今月(2023年10月)は、個人からの相談が比較的多かった。
相談者が遠方におられるときは、足を運ぶ。
見知らぬ土地を訪れた時は、その町並みや風景を心の目に焼きつける。
その風景を見つめて生きてきた人がいる。
その風景を最初で最後に見るかもしれないこの命がある。
その二つの命が交錯する。いつも思うが貴重な時間である。
私が個人的に出会う人たちには、多くの場合、共通項がある。
ひとつは、長い間、ひとりで苦悩し続けてきたこと。
よくこれだけの苦労と心の傷を抱えて、一人生きてきたものだと感じ入る。
もうひとつは、だからこそ自立していること。
自分の苦悩は自分で越えていかねばならない。人に安易に頼れない。
そういう覚悟のようなものができつつあるように伝わってくる。
というのも、こうした人たち(本当に苦しんできた人たち)は、さんざん外の世界に答えを求め、人や場所を頼って、答えにならなかったという体験をたくさんしているので、
本当のよりどころ、答えとなるべきものが、実はきわめて限られていることが見えてきているのだろうと思う。
そして三つめは、自力でこの場所(私という命に)たどり着くこと。
そのきっかけが、本であれ、インターネットであれ、スクールの折り込みチラシであれ、なんでもよいのだが、
「こういう人がいる」ということを知って、本を取り寄せて読んで、あるいはブログの文章を眺めて、「話を聞いてみよう」と思い立つらしい。
もちろん自分で連絡して来る。自分の言葉で、うまく表現できなくても、真剣に過去と今の思いを伝えようとしてくる。
全力であって、甘えがない。
(※もちろんそうでない場合もあります^^;)
実りあるやり取りを交わせる人たち、自分を見つめる強さを持っている人たちには、こうした共通項がある。
しっかりと私と向き合える。それこそ一度きりの機会かもしれないと思って、全力で聞き、全力で問うてくる。
時に厳しいことも伝えるが(でなければ変われないから)、自分を見つめる覚悟がある人は、謙虚に、心して耳を傾ける。
そして、この先、どう生きていけばいいか?という問いに、必死に答えを出そうとする。
こうした人たちは、”善き人”たちだ。新しい可能性が開けつつある人たち。
中には、真剣に、仏道――仏教に基づく生き方――を始めたいという人もいる。
過去さんざん苦悩し、ようやく過去を越える生き方が目の前に見えてきた。
だからこそ、仏道に立って生きる決意を固めようとする。
ようやく、「仏門に入る」ことが可能になって来る。
仏門に入るとは、寺に入るとか、アタマを剃って出家するということではない。
新たな自分として生き抜く覚悟だ。
理屈も執着も捨てて。ひたすら謙虚に、慎みを保って。
その同伴者として、仏道がある。
仏道と、歩き出した小さな己(おのれ)のみ――その覚悟が固まることが、道の始まりだ。
その道をゆくことを、私が支援する。
進むべき方角と、新しい道の歩き方は、伝えることができる。
だが、あくまで歩くのは、その人自身である。
本人が、執着ではなく、自己愛ではなく、傲慢ではなく、自己満足にならず、
自分の人生を最高の納得をもって完結することをめざす。
その道を手助けするのが、仏道を生きているこの命の務めということになる。
この場所は、わざわざ大仰な形を作らないし、いちいち世に知られようとか、広めようといったことはしない。
本当に志ある者、機縁ある者は、自然にたどり着くだろうと思っているからだ。
広げても、仏道にふさわしい者の数は増えはしないだろう。むしろ勘違いした者、執着する者が増えて、巷によくある勘違いに満ちた場所へと変容していくことが、定めというものではなかろうか。
この命は、おのれの道をゆく。
志ある者は、この命に出会って、己自身の道を延ばしていく。
道は、自立していなければ、成就できない。
自立した者は、この世にあって、この世に染まらず。
この世に無駄におのれを現わさない生き方をゆくものだ。
静寂と澄明とが、仏道の色(特徴)であろうと思っている。
2023年10月30日