人はなぜだまされるのか


今年の仏教講座も大詰め。最近取り上げたのは、一休さん(一休宗純)の生涯。

人間は、複雑に見えて、本当はすごくわかりやすい。顔、表情、語ること、やっていることを見れば、その人の思いはわかる。

だが、自分の「わかる」が、客観的な「わかる」(真実)になっているかは、案外あやうい。意外と人は、他人の思いが見えないことが多い。



一休さんの生涯(アニメではなくリアルなほうw)は、6歳で母から引き離されて寺に入って以来始まった執着と屈折を、「オレは坊主だ、本当はエライんだ」という自意識で上塗りし続けて、迷走したまま終わった印象が残ります(一般には「風狂」と呼ばれるけれど、要はこじれた心が作り出す風変わりな言動のこと)。

自意識をこじらせて、いつも不機嫌で、人にやたらとケンカを売って、バ〇ヤロー、コ〇ヤローと悪態ついて、周りから見れば面倒臭い人になってしまった大人は、現代にもいなくはないのかもしれません。



人間としてまともに生きるのに、それほど修行は要りません。

市井の人であっても、立派に善良に生きている人は、たくさんいますよね。

むしろ形だけの寺、修行、仏教、坊主然とした姿に色(脚色)がつけばつくほど、空疎に、また醜悪になっていくのかもしれません。

一休さんはその真実がわかっていました。だからこそ嫌っていました。

嫌いはしたけれど、嫌うのはまだ執着しているからであって、最後は執着を手放さなければいけないのに、執着を手放せなかった。結果としてのこんがらがった人生です。

大なり小なり、人は執着ゆえの矛盾・葛藤を抱えるもの。

「どの執着を手放せばいいんだ?」とみずからに問うて、突きとめて、「手放す時期」を自分で決めること。最後はエイヤと手放す。

手放した人が、自由になった人です。



講座でもうひとつ取り上げたのは、禅の世界で有名な<南泉斬猫>の答え合わせ。

つねに本質に立って生きているなら、答えを出すことは難しくありません。

でも人間は、その場の雰囲気に呑まれたり、相手の見せかけ(肩書・権威・自己都合の強弁)に惑わされて、本質を見失ってしまう。

自分の頭で考えればすぐわかること、見抜けることが、見えなくなる。

結果的にすぐだまされるし、振り回される。自分が信じたことさえ、勘違いであることはよくあります。

だが哀しいことに、本人にはそれが見えません。

虚仮おどしに弱いのは、人間そのものが虚仮(妄想)に囚われているから――。


講座終了後、猫のサラに <南泉斬猫>のエピソードを聞かせて、「汝、どう答える?」と訊いたら、ほんとに にゃあ と答えました!

すごい。わかっている(笑)。
 

(※講座受けてない人にはなんのことかわからないと思います。すみません)




2023年12月3日