「いい人」はあやうい


「いい人であろう」とすると、間違う可能性が高くなるのかもしれません。

なぜなら、いい人かどうかを判断するのは、他人だから。「他人にいい人と思われよう」と考えた時点で、他人による評価をこちらが妄想しなければならなくなります。

他人にどう思われるか・見られるか・評価されるかを、つねに妄想していなければいけない。これはかなり疲れます。

しかも、その妄想に合わせて、自分が演技しなければいけなくなります。

その時点で、本当の思いや感情、いわゆる自分らしさから離れていきます。


一般にいわれる過適応、乖離、自己疎外、生きているという実感の希薄さは、他人の評価(評価もまた妄想です)に合わせようという妄想から来るのです。


ならば、どんな人間であろうと心がければいいのか。

ひとつは、「正しい理解に努める人」かもしれません(かなり仏教的な表現ですが)。

自分の思いを自分で理解しようと努める人。

人の思いもよく理解しようと心がける人。

そして自分の思いを、必要な時は相手に伝えなければと発想できる人です。



怒りを感じた時は、ごまかさずに「怒りがある」と事実を理解する。

それが人への怒りなら、その扱い方を冷静に考える。自分の側の思い込みが原因かもしれないし、相手のふるまいが原因かもしれない。

前者なら、「流す」ことを選ぶことになるし、後者なら「これは伝えることが筋」(伝えないなら流す)と発想できることです。『怒る技法』でお伝えしたこと。


 

怒らない人、いつも穏やかな人が「いい人」だというなら、怒りの理由を相手に伝える人は、「いい人」とは言えないかもしれません。

しかし、「いい人」でいるために怒りを抑圧することは、解決策にはなりません。怒りが蓄積していきます。やがて、怒りっぽい人、何かに怒っている人、根に持つ人、キレやすい人になっていく可能性があります。鬱になってしまうかもしれません。

「いい人」でいようとするばかりに、自分の感情にフタをし続ける――自分の思いを直視しない。理解していない。その無理解(難しい言葉で言えば否認であり自己欺瞞)が、”モヤ”を作ります。本心と建て前、本音と表面的な演技との乖離が生じて、心がスッキリしなくなるのです。生きている実感が持てなくなります。

 

さらにはいい人でいようとして、自分の思いを伝えない人は、相手からすれば「都合がいい人」と化してしまうかもしれません。


「いい人」でいることより大事なことは、正直であること。自分の思いを理解できることです。今の自分の思い。どうなれば納得できるか。相手に伝えるべきかどうか。すべてを言葉にできること。


客観的に言葉にできれば、感情をコントロールすることも可能になるし、

自分の側で流す(選択する)ことも可能になります。

相手に伝えて、相手の理解を求めることも可能になります。



「私はこう感じています。あなたにわかってもらう必要があります」

「わかってもらえれば、解決です」

 

もしわからない相手なら、「ならば、わかってもらえるまで伝えよう」と考えることも可能だし、「ああ、この人に伝えても無駄だ(理解できる人じゃない・まだそういう時期じゃない)。ならば距離を置こう」と考えることも可能になります。



自分の思いを理解する。伝える。伝え続ける。あるいは、距離を置く。あきらめる――そうした選択ができる心にモヤはかかりません。

だから人は、「いい人」であるよりも(そんなものは、相手にも自分にとっても、妄想にすぎないのだから)、「理解できる人」であるほうが、大事なのです。

仏教的な「いい人」とは、自分の思いを偽らず、あるものはあると理解できる人です。そして、他人にも、感情で反応せずに、「理解してもらおう」と発想できる人です。

それに加えて悲の心――つまり人の痛みを思いやれる人こそが、「いい人」です。

 


『怒る技法』マガジンハウス