ときおりフリースクールの現場に立ち会うことがあります。もともと私自身も、かつて同様の場所を立ち上げたり、顔を出したりしていた経緯があるので、関心を持っています。
不登校の子供の受け皿を作ることは、大事なこと。でも少なくない割合で、活動が頓挫していくケースを見ることもあります。
いくつかのケースを見てきて思うのは、
その場所での活動が、大人たちが良かれと思う内容に偏っていきがちということ。
つまり、学校は行かなくていい、本当の学び・教育は別のところにある・・というメッセージを大人の側が打ち出してしまって、
子供にとって必要な「学び」が置き去りになってしまうことです。
ここでいう「学び」とは、「学校の勉強」という意味ではありません。社会の中で仕事を見つけて生きていくための経験や基礎的学力のことです。
いわば、世の中に居場所を見つけるため、「社会に着地するため」の学びです。
学びは、個人的営みで終わるものではなく、社会的な意味を持ちます。社会という場所は、どうしても、一定以上の教育を経ていること(体験・知能・技能・知識ほか)を求めてきます。学びは、それに応える部分を持ちます。
社会とはどういう場所かといえば、人の求めに応じる役割を果たす場所であり、そうすることで自分が生きていく糧(特に報酬)を得る場所だといえます。
人は社会の中で生きていきます。だから何を学んだか、どんな体験をしてきたかを、社会に知ってもらう必要が出てきます。
自分を知ってもらう手段が、教育であり、経歴であり、資格や学歴といわれるものです。「義務教育を終えた」も、自分を伝える手段です。どこの高校で学んだ、専門学校に行った、大学を出た、院を出た・・・というのは、社会での居場所を見つけるための手段です。
だから、学校に行かない選択はアリだけれど、代わりにどこで何を学んだかを示せることは、将来居場所を見つけるためには、やはり必要になってきます。
「学校に行かなくていい」ということと、「ではどうやって将来、社会に居場所を見つけるか」は、別の問題です。人生全体を眺めてみれば、圧倒的に大切なのは、後者です。
なにしろ学校は十代まで。だが社会で生きていくのは、その後さらに五十年以上。「学校に行かない」で片づくはずもありません。
社会に受け入れてもらうための学びまで放棄してしまったら、社会の中に居場所を見つけることが難しくなるかもしれません。
だから「学校に行かない」選択をした・しようとしている親と子が気をつけなければいけないのは、
その後を、どこでどのように過ごすか。世の中に居場所を見つけるための学びを、いつ頃から、どんなやり方で始めるか、ということになります。
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一定レベル以上の学びを求めてくる社会の仕組みは、はっきり言って変わる可能性は、ほとんどありません。まして教育的・経済的格差を容認しつつある社会は、この先かなり酷な場所になっていくおそれもあります。
ときおり危うさを感じるのは、大人の側が、学校を相対化すること(≒学校だけが学ぶ場所じゃないよという理解)を越えて、
学校なんて嫌いでいい、行かなくていいというところまで答えを出してしまっていることです。
ならば社会とはどういう場所か。この先、子供がどんなルートで学びを得て、社会の中に居場所を見つけるのか。それをどのように手助けをするか。手助けできる力があるのか。
そこまで問うに至った時点で、その場所のあやうさのようなものが露呈することがあります。その場所・そこにいる大人が導こうとしている先には、自分たちがよかれと思うもの(いわば人生観・教育観)以外にない--ということが見えてくることがあるのです。
やがて親たちの期待は裏切られ、子供は外に放り出されて、空中分解・・・ということも、実はけっこう起きています。
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「学校なんか行かなくていい」といっても、その「学校」は、がんじがらめの公教育の姿でしかないかもしれません。本来の「学校」とは箱のようなものです。いろんな要素が詰まっています。体験、知識、能力、技術、コミュニケーションの方法など、いろんなものを学べる可能性があるのが、学校という箱です。
「学校が合わない」と一言でいっても、校則・校風や、教師の性格や指導力、教室にいる生徒の顔ぶれ(相性)、授業のスタイル、教材の内容、家庭での生活習慣や(一見気づかない)親子間の問題など、その理由はかなり幅があったりします。
また、「親のあり方が影響している」ことも、実は少なくありません。親のクセ、性格、気づかぬうちに子供に伝わってしまっている言外の雰囲気やふるまいや言葉、家でのすれ違い・行き違いなどが、子供の心身に影響を与えて、学校に行くだけの気力・体力・適応力を奪っている・・・ということも、意外と多いものです)。
学校という箱そのものは変えていいし、抜け出すことは、選択肢としてアリです。とはいえ、箱そのものを放棄すること、つまり社会に出る準備としての学びまで放棄することは、子供にとって意味があるとはいえません。むしろ危険です。
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しかも、世に出るための学びを得るための教育は、子供の側から出てくるものではありません。
子供の自主性・自発性を尊重すれば、子供はみずから学び、世に出て行こうとするか?――残念ながら、心はそれほど強くありません。
学びは高度な営みです。伝えなければ伝わりません。何もしなければ、心はラクを選びがちです。特に今の時代のように、ゲーム、ネット、動画など、時間を漫然と費やす道具が身近にあれば、心がいっそう流されていく自体も起こります。いや、すでに起きていますよね。
学校に行かない選択をしたまでは良しとして、その後どんな時間を過ごすか、どこで学びを得るか。家に閉じこもって、スマホをいじって、ネットやゲームで時間を潰して、ほんの少しの時間を使って参考書を開く日々の延長に、社会における居場所はあるか。難しいかもしれません。
下手をすれば、学校という箱を上手に使って世に出ていく子供たちと同じ場所に立てなくなるおそれもあります。
こうした可能性をも、周りの大人たち、そして本人は考える必要があるように思います。
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とりあえず、学校外の学び・教育を考えている親子には、こんなことを伝えます(あくまで私自身の過去の体験にもとづくもので、正解はさまざまにありえます):
●学校にこだわる必要はない。学びの方法は、人の数だけある。
●社会が求めてくるもの(理解力や、基礎的な知識や思考力、人と関わる技術など)は、大して変わっていないし、この先も変わる可能性はあまりない。
●学ぶのは、社会の中で居場所を見つけるため。「点数・成績を上げる」ことではない(ここを間違えると、勉強が嫌いになりやすい)。
●学校に合わなかったからといって、勉強が嫌いか、苦手かは別の話。場所を変えれば、先生が変われば、使う本が変われば、「わかる」「できる」かもしれない。勉強が楽しくなるかもしれない。
こうした可能性を見て、どれだけ自分で工夫して、努力できるか。それこそが本当の挑戦じゃないかなと思います。
学校は一時的な場所(通過点)に過ぎません。学校を否定できても、社会そのものを否定して一生を生きることは、しんどいものです。
みんないずれ大人になります。この世界のどこかで生きていきます。
最終的に世に出る。そのために必要な学びをする。
それが今。ここから数年の最も大事なこと――だろうと思います。
世の中は、居場所が見つかれば、楽しい場所になります。
学校という箱もそうです。わかってくれる大人や、一緒にいてくれる友が見つかれば、楽しい箱に変わることもあります。
もし学校に居場所がなくても、社会に出れば居場所が見つかるかもしれません。いや、高い確率で見つかります。なにしろ学校とは比べ物にならないくらいに、いろんな人間・さまざまな仕事があるのが、社会だからです。
社会で居場所を見つけるために、学ぶのです。
もし私が十代のみんなと勉強できる場所を見つけたら、世に出るための学びをちゃんと伝えたいと思います。
2023年10月6日