変わろうとしない父親たち

日々いろんな人たちの相談に応じてきて、たびたび思うことは、

父親・男親は、変わろうとしない生き物(であることが少なくない)ということ。

子供のことで相談に来るのは、9割がたは女親。たまに男親から相談の連絡が入ることがある。

ところが、相談に来る男親の多くに共通しているのは、「子供のことで悩んでいる、子供がこんなことになっている」と、子について事細かに説明するのだが、自分自身については見事にスルーしていたりする。

自分が存在していないのか、自分には非がないと思っているのか。さながら自分は巧妙に隠れて、子供が悪い、妻が悪いと言い立てているように映ることもある。

「ほとんどの場合、親の側に問題があります。あなた自身はどうなのですか?」というような問いを返すと、「考えてみます」とはぐらかして、それきりになる(笑)。

子供のことは、子供に聞かないとわからない。子供本人が来るなら本人に聞くし、本人に会いに行くこともある。家に上がって、子供や母親の話を聞く。すると出てくるのは、男親の数々の行状、いわば“犯行”である。真犯人は男親だったか、ということがよくあるのだ。


仕事に逃げる。黙っている。子供が傷ついているのに守ろうとしない。言葉数が少ない。要は、家の中で無力。

無力な男親――仕事くらいしかできることがなく、家では何もしない、口数も少ない――は多い。頼りなく、ある意味、ずるい。自分を守っているからだ。

端的に男親に原因がある場合も多い。実際の姿はさまざまだが、たいてい怒り、傲慢、怠惰、支離滅裂、無関心のいずれかだ。

 子供は、そんな父親から負の影響を甚大に受ける。その時、母親は?――守ってくれる・支えてくれる母親なら救いもあるが、母親もまた人間として偏っている場合、子供は家の中に当てになる人・守ってくれる人が誰もいないという事態になる。

これは最悪の環境だ。 期待すれば怒りと絶望。かといって完全にあきらめるのも至難。一緒に暮らさざるを得ないからだ。

男親が家の中で役割を果たし、きちんと理解者でいる家庭では、あまり問題は生じない。理解者であるとは、女親つまり妻の思いを聞けることであり、子供を距離を置いて見守り、経済的・精神的な支えになれること。こういうまともな男親がいる家庭は、それほど崩れない。

子供が前に進めなくなる場合には、男親に原因が隠れていることが少なくないのだ。隠れているというのは、男親が意図的に隠しているから。プライドが高い。都合の悪いことは隠す。オレは悪くない、オレはよくできた人間だ、オレは子供のことで悩まされているんだ、悩んでやっているオレはやっぱりエライのだーー

という結局は、自分はキレイなままでいたいという小さな慢を、内心必死で守り抜こうとしている――そういう男親とたまに遭遇する。この場所でたまにということは、世の中には大勢いるということだ。

妻・子供の問題については考えてやるが、オレは問題ない(なぜオレが変わらねばならぬのだ?)--というのが、その本音なのだろうと思えてくる。



男親として真剣に学び、変わろうとする人たちもいる。強く尊く立派な人たちだと思う。世の中の比率としてはかなり低い希少な人たちだ。

男親の務めは、やはり第一は仕事なのだろうと思えてくる。働いて家を支えるなら、最低限の役割は果たしている。だが働くことが免罪符になるわけではなく、家族における「理解者」であらねばならぬ。これは、家族としての当然の役目だ。

ところが、理解者になれぬ・及ばぬ男親が少なくない。仕事だけで正当化せず、人として最低限理解しようと努力できるかどうか。 まだまだ学べることはあるのに。まだまだ変われるし、変わらねばならぬのに。


もう一度心のターボをふかして、「変わる」と念じてみるとよい。



人として成長し続けること以上に、価値のある生き方があろうか。


残念ながら、変わろうとしない男親にこうした言葉が届くことは、ほぼないのだが。



大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ

活字が読みづらい人は、まずは声で聞いてください


 

2022・9・13