日本全国行脚2024 大分日田・咸宜園


羽犬塚から久留米乗り換えで日田に向かった。筑後川が造ったであろう沖積平野に広がる緑を見渡しながら、列車はゆっくりと標高を上げていく。

日田は、山岳のくぼ地に合流する複数の川が造った盆地だ。『進撃の巨人』の作者出身の町だそうで、駅前には「進撃の日田」と銘打った幟やポスターが目立った。物語冒頭に巨人が出現した巨大な壁(ウォール・マリア)に見立てたダムやミュージアムが近くにあるらしい。ファンには楽しい街かもしれない。




駅前で自転車を借りて、咸宜園(かんぎえん)へ。日田は、夏は全国最高気温を記録するほどに暑く、冬は氷点下になるほど寒い土地らしい。この日も日差しが烈しかった。






創立者は廣瀬淡窓(ひろせたんそう)という江戸中期(1782年~)の豪商の長男。病弱ゆえに家督をあきらめ、学問と教育を生涯のテーマにしようと決意して、24歳の時に寺の学寮内に最初の塾を開いた。

その土台は、勉強好きの叔父夫妻(6歳まで叔父が建てた秋風庵で育っている)と、6歳以降に漢学(孝経・四書・詩経ほか)を教えてくれた父や寺の内外の大人たち。福岡の私塾に寄宿したこともあるという(16歳から2年弱)。学びの文化は江戸期には定着していたのだろう。

咸宜園は、藩主や幕府の後ろ盾がない純然たる私塾だ。豪商ゆえに可能だったであろう事業。咸宜とは、詩経から引いた言葉で、「ことごとくがよろしい」(≒入門に身分・条件を問わず)という意味だと説明されることが定番だが、淡窓には独自の解釈(思い)があったような気もする。

入門に身分・学歴・年齢を問わない(三奪法)。学ぶ意欲さえあればいい。入門規約や塾則を設け、当番を割り振って、会計、食事から清掃、図書の管理まで、学生たちにさせたという。

明治30年に閉じるまで、約90年にわたり、延べ5千人近くの門下生を育てた。多いときは1年に2百名を越える門下生がいた。豊後高田に分校を開いてもいる(淡窓47歳)。

咸宜園が盛況だった理由は、どこにあったのか。足利学校や弘道館と違って塾費を集めての経営だった。廣瀬家は商人だったから、商人階級の子供たちも多かった。経営面は順調だった可能性があるが、続かなかった。今は国指定の史跡と化している。

特徴的なのは、試験を毎月実施して、席次を決めたこと(月旦評)。最上級から最下級まで19等級に分かれて、各級にも上下があった。

筆記(書・詩・文・句読)と平常点と口頭試問で成績を評価。全員の名前と順位を掲示。入った時は横一線だが、ひと月経てば誰が優秀かはすぐわかる仕組みだ。このあたりは進学塾の先駆け的匂いも感じる。

順位をつけることは、モチベーションにつながる部分もあろうが、度を越すと順位を上げることが目的化するおそれがある。成績上位の学生に歪んだ優越感や尊大さが育つ可能性もなくはない。咸宜園は、他の教育遺産と比べても、競争原理を採用することに躊躇いがなかった印象を受ける。

さらに目を引いたのは、多くの政治家や官僚を輩出していること。

大村益次郎は、戊辰戦争で官軍側の参謀を務め、明治維新後は日本陸軍の基礎を築いた。

長三州(ちょうさんしゅう)は、勤皇の志士として大村とともに戊辰戦争の参謀を務め、明治維新後は太政官(立法・行政・司法の全機能を担う最高機関)の官僚に。文部省局長として近代学制を主導した。伊藤博文や山形有朋は「門人」とも。

長三州は大正デモクラシーに反対したとも聞く。

咸宜園には他にも、枢密院議長から内閣総理大臣になった清浦奎吾、検事総長・大審院長を務めた横田国臣、海軍軍医総監の河村豊洲、尊皇攘夷活動家で三菱・三井の両財閥を渡り歩いた実業家の朝吹英二、東京女子師範学校長をへて貴族院議員になった秋月新太郎など、明治期の公権力の一端を担う要人を輩出している。

咸宜園が是とした競争原理、上昇欲の肯定が、卒業生の生き方に影響した可能性はないか。少なくとも倒幕から近代化、中央への権力の集中という時代的潮流と整合するような塾風はなかったか。

最も特徴的だったのは、松田道之についての記述だ。滋賀県令、東京府知事などを歴任し、明治政府による琉球処分に「活躍」と記されている。

あきらかに官軍目線(^w^;)。琉球処分とは琉球王国が滅ぼされた出来事だが、それを活躍と言ってしまうのは、さすがに今の時代にそぐわない。

勉強に励み、成績を上げ、塾内トップをめざし、卒業後は立身出世というわかりやすい人生街道。それを礼賛する空気は、かの時代に強かったし、咸宜園の校風だった可能性がある。
 
ということを仮説として考えながら見ていたら、なんと、仮説をそのまま裏づけるといっていい史料があった。「咸宜園の出にして世に名をなせし人々」の名を並べた当時の掲示物があったのだ。
 

この夏日本遺産をまわって見えてきたことは、礼節と人生訓という儒教ベースの教育は共通している半面、それぞれに個性があるということ。あまり語られない点だが、創立者の身分・目線・教育観、さらには時代背景や土地柄が、けっこうな度合いで影響している。
 
だがその影響は、遺産として残る校舎ほどには、明瞭な姿で残っていないのだ。この場所でかつてどんな教育をしていたか、どんな空気が流れていたかを推し量るのが難しい。だからこそ「遺産」なのか。もはや現代に活かせる内容を取り出すのは、難しくなってしまったか。

古い寺を廻った時に感じることだが、今に遺(のこ)る建物は箱でしかない。かつては箱の中に中身があった。生きていた。なぜかといえば、教える者、学ぶ者が、つまりは人間がいたからだ。

人間が消えた箱は、ただの箱でしかない。かつてこんな教育をしていましたという記録が残ったとしても、現在進行形で続く教育がなければ、箱そのものにさしたる価値があるように思えない自分がいる。
 
立派な箱を持った学校・塾・予備校は、今の時代に溢れている。そうした場所が将来に滅びたとして、箱だけをありがたがるだろうか。ありがたい(価値がある)のは、箱ではなく、箱の中身であるに違いない。

教育は、あくまで伝える側と学ぶ側との生きた関係によって成り立つ。学ぶ側は生まれてくる。伝える側の個体はやがて死ぬ。

死んでなお残る、残せる教育とは、どんなものだろう。どうすれば可能になるか。やはり言葉か。いや、言葉だけでは足りないように思う。

最も残さねばならないものは、未来につなぐシステムのようなものだろうと思える。智慧、意志、生き方を継承する仕組み。未来の心に残りうる力を持ったもの。

それが実現すれば、未来にも教育を通して過去の人が生きることが、可能になる。未来に残せるようになる。

システムを残す――という主題をもって、教育を進めていくことにしようか。

  ◇

翌朝に周囲を散歩した。三隈川の清流が勢いよく流れている。水流豊かな支流の間に中洲があって、公園になっている。これが水郷・日田と呼ばれるゆえんか。

あの種田山頭火も、道中に立ち寄った場所。分け入れば水音 とは、日田近くでの一句だそうだ。

山頭火は九州を好んで旅した。たしかに土地の陰影が深く、地熱というか山の霊力というか、どこをめぐっても本州とは異質の神秘とダイナミズムが足元から伝わってくる気がする。

分け入っても分け入っても青い山(山頭火)。

山頭火のように一族の業に翻弄され彷徨い続けた人間には、九州の地は、心の闇を忘れさせてくれる力があったのだろう。


濃緑の葉を茂らせたイチョウの大木に出会った。石碑には“特攻イチョウの木”とある。日田から飛び立った特攻隊の青年が、この木の上空を旋回して故郷に別れを告げて、帰らぬ人となった。

日本人は、あの戦争を、遠い過去の特殊な出来事としてとらえている。もう二度と繰り返さないだろうと、それくらいに日本人は賢くなったはずだと、少なくない人が思い込んでいる。

だが、人間の業は、そう簡単に変わるものではない。事なかれ主義、周りに合わせて安心してしまう臆病と無思考の業は、今も変わることなく続いている。
 
その顔をのぞかせる出来事は今も起きているのだが、あの戦争と、今の日本社会に起こる出来事は別物だと思い込んでいる。だが実はそうではないのだ。

どうしようもなく根の深い無思考という病。この病が伝播しないように、自立して思考できる人間を育てる努力を始めるしかないではないか。


特攻イチョウの木
日本人は走り出したら聞く耳を持たない


ハグロトンボのつがいがくっつきながら飛んでいた 
生命は今を生き、未来につなげることだけにひたむきだ 
二か月ほどの命というが、短いという思いさえないだろう 
つまりは永遠を生きている

 

水郷の朝 今回の旅で最も絵画的な一枚



2024年8月末