出家は「川」として生きるしかない。
どんな理不尽に遭遇しようとも、川は川として流れるほかない。
しかも、淀んではいけないし、濁ってもいけない。透明な流れのままで、水を求める人たちの前にいつづけなければいけない――。
川のままであることの、難しさ――それがわかるのは、インドで生きる私の無二の友人のように、人に与え続けることを生き方として選ぶ人のみだ。
そうした人たちは、傷つけられる痛みも、絶望も知っている。たくさん涙を流してきたが、それでも人の幸せを願う。いつも人の苦しみに心を痛めて、何ができるかを考え、そしてできることを行動に移す。
私が、この世界でわかりあえると思える友は、インドに生きるあの青年である。
川のままでいよう――そうよく話をしている。
無理解に満ちた世界で生きることは、とても過酷である。その過酷さを知っている人たちは、世界に大勢いるだろう。心優しい人、一生懸命夢を見て頑張っている人。
美しいものを大事にしている人ほど、世界の無理解に傷つけられたり、毒されたりすることがある。
理不尽だが、この世界に溢れる毒は、そうした人々を、放っておいてくれないのだ。
哀しい現実が、この世界には無数に起きている。
だが――外の世界の不合理に、こちらの心が染まってしまっては、意味がない。あくまで「川」のまま流れるしかない。
つまりは、自分の輪郭をしっかり保ち、外の世界の毒に汚されることなく、正しい理解と思いやり(慈悲)に立って、生きてゆくしかないのだ。
そうして頑張って生きている人も、たくさんいるだろう。
出家もまた、そうした生き方の一つである。
流れる川として生きる。
水は、ときに汚されようとも、水そのものが汚れることはない。
自分は水である。決して汚されることはない――その姿を守り抜くのだ。
〇
私の場合は、ブッダの教えに出会い、出家という生き方を得ることで、心を汚さない生き方を手にすることができた。
私が今の自分にたどり着くまで、50年以上の歳月を要している。
この長い道のりの途中でただひとつ、考え続けてきたことは、人間はどうすれば幸せにたどり着けるのか?――という問いだ。
その問いだけは、忘れたことはない。
その問いが、唯一の「希望」みたいなものになっていた。
だがひとつ、出家にも弱点がある。この弱点は、この十年で何度か体験をして、次第に自覚するようになったものなのだが、
救われていい人が、救われない――その現実を目前にしたときに、心が痛む。
心の苦しみには、必ず抜ける道筋がある。その道筋をたどれば、確実に抜け出せる。
心については、ブッダの智慧が、心の法則をふまえて、みごとに越える道筋を示している。
その道筋を進めばいい。進めば必ず苦しみは減っていく。やがて消える。
その道筋が、私には見える。実はすごく簡単なことだ。
だが、執着に支配された人は、自分が罠にかかっていることを、想像さえしない。
確実に救われる道があるのに、目の前の道が見えない。真っ暗闇の中にうずくまっている。
優しい人は、みずからを傷つける。
怒りに支配された人は、自らが作り出す慢に取り憑かれて、目の前に道があることさえ、見ようとしない。
私は、何度も手を差し伸べて、言葉をかけてきた。その中で、苦しみを卒業していった人たちも、確実にいた―― つもりだが、
手が届かず、再び闇の中へと戻って行った人もいる。
そういう出来事も過去に何度かあった。
そうしたとき、出家の心は痛みを覚える。
私は、人を信じるし、世の中を信じる。滅びではなく、可能性を信じる。
冷笑や傍観ではなく、役割を最後まで担う。
それが私という人間の本質だ。
この命が続く限り、自分なりの慈悲と智慧を精一杯伝えていく。
正直、それくらいしか、私にはできない。あまりに無力であり、とても小さな生き方でしかない。申しわけなくなる。
それでも、道に立って生きてゆく。
世にあって、世に染まらず。
自分自身が、真実を知り、人に誠意と慈悲を尽くし、人の幸せを願って、
人を利用せず、否定せず、みずからなしうることだけに心尽くして、
そうして残った言葉や出会いや歳月が、最後に残ってくれれば、
それだけが、出家にとってのご褒美――最高の納得――ということになる。
出家は、愚かな生き物だ。
幸せであれ――と、それしか結局は言えないのだから。
2023年12月25日