この二か月、いろんなことを考えた。
生きていくことは、先立っていった人を置き去りにしてしまうことのような気がした。
かといって、生きることを降りるのは、生きる人たちを置き去りにすることにもなって、
生きるということは、どう選んでも、悲しみを置き去りにしてゆくことなのだと思わなくもなかった。
この世界は、痛みに満ちている。
生きることは、悲しみを抱えて息をすることだ。
その絶対の真実のうえに、生者の世界は成り立っている。
悲しみを知った人にとって、
この世界は、あまりに暴力的で、無慈悲で、無自覚で、無理解で、傲慢で、無神経な場所だ。
生きていけるくらいに無理解で強い人間たちが作る世界。
悲しいことは、そうした世界以外に、人は生きる場所を持ちえないということだ。
このどうしようもなく悲しみに満ちた世界のうえで、人は生きていくしかない。
降りたところで、悲しみの数は減らない。むしろ増えてしまうかもしれない。
だから人は、悲しみに打ちひしがれそうになっても、歯を食いしばって、ときには忘れたフリをして、あるいは背負えるだけ背負って、最後の最後まで生きてゆくしかない。
結局、人に選択肢は残されてはいないのだ――
生きられる限りは、生きてゆく
それしかないのだと。
僕は生きてみることにするよ。
置き去りにはしない。
この世界に生きている人たちのことも、
旅立って行った人のことも。
頑張るからね。
ずっと覚えています。
ここからは、もう一度自分に戻ります。
いつもどおり。
これまでどおり。