いわゆる瞑想について


瞑想 と呼ばれるものについて:

瞑想 を勘違いすると、一生路頭に迷います。

悲劇的なのは、路頭に迷っていることにさえ、自分が気づけなくなること。

大したことでもない体験を、過剰に美化したり意味づけたり、

考えても本当は意味がないことまで、言葉で考えて、解釈したり、分析したり。

それこそ一週間や一か月程度で、何かが変わる、得られると思うこと自体が、心が繰り出す勘違い。これは、ほぼ百パーセントと言っていいくらいの確率です。


人の心は狡猾。つねに自分に都合よく解釈しようとするし、都合のいいところだけを見ようとします。

瞑想することが目的化する。瞑想中に体験したことを特別視する。

あれこれと無意味なことを考えて、付け足して、本当に見なければいけないものを、あっという間に忘れてしまう。


瞑想は、正しく取り組もうとすれば「大変」なものです。楽ではない。むしろ苦しい。厳しい。どの分野においても、成長するというのは、そういう面を持っています。


本当の瞑想と、自我は、両立しません。

どれほどの歳月を費やしたにせよ、勘違いまみれの自分がそっくりそのまま残っているなら、瞑想したことにはなりません。

自我が繰り出す妄想、自己愛、執着、過去の隠蔽、逃避、美化、脚色・・・のエサとして瞑想の時間を利用しただけということになりかねません。


自我が罠になる。
言葉が枷になる。


それでも勘違いした人は(執着・都合のいい妄想に囚われた心は)、自分が何かを得た、見た気になってしまう。

客観的には無知にどっぷり浸かった姿でしかないのですが、自分は何かを知ったような気分になってしまいます。

まさに自我が繰り出すからくり――ブッダが「マーラ」(心の魔)と呼んだものに、まんまとハマった姿です。


瞑想はきわめて個人的、つまりは主観的な体験です。他者への証明は不可能。

だからこそ勘違いがはびこります。パフォーマンス、自己満足、執着のさらなる強化。

瞑想すればするほど、逆の方向に突っ走っていく。

いとも簡単に無明の闇(見えない状態)に絡めとられて、沈んでいく。

そうして真実(自分についての正しい理解)には、永久に届かない――。


そういうことも、瞑想と呼ばれる世界には、今も累々と起きています。

止めることは、誰にもできません。自分以外は。


そうした真実(危険)があるから、「瞑想(仏教)は、決して易しくはないよ、むしろ厳しい世界ですよ」と、正直にお伝えしています。