次の人生は

日本に帰ってきて、12年が経った。

物も過去も関わりも、すべてを捨てた身から始めた。

最初は、生きていけるかも見通せなかった。

ダメなら野垂れ死にでいいと肚を決めていた。


今、振り返ると、宝のような人と風景との出会いを授かった。
本という形で、自分自身が生涯かけて守り抜いてきた思いを伝えることもできた。

これだけの作品を世に、未来に送り出せたことは、予想を超えた収穫だ。
どの本も、心を尽くした手紙のような作品だ。


私の一生は、出家として、仏教にもとづく生き方を伝え、真摯に道を求める人と出会い、インドで育んだ稀有の友情を守ることで終わるものと思っていた。

それだけで十二分。それ以上のものはたぶん来ないだろうと思っていた。


ところが、この十二年、そしてここ数年で、日本という国がいっそう危うくなりつつあることが見えてきた。

社会が壊れつつある。
人の心から、希望が失われつつある。

このままでは未来が消えてゆく。

そうはしてはならないと思う。

 

世界を守ること。
未来を育てること。


はて何をすべきか、何ができるかと考えてきたが、ひとつ見えてきたものがある。

それを、次の人生において始めようと思っている。

私の人生は、いくつかの生と死を繰り返してきた。何度も死んでいる。何度も終わらせている。

出家として仏教にもとづく生き方を伝えることが、最後の生であろうと思っていたが、そうではなかったのである。


ブッダの教えは、普遍的な生き方であり、その中身は、まだ掘り起こされていないから、今後も私自身の活動の一環として、過不足のない良質な言葉で表現してゆこうと思っている。

だが、仏教そのものを、出家の体(てい:すがた)で伝えるだけでは、本当は足りない。

なぜならそれでは、仏教に価値を見出せる人にしか届かないからだ。


仏教を求める人に仏教を伝えることは、たやすい。それは私の役目だが、しかしもっと価値あることは、仏教にたどり着けなくても幸せに近づける、生き方そのものを人が知ることである。


己の生き方を知る。

世界を支える方法を知る。


その「知る」という営みに、仏教は要らないし、役に立たない。


この命は、それくらいに仏教からも“抜けて“いる。


いっさいの迷いや執着を解き放った自由な心で、


未来のために何をすべきか


を考えたら、ひとつアイデアが思い浮かんだ。


これなら、仏教と関係なく、また出家としての立ち位置からも自由に、この世界に希望を、幸せの可能性をひとつ、自分なりに増やすことができるかもしれない。

その新たな可能性は、別に特別なものじゃない。今の世の中で、心ある人たちは、みんな、それぞれの場所でやっていることだ。

私も、新しい場所で、その可能性を形にしてみようと思う。


生きることは、本来は楽しいものだ。そして素晴らしいもの。

学ぶこともそうだ。本当はもっと夢があって、楽しいもの。


いつのまにか汚されて、矮小化されてしまった、生きること、学ぶことを、二つ合わせて伝えてみようと思う。


人生は、美しい夢から始めるものだ。

明るい夢から始めよう。




2023年10月30日

善き人たち


今月(2023年10月)は、個人からの相談が比較的多かった。

相談者が遠方におられるときは、足を運ぶ。

見知らぬ土地を訪れた時は、その町並みや風景を心の目に焼きつける。

その風景を見つめて生きてきた人がいる。

その風景を最初で最後に見るかもしれないこの命がある。


その二つの命が交錯する。いつも思うが貴重な時間である。


私が個人的に出会う人たちには、多くの場合、共通項がある。


ひとつは、長い間、ひとりで苦悩し続けてきたこと。

よくこれだけの苦労と心の傷を抱えて、一人生きてきたものだと感じ入る。


もうひとつは、だからこそ自立していること。

自分の苦悩は自分で越えていかねばならない。人に安易に頼れない。

そういう覚悟のようなものができつつあるように伝わってくる。


というのも、こうした人たち(本当に苦しんできた人たち)は、さんざん外の世界に答えを求め、人や場所を頼って、答えにならなかったという体験をたくさんしているので、

本当のよりどころ、答えとなるべきものが、実はきわめて限られていることが見えてきているのだろうと思う。


そして三つめは、自力でこの場所(私という命に)たどり着くこと。

そのきっかけが、本であれ、インターネットであれ、スクールの折り込みチラシであれ、なんでもよいのだが、

「こういう人がいる」ということを知って、本を取り寄せて読んで、あるいはブログの文章を眺めて、「話を聞いてみよう」と思い立つらしい。


もちろん自分で連絡して来る。自分の言葉で、うまく表現できなくても、真剣に過去と今の思いを伝えようとしてくる。

全力であって、甘えがない。

(※もちろんそうでない場合もあります^^;)


実りあるやり取りを交わせる人たち、自分を見つめる強さを持っている人たちには、こうした共通項がある。


しっかりと私と向き合える。それこそ一度きりの機会かもしれないと思って、全力で聞き、全力で問うてくる。

時に厳しいことも伝えるが(でなければ変われないから)、自分を見つめる覚悟がある人は、謙虚に、心して耳を傾ける。

そして、この先、どう生きていけばいいか?という問いに、必死に答えを出そうとする。


こうした人たちは、”善き人”たちだ。新しい可能性が開けつつある人たち。


中には、真剣に、仏道――仏教に基づく生き方――を始めたいという人もいる。

過去さんざん苦悩し、ようやく過去を越える生き方が目の前に見えてきた。

だからこそ、仏道に立って生きる決意を固めようとする。

ようやく、「仏門に入る」ことが可能になって来る。


仏門に入るとは、寺に入るとか、アタマを剃って出家するということではない。

新たな自分として生き抜く覚悟だ。

理屈も執着も捨てて。ひたすら謙虚に、慎みを保って。

その同伴者として、仏道がある。



仏道と、歩き出した小さな己(おのれ)のみ――その覚悟が固まることが、道の始まりだ。

 

その道をゆくことを、私が支援する。


進むべき方角と、新しい道の歩き方は、伝えることができる。

だが、あくまで歩くのは、その人自身である。

本人が、執着ではなく、自己愛ではなく、傲慢ではなく、自己満足にならず、

自分の人生を最高の納得をもって完結することをめざす。

その道を手助けするのが、仏道を生きているこの命の務めということになる。


この場所は、わざわざ大仰な形を作らないし、いちいち世に知られようとか、広めようといったことはしない。

本当に志ある者、機縁ある者は、自然にたどり着くだろうと思っているからだ。

広げても、仏道にふさわしい者の数は増えはしないだろう。むしろ勘違いした者、執着する者が増えて、巷によくある勘違いに満ちた場所へと変容していくことが、定めというものではなかろうか。


この命は、おのれの道をゆく。

志ある者は、この命に出会って、己自身の道を延ばしていく。

道は、自立していなければ、成就できない。

自立した者は、この世にあって、この世に染まらず。

この世に無駄におのれを現わさない生き方をゆくものだ。


静寂と澄明とが、仏道の色(特徴)であろうと思っている。

 

2023年10月30日

宗教は要らないよ


*前回の話のつづき:


宗教にもいろんな中身があります。

困っている人に、本人が求めるものを差し出す活動をしているなら、「その範囲では」宗教は役に立っています。食糧や薬の配布、避難場所の提供など。

ところが、役に立たない宗教もあります。むしろそっちのほうが多い印象があるのが、現実かもしれません。
 
役に立たない宗教には、共通項があります:

〇妄想を利用している
(だが集う人たちは、それが妄想だと気づけない)

〇誰かが過剰に得している
(巨額のお金を集めたり、贅沢な暮らしをしていたり、自分が選ばれた者であるかのように派手に演出していたり。やっていることは俗そのもの)

〇信じることにお金がかかる。お勤め(義務・負担)がやたら多い。客観的に見ると決して幸せになっていない。

〇信じさせる側と信じる側の双方とも満足している(らしい)。だが、内輪の満足でしかない。信じない「外の人たち」と共有できない。たとえば豪勢な施設を作ったところで、信じる人しか入れない。

 
こうした宗教は、誰かが作り出した都合のいい物語、つまり妄想のてんこもり。その宗教の中では「神の言葉」とか「教義」と呼ばれています。

世の中には苦悩している人がたくさんいます。そうした人たちが、一見それっぽい理屈(神の言葉・教義)を聞くと、「そうかも?」と思ってしまいます。

「そうかも?」の先に何があるかと言えば、たいがいおカネ・・・あれを買え、寄付せよ、奉仕せよと、ありとあらゆるグッズや活動の類を繰り出してきます。

仏教と呼ばれる世界にも、そのパターンを見かけます。代表例が、意外に思われるかもしれませんが、「前世の業」かもしれません。そもそも語られている「お釈迦様」なるものが、誰かが勝手に作り出した妄想かもしれません。
 
それでも人間は妄想が大好き。だから、「あなたの苦しみの原因はコレです、これを信じれば、お金を使えば、解決できます」という言葉を信じてしまいます。

「一見それっぽい理屈」は、客観的に見ると変ではあるのです。でも、もともと心が混乱している人、逃げたくてたまらない現実の渦中にある人は、筋が通っているように見えてしまいます。

宗教の多くは、残念ながら、欲と妄想のカタマリみたいなものです。誰かが一見「それっぽく聞こえる」理屈を作り上げれば、その理屈に引き寄せられる、すがりついてくる人たちが一定数出てきます。


結果的に出来上がるのが、宗教という名の集金マシン。一部の者が過剰に得をする、富と権力の維持装置です。

こうして宗教は続いてきました。

人類が妄想を抜け出さない限り、宗教が消えることはないことでしょう。


欲と妄想でできた宗教は、実は役に立ちません。本当は必要もありません。

まず、やたらお金がかかること自体が嘘です。みんな生きていくことに必死です。過剰な負担が増えるのは、おかしいのです。絶対に。
 
信じる人たちの自己愛(特別意識)、出世欲、栄誉欲みたいなものが通用してしまう(奨励されたり組織内で出世したり)という組織も、非合理です。

一部の人間に過剰な利益が集中する仕組みも論外です。「過剰」は、生きるうえで必要ありません。これは宗教であれ商売であれ、本来同じです。

「真ん中にいる人」や「側近」「幹部」と呼ばれる人たちが、やたら崇拝・称賛される姿も、危険です。そもそも宗教の目的は、人間の幸せであって、個人の欲の満足ではないはずだからです。
 

結局、カネか、欲か。

たどり着くところが、その程度の人間の煩悩だとするなら、それは宗教とさえ呼ぶべきではないのかもしれません。
 

宗教は要らないのです。なくても生きていけるし、世界は回っていけるという意味で。

人も自分も苦しむことなく生きていく。そのためには関わりのルールがあればよく、宗教は要りません。

働ける人は働いて、誰かの役に立って、結果的に社会・経済が回っていく。

それが実現できるなら、宗教は要りません。
 

人間に必要なものは、そんなに難しいはずがないのです。

心と体を使って、ひとつ働き(役割)を果たして生きていく。

そうして生きる人たちが作る場所が社会であり、人と人をつなぐものが経済です。宗教は本当は必要ないかもしれないのです。

いったん宗教を「引いて」、生き方を考えてみてほしいのです。

宗教という名の妄想が、人生を複雑にし、いっそう苦しみを増やしている人が、あまりに多いからです。



2023・10・25

自分を引いて考える


みんな(この世界で生きている人たち)と共有できる話題は、たくさんあります。

最初に明らかにしておくべきは、この場所(興道の里・草薙龍瞬)の立ち位置。
どういう場所から語っているか、日々活動しているか。

結論からいえば、この場所は、なんでもありません。

おおげさ承知で言うと、「無」ということになります(仏教では「無」は当然の言葉だけど、こうして見ると、なんか特殊・・・笑)。


この場所(私)が最初に考えることは、「もしこの場所(私)が消えたら?」ということ。

どんな命もいずれ消えるから。私も含めて、人は永久に生きていられない。

いずれ無と化して消えていくものを前提に考えることは、この場所ではしない。
 

つまりは、欲の満足――自己顕示欲や経済的利益といった「自分のため」。こうした発想を最初に引く。平たく言えば「アホらしい」。

欲は汚物。欲が生み出す妄想も同じ。

世の中には、いろんな欲と妄想の産物が溢れている。宗教にもそういう一面がある。


欲と妄想を引け――というのが、この場所の思い。

つねに自分を引いて考える。この場所の基本。


この場所は「ひねくれて」いる、かなり。

世の中の常識(しいて言うなら俗な発想)は、通用しない。

本を読んで感じてもらうは善い。だがそれは、自分を成長させるためだ。

他方、自分を見つめる代わりに、この場所(私という人間)に「執着」する人がたまにいるが、間違いだ。過剰な美化や礼賛、あるいは真逆のつきまとい・・・?

そうした執着は、結局、本人を変わらないままにしてしまう。

自分の中の欲、怒り、都合のいい妄想。

自己愛、傲慢、支配欲、上昇欲。あるいは、怒りの憂さ晴らし。

そうした執着を、この場所は受け取らない。

ポジティブであれネガティブであれ・・だ。


受け取ってしまえば、その人が今後も苦しみ続けることになるだろうから。むしろ気の毒に思うから(慈悲)。 


もし場所を預かる側が(この場合は私だけれど)欲や妄想に囚われていたら、そういう人たちの執着に都合のいい妄想を語りだすだろう。そして利用し、利用される関係が作られる。

それが、世俗に溢れている関係性だ――もちつ、もたれつ。互いの利益をしっかり補完し合う関係。SNSやオンライン・サロン、セミナーや宗教がその一例かも。


共通するのは、欲と妄想との結びつき。

真ん中にいる人間に欲と妄想があり、それを取り巻く人たちにも欲と妄想がある。

その欲と妄想は、中にいる人には都合がいい。だが外から見れば、歪(いびつ)にして滑稽に見える。

閉ざされたコミュニティ。利益の共同体。真ん中が最も利益をむさぼり、それに群がる人たちも満足する一方で、外の人たちは無関係(むしろ冷ややか)。


こういう関係は・・・この場所は取らないし、取れない。生理的に。

 

この場所・私のことはどうでもいいから、自分の人生をしっかり生きてください、と伝えている。いつも。

執着を向けられていると感づいた瞬間に、この場所は「消える」。いさぎよく。

すると、執着していた人は、自分だけを見ることになる。自分の課題だけが残る。

残ってもらって、自分自身を見つめてもらう。


この場所が消えても、仮に仏教が亡くなっても、人間が幸福に生きるための挑戦は、いつの時代も、どの場所でも、できる。できる範囲で精一杯、生きていけばいい。


この場所は、人の執着のエサにはならない。

依存すること、執着することをつつしんでもらう。

あくまで自分自身を、自分だけを見つめてもらう。


いつかこの場所がなくなっても、

人が強く、思いやりをもって、

この世界を支える一人として生きていけるように。




2023年10月23日



「自由に生きる」が基本

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【仏教講座・親子編】
「自由に生きる」を基本にしよう
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生きることは、それほど難しいことではありません。そう個人的には思います。

生きるとは、自分のことは自分でやること。

自分が望むことを第一にすること。

少しでも嫌悪や違和感があったら、その理由はなんだろう?と考えて、自分なりに言葉にすること。

どれも当たり前の話。最初の二つは、動物でもやっている、自然界の鉄則みたいなもの。

三つめは、考える力を持った人間だからできること。

自分のことは自分でやるのが原則であって、この点は考える(議論する)ことは不要。

ご飯を作るとか、洗濯をするとか。やってくれる家族が仮にいるとしたら、それは例外扱い(本当はおかしなこと)くらいに思えるほうがいい。

勉強もそう。自分の未来のために学ぶ。

受験するのもそう。将来につながる次の一歩を踏み出すために受験する。

「自分のため」に、学び、受験して、進学する。あったりまえの話。問答無用でいい話。

だから自分で考えて、自分で調べて、自分で選んで、自分で願書取り寄せて、自分で記入して、自分で送る。当たり前の話。

もし「自分のこと」に、他人が手を出して来たら、それこそ異常事態だと思うくらいのほうがいい。

まして、親の期待に応えるためとか、「親がなんていうかなあ?」なんて考えているとしたら、もう立派な心のビョーキ――とまでは言わなくても、「動物でもやらないことをやってしまっている」不自然さは自覚しよう。

人は、自分のために生きている。生きていい。生きること。本当は簡単な話。

だから、自分のことは自分でやることから始めよう。

それを続ければ、次第に生活がスッキリしていく。無駄なプレッシャーやストレスを抱えずにすむようになる。



今度は親のあり方について--

自分のことは自分でやることが基本だとしたら、周りの大人、特に親は、子供が大きくなるにつれて、親にできることはなくなっていく(はず)だと自覚しなければ。

子供が一人でできることに、口を出していないか。
手を出していないか。
子供の代わりにやってしまっていないか。
子供が語る前に自分の言葉を押しつけていないか。

親の側がしゃべりすぎ、やりすぎ、考えすぎ、先回りしすぎ――その一つ一つが、「自分のことは自分でやる」という基本を侵す重大なミス。いや、重大な罪だと気づかなければ。

子供が一人でできることを、いつまでも親がやってしまっている、口を出しているというのは、親の側の「心の病気」だ。はっきり言う。病気。

この病気は、癌細胞みたいなものだと思ってください。癌は他の細胞に侵蝕し殺していく。

親の病気は何を殺すか。子供の心を殺す。未来を殺す。人生を殺す。

冗談で言っているのではありません。「殺す」のです。親が。子供を。

自分がとんでもないことをやってしまっていることを、親は自覚せねばなりません。

自分が「癌」になってしまっているかもしれないことを。

気づいた親は、引っ込んでください。口を出さない。手を出さない。先回りしない。増殖しつつある自分の危なさに気づくこと。

そして厄介な自分のあり方と闘ってください。退治すること。自分の中の癌を。


子供を殺してはなりません。子供を自由にしてください。




2023・10・14




滅びゆく世界で

旅の途上で感じたこと


10月某日
東京から西へ旅に出た。野山のどこを見ても、人の手が加わっている。古(いにしえ)の時代から、数えきれない人たちが、日々、野を耕し田畑に変えて、通行の便宜を図って道を拓いてきた。そうしてできあがった、この美しい風景がある。

だがここ数年、旅しながら思うのは、この風景がいつまで続くであろうという憂鬱めいた思いだ。人は減り、勤勉は美徳とされなくなった。今や農作業からも逃げ出す人たちが増えてきた。しんどいことを嫌い、コスパ、タイパと、ラクすることを正当化する風潮さえ出てきた。

列車の中で、ほとんどの人はスマホを見ていた。ある駅でドアが開いた。小学生の子が、スマホゲームに気を取られて、降りようとしない。子供の後ろに、両親と祖母らしき女性が立っている。急がせるでもなく「着いたよ」というだけ。子供は億劫そうに顔を上げてホームに降りる。

小さな光景だが、意味するところは深刻だ。何しろ外にいながら動けないのだ。

全国を回っていると、こうした光景をよく目にするようになった。あくまで個人的体験にすぎないが、日常レベルで人の心が大きく変容しつつあることを切に感じなくもない。


翌日、講演会場がある駅から一つ向こうにある無人駅で降りた。

駅には、新型コロナ克服3カ条のポスターが。「人と人 間が愛だ」というダジャレ標語のもと、テレワークの勧めや、動物を人の間に置いたイラストで、2メートル距離取ろうとか、おばあちゃんとは直接会わずに電話でつながろうとか。

この不毛、いつまで続けるつもりなのか。

こうやって人を引き離し続けて三年間。結婚数は50万組台に落ち込み、出生数は80万人を切った。

コロナ騒ぎが始まった2020年に、50万人の人口減少を記録。小さな県が丸ごと吹っ飛んだことになる。一年で止まらない。以後連続だ。逆に死者数は一年あたり140万人を突破した。統計上の予測を越える死者が、この三年、出続けている。自然死では片づかない超過死亡者の数だ。

かつては一年に270万人近く生まれていた子供の数が、80万人を切った。ということは、その数だけの可能性が、社会から消えたことになる。一年あたり二百万人分の人生が消えた。十年で二千万人に及ぶ可能性の喪失だ。

あの戦争では、三百万人の日本人が死んだ。だが、それをはるかに超える死が起きている。現実に起こる死と、生まれたはずの命が生まれないまま終わるという意味での潜在死が、凄まじい勢いで増えている。

死んでいるのは、戦争や天災ゆえではない。硬直した社会制度と人間の心ゆえだ。社会とは変わるもの、変えるものだという前提が忘れ去られ、勤勉を美徳とせず、未来に夢を描かず、保身のみで満足して、刹那の享楽に身を委ねながら、そんなおのれの姿を顧みなくなった人々の心が奏でる、滅びへの行進曲だ。

これほどに滅びの音色が痛ましいほどに軋み鳴っているのに、人間はまだ気づかない。

“コロナ克服”という勝てるはずもなく、勝つ必要もない幻想に、こうして今なおしがみついている人間がいる。

見るべきものを見ようとしない臆病と、見ることができない無知が、自滅への行進に拍車をかけている。


最近ずっと問うている――この命は何をすればいい?


2023年10月某日

いじめを受けている人へ

※最近あった胸の痛む出来事に触れて:

 

いじめを受けることは、とてもつらい。

おおげさではなく、人生の危機だ。今のままでは自分が滅ぼされていく。


いじめの構図には、共通項がある。

最初は、いじめる人間個人の悪意。

次に周囲の無視。なぜなら悪意を言動に移せるのは、立場が強い人(上司・先輩・先生etc.)だから。周囲も見ないふりをする。

さらに、上の人の保身ーーいじめを訴えた人が直面する異質の原理。


いじめを受ける人は孤立無援だ。その場所に愛着があるほど、絶望は深くなる。

憧れをもって入った場所なら、その場所にい続けたいと思うのは、当然だ。自分が努力すれば、きっと進級できる、夢がかなうと思う。そういう場所だと聞いていたから、そう信じるのは当然の話。「まともな場所」なら、本人の意欲と努力が正しく評価される環境になっているものだ。

だが、現実には、「悪意」と「保身」がその場所の原理であり、伝統、文化、校風だったりする。

もともと悪意を向けても許されてしまうような、上下の構造や力関係があった。

あるいは、「上の人間」の保身が通るくらいの惰性が続いていた。伝統、歴史、閉塞性。


陰湿ないじめがときおり発覚するが、共通するのは、こうした条件がそろっている場所だ。



いじめを抜け出すために、確実に正しい道筋というものがある。

一つ、小さな悪意を容認しないこと。

悪意は悪意だ。加害者が先輩だからとか、上司、先生、校長、社長だからといった理屈は通らない。相手の悪意を察知した時点で、「やめてもらえますか」と伝えること。

いつ伝えるかは考えてよいことだ。でも受け容れることは正しくない。悪意は続くものだから。

穏便に伝えても、悪意は止まらないかもしれない。ならば真顔で伝えることを選ぶ。怒ってもいい。泣いてしまってもいい。

「やめてもらえますか(わかりますか?)」と伝えること。それが正しい選択。


二つ、他の人を探すこと。

伝えても伝わらないことが、現実には起こりうる。何しろ悪意は続く。相手は悪意を通せるくらいに「強い」人間だ。無視される。笑われて終わり。あるいはいっそういじめが悪化したり、報復されたりという事態も起こりうる。

その時は、ちゃんと記録を取ること。そして、この事態を誰に伝えるか、わかってもらえる人はいるかを、その場をよく見渡して考える。

「まともな場所」なら、言えば伝わる。あっさりと。「事実」ほど強いものはない。事実を確認する。こちらの思いも受け止めてもらう。

事実は、人によって違うこともあるから、簡単にはわかってもらえない事態も起こりうる。だが、だからこそ「記録」がモノを言う。

事実と感情ーーこの二つは、受け止めることが基本だ。「まともな場所」なら、感情は受け止めてもらえるもの。そして事実ならば、再発防止の策を直ちに取る。「まとも」とはそういうものだ。

だから、いじめというのは「まともな場所」なら、続かない。

「まともな場所かどうか」ーーこれも、よく周りを観察して、考えてみてほしい。結局は、伝わるかどうか。


三つ、外の人を探すこと。

「どうやらまともな場所じゃない」ということが見えてくることもある。

個人の悪意が通ってしまう。事態を訴えても、無視される、はぐらかされる、隠蔽される、いっそう追い詰められる。

そういう場所は、「悪意」と「保身」がまかり通っている場所だ。では、そこからどうするか?

もし自分の怒りが強いなら、「外の人」に伝えていくことも、選択肢になりうる。行政、弁護士、NPO、さらにはメディアやSNS――なるべく平穏無事に解決したいものだが、そのままでは解決しないとなれば、「外の人」に理解を求めていくほかない。


四つ、こちらから捨てること。

伝えても、理解されるかどうかは、わからない。
その場所に、いられなくなるかもしれない。

だが、悪意を受け続けるくらいなら、その場所は、どんなに愛着があったとしても、やはり留まる価値のない場所なのだろうと思う。

その場所から離れるのは、くやしいし、みじめだし、寂しいし、本当につらいものだけれど、自分が「伝える」という一本の筋を最後まで通して、「伝わらない」ことがわかったならば、もはやしようがないのかもしれない。

その先は、その場所の異常さとは無縁の「まともな世界」を探して、その中でまともに生きていく。

新しい人生を生きる。

それが最後のゴールということになる。

 


今いじめを受けている人には、「外」の誰かを見つけてほしいと思う。

君が死ぬ必要なんて、ない。

外の世界でだれか一人と出会えたら、生きていける。

 

生きてほしい。君は決して一人じゃない。




自己愛はひそかなブーム?

最近ひそかなブーム(?)になっているかもしれないテーマとして「自己愛」がある。

自己愛――自分の承認欲を満たすために、人・物・情報・装い・ライフスタイルと、あらゆるものを利用しようとする心の動き。

たいていは、自分の姿を人に見せようとする(自己顕示)として現れる。


なぜ自己愛を取り上げるかといえば、自己愛に満ちた親のあり方が、子供にどれほど負の影響を与えるかを痛感することが多いから。

個人的に苦い気持ちになるのは、親の自己愛を満たす道具として子供を使ってしまっている姿を目撃する時。

小さな子供の姿をSNSやメディアで公開して、子供を通して自分の価値をアピールしようとしているところが見えてしまう時。日常を単純に共有するだけなら趣味といえるが、子供に接している私を見て、褒めて、という動機が見えることがある・・。

幼い子供にとって、他人の視線は有害だと思うほうがいい。子供は小さな日常の中で安心して遊べれば、それでいい。パパ・ママが自分を見てくれていたら十分に満足。それ以上のものは、求めていない。

ところが、自己愛に染まった親は、子供ではなく、外の他人の視線や評価、いわば「世間ウケ」のほうを見てしまっている。

子供とすれば、いつの間にか自分のプライベートが、人生の大事な一部が晒されているという状況になってしまっている。ご近所自慢もSNSもテレビ取材も、子供にとって本質は変わらない。

心にとって「イヤ」だろうと思う。何がイヤって、自分のプライベートを、自分の意志におかまいなしに晒されること自体が、イヤ。「勝手に決めないでよ」と思うし、そのうち奇妙な苦々しさを感じ始める。

愛されているのではなく、親の自己愛に利用されていることが見えてくるゆえの違和感だ。


さながら、強制的に舞台の上に立たされて、パパ・ママが求める演技を強いられるようなもの。楽屋裏でやればいいことを、わざわざ衆人環視の中でやらされる。

「わたしは、パパ・ママの自己愛のエサなんだ」――そんな言葉は子供から出てこないだろうけど、起きていることは、そういうこと。

剥き出しの自己愛を一方的に振るわれる子供は、顔がひきつっていたり、こわばっていたり、無表情だったり、不機嫌そうだったり、憂鬱そうだったり、泣いていたり、リストカットしていたりしているのだが、

親はまったく気がつかない。それよりも、「どう、こんなに輝いている私?」 というところに立ってしまっている。

こういう親は、自分が子供をどれほど圧倒し、打ちのめし、奪っているかに気づかない。たとえば、子供が気を遣ってこんな言葉を言ったとして--「お母さんはすごいね」「お母さんありがとう」「お父さんにはかなわない」――その言葉を簡単に真に受ける。感動して、泣いたりする。

自己愛のカタマリだから、親を賞賛してくれる子供の言葉に瞬時に飛びつく。エサに食いつく魚のように。


この時点で、親子関係は実は破綻している。言葉の裏にある子供の思いが見えていないから。

「お母さんはすごいね」という言葉の裏には、「私のことは、どうでもいいんでしょ?」という本音が隠れていることがある。

「ありがとう」の言葉の裏に「そう言ってほしいんでしょ?」という醒めた思いがあることもある。

「親にはかなわない」という殊勝な言葉の裏には、「どうせ私は及ばないから」という自己肯定の低さが潜んでいることもある。

自己愛のカタマリと化した親には、立ち入るスキがない。本人たちは、自分がおかしなことをしているという自覚がない。しかも、ご近所・世間の評判は良かったりする。

子供は、内心うろたえ続けるほかない。

「お父さん、お母さん、私のことはどうなるの?」
「私って、結局なんなの?」

という疑問が、いつまでもつきまとうことになる。

それが、自己愛の帰結。心理的虐待の一種。



「自分キラキラ、頑張ってます」という自己愛は、止まる気配がない。だが、そんなに大事なものだろうか。「なくても生きていけるし、持たずに生きている人は大勢いる」という点で、本当は必要がないもの。卒業したっていいものではないかと思えてくる。

自己愛は、結局、周りの人たち、特に子供の心を、自分に吸い寄せる効果しか持たない。

自分は満足。だが子供の心は確実に奪われる。親の自己愛に搾取され、傷つけられる。

それでも自己愛の快楽は、あまりに甘美なものだから、人は何歳になっても、どんな立場に立っても、子供がいても、なお自分をキレイに見せる生き方を続けようとする。

子供としては、立場がない・・・だが疑問をぶつけることは、自分の足元(生活)を掘り崩すことになるから、口をつぐんで、絶対に語らない。

自己愛で限りなく突っ走る親と、そんな姿に言葉を失った子供と・・・遠い距離のまま、歳月が過ぎる。

そして、いつか破綻する。



自己愛は、厄介なものだ。いくら満たしたところで、小さな自意識の満足にしかならない。それでも麻薬のように人の心をひきつける。

自己愛を卒業できれば、小さな自意識の満足以上の喜びが入ってくるかもしれないのに。

幼い子供が信頼してくれて、優しさや気遣いを精一杯向けてくれて、いろんな表情を見せながら日々大きくなっていく。

その姿をそばで見られるだけで、十分幸せではないのだろうか。なぜ自分が必要なのだろう?


目の前の子供の優しさと成長よりも、まだ自分が他人に賞賛されることを求め続ける。

「輝いていたい」・・・それが自己愛。


自分の姿を見なければ、それだけで卒業できるものなのに。





2023年10月7日


「学校に行かなくていい」は正しいか


ときおりフリースクールの現場に立ち会うことがあります。もともと私自身も、かつて同様の場所を立ち上げたり、顔を出したりしていた経緯があるので、関心を持っています。

不登校の子供の受け皿を作ることは、大事なこと。でも少なくない割合で、活動が頓挫していくケースを見ることもあります。

いくつかのケースを見てきて思うのは、
 
その場所での活動が、大人たちが良かれと思う内容に偏っていきがちということ。

つまり、学校は行かなくていい、本当の学び・教育は別のところにある・・というメッセージを大人の側が打ち出してしまって、

子供にとって必要な「学び」が置き去りになってしまうことです。

ここでいう「学び」とは、「学校の勉強」という意味ではありません。社会の中で仕事を見つけて生きていくための経験や基礎的学力のことです。
 
いわば、世の中に居場所を見つけるため、「社会に着地するため」の学びです。

学びは、個人的営みで終わるものではなく、社会的な意味を持ちます。社会という場所は、どうしても、一定以上の教育を経ていること(体験・知能・技能・知識ほか)を求めてきます。学びは、それに応える部分を持ちます。
 
社会とはどういう場所かといえば、人の求めに応じる役割を果たす場所であり、そうすることで自分が生きていく糧(特に報酬)を得る場所だといえます。

人は社会の中で生きていきます。だから何を学んだか、どんな体験をしてきたかを、社会に知ってもらう必要が出てきます。

自分を知ってもらう手段が、教育であり、経歴であり、資格や学歴といわれるものです。「義務教育を終えた」も、自分を伝える手段です。どこの高校で学んだ、専門学校に行った、大学を出た、院を出た・・・というのは、社会での居場所を見つけるための手段です。
 
だから、学校に行かない選択はアリだけれど、代わりにどこで何を学んだかを示せることは、将来居場所を見つけるためには、やはり必要になってきます。
 

「学校に行かなくていい」ということと、「ではどうやって将来、社会に居場所を見つけるか」は、別の問題です。人生全体を眺めてみれば、圧倒的に大切なのは、後者です。

なにしろ学校は十代まで。だが社会で生きていくのは、その後さらに五十年以上。「学校に行かない」で片づくはずもありません。

社会に受け入れてもらうための学びまで放棄してしまったら、社会の中に居場所を見つけることが難しくなるかもしれません。
 
だから「学校に行かない」選択をした・しようとしている親と子が気をつけなければいけないのは、

その後を、どこでどのように過ごすか。世の中に居場所を見つけるための学びを、いつ頃から、どんなやり方で始めるか、ということになります。
 


一定レベル以上の学びを求めてくる社会の仕組みは、はっきり言って変わる可能性は、ほとんどありません。まして教育的・経済的格差を容認しつつある社会は、この先かなり酷な場所になっていくおそれもあります。

ときおり危うさを感じるのは、大人の側が、学校を相対化すること(≒学校だけが学ぶ場所じゃないよという理解)を越えて、

学校なんて嫌いでいい、行かなくていいというところまで答えを出してしまっていることです。

ならば社会とはどういう場所か。この先、子供がどんなルートで学びを得て、社会の中に居場所を見つけるのか。それをどのように手助けをするか。手助けできる力があるのか。

そこまで問うに至った時点で、その場所のあやうさのようなものが露呈することがあります。その場所・そこにいる大人が導こうとしている先には、自分たちがよかれと思うもの(いわば人生観・教育観)以外にない--ということが見えてくることがあるのです。
 
やがて親たちの期待は裏切られ、子供は外に放り出されて、空中分解・・・ということも、実はけっこう起きています。


「学校なんか行かなくていい」といっても、その「学校」は、がんじがらめの公教育の姿でしかないかもしれません。本来の「学校」とは箱のようなものです。いろんな要素が詰まっています。体験、知識、能力、技術、コミュニケーションの方法など、いろんなものを学べる可能性があるのが、学校という箱です。
 
「学校が合わない」と一言でいっても、校則・校風や、教師の性格や指導力、教室にいる生徒の顔ぶれ(相性)、授業のスタイル、教材の内容、家庭での生活習慣や(一見気づかない)親子間の問題など、その理由はかなり幅があったりします。
 
また、「親のあり方が影響している」ことも、実は少なくありません。親のクセ、性格、気づかぬうちに子供に伝わってしまっている言外の雰囲気やふるまいや言葉、家でのすれ違い・行き違いなどが、子供の心身に影響を与えて、学校に行くだけの気力・体力・適応力を奪っている・・・ということも、意外と多いものです)。
 

学校という箱そのものは変えていいし、抜け出すことは、選択肢としてアリです。とはいえ、箱そのものを放棄すること、つまり社会に出る準備としての学びまで放棄することは、子供にとって意味があるとはいえません。むしろ危険です。
 


しかも、世に出るための学びを得るための教育は、子供の側から出てくるものではありません。

子供の自主性・自発性を尊重すれば、子供はみずから学び、世に出て行こうとするか?――残念ながら、心はそれほど強くありません。

学びは高度な営みです。伝えなければ伝わりません。何もしなければ、心はラクを選びがちです。特に今の時代のように、ゲーム、ネット、動画など、時間を漫然と費やす道具が身近にあれば、心がいっそう流されていく自体も起こります。いや、すでに起きていますよね。


学校に行かない選択をしたまでは良しとして、その後どんな時間を過ごすか、どこで学びを得るか。家に閉じこもって、スマホをいじって、ネットやゲームで時間を潰して、ほんの少しの時間を使って参考書を開く日々の延長に、社会における居場所はあるか。難しいかもしれません。

下手をすれば、学校という箱を上手に使って世に出ていく子供たちと同じ場所に立てなくなるおそれもあります。
 
こうした可能性をも、周りの大人たち、そして本人は考える必要があるように思います。


とりあえず、学校外の学び・教育を考えている親子には、こんなことを伝えます(あくまで私自身の過去の体験にもとづくもので、正解はさまざまにありえます):


●学校にこだわる必要はない。学びの方法は、人の数だけある。

●社会が求めてくるもの(理解力や、基礎的な知識や思考力、人と関わる技術など)は、大して変わっていないし、この先も変わる可能性はあまりない。
 
●学ぶのは、社会の中で居場所を見つけるため。「点数・成績を上げる」ことではない(ここを間違えると、勉強が嫌いになりやすい)。

●学校に合わなかったからといって、勉強が嫌いか、苦手かは別の話。場所を変えれば、先生が変われば、使う本が変われば、「わかる」「できる」かもしれない。勉強が楽しくなるかもしれない。


こうした可能性を見て、どれだけ自分で工夫して、努力できるか。それこそが本当の挑戦じゃないかなと思います。

学校は一時的な場所(通過点)に過ぎません。学校を否定できても、社会そのものを否定して一生を生きることは、しんどいものです。

 
みんないずれ大人になります。この世界のどこかで生きていきます。

最終的に世に出る。そのために必要な学びをする。
 
それが今。ここから数年の最も大事なこと――だろうと思います。

 

世の中は、居場所が見つかれば、楽しい場所になります。
 
学校という箱もそうです。わかってくれる大人や、一緒にいてくれる友が見つかれば、楽しい箱に変わることもあります。
 
もし学校に居場所がなくても、社会に出れば居場所が見つかるかもしれません。いや、高い確率で見つかります。なにしろ学校とは比べ物にならないくらいに、いろんな人間・さまざまな仕事があるのが、社会だからです。
 
社会で居場所を見つけるために、学ぶのです。
 
 
もし私が十代のみんなと勉強できる場所を見つけたら、世に出るための学びをちゃんと伝えたいと思います。





2023年10月6日