本格的な春到来でしょうか。
〇〇の拠点づくりは順調に進んでいます。
と同時に、「しっかり育てていかないと」という強い思いも新たにしました。
ちなみに、「しっかりやらなければ」という思いをプレッシャー(過重な責任感)に変えないためには、「(できることから)やってみる」という発想に切り替えることがコツです。
やってみるだけ。やるだけ。
まずは、夏以降に現地に移って(猫のサラも移住予定)、地元の人たちになじんで、
地域の子供たち、そして興道の里(大人)経由で足を運んでくる十代のみんなに向けて、簡単な寺子屋(授業)から始めたいと思います。
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いくつか大きな隠れテーマ(あまり表立って言わない目的・方針)があって、
その一つは、「評価しない」ということ。
学び・勉強の仕方は伝えるし、結果的に成績が上がるだけのクオリティは維持するのですが、課題・問題に取り組むとしても、それに点数をつけたり、一時的な評価をしたりはしないようにしようと思います。
勉強、イコール評価(数値化)--という物差しが、どうしても学校・受験、つまり十代の人たちの世界にはつきまといがち。
でもそうした評価を、良し悪しを測る基準にしてしまうと、
もっと大きな、もっと広く深い、学ぶこと自体の面白さというものが、見えなくなってしまうと思うのです。
評価という物差しを外しても、面白い、知りたい、考えたいと思える心が最善。そうした心であれば、
大人になっても、歳をとっても、知ること、考えること、学ぶこと、体験すること、成長することが楽しくなる。純粋に楽しめる。
硬く表現するなら、「自立した知性」をアタマの中に育てる。
自分で学び、自分で知り、自分で考えて、自分で人生を創っていく。
評価されなくても、誰かに認めてもらわなくても、他人・周囲が別の方角を見ていても、
「人は人。自分は自分で答えを出す」
そういう生き方こそが本来の「当たり前」だというところに立てる人間をめざしたいのです。
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なので、寺子屋で伝えることも、大人になった(なってしまった)私にとって意味あること、面白いと思えるものにする予定。
教科書・参考書も、面白い・役に立つと思えるものがあれば使うけれど、つまらないと感じたら(大人の自分が伝える気になれなければ)遠慮なく捨てて、別のものを使う。
伝える側(いわゆる先生)が、「これは面白い、伝えたい」と思えるかどうか。そこまで心動くものを使わないと、伝える側が楽しめない。当然、受け取る側も楽しくない。当たり前。
自立した知性というのは、年齢・学年を超越している。だから大学生でも、院生でも、社会人でも面白いと思えるであろう内容かどうかを、その時間・教材の中味を決める基準とする。
そうした大きな価値・本質というものを保つことを前提に、子供たち(主に小学5年生以降を想定)に伝わる言葉・内容を工夫していく予定です。
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これ、けっこうハードルが高い。自分の心が若くないと(面白さがわかるくらいのみずみずしさがないと)、面白さがわからないし、伝えようというモチベーションも維持できない。
そこで寺子屋の完成と同時に、自分なりに禊(みそぎ)のイニシエーションをしなければ、とも思っています。
つまりは生活と仕事内容の刷新。古いものを持ち越さない。
興道の里も、第2章、いや完全な新章に入るということです。そうしましょう^^。
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この場所(みなさんとのつながり)は、そのまま生きていきます。器として大事に守っていきますが、中身が入れ替わるということです。
中身は、新たな拠点で始まること、始めること。
こういうのは、行動あるのみ。やってみよう、ということです。
写真ありがとうございます
2025年4月初旬