5月のとある講座の中から:
ひねくれ者・・・でもそれが「考える」ということかもしれず。
無思考のまま、ありがたがると、この世界は大きく方向を間違えてしまう恐れがあって、実際にその恐れは顕在化している・・・
無数の無思考が積み重なって、本当の幸福や可能性というものがフタをされてしまっているーー
結果としての「世の中ってこんなもの?」「この状態で続いていくの?(続けていくつもりなの?)」と、そう疑問を覚える人たちだっているであろう、この世界の現状のような気もします。
個人的に考えたいのは、
特定の人物が驕慢にして狂慢に囚われてしまっていたことが真実であって、
その真実は姿を変えて、時代を問わず、どれほどミクロな日常の中にあっても、当然のように起こりうることであることも事実であるとして(それは前提としたうえで)、
そうした個人の傲慢がなぜ他の人にも伝播(うつ)るのか、なぜ人は容易に感化されてしまうのか、
そうした社会への影響(慢の感染拡大)を止めるには、どのような方法がありうるのか(言葉、思想、教育、制度、文化それぞれの面において)
を探究していくことです。そこを考えないと、慢の肥大化に歯止めはかからない。
もちろんブディズムの中に、その足掛かりというか、思索のための原型があることは確実ですが、しかしそれだけでは(ブッダの言葉のコピーと継承)だけでは足りないーー
今の時代に確実に影響を及ぼしうるような、別の方法を掘り起こしていく必要があるように感じています。
これは、方向性です。形にできるかどうかはわからないけれども、問題意識・目的意識として持ち続けるべきであろうと思える可能性。
慢という思いがもたらすものが、どれほどの可能性を殺すかーーもうしばらく歴史を追っていきたいと思っています(講座内で全部取り上げられるわけでもありませんが)。
◇
日常を楽しむことができるのは、ひとつの才です。
才ある人は実は世の中にたくさんいる・・けれども、それは健康な心の状態にある人たちであって、その一方で、心の病気(慢はその一種)にかかる人たちもいるし、すぐ感染してしまう人たちもいる。
一人の人間においても、健康だったり、病気だったり、心の状態は時によって変わる。
できることなら、長く健康でいられるほうがいい。
そうした健康を保つ秘訣とはどういうものか。
まだまだ言葉にできる領域は残っています。言葉にしていきたいと思います。
追記: 思想とは、まだ言葉になっていない未知の領域を言葉にしていく知力のことです。微力ながらもそうした方向性を見すえて、世界の現実を見て考え抜く――そうした努力をこの場所は続けてゆかねばとも思っています。
2024年5月某日