責任をもってやる。

力が及ばなかった点は、いさぎよく認める。

詫びるべきは詫びて、せめて自分にできることを全力で形にしてみせる。

そうして鍛えられていく。信頼を勝ち得る。

培った信頼が、さらなる仕事を運んできてくれる。

信頼して仕事を依頼した相手(客)も満足。

依頼を受けた自分たちも幸福。

結果として、社会にプラスの価値や幸福が増える――。

そうした関係性、それが仕事というものです。本物の仕事は創造的で楽しいものです。


仕事を頼む人たち--客、患者、施主その他さまざまな人たちは、信頼するからこそ、大切なお金、時間、未来を託します。

そうした信頼に全力で応えることが仕事です。手を抜いたり、慢心したり、言い逃れや責任転嫁という「泥」を投げつけるような罪だけは絶対に犯してはいけないものだろうと思います。


誠実な仕事を重ねてゆきたいものです。

限りある人生の終わりに、罪の意識ではなく、純粋な誇りと納得が残るように。

 

 


看護学校の教室から

※草薙龍瞬は看護学校で1年生・3年生向けに倫理学の講義をしています。

下記は、1年生のレポート(コロナ禍の3年間を振り返る)についてのフィードバックです:

 

コロナ禍の3年間を振り返る(まだ①のみで可。検証は次回) をざっと拝見しましたが、みんな淡泊です。

3年間を振り返る のですよ? 数行で足りるのでしょうか。

小説とか伝記を読んだことがあると思います。自分が見たもの、聞いたことほか、具体的にリアルに描き起こしているでしょう?

自分の体験を言葉にするとはそういうことです。簡単な言葉でまとめてしまわずに、なるべく「忘れないように努力する」つもりで書くのです。

たとえば自分が通っていた学校の先生や友だちは、何を言っていたか、何をしていたか。家族や近所の人たちは?

テレビやSNSで何を見たことを覚えているか。世の中や人間関係、学校生活、家族関係はどう変わったか。

最初の1年はコロナ騒動、その後ワクチン接種が始まった。自分が覚えている場面(光景)は?

自分の正直な気持ちは? 何を考えたか?

体験は、言葉にしないと忘れてしまうのです。思い出せる(言葉にできる)のは今だけかもしれない。

そしてもしその記憶の中に、自分または誰かの苦しみがあったとしたら、忘れてしまうということは、そうした苦しみさえ見過ごして忘却してしまうということです。

そうなると何も学べないどころか、体験したこと、生きていたことさえ、無意味になってしまいます。

表面的な言葉で片づけないこと。5行以下だと(内容にもよりますが)点数はつかないかもしれません(実際3行程度で終わらせている答案あり)。

そしてもう一つ大事なことは、みなさんは看護の道に進むのだから、「人の苦しみ」に敏感になること(苦しみを先に見るようにすること)です。

だから、「たいへんだったけど、こんなことも学べた」といった一見前向きな感想で終わらせている答案もありますが、あまり良い評価はされません。

こうした前向きさは、本人だけの慰めでしかないのです。自分は前向きに受け止められたからといって、たとえば病院で将来出会うことになる患者さんの体験やその苦しみを癒すことはできないでしょう?

一見して、ポジティブ、前向きというのは価値を持つように思えるかもしれないけれど、皆さんに求められているのは、自分だけじゃない、周りの人たち、患者さんたち、あるいは世の中全体をよく見ること、

特に 苦しみ のほうを見ることなのです。

だからちゃんと苦しみを見ていたことが伝わってくる答案については高く評価します。

4月の最初の講義で伝えたことは「理解する」ことの重要性でした。看護師をめざすみなさんが最初に見るべきは「苦しみを理解する」ことなのです。

コロナ禍で自分は何を失ったのか、どんな苦しみ(不安やストレスも含む)があったのかを、正面からちゃんと語ること。

さらにはできれば、自分だけじゃない、周りの人たちの苦しみも「理解する」こと。そうした方向性で3年間を振り返ることがベストです。



健康な心と病みがちな心

5月のとある講座の中から:



ひねくれ者・・・でもそれが「考える」ということかもしれず。

無思考のまま、ありがたがると、この世界は大きく方向を間違えてしまう恐れがあって、実際にその恐れは顕在化している・・・

無数の無思考が積み重なって、本当の幸福や可能性というものがフタをされてしまっているーー

結果としての「世の中ってこんなもの?」「この状態で続いていくの?(続けていくつもりなの?)」と、そう疑問を覚える人たちだっているであろう、この世界の現状のような気もします。

個人的に考えたいのは、

特定の人物が驕慢にして狂慢に囚われてしまっていたことが真実であって、

その真実は姿を変えて、時代を問わず、どれほどミクロな日常の中にあっても、当然のように起こりうることであることも事実であるとして(それは前提としたうえで)、

そうした個人の傲慢がなぜ他の人にも伝播(うつ)るのか、なぜ人は容易に感化されてしまうのか、

そうした社会への影響(慢の感染拡大)を止めるには、どのような方法がありうるのか(言葉、思想、教育、制度、文化それぞれの面において)

を探究していくことです。そこを考えないと、慢の肥大化に歯止めはかからない。

もちろんブディズムの中に、その足掛かりというか、思索のための原型があることは確実ですが、しかしそれだけでは(ブッダの言葉のコピーと継承)だけでは足りないーー

今の時代に確実に影響を及ぼしうるような、別の方法を掘り起こしていく必要があるように感じています。

これは、方向性です。形にできるかどうかはわからないけれども、問題意識・目的意識として持ち続けるべきであろうと思える可能性。

慢という思いがもたらすものが、どれほどの可能性を殺すかーーもうしばらく歴史を追っていきたいと思っています(講座内で全部取り上げられるわけでもありませんが)。



日常を楽しむことができるのは、ひとつの才です。

才ある人は実は世の中にたくさんいる・・けれども、それは健康な心の状態にある人たちであって、その一方で、心の病気(慢はその一種)にかかる人たちもいるし、すぐ感染してしまう人たちもいる。

一人の人間においても、健康だったり、病気だったり、心の状態は時によって変わる。

できることなら、長く健康でいられるほうがいい。

そうした健康を保つ秘訣とはどういうものか。

まだまだ言葉にできる領域は残っています。言葉にしていきたいと思います。


追記: 思想とは、まだ言葉になっていない未知の領域を言葉にしていく知力のことです。微力ながらもそうした方向性を見すえて、世界の現実を見て考え抜く――そうした努力をこの場所は続けてゆかねばとも思っています。



2024年5月某日


子を失った親である人へ


ときおり、わが子が先に自らの意志で旅立ったという親である人が来ることがあります。

親であるその人は、その人なりに真摯な動機をもってやって来る――ものと本人は思っている様子です。

また、この場所や仏教ならば、自分が求める答えに近づけるのではないかという期待もある様子です。

しかし・・・

ひとめその姿を見た瞬間に、この命は、親であるその人と、自ら生きることを降りた子供との、あまりに遠い距離に愕然とすることがあります。

親であるその人が、この場所に訪ねてくる意図ーー本人が語る問いや動機というものが、

旅立っていった子供が求めていたものと、あまりにかけ離れている・・・


そうはっきりわかることが多いのです。


親であるその人が来た時、この命は、瞬時に「子供の側」に立ちます。

子供の目から見て、親であるその人がどう見えていたか、どう見えるかを、見据えるのです。


子供の目から見る親の姿ーー


それが見えた時に、子供の思いが伝わってくる気がしてきます。

「お父さん、また自分のことばかり話しているね」

「お母さん、またそうやって自分をかばって逃げ出すんだね」

「いったい、いつになったらぼくの話を聞いてくれるの?」

「いつになったら、わたしの気持ちをわかってくれるの?」


かつてこの世界に生きていたその子は、数えきれないくらいそう感じて、

泣いたり、怒ったり、ふさぎ込んだり、小さな絶望を繰り返したりして、

自分を守って、逃げ回って、都合のいい時だけ子供を利用して、都合が悪いことは子のせいにしてきた親に対して、

子供なりに精一杯言葉を発し、

伝わらないとわかったときはなんとか一人でやり過ごしながらも、

それでも心の底では、


お父さん、もっとわたしのことをわかってよ、

お母さん、もういいかげん自分を許してよ、わたしにも優しくなってよ、


と訴え続けてきた長い長い歳月が、透けて見える気がすることがあるのです。


この命が見るのは、子供の目から見た親の姿です。

親の側に都合のいい味方にはなりません。

正直にお伝えして、親であるその人は、子供のことをわかっていない。わかろうとしていない。


子をわかることよりも、自分のこと・・・自分自身の執着のほうを守っている、
 

子供からすれば、ずるくて、卑怯、自分勝手ーー


そう思えてくることが(それもひとめその姿を見ただけで)少なくないのです。


この命に見えるくらいだから、子供はもっと見えていたでしょう。見尽くしていたでしょう。

いらだちも、絶望も・・数えきれないほど重ねていたことでしょう。息が詰まるほどの至近距離で。


もし親であるその人が、自分勝手な執着を卒業して、

オレが、わたしが、という自分に求める思いを手放して、

本当の意味で大人になって、本当の意味での親になって、

大人であること、親であることに満足できる人であったなら、

子供をこれほどに傷つけたり、突き放したり、憤りを感じさせたり、追い詰めたりしなくてすんだのに、

つまりは子供はきっと今もすこやかに、笑って生きていられただろうのに――

と感じることが、とても多いのです。


親であるその人の姿、その人が語る何気ないひとこと、

そうしたものの中に、子供の目からすれば、

ぞっとするほど残酷だったり、

あきれるほど自己中心的だったり、

自分がかわいいがゆえに自分を守って、都合の悪いことからは逃げるというずるさだったりと、

いろんな真実が見えてきます。


私はそうした真実が見えた時(見えるまでの時間は本当に一瞬であることもあります)、

心の中で、今はこの世にいないその子に語りかけます――

「そうか・・・つらかったね」
「腹が立つよね」
「悲しいよね」
「絶望するよね」
「くやしいよね」

それが本当にその子に伝わる言葉かは、本人はもうこの世にいないからわからないけれども、そうした気持ちに染まることがよくあります。


子供の目からすれば、目の前の親は、自分がいなくなった後も、

やっぱり自分のことばかりで、自分勝手で、自分を守って、逃げてばかりいる。


「そうやって、また逃げるんだね、わたしから」

「そうやって、また私を傷つけるんだね」

と、この命は、今は亡き子供に代わって、親の背中に言葉を向けます。

お父さん、お母さんは、本当にずるい。


子供が生きていた間に、そう思うことができたなら、

「ほんとにずるいよね」と、その子の話を聞ける大人や友人が、そばにいることができたなら、

その子は絶望せずにすんだかもしれない。

ほんの少しでも、この世界にもいいところはあるんだな、生きてみてもいいのかな、と思えたかもしれない。

そんな思いが残ります。



子をなくした親は、仏教にすがろうとするかもしれないけれど、

親がそのままの自分を守るだけなら、その仏教は、自分に都合のいい言い訳、弁解、現実逃避にしかならない。もし慰めを感じる言葉があるとしたら、それはまやかしです。


もし親自身がほかの誰よりも、子供を追い詰めていたなら、傷つけていたなら、

その子が生きることを降りてしまうくらいの痛みや絶望を抱えるに至った「原因」の一つであったなら、

そうした親に伝えられる仏教など、ありません。

 

親のあり方・生き方が原因の一つとなって、子が生きることを降りた場合、

親は 罪人 なのですよーー。


伝えることに胸は痛みますが、真実です。

もし真実から目を背けるなら、親の罪は生涯続き、子は浮かばれず、

さらには親の生き方を支配する「業」は、子へ、孫へと、未来に受け継がれていきます。

 

かつて出会った親は、子に先立たれた動揺を紛らわせたくて、一生懸命お経を唱えていたけれど、

そんなお経は、申し訳ないけれども、親が自分自身をかばうための自己慰めにすぎません。

そんなことをされても、子供は嬉しくもなんともない。

「自分が旅立った後でさえ、まだ独りよがりの答えを出して、子供の思いをわかろうとしない、僕の、わたしの思いに耳を澄ませてくれない」


聞いてくれない親であるその人の姿を見て、ふたたび絶望するしかない。


世界でいちばんわかってほしかった相手に、わかってもらえないまま旅立った命は、

とても胸痛む真実だけれど、浮かばれないまま。


それはそうーー自分がなぜ生きることを降りたのか、

自分は生きていたころ何を思っていたか、何を本当は伝えたかったのか、

親であるその人に、かつてわかってほしかったし、

生きることを降りた後でも、やっぱりわかってほしいと思う。

そういう思いだけが、この世界に残ります。


誰にも聞いてもらえないまま。受け止めてくれないまま。


もし霊魂(たましい)と呼ばれるようなものが本当にあるとしたら、

わかってもらえなかった子供として短い人生を終えた霊魂は、

この世界を、いつまでもさまよい続けることになるでしょう。

なにしろこの広い世界の中で、自分の思いを受け止めてくれた人は、一人もいないのだから。

あまりにさみしく、あまりに孤独です。

そうして虚空をさまよい続ける霊魂と呼ばれるようなもの、かつて親であるその人の子供だった魂は、

受け止めてもらえなかったさみしさを抱えて、さすらい続けるほかないのです。


この命は、親の味方にはならない。そのような親に都合のいい話はない。

もし子に先立たれたという親である人が、私の前に来たならば、

私は、その子に代わって、その親の姿を見る。

そして子供の代わりに、湧き上がる思いを、親であるその人に伝えることになるだろう。


そんなに自分がかわいいですか?

子供が幸せに生きることよりも?


それは、親である人にとっては、自分の「罪」を突き付けられる時間になります。

優しくなどあろうはずがない。怖くてたまらない時間になるかもしれません。

なにしろ、自分がいかに自分本位だったか、自分しか見ていなかったか、子供としてそばにいてくれたその命に自分がいかに優しくなかったかを、突き付けられることになるからです。


それこそが本当は、子が生きている間に子が望んでいたことではあるけれど、

子の思いがまるで見えていなかった親であるその人にとっては、自分のあり方を正面から見せつけられることになるので、

よほどの覚悟と、本当の子供への愛情がないかぎりは、そうした場所には立てないだろうと思います。

これまでも、子に先立たれた親が訪ねてきたことはありました。

そうした親の姿を前にして、子供が生前に感じていたであろう思いが伝わってきたように感じる瞬間もありました。

ですが、子供の思いを伝える前に、親であるその人は逃げ出してしまうのです。

そのほうが楽だから。都合がいいから。


正面から受け止めて自分の罪を認めて、途方に暮れる(子からすれば、やっと泣いてくれる)親も、いなくはありませんが、

ほとんどの場合は、親であった自分を見つめようとはしません。できないのです。

 

すると何が残るか――。



わかってほしかった子供であった魂と、

わかることより自分を守ることを選んだ親であるその人との間に、

遠い、遠い距離が残ります。

永久に埋まらない距離。見えない平行線。


この世界は、そうした見えない絶望を無数に抱えて動いています。とても哀しい世界です。


いつか、いつか、いつか・・・子供だったその人の思いが届いて、浮かばれますように。

そう願いながら、仏者であるこの命は生きていくことになります。

それは深い哀しみでもあり、絶望でもあり。


でもこの命は、みずから生きることを降りたその子の思いだけは、いつでも受け止めよう、耳を澄ませようと努め続けています。

たとえ生きることを降りた後でも、その子の苦しみを置き去りにはしたくないからです。

たとえ親である人が、みずからの罪に恐れおののこうとも、

子が抱えていた苦しみには、絶対に及ばない。


だからこそ、親ではなく、亡き子供の味方でありたいのです。


自分自身を正面から見据える覚悟と勇気を、親であるその人がいつか持つことを、

この命は、子供であった命とともに、

ずっと待ち続けることになります。

 

子を失った親である人へ――


待ち続けている命があります。

親であるあなたが自分自身を見つめ直すことを。


本当は難しくありません。

そして、そのことが、旅立った命が最も望んでいたこと、心から喜べることです。


あなたの痛みを痛いほど感じながらも、あえてお伝え申し上げます。