自分を引いて考える


みんな(この世界で生きている人たち)と共有できる話題は、たくさんあります。

最初に明らかにしておくべきは、この場所(興道の里・草薙龍瞬)の立ち位置。
どういう場所から語っているか、日々活動しているか。

結論からいえば、この場所は、なんでもありません。

おおげさ承知で言うと、「無」ということになります(仏教では「無」は当然の言葉だけど、こうして見ると、なんか特殊・・・笑)。


この場所(私)が最初に考えることは、「もしこの場所(私)が消えたら?」ということ。

どんな命もいずれ消えるから。私も含めて、人は永久に生きていられない。

いずれ無と化して消えていくものを前提に考えることは、この場所ではしない。
 

つまりは、欲の満足――自己顕示欲や経済的利益といった「自分のため」。こうした発想を最初に引く。平たく言えば「アホらしい」。

欲は汚物。欲が生み出す妄想も同じ。

世の中には、いろんな欲と妄想の産物が溢れている。宗教にもそういう一面がある。


欲と妄想を引け――というのが、この場所の思い。

つねに自分を引いて考える。この場所の基本。


この場所は「ひねくれて」いる、かなり。

世の中の常識(しいて言うなら俗な発想)は、通用しない。

本を読んで感じてもらうは善い。だがそれは、自分を成長させるためだ。

他方、自分を見つめる代わりに、この場所(私という人間)に「執着」する人がたまにいるが、間違いだ。過剰な美化や礼賛、あるいは真逆のつきまとい・・・?

そうした執着は、結局、本人を変わらないままにしてしまう。

自分の中の欲、怒り、都合のいい妄想。

自己愛、傲慢、支配欲、上昇欲。あるいは、怒りの憂さ晴らし。

そうした執着を、この場所は受け取らない。

ポジティブであれネガティブであれ・・だ。


受け取ってしまえば、その人が今後も苦しみ続けることになるだろうから。むしろ気の毒に思うから(慈悲)。 


もし場所を預かる側が(この場合は私だけれど)欲や妄想に囚われていたら、そういう人たちの執着に都合のいい妄想を語りだすだろう。そして利用し、利用される関係が作られる。

それが、世俗に溢れている関係性だ――もちつ、もたれつ。互いの利益をしっかり補完し合う関係。SNSやオンライン・サロン、セミナーや宗教がその一例かも。


共通するのは、欲と妄想との結びつき。

真ん中にいる人間に欲と妄想があり、それを取り巻く人たちにも欲と妄想がある。

その欲と妄想は、中にいる人には都合がいい。だが外から見れば、歪(いびつ)にして滑稽に見える。

閉ざされたコミュニティ。利益の共同体。真ん中が最も利益をむさぼり、それに群がる人たちも満足する一方で、外の人たちは無関係(むしろ冷ややか)。


こういう関係は・・・この場所は取らないし、取れない。生理的に。

 

この場所・私のことはどうでもいいから、自分の人生をしっかり生きてください、と伝えている。いつも。

執着を向けられていると感づいた瞬間に、この場所は「消える」。いさぎよく。

すると、執着していた人は、自分だけを見ることになる。自分の課題だけが残る。

残ってもらって、自分自身を見つめてもらう。


この場所が消えても、仮に仏教が亡くなっても、人間が幸福に生きるための挑戦は、いつの時代も、どの場所でも、できる。できる範囲で精一杯、生きていけばいい。


この場所は、人の執着のエサにはならない。

依存すること、執着することをつつしんでもらう。

あくまで自分自身を、自分だけを見つめてもらう。


いつかこの場所がなくなっても、

人が強く、思いやりをもって、

この世界を支える一人として生きていけるように。




2023年10月23日