まずは寺子屋づくり

 
談話会、出張法話、ひとさまの個人相談、暮らしに役立つ仏教講座・・・。
 
まずは場所をみつけなきゃ。

最低六畳と作務(仕事)部屋が2、3畳、が必要かな。

地続きで、朝も夕もいろんな人が訪れて出会えるオープンな場所をつくりたい。

曜日ごとにクラスをつくって、大人のみなさまには<暮らしに役立つ仏教講座>を。

子供たちには<寺子屋の国語>教室を開きたい。

仏教にこだわる必要はない。宗教にはしたくない。
 
龍瞬は、現実性(実際に役立つこと)を重視します。
 
難解な仏教用語や、心に届かぬ道徳論はごめんです。
 
一応、僧侶として活動を始めるけれど、その内容は仏教に関係なく、
 
この国の幸福に役立つことを、すべて扱いたい。

心の「もやもや」を拭き清め、すっきりぴかぴかにする。
 
悩み苦しみが、雲晴れるように解決できる。
人生に希望を、正しい方向性を見つけることができる。

家族や仕事、学校の勉強――それぞれのステージで必要とされる、
 
その人にとって切実な問題をクリアできる、
 
そういう現実中心の学びができないと意味がない。

仏教を伝えることの自己満足より、
 
ひとさまの幸福、問題の改善に役立つことが眼目なのです。

多くのひとびとに出会いたい。善き関わりを創っていきたい。

てなわけで、寺子屋(教室)を探し始めます。

無名の一出家僧に部屋を貸してくださる有徳の人は見つかるだろうか。

はてさて。
 
よきご縁がありますように。

はやくみなさんに出会えますように。
 
 
 
2010年9月11日
 
 

プロローグ しあわせの国づくり

 
この国の苦しみの深さに圧倒される思いです。

2006年、インドにて得度出家しました。
ミャンマーで瞑想修行をし、仏教大学で仏教学。
インドに戻って、村落開発NGOを立ち上げました。
タイに渡って仏教大学に滞在(文献研究)。最後に瞑想修行。
 
2010年夏、日本に帰国。
 
この国を覆う閉塞感、神経症的な圧迫感。

変わらねばならないことは一向に変わらず、
強制と義務ばかりが水かさを増しつつある気がします。

人々は礼儀正しく、勤勉。
町の美しさは日本人の心の善さを反映しているかの様子。

娯楽はふんだんにあり、物は溢れ、物価はそれなりに安い。
そこそこに満足している人々も多い印象です。

しかし・・・
もっと巨(おお)きな不満・苦痛・失望が、人々の心の底に積み重なりつつある気がします。

本当は、もっと善き国にできるはずなのに。

この国には選択肢がない。解決策が見つからない。

言葉にならない疑問を抱えながら、そこそこの日常を過ごして、人生の終幕を待っている。
そんな生活感がひとびとの顔にかいま見える気がします。

この国は、このままでよいのか。このまま行ってしまうのか。

あと50年、100年・・・失われた過去20年と同じように、
無為に過ごせば、あっという間に時間(とき)はすぎていくはずです。

この国を作り変えるものは何か。

戦争か。維新か。天災か。もちろん否(いな)。

国を新たにするのは、法制度であり、メディアの情報の質であり、
人々が共有する価値観・方向性によってです。

その基本は、心をつくること。

僧侶としての私は、海外の現実を見て、伝統を固守するだけの仏教には
希望はあまりないと知りました。

しかしこの身の半生にわたる苦悩・懐疑が、
ブッダの教えによって解(ほど)かれたのも事実です。

おそらく、この国で沈鬱のままに伏す人々のなかには、ブッダの知恵が、
その幸せに役立つこともあるでしょう。

ブッダの教え・生き方は、個人の幸福に役に立つ。

それを身をもって知るこの命は、一出家として、
この国を”しあわせの国”へと変える役回りの一つを担うべきなのだと感じています。
 
自身の先行きは見えません。定住の場所すら見つかっていません。

しかし、ひとつの”はたらき”を、この国にて開始せねばなりません。


みんな、もっと幸福になれる。
この国は、もっと幸(さち)ゆたかな国になれる。


この命なりの
しあわせの国づくりを始めます。
 

2010年9月9日
草薙龍瞬(くさなぎりゅうしゅん)