ある土地の話


不思議といえば不思議と言えなくもないご縁によって、

ある土地にたたずむ小さな家にたどり着くことになりました。

家というのは、持ち主のものであるように見えて、それだけではないところも実はあって、

持ち主(家主)はせいぜい数十年しか生きられないけれども、家はその後もその土地にあり続ける。家のほうが家主よりも長生きする。

とすれば、土地にとっては、家の持ち主よりは、家のほうが大事ということになります。

家主はあくまで一時的な預かり人であって、間借りさせてもらう程度の存在でしかなくて、

家主はその家を通して、その土地に貢献するというか、未来に遺しうるものを捧げる役回りを担うというのが、

家主の短い人生を越えて、もっと長い時間、長い土地の歴史を思えば、それが真実であることが見えてきます。


だからその土地に住まう人間とすれば、

その土地が迎え入れてくれるような調和と風合いがある家を、

家主がこの世界からいなくなっても、その土地の風光明媚に小さな貢献ができる外観を、

整えていくことが務めのようなものであり、

土地の風景がひとつのパズル絵のようなものだとすれば、その絵の美しさ・彩(いろどり)に小さく貢献するパズルの一片が、一軒の家ということになります。

だから家の持ち主の期待とは関係なく、むしろそれを越えて、その土地に喜んでもらえる、未来にその土地に生きる人たちにとっても親しみを感じられる、

そうした姿を造っていくことに、家主はつつしんで貢献するという心構えのほうが本来のあり方だろうと感じます。


その土地は、自分が幼い頃に訪れた美しい場所であり、十代の頃にもひとり自転車で尋ねたところです。

その土地には、1500年以上にわたり田畑を耕し、野山をいたわり、美しい風景を維持してきた先代の人たちと、

今も誠実に暮らしている人たちがいます。

そうした人たちが、これからも美しい風景の中で暮らし続けていけるように、未来を見すえて、小さなご縁をさずかった身の上として、できるかぎりのことをしてゆきたいと思っています。


この命なりに、その土地を愛すること。人を慈しむこと。

一人の人生は短く、儚い。

だけれど家は、土地は、一人の人生が土に還っても、続いていく。

やがてすべては消えゆく定めにあるのだとしても、

せめてその土地の未来を想いながら、その土地に住む人たちの幸せを願いながら生きていく。

そんな自分でありたいと思っています。


縁(めぐりあわせ)とは不思議なもので、ふさわしくない縁は自ずと潰え、ふさわしい縁だけがつながって、未来へとつながってゆく。

これもその土地が、土地にたたずむ家が、人を選んでいるのかもしれないとさえ感じることがあります。不思議なものです。
 
 
土地の皆さんには、ご迷惑をおかけしています。
もう少しだけ時間をください。
 
次のステージまで、あと少し――。